最終更新日 2025-09-17

将軍義稙再出奔(1521)

大永元年、将軍足利義稙は管領細川高国との対立から京都を出奔。天皇即位式を放棄し、高国に新将軍擁立の大義名分を与えた。堺・淡路での再起も叶わず、阿波で客死。室町幕府の権威失墜を象徴した。
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将軍義稙再出奔(大永元年)の真相:権力闘争の力学と室町幕府の黄昏

序章:大永元年の京都

大永元年(1521年)、春まだ浅い京都は、静謐な都の貌の裏に、抜き差しならぬ政治的緊張を孕んでいた。応仁・文明の乱以降、室町幕府の権威は地に堕ち、将軍は名目上の最高権力者として君臨するものの、その実権は管領、とりわけ細川京兆家の当主によって壟断される状況が常態化していた 1 。この時代の権力構造を理解する上で、二人の人物の相克を避けて通ることはできない。一人は、第十代将軍・足利義稙。そしてもう一人は、管領・細川高国である。

足利義稙は、戦国時代の将軍の中でも類を見ない数奇な運命を辿った人物である。かつて「明応の政変」(1493年)において、時の管領・細川政元によって将軍の座を追われ、長きにわたる流浪の生活を余儀なくされた 2 。しかし、彼は不屈の意志を以て再起を期し、周防の大大名・大内義興という強力な後ろ盾を得て上洛。永正五年(1508年)、実に十五年ぶりに将軍職へと返り咲くという奇跡を成し遂げた 2 。この苦難の経験は、義稙に傀儡であることを拒絶し、将軍自らが政務を執る「将軍親政」への強い渇望を植え付けた。しかし、その権力基盤は常に大内義興や細川高国といった有力守護大名の軍事力に依存しており、本質的に脆弱なものであった 4

一方の細川高国は、細川政元の養子の一人として、熾烈な家督争い「両細川の乱」を勝ち抜くために義稙を将軍として擁立した人物である 5 。当初、両者の関係は、共通の敵(対立する細川澄元派)を打倒するための協力関係にあった。高国は義稙を担ぐことで自らの正統性を担保し、義稙は高国の軍事力を利用して将軍の座を確保したのである。しかし、一度京都に安定した政権が樹立されると、両者の間に潜在していた根本的な対立が顕在化し始める。将軍としての権威を最大限に行使し、幕政の主導権を握ろうとする義稙と、管領として実権を掌握し続けようとする高国。両者の思惑は、必然的に衝突の道を歩むこととなる 4 。大永元年の将軍再出奔という未曾有の事態は、この根深い対立構造が、ある事象をきっかけに臨界点に達した結果に他ならなかった。

第一章:前兆:崩壊する権力均衡(永正十五年~永正十七年)

義稙と高国の間に保たれていた危うい均衡が崩壊し、破局へと至るまでには、約三年にわたる伏線が存在した。その発端は、義稙政権の最大の安定装置が失われたことにあった。

決定的な転換点:大内義興の周防帰国(永正十五年・1518年)

永正十五年(1518年)八月、義稙を支える最大の軍事柱石であった大内義興が、管領代の職を辞して本国周防へと帰国した 4 。領国における尼子氏の台頭など、喫緊の課題に対応するためであったが、この出来事が中央政局に与えた影響は計り知れない。義興は、義稙と高国の間に立ち、両者を調停し、また圧倒的な軍事力で政権を安定させる重石の役割を果たしていた 6 。その重石が失われたことで、京都の権力バランスは一挙に流動化する。高国は最大の軍事的後ろ盾を失い、一方で親政への意欲を燃やす義稙は、これを高国を掣肘し、幕政の実権を奪う好機と捉えたのである 8

反対勢力の再蜂起と畿内戦乱の再燃

大内義興の不在は、雌伏の時を過ごしていた反高国勢力にとっても絶好の機会であった。義興の帰国翌年、永正十六年(1519年)、高国との家督争いに敗れて阿波に逼塞していた細川澄元が、その腹心である猛将・三好之長と共に摂津に上陸。反攻の狼煙を上げた 6 。澄元・三好軍は、高国方の瓦林正頼が守る越水城を攻略するなど(越水城の合戦)、瞬く間に畿内西部に勢力を拡大。京都に再び戦乱の暗雲が垂れ込めた 6

