寺町通形成(1591)
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報告書:天正十九年、京都改造の奔流 — 寺町通形成の時系列分析と歴史的意義 —
序章:灰燼の都、再興の槌音
日本の歴史において、都市そのものが権力者の思想と戦略を体現する壮大なキャンバスとなることがある。天正十九年(1591年)に断行された豊臣秀吉による「寺町通形成」は、単なる都市整備事業ではない。それは、戦乱で荒廃した中世の都を、天下人の下に統一された近世の政治都市へと再生させるという、壮大な構想の一部であった。この事変を深く理解するためには、まずその舞台となった京都が、いかなる状態にあったのかを直視する必要がある。
平安京の東端「東京極大路」
現在の寺町通の原型は、平安京の設計にまで遡る。桓武天皇が築いたこの都は、唐の長安を模した碁盤の目状の都市計画で知られる。その最東端を南北に貫いていたのが「東京極大路(ひがしきょうごくおおじ)」であった 1 。道幅は実に32メートルにも及ぶ壮大な大路であり、その沿道、特に北部は貴族の邸宅が立ち並ぶ屈指の高級住宅街として栄華を誇った 3 。この道は、文字通り「京の極み(はて)」を意味し、その東に広がる鴨川の河原は、人の住む領域ではないとさえ考えられていた 5 。東京極大路は、平安京という秩序ある世界の東の境界線そのものであった。
応仁の乱による荒廃
しかし、その栄華は永遠ではなかった。応仁元年(1467年)に勃発し、11年間にわたって続いた応仁・文明の乱は、京都を主戦場として、都の姿を根底から覆した 7 。壮麗な貴族の館も、荘厳な寺社もことごとく戦火に焼かれ、京都は一面の焼け野原と化した 9 。かつての東京極大路も例外ではなく、整然とした街路は失われ、見る影もなく荒廃した。その惨状は、道というよりも川のようになっていたとさえ記録されている 4 。この大乱により、京都は壊滅的な打撃を受け、室町幕府の権威は失墜し、日本は本格的な戦国時代へと突入していく 7 。
戦国期の京都と自治機能
灰燼に帰した京都であったが、人々はたくましく復興を遂げていった。戦乱後、京都は上京(かみぎょう)と下京(しもぎょう)という二つの市街地に再編され、町衆(まちしゅう)と呼ばれる裕福な商工業者を中心に、独自の自治機能を発展させていく。彼らは自衛のために市街地の周囲に土塁や堀を巡らせた「惣構(そうがまえ)」を築き、外部からの侵攻に備えた 10 。この時代の京都は、統一された権力の下にある首都というよりは、自治的な性格を持つ複数の都市ブロックの集合体であった。この町衆と、彼らが檀家として支える寺院との間には、経済的・社会的に強い結びつきが存在していた。
天下人・豊臣秀吉の登場と「都づくり」の野望
本能寺の変(天正十年、1582年)を経て織田信長の後継者として天下統一を推し進めた豊臣秀吉にとって、この分裂し、自治的な性格を色濃く残す京都の姿は、自身の権威を示す上で看過できないものであった。彼は、京都を単に復興させるだけでなく、自身の政権の拠点として、全く新しい都市へと改造する壮大な計画、すなわち「都づくり」に着手する 11 。この計画は、聚楽第の建設、天正の地割、そして御土居の築造といった一連の巨大事業から成り立っており、寺町通の形成は、その総仕上げとも言うべき重要な一角を占めていたのである 13 。
第一章:グランドデザイン — 秀吉の京都改造計画
寺町通の形成を単独の事象として捉えることは、その本質を見誤ることに繋がる。それは、秀吉が京都全体に対して描いた、一つの統合された都市計画、すなわち「グランドデザイン」の中に位置づけられて初めて、その真の意図が明らかになる。聚楽第、天正の地割、御土居という三つの巨大プロジェクトは、寺町通形成と密接に連携し、相互に補完し合うことで、新たな京都の姿を創り上げたのである。
政治の中心「聚楽第」の造営 (1586-1587)
