将軍義昭将軍宣下(1568)
永禄十一年、足利義昭は織田信長に擁され将軍宣下。室町幕府再興を果たすも、信長との同床異夢は殿中御掟で亀裂を生み、信長包囲網へと発展。束の間の蜜月は次なる動乱の序曲となった。
「Perplexity」で事変の概要や画像を参照
将軍義昭将軍宣下(1568年)- 室町幕府再興の光と影、その軌跡の徹底分析
序章:権威の失墜と再興への渇望
永禄11年(1568年)10月18日、足利義昭が征夷大将軍に任ぜられた事変は、単なる一人の将軍の誕生を意味するものではなかった。それは、永禄の変(1565年)によって時の将軍足利義輝が弑逆され、中央権力が完全に真空化した戦国乱世の日本において、崩壊した「公的秩序」を再建しようとする一大政治プロジェクトの頂点であった 1 。この将軍宣下は、流浪の身であった足利義昭の執念と、尾張・美濃を平定し「天下布武」を掲げる織田信長の野心が交錯した歴史的瞬間であり、室町幕府の最後の輝きと、その終焉への序曲を同時に奏でるものであった。
将軍義輝の死は、室町幕府の権威がもはや理念上の存在に過ぎず、実質的な武力によっていつでも覆されうるという冷厳な事実を天下に知らしめた。これにより、「将軍」という存在は、強力な軍事的庇護者なしには存立し得ないことが証明されたのである 2 。この痛烈な教訓こそが、兄の非業の死を目の当たりにした義昭の行動原理を形成した。彼にとって幕府再興とは、三好・松永連合を凌駕する圧倒的な「実力」を持つ軍事的天才をパートナーとして見つけ出すことに他ならなかった。この構造的必然性が、義昭を信長へと導き、1568年の将軍宣下という歴史的帰結を準備したのである。
本報告書は、この「将軍義昭将軍宣下」という事変を、その前史である永禄の変から説き起こし、義昭の流浪、対立候補であった足利義栄の擁立、信長との同盟成立、そして破竹の上洛戦を経て、新政権樹立後の最初の試練に至るまでを、可能な限りリアルタイムな時系列に沿って徹底的に分析・詳述するものである。それは、一人の将軍の復活劇であると同時に、旧時代の権威と新時代の武力が結びつき、やがて相克する、戦国時代の一大転換点を解き明かす試みである。
「将軍義昭将軍宣下」関連年表(永禄8年~永禄12年)
年月 |
主要な出来事 |
関連人物 |
永禄8年 (1565) |
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5月19日 |
永禄の変。 第13代将軍足利義輝、二条御所にて三好三人衆・松永久通らに討たれる 2 。 |
足利義輝、三好三人衆、松永久秀 |
7月 |
一乗院覚慶(後の義昭)、奈良を脱出。近江へ向かう 4 。 |
足利義昭、細川藤孝 |
永禄9年 (1566) |
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9月 |
足利義栄、三好三人衆に擁立され摂津へ渡海 5 。 |
足利義栄、三好三人衆、篠原長房 |
永禄10年 (1567) |
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11月 |
足利義秋(義昭)、若狭を経て越前一乗谷の朝倉義景を頼る 6 。 |
足利義昭、朝倉義景 |
永禄11年 (1568) |
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2月8日 |
足利義栄、摂津にて将軍宣下を受け、第14代将軍に就任 5 。 |
足利義栄、三好三人衆 |
4月 |
義秋、一乗谷にて元服し「義昭」と改名 7 。 |
足利義昭、朝倉義景 |
7月 |
義昭、朝倉氏のもとを去り、美濃の織田信長と会見。同盟が成立 6 。 |
足利義昭、織田信長、明智光秀 |
9月7日 |
信長、義昭を奉じて岐阜城を出陣。上洛戦を開始 9 。 |