将軍の裏切りと高国の窮地(永正十七年・1520年)

畿内の戦乱が激化する中、将軍義稙は驚くべき行動に出る。永正十七年(1520年)二月、細川高国は摂津尼崎の戦いで澄元・三好連合軍に大敗を喫し、僅かな手勢と共に京都へと敗走した 4 。窮地に陥った高国は、義稙に対し、一旦近江へ退いて再起を図りたいと願い出る。しかし、義稙はこれを冷徹に拒絶した。この時、義稙は既に高国を見限り、敵であるはずの細川澄元と水面下で通じていたのである 4

澄元側から恭順を誓う書状を受け取った義稙は、あろうことか、澄元に対して高国討伐を命じる御内書(将軍の命令書)を発給する 4 。これは、自らを将軍の座に復帰させた最大の功労者の一人であり、現政権の軍事的中核である管領を、敵対勢力に討伐させるという前代未聞の政治的賭博であった。義稙の狙いは、若年の澄元を新たな管領に据えることで、自身が幕政の実権を完全に掌握することにあったと推察される 4 。将軍という最高の権威を背景に、高国と澄元の両勢力を天秤にかけ、自らの親政を実現しようとしたのである。

高国の逆転勝利:等持院の戦い(同年五月)

将軍にまで見捨てられ、絶体絶命の窮地に立たされた高国であったが、彼はここで驚異的な粘りを見せる。義稙の許しを得られぬまま京都を脱出した高国は、近江へと逃れる。そして、近江守護・六角定頼に支援を要請し、その承諾を取り付けることに成功した 11 。この六角氏の動向こそ、当時の政治力学の変化を象徴するものであった。かつては周防の大内氏という遠国の大大名の介入が中央政局を左右したが、その不在の隙を埋めたのは、京都に隣接する近江の六角氏という畿内近国の実力者だったのである。中央の権力闘争の帰趨が、京都周辺の地域大名の判断一つで決まる時代の到来を告げていた。

六角氏の強力な援軍を得た高国は、同年四月には坂本に陣を構え、五月には京都へ向けて進軍を開始 11 。五月五日、京都郊外の等持院において、三好之長率いる澄元軍と激突した。この「等持院の戦い」で高国・六角連合軍は劇的な勝利を収め、三好之長は敗走する 11 。この一戦により、高国は奇跡的な復活を遂げ、京都の実権を再び掌握した。一方で、高国を裏切った義稙は、最も敵に回してはならない相手を、勝利者として京都に迎え入れるという最悪の事態に直面することになった。彼の政治的立場は、この瞬間、完全に破綻したのである。将軍の御内書という権威が、六角氏の援軍という「実力」の前に無力と化したこの一連の出来事は、将軍権威の形骸化と、実力主義が支配する戦国の世の現実を冷徹に映し出していた。

第二章:大永元年三月:将軍、京を辞す

等持院の戦い以降、京都の政情は、仮初めの静けさの裡に、いつ爆発してもおかしくない極度の緊張を湛えていた。将軍・足利義稙と管領・細川高国は、同じ都にありながら、もはや修復不可能な敵対関係にあった 4 。高国は自らを裏切った将軍を警戒し、義稙はその専横に憤りを募らせる。義稙の側近である畠山順光(式部少輔)らが、反高国の感情を煽っていたことも、事態を一層悪化させた 13 。そして大永元年(1521年)三月、義稙はついに最後の手段に打って出る。

