富山城下復興町割(1605)
慶長十年、前田利長は富山に隠居し、徳川への恭順を示す裏で富山城と城下町を大改修。しかし慶長十四年の大火で焼失し、高岡城を築城。富山は一時衰退するも、後に富山藩として再興され、独自の発展を遂げた。
「Perplexity」で事変の概要や画像を参照
慶長十年「富山城下復興町割」の総合的考察:戦国終焉期における都市構想とその帰結
序章:天下泰平の狭間でー前田利長と富山の選択
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いを経て、徳川家康が天下の実権を掌握し、世は「天下泰平」へと向かいつつあった。しかし、その黎明期は、かつての戦国の気風と緊張を色濃く残す、不安定な時代でもあった。この過渡期において、加賀・能登・越中三国にまたがる百万石の広大な領地を継承した前田利長の存在は、徳川幕府にとって潜在的な脅威と映っていた 1 。豊臣五大老筆頭であった父・利家の遺産を継ぐ利長は、常に謀反の嫌疑をかけられる危うい立場に置かれていたのである 1 。
この政治的圧力が、慶長10年(1605年)における利長の行動を決定づける。この年、利長はわずか44歳という若さで家督を異母弟であり養子の利常(当時12歳)に譲り、隠居を表明した 1 。これは表向き、徳川への敵意がないことを示す恭順の姿勢であった 1 。しかし、藩主となった利常が年若く、実権は依然として利長が握る「大御所」体制であったことを考えれば、この隠居が単なる権力からの引退でないことは明らかであった。それは、徳川の猜疑心を和らげつつ、自らの政治的影響力を保持するための高度な戦略的判断だったのである。
その「隠居」の地として選ばれたのが、越中国富山であった。なぜ本拠地の金沢から離れたこの地が選ばれたのか。富山は北陸街道と飛騨街道が交差する交通の要衝であり、神通川の水運を利用できる経済的中心地としての高い潜在能力を秘めていた 3 。さらに利長は、隠居に際して越中新川郡22万石を自らの養老領として確保しており、富山はその中核をなす都市であった 2 。
これらの事実を統合すると、利長の富山入城に込められた二重の意図が浮かび上がってくる。一つは、徳川に対して「隠居」という恭順の意を示すこと。もう一つは、その裏で加賀藩の東方、すなわち徳川の関東方面に対する前方拠点として越中支配を盤石にし、来るべき不測の事態に備えること。これは、表向きは権力から退く姿を見せながら、実態としては領国東部の経営を強化する前方司令部を構築するという、戦国武将ならではの油断ならぬ戦略的思考の現れであった。慶長10年の「富山城下復興町割」は、このような天下の情勢と利長の深謀遠慮が交錯する中で開始されたのである。
表1:富山城下町・主要整備年表(慶長~寛文期)
年代(西暦) |
元号 |
主要な出来事 |
主導者 |
典拠 |
1585 |
天正13 |
豊臣秀吉、佐々成政の富山城を攻略。後に破却を命じる。 |
豊臣秀吉 |
4 |
【前田利長時代】 |
|
|
|
|
1605 |
慶長10 |
利長、家督を利常に譲り隠居。富山城へ入城。 |
前田利長 |
2 |
1605 |
慶長10 |
富山城の大規模改修(石垣普請等)と城下町整備を開始。 |
前田利長 |
7 |
1605 |
慶長10 |
神通川に舟橋を設置。北陸街道を城下に引き込む。 |
前田利長 |
9 |
1609 |
慶長14 |
3月18日、城下より出火。富山城と城下町の主要部が焼失。 |
(災害) |
10 |
1609 |
慶長14 |
利長、富山城の再建を断念。高岡城の築城を開始。 |
前田利長 |
12 |
【城代統治時代】 |
|
|
|
|
1609- |
慶長14- |
富山城には城代・津田義忠が置かれる。 |
津田義忠 |
11 |
1615 |
元和元 |
一国一城令により、富山城は公式に廃城となる。 |
徳川幕府 |
14 |
【富山藩・前田利次時代】 |
|
|
|
|
1639 |
寛永16 |
前田利常、次男・利次に10万石を分与。富山藩が成立。 |
前田利常 |
16 |
1640 |
寛永17 |
初代藩主・前田利次、廃城状態の富山城に入城。 |
前田利次 |
16 |
1661 |
万治4 |
幕府の許可を得て、富山城の本格的な修復と城下町再整備を開始。 |
前田利次 |
11 |
1666 |
寛文6 |
新しい町割を反映した「御調理富山絵図」が作成される。 |
前田利次 |
19 |
第一章:慶長十年の大構想ー近世城郭都市「富山」の誕生
慶長10年(1605年)、富山に入った利長は、単なる隠居所の整備とは到底呼べない、壮大な都市改造計画に着手する。それは、城郭と城下町を一体として捉え、軍事、政治、経済の機能を兼ね備えた近世城郭都市を創出する試みであった。
