最終更新日 2025-09-17

将軍義稙復帰(1508)

永正五年、足利義稙は大内義興の軍事力を背景に将軍職へ復帰。細川高国を管領に据え、三頭政治を形成。しかし、その権力は有力大名に依存し、将軍権威の空洞化と戦国乱世の長期化を招いた。
Perplexity」で事変の概要や画像を参照

将軍義稙復帰(1508年)の真相 ― 戦国黎明期における権力構造の変容 ―

序章:応仁の乱の遺産と「半将軍」の時代

日本の歴史において、戦国時代の幕開けを告げる画期はいくつか存在するが、その中でも室町幕府の権力構造が決定的に変質し、将軍の権威が有名無実化していく過程を象徴する出来事として、永正五年(1508年)の足利義稙(あしかがよしたね)による将軍職への復帰は、極めて重要な意味を持つ。この事変は、単に一人の将軍がその座を取り戻したという個人的な成功譚ではない。それは、応仁の乱(1467-1477)以来、溶解し続けてきた中央の権力構造が、地方の有力大名の軍事力を背景に再編されるという、新たな時代の到来を告げる号砲であった。

応仁の乱は、京都を焦土と化し、幕府の権威を地に堕とした。乱後も将軍の権力基盤は回復せず、守護大名の自立と中央政治への介入は常態化の一途をたどった 1 。この権力の空白を突いて幕政の実権を掌握したのが、管領・細川京兆家の当主、細川政元(ほそかわまさもと)であった。

明応二年(1493年)、政元は歴史的なクーデター「明応の政変」を断行する。第十代将軍・足利義材(よしき、後の義稙)が将軍親政を目指し、政務を自らの手に取り戻そうとした動きを危険視した政元は、義材が河内討伐のために京都を留守にした隙を突き、新たな将軍として足利義澄(よしずみ)を擁立、義材を廃位したのである 1 。この政変の根底には、将軍と管領のどちらが幕政の主導権を握るかという深刻な対立があった 6 。結果、将軍は管領の傀儡と化し、幕府の公権力は細川京兆家の私的な権力によって支えられるという歪な構造が確立された 7 。こうして義材は、正統な将軍でありながらその地位を暴力的に剥奪され、以来十五年にも及ぶ苦難の流浪生活を余儀なくされることとなったのである。

第一部:動乱への序曲

第一章:流浪の公方、西国に希望を見出す

明応の政変により将軍の座を追われた足利義材は、京都の龍安寺に幽閉される身となった。しかし、その野心は潰えていなかった。明応二年(1493年)六月、側近らの手引きによって幽閉先を脱出すると、かつての忠臣・畠山政長の領国であった越中国放生津へと下向する 6 。ここで政長の旧臣・神保長誠らに迎えられた義材は、「越中公方(えっちゅうくぼう)」と称され、亡命政権を樹立した 7

その後、義材は越前、近江、河内と各地を転々としながら、反細川勢力の結集を試み、幾度となく上洛戦を企てた。しかし、細川政元が築き上げた盤石の権力体制の前に、その試みはことごとく失敗に終わる。再起をかけた戦いに敗れた義材は、最終的に西国へと落ち延びていった 6 。この一連の行動は、彼が単なる無力な逃亡者ではなく、執拗に復権を目指す不屈の政治的アクターであり続けたことを示している。

この流浪の公方が最後の希望を託したのが、周防国を本拠とする西国随一の実力者、大内義興(おおうちよしおき)であった。大内氏は周防・長門を中核に、九州北部にまで広大な影響圏を築き上げた守護大名であり、その強大な軍事力と経済力は、中央の細川政権にとっても無視できない存在であった 8 。特に、日明貿易(勘合貿易)から得られる莫大な利益を巡っては、博多商人と結ぶ大内氏と、堺商人と結ぶ細川氏との間で激しい主導権争いが繰り広げられていた 9

大内義興が、名を義尹(よしただ)と改めていた義材を庇護したのは、単なる同情や旧恩からではなかった。そこには、極めて冷徹な政治的計算が働いていた。第一に、応仁の乱において父・大内政弘が義尹の父・足利義視を奉じて西軍の主力として戦ったという歴史的な縁があった 6 。そして第二に、これが最も重要であるが、「正統な将軍を擁立し、幕政を壟断する逆賊を討つ」という大義名分を掲げて上洛軍を起こすことで、長年の宿敵である細川氏を打倒し、勘合貿易の利権を完全に掌握するという壮大な野心があったのである 11 。流浪の公方・足利義尹は、義興の野望を実現するための、またとない「切り札」であった。

