家康の江戸入府(1590)
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天正十八年・徳川家康の江戸入府:戦国終焉と新時代への大転換
序章:天下統一の最終局面
天正十八年(1590年)、日本の歴史は大きな転換点を迎えようとしていた。織田信長の後継者として天下統一事業を推し進めてきた関白・豊臣秀吉の権威は、いまや日の本全土を覆い尽くさんとする勢いであった。四国、九州を平定し、その視線は既に関東、そしてその先の奥羽へと注がれていた。秀吉が発した「惣無事令」、すなわち大名間の私闘を禁じる法令は、豊臣政権が全国の支配者であることを天下に示すものであり、これに従わぬ者は逆賊として討伐の対象となることを意味していた 1 。
このとき、秀吉の天下統一における最後の、そして最大の障壁として立ちはだかっていたのが、関東に百年にわたり君臨してきた後北条氏であった。小田原城を本拠とし、関東一円に広大な領国を築き上げた後北条氏は、秀吉からの再三にわたる上洛要求を拒否し、独立した戦国大名としての矜持を保ち続けていた 2 。その強大な軍事力と難攻不落と謳われた小田原城の堅牢さは、秀吉にとっても決して侮れない存在であった。
この天下統一の最終局面において、極めて重要かつ複雑な立場にあったのが、徳川家康である。かつては織田信長の盟友として、秀吉とは対等な関係にあった家康も、小牧・長久手の戦いを経て秀吉に臣従し、豊臣政権下で最大の石高を誇る筆頭大名となっていた 4 。その家康の娘・督姫は、後北条氏の当主・北条氏直に嫁いでおり、家康は豊臣政権の重鎮であると同時に、後北条氏との姻戚関係を持つ仲介役という、二つの顔を持っていたのである 1 。
この状況下で下された家康への関東移封という命令は、単に小田原征伐の戦後処理として突発的に下されたものではない。秀吉は、後北条氏が最終的に恭順しないことを見越した上で、その広大かつ戦略的に重要な旧領を誰に、そしてどのように統治させるかという、天下統一の総仕上げを見据えた壮大な構想を練っていた。そして、その白羽の矢が立ったのが、豊臣政権下で最も警戒すべき存在でありながら、最も頼らざるを得ない実力者、徳川家康であった。家康の江戸入府という事変は、この天下統一の最終幕における、秀吉の高度な政治的計算と家康の深謀遠慮が交錯する中で、必然的に引き起こされたのである。
第一章:小田原征伐と後北条氏の落日
天下統一への道を阻む後北条氏に対し、秀吉はまず家康を仲介役として交渉の席に着かせた。家康は、娘婿である氏直を案じ、北条氏政・氏直親子に上洛を促し、秀吉への恭順を説いた 2 。しかし、沼田領問題を巡る裁定など、両者の溝は埋まらず、北条氏は最後まで強硬な姿勢を崩さなかった。再三の説得が不調に終わったことで、秀吉はついに武力による討伐を決意する。
天正十八年(1590年)2月、秀吉は総勢20万を超える大軍を動員し、小田原征伐を開始した。この戦において、徳川家康は豊臣軍の先鋒という重責を担い、約3万の兵を率いて東海道を進軍した 5 。徳川軍は箱根越えの要衝を次々と攻略し、小田原城を包囲する上で決定的な役割を果たした 6 。
家康の軍勢は、小田原城の攻略と並行して、関東各地に点在する北条方の支城の制圧にもあたった。その中で特筆すべきは、後の本拠地となる江戸城の攻略である。4月22日、家康は江戸城を陥落させ、この地にはじめてその足跡を記した 1 。
一方、本城である小田原城では、北条方が籠城策をとったことで戦いは長期戦の様相を呈した。家康は小田原近郊に陣を構え、約110日もの間、包囲の一翼を担い続けた 6 。秀吉は、兵糧攻めと並行して、城を見下ろす石垣山に一夜にして城を築き上げるという離れ業を演じ、その圧倒的な国力と権威を北条方に見せつけた。兵力、物量、そして心理的な圧力の前に、北条方の戦意は次第に失われていく。
そして7月5日、ついに当主・北条氏直が降伏。父・氏政と叔父・氏照は切腹を命じられ、ここに約百年にわたり関東に覇を唱えた戦国大名・後北条氏は滅亡した 5 。日本の戦国時代は、事実上の終焉を迎えたのである。
第二章:天下人の下知 ― 関東八州への移封
後北条氏の滅亡は、徳川家康の運命を大きく変える命令の引き金となった。小田原城包囲の最中であった5月27日頃、秀吉は家康に対し、「江戸とするがと御とりかへの由」、すなわち従来の領国である駿河国と、新たに平定した武蔵国の江戸を交換するという、関東への移封を内示したとされる 1 。この頃にはすでに、「家康様関東八州御案堵」という風聞が、諸大名の陣中に広く流布していた 1 。