【時系列分析】三月七日夜:出奔決行

三月七日の夜、義稙は密かに京都の御所を抜け出した。この脱出行に付き従ったのは、腹心の畠山順光をはじめ、西郡杉原四郎、下津屋修理といったごく少数の側近、そして斎藤基躬ら一部の奉行人のみであった 13 。ここで注目すべきは、誰が彼を見捨てたかである。幕府の行政・財政を司る政所頭人・伊勢貞忠をはじめ、幕府官僚機構の中核を担う人々のほとんどは京都に留まり、義稙と行動を共にしなかった 4 。この事実は、義稙の出奔が、幕府という組織全体の意思を伴ったものではなく、将軍個人の政治的信条に基づく、いわば個人的な暴挙と見なされていたことを物語っている。幕府組織そのものから見放された将軍の孤独な逃避行であった。

【時系列分析】京都から和泉・堺へ

義稙一行が目指したのは、和泉国の堺であった。当時の堺は、会合衆によって治められる自治都市として繁栄を極め、また大陸との交易拠点として富と情報が集積する、一種の治外法権的な空間であった。そして何より、細川澄元派の活動拠点の一つであり、反高国勢力が結集する場所として、義稙にとっては再起を図る上で最も都合の良い場所だったのである 13 。堺から淡路島へ渡る際には、現地の水軍である安宅氏を頼ったとされ、このことからも、彼の出奔がある程度、反高国勢力との連携を前提とした計画的なものであったことが窺える 13

京都の反応:将軍不在という異常事態

義稙の出奔が京都に与えた衝撃は、単なる権力者の逃亡に留まらなかった。彼の行動は、国家の根幹を揺るがす最悪の時期に行われたのである。当時、朝廷では、長年の財政難により延期され続けていた後柏原天皇の即位の大礼が、三月二十二日に執り行われる予定であった 14 。将軍は、この国家最高の儀礼において、宮中を警護し、その威儀を整える最高の責任者である。その将軍が、式典を目前にして職務を放棄し、都から逃亡するという事態は、前代未聞の醜聞であった。

この報に接した後柏原天皇は激怒し、義稙に対する信頼は完全に失墜した 4 。一方で、細川高国はこの千載一遇の好機を逃さなかった。彼は将軍不在の京都の治安を維持し、天皇の即位式における警固の職務を滞りなく遂行した。これにより、高国は朝廷の秩序を守る忠臣としての評価を確立し、天皇からの絶大な信任を得ることに成功したのである 4

新将軍擁立への道

将軍の権力は、軍事力という「実力」と、朝廷から任命されることによる「儀礼的権威(正統性)」という二本の柱によって支えられている。義稙は、等持院の戦いで高国が勝利したことにより、実力という柱を既に失っていた。そして今回、天皇の即位式を放棄したことで、自らの手で儀礼的権威という最後の柱をも投げ捨ててしまった。これは、高国に「朝廷を軽んじる者」という烙印を押す絶好の口実を与える、政治的な自殺行為に等しかった。

高国は、天皇の信任を失い、幕府組織からも見放された義稙はもはや将軍の器ではないとして、その放逐を公然と正当化する大義名分を得た 14 。そして、かつて義稙によって将軍の座を追われた第十一代将軍・足利義澄の遺児である亀王丸(後の足利義晴)を播磨から迎え入れ、新たな将軍として擁立する計画を本格的に始動させる 14 。義稙の出奔は、結果的に高国による将軍の「すげ替え」を、朝廷の秩序を守るための正当な行為として演出させる最良の舞台を提供してしまったのである。

第三章:再起への道:淡路・堺からの策動

都を追われた足利義稙であったが、彼の闘志は未だ衰えていなかった。彼は和泉・堺を経由して淡路島に拠点を定め、そこから執拗に権力奪還の策動を続けることになる。

【時系列分析】淡路島での拠点構築(三月~十月)

淡路に渡った義稙は、ただちに反撃の準備に取り掛かった。出奔からわずか半月後の三月二十五日には、早くも摂津の国人・瓦林在時に対して、京都への帰還(帰洛)に協力するよう命じる御内書を発給している 13 。彼の行動は迅速であった。