第二章:権力の頂点とその崩壊 ― 永正の錯乱(1507年)

一方、京都では細川政元が将軍義澄を擁し、「半将軍」とまで呼ばれるほどの絶大な権力を振るっていた 14 。しかし、その権勢の頂点にあって、政元は自らの政権を根底から揺るがす火種を抱え込んでいた。修験道に深く傾倒し、生涯妻帯しなかった政元には実子がおらず、後継者として三人の養子を迎えたのである。一人は公家の名門・九条家から迎えた細川澄之(すみゆき)、一人は阿波守護細川家出身の細川澄元(すみもと)、そしてもう一人が細川一門の野州家から迎えた細川高国(たかくに)であった。出自も背景も、そして支持基盤も全く異なるこの三人の養子の存在は、政元死後の細川京兆家に深刻な内紛をもたらすことを運命づけていた 15

そして、その運命の日は突如として訪れる。永正四年(1507年)六月二十三日、政元は自邸の湯屋において、澄之を支持する重臣・香西元長(こうざいもとなが)、薬師寺長忠(やくしじながただ)らに襲撃され、あっけなく暗殺された。享年四十一 18 。この「永正の錯乱」と呼ばれる事件は、畿内における絶対的な権力者の突然の死という、巨大な政治的真空を生み出した。

政元暗殺直後、澄之派が一時的に京都を制圧するも、すぐさま澄元が反撃に転じる。この時、細川高国は当初、澄元を支持し、同族の細川政賢(まさかた)らと共に澄之討伐に貢献した 16 。同年八月、澄之は敗れて自害し、澄元が細川京兆家の家督を継承した 15 。しかし、この新たな澄元政権の成立は、細川家内部の亀裂を修復するどころか、より深刻な対立構造を顕在化させる結果となった。

この細川家の内紛は、単なる養子間の個人的な権力闘争ではなかった。その根底には、「畿内国人衆」と「阿波・三好勢」という、二つの地域的・経済的権力ブロックの衝突という、より根深い構造が存在した。阿波守護家の出身である澄元の権力基盤は、その家宰である三好之長(みよしゆきなが)が率いる阿波の強力な軍事力に大きく依存していた 20 。永正三年(1506年)に之長が澄元と共に上洛し、畿内で権勢を振るい始めると、政元時代から細川京兆家を支えてきた摂津や丹波の譜代の国人衆(「内衆」と呼ばれる)は、この阿波勢力の台頭に強い反発と危機感を抱いた 17 。彼らにとって、三好之長は主家の権力を笠に着る「よそ者」に他ならなかった。

細川高国は、自身も畿内に基盤を持つ細川一門(野州家)の出身であり、これら畿内国人衆の不満の受け皿として、自然と中心的な立場に立つことになった 16 。高国が後に澄元を裏切り、西から迫る大内義興と手を結ぶという大胆な行動に出た背景には、単なる家督への野心だけでなく、畿内勢力の利益を代弁し、阿波勢力を中央政界から排除するという明確な政治的動機が存在したのである。この根深い対立構造こそが、その後二十年以上にわたって畿内を戦乱の渦に巻き込む「両細川の乱」の根本原因となっていく。

第二部:京を目指す者たち ― 1508年、運命の交錯

細川政元の死がもたらした畿内の混乱は、周防で好機を窺っていた大内義興と足利義尹にとって、まさに天佑であった。義興は即座に行動を開始し、京都では細川家の内紛が激化。永正四年から五年にかけて、各勢力の思惑が交錯し、日本の政治の中心地は目まぐるしい変動の時を迎える。

