将軍義晴一時帰京(1530)
享禄三年、細川高国と足利義晴は京都奪還を目指し摂津へ侵攻。義晴は坂本へ動座し東西から圧力をかけたが、翌年の大物崩れで高国が敗死。義晴の帰京は果たせず、畿内は新たな権力闘争へ。
「Perplexity」で事変の概要や画像を参照
享禄三年 将軍足利義晴「一時帰京」の真相:京都奪還作戦の時系列分析と歴史的意義
序章:追放将軍と堺公方 ― 享禄三年(1530年)に至る畿内の権力構造
享禄三年(1530年)に記録される「将軍義晴一時帰京」という事変は、単に将軍が京都へ戻ろうとした一時的な出来事として語られるべきではない。これは、応仁の乱以降、分裂と抗争を続けた畿内において、室町幕府の「正統性」を巡る二つの対立政権が雌雄を決しようとした、大規模な軍事作戦のクライマックスに向けた序章であった。この事変の全貌を理解するためには、まず、その背景にある複雑に絡み合った権力構造を解き明かす必要がある。
「両細川の乱」の根源
全ての始まりは、管領・細川政元の暗殺事件「永正の錯乱」(1507年)に遡る 1 。政元には実子がおらず、澄之、澄元、高国という三人の養子を迎えていたが、彼の死をきっかけに、この三者による壮絶な家督争いが勃発した 2 。この争いは、単なる細川京兆家内部の内紛に留まらなかった。各々が自らの正統性を担保するために足利将軍家の後継者争いに介入し、一方を担げばもう一方が対立候補を擁立するという代理戦争の様相を呈したのである 3 。細川高国は10代将軍・足利義稙(よしたね)と結び、澄元は11代将軍・足利義澄(よしずみ)を奉じるなど、畿内全土を巻き込む二十年以上にわたる大乱、すなわち「両細川の乱」へと発展していった 5 。
桂川原の戦い(1527年)と権力図の転換
長きにわたる抗争の大きな転換点となったのが、大永七年(1527年)2月に京都で発生した桂川原の戦いであった 7 。この戦いで、管領・細川高国と彼が擁立した12代将軍・足利義晴の連合軍は、澄元の子・細川晴元と、その配下で阿波を本拠とする勇将・三好元長(之長の孫)の軍勢に決定的な敗北を喫した 7 。高国と義晴は命からがら京都を脱出し、近江の守護大名・六角定頼を頼って坂本へと落ち延びた 7 。この敗走が画期的であったのは、単に将軍と管領が都を追われたという事実だけではない。幕府の行政を担う評定衆や奉行衆といった官僚機構までもが将軍に随行して京都から避難したため、首都における室町幕府の統治機能が完全に停止してしまったのである 9 。京都は、権力の空白地帯と化した。
堺公方府の成立
一方、桂川原で勝利を収めた細川晴元と三好元長は、荒廃した京都には入らず、当時、国際貿易港として繁栄し、自治都市として独自の防衛力を持っていた和泉国堺を新たな本拠地とした 3 。そして彼らは、阿波で庇護していた足利義維(よしつな)を擁立する 11 。義維は、かつて晴元の父・澄元が奉じた11代将軍・義澄の子であり、近江に逃れた現将軍・義晴の実の兄弟であった 3 。朝廷から左馬頭(さまのかみ)の官位を得た義維を戴くこの堺の政権は、事実上の対抗政府として機能し始め、「堺公方府」または「堺幕府」と呼ばれることになる 8 。
この結果、日本の中心である畿内には、二つの権力が並立する異常事態が生まれた。一つは、近江にあり、朝廷からの将軍宣下という「形式的な権威」を持つ足利義晴の亡命幕府。もう一つは、堺にあり、畿内の実効支配という「事実上の権力」を握る足利義維の堺公方府である 14 。朝廷は、あくまで現職の将軍である義晴を正統とみなし、官位の昇進なども義晴に対してのみ行っていた 14 。しかし、全国の守護大名への命令権(御内書の発給)は義晴が保持し続けていたものの、畿内における軍事・経済の現実は堺公方府が掌握していた 14 。
したがって、享禄三年(1530年)に始まる高国と義晴の軍事行動は、単なる京都への帰還を目指したものではない。それは、物理的に京都を奪還し、分裂した「事実上の権力」と「形式的な権威」を再び統合することで、どちらの政権が日本の唯一正統な統治者であるかを決定づけるための、避けられない全面衝突への布石だったのである。
表1:主要登場人物相関図(享禄三年時点)
勢力 |
主要人物 |
役職・立場 |
主要な関係性 |
将軍家(亡命幕府) |
足利 義晴 |
第12代 征夷大将軍 |
細川高国に擁立され近江に亡命。六角定頼の庇護下にある。 |
