最終更新日 2025-09-16

将軍継嗣問題深刻化(1568)

1568年、足利義昭は信長を頼り上洛し第15代将軍に就任。しかし信長は義昭を傀儡化し畿内を実質支配。将軍継嗣問題は信長の天下布武の道具となり、室町幕府は終焉を迎えた。
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将軍継嗣問題の力学:永禄十一年(1568年)の畿内大変動に関する包括的調査報告

将軍継嗣問題 主要関連勢力の動向年表(1565年 - 1568年)

年月

足利義昭方(幕臣団)

足利義栄・三好三人衆方

松永久秀

織田信長

その他主要勢力

永禄8年 (1565)

5月

13代将軍足利義輝、二条御所にて三好義継・三人衆らに殺害される(永禄の変)。

義輝を殺害。畿内の実権を掌握。

嫡子・久通が三人衆と共に義輝を襲撃。

美濃斎藤氏との抗争を継続中。

朝廷は義輝に官位を追贈し、死を悼む。

7月

興福寺に幽閉されていた覚慶(義昭)、細川藤孝らの手引きで奈良を脱出。近江へ移る。

覚慶を興福寺に幽閉・監視。

永禄9年 (1566)

9月

若狭、越前へと流浪。朝倉義景を頼る。

足利義栄を擁立し、阿波から摂津へ迎える。

三好三人衆と将軍候補を巡り対立、抗争状態に陥る。

斎藤氏との和議と破棄、河野島の戦いで苦戦。

12月

義栄、従五位下・左馬頭に叙任され、義昭と官位で並ぶ。

永禄10年 (1567)

8月

朝倉義景の上洛決断を待つも、事態は膠着。

西美濃三人衆が内応。稲葉山城を攻略し美濃を平定。

10月

東大寺に布陣。

三好三人衆と交戦、東大寺大仏殿を焼失させる。

岐阜城へ本拠を移し、「天下布武」の印を使用開始。

朝廷、信長に綸旨を送り、上洛への期待を示す。

11月

朝倉氏と加賀一向一揆の和睦を仲介。

永禄11年 (1568)

2月

足利義栄、征夷大将軍に就任(第14代)。

北伊勢へ侵攻し、支配下に置く。

4月

越前にて元服し、名を義昭と改める。

7月

朝倉義景に見切りをつけ、明智光秀らの仲介で織田信長を頼り美濃へ移る。

信長と連絡を取り、義昭への忠節を伝える。

義昭を美濃・立政寺に迎え入れ、上洛を約束。

9月

信長と共に上洛軍に参加。

六角氏の敗走と信長の入京を受け、畿内各地へ敗走。

信長に恭順の意を示し、大和一国の支配を安堵される。

義昭を奉じ、6万の大軍で岐阜を出陣。観音寺城の戦いで六角氏を破り、入京を果たす。

六角義賢・義治父子、信長に敗れ観音寺城を放棄。

10月

18日、征夷大将軍に就任(第15代)。

擁立していた義栄が病死し、完全に瓦解。

堺に矢銭2万貫を課し、支配下に置く。


序章:権力の真空 — 永禄の変と将軍義輝の死(1565年)

剣豪将軍・足利義輝の理想と現実

室町幕府第13代将軍・足利義輝の治世は、将軍権威の失墜と再興への渇望という二つの相克する潮流の中で始まった。父である12代将軍・義晴の代から、畿内における最大実力者であった三好長慶との対立により京都を追われ、わずか11歳で近江坂本の地で将軍宣下を受けるという苦難の船出であった 1 。その後も父と共に三好氏との抗争と和睦を繰り返す流浪の日々が続いたが、永禄元年(1558年)、近江守護・六角義賢の仲介によって三好長慶との和睦が成立。義輝は実に5年ぶりに京都へ帰還し、二条御所において将軍親政の再開に乗り出した 2

帰京後の義輝は、決して三好氏の傀儡に甘んじる存在ではなかった。彼は失われた将軍の権威を取り戻すべく、精力的に政治活動を展開した。全国の戦国大名間の紛争調停に乗り出し、その権威をもって和睦を成立させるなど、幕府の存在意義を改めて示そうと試みた。永禄2年(1559)には、尾張の織田信長や越後の長尾景虎(後の上杉謙信)が相次いで上洛し、義輝に拝謁している 2 。これは、地方の有力大名たちが、依然として足利将軍を「天下の公儀」として認識していたことの証左である。