年月日

主要な出来事

関係勢力の動向

典拠

永正4年(1507) 6月23日

永正の錯乱 :細川政元、自邸にて暗殺される。

香西元長ら澄之派が実行。澄元・三好之長は近江へ逃亡。

17

永正4年(1507) 8月1日

遊初軒の戦い:澄元派、澄之派を破る。

澄元、高国らの支援を得て京都を奪還。澄之は自害。

17

永正4年(1507) 8月2日

細川澄元、11代将軍義澄から家督継承を承認される。

澄元・三好之長政権が成立。高国はこれを支持。

17

永正4年(1507) 11月25日

大内義興、前将軍義尹(義稙)を奉じ山口を出立。

上洛軍、防府に進発。九州・中国の諸大名が従軍。

24

永正4年(1507) 12月

大内軍、備後国鞆に到着し越年。

畿内の情勢を分析し、入京の時期を窺う。

17

永正5年(1508) 3月17日

細川高国、伊勢参宮を名目に京都を脱出。

澄元と決別し、伊賀の仁木高長を頼る。義興と通じる。

16

永正5年(1508) 4月9日

京都政変 :澄元・三好之長、京都を放棄。

高国・大内軍接近の報を受け、屋敷を焼き近江坂本へ逃亡。

27

永正5年(1508) 4月10日

細川高国、京都へ入城。

畿内の反澄元勢力を結集し、京都を制圧。

27

永正5年(1508) 4月16日

11代将軍・足利義澄、京都から近江へ遁走。

近江守護・六角高頼を頼る(近江公方府の成立)。

26

永正5年(1508) 4月27日

義尹(義稙)・大内義興、和泉国堺に上陸。

高国が出迎え、連携を確認。畿内の澄元派掃討を開始。

17

永正5年(1508) 5月5日

義尹、高国を細川京兆家当主と認める御内書を発給。

高国の家督継承を正当化し、新政権の枠組みを固める。

16

永正5年(1508) 6月8日

前将軍・義尹(義稙)、京都へ入城。

15年ぶりに京都へ帰還。

29

永正5年(1508) 7月1日

足利義稙、将軍職へ復帰。

朝廷より征夷大将軍に再任される。

6

永正5年(1508) 7月18日

細川高国、管領に就任。大内義興は管領代に。

足利義稙・大内義興・細川高国による新政権が正式に発足。

16

第三章:西からの進軍 ― 大内義興の上洛

永正四年(1507年)十一月、大内義興は遂に動いた。前将軍・足利義尹を奉じ、周防国山口を進発した上洛軍は、数万(一説に二万五千)の兵力を誇る大軍団であった 8 。この軍には、大内氏の支配下にある九州・中国地方の諸大名・国人がこぞって動員された。安芸国の毛利興元(毛利元就の兄)や、この時点では大内氏に従属していた出雲国の尼子経久、石見国の益田宗兼といった、後に戦国史に名を刻むことになる武将たちも、義興の麾下にあってこの歴史的な進軍に参加していた 31 。これは単なる一守護大名の上洛ではなく、西国全体の軍事力を結集した、まさしく一大遠征であった。

しかし義興は、その強大な軍事力を背景にしながらも、性急な入京を避けた。軍勢は瀬戸内の海上交通の要衝である備後国鞆の浦に達すると、そこで年を越し、しばらく滞陣する 17 。これは、京都の政局、特に細川京兆家内部で激化する澄元と高国の対立の推移を、冷静に見極めるための戦略的な待機であった。

その水面下で、義興と高国の連携は着々と進められていた。澄元政権下で三好之長の専横に不満を募らせていた高国は、西から迫る大内軍に自らの活路を見出し、義興と密かに通じたのである 16 。当時の軍記物である『不問物語』によれば、細川一門が高国を新たな当主として推した背景には、高国が京兆家と血縁的に近いことや、その器量への期待に加え、彼の姉婿が有力大名の畠山尚順であったため、その援軍を得られるという計算も働いていたとされる 16 。大内義興の周到な上洛計画は、この細川高国という内部からの強力な呼応を得て、初めて成功の確度を絶対的なものとしたのである。

第四章:京都政変 ― リアルタイム・クロニクル

永正五年(1508年)春、事態は一気に動き出す。三月、細川高国は伊勢参宮を名目に京都を脱出すると、伊賀で挙兵し、畿内の反澄元派国人衆を糾合して京都へと進撃を開始した 14 。高国の離反と大内軍接近の報は、発足から一年足らずの澄元政権に致命的な打撃を与えた。畿内に強固な支持基盤を持たなかった澄元と将軍義澄は、組織的な抵抗もできぬまま、首都を放棄せざるを得なかった。四月九日、澄元と三好之長は自らの屋敷に火を放ち、近江国坂本へと逃亡。その翌日には高国が京都に入城し、首都を完全に制圧した 27 。さらに四月十六日には、将軍・足利義澄も京都を脱出し、近江守護・六角高頼のもとへ身を寄せた 14 。この一連の電光石火の政変により、京都の政治権力は完全に高国・大内連合の手に帰した。