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足利 義維 |
堺公方(将軍候補) |
義晴の兄弟。細川晴元・三好元長に擁立される。 |
細川京兆家(高国派) |
細川 高国 |
前管領 |
桂川原で敗北後、再起を図る。浦上村宗と同盟。 |
細川京兆家(晴元派) |
細川 晴元 |
細川京兆家当主 |
堺公方府の中心人物。高国とは家督を巡る仇敵。 |
三好氏 |
三好 元長 |
晴元の有力家臣 |
阿波の軍勢を率いる勇将。堺公方府の軍事的主柱。 |
浦上氏 |
浦上 村宗 |
備前守護代 |
主家・赤松氏を凌ぐ実力者。高国の権威を利用し播磨統一を狙う。 |
赤松氏 |
赤松 政祐 |
播磨守護 |
父を村宗に殺害された恨みを持ち、復讐の機会を窺う。 |
六角氏 |
六角 定頼 |
近江守護 |
亡命中の将軍義晴を庇護。幕政に強い影響力を持つ。 |
第一章:反攻の狼煙 ― 京都奪還作戦の始動
桂川原での敗戦から三年の月日が流れた。細川高国は、管領としての権威を完全に失墜させ、支援を求めて近江、伊賀、伊勢などを流浪するも、味方する勢力はほとんどいなかった 5 。しかし、享禄三年(1530年)、彼は二つの好機を捉え、劇的な反攻作戦を開始する。それは、強力な軍事同盟の成立と、敵陣営の内部崩壊であった。
雌伏する高国と浦上村宗の野心
雌伏の時を過ごす高国に手を差し伸べたのが、備前国の守護代でありながら、主君である播磨守護・赤松氏を凌ぐ実力者であった浦上村宗である 5 。村宗は、主君・赤松義村を幽閉・暗殺し、播磨一国の完全掌握を目論む野心家であった 6 。しかし、下克上を完遂するには、それを正当化するための「大義名分」が不可欠であった。一方、高国は「前管領」という最高の権威を持ちながら、それを現実の力に変えるための軍事力を失っていた。ここに両者の利害が完全に一致する。村宗は高国の権威を借りて播磨統一を成し遂げ、高国は村宗の強力な軍事力を得て京都奪還を目指す。この戦略的同盟は、来るべき反攻作戦の原動力となった。
堺公方府の内訌:柳本賢治の暗殺
高国に千載一遇の好機をもたらしたもう一つの要因は、敵である堺公方府の内部で発生した深刻な亀裂であった。政権を主導する細川晴元の下で、軍事の双璧をなしていた三好元長と柳本賢治の間に対立が先鋭化していたのである 18 。元長が阿波以来の譜代の将であるのに対し、賢治は丹波の国人出身であり、両者の間には主導権を巡る根深い確執があった。
そして享禄三年(1530年)6月、この対立は突如として衝撃的な結末を迎える。柳本賢治が播磨へ遠征中、何者かの手によって暗殺されたのである 18 。この事件の黒幕が誰であったかは定かではないが、堺公方府が有力な武将を失い、軍の指揮系統に大きな混乱が生じたことは間違いない。
高国と村宗がこの好機を逃すはずはなかった。彼らが摂津への侵攻を開始したのは、賢治暗殺のわずか2ヶ月後、同年8月のことである 16 。この時間的な近接性は、単なる偶然とは考え難い。高国は、敵陣営の内部対立という情報を的確に掴み、柳本賢治の死によって生じた権力の真空と軍事的な隙を突いて、満を持して行動を起こしたのである。1530年の京都侵攻は、高国の周到な外交戦略と、敵方の内紛という幸運が重なり合った、極めて計算されたタイミングで開始された戦略的行動であった。
第二章:享禄三年の軍事行動 ― 京都への進撃と将軍の動座(リアルタイム解説)
享禄三年(1530年)夏、細川高国と浦上村宗による京都奪還作戦が開始された。この一連の軍事行動こそが、後世に「将軍義晴一時帰京」と記録される事変の核心である。しかし、その実態は、将軍が安穏と都に戻るような政治的セレモニーでは断じてなく、畿内の覇権を賭けた熾烈な軍事作戦そのものであった。ここでは、当時の状況を時系列で追い、リアルタイムの戦況報告の形で解説する。
【1530年夏(6月~8月)】摂津侵攻と戦線の構築
- 6月: 堺公方府の有力武将・柳本賢治が播磨にて暗殺される 18 。これにより、堺公方軍の西方面における軍事力が一時的に低下し、高国派にとって絶好の機会が生まれる。
- 7月: 浦上村宗が、長年の宿願であった播磨国の統一を達成 17 。これにより、後顧の憂いなく、全軍を東の摂津方面へ投入できる体制が整う。
- 8月: 細川高国・浦上村宗連合軍が、播磨から摂津国へ侵攻を開始。西宮の神呪寺(かんのうじ)などに陣を敷き、京都へ向かう主要な街道を抑える動きを見せる 18 。これは、京都を西から圧迫し、堺公方府の主力を引きつけるための明確な軍事行動であった。