秀吉の京都改造は、天正十四年(1586年)に着工された「聚楽第」の建設から本格的に始まった 14 。平安京の大内裏跡地という、かつての日本の政治的中枢であった場所に、壮麗な城郭と御殿を兼ね備えた政庁を築いたのである。この場所は天皇の住まう御所の西わずか1キロメートル余りの距離にあり、天皇の権威を背景としつつ、実質的な支配者が誰であるかを天下に示すという、秀吉の巧みな政治的計算が働いていた 14 。聚楽第は、新たな京都における絶対的な政治・軍事の中心核として構想された 13 。
都市の骨格を再定義する「天正の地割」 (c. 1590-1591)
次に秀吉が着手したのが、都市の経済構造そのものを変革する「天正の地割」であった 15 。平安京以来の約120メートル四方の正方形の街区(町)は、内側に多くの袋小路を抱え、土地利用の効率が良いとは言えなかった。秀吉は、この正方形の街区の真ん中に新たな南北の通りを建設し、区画を短冊状の長方形に分割した 16 。これにより、これまで通りに面していなかった土地にも新たな間口が生まれ、商業活動の機会が飛躍的に増大した。間口が狭く奥行きが深い、いわゆる「うなぎの寝床」と呼ばれる京都特有の町家形式は、この時に生まれたものである 16 。天正の地割は、京都の商業を活性化させ、新たな経済的秩序を構築するための、大胆な都市インフラ整備であった。
洛中を囲む巨大な防壁「御土居」の築造 (1591)
そして天正十九年(1591年)、秀吉は京都改造の象徴ともいえる「御土居」の築造を命じる 18 。これは、京都市街をぐるりと囲む全長約22.5キロメートルにも及ぶ巨大な土塁と堀であり、わずか数ヶ月という驚異的な速さで建設された 18 。御土居は、東は鴨川、西は紙屋川、北は鷹峯、南は九条に及ぶ広大な範囲を囲い込み、洛中(らくちゅう、御土居の内側)と洛外(らくがい、外側)という物理的かつ象徴的な境界線を確定させた 2 。その目的は多岐にわたる。第一に、外敵の侵入を防ぐ軍事的な防塁としての機能 20 。第二に、しばしば氾濫を繰り返した鴨川から市街地を守る治水・堤防としての機能 18 。そして第三に、洛中と洛外の交通を制限することで、都市の治安維持と支配を容易にするという政治的な機能である 22 。
寺町通形成の位置づけ
これら一連の事業が同時期に、かつ連携して進められたという事実は、そこに単一の、統合された計画が存在したことを示唆している。聚楽第が政治的「核」を定め、天正の地割が経済的「骨格」を再編し、御土居が都市の物理的「境界」を画定した。この文脈において、寺町通の形成は、このグランドデザインを完成させるための最後の、そして極めて重要なピースであった。それは、御土居という「ハード」な防壁の内側に設けられた、宗教的・軍事的な「ソフト」な緩衝地帯であり、同時に都市内部の社会構造を再編するための戦略的装置でもあった。これらのプロジェクトは個別の点ではなく、秀吉の新たな天下秩序を京都という都市空間に刻み込むための、一つの壮大な線として繋がっていたのである。
表1:秀吉の京都改造と寺町通形成の時系列
年(元号) |
主要な出来事 |
寺町通形成との関連性と意義 |
1582年(天正10年) |
本能寺の変。秀吉が実権を掌握。 |
秀吉が天下人への道を歩み始める契機。後の首都改造計画の前提となる。 |
1586年(天正14年) |
聚楽第の建設開始。 |
新たな京都の政治・軍事的中核が設定され、都市再編の基点が築かれる。 |
1587年(天正15年) |
聚楽第の完成。 |
秀吉の首都に対する支配が確立される。 |
1590年(天正18年) |
寺院移転計画と天正の地割の開始。 |
寺町通を形成する政策が公式に開始される。地割事業により、寺院が占有していた土地の再開発が必要となる。 |
1591年(天正19年) |
御土居の築造開始と迅速な完成。 |
防衛線である御土居が建設され、その東辺に沿う形で寺町通が一体的な防衛緩衝地帯として計画される。 |
1591年(天正19年) |
寺町通への寺院の強制集団移転を断行。 |