同年四月末、満を持して足利義尹と大内義興の主力軍が、国際貿易港である和泉国堺に上陸する 17 。先に入京していた高国がこれを出迎え、ここに新政権の中核が誕生した。彼らはすぐには入京せず、まず摂津国などに残る澄元派の拠点を掃討し、畿内における軍事的な支配を盤石なものとした 16

そして六月八日、万全の態勢を整えた足利義尹は、遂に京都の土を踏んだ。明応の政変で追放されて以来、実に十五年ぶりの首都帰還であった 29 。この入京は、単なる一人の公方の帰還ではなく、西国の大大名が率いる数万の軍勢の武威を背景とした、紛れもない首都の軍事占領であった。

新体制の構築は迅速に進められた。七月一日、義尹は名を義稙と改め、後土御門天皇からの宣下を受けて正式に征夷大将軍に復職する 6 。そして七月十八日、論功行賞として細川高国が管領に、大内義興が管領代および山城守護に任じられ、足利義稙を頂点とする新政権が正式に発足したのである 16 。十五年に及んだ流浪の末、義稙は再び天下人の座に返り咲いた。しかし、その玉座は、もはや彼自身の力ではなく、二人の有力大名の思惑と軍事力によって支えられた、極めて不安定なものであった。

第三部:新政権の構造と未来への胎動

第五章:三頭政治の実態と権力闘争

永正五年(1508年)夏に発足した新政権は、将軍・足利義稙、管領代・大内義興、管領・細川高国の三者による連合政権、いわば「三頭政治」の体裁をとっていた 36 。しかし、その内実における力関係は決して対等なものではなかった。将軍義稙はあくまで「権威の源泉」であり、管領高国は「畿内における実務担当者」、そして管領代義興こそが、その強大な軍事力と経済力を背景に政権を支える「最大の実力者」であった 8 。義興は家格の問題から管領には就任できなかったものの、「管領代」として幕政の実権を掌握し、その権勢はかつて「半将軍」と評された細川政元に匹敵するものとなった。

この一連の出来事は、室町将軍の権威そのものが、もはやそれ自体で実効力を持つものではなく、有力大名が自己の覇権を正当化するために利用する「商品」、あるいは「象徴資本」へと決定的に変質したことを示している。大内義興と細川高国は、京都を制圧するだけの軍事力を有しながら、自らが将軍になろうとはせず、あくまで足利義稙を「擁立」する形にこだわった 6 。これは、室町幕府の「征夷大将軍」という職位が持つ「正統性」という無形の価値が、依然として日本全国の武士社会において極めて重要視されていたからに他ならない 6 。義稙を奉じることで、彼らの軍事行動は単なる私戦ではなく、「幕府を簒奪した逆賊(義澄・澄元)を討伐する」という大義名分を得ることができた。つまり、義稙の存在そのものが、彼らの権力闘争を有利に進めるための最も価値ある「切り札」だったのである。将軍はもはや主体的な統治者ではなく、その権威を他者に利用される客体へと転落した。この構造は、後の織田信長と足利義昭の関係を先取りする、戦国時代的な権力構造の萌芽であったと言える。

大内義興が多大な犠牲を払ってまで上洛した最大の目的の一つは、細川氏が握っていた勘合貿易の利権奪取にあった。在京中、義興は将軍義稙の権威を最大限に活用し、遣明船の管掌権を大内氏が永代にわたって掌握することを幕府に認めさせ、貿易の独占に成功する 11 。この貿易から得られる莫大な富こそが、大内氏の強大な軍事力と、山口に花開いた絢爛たる大内文化の源泉となったのである。

しかし、この中央における野心の実現には、大きな代償が伴った。義稙・高国政権は、近江に逃れた足利義澄・細川澄元派の執拗な抵抗に晒され、極めて不安定であった。義興が京都を離れれば、政権は即座に崩壊する危険があったため、彼は永正五年(1508年)から永正十五年(1518年)までの約十一年間、京都に滞在し続けることを余儀なくされた 17 。当主の長期不在は、本国である周防・長門の領国経営に深刻な影響を及ぼした。その隙を突いて、かつては麾下にあった出雲の尼子経久が勢力を拡大して独立し、安芸の武田氏など周辺国人も離反の動きを見せ始めたのである 17 。義興が最終的に帰国を決断したのは、これら領国の危機に対応するためであった 17 。この事実は、戦国大名がいかに中央で権力を握ろうとも、その基盤はあくまで自身の領国の安定にあるという、戦国時代の権力構造の原則を浮き彫りにしている。義興の中央への野心は一時的な成功を収めたが、その代償として足元に火がつき、次代の義隆の時代における尼子氏との抗争激化、そして家臣・陶晴賢の謀反による滅亡へと繋がる遠因となったのである。