【1530年8月】将軍の動座と京都への圧力
高国・村宗連合軍の摂津侵攻に呼応し、東方でも大きな動きがあった。亡命先の近江朽木谷(現在の滋賀県高島市)に留まっていた将軍・足利義晴が、庇護者である近江守護・六角定頼と共に、より京都に近い坂本(現在の大津市)へと陣を移したのである 16 。
この「動座」こそが、「一時帰京」と称される行動の正体である。義晴はこの時点で京都の土を踏んではいない。彼の目的は、物理的に帰還することそのものではなく、高国軍と連携して京都を東西から挟撃する態勢を構築することにあった。軍事戦略の観点から見れば、西の摂津と東の近江に敵対勢力が布陣することは、京都にいる堺公方府にとって致命的な脅威となる。補給路を遮断され、挟撃される危険に常に晒されるからである。義晴の坂本への移動は、堺公方府の主力を京都周辺に釘付けにし、戦略的に孤立させるための軍事的な布石であり、政治的な帰還パフォーマンスではなかった。この東西からの圧力によって、堺公方府を交渉のテーブルに着かせるか、あるいは総攻撃によって一気に殲滅することを目指した、壮大な包囲作戦の一環であった。
【1530年秋~冬】戦線の膠着
東西からの挟撃態勢を整えた高国・義晴連合軍であったが、作戦は当初の思惑通りには進まなかった。堺公方府側も、三好元長を中心に迅速に迎撃態勢を固め、京都周辺の防備を強化した。高国軍は摂津において堺公方軍と対峙し、一進一退の攻防を繰り広げるも、決定的な勝利を掴むには至らず、戦線は膠着状態に陥った 17 。
この膠着の原因としては、堺公方側の抵抗が予想以上に強固であったことに加え、高国・村宗連合軍もまた、長期にわたる遠征を支える兵站能力に限界があった可能性が考えられる。電撃的な短期決戦で京都を奪還するというシナリオが崩れたことで、戦いは消耗戦の様相を呈し始める。この時間の経過が、翌年に訪れる破局の伏線となっていくのである。
表2:享禄三年(1530年)主要関連年表
月 |
高国・義晴派の動向 |
晴元・義維派(堺公方府)の動向 |
その他の主要動向 |
1月 |
将軍・足利義晴、権大納言に昇進(於:近江朽木谷) 16 。 |
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6月 |
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柳本賢治、播磨遠征中に暗殺される 18 。堺公方軍に動揺が走る。 |
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7月 |
浦上村宗、播磨国を統一 17 。 |
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8月 |
細川高国・浦上村宗連合軍、播磨より摂津へ侵攻。神呪寺などに布陣 18 。 |
三好元長らが迎撃体制を固める。 |
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将軍・足利義晴、六角定頼と共に近江朽木谷から坂本へ移動 16 。 |
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9月~12月 |
摂津において戦線が膠着。京都奪還は果たせず、年を越す。 |
京都周辺の防衛を固め、高国軍の進撃を阻止。 |
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第三章:盤上の駆け引き ― 周辺勢力の思惑と調略
享禄三年(1530年)の畿内の戦局は、高国派と晴元派という二大勢力の直接対決だけで動いていたわけではない。その周辺には、戦況の帰趨を左右しうる有力大名たちが存在し、彼らの思惑と行動が水面下で複雑な駆け引きを生んでいた。特に、味方の中に潜む「裏切り」の芽と、期待された援軍の「不在」は、高国の京都奪還作戦に暗い影を落としていた。
復讐の機会を窺う赤松政祐
播磨守護の赤松政祐(あかまつ まさすけ、後の晴政)は、この戦いにおいて最大の不確定要素であった。名目上、彼は高国派の援軍として摂津に兵を進めることになる 17 。しかし、その胸中には、父・赤松義村を死に追いやった浦上村宗に対する、消えることのない憎悪と復讐心が渦巻いていた 17 。高国がその仇敵である村宗と手を結んだ時点で、政祐の裏切りは半ば運命づけられていたと言える。