転機が訪れたのは、永禄7年(1564)の三好長慶の病死である。長慶という重石が取れた三好家は内紛と弱体化の兆しを見せ始め、義輝はこの機を捉えて幕府権力の完全復活を目指し、さらに政治活動を活発化させた 2 。しかし、この将軍親政強化の動きこそが、三好家の新たな実力者たちに強い警戒心を抱かせ、自らの運命を決定づける引き金となるのであった。

永禄の変(1565年5月19日):将軍暗殺という未曾有の事態

永禄8年5月19日未明、京都の二条御所は静寂を破る鬨の声に包まれた。三好長慶の跡を継いだ三好義継、そして三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)、さらには松永久秀の嫡子・松永久通らが率いる約1万ともいわれる大軍勢が、御所を完全に包囲したのである 3 。彼らは表向き「公方様へ訴訟の儀あり」と偽り、御所への侵入を果たしたが、その真の目的は将軍・足利義輝の抹殺にあった 4

義輝は三好方の不穏な動きを察知し、数年前から御所の防御を固めるべく堀や塁の普請を進めていたが、それは未だ完成していなかった 2 。御所内の兵力はわずか200名程度であり、衆寡敵せずの状況は明らかであった 4 。しかし、義輝は諦めなかった。塚原卜伝に師事し、奥義「一之太刀」を伝授されたとも伝わる剣豪将軍は、自ら薙刀を手に取り、敵兵の中へ斬り込んでいった 3 。足利家に伝わる数々の名刀を畳に突き立て、刃こぼれするたびに新たな刀を抜き、獅子奮迅の働きを見せたという。

その最期は壮絶であった。敵兵を多数斬り伏せたものの、やがて力尽き、四方から突き出される槍の前に倒れたとされる 2 。この凶行は義輝一人に留まらず、その母・慶寿院、さらには鹿苑院院主であった弟の周暠までもが殺害されるに至り、将軍家そのものを根絶やしにしようとするかのような残虐性を帯びていた 2

衝撃と政治的空白の発生

現職将軍の殺害という前代未聞の事件は、日本全土に凄まじい衝撃を与えた。変の翌日には若狭の武田義統が越前の朝倉義景に事件を報じるなど、その凶報は瞬く間に諸国へ伝播した 5 。越後の上杉謙信は「三好・松永の首を悉く刎ねるべし」と神仏に誓い、河内の畠山氏重臣・安見宗房は「前代未聞で是非も無いこと。無念の至りだ」と怒りを露わにした 5

朝廷の衝撃もまた大きかった。公家の山科言継は日記に「言葉がない。前代未聞の儀なり」と記し、正親町天皇に仕える女官も同様に嘆き悲しんだ 5 。朝廷は6月7日、義輝に従一位・左大臣の官位を追贈し、正親町天皇自らも3日間の政務を停止して弔意を示した 5 。これは、三好氏の暴挙を追認せず、あくまで足利将軍家こそが正統な治天の君の守護者であるという朝廷の意思表示でもあった。

ここに、室町将軍が持つ権威の二重性が浮かび上がる。義輝は生前、三好長慶によって実権を奪われ、長年にわたり政治の中心から遠ざけられていた。その軍事力・政治力は著しく制限されていたにもかかわらず、彼の死は天下を揺るがす大事件として受け止められた。これは、将軍の「実権」がいかに形骸化しようとも、「天下の公儀の長」としての「象徴的権威」は依然として絶対的なものであったことを物語っている。事実、三好長慶は義輝を傀儡としながらも、その命まで奪うことはなかった 2 。長慶は既存の秩序の枠内で権力を追求したが、三好三人衆らはその秩序の根幹である将軍そのものを物理的に排除するという、越えてはならない一線を越えたのである。この「象徴的権威」の中心が突如として失われたこと、すなわち権力の真空状態の発生こそが、その後の将軍継嗣問題を深刻化させ、新たな秩序の構築者を待望する時代の要請を生み出す最大の要因となったのである。