義稙政権の治世は、決して平穏ではなかった。近江に逃れた将軍義澄と管領澄元は、「近江公方府」とも言うべき亡命政権を維持し、京都奪還の機会を窺い続けた 17 。永正六年(1509年)には澄元軍が京都へ侵攻するも、如意ヶ嶽の戦いで大内・高国連合軍に撃退される 17 。その後も戦いは一進一退を続けたが、永正八年(1511年)の船岡山合戦において、大内・高国連合軍が澄元方に決定的勝利を収め、この戦いの直後に義澄が病死したことで、義稙政権はようやく安定期を迎える 39 。しかし、それはあくまで大内義興という巨大な軍事力の存在によってのみ支えられた、脆い安定に過ぎなかった。

結論:将軍義稙復帰が戦国時代に与えた影響

永正五年(1508年)の将軍足利義稙の復帰は、戦国時代の到来を決定づける上で、以下の三つの深刻かつ不可逆的な影響を日本社会に与えた。

第一に、 幕府権威のさらなる空洞化と実力主義の加速 である。将軍の廃立が、もはや朝廷の権威や幕府内部の論理ではなく、地方の有力守護大名の軍事力と政治的都合によって左右されることが常態化した。これにより、室町幕府の権威は名目上だけのものとなり、「力こそが正義」である下剋上の風潮が社会全体に浸透していくことを決定づけた 2

第二に、 地方勢力の中央政治への本格的介入 である。この事件は、大内氏のような西国の雄が、その強大な経済力と軍事力を背景に、中央の政局を直接的に、かつ長期にわたってコントロールする時代の到来を告げた。また、敵対した澄元方を支えた三好氏も、この抗争を通じて畿内における影響力を飛躍的に増大させ、後の三好長慶による画期的な政権樹立の礎を築いていくことになる 22 。日本の政治は、もはや京都とその周辺だけで完結するものではなくなったのである。

そして第三に、 「両細川の乱」の長期化と畿内戦乱の常態化 である。義稙の復帰は、細川京兆家の内紛を終結させるどころか、将軍家を二つに分裂させたまま、高国派と澄元・晴元派の対立を約二十年にもわたって継続させる結果を招いた 15 。これにより、日本の政治・経済・文化の中心地であった畿内は、恒常的な戦乱の舞台と化し、日本は本格的な動乱の時代、すなわち戦国時代へと、その歩みを決定的に進めることになったのである。将軍義稙の十五年ぶりの帰還を祝う京都の喧騒の裏で、日本史は新たな、そしてより過酷な時代への扉を開いていた。