さらに五月には、高国討伐の意思を明確に記した軍勢催促状を、近江甲賀の武士である佐治氏などに送付している。この時、紀伊から駆け付けた畠山尚順(卜山)が副状を添えており、義稙が完全に孤立していたわけではなく、一部には彼を支持する勢力が存在したことを示している 13 。しかし、彼の呼びかけに、六角氏や赤松氏といった畿内近国の有力大名が応じることはなかった。軍事行動は、畠山卜山が紀伊で起こした小規模な戦闘など、局地的なものに留まり、高国政権を脅かすには至らなかった。

【時系列分析】十月、堺への再上陸と最後の賭け

状況を打開するため、義稙は再び勝負に出る。大永元年十月二十三日、彼は帰洛を目指して淡路から堺へ再上陸し、「カタキ屋」と呼ばれる場所に御所を構えた 13 。この動きに呼応し、大和では畠山義英(卜山の仇敵であったが、反高国で一時的に和睦)が軍事行動を起こすなど、反高国勢力がにわかに活気づく気配を見せた 13

しかし、この最後の賭けもまた、失敗に終わる。義稙の呼びかけに、大勢は動かなかった。その理由は複合的であった。第一に、細川高国が既に京都で新将軍・足利義晴を擁立し、朝廷の支持も取り付けた「正統な幕府」を構築していたこと 14 。第二に、義稙自身がかつて高国を裏切った経緯から、その政治的信用が著しく低下していたこと 15 。そして第三に、多くの有力大名が、もはや中央の政争に介入するよりも、自領の経営と安定を優先するという、戦国時代特有の地方分権的な傾向を強めていたことが挙げられる。

挫折と孤立

味方が一向に集まらない現実を前に、義稙の計画は頓挫する。十一月には、堺の御所を出て和泉国内を移動したとの風聞も流れたが、結局、軍勢を結集することはできず、同月中には再び淡路島へと退去したと伝えられている 13 。堺への再上陸からわずか一ヶ月。これが、義稙にとって事実上の軍事的・政治的敗北宣言となった。再起の夢は、堺の地で潰えたのである。

第四章:終焉:阿波の「流れ公方」

淡路島へ戻った義稙を待っていたのは、さらなる孤立と絶望であった。再起への道が完全に閉ざされた中で、彼の波乱に満ちた生涯は、静かに終焉の時を迎えようとしていた。

最後の支援者の死(大永二年・1522年)

大永二年(1522年)七月、出奔以来、最後まで義稙に付き従い、その活動を支え続けた畠山卜山が淡路で病死した 13 。この忠臣の死は、義稙から最後の気力と、数少ない有力な軍事指導者を奪い去った。彼は今や、名実共にてん涯孤独の身となったのである。

阿波国への渡海と最期(大永三年・1523年)

再起の望みを完全に絶たれた義稙は、淡路を離れ、海を渡って阿波国撫養(現在の徳島県鳴門市)へと移った 7 。阿波は、皮肉にも、かつての敵であり、今や反高国の旗頭となっている細川澄元派(この頃には澄元は死去し、子の晴元が跡を継いでいた)の本拠地であった。もはや敵味方の区別も意味をなさず、ただ安住の地を求めるだけの、疲れ果てた流浪者の姿がそこにはあった。

そして大永三年(1523年)四月九日、足利義稙は撫養の地で病のため、その生涯を閉じた。享年五十八 4 。二度にわたって将軍の座に就きながら、二度までも都を追われ、ついに異郷の地で客死した彼の生涯は、その流浪の姿から、後世「流れ公方」「島公方」と称されることとなった 7

歴史的遺産:阿波公方家の成立

しかし、足利義稙の死は、単に一個人の政治生命の終わりを意味するだけではなかった。彼の存在は、死してなお畿内の政局に大きな影響を及ぼし続けることになる。義稙は生前、第十一代将軍・義澄の子であり、京都で将軍となった義晴の兄弟にあたる足利義維を養子としていた 18