第一章:二人の継嗣候補 — 流浪の義昭と傀儡の義栄(1565年 - 1567年)

覚慶(足利義昭)の亡命と再起への道

永禄の変により兄・義輝が非業の死を遂げた時、その弟である覚慶は奈良・興福寺の一条院門跡として僧籍にあった。兄の死後、覚慶は松永久秀によって身柄を確保され、事実上、興福寺内に幽閉・監視される状態に置かれた 5 。しかし、将軍家の血脈を絶やしてはならないと考える旧幕臣たちの動きは迅速であった。永禄8年(1565年)7月28日、細川藤孝や一色藤長といった兄の遺臣らの周到な手引きにより、覚慶は密かに興福寺を脱出することに成功する 5

脱出した覚慶は、近江の和田惟政らを頼り、琵琶湖畔の矢島(現在の滋賀県守山市)に居を構えた。ここは「矢島御所」と呼ばれ、彼の再起に向けた活動拠点となる 5 。この地で覚慶は還俗して名を「義秋」(後に義昭)と改め、次期将軍としての正統性を主張し始めた。彼は直ちに越後の上杉謙信や安芸の毛利元就といった全国の有力大名に対し、三好氏討伐と自身の上洛を支援するよう求める書状を送り、活発な外交活動を開始した 5 。義昭の存在は、反三好勢力にとって待望の旗印となり、にわかに畿内情勢は活気づいていった。

三好三人衆の傀儡・足利義栄

一方、将軍義輝を殺害した三好三人衆も、自らの権力を正当化するための新たな将軍を必要としていた。彼らが白羽の矢を立てたのが、義輝・義昭兄弟の従兄弟にあたる足利義栄であった 2 。義栄の父・義維は、かつて細川晴元に擁立されて12代将軍・義晴と争った経緯を持ち、「堺公方」と称された人物である 10 。この血筋は、三人衆にとって義昭に対抗しうる将軍候補としての格好の根拠となった。

永禄9年(1566年)9月、三人衆に擁された義栄は、本拠地の阿波から海を渡り、摂津の越水城に入城。畿内における政治活動を開始した 11 。彼は将軍就任前にもかかわらず、伊予の河野氏に御内書を発給するなど、事実上の将軍として振る舞い始めた 11 。さらに朝廷への働きかけを強め、同年12月28日には従五位下・左馬頭への叙任を許される 11 。これにより、義栄は官位においても義昭と肩を並べることとなり、名実ともに将軍継嗣候補としての地位を固めたのである。

畿内の覇権を巡る内紛:三好三人衆 vs 松永久秀

しかし、義輝暗殺という共通の目的を果たした三好三人衆と松永久秀の関係は、新たな将軍の擁立を巡って急速に悪化していった。三人衆が義栄を推したのに対し、久秀は当初、三好家の新当主・三好義継と共に義昭を支持する構えを見せたともいわれるが、やがて両者は畿内の覇権を巡って全面的な抗争へと突入する 9

この内紛は畿内にさらなる戦乱をもたらし、永禄10年(1567年)10月には、東大寺に布陣した三人衆を久秀軍が攻撃した結果、大仏殿が炎上し焼失するという悲劇まで引き起こした 14 。この一連の抗争は、畿内を支配していた三好勢力の力を著しく削ぐ結果となった。

ここで明らかになるのは、この時期の「将軍継嗣問題」が、純粋な足利家の家督争いではなかったという事実である。義昭と義栄という二人の候補者は、それぞれが畿内の覇権を争う勢力の「錦の御旗」として利用されていた。義栄が三人衆の権力維持のための傀儡であったことは明白であり 15 、義昭もまた、反三人衆勢力を結集させるための象徴的な存在として機能した。つまり、将軍継嗣問題は、畿内の実力者である三好一族の内部抗争が、将軍家の権威という衣をまとって繰り広げられた「代理戦争」の様相を呈していたのである。そして、この代理戦争が引き起こした畿内勢力の共倒れともいえる弱体化こそが、外部からの新たな介入者、すなわち織田信長にとって、またとない好機を創出したのであった。

第二章:尾張の風雲児、美濃を制す — 織田信長の台頭(1561年 - 1567年)