彼は決して無策ではなかった。水面下で堺公方の足利義維と密かに接触し、人質を送って内応を確約していたのである 17 。享禄三年の時点では、彼はまだ表立って行動を起こさなかった。高国・村宗連合軍と三好元長率いる堺公方軍が互いに疲弊し、自らの裏切りが最も効果的になる瞬間を、冷静に待ち続けていたのである。高国と村宗にとって、赤松政祐は頼れる援軍であると同時に、いつ爆発するとも知れぬ時限爆弾を自軍の背後に抱え込んでいるに等しい状態であった。
介入しない大国・越前朝倉氏
一方、当時の畿内周辺で屈指の軍事力を誇ったのが、越前国(現在の福井県)を支配する朝倉氏であった。名将・朝倉宗滴(そうてき、教景)に率いられた朝倉軍は、もし高国・義晴派に加勢すれば、戦局を一気に傾けるだけの力を持っていた 21 。幕府の要請に応じて度々畿内へ出兵した実績もあり 22 、高国側からの期待も大きかったと推測される。
しかし、この重要な局面で朝倉氏は動かなかった。その最大の理由は、彼らの主たる関心が、国境を接する加賀国(現在の石川県南部)の一向一揆勢力の抑え込みに注がれていたためである 23 。かつて宗滴は、30万とも号する一向一揆の大軍をわずか1万余の兵で打ち破るという離れ業を演じたが(九頭竜川の戦い)、その脅威は常に存在し続けていた 21 。朝倉氏にとって、遠い畿内の覇権争いに介入するよりも、自国の存亡に直結する北陸の防衛が最優先課題であった。
このように、1530年の戦局は、一見すると高国派が優勢に進めているように見えながら、その実態は極めて不安定な均衡の上に成り立っていた。強力な同盟者である浦上村宗の存在そのものが、赤松政祐の裏切りを誘発する最大の要因となり、また、戦局を決定づけるはずの外部勢力(朝倉氏)からの支援は得られなかった。この「裏切りのリスク」と「外部支援の欠如」という二つの構造的欠陥は、戦線の膠着を生み、翌年の破局へと繋がる必然的な道筋を形作っていたのである。
第四章:破局への道程 ― 大物崩れ(1531年)
享禄三年(1530年)の膠着状態は、年が明けても続いた。しかし、この均衡は長くは続かない。高国派が仕掛けた乾坤一擲の攻勢は、味方による史上稀に見る裏切りによって、完全な破局へと転落する。1530年に始まった京都奪還作戦の悲劇的な結末、それが享禄四年(1531年)の「大物崩れ(だいもつくずれ)」であった。
戦線の再燃と一時的な京都奪回
享禄四年三月、高国・村宗連合軍は再び攻勢に出る。3月6日には摂津の要衝・池田城を攻略 17 。この動きに呼応するかのように、翌7日、京都を警護していた堺公方派の武将・木沢長政が突如として軍を撤退させた。これにより、高国軍は一時的にではあるが、念願の京都奪回に成功する 17 。しかし、これは堺公方側が敵を深部に誘い込むための戦略的後退であった可能性も否定できない。事実、堺公方府の主力、三好元長率いる1万5千の軍勢と、阿波から渡海してきた細川持隆の援軍8千は、摂津中嶋に布陣し、決戦の時を待っていた 17 。
決戦・大物崩れ(1531年6月4日)
摂津中嶋と天王寺周辺を舞台に、両軍は一進一退の攻防を続けていた。そして6月2日、播磨から赤松政祐が「援軍」として西宮に着陣する 17 。高国と村宗は、この援軍の到着を勝利への決定打と信じ、直々に陣中見舞いに訪れたという。
しかし、運命の6月4日、事態は誰もが予想しなかった方向へ急転する。神呪寺に布陣していた赤松政祐の軍勢が、突如として高国・村宗連合軍の背後を襲撃したのである 17 。父の仇を討つという長年の宿願を果たすため、政祐は最も効果的なタイミングで牙を剥いた。この裏切りに呼応し、正面で対峙していた三好元長の主力軍も一斉に総攻撃を開始した 2 。
完全に意表を突かれ、前後から挟撃された高国・村宗連合軍は、なすすべもなく総崩れとなった。浦上軍に従っていた兵士たちの中からも、旧主である赤松方へ寝返る者が続出し、混乱は瞬く間に全軍へと広がった 17 。
高国・村宗の最期
この地獄のような戦場で、浦上村宗は宿老の島村貴則ら主だった部将と共に討死を遂げた 17 。一方、細川高国は辛うじて戦場を離脱。近くの大物城(現在の兵庫県尼崎市大物町)へ逃れようとするが、既に城は赤松方の手に落ちていた 5 。追いつめられた高国は、尼崎の町にあった京屋という藍染屋に逃げ込み、藍瓶の中に身を隠したとされる 17 。