本報告書の中心となる事変。本能寺、誓願寺をはじめとする多数の寺院が新たな場所へ強制的に移される。 |
1592年(天正20年) |
寺町通に本能寺の新伽藍が完成。 |
主要な移転事業の完了と、秀吉の権威の下での新秩序確立を象徴する。 |
第二章:変革前夜(天正十八年〜十九年初頭) — 命令下る
天正十八年(1590年)、秀吉の京都改造計画が最終段階に入る中で、都市の景観と社会構造に最後のメスを入れるべく、寺院の再配置計画が本格的に始動した 1 。この命令が下される前の京都では、寺院は都市の至る所に根を張り、人々の生活と深く結びついていた。
洛中に散在する寺院の実態
応仁の乱後の京都では、寺院は単なる宗教施設ではなかった。特に法華宗(日蓮宗)の寺院などは、強力な町衆のネットワークと結びつき、地域の経済、文化、時には政治的な中心地として機能していた。寺院の境内は地域コミュニティの広場であり、その強固な塀や門は、戦乱の際には避難所や防衛拠点ともなり得た。このように、寺院は洛中の各所に点在し、それぞれの地域社会と有機的に一体化していた。この自律的で水平的な結びつきは、秀吉が目指す中央集権的なトップダウン型の都市支配とは相容れないものであった。
都市改造の総仕上げと寺院再配置計画
秀吉の狙いは、この無秩序に点在する寺院を特定の場所に集約し、都市空間を合理化・再編することにあった。計画の対象地として選ばれたのが、応仁の乱で荒廃したままになっていた旧・東京極大路の跡地である 1 。ここに寺院を集めることで、いくつかの目的を同時に達成することができた。まず、寺院が元々あった洛中の一等地を確保し、天正の地割によって新たに創出された商業地として再開発することが可能になる。そして、都市の東の防衛ラインを形成し、さらに寺院と町衆の結びつきを断ち切るという、より高度な政治的目標を達成することであった。
執行者としての奉行
この前代未聞の大事業を執行したのは、秀吉配下の奉行たちであった。特に、京都所司代として都市行政を担っていた前田玄以などの有力な吏僚が、この計画の実行に深く関わったと考えられる。当時の記録には、寺院側からの不満の声も伝えられている。イエズス会宣教師ルイス・フロイスの記録によれば、奉行であった前田玄以が法華宗徒であったため、同じ法華宗の寺院には水害の心配がない高燥地である「寺之内」(市街北部)を与え、他の宗派の寺院は鴨川に近く水害のリスクが高い「寺町」に押し込めた、という風説があったとされる 23 。しかし、実際には寺町にも本能寺をはじめとする法華宗の有力寺院が移転させられており、この説が全面的に正しいとは言えない 23 。それでも、このような噂が立つこと自体が、この強制移転がいかに寺院にとって理不尽で、混乱を極めたものであったかを物語っている。
対象寺院の選定
移転の対象となったのは、特定の宗派に限られなかった。浄土宗、法華宗、時宗など、宗派の垣根を越えて約80ヶ寺もの寺院が対象となった 1 。これには、各寺院に付属する塔頭(たっちゅう、小寺院)も含まれており、実際にはさらに多くの宗教施設が移動を強いられた 4 。この網羅的な選定は、秀吉の目的が特定の宗教勢力の弾圧ではなく、京都に存在する全ての寺院を一度解体し、自身の構想する新たな都市秩序の中に再配置することにあったことを明確に示している。命令は絶対であり、いかに由緒ある大寺院であろうと、それに逆らうことは許されなかった。
第三章:激動の天正十九年 — 京都、動く(リアルタイム・クロニクル)
天正十九年(1591年)は、京都の地図が物理的に書き換えられた、激動の一年であった。春に発せられた絶対命令は、夏から秋にかけて都を巨大な建設現場へと変貌させ、冬には全く新しい都市景観を誕生させた。この章では、この変革のプロセスを時系列で追い、そのリアルタイムな様相を再現する。
(春)命令の徹底と抵抗