長年の宿願、美濃平定の達成

足利義昭と義栄が畿内で将軍の座を巡って争っている頃、東方の尾張国では、織田信長が着実にその地歩を固め、次なる飛躍への準備を整えていた。信長にとって、隣国・美濃の平定は、父・信秀の代からの宿願であり、戦略的に不可欠な目標であった 16

永禄4年(1561年)に美濃の国主・斎藤義龍が急死し、若年の龍興が跡を継ぐと、信長はこれを好機と捉え、美濃への侵攻を本格化させた 17 。しかし、戦いは一進一退を繰り返し、容易に決着はつかなかった 18 。当初、信長は清洲城から西美濃を攻めるルートを取っていたが、思うように戦果が上がらないと見るや、永禄6年(1563年)に拠点を新たに築いた小牧山城へ移転。攻略の主軸を東美濃からに切り替えるという、戦略的な柔軟性を見せた 19

この粘り強い攻勢と周到な調略が実を結んだのが、永禄10年(1567年)であった。8月、信長は斎藤家の重臣である西美濃三人衆(稲葉一鉄、氏家卜全、安藤守就)の内応を取り付けることに成功する 16 。この報せを受け取った信長の行動は電光石火であった。三人衆からの人質が到着するのを待たずして軍を発し、稲葉山城と尾根続きの瑞竜寺山を占拠。城下の井口町に火を放ち、稲葉山城を裸城にした 16 。内部からの離反と外部からの迅速な軍事行動の前に斎藤龍興は抗う術もなく、8月15日、城を捨てて伊勢長島へと敗走した 16 。こうして信長は、父子二代にわたる長年の宿願であった美濃平定を成し遂げたのである。

「天下布武」への飛躍

美濃を手中に収めた信長の視線は、もはや尾張・美濃という一地方に留まっていなかった。彼は稲葉山城を「岐阜」と改名し、本拠地をこの地に移した 16 。この「岐阜」という名は、古代中国で周の文王が天下統一の拠点とした「岐山」に由来するとされ、信長の強い意志の表れであった。そして、この頃から信長は「天下布武」という四文字を刻んだ印判を使用し始める 16 。これは「武力をもって天下に号令し、世の平穏を実現する」という彼の政治理念を内外に宣言するものであり、信長の目標が明確に「天下」、すなわち京都を中心とする畿内の掌握へと向かったことを示す画期的な出来事であった。

上洛を可能にした信長の強み

信長が「天下布武」を掲げ、上洛を現実的な目標として捉えることができた背景には、彼が築き上げた独自の強みがあった。第一に、その圧倒的な経済力である。信長の父・信秀の代から織田家は、農業生産だけでなく、津島や熱田といった港湾都市を掌握し、商業・流通から得られる莫大な富を財源としていた 23 。この経済力が、当時まだ高価であった鉄砲を大量に購入・配備し、兵農分離を進めて常備軍を維持することを可能にした 26

第二に、朝廷との巧みな関係構築である。信長は美濃攻略以前の永禄10年11月には、財政的に困窮していた正親町天皇から、皇室領の回復などを要請する綸旨を受け取っていた 28 。信長はこの要請に応えることで、朝廷からの信頼を得ると同時に、将来の上洛における「朝廷を保護する」という大義名分を確保する布石を打っていたのである 31

1567年の美濃平定は、単なる領土の拡大以上の戦略的意義を持っていた。それは、京都へ向かうための地理的な障害を取り除き、背後の安全を確保したという軍事的側面に加え、信長が上洛を成功させるための①圧倒的な軍事・経済力、②朝廷という伝統的権威からの支持、という二つの必須条件を完全に満たしたことを意味していた。この時点で、畿内で混迷を極める将軍継嗣問題の解決者として、信長は歴史の表舞台に躍り出るための最終準備を完了したのである。

第三章:永禄十一年、運命の交錯 — 義昭、信長を頼る(1568年初頭 - 7月)