しかし、執拗な捜索の末、翌6月5日に三好一秀によって捕縛される 5 。そして6月8日、仇敵・細川晴元の命により、尼崎の広徳寺で自害させられた。享年48 17 。ここに、永正の錯乱から始まった細川政元の三人の養子(澄之、澄元、高国)は、全員が歴史の舞台から姿を消し、二十年以上にわたった「両細川の乱」は一つの区切りを迎えた。1530年に始まった京都奪還作戦は、主導者たちの死という最悪の形で幕を閉じたのである。
この戦いは、高国が最期を迎えた地名と、畿内の大権力者が一瞬にして崩れ落ちた様相から、「大物崩れ」と呼ばれるようになった。
結論:果たされなかった帰京 ― 1530年の軍事行動が残したもの
享禄三年(1530年)の「将軍義晴一時帰京」は、その名称が示唆するような穏やかな出来事ではなく、畿内の覇権を賭けた大規模な軍事作戦であった。そして、その作戦は翌年の「大物崩れ」という破滅的な敗北によって、完全な失敗に終わった。この一連の出来事は、単に細川高国という一人の権力者の没落を意味するだけでなく、その後の畿内の政治情勢を大きく規定し、逆説的に数年後の将軍義晴の「真の帰京」へと繋がる道筋を準備したという点で、極めて重要な歴史的意義を持つ。
「一時帰京」の再評価
本報告書で詳述した通り、1530年の事変は成功した「帰京」ではなく、頓挫した「京都奪還作戦」と評価するのが妥当である。しかし、それは同時に、桂川原の戦いで壊滅的な打撃を受けた高国派が、なおも畿内の覇権を争うだけの政治力と軍事力を再結集し得たことを示す、最後の輝きでもあった。この作戦の失敗と高国の死によって、細川京兆家の家督を巡る「両細川の乱」は、晴元派の勝利という形で事実上終結した。
堺公方府の権力絶頂と新たな火種
高国という最大の対抗勢力を排除したことで、細川晴元と三好元長が主導する堺公方府は、権力の絶頂期を迎えた 26 。しかし、皮肉なことに、この絶対的な勝利が、政権内部の新たな対立の火種を生むことになる。「高国打倒」という共通の目標を失ったことで、主君である晴元と、大物崩れで最大の軍功を挙げた元長との間にあった協力関係は、権力闘争へと変質していった 3 。強大な実力を持つ元長の存在を、晴元が次第に疎ましく思うようになったのである 1 。この亀裂は、後に晴元が本願寺の一向一揆を扇動して元長を自害に追い込むという、さらなる内乱へと発展していく 1 。
将軍義晴のさらなる流浪と真の帰京への道
一方、大物崩れによって最大の後ろ盾であった高国を失った将軍・足利義晴は、絶望的な状況に立たされた。彼は近江国内をさらに流浪し、観音寺城山麓の桑実寺などに身を寄せることを余儀なくされる 10 。もはや軍事力による京都帰還は完全に不可能となった。
しかし、歴史の力学は予測不能な展開を見せる。敵であった堺公方府が、晴元と元長の対立によって内部分裂を起こしたことで、義晴の存在価値が逆説的に高まったのである。三好元長という強力な軍事指導者を排除した細川晴元は、自らの政権の正統性を補強し、安定させるための新たな権威を必要とした。その時、彼が目をつけたのが、誰もが認める「正統な将軍」である足利義晴であった。
高国という軍事的な後ろ盾を失った義晴は、晴元にとって、もはや脅威ではなく、むしろ自らの権威を飾るための「御しやすい神輿」として映った。結果として、天文三年(1534年)、細川晴元はかつての敵である足利義晴と和睦を結び、彼を京都に迎え入れるという政治的決断を下す 16 。
結論として、1530年の軍事作戦の失敗は、高国という軍事力を背景とした「力の政治」の時代の終わりを告げた。そして、その失敗が生んだ畿内の新たな権力闘争が、結果的に、晴元による「権威の政治」への転換を促し、義晴の政治的解決による「真の帰京」という、全く異なる形の結末を用意したのである。果たされなかった1530年の帰京は、四年後の現実の帰京へと繋がる、不可欠な序章であったと言えるだろう。
引用文献
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- 細川晴元は何をした人?「将軍を追い出して幕府にかわって堺公方府をひらいた」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/harumoto-hosokawa
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