織田信長、足利義昭 |
9月12日 |
観音寺城の戦い。 箕作城が一夜で陥落。六角氏が敗走 9 。 |
織田信長、六角義賢・義治 |
9月26日 |
信長・義昭、入京を果たす 10 。 |
織田信長、足利義昭 |
10月18日 |
義昭、将軍宣下を受け、第15代将軍に就任 10 。 |
足利義昭、正親町天皇 |
10月 |
足利義栄、阿波にて病死 5 。 |
足利義栄 |
永禄12年 (1569) |
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1月5日 |
本圀寺の変。 三好三人衆が義昭の仮御所を襲撃するも、明智光秀らの奮戦により撃退 12 。 |
足利義昭、三好三人衆、明智光秀 |
1月14日 |
信長、「殿中御掟」9か条を提示。義昭がこれを承認 14 。 |
織田信長、足利義昭 |
第一部:将軍不在の時代 - 京を巡る二つの血脈
第一章:剣豪将軍の非業の死 - 永禄の変(1565年5月19日)
永禄8年(1565年)5月19日未明、京の二条御所は静寂を破る不穏な空気に包まれていた。三好義継、三好三人衆(三好長逸、三好宗渭、岩成友通)、そして松永久秀の子・久通らが率いる約1万の軍勢が、「将軍に訴訟あり」と偽って御所を包囲したのである 1 。当初、三好側は交渉による威圧を意図していた可能性も指摘されている。宣教師ルイス・フロイスの記録によれば、三好義継が率いる兵の多さに義輝が猜疑心を抱き、会見を拒否したことが事態を悪化させたとされる 15 。交渉が決裂し戦闘へ突入すると 16 、御所の守りはわずか200名程度であり、多勢に無勢であった 2 。
しかし、第13代将軍・足利義輝は、ただ死を待つ人物ではなかった。剣豪・塚原卜伝より奥義「一之太刀」を伝授されたと伝わる「剣豪将軍」は、自ら薙刀を振るい、所蔵の名刀の数々を畳に突き立て、刃こぼれするたびに新しい刀に替えながら獅子奮迅の戦いを見せた 1 。その壮絶な抵抗は、襲撃者たちを恐怖させたが、数の差は覆しがたい。敵兵が四方から槍で同時に突きかかり、脛を払われ転倒したところを襖で押さえつけられ、その上から無数の槍で刺されて絶命した。享年30 2 。この惨劇の中で、将軍の生母・慶寿院や側室の小侍従殿も殺害され、多くの幕府奉公衆が討死・自害を遂げた 1 。
この事件の動機については諸説あり、未だ定説を見ていない 17 。将軍親政を強化し、三好氏の権力を削ごうとする義輝の動きを排除する目的があったことは確かであろう 2 。しかし、その背後には、三好政権内部の路線対立(義輝との協調路線と強硬路線の対立)や、松永久秀の個人的な野心が複雑に絡み合っていたと考えられる。襲撃者たちの間で、義輝の「殺害」という最終目標が当初から共有されていたかは疑問が残る。現場の混乱や義輝の激しい抵抗が、偶発的に最悪の結果を招いた可能性も否定できない。いずれにせよ、この永禄の変は、計画性と偶発性が入り混じった中で、室町幕府の中央権力を物理的に破壊した。そして、この権力の真空状態こそが、後の三好政権の内部崩壊(三好三人衆と松永久秀の対立)を誘発し、織田信長という新たな秩序の担い手が畿内に介入する絶好の機会を提供する遠因となったのである。
第二章:流浪の公方、足利義昭
兄・義輝の横死の報は、奈良・興福寺一乗院の門跡であった弟・覚慶(後の義昭)のもとにも届いた。三好勢の追手は覚慶にも迫っており、彼の身辺は風前の灯火であった。この窮地を救ったのが、細川藤孝や和田惟政といった旧幕臣たちである。永禄8年(1565年)7月、彼らの手引きにより覚慶は奈良を脱出、還俗して足利義秋(後に義昭)を名乗り、将軍家再興の旗を掲げた 4 。
彼の流浪の旅は、ここから約3年に及ぶ。当初は近江の六角氏を頼ったが、六角氏が三好三人衆と通じていることを察知すると、若狭の武田氏、そして越前の朝倉義景へと庇護者を求めて各地を転々とした 6 。永禄10年(1567年)11月、義昭はついに越前一乗谷に入り、朝倉義景の庇護下に身を置くこととなる 6 。