この前代未聞の大大名の国替え命令の裏には、秀吉の二重、三重の意図が隠されていた。
古くから通説として語られてきたのは、家康の勢力を削ぐための「弱体化・封じ込め策」である。先祖伝来の地である三河から家康と家臣団を引き離し、百年にわたり北条氏に服属してきた気性の荒い関東の民衆や旧家臣団の統治に苦心させることで、その力を削ごうという狙いがあったという見方だ 5 。もし家康が統治に失敗すれば、それを口実に徳川家そのものを取り潰すことさえ、秀吉は視野に入れていたかもしれない 4 。
一方で、近年の研究では、これを単なる左遷や嫌がらせではなく、家康の実力を高く評価した上での「戦略的配置」であったとする見方が有力となっている。豊臣政権にとって、平定されたばかりの関東、そして未だ服属の意を示さない東北の諸大名は大きな不安定要素であった。この広大で重要な地域の平定と統治を任せられるのは、豊臣政権下で最大の軍事力と政治手腕を持つ家康をおいて他にはいない、という秀吉の信頼の証であったという解釈である 11 。
この秀吉の真意は、単なる「嫌がらせ」か「信頼」かという二元論では捉えきれない。むしろ、それは家康という最大の潜在的脅威を「利用」しつつ「封じ込める」という、極めて高度な政治的策略であった。秀吉は家康に「関東・奥羽の惣無事」、すなわち東日本の統治権と警察権という公的な役割を与えることで、その強大な力を豊臣政権の安定のために活用する枠組みを作り上げた 13 。同時に、家康を権力の中枢である京・大坂から物理的に遠ざけることで、その影響力を畿内から切り離す「封じ込め」も実現した。この移封は、家康を「豊臣政権の東日本方面軍司令官」に任命すると同時に、その首に鈴をつけるという、一石二鳥を狙った秀吉ならではの深謀遠慮の表れであった。
この命令に対し、徳川家臣団は激しく動揺した。『徳川実紀』には、先祖代々の土地を離れることへの反発から、家臣たちが「大に驚き騒」いだと記されている 9 。しかし、家康自身は泰然自若としていたと伝えられる。「たとひ旧領をはなれ、奥の国にもせよ百万石の領地さへあらば、上方に切てのぼらん事容易なり」と述べ、目先の感情よりも実利を重視した 9 。事実、この移封により、家康の石高は従来の三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の五か国約150万石から、関東一円で約250万石へと大幅に増加した 16 。家康は、家臣団の動揺を抑え、この未曾有の国替えを、徳川家の未来を切り拓く好機と捉えて受諾したのである。
第三章:激動のひと月 ― 1590年7月の徳川家康
小田原城が開城した天正十八年七月、徳川家康は息つく暇もないほど多忙な日々を送ることになる。この一か月間の彼の動向は、新領主としての迅速な意思決定と、周到な準備の様子を克明に物語っている。
- 7月5日 : 北条氏直が降伏し、小田原城が開城 5 。戦は終結し、戦後処理が開始される。
- 7月10日 : 家康は、陥落した小田原城に秀吉に先んじて入城する 1 。これは、戦後処理における徳川家の主導的な立場を示す行動であった。
- 7月12日 : 江戸を新たな本拠地とすることを既定路線として、家康は驚くべき先見性をもって行動を開始する。家臣の大久保忠行(藤五郎)に対し、江戸の飲料水を確保するため、武蔵国吉祥寺村の池(現在の井の頭池)から江戸城下へ水を引く準備を命じた 1 。これは、後の神田上水の原型となるものであり、正式な入府どころか、移封の公式発表前から、壮大な都市インフラ計画が始動していたことを示している。
- 7月13日 : 秀吉は小田原城において、家康に対し、三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の五か国を収公し、その代わりに伊豆・相模・武蔵・上総・下総・上野の関東六か国などを新たに与えるという、関東転封を正式に発表した 1 。徳川家臣団を震撼させた国替えが、公のものとなった瞬間である。
- 7月14日以降 : 家康は、命令が下るや否や、新領主としての統治を矢継ぎ早に開始する。旧北条方の武将であった太田氏房らの妻子の領内居住を許可するなど、人心掌握に努め、新領国の安定化を図った 1 。同時に、膨大な家臣団への知行割(領地の再配分)という困難な作業にも着手する。しかし、この知行割には秀吉の強い意向が反映されていた。例えば、徳川四天王の一人である井伊直政が上野国箕輪城へ、本多忠勝が上総国万喜城へ入封したのは、秀吉の朱印状によるものであった 1 。これは、秀吉が徳川家の内政、特に軍事上の要衝の配置にまで深く干渉し、家康を完全にコントロール下に置こうとしていたことを示唆している。