第一節:城郭の大改修ー権威と武威の象徴
利長の計画の核心は、富山城そのものの抜本的な改修にあった。かつて佐々成政が拠点とした富山城は、石垣を持たない土塁の城であり、天正13年(1585年)の豊臣秀吉による越中征伐の後に破却されていた 4 。利長の事業は、この中世的な城の痕跡を払拭し、当代最新の技術を結集した近世城郭へと生まれ変わらせるものであった。
その規模は、加賀藩の総力を挙げた国家プロジェクトと呼ぶにふさわしい。若狭や越前から名うての大工を呼び寄せ、木材は国境を越えた飛騨や能登から調達された記録が残る 4 。特に城の威容を決定づける石垣普請には、並々ならぬ力が注がれた。近年の調査では、87種類、250個以上もの石工集団の目印とされる刻印が確認されており、これは金沢城の石垣を手がけた穴生衆のような専門技術者集団を含む、多数の人員を動員して短期間で工事を進めたことを物語っている 4 。
この石垣には、利長の明確な政治的メッセージが刻み込まれていた。城の正面には、高さ2メートルを超える「鏡石」と呼ばれる巨石が6個も配置された 4 。これは城主の武力と財力を誇示するためのものであり、「隠居」という建前とは全く相容れない、強烈な自己主張であった 1 。さらに、瓦に前田家の家紋である梅鉢紋を入れるという手法を、加賀藩で初めて富山城で採用した 1 。これは、この城が単なる個人の隠居城ではなく、越中における「前田家」の権威を恒久的に示す新たなシンボルであることを内外に宣言するものであった。
第二節:城下町のグランドデザインー経済と交通の動脈
城郭の改修と並行して、利長は城下町の大規模な整備拡充にも着手した 8 。その計画は、後の正保4年(1647年)頃の「越中国富山古城絵図」からその姿を窺い知ることができるが 7 、その根幹には経済と交通の掌握という明確な戦略があった。
最大の事業は、インフラ整備による経済の活性化である。利長は、それまで城下を迂回していた主要幹線・北陸街道を、意図的に城下町の中心部へと引き込んだ 9 。これは、交通の流れを城下に集中させることで人・モノ・情報を掌握し、城下町を物流の拠点として繁栄させる、戦国期から続く城下町経営の定石であった。
この街道引き込みを実現する上で最大の障壁であった神通川には、慶長10年(1605年)、複数の船を鎖で繋ぎ、その上に板を渡して橋とする画期的な「舟橋」を設置した 9 。これにより、天候に左右されがちだった渡河が安定し、交通の利便性は飛躍的に向上した。この舟橋の存在は、富山が越中における交通の結節点であることを決定づけた。
さらに利長は、隠居したまさにその年に、越中領内の総検地(土地調査)を実施している 2 。これは領内の石高を正確に把握し、税収を安定させることで、支配体制の基盤を固めるための重要な施策であった。
一連の事業は、単なる都市再建ではない。それは、軍事的な威圧(城郭)と経済的な掌握(街道・インフラ)を両輪とする、極めて戦略的な領国経営の実践であった。徳川体制下で派手な軍事行動が制約される中、利長は土木事業という形で実質的な支配力と経済力を強化する「静かなる領国経営」を推し進めた。これは、武力による制圧から経済とインフラによる支配へと移行しつつあった時代の変化を象徴する事業であり、巨大外様大名が生き残るための新たな戦略の模索でもあった。
第二章:慶長十四年三月十八日ーすべてを呑み込む劫火
慶長14年(1609年)3月18日、利長の4年間にわたる壮大な計画は、突如として、そしてあまりにも無残な形で終焉を迎える。
火の手は、城郭内部からではなく、城下のいたち川端の町屋から上がった 6 。春先の乾いた風に煽られた炎は、瞬く間に燃え広がり、利長が心血を注いで整備した碁盤目状の町並みを舐め尽くしていった。武家屋敷も町人の住まいも、なすすべなく次々と火に呑まれ、人々は混乱の中を逃げ惑ったであろう。
そして、その猛火はついに神通川の堀を越え、富山城そのものに襲いかかった 10 。加賀藩の威信をかけて築かれた壮麗な御殿や櫓は、轟音とともに焼け落ちていく。権威の象徴であった巨大な鏡石も、炎に炙られ、その輝きを失ったに違いない。「悉く焼失した」という記録が示す通り、被害は壊滅的であり、城郭の主要な建物はわずか一日で灰燼に帰した 10 。
その損失は、物質的なものにとどまらなかった。城内に蓄えられていた莫大な財宝も、ほぼすべてが焼失したと伝えられる。奇跡的に火難を逃れたのは、二代将軍・徳川秀忠から拝領した名刀工「吉光」の脇差と、「落葉」の銘を持つ肩衝茶入という名物茶器の、わずか二点のみであった 10 。これは、利長の権威と文化的素養の象徴であったコレクションの、ほぼ完全な喪失を意味した。