朝倉義景の限界と義昭の焦燥

足利義昭にとって、将軍家再興の最大の希望は、越前の名門・朝倉義景であった。朝倉氏は代々足利将軍家と深い関係にあり、義景もまた、流浪の身となった義昭を居城の一乗谷に迎え入れ、丁重に遇した 32 。永禄11年(1568年)4月には、義景の後見のもとで義昭の元服の儀が執り行われるなど、その関係は良好に見えた 34

しかし、義昭が渇望する上洛の軍を起こすことに対し、義景は終始、慎重な姿勢を崩さなかった。その理由として、長年にわたって対立してきた加賀一向一揆の存在や、本国を長期間留守にすることへの不安、そして何よりも、当時畿内を実質的に支配していた三好勢力の強大さを前に、朝倉家の単独の力では対抗できないという現実的な判断があったとされる 33

義昭の焦燥は、永禄11年2月に、対立候補である足利義栄が三好三人衆の後ろ盾を得て正式に第14代将軍に就任したことで頂点に達した 11 。もはや一刻の猶予も許されない状況下で、依然として動こうとしない義景にしびれを切らした義昭は、新たな庇護者を求めざるを得なくなったのである 8

水面下の交渉:明智光秀と細川藤孝の役割

この膠着状態を打破し、歴史を大きく動かしたのが、義昭の側近である細川藤孝と、当時、朝倉氏の客将でありながら義昭とも通じていた明智光秀であった。特に光秀は、もともと美濃の出身であったことから、隣国・尾張で破竹の勢いで勢力を拡大していた織田信長の能力と将来性を熟知していたとされる 38 。藤孝と光秀は、義昭と信長という、それぞれが決定的に欠けているものを補い合える二つの力を結びつけるためのパイプ役として、水面下で精力的に活動した 40

歴史的同盟の成立(1568年7月)

交渉は実を結び、永禄11年7月、義昭はついに越前一乗谷を離れる決断を下す。信長は義昭を美濃の立政寺に丁重に迎え入れ、上洛の軍を起こすことを固く約束した 8 。信長は義昭に対し、資金や武具を提供するなど破格の待遇でもてなし、その同盟関係を内外に誇示した 7

この義昭の美濃入りは、戦国時代の権力構造における決定的な転換点であった。この出来事の本質は、二つの異なる力の結合にある。一方の足利義昭は、「将軍家の正統な後継者」という、何物にも代えがたい「権威」と「正当性」をその身に宿していた。しかし、それを実現するための「実力」、すなわち軍事力を持たなかった。もう一方の織田信長は、尾張・美濃を平定し、他の追随を許さない圧倒的な「実力」を保持していた。しかし、畿内の政治に本格的に介入し、天下に号令するための「正当性」に欠けていた。

朝倉義景は名門としての権威も一定の実力も持ち合わせていたが、両者のバランスを欠き、リスクを冒して行動を起こすことができなかった。それに対し、義昭と信長の同盟は、失われた「正統性」と、勃興する「実力」とが、互いの弱点を完璧に補い合うために結びついた、まさに運命的な結合であった。この同盟成立の瞬間から、日本の歴史は、旧来の権威構造が支配する時代から、実力者が権威をも利用して天下を動かす新しい時代へと、大きくその舵を切ることになるのである。

第四章:天下布武の号令 — 信長、怒涛の上洛戦(1568年9月)

【時系列解説】9月7日〜11日:出陣と六角氏の牽制

永禄11年(1568年)9月7日、織田信長はついに「天下布武」を実践に移す。足利義昭を奉じ、尾張・美濃・北伊勢の直属軍に加え、同盟者である三河の徳川家康、北近江の浅井長政の軍勢を合わせた、総勢6万ともいわれる大軍を率いて岐阜城を出陣した 7

上洛への道筋で最初の障害となったのが、南近江の守護・六角義賢、義治父子であった。六角氏は、かねてより三好三人衆と通じており、信長の上洛軍の通行を断固として拒否する姿勢を見せた 8 。信長は義昭の近臣・和田惟政らを使者として送り、7日間にわたって粘り強く説得を試みたが、六角氏はこれを拒絶。軍事的衝突は避けられない情勢となった 28 。9月11日、信長軍は愛知川を越えて六角領の深部へと進軍し、決戦の時は目前に迫っていた 43