一乗谷は「北陸の小京都」と称されるほどの繁栄を誇り、義景は義昭を手厚く遇した 18 。義昭は上城戸の外にある安養寺を御所として与えられ、永禄11年4月には朝倉館で元服の儀を執り行い、名を「義昭」と改めている 7 。春には共に南陽寺の糸桜を愛で、歌を詠み交わすなど、表面上は良好な君臣関係が築かれていた 6 。
しかし、義昭は単に庇護を求めるだけの無力な存在ではなかった。彼は自らが持つ「将軍家」という最高の政治的資本を巧みに利用し、能動的な外交活動を展開していた。その最たる例が、長年の宿敵であった朝倉氏と加賀一向一揆との和睦を斡旋し、成立させたことである 6 。これは、義昭が地域紛争に介入し、自らの政治的価値を誇示する能力を持っていたことを証明している。彼の流浪の旅は、単なる逃避行ではなく、自らの権威を現実の軍事力に転換してくれるパートナーを探すための、壮大な政治的プレゼンテーションの旅であったのだ。
だが、肝心の朝倉義景は、義昭の再三の上洛要請に応じようとはしなかった 6 。その理由として、永禄11年6月に嫡男の阿君丸が急死し、後継者を失った義景が政治的意欲を喪失したという個人的事情が挙げられる 6 。しかし、より構造的な問題もあった。当時の戦国大名にとって、領国を長期間空けて大軍を率いて上洛することは、本国の守りが手薄になるという計り知れないリスクを伴う行為であった 6 。義景にとって、義昭は一向一揆との和睦を仲介するなど「利用価値」はあったが、そのために自国の存亡を賭けるほどの義理はなかったのである。この朝倉義景の現実的な判断は、義昭に新たな決断を促すことになる。自らの「権威」を最大限に評価し、それを実現するための「実力」を惜しみなく提供してくれる、旧来の価値観に縛られないパートナーこそが、真に求めるべき相手であると。その答えは、美濃にいた。
第三章:傀儡の将軍、足利義栄
義昭が将軍家再興のために諸国を流浪する一方、畿内では彼と将軍の座を争うもう一人の足利一門が歴史の表舞台に登場していた。義昭の従兄弟にあたる足利義栄である 21 。義栄の父・義維は、かつて「堺公方」と称され、12代将軍・義晴と対立した人物であったが、争いに敗れて阿波(徳島県)の平島に逼塞していた 5 。義栄もまた、阿波で生まれ育ち、一度も京の地を踏んだことのない、中央政界からは忘れられた存在であった 5 。
彼の運命を大きく変えたのが、永禄の変である。当初、義輝を殺害した三好三人衆らは、特定の将軍候補を擁立する計画を持っていなかった可能性が高い 5 。しかし、義昭が反三好勢力の旗頭として台頭し始めると、三好三人衆は対抗上、新たな将軍候補を立てる必要に迫られた。そこで白羽の矢が立ったのが、彼らの本拠地である四国にいた阿波公方の義栄であった。これは、反三好勢力として結集しつつある義昭に対抗するための、後手に回った政治的選択であったと言える 5 。
永禄9年(1566年)9月、義栄は三好三人衆や阿波三好氏の重臣・篠原長房らに擁立され、四国から摂津の越水城に入った 5 。しかし、畿内の戦況は一進一退を続け、すぐには将軍宣下を受けることができなかった。対立候補である義昭が越前の朝倉氏のもとで影響力を増す中、三好方は朝廷への工作を強め、ついに永禄11年(1568年)2月8日、義栄は摂津に滞在したまま将軍宣下を受け、第14代将軍に就任した 5 。
