将軍義輝近江退去(1547)
天文十六年、将軍足利義輝は父義晴と共に京都を追われ近江へ退去。細川晴元との対立と六角定頼の裏切りが原因。舎利寺の戦いで三好長慶が台頭し、将軍家の権威は失墜。戦国下剋上の象徴となった。
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天文十六年 将軍義輝近江退去の真相 ― 権力者たちの交錯と思惑
序論:失われた都、流浪する将軍
天文16年(1547年)、13代室町幕府将軍・足利義輝(当時は義藤)が、父である大御所・義晴と共に京都を追われ、近江国(現在の滋賀県)の朽木谷へと退去した。この出来事は、戦国乱世において頻発した将軍の都落ちの一つとして語られることが多い。しかし、その深層を詳細に分析するならば、これは単なる一回の避難ではなく、応仁の乱以降、骸骨化しつつあった室町幕府の権威が、畿内における実力者たちのパワーゲームによって完全に無力化されていく過程を象徴する、時代の転換点であったことが明らかになる。
そもそも、足利将軍家がその本拠地である京都を離れ、近江へ逃れるという「流浪」の状態は、義輝の父・12代将軍義晴の治世において常態化していた 1 。幕府の実権を掌握する管領・細川晴元との権力闘争に敗れるたび、義晴は近江坂本へ逃れることを余儀なくされていたのである 3 。この「流浪する将軍」という姿は、将軍の権威がもはや名目的なものとなり、その地位さえも軍事力を持つ守護大名やその家臣の意向に左右される、脆弱な存在であったことを如実に物語っている 4 。
本報告書は、この天文16年の将軍退去という事象を多角的に分析するものである。なぜ義晴・義輝父子は、この年に再び、そして決定的に京を追われねばならなかったのか。その背後には、将軍家の起死回生を賭けた戦略、管領・細川晴元政権が内包する構造的矛盾、そして家臣の立場から天下を窺う三好長慶の台頭という、複数の勢力の思惑が複雑に絡み合っていた。本稿では、これらの政治的・軍事的力学を時系列に沿って克明に解き明かし、この一つの退去が、いかにして後の三好長慶の覇権確立と、義輝自身の運命、ひいては戦国時代の大きな潮流を決定づけたのかを探求する。
第一章:傀儡からの脱却 ― 父・義晴の遺志と幼き将軍・義輝
天文15年(1546年)の将軍宣下
天文16年の動乱に至る直接的な発端は、その前年、天文15年(1546年)に遡る。長年にわたり管領・細川晴元の傀儡となることを強いられてきた大御所・足利義晴は、この状況を打破するための大胆な一手を打つ。自らが健在なうちに、わずか11歳の嫡男・菊幢丸(後の義輝)へ将軍職を譲ることを決意したのである 5 。これは、単なる代替わりではない。晴元の影響力が及ばない形で次期将軍を擁立し、自らは後見人として幕政の実権を掌握し直すことで、将軍家の自立性を高めようとする、義晴の深謀遠慮に基づく政治的布石であった 7 。
この計画の異常性は、その儀式の挙行場所に顕著に表れていた。天文15年12月、義晴・義輝父子は晴元の本拠地である京都を離れ、将軍家の伝統的な避難先であり、同盟者である六角氏の影響下にある近江坂本の日吉神社(現・日吉大社)にて、元服および将軍宣下の儀を執り行った 3 。これは、晴元の支配下にある京都での儀式を意図的に回避し、将軍家の行動が晴元の意のままにならないことを天下に示す行為であった。
烏帽子親・六角定頼の選択が持つ政治的意味
義晴の戦略の核心は、元服における烏帽子親の選定にあった。将軍の烏帽子親は、幕府の筆頭重臣である管領が務めるのが慣例であった。しかし義晴は、現管領である細川晴元を完全に無視し、近江の戦国大名であり、当時「天下人」とも評されるほどの強大な影響力を畿内に及ぼしていた六角定頼を「管領代」に任じ、この大役を委ねたのである 3 。
これは、晴元の管領としての権威を公然と、そして最大限に否定するに等しい行為であった。将軍家がもはや細川晴元を幕府の正式な管領として認めず、新たに近江の六角氏を最大の後ろ盾とするという、明確かつ挑戦的な政治的メッセージであった。
この選択の背後には、さらに高度な政治的計算が隠されていた。六角定頼は、敵対する細川晴元の正室の父、すなわち舅という関係にあった 10 。義晴の狙いは、単に定頼を味方に引き入れることに留まらなかった。定頼を将軍の後見人という最高の名誉ある立場に据えることで、彼を「将軍への忠誠」と「娘婿への支援」という二つの相反する立場の間で引き裂き、晴元政権の足元を内側から揺さぶる「楔」を打ち込もうとしたのである。義晴は、晴元の権力基盤が、その舅である定頼の政治的・軍事的支援に大きく依存していることを見抜いていた。定頼を自陣営に取り込むことができれば、晴元は孤立し、将軍家が主導権を奪還できる。これが、義晴が描いた起死回生のシナリオであった。しかし、このあまりに大胆な賭けは、結果として晴元との対立を決定的なものとし、翌天文16年の全面衝突へと突き進む直接的な引き金となったのである。
第二章:畿内の亀裂 ― 細川晴元政権の構造的矛盾
足利義晴が大胆な策動に打って出た背景には、敵対する細川晴元政権が盤石ではなかったという事実がある。晴元は、同族の細川高国との長い抗争(大物崩れ)を制して幕政を掌握したが、その権力基盤は常に内部の亀裂によって揺らいでいた 11 。