【時系列解説】9月12日:観音寺城の戦い — 伝統的権力の脆さ

六角氏は、街道筋の支城である和田山城に主力を配置し、信長軍を正面から迎え撃つという伝統的な防衛策を敷いた 28 。しかし、信長の戦術は彼らの想定を遥かに超えていた。9月12日早朝、信長は軍を三隊に分け、稲葉良通の部隊が陽動として和田山城へ向かう一方、柴田勝家、森可成、そして信長自身が率いる主力部隊は、六角軍の防衛線の背後に位置する支城・箕作城へと殺到した 28

箕作城は急峻な地形に築かれた堅城であったが、信長軍の猛攻の前に長くは持たなかった。特に木下秀吉(後の豊臣秀吉)が率いる部隊は、日中の攻撃で一度は押し返されるも、夜陰に乗じて数百本の松明を用いた夜襲を敢行 7 。この奇襲によって城内は混乱に陥り、攻撃開始からわずか半日にして、この要害は陥落した 7

この一報は、六角軍の戦意を根底から打ち砕いた。背後の拠点がかくも容易く陥落したことに衝撃を受けた六角義賢・義治父子は、その日の夜のうちに、居城である観音寺城を放棄。戦わずして甲賀方面へと逃亡してしまったのである 7 。主を失った観音寺城は、翌13日、信長軍の前に無血開城した 45

【時系列解説】9月13日〜25日:南近江平定と義昭の合流

観音寺城の無血開城は、南近江における六角氏の支配が事実上崩壊したことを意味した。周辺の18の支城も戦意を喪失し、次々と信長に降伏 45 。信長はわずか数日のうちに南近江一帯を完全に制圧した。この間、蒲生賢秀が日野城に籠城して抵抗の姿勢を見せたが、説得に応じて降伏し、人質として差し出したのが後の名将・蒲生氏郷であった 28

9月14日、信長は岐阜に滞在していた義昭に早馬を送り、戦勝を報告すると共に、速やかな出発を促した 7 。これを受けて義昭は美濃を発ち、22日には近江の桑実寺にて、信長自らの出迎えを受けた 7

【時系列解説】9月26日〜30日:入京と畿内制圧

9月26日、信長と義昭はついに京都の地を踏んだ。信長は東福寺に、義昭は東山の清水寺にそれぞれ陣を構え、細川藤孝が御所の警護にあたった 7 。六角氏が瞬く間に敗れ去ったという情報は、京都にいた三好三人衆にも大きな衝撃を与えた。彼らは信長軍の圧倒的な勢いを前にして、まともな抵抗を試みることなく京都から撤退し、それぞれの拠点へと敗走した 8

信長は追撃の手を緩めなかった。28日には三好方の重要拠点であった芥川山城に進軍。城主の三好長逸らはすでに逃亡しており、翌29日には城を制圧した 46 。信長は義昭をこの芥川山城に迎え入れ、将軍家の旗を掲げさせた。これは、畿内の新たな支配者が誰であるかを天下に示す象徴的な行為であった 46 。時を同じくして、摂津富田の普門寺で病床にあった第14代将軍・足利義栄が死去したとの報が伝わる 46 。彼を支えていた篠原長房ら阿波の軍勢は本国へ引き揚げ、義栄を擁立した勢力は完全に瓦解した。

この永禄11年の上洛戦は、単なる軍事作戦の成功物語ではない。それは、信長が駆使した新しい戦争の形態が、旧来の権力構造をいかに容易く打ち破るかを示した実例であった。六角氏の敗因は兵力差以上に、信長の「速度」と「情報」を重視した戦術の前に、思考が停止してしまった点にある。箕作城の即日陥落という衝撃的な「情報」は、物理的な戦闘を交える前に六角軍全体の戦意を喪失させる「心理戦」の勝利であった。三好三人衆が戦わずして京を放棄したのも、この情報によって信長軍の勢いが抵抗不可能なものであると判断したからに他ならない。信長は、「将軍を奉じる」という大義名分を掲げつつ、敵の予測を上回る速度と、敵の戦意を挫く情報を巧みに組み合わせることで、旧時代の権力者たちを自壊へと追い込んだのである。

第五章:新秩序の胎動 — 義昭政権の樹立と信長の実権掌握(1568年10月 - 12月)