しかし、この義栄政権は、その成立過程からして本質的な脆弱性を抱えていた。それは、室町幕府の歴史上、将軍が一度も本拠地である京都に入ることなく成立した、前代未聞の政権であった 5 。その実態は、幕府というよりも「阿波三好氏の出先機関」であり、畿内における三好氏の軍事行動を正当化するための権威装置に過ぎなかった。この「将軍の空名化」とも言うべき事態は、室町幕府の権威と実態が完全に分離し、その統治機能が完全に空洞化したことを象徴していた。皮肉なことに、この義栄政権の存在自体が、義昭と信長が掲げる「将軍を京都に迎え、幕府を本来の姿に再興する」という大義名分を、より一層正当で魅力的なものとして輝かせる効果をもたらしたのである。伝統的な秩序の回復を望む公家や寺社勢力にとって、信長の上洛は、もはや侵略ではなく「王政復古」の義挙と映ったであろう。
表1:二人の将軍候補比較:足利義昭と足利義栄
項目 |
足利義昭 |
足利義栄 |
血筋(義輝との関係) |
実弟(12代将軍義晴の子) |
従兄弟(義晴の弟・義維の子) |
支持基盤 |
細川藤孝ら旧幕臣、朝倉義景、織田信長 |
三好三人衆、松永久秀(一時)、阿波三好氏(篠原長房) |
行動拠点 |
近江、若狭、越前、美濃 |
阿波、摂津 |
擁立者の意図 |
**(信長)**天下布武のための大義名分 |
**(三好三人衆)**自らの政権を正当化する権威 |
政治的行動力 |
奈良脱出後、自ら諸大名を歴訪。朝倉・一向一揆の和睦を斡旋するなど、能動的に活動。 |
阿波に逼塞しており、三好氏の軍事行動に依存。受動的な立場。 |
結果 |
織田信長をパートナーとし、上洛を果たし第15代将軍に就任。 |
一度も入京することなく将軍となり、信長の上洛により後ろ盾を失い、阿波で病死。 |
第二部:天下布武の号令 - 織田信長の上洛
第四章:美濃での会見 - 野心と同盟の成立(1568年7月)
越前一乗谷で膠着状態に陥っていた足利義昭のもとに、転機が訪れたのは永禄11年(1568年)7月のことであった。2年前に上洛の約束を反故にした織田信長から、再び「上洛のお供をしたい」との使者が届いたのである 6 。この2年間で状況は大きく変化していた。かつて信長の上洛を阻んだ美濃の斎藤龍興は、前年(永禄10年)に信長によって滅ぼされ、美濃は完全に信長の支配下にあった 6 。もはや信長にとって、上洛を妨げるものは南近江の六角氏を残すのみとなっていた。
朝倉義景の上洛が絶望的であると悟った義昭は、この申し出に飛びついた。義景の制止を振り切り、滞在中の礼を厚く述べた書状を残して越前を去ると 7 、明智光秀らの仲介を経て、7月下旬には信長の本拠地である美濃の立政寺(一説に岐阜城)に到着した 6 。ここで行われた会見は、戦国の歴史を大きく動かすものとなる。
この同盟は、双方の利害が完全に一致した結果であった。義昭にとって信長は、兄の仇である三好氏を打倒し、将軍の座を奪還するための、唯一無二の強力な軍事的パートナーであった。一方、美濃を平定し「天下布武」の印を用い始めた信長にとって、義昭は自らの軍事行動を「私戦」ではなく「公儀の回復」という大義名分で正当化するための、最高の政治的権威であった 23 。
こうして成立した同盟は、義昭が持つ「伝統的権威」と、信長が持つ「革新的な実力」の戦略的結合であり、戦国時代の新たな権力モデルの誕生を告げるものであった。しかし、その根底には、見過ごすことのできない目的のズレが当初から存在した。義昭の最終目標は、あくまで伝統的な「室町幕府の再興」であった。対して信長の野心は、幕府の枠組みを超えた、自らの手による「天下統一」にあった。この「同床異夢」の関係こそが、将軍宣下という共通目標を達成した後に両者が袂を分かつ、避けられない運命を決定づけていた。この会見は、蜜月の始まりであると同時に、わずか5年で破綻する悲劇的な関係の幕開けでもあったのである。
第五章:破竹の進撃 - 観音寺城の陥落(1568年9月7日~13日)