義稙の死後、阿波の細川氏や三好氏は、この義維を亡き義稙の後継者として擁立し、京都の足利義晴政権に対抗する正統な血統として掲げた 18 。これが、後に「阿波公方(平島公方)」と呼ばれる亡命政権の始まりである 6 。義稙の出奔と死は、結果として将軍職そのものを分裂させ、「京都の将軍」と「阿波の公方」という二つの権威が並立する異常事態を生み出した。これにより、細川京兆家の内紛であった「両細川の乱」は、それぞれが将軍候補者を担ぐ、より根深く、解決困難な代理戦争の様相を呈していく。義稙が残した最後の遺産は、戦国時代の畿内における、終わりなき抗争の構造そのものであった。

結論:将軍義稙再出奔が残したもの

大永元年の将軍義稙再出奔は、単なる一将軍の逃亡劇として片付けられるべき事件ではない。それは、室町幕府という統治機構が最終的な崩壊段階に入ったことを天下に示し、戦国時代の力学を決定的に加速させた象徴的な出来事であった。

第一に、この事件は室町将軍の権威が完全に失墜し、その地位が有力守護大名の権力闘争の道具へと変質したことを証明した。義稙は将軍親政の回復という最後の夢を追ったが、その過程で見せた政治的変節と、天皇の即位式を軽視するという致命的な判断ミスは、将軍職が持つべき儀礼的権威をも自ら破壊する結果を招いた。これにより、将軍職はもはや絶対的な権威ではなく、軍事力によって擁立され、また都合が悪くなれば追放されうる、相対的な存在であることが白日の下に晒された。

第二に、この事件は「両細川の乱」を新たな、そしてより深刻な局面へと移行させた。高国は義稙を追放し、足利義晴を擁立することで一時的に盤石な政権を築いたかに見えた 12 。しかし、その対抗策として反高国勢力が「阿波公方」足利義維を擁立したことで、内乱の構図は(高国・義晴)対(晴元・義維)という、二つの正統性を掲げた陣営の全面対決へと発展した 6 。将軍職の分裂は、抗争の恒常化を招き、畿内を数十年にわたる泥沼の戦乱へと引きずり込んでいく。

最後に、中央政府の機能不全と権威の分裂が決定的となったことで、地方の有力大名たちは、もはや中央の動向を顧みることなく、自らの実力による領国経営と勢力拡大に邁進していく。将軍が将軍を討伐せよと命じ、管領が将軍を追放する。そうした中央の混乱は、地方における「下剋上」の風潮を正当化し、戦国乱世を一層深く、広範なものへと変えていったのである。足利義稙の孤独な逃避行は、室町幕府の黄昏を告げると共に、新たな時代の夜明けを促す、歴史の分水嶺となる事件であった。

添付資料:主要関連年表

将軍義稙再出奔 関連年表(1518年~1523年)

年月日(和暦・西暦)

場所

主要人物・勢力

事象

典拠・意義

永正15年8月 (1518)

京都・周防

足利義稙、細川高国、大内義興

大内義興が管領代を辞し、周防へ帰国。

4 義稙政権の軍事的支柱が失われ、義稙と高国の権力均衡が崩れる直接的な原因となった。

永正16年11月 (1519)

摂津

細川澄元、三好之長、細川高国

澄元・三好軍が摂津に上陸し、高国方の越水城を攻略。両細川の乱が再燃する。

6 義興不在を好機とした反高国勢力の蜂起であり、畿内が再び戦乱状態に陥った。

永正17年2月 (1520)

摂津・京都

足利義稙、細川高国、細川澄元

高国が尼崎の戦いで澄元軍に大敗。義稙は高国の近江退避を拒絶し、澄元に高国討伐の御内書を発給。

4 義稙が高国を裏切り、敵対勢力と結んだ決定的瞬間。両者の関係は修復不可能となった。

永正17年5月5日 (1520)

山城

細川高国、六角定頼、三好之長

等持院の戦い。近江の六角定頼の援軍を得た高国が、三好之長軍を破り、京都の実権を奪回。

11 高国の劇的な逆転勝利。裏切った義稙は政治的に完全に孤立し、窮地に陥った。

大永元年3月7日 (1521)