- 7月下旬 : 家康は、奥州仕置(東北地方の大名の領土仕置)のために北上する秀吉に随行し、下野国宇都宮まで赴く 20 。この道中、あるいは宇都宮からの帰路において、秀吉と共に江戸を視察し、城の普請や町づくりに関する直接的な指示を受けた可能性が高い 1 。この一連の動きは、家康の江戸入府が、単なる移転ではなく、豊臣政権の東日本統治戦略の一環として、秀吉の監督下で進められたことを物語っている。
第四章:八朔の日、江戸入府
徳川家康の関東統治の始まりを象徴する江戸入府。そのクライマックスである入城の日は、歴史的な事実と政治的な演出が交錯する、謎多き一日であった。
入府日を巡る謎と「八朔」の儀式化
公式な記録では、家康が江戸城に初めて入ったのは天正十八年八月一日(旧暦)とされている。この日は「八朔(はっさく)」と呼ばれ、後に江戸幕府はこの日を徳川家による関東統治の始まりを記念する最も重要な祝日の一つとし、将軍への祝賀儀式を行う日と定めた 23 。
しかし、家康の家臣であった松平家忠が記した詳細な日次記『家忠日記』には、7月18日に江戸へ到着したとの記述が存在する 20 。この日付のずれは、歴史家たちの間で長らく議論の的となってきた。7月中の入府は、前述の通り秀吉との会談や事前視察など、実務的な目的であった可能性が高い。
では、なぜ八月一日が公式な入府日とされたのか。それは、家康の巧みな政治的演出であったと考えられる。「八朔」は、元来、農家がその年の新穀の収穫を祝い、恩義のある相手に贈り物をした「田実(たのみ)の節」という伝統的な吉日であった 28 。家康は、この古来からの縁起の良い日に自身の新たな統治の始まりを重ね合わせることで、「徳川の治世は民に豊穣と恩恵をもたらすものである」という強力なメッセージを発信したのである。これにより、先祖伝来の地を追われたというネガティブな印象を払拭し、新たな統治の始まりを祝祭的な「建国記念日」へと昇華させた。これは、武力だけでなく、権威と象徴性を巧みに操る家康の統治者としての非凡さを示すエピソードである。
入府の行程と当時の江戸の姿
史料によれば、家康は東海道を通り、多摩川を渡河して江戸へと入ったとされる 20 。その行列の具体的な様子を伝える絵図などは現存しないが、徳川四天王(酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、井伊直政)をはじめとする譜代の家臣団が付き従ったことは間違いない。また、彼らの中には、後に江戸の漁業を支えることになる摂津国佃村の漁民たちもいたと伝えられている 30 。
彼らが目にした1590年当時の江戸の姿は、後の華やかな大都市のイメージとは程遠い、荒涼としたものであった。
- 荒廃した城と湿地帯 : 家康が入った江戸城は、かつて太田道灌が築いた名城の面影はなく、北条氏の支城として使われていたものの、櫓は傾き、石垣も崩れた荒れ城であった 26 。城の東側、現在の丸の内、日比谷、新橋あたりは「日比谷入江」と呼ばれる広大な干潟が広がり、海苔の養殖が行われるような場所であった 5 。
- 江戸前島と暴れ川 : 人々が住む集落は、「江戸前島」と呼ばれる、現在の日本橋から京橋あたりにかけての半島状の微高地にかろうじて存在するに過ぎなかった 35 。さらに、当時の利根川は関東平野を蛇行しながら江戸湾(東京湾)に直接注ぎ込んでおり、ひとたび大雨が降れば氾濫を繰り返す「暴れ川」で、江戸周辺は常に水害の脅威に晒されていた 36 。
家康と家臣団が足を踏み入れたのは、豊かな新天地ではなく、海と湿地に囲まれ、治水の定まらない、まさにゼロから「国づくり」を始めなければならない過酷な土地だったのである。
第五章:新たなる「国づくり」の始動
荒涼とした江戸に入府した家康は、しかし、決して落胆しなかった。彼はこの未開の地を、旧来のしがらみにとらわれずに理想の国家を建設できる絶好の機会と捉え、直ちに壮大な「国づくり」に着手した。その計画は、軍事、土木、経済、都市計画が有機的に連携した、従来の戦国大名の領国経営とは一線を画す「統合的国家デザイン」であった。
関東の掌握:知行割と家臣団の配置
家康の関東経営の根幹をなしたのは、江戸を中心とした緻密な軍事・行政ネットワークの構築であった。彼は江戸を中心とする同心円状に家臣団を配置する戦略をとった。