年の初め、寺院移転の命令が洛中の各寺院に通達され、計画は実行段階に移った。これは、寺院にとってはまさに青天の霹靂であった。長年慣れ親しんだ土地を離れ、指定された場所へ、しかも自らの費用で移転せよという一方的な通告は、大きな混乱と反発を招いたであろう。
その過酷な状況は、当時京都に滞在していたルイス・フロイスの『日本史』に生々しく記録されている。フロイスは、この急な移転命令によって寺院が受けた負担が甚大であったことを記している 23 。移転先は鴨川に近く、狭隘な土地が多かったため、水害や火災のリスクに常に晒されることになった 23 。寺院側にとって、これは単なる場所の移動ではなく、存続そのものを脅かしかねない理不尽な命令であった。
この時期の具体的な動きとして、本願寺の移転が挙げられる。天正十九年の閏一月五日、秀吉は本願寺に対し、六条堀川の地を寄進するという形で移転を命じた 24 。これは「寄進」という体裁をとってはいるものの、実質的には天下人の命令であり、本願寺がいかに巨大な宗教勢力であっても、これを拒否することは不可能であった 24 。この一件は、秀吉の計画がいかに強権的に、そして迅速に進められたかを象徴している。
(夏〜秋)大移動の槌音 — 主要寺院の事例
春の混乱期を経て、夏から秋にかけて、京都の街は槌音と人々の喧騒に包まれた。洛中の至る所で既存の寺院が解体され、その資材が新たな建設地である寺町へと運ばれていった。この大規模な都市改造の様相を、二つの象徴的な寺院の事例から具体的に見ていく。
一つ目は、 本能寺 である。天正十年(1582年)に織田信長が明智光秀に討たれた歴史的舞台として、その名は全国に知られている。事件後、焼失した本能寺は、秀吉の庇護のもと再建の道を歩んでいたが、天正十九年(1591年)、秀吉の命令により、旧地(油小路蛸薬師付近)から現在の寺町通の地へと移転させられた 1 。信長の後継者である秀吉が、信長の菩提を弔うこの寺院を自らの都市計画の中心に再配置する行為は、極めて象徴的であった。新たな伽藍は翌天正二十年(1592年)に完成し、寺町通の中核をなす寺院として再出発した 25 。
二つ目は、 誓願寺 である。もともと上京区の一条小川(現在の元誓願寺通)にあったこの大寺院も、天正十九年(1591年)に寺町三条の現在地へと移された 26 。誓願寺は非常に広大な寺域を誇っていたため、その移転は都市の街路計画そのものに影響を与えた。寺町通は基本的に南北にまっすぐ伸びる通りだが、三条通と交差する地点で、不自然に斜めにずれている 5 。これは、巨大な誓願寺の敷地を避ける形で通りが設計されたために生じたものであり、この「ずれ」は、16世紀末の大規模な強制移転という歴史的事件が、現代の都市構造にまで残した物理的な痕跡なのである。
(冬)新たな景観の誕生
一年間にわたる大工事の末、天正十九年の冬を迎える頃には、新たな寺院街の骨格がほぼ完成した。かつて荒れ地であった旧・東京極大路の東側には、北は鞍馬口から南は五条に至るまで、約80ヶ寺もの寺院が甍を連ねる壮大な景観が出現した 4 。そして特筆すべきは、その配置の仕方である。全ての寺院は、東に築かれた御土居を背にし、西、すなわち洛中の中心部を向いて建てられた 2 。この統一された配置は、もはや偶然や自然発生的なものではない。それは、全ての宗教施設が天下人の権威の下に秩序づけられ、都市防衛という国家的役割を担う存在として再定義されたことを、視覚的に宣言するものであった。この時から、この通りは文字通り「寺町通」と呼ばれるようになり、京都の新たな顔として歴史に刻まれることになった 1 。
第四章:意図の深層 — なぜ寺院は集められたのか
豊臣秀吉が断行した寺町通形成は、単なる都市美化や区画整理ではなかった。その背後には、天下人としての彼の冷徹な計算と、国家統治にかける多層的な戦略が隠されている。軍事、政治、経済、そして社会秩序の再編という、四つの側面からその深層的な意図を分析する。
第一の防衛線:「寺の壁」