永禄11年(1568年)9月7日、義昭を美濃に迎えた織田信長は、満を持して岐阜城から上洛の途についた 9 。その軍勢は織田軍1万5千を中核に、同盟者である三河の徳川家康からの援軍1千、そして北近江の浅井長政の3千も加わり、総勢5万から6万ともいわれる大軍に膨れ上がっていた 9 。彼らの行く手を阻むのは、南近江に君臨する名門守護・六角義賢、義治父子であった。信長は事前に使者を送り、義昭の上洛への協力を求めたが、六角氏は三好三人衆と結んでいたこともあり、これを拒絶した 9 。
9月11日 、織田・浅井連合軍は愛知川の北岸に布陣した 9 。対する六角方は、本城である観音寺城を中心に、その支城である箕作城と和田山城に兵を配置し、織田軍がまず前線の和田山城を攻めてくると予測。そこを本城と箕作城から出撃して挟撃する作戦を立てていた 9 。これは、当時の合戦における常道に則った堅実な防衛計画であった。
しかし、信長の戦術は彼らの常識を遥かに超えていた。 9月12日早朝 、信長は軍を三手に分けると、敵の予測を裏切り、和田山城、観音寺城、そして箕作城の三つを同時に攻撃するという奇策に出たのである 9 。主戦場となったのは、吉田出雲守らが守る箕作城であった。急峻な山城である箕作城の守りは固く、丹羽長秀や木下秀吉(後の豊臣秀吉)が率いる織田軍は激しい抵抗にあい、一時は劣勢に追い込まれた 9 。
だが、戦況が動いたのはその夜であった。木下秀吉は、兵が疲弊しきったその日のうちに夜襲を敢行するという、常識外れの決断を下す。数百本の松明を一斉に灯して城兵の動揺を誘い、その混乱に乗じて総攻撃を仕掛けた 9 。この意表を突いた攻撃に箕作城は持ちこたえられず、わずか一夜にして陥落した 9 。
この報は、六角軍の戦意を根底から打ち砕いた。長期戦を想定していた六角義賢・義治父子は、主力の支城が一日で落ちたことに狼狽し、 9月13日 、ほとんど抵抗することなく本城の観音寺城を捨てて甲賀へと敗走した 9 。和田山城も戦わずして開城し、他の18の支城も次々と降伏した 9 。
観音寺城の戦いは、信長の戦争観の革新性を天下に示す象徴的な戦いであった。旧来の常識に囚われず、敵の意表を突く一点集中と電撃的な速度を重視する。この冷徹な合理性こそが、信長が旧来の名門勢力を圧倒し得た力の源泉であった。この戦い以降、畿内の戦国大名たちは、信長という全く新しいタイプの、そして恐るべき敵と対峙していることを痛感させられることになる。
第三部:再興と新たな秩序の形成
第六章:京への凱旋、そして将軍宣下(1568年9月26日~10月18日)
南近江の六角氏をわずか数日で駆逐した織田信長の軍勢は、もはや無人の野を行くがごとき勢いで京へと迫った。京都を支配していた三好三人衆らは、六角氏のあまりにも早い敗北に動揺し、満足な抵抗もできないままそれぞれの本拠地である摂津や河内へと撤退していった 26 。
永禄11年(1568年)9月26日 、織田信長は足利義昭を奉じ、ついに京の地を踏んだ 10 。義昭は東山の清水寺に、信長は東福寺に陣を構え、畿内の平定は完了した 9 。そして、幕府再興の総仕上げとなる将軍宣下の準備が、朝廷との間で急ピッチで進められた。公家の山科言継の日記『言継卿記』には、義昭が将軍宣下の儀式における装束について言継に相談するなど、当時の慌ただしくも高揚した様子が記録されている 27 。
そして運命の日、 10月18日 、足利義昭は正親町天皇より将軍宣下を受け、室町幕府第15代征夷大将軍に就任した 10 。同時に従四位下、参議・左近衛中将にも叙任され、名実ともに武家の棟梁としての地位を回復したのである 11 。永禄の変から3年5ヶ月、将軍不在という異常事態に終止符が打たれ、足利将軍家はここに再興された。
義昭は、自身が信長の傀儡ではないことを早速行動で示した。将軍就任に非協力的であった関白・近衛前久を罷免し、協力者であった二条晴良を後任に据えるなど、自らの意志に基づいた人事を断行したのである 28 。