山城・和泉

足利義稙、畠山順光、細川高国

義稙が少数の側近のみを連れて京都を密かに出奔し、和泉国・堺へ向かう。

13 将軍義稙再出奔事件の勃発。幕府官僚の多くは同行せず、義稙の孤立を示した。

大永元年3月22日 (1521)

京都

後柏原天皇、細川高国

義稙不在のまま、後柏原天皇の即位式が挙行される。高国が警固役を務め、朝廷の信任を得る。

14 義稙は将軍としての儀礼的権威を自ら放棄。高国に将軍交代の大義名分を与えた。

大永元年10月23日 (1521)

和泉

足利義稙

義稙が帰洛を目指し、淡路から堺へ再上陸。反高国勢力の結集を図る。

13 義稙による最後の軍事的・政治的賭けであったが、有力大名の支持を得られなかった。

大永元年11月 (1521)

和泉・淡路

足利義稙

兵が集まらず、義稙は堺から淡路へ再退去。再起の試みは事実上失敗に終わる。

13 義稙の権力奪還の可能性が潰えた瞬間。

大永元年12月25日 (1521)

京都

足利義晴、細川高国

高国に擁立された足利義晴が、第12代征夷大将軍に補任される。

14 高国による新政権が正式に発足。義稙は将軍職を完全に失った。

大永2年7月 (1522)

淡路

足利義稙、畠山卜山

義稙の最後の有力な支持者であった畠山卜山が淡路で死去。

13 義稙は完全に孤立無援となった。

大永3年4月9日 (1523)

阿波

足利義稙

義稙が阿波国撫養にて病死。

4 「流れ公方」と呼ばれた波乱の生涯の終焉。

引用文献

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  2. 閑話 永正の錯乱 - 【改訂版】正義公記〜名門貴族に生まれたけれど、戦国大名目指します〜(持是院少納言) - カクヨム https://kakuyomu.jp/works/16816452219435992138/episodes/16816927859159598000
  3. 第35回 室町幕府の衰退と、戦国大名の興亡 - 歴史研究所 https://www.uraken.net/rekishi/reki-jp35.html
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  5. 戦国時代の「両細川の乱」を引き起こした悲劇の武将|松尾靖隆 - note https://note.com/yaandyu0423/n/n2c754c1dcd06
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  7. 足利義稙(アシカガヨシタネ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E7%A8%99-14301
  8. 「足利義稙」島公方・流れ公方と呼ばれた室町幕府第10代将軍 | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/214
  9. 足利義稙はどんな人?史上唯一2度征夷大将軍になった流れ公方の生涯 - ほのぼの日本史 https://hono.jp/muromachi/ashikaga-yoshitane/
  10. 足利氏 http://www.lit.kobe-u.ac.jp/~area-c/tomatu/asikaga.html
  11. 歴史の目的をめぐって 六角定頼 https://rekimoku.xsrv.jp/2-zinbutu-43-rokkaku-sadayori.html
  12. 「船岡山合戦(1511年)」細川高国VS細川澄元の決戦?足利義澄の急死で高国勝利 https://sengoku-his.com/419
  13. 「流れ公方」足利義稙の執念が生んだ「阿波公方」(後編)澄元方の上洛戦敗退と将軍義稙の淡路出奔事件の顛末 https://amago.hatenablog.com/entry/2018/01/19/120901
  14. 足利義晴 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E6%99%B4
  15. 京都追放→流浪は足利将軍のお家芸。15年も流浪して返り咲いた10代将軍足利義稙の生涯【麒麟がくる 満喫リポート】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト - Part 2 https://serai.jp/hobby/1016152/2
  16. 「足利義晴」管領細川家の内紛に翻弄された室町幕府12代将軍。 | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/207
  17. 室町幕府10代将軍/足利義材|ホームメイト https://www.meihaku.jp/muromachi-shogun-15th/shogun-ashikagayoshiki/
  18. 阿波平島公方 ~征夷大将軍になりたかった男達 https://akahigetei.weblike.jp/rekitan/r3.html
  19. 阿波 平島(阿波)公方の墓(西光寺) - 城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/sokuseki/tokushima/hirajimakubo-bosho/