最も直接的かつ重要な目的は、京都の軍事防衛体制の強化であった。歴史的に、東国からの軍勢が京都に侵攻する際、主戦場となるのは都の東側であった。秀吉は、都市の東端に築いた御土居という物理的な防壁のすぐ内側に、寺院群を南北に長く配置した 27 。これは、単なる建物の配置ではない。戦国時代において、堅固な塀や門、広大な敷地を持つ寺院は、しばしば軍事拠点(陣)として利用されたという事実を踏まえる必要がある 5 。
つまり、秀吉が構築したのは、二重の防衛ラインであった。第一の防衛線である御土居を敵が突破したとしても、その先に待っているのは開けた市街地ではない。そこには、城砦としても機能しうる寺院が数十も連なる「寺の壁」が立ちはだかる。侵攻軍は、この連続する寺院群を一つ一つ攻略しなければならず、その間に市街中心部の守備隊が態勢を整える時間的猶予が生まれる。攻撃側にとっては、勢いを削がれ、市街戦という泥沼に引きずり込まれることを意味する。さらに、神仏の住まう聖域を次々と破壊しながら進軍することは、兵士たちに心理的な動揺を与え、戦意を削ぐ効果も期待できたであろう 23 。このように、寺町通は御土居と一体となった、極めて高度な縦深防御システムとして構想されていたのである。
権力の掌握:宗教勢力と民衆の分断
軍事的な側面に加え、寺町通形成は秀吉の権力基盤を盤石にするための、巧みな社会工学でもあった。前述の通り、戦国期の京都では、寺院は地域の町衆と密接に結びつき、一種の自治共同体を形成していた。この檀家と寺院の強固な水平的ネットワークは、領主の支配が及ばない「アジール(聖域)」としての側面を持ち、時には為政者に対する抵抗の拠点ともなり得た。
秀吉は、この潜在的な抵抗勢力を無力化するため、寺院を本来のコミュニティから物理的に引き剥がし、寺町という特定の区画に隔離した 18 。これにより、寺院と町衆の間にあった日常的で有機的な関係は断ち切られた 22 。人々は、自分たちの菩提寺や氏神から切り離され、個々の市民として、秀吉が構築した新たな行政システムの中に組み込まれていった。これは、既存の社会秩序を一度解体し、天下人である秀吉を頂点とする垂直的な支配構造へと再編する、極めて政治的な行為であった。
経済と行政の合理化
寺院の集約は、経済および行政の効率化という実利的な目的も果たした。洛中に散在していた寺院を一つのエリアにまとめることで、寺社領の管理や、課税・諸役の徴収が格段に容易になった 5 。また、より重要なのは、寺院が移転した跡地である。これらは洛中の一等地であり、この広大な土地を確保することで、秀吉は「天正の地割」を円滑に進め、新たな商業地として開発することができた。つまり、寺院移転は、都市の経済的ポテンシャルを最大限に引き出すための、大規模な土地収用という側面も持っていたのである。
秩序の可視化:身分制社会の体現
最後に、この事業は秀吉が理想とする社会秩序を、都市空間を通じて可視化する試みでもあった。彼の京都改造計画全体に通底するのは、身分や職業に応じた居住区の分離、すなわちゾーニング(用途地域制)の思想である 13 。聚楽第周辺には大名屋敷を中心とする武家町を、御所の周辺には公家町を、そして都市の周縁部には寺町や寺之内といった寺院街を配置した 14 。このように、人々の住む場所を身分によって明確に分けることで、武士を頂点とする新たな身分制社会の秩序を、誰もが一目で理解できるようにした。寺町通の形成は、この壮大な都市計画の最終段階として、宗教勢力を国家の管理下に置かれた一つの社会階層として位置づけ、そのあるべき場所を物理的に示したものであった。
第五章:その後の寺町通 — 遺産と変容
天正十九年(1591年)に豊臣秀吉によって創出された寺町通は、その後の時代の変遷の中で、当初の意図とは異なる新たな役割を担い、発展を遂げていった。秀吉の都市計画という「強制された秩序」の上に、人々の営みが積み重なることで、「有機的な文化」が花開いたのである。その遺産は、現代の京都にも色濃く刻み込まれている。
門前町の勃興と商業の発展