この悲報に接した徳川家康の反応は迅速であった。すぐさま利長に見舞状を送り、「不慮の火事による焼失は気の毒である。城の再建については将軍秀忠様からも許可が出ているので、気遣いなく進めるように」と伝えた 10 。これは、失意の利長を慰撫する言葉であると同時に、前田家の動向を監視し、城の再建許可権が幕府にあることを再確認させる、巧みな政治的牽制でもあった。
この大火は、利長の都市計画が抱えていた構造的な問題を露呈させたとも考えられる。利長の計画は、石垣や街道といった巨大な構造物に主眼が置かれ、戦国武将的な「見せるための城づくり」の側面が強かった。その一方で、城下町全体の防火対策といった、より実務的な都市防災の視点が相対的に弱かった可能性がある。後の富山藩では、宝永5年(1708年)に町火消の制度が明確に規定されているが 22 、これは慶長の大火という悲劇の教訓が生かされた結果であろう。城下の脆弱性が城そのものを滅ぼすという現実は、泰平の世における都市経営のあり方を問い直す、痛切な教訓となったのである。
第三章:灰燼からの決断ー富山放棄と高岡創生
すべてを失った利長は、一時的に魚津城へと身を寄せた 6 。彼の前には、家康の許可を得て富山を再建するか、あるいは新たな地を求めるか、という二つの道があった。富山に投じた莫大な費用と労力を思えば、再建を選ぶのが自然な流れにも思える。しかし、利長は富山城の再建を断念するという、非情ともいえる決断を下した 13 。
この決断の背景には、複数の要因が考えられる。第一に、経済的な問題である。4年間の大事業で藩の財政は既に大きく疲弊しており、ゼロからの再建はさらなる負担を強いることになる。第二に、戦略的な判断である。大火は、富山の立地が持つリスク、すなわち城と町が近接し延焼しやすいという脆弱性を浮き彫りにした。この悲劇を、より理想的な都市を建設するための好機と捉えた可能性もある。
利長の目は、射水郡関野と呼ばれた原野、現在の高岡市に向けられた。この地は、防御に適した高台に位置し 12 、港に近く水運の利便性も高いという、軍事・経済の両面で優れたポテンシャルを秘めていた 24 。
利長の行動は驚くほど迅速であった。富山城焼失からわずか1ヶ月後の4月には高岡城の築城を開始し、その年の9月には未完ながらも入城を果たしている 12 。これは「突貫工事」と記録されるほどの驚異的なスピードであり 12 、彼の不屈の意志と、戦国時代を通じて培われた卓越した動員能力の高さを示している。
高岡城の設計思想は、富山城とは一線を画していた。城郭は「連続馬出」と呼ばれる複雑な防御機構を備え、万一の戦を想定した極めて実戦的な縄張りであった 12 。豊臣から徳川へと移行する不安定な時代にあって、なおも戦国の気風を色濃く残す、難攻不落の城塞であった 12 。同時に、利長は築城と並行して城下町の整備を進め、慶長16年(1611年)には腕利きの鋳物師7名を呼び寄せて「鋳物師町(金屋町)」を創設するなど、高岡を商工業の拠点とする明確なビジョンを持っていた 24 。
この一連の動きを俯瞰すると、慶長14年の大火が、単なる悲劇ではなく、一種の「創造的破壊」として機能したことがわかる。富山での計画は、既存の都市を改修するという制約があった。しかし、大火によってその計画が白紙に戻ったことで、利長は過去のしがらみを断ち切り、全く新しいキャンバスに理想の都市を描く機会を得た。富山での失敗と経験、特に大火によって露呈した脆弱性への反省が、より堅固で機能的な都市・高岡の創造へと繋がったのである。この災禍からの迅速な戦略転換こそ、まさしく戦国を生き抜いた武将の真骨頂であった。
第四章:残された者たちと第二の黎明ー富山藩の成立と再興
利長が高岡へと去った後、かつての活気を失った富山城には、城代として家臣の津田義忠が置かれた 11 。壮麗な城郭は再建されることなく、城下町は長い停滞期に入る。そして元和元年(1615年)、幕府が発した一国一城令により、富山城は公式に廃城となった 14 。利長の夢の跡は、約30年もの間、静かに打ち捨てられることとなる。
富山に再び光が当たるのは、寛永16年(1639年)のことである。加賀藩三代藩主・前田利常(利長の養子)が隠居するに際し、次男の利次に10万石を分与し、富山藩が成立した 16 。これは、巨大すぎる加賀藩の力を削ぎたい幕府への配慮であったとも言われる 26 。
初代富山藩主となった前田利次は、当初、廃城となっていた富山城を居城とせず、呉羽山北側の百塚に新たな城を築くことを計画していた 27 。しかし、この新城計画は財政的な問題などから中止となる。利次は方針を転換し、幕府の許可を得て、万治4年(1661年)から富山城の本格的な修復と城下町の再整備に着手した 11 。これが、近世富山城下町の直接的な原型となる、第二の黎明であった。