江戸城周辺の武蔵国南部や相模国東部といった肥沃な地域は、約百万石に及ぶ直轄地(天領)とし、徳川家の財政基盤を固めた 21 。有事の際の兵糧確保という軍事的な意味合いも強かった。そして、この直轄地を取り巻くように、一夜で江戸に駆けつけられる範囲に中小の家臣を配置し、江戸の直接防衛と治安維持を担わせた 37 。
一方で、徳川四天王をはじめとする一万石以上の大身の家臣たちは、江戸から離れた旧北条氏の支城があった国境や交通の要衝に配置された。これは、関東全域を防衛し、外部勢力に睨みを利かせるための戦略的配置であった 17 。
家臣名 |
配置場所(城) |
石高 |
戦略的意図・役割 |
井伊直政 |
上野国 箕輪城 |
12万石 |
対真田・対上杉氏の最前線。武田旧臣を多数組み込んだ精強な「井伊の赤備え」を国境に配置し、北からの脅威に備える。 |
榊原康政 |
上野国 館林城 |
10万石 |
利根川水系の要衝であり、奥州街道を押さえる拠点。対佐竹・対伊達氏など東北諸大名への抑えと街道管理を担う。 |
本多忠勝 |
上総国 大多喜城 |
10万石 |
房総半島に勢力を保つ里見氏への備え。江戸湾東岸を確保し、水上交通路の安全を保障する。 |
結城秀康(家康次男) |
下総国 結城城 |
10.1万石 |
関東の名門・結城氏の名跡を継ぎ、常陸国の佐竹氏に対する強力な楔(くさび)となる。 |
大久保忠世 |
相模国 小田原城 |
4.5万石 |
旧北条氏の本拠地であり、箱根の関所を押さえる最重要拠点。対上方への備えと旧北条領の安定化を担う。 |
鳥居元忠 |
下総国 矢作城 |
4万石 |
江戸の東側を防衛する要。利根川下流域と水運の掌握。 |
この配置は、徳川家が単なる領主ではなく、関東平野全体を一つの巨大な軍事要塞として機能させるという、明確な意志の表れであった。また、降伏した旧北条家臣の中から有能な者を登用し、彼らの在地知識を活用することで、統治を円滑に進める懐柔策も同時に進められた 38 。
大地の改造:治水とインフラ整備
家康は、関東平野の潜在能力を最大限に引き出すためには、まず大地そのものを人間の意志で作り変える必要があると考えていた。その中核をなしたのが、二つの巨大土木事業である。
第一に「利根川東遷事業」。前述の通り、江戸湾に注いでいた利根川の流れを、東の銚子方面へ付け替えるという、世界史上でも類を見ない大規模な河川改修事業である。この事業の総責任者に任命されたのが、家康が厚い信頼を寄せる能吏・伊奈忠次であった 39 。忠次は関東代官頭として、この事業に着手。数世代、60年以上にわたる工事の末、利根川の流れは変えられ、江戸は洪水から守られるとともに、流路跡には広大な新田が開発され、関東の石高を飛躍的に増大させた 42 。
第二に「上水整備」。大都市の生命線である飲料水の確保は急務であった。家康は入府直後から大久保忠行に命じ、小石川上水(後の神田上水)の整備を開始させた 44 。井の頭池などを水源とするこの上水は、自然の勾配を利用して江戸市中に清冽な水を供給する、日本初の本格的な都市水道であった 46 。
都市の創造:城下町の建設と経済政策
インフラ整備と並行して、江戸を日本の中心とするための都市計画が実行された。
家康はまず、荒廃した江戸城の大規模な拡張・改築に着手した。その際、城の北方にあった神田山を切り崩し、その膨大な土砂を使って城の東に広がる日比谷入江を埋め立て、広大な武家屋敷地や町人地を造成するという壮大な計画を立てた 26 。これは、江戸の地形を根本から作り変える大事業であった。
そして、新たに造成された城の東側の中心に、後の五街道の起点となる「日本橋」を架けた 50 。日本橋周辺には「江戸の根本の町」という意味を持つ「本町」が整備され、全国から商人を呼び寄せるための商業地区が形成された 50 。家康は「地代免除」などの特権を設け、京都や大坂から後藤庄三郎(金座を司る)、茶屋四郎次郎(呉服商)といった当代随一の豪商を積極的に招聘し、江戸の経済基盤を急速に確立していった 52 。
このように、家康の「国づくり」は、軍事配置、河川改修、上水整備、都市造成、商業振興という個別の政策が、すべて「江戸という巨大な政治・経済・軍事拠点の創造」という一つのグランドデザインの下に、有機的に結びついていたのである。
終章:江戸の夜明け ― 戦国から泰平の世へ