寺院が一直線に集中して配置された結果、そこには必然的に巨大な宗教的需要が生まれた。江戸時代に入ると、この需要に応える形で、寺町通には多くの商人や職人が集まるようになる 4 。仏壇や仏具、数珠、経本、線香といった直接的な宗教用品を扱う店はもちろんのこと、書物や筆、紙、さらには石塔を制作する職人まで、寺院に関連する多種多様な業種が軒を連ねるようになった 1 。
これは、計画的に作られた寺院街の上に、自然発生的に形成された「門前町」であった。供給者がその主要な顧客基盤のすぐ近くに集まるという、典型的な経済集積が起こったのである。現在も寺町通に数多く残る老舗の多くは、この江戸時代に創業し、代々その技術と暖簾を受け継いできた名店である 1 。秀吉が軍事・政治的目的で配置した寺院群が、結果として京都の伝統産業を育む土壌となったことは、歴史の興味深い逆説と言えるだろう。
江戸、明治、そして現代へ
時代が下り、明治維新を迎えると、寺町通は新たな変貌を遂げる。西洋文化が流入する「文明開化」の波は、この伝統的な通りにも及んだ。西洋菓子店や写真館といった、当時としては極めてハイカラな店が次々と出現し、寺町通は新旧の文化が交差する活気ある場所となった 1 。特に、明治六年(1873年)創業のすき焼きの老舗「三嶋亭」は、文明開化の象徴である牛肉食を京都に広めた存在として知られる 6 。
さらに、明治五年(1872年)には、寺町通のすぐ東側に、芝居小屋や見世物小屋を集めた歓楽街として「新京極通」が開発された 26 。これは、誓願寺などの寺院から土地を上知(没収)して作られたものであり、寺町通が持つ宗教的・伝統的商業の性格と、新京極が持つ大衆的・娯楽的な性格が隣り合うことで、この一帯は京都随一の繁華街として発展していく 5 。秀吉が築いた寺院街は、時代と共にその役割を変え、京都の文化と経済の中心地として、その命脈を保ち続けたのである。
秀吉の都市計画が現代京都に残した刻印
寺町通の形成から400年以上が経過した現代においても、秀吉の都市計画は明確な形でその痕跡を残している。まず、「寺町」という通りの名前そのものが、この歴史的事業の直接的な遺産である。三条通で不自然に折れ曲がる通りの形状は、誓願寺の強制移転という歴史の断片を今に伝えている。そして何よりも、本能寺をはじめとする数多くの歴史的寺院が、今なおこの通りに甍を連ねている風景そのものが、秀吉の構想の壮大さを物語っている。
しかし、その遺産は物理的なものに留まらない。寺町通の形成は、戦乱で分裂した中世都市・京都が、統一権力の下にある近世城下町へと生まれ変わる、決定的な転換点であった。都市空間を政治権力者の意思を表明するための道具として用い、社会構造そのものを再編するという手法は、その後の日本の都市計画に大きな影響を与えた。現代の私たちが歩く寺町通は、単なる商店街や観光地ではない。それは、戦国という激動の時代を乗り越え、新たな日本の姿を模索した一人の天下人の野望と、それに翻弄されながらもたくましく生き抜いた人々の歴史が刻み込まれた、重層的な歴史空間なのである。
引用文献
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- 歴史・史跡・名所 - 商店街振興組合寺町会 http://kyoto-teramachi.com/history/
- 京都散策なら「寺町通り」へ!史跡めぐりとグルメのおすすめスポット! | icotto(イコット) https://icotto.jp/presses/8125
- 京都市・寺町通 - 月~金曜日 20時54分~21時00分 https://www.asahi.co.jp/rekishi/2006-02-06/01.htm
- 寺町通 名前の由来は、あの有名人。 - 京都観光旅行ガイド https://blog.kanko.jp/kyoto-geography/kyoto-street/teramachi
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