10月18日:足利義昭、第15代征夷大将軍に就任

怒涛の上洛戦から1ヶ月も経たない永禄11年(1568年)10月18日、足利義昭は朝廷から将軍宣下を受け、室町幕府第15代征夷大将軍に就任した 46 。兄・義輝の非業の死から3年余り、流浪の末に掴んだ悲願の達成であった。同時に参議・左近衛中将にも任官され、幕府は三淵藤英や細川藤孝といった旧臣たちを中心に再興された 46 。京都は、新たな将軍の誕生に沸き、一見すると室町幕府の権威が復活したかのように見えた。

信長の戦後処理と畿内支配の確立

しかし、その背後で実質的な権力を掌握し、新秩序の構築を主導していたのは、紛れもなく織田信長であった。信長は、将軍継嗣問題を解決した功労者という立場を最大限に活用し、矢継ぎ早に畿内支配の布石を打っていった。

その象徴的な政策が、自治都市・堺への矢銭(軍資金)要求である。堺は日明貿易や南蛮貿易の拠点として、また全国一の鉄砲生産地として、強大な経済力と独立性を誇っていた 49 。信長はこの経済の中枢に対し、2万貫という巨額の矢銭を課した 53 。当初、会合衆と呼ばれる商人たちはこれに抵抗したが、信長の圧倒的な軍事力を背景とした圧力の前に、有力商人・今井宗久の仲介もあって、最終的に支払いを承諾した 55 。これにより、堺は事実上、信長の支配下に組み込まれた。この2万貫という金額は、信長が義昭のために改修した二条城の建築費に匹敵するともいわれ、上洛戦で消耗した織田家の財政を立て直すという現実的な目的もあったと考えられる 53

一方で信長は、旧勢力に対しては硬軟織り交ぜた現実主義的な対応を見せた。永禄の変の当事者の一人でありながら、三好三人衆と対立していた松永久秀は、いち早く信長に接近した。彼は信長が渇望していたといわれる名物茶器「九十九髪茄子」を献上して恭順の意を示すと、信長はこれを許し、大和一国の支配を安堵した 13 。これは、敵対者であっても利用価値があれば登用するという信長の人材観と、旧勢力を巧みに利用して畿内の軍事バランスをコントロールする高度な統治術を示すものであった。

朝廷との関係においても、信長は支配者としての立場を明確にした。荒廃していた御所の修理や、実効支配されていなかった禁裏御料所(皇室の領地)の回復を進めるなど、朝廷の経済的支援者としての役割を担った 58 。これに対し朝廷は、信長を副将軍に任じようと打診するが、信長は明確な返答を避けた 46 。これは、既存の幕府の序列に組み込まれることを避け、将軍とは別個の、より超越的な立場から天下を支配しようとする信長の意図の表れであった。

京都の変貌と民衆の視点

信長の上洛は、長年の戦乱に明け暮れていた京都に、一時の平穏をもたらした。治安は回復し、その後の楽市楽座や関所の撤廃といった政策は、商業の活性化を促し、民衆からは一定の歓迎を受けた側面もあった 61 。公家・山科言継の日記『言継卿記』などからは、新たな時代の到来に対する、当時の人々の期待と不安が入り混じった複雑な心境を読み取ることができる 63

しかし、信長の政策は同時に、旧来の秩序を根底から覆すものでもあった。比叡山延暦寺や石山本願寺といった寺社勢力が持っていた荘園や関所の既得権益は、信長の改革によって次々と侵害されていった 64

1568年後半における信長の行動は、単なる戦後処理の域を遥かに超えている。表面的には「足利義昭を将軍の座に就け、乱れた秩序を回復する」という大義名分に沿ったものであったが、その実態は、畿内の軍事、経済、そして伝統的権威のすべてを再編し、自らを頂点とする新たな支配構造の礎を築く、極めて周到な国家改造計画であった。堺の掌握は経済の中枢を、松永久秀の懐柔は軍事バランスを、そして朝廷への巧みな対応は最高の権威を、それぞれ自身のコントロール下に置くための布石であり、ここに織田政権の原型が形成されたのである。

終章:蜜月の終わりと次なる動乱の予兆(1569年初頭)