天正十八年八月一日、徳川家康が荒涼とした江戸の地に第一歩を記したことは、単なる一武将の領地替えに留まるものではなかった。それは、百年にわたる戦乱の時代に終止符を打ち、二百六十余年に及ぶ泰平の世、「江戸時代」の幕開けを告げる、歴史的な転換点であった。
この関東移封とそれに続く壮大な「国づくり」は、徳川家そのものを変貌させた。三河の在地領主をルーツとする一戦国大名であった徳川家は、この事業を通じて、広大な関東平野を経済的・軍事的基盤とする「巨大複合国家の経営者」へと脱皮を遂げた。土地との結びつきが強かった家臣団もまた、先祖伝来の地から切り離されることで、土地への忠誠ではなく、徳川宗家への忠誠を基盤とする、より近世的な官僚・軍人集団へとその性質を変えていった 17 。
関東経営によって得られた圧倒的な経済力(250万石)と、畿内から距離を置いたことによる独自の軍事力の温存は、十年後の天下分け目の決戦において決定的な意味を持つことになる。秀吉の死後、豊臣政権が内部対立で揺らぐ中、家康は関東で蓄えた力を背景に天下に号令をかける。多くの大名が朝鮮出兵で疲弊していたのに対し、家康は関東経営に専念することで国力を温存しており 36 、これが慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いにおける勝利の最大の要因となった。
そして何よりも、家康の江戸入府は、日本の歴史の重心を劇的に動かした。古代以来、千年以上にわたり日本の政治・経済・文化の中心であり続けた上方(京都・大坂)から、初めてその中心が関東(江戸)へと移る、その第一歩が記されたのである。家康が湿地に蒔いた一粒の種は、その後の徳川将軍家による「天下普請」を経て、やがて人口百万人を超える世界最大級の都市・江戸へと成長し、現在の首都・東京の礎となった。
結論として、天正十八年の徳川家康の江戸入府は、戦国時代の終焉を決定づけ、近世日本の政治・社会体制を方向付ける、壮大な序曲であった。それは、混沌と破壊の時代から、秩序と創造の時代への扉を開いた、まさに「江戸の夜明け」と呼ぶにふさわしい歴史的偉業だったのである。
引用文献
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- 【日本初の水道】水道の歴史~日本編~ | 有限会社 トヨタビルサービス https://www.toyota-bs.com/blog/1011/
- 【連載/歴史散歩】玉川上水から神田上水に掘りぬかれた助水堀 - 西新宿LOVE WALKER https://lovewalker.jp/elem/000/004/064/4064260/
- 徳川家康が江戸を本拠地に選んだ理由とは? | Through the LENS by TOPCON(スルー・ザ・レンズ) https://www.topcon.co.jp/media/infrastructure/tokugawa_ieyasu/
- 水の歴史館(給水・下水)2 日本編 http://shincoo.in.coocan.jp/shincoo/content/m092rekisi-nihon.html
- 徳川家康の天下普請/ホームメイト - 刀剣ワールド東京 https://www.tokyo-touken-world.jp/tokyo-history/tokugawaieyasu-tenkabushin/
- 東京港の歴史(歴史紙芝居) - 関東地方整備局 港湾空港部 https://www.pa.ktr.mlit.go.jp/tokyo/history/index.htm
- 17世紀の大都市計画―江戸のまちづくり | 東京 日本橋 | 日本文化の今と昔を体験できるまち https://nihombashi-tokyo.com/jp/history/310.html
- 日本橋 | 日本大百科全書 - ジャパンナレッジ https://japanknowledge.com/contents/nipponica/sample_koumoku.html?entryid=1258
- 人形町の歴史 | 東京日本橋 人形町 https://www.ningyocho.or.jp/contents/charm/history.html
- 茶屋四郎次郎 京都通百科事典 https://www.kyototuu.jp/History/HumanCyayaShirojirou.html
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