引用文献

  1. 明応の政変 日本史辞典/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/history/history-important-word/meio-no-seihen/
  2. 明応の政変(1/2)戦国時代の幕開けとなったクーデター - 日本の旅侍 https://www.tabi-samurai-japan.com/story/event/643/
  3. www.touken-world.jp https://www.touken-world.jp/history/history-important-word/meio-no-seihen/#:~:text=%E3%80%8C%E6%98%8E%E5%BF%9C%E3%81%AE%E6%94%BF%E5%A4%89%E3%80%8D%EF%BC%88,%E3%81%B8%E3%81%A8%E6%9B%BF%E3%81%88%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82
  4. 1分で分かる日本の歴史 室町時代⑦ 「明応の政変」 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=BizExSDCXRg
  5. 明応の政変~クーデター勃発で将軍家が分裂! - まっぷるウェブ https://articles.mapple.net/bk/9899/
  6. 足利義稙 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E7%A8%99
  7. 明応の政変 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E5%BF%9C%E3%81%AE%E6%94%BF%E5%A4%89
  8. 大内義興 史上最強、最大、最高の西国の覇者 - 周防山口館 https://suoyamaguchi-palace.com/ouchi-yoshioki/
  9. 【高校日本史B】「明(日明貿易の展開)」 | 映像授業のTry IT (トライイット) https://www.try-it.jp/chapters-12583/lessons-12715/point-2/
  10. 寧波の乱(ニンポーのらん)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%AF%A7%E6%B3%A2%E3%81%AE%E4%B9%B1-110897
  11. 大内氏/内容 - 山口県の文化財 https://bunkazai.pref.yamaguchi.lg.jp/support/theme/oouti/onaka.html
  12. 大内義興 /ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/history/history-important-word/ouchi-yoshioki/
  13. 山口歴史探訪 西国一の大名大内氏の足跡を訪ねて 17 大内義興4 大内氏の勘合貿易 https://4travel.jp/travelogue/11878596
  14. 閑話 永正の錯乱 - 【改訂版】正義公記〜名門貴族に生まれたけれど、戦国大名目指します〜(持是院少納言) - カクヨム https://kakuyomu.jp/works/16816452219435992138/episodes/16816927859159598000
  15. 明応の政変(2/2)戦国時代の幕開けとなったクーデター - 日本の旅侍 https://www.tabi-samurai-japan.com/story/event/643/2/
  16. 細川高国 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E9%AB%98%E5%9B%BD
  17. 永正の錯乱 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E6%AD%A3%E3%81%AE%E9%8C%AF%E4%B9%B1
  18. 細川政元 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E6%94%BF%E5%85%83
  19. 戦国史上の衝撃的暗殺事件:一人の刺客が歴史を変えた永正の錯乱|松尾靖隆 - note https://note.com/yaandyu0423/n/n9a08f82eada1
  20. 「細川澄元」高国との覇権争いに敗れ、遺児・晴元に後を託す。 | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/808
  21. 三好之長 http://www.lit.kobe-u.ac.jp/~area-c/tomatu/miyosi.html
  22. 偉人たちの知られざる足跡を訪ねて 戦国乱世に畿内を制した「天下人」の先駆者 三好長慶 https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/bsignal/22_vol_196/issue/01.html
  23. 三好政長(三好宗三)―細川晴元権力の体現者 https://monsterspace.hateblo.jp/entry/miyosihimasanaga
  24. 大内義興 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%86%85%E7%BE%A9%E8%88%88
  25. 戦国最初の天下人、大内義興はどうして京都を放棄したのか? - ほのぼの日本史 https://hono.jp/sengoku/yoshioki-ouchi/
  26. 足利氏 http://www.lit.kobe-u.ac.jp/~area-c/tomatu/asikaga.html
  27. 如意ヶ嶽の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%82%E6%84%8F%E3%83%B6%E5%B6%BD%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  28. 永正年間の今川氏と西三河の諸勢力について - 愛知教育大学学術情報リポジトリ https://aue.repo.nii.ac.jp/record/4394/files/nihonbunka2097119.pdf
  29. 歴史の目的をめぐって 大内義興 https://rekimoku.xsrv.jp/2-zinbutu-05-oouti-yosioki.html
  30. 「永正の錯乱(1507年)」細川政元の3人の養子による家督相続争い - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/74
  31. 没後500年記念企画展 毛利興元 - 安芸高田市 https://www.akitakata.jp/akitakata-media/filer_public/42/62/42623ffd-6cee-4e0b-9b51-d765260cea14/kanseiban-_kikakuten-mouri-kyou-moto-ura.pdf
  32. 大内義興書状|歴史|バーチャル収蔵庫 - 山口県立山口博物館 https://www.yamahaku.pref.yamaguchi.lg.jp/gallery/storage_history/2023-02-010/
  33. 「尼子経久」下剋上で11州の太守となり、尼子を隆盛に導く - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/812
  34. 戦国時代を再検討する | 株式会社カルチャー・プロ https://www.culture-pro.co.jp/category/history/sengoku/
  35. 「船岡山合戦(1511年)」細川高国VS細川澄元の決戦?足利義澄の急死で高国勝利 https://sengoku-his.com/419
  36. 細川政権 (戦国時代) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E6%94%BF%E6%A8%A9_(%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3)
  37. 「細川高国」細川宗家の争いを制して天下人になるも、最期は… - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/805
  38. 「大内義興」乱世の北九州・中国の覇権を確立。管領代として幕政にもかかわった西国最大の大名 https://sengoku-his.com/811
  39. 船岡山合戦 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%B9%E5%B2%A1%E5%B1%B1%E5%90%88%E6%88%A6
  40. 両細川の乱と戦国大和の争乱~大和武士の興亡(10) https://www.yamatotsurezure.com/entry/yamatobushi10_ryohosokawanoran
  41. 三好氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%A5%BD%E6%B0%8F