この利次による新たな町割は、利長の計画とはその思想において明確な違いを見せる。寛文6年(1666年)に作成された「御調理富山絵図」などから窺えるその特徴は、防御思想の徹底にあった 20 。敵の侵攻を遅らせ、見通しを悪くするために、意図的に道を屈折させたクランク(鍵の手)やT字路、袋小路が多用され、城下町全体がさながら迷路のような構造となっていた 19 。
ここに、二人の藩主による二つの都市思想の対比が鮮明に浮かび上がる。1605年の前田利長の計画は、巨大な石垣で権威を示し、街道を引き込んで広域経済圏と結びつこうとする、いわば「外向き」の都市構想であった。それは、まだ徳川の天下が盤石とは言えず、外様大名としての威信と実力を内外に示す必要があった戦国終焉期の空気を反映している。
対して、1661年以降の前田利次の計画は、城下内部の防御力を高め、藩内の統制を容易にすることを主眼とした「内向き」の都市構想であった。それは、島原の乱も終結し、幕藩体制が確立した安定期にあって、藩という閉じた領域をいかに効率よく治めるかという、江戸時代的な統治思想の現れであった。同じ富山の地を舞台としながら、二つの町割は、戦国から江戸へと移行する時代の精神の変化を明確に映し出しているのである。
結論:挫折した理想と永続する遺産
前田利長が慶長10年(1605年)に始動させた富山城下の壮大な整備計画は、慶長14年の大火によって未完に終わり、高岡創生への転換という形で挫折した。物理的な町並みや城郭は灰燼に帰し、そのグランドデザインが後の富山の町割に直接引き継がれることはほとんどなかった。その意味で、利長の計画は失敗に終わったと言える。
しかし、その計画は決して無意味ではなかった。利長による大規模な投資と都市改造は、富山が越中における政治・経済の中心地であることを改めて内外に強く印象づけた。この「都市の格」の再確認がなければ、30年後に富山藩が成立した際、藩庁が百塚のような新天地に置かれていた可能性も否定できない 27 。利長の計画は、富山の都市としての歴史的アイデンティティの根幹を築いたのである。
利次によって再興された富山城下町は、その後、安定した統治の下で独自の発展を遂げていく。特に、二代藩主・前田正甫の時代に藩の強力な後ろ盾を得た「富山の売薬」は、全国的な一大産業へと成長し、富山を商工業都市として飛躍させた 28 。この経済的繁栄は、利次が築いた安定した都市基盤の上で花開いたものであった。
1605年の壮大な計画と、その劇的な挫折。そして30年の時を経た第二の黎明。この一連の出来事は、戦国から江戸へと移行する時代のダイナミズムそのものを体現している。前田利長の夢は富山の地では一度潰えた。しかし、その夢の「跡」があったからこそ、今日の富山市へと繋がる歴史の礎が築かれたのである。利長の計画は、現代の富山市の街路に直接的な痕跡をほとんど残してはいないかもしれない。だが、その都市の記憶の深層に、挫折した理想と、それが遺した永続的な遺産として、今なお深く刻み込まれている。
引用文献
- Q.7 隠居 いんきょ するために築いた城だそうだが、なぜ権力の象徴である巨石を置いたのですか? A https://www.city.toyama.toyama.jp/etc/maibun/toyamajyo/q-and-a/q7.htm
- 高岡の祖・前田利長略年譜 https://www.e-tmm.info/tosinaga.htm
- 前田利家(2/2)槍の又左 - 日本の旅侍 https://www.tabi-samurai-japan.com/story/human/169/2/
- 不足する木材は能登羽咋市周辺から調達したことが記録に残っています。加賀前田家の総力を挙げての城づくりがここに始まりました。 https://www.ccis-toyama.or.jp/toyama/magazine/h16_m/0504toyamajo.html
- 越中征伐- 维基百科,自由的百科全书 https://zh.wikipedia.org/zh-cn/%E8%B6%8A%E4%B8%AD%E5%BE%81%E4%BC%90
- 前田利長と越中 - 博物館だより https://www.city.toyama.toyama.jp/etc/muse/tayori/tayori25/tayori25.htm
- 富山城下町の歴史 https://www.city.toyama.toyama.jp/etc/maibun/toyamajyo/jyokamati/rekisi.htm
- 利長、富山城を修築する - 古城万華鏡Ⅲ https://www.yamagen-jouzou.com/murocho/aji/kojyou3/kojyou3_6.html