一方、この将軍宣下は、後見人である信長にとっても極めて重要な意味を持つ儀式であった。これにより、信長は単なる尾張の成り上がり大名ではなく、室町幕府という「公儀」を再興した最大の功労者という公式の立場を獲得した。この「公的な権威」は、直ちに経済的実利へと転換される。信長はこの立場を背景に、当時自治都市として栄えていた堺の会合衆(有力商人)に対し、矢銭(軍用金)二万貫という巨額の献金を要求した 29 。当初抵抗した堺も、将軍の後見人という信長の武威と権威の前に屈服せざるを得なかった 30 。将軍宣下という儀式は、信長が畿内の経済的支配を確立するための、極めて有効な政治的布石となったのである。権威の獲得が、経済的実利に直結する。信長はこの構造を巧みに、そして冷徹に利用した。
第七章:新秩序の最初の試練 - 本圀寺の変(1569年1月5日)
将軍宣下を見届け、畿内の情勢がおおむね安定したと判断した織田信長は、永禄11年10月下旬、少数の兵を京に残して本国である美濃へと帰国した 13 。美濃平定から日が浅く、領国を長期間空けることへの不安があったためである 13 。しかし、この信長の不在は、京に危険な権力の空白を生み出した。
この機を狙っていたのが、信長に追われ雌伏していた三好三人衆であった。年が明けた 永禄12年(1569年)1月5日 、三好勢は信長に美濃を追われた斎藤龍興らも加え、義昭の仮御所となっていた六条の本圀寺を急襲した 13 。防御機能の乏しい寺院に立て籠もる将軍一行は、まさに風前の灯火であった 34 。
この時、本圀寺の警護にあたっていたのは、細川藤賢ら旧幕臣に加え、明智光秀をはじめとする織田家の家臣たちであった 13 。太田牛一の『信長公記』において、明智光秀が歴史の表舞台に明確に登場するのは、この場面が最初である 34 。寄せ手の大軍に対し、光秀らは奮戦し、三好勢の猛攻を何度も撃退。ついに寺内への侵入を許さないまま、一日を持ちこたえた 34 。
翌6日、急報を受けた三好義継(この時は信長方)、細川藤孝、池田勝正らの援軍が駆けつけると、形勢は逆転。三好三人衆は桂川で敗れ、撤退を余儀なくされた 13 。
この本圀寺の変は、いくつかの重要な事実を明らかにした。第一に、発足したばかりの義昭政権が、信長の軍事力なしにはあまりにも脆弱であること。第二に、信長の後見が、新幕府の存立にとって不可欠であること。そして第三に、明智光秀という有能な指揮官の存在である。この事件における光秀の活躍は、彼が単なる義昭の家臣ではなく、信長からも信頼される軍事指揮官として、両者の橋渡し役を担う重要な存在であったことを示している。しかし、この「両属」という特殊な立場は、将来、信長と義昭の関係が破綻した際に、光秀を深刻なジレンマに陥れる要因ともなった。本圀寺の変は、光秀のキャリアにおける栄光の始まりであると同時に、彼の悲劇的な未来を暗示する、運命的な事件でもあったのである。
八章:見え始めた亀裂 - 「殿中御掟」の制定
本圀寺の変は、足利義昭と織田信長の関係に微妙な変化をもたらした。義昭は自らの政権の脆弱性を痛感し、信長は将軍周辺の統制を強化する必要性を感じた。その結果として結実したのが、事件直後の永禄12年(1569年)1月14日に信長が提示し、義昭が承認した「殿中御掟」九か条、および16日に追加された七か条であった 14 。
この掟は、かつては信長が義昭の権力を一方的に制限し、傀儡化するためのものであったと解釈されてきた 36 。しかし近年の研究では、永禄の変以降、有名無実と化していた幕府の訴訟手続きや殿中の序列を再確認し、その機能を回復させるための、双方の合意に基づく確認事項であったという見方が有力となっている 14 。内容を見ると、「訴訟は正規の手続きを経ずに将軍に直接奏上してはならない」「奉行衆が出した意見を無視して将軍の一存で決めてはならない」といった条文は、幕府の正常化を目指すものと解釈できる 14 。