本圀寺の変(1569年1月5日):新体制の脆弱性の露呈

足利義昭が将軍に就任し、新体制が発足してからわずか3ヶ月後、その基盤がいかに脆弱であるかを露呈する事件が発生する。永禄11年(1568年)末、畿内の平定に一応の目途をつけた織田信長は、主力を率いて本拠地・岐阜へと帰国した 66 。この権力の空白を、敗走した三好三人衆が見逃すはずはなかった。

永禄12年(1569年)1月5日、三好三人衆は、信長に美濃を追われた斎藤龍興らを加えた1万余りの軍勢を率いて京都へ逆襲。義昭が仮の御所としていた六条の本圀寺を急襲した 66 。当時、義昭の警護にあたっていたのは、明智光秀や細川藤賢ら少数の幕臣と織田家臣団のみであった 66 。しかし、彼らは奮戦し、三好勢の侵入を許さなかった。その間に、三好義継や池田勝正、荒木村重といった畿内の織田方勢力が援軍に駆けつけ、桂川で三好軍を撃退。義昭は九死に一生を得た 66 。この「本圀寺の変」は、信長の圧倒的な軍事力がなければ、義昭政権がいとも簡単に崩壊しうるという事実を、天下に知らしめる結果となった。

信長による支配の強化 — 「保護」から「管理」へ

事件の報に接した信長は、大雪の中をわずか十数騎で駆けつけ、急遽上洛した 42 。そして、この事件を契機に、義昭に対する姿勢を単なる「保護者」から、より直接的な「管理者」へと転換させていく。

まず着手したのが、新たな将軍御所の建設である。信長は、本圀寺のような寺院では防御に不安があるとして、かつて義輝の御所があった場所に、石垣と堀を巡らせた堅固な城郭、いわゆる旧二条城の築城を開始した 67 。これは義昭の安全を確保するという名目であったが、同時に、将軍を自身の管理下に置き、その行動を監視するという側面も持っていた。

さらに信長は、幕府の運営そのものに踏み込む。1月14日、彼は義昭に対し、9か条からなる「殿中御掟」(後日7か条が追加)を提示し、これを承認させた 73 。その内容は、将軍への直訴の禁止、奉行衆の意見を無視した独断の禁止、諸大名への命令は信長を通すことなど、将軍の権力を大幅に制限し、幕府の重要事項に関する最終決定権を信長が掌握することを定めたものであった 75 。これにより、義昭は名目上の将軍でありながら、実質的には信長の許可なくしては何も決定できない、傀儡に近い存在へと追いやられていった。

新たな対立構造の萌芽

この信長による一方的な権力掌握は、義昭のプライドを深く傷つけた。彼は信長の力を借りて将軍となったが、その目的は兄の遺志を継ぎ、将軍として自らが諸大名を束ね、幕府の権威を真に再興することにあった 78 。しかし、信長にとって義昭と幕府は、自らの「天下布武」事業を正当化するための「権威」という名の道具に過ぎなかった 79 。義昭が独自の政治力を持つことは、信長の構想にとってむしろ障害だったのである。

ここに、両者の間には埋めがたい目的の相違、すなわち根本的な対立構造が生まれた。義昭は信長の支配から脱し、真の将軍となるべく、水面下で武田信玄や朝倉義景、本願寺など反信長勢力への接触を開始する。これが、やがて日本全土を巻き込む「信長包囲網」へと発展していくのである。

結論として、「将軍継嗣問題の深刻化(1568年)」という事変は、足利義昭が第15代将軍に就任したことで、形式上は終結した。しかし、その解決の過程そのものが、新たな、そしてより根源的な問題を生み出した。それは、「誰が将軍になるか」という問いから、「将軍とは、幕府とは、そして天下の統治者とは何か」という問いへの移行であった。信長の上洛は、旧来の室町幕府体制に事実上の終止符を打ち、織田信長という新たな権力者による中央集権的な支配体制への移行という、より大きな地殻変動の序章となった。義昭擁立を巡る諸勢力の思惑の交錯は、結果として将軍の権威そのものを相対化し、武力による天下統一という新しい時代を、不可逆的に招き寄せたのである。

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