- 富山船橋 (2)船橋の設置と変遷 https://www.city.toyama.toyama.jp/etc/maibun/toyamajyo/topics/toyamafunahashi/tf(2).htm
- 富山城の焼失 https://www.city.toyama.toyama.jp/etc/maibun/toyamajyo/keichouki/syoushitu.htm
- 富山城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%B1%B1%E5%9F%8E
- 高岡城は語れない。 https://www.takaoka.or.jp/lsc/upfile/download/0000/0060/60_1_file.pdf
- 前田利長と 富山城 https://matsukawa-cruise.jp/yomimono/toshinaga-to-toyamajyo.pdf
- 富山城の歴史概観 https://www.city.toyama.toyama.jp/etc/maibun/center/gensethu/toyamajyouato090325.pdf
- とやまの城 | 特集ページ https://toyama-bunkaisan.jp/features/2843/
- 北陸の城(富山城) https://tenjikuroujin.sakura.ne.jp/t03castle03/031401/sub031401.html
- 前田利次 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E5%88%A9%E6%AC%A1
- 【続日本100名城・富山城】『加賀100万石』前田家の血を継ぐ!富山藩前田家の居城 - 城びと https://shirobito.jp/article/1298
- のっちゃんの攻城手記-富山城番外編~ 富山城下町の防御 - 富山市ウオーキング協会 Web site http://www.toyamawalker.com/contents/as/castling/castling_070423.shtml
- 御調理富山絵図 - 古絵図・貴重書ギャラリー https://www.lib.pref.toyama.jp/gallery/collection/intro.aspx?mngcd=797
- ふるさと再発見 富山県ができるまで | GOOD LUCK TOYAMA|月刊グッドラックとやま https://goodlucktoyama.com/article/feature/%E3%81%B5%E3%82%8B%E3%81%95%E3%81%A8%E5%86%8D%E7%99%BA%E8%A6%8B%E3%80%80%E5%AF%8C%E5%B1%B1%E7%9C%8C%E3%81%8C%E3%81%A7%E3%81%8D%E3%82%8B%E3%81%BE%E3%81%A7
- 災害にみる富山 https://www.pref.toyama.jp/documents/13519/h29kikaku.pdf
- 前田利長(前田利長と城一覧)/ホームメイト - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/useful/10495_castle/busyo/90/
- 日本遺産巡り#18 加賀前田家ゆかりの町民文化が花咲くまち高岡 -人、技、心 https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/special/113/
- 【富山県のお城】隣国の武将たちが覇権を争い、築かれたお城の数は約400! - 城びと https://shirobito.jp/article/1851
- 富山城の歴史 - 松川遊覧船 https://matsukawa-cruise.jp/reading/history-of-toyama-castle/
- Q.8 富山藩が成立してから、富山城を改修するまでの間 https://www.city.toyama.toyama.jp/etc/maibun/toyamajyo/q-and-a/q8.htm
- 薬都・とやま 300年以上の歴史と価値を再発見しよう! - 富山県商工会議所連合会 https://www.ccis-toyama.or.jp/toyama/magazine/h19_m/0705tokusyu.html
- ガイドマップ 富山やくぜん https://www.toyamashi-kankoukyoukai.jp/file_upload/101049/_main/101049_07.pdf