しかし、その一方で、両者の力関係の変化と、将来の対立の火種もまた、この掟の中に明確に見て取れる。翌永禄13年(1570年)に両者の合意で作成された「五ヶ条の条書」では、さらに踏み込んだ内容が定められた 14 。
- 諸国大名へ御内書(将軍の命令書)を出す際は、必ず信長に報告し、その副状を添えること。
- 天下の平定に関する軍事・外交は、何事につけても信長に一任すること。
これらの条文は、義昭と信長の「共同統治」における役割分担を定めた、いわば契約書であった。すなわち、「儀礼・権威」は将軍義昭が担い、「軍事・実務」は後見人信長が担うという分業体制の確認である。しかし、この契約は「天下静謐(てんかせいひつ、天下の平定)」が達成されるまでという、暗黙の期限付きのものであった。
問題は、その「天下静謐」の定義が、両者で根本的に異なっていたことにある。義昭にとっての「天下静謐」とは、自らが頂点に立つ室町幕府の支配が、再び全国に行き渡ることであった。一方、信長にとってのそれは、旧来の権威や秩序を乗り越え、自らの支配が全国に行き渡ることであった 37 。この根本的な認識の齟齬こそが、やがて契約の破綻、すなわち両者の全面対決へと発展する時限爆弾となったのである。「殿中御掟」は、協力関係の証であると同時に、将来の対立における「法廷闘争」の準備でもあった。両者の関係は、この時点から既に対決の局面を想定した、冷徹な政治的駆け引きの段階に入っていたと言えよう。
結論:束の間の蜜月と、次なる動乱への序曲
永禄11年(1568年)の「将軍義昭将軍宣下」は、3年半にわたる将軍不在の時代に終止符を打ち、形式的には足利将軍家の再興を成し遂げた画期的な出来事であった。それは、戦乱に明け暮れる京に、一時的ではあるが「公儀」という秩序の光を取り戻した。しかし、その光の背後には、濃い影が差し始めていた。
この事変によって生まれた新たな政治体制は、その実態において、織田信長の圧倒的な軍事力を前提とした、極めて不安定な権力構造であった。それは、伝統的権威の継承者である将軍・足利義昭と、旧来の秩序を破壊する革新的な実力者・織田信長という、本来相容れない二つの力が「幕府再興」という共通の目的の下で結びついた、束の間の蜜月に過ぎなかった。
将軍宣下はゴールではなく、新たな闘争のスタート地点であった。義昭は自らを頂点とする幕府秩序の復活を目指し、信長は自らの「天下布武」の実現を目指す。両者の目的が重なるのは「上洛」という一点のみであり、その目的が達成された瞬間から、両者の道は必然的に分かれていく運命にあった。「殿中御掟」や「五ヶ条の条書」は、その亀裂を糊塗するための協力の証文であると同時に、互いの権力闘争における牽制の具でもあった。
やがて義昭は、信長の力が強大化することに危機感を抱き、朝倉義景、浅井長政、武田信玄、石山本願寺といった反信長勢力に御内書を送り、自ら「信長包囲網」の触媒となっていく 37 。これは義昭にとって幕府の権威を守るための正当な行動であったが、信長にとっては「五ヶ条の条書」に違反する明白な裏切り行為であった 39 。
かくして、「将軍義昭将軍宣下」によって生まれた「将軍・義昭」と「実力者・信長」という二元的な権力構造は、必然的に「信長包囲網」という全国規模の動乱を引き起こすことになる 39 。1568年の京への凱旋は、室町幕府再興の祝祭であると同時に、その幕府を事実上滅亡させることになる、次なる大動乱への壮大な序曲だったのである。
引用文献
- 足利義輝の歴史 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/33457/
- 壮絶!剣豪将軍・足利義輝の最期 | WEB歴史街道|人間を知り、時代を知る https://rekishikaido.php.co.jp/detail/3896
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