細川京兆家の内紛
晴元政権にとって最大の脅威の一つは、打倒したはずの敵対勢力の残存であった。高国の養子である細川氏綱は、河内守護代の遊佐長教らの支援を受け、執拗に晴元の地位に挑戦し続けていた 12 。これにより、畿内は常に細川一族の内乱の火種を抱え、将軍家のような外部勢力が介入する隙を与えていたのである 13 。義晴が天文16年に氏綱と結んだのは、まさにこの内部対立を利用しようとしたものであった。
晴元政権内の二つの「三好」
さらに深刻だったのは、晴元政権の内部、その権力を支える中枢における対立であった。特に、阿波国(現在の徳島県)を本拠とする有力被官・三好一族内の根深い確執は、政権の致命的なアキレス腱となっていた。
一方には、晴元の腹心として権勢を振るう三好政長(宗三)がいた。政長は三好一族の中でも傍流の出身であったが、晴元に早くから仕え、その信頼を得て重用されていた 14 。彼は、晴元政権の意思を体現する存在として、畿内における権力の中枢に位置していた。
もう一方には、三好一族の惣領家当主であり、圧倒的な軍事力を有する三好長慶(当時は範長)がいた。長慶は、父・三好元長を天文元年(1532年)に晴元の謀略(一向一揆の煽動)によって自害に追い込まれたという、決して消えることのない宿怨を抱えていた 16 。
三好長慶の忍従と台頭
長慶は、父の仇である晴元に仕えるという屈辱的な立場にありながら、その類稀なる軍事的才能を遺憾なく発揮し、晴元のために数々の戦功を挙げていた 11 。しかし、晴元は長慶の力を頼りにしながらも、その台頭を常に警戒していた。この両者の不信関係を象徴するのが、天文8年(1539年)に起こった「河内十七箇所代官職問題」である。長慶が父の旧領であったこの地の代官職を求めた際、晴元は腹心の三好政長にこの職を与え続け、長慶の要求を頑なに拒否した。この一件で、憤激した長慶は一度挙兵寸前まで追い詰められるが、この時も六角定頼の仲介によって辛うじて事を収めている 14 。この時点で、晴元、長慶、そして政長の間の亀裂は、もはや修復不可能なレベルに達していた。
細川晴元政権は、その存立に不可欠な最大の軍事力(三好長慶)が、同時に最大の潜在的脅威でもあるという、致命的な構造的矛盾を内包していたのである。晴元は、対立する細川氏綱や将軍家を抑えるために長慶の武力を必要としながらも、長慶が功績を立てて力をつけすぎることを恐れ、同族の三好政長を用いて牽制するという、極めて危険な権力バランスの上に成り立っていた。この意図的な長慶への冷遇と政長への優遇は、長慶の晴元への不信感を決定的なものにした。長慶は主君のために戦いながらも、虎視眈眈と自立、そして父の仇を討つ機会を窺うようになる。皮肉にも、天文16年に将軍家が起こした動乱は、長慶がその力を天下に示す絶好の機会となり、後の下剋上への道を拓くことになるのである。
第三章:天文十六年、運命の選択
天文15年末の将軍宣下という大胆な政治行動を経て、年が明けた天文16年(1547年)、足利義晴・義輝父子は、細川晴元との全面対決へと突き進んでいく。
正月:権威の誇示
近江坂本から京都へ帰還した将軍父子は、まずその権威を内外に誇示することから始めた。天文16年正月26日、父子は内裏に参内し、後奈良天皇に拝謁した 1 。これは、六角定頼という新たな後ろ盾を得て行われた将軍宣下の正統性を、最高の権威である朝廷に公認させ、晴元に対して政治的優位に立つための計算されたデモンストレーションであった。将軍家は、もはや晴元の意向を伺うことなく、独自に朝廷と結びつき、政務を執り行う能力と意思があることを示したのである。
三月:全面対決への号砲
そして三月、将軍家はついに軍事行動へと踏み切る。3月29日、義晴・義輝父子は、京都東山にあり、有事の際の拠点として義晴が改修を進めていた将軍山城(中尾城)に入った 19 。そして、ここで細川晴元の宿敵である細川氏綱に味方することを公然と表明したのである 21 。これは、晴元に対する事実上の宣戦布告に他ならなかった。
将軍家の戦略は明確であった。新たに後援者となった六角定頼の軍事支援を期待し、氏綱と連携することで晴元を南北から挟撃し、一気に幕政の実権を奪還する。これが義晴の描いた計画であった。しかし、この計画は、あまりにも六角定頼の動向を楽観視しすぎていた。将軍の烏帽子親という名誉と、娘婿である晴元との実利。その間で定頼が下すであろう決断を、義晴は見誤っていたのである。
表1:天文十六年(1547年)時点の主要人物と関係性
人物 |
立場 |
目的・狙い |
主要な関係者との関係 |
足利義晴 |
大御所(前将軍) |
細川晴元からの実権奪還、将軍家の権威回復 |
義輝の父。晴元とは敵対。六角定頼を後援者として期待。氏綱と同盟。 |
足利義輝 |
第13代将軍 |
父・義晴の路線を継承し、将軍親政を目指す |
義晴の子。六角定頼が烏帽子親。 |
細川晴元 |
管領 |
幕政の主導権維持、将軍家および氏綱の打倒 |
義晴・義輝父子と敵対。氏綱と敵対。六角定頼は舅。三好長慶は家臣だが警戒。三好政長を腹心とする。 |
細川氏綱 |
細川京兆家分家 |
晴元を打倒し、管領職を奪取 |
晴元と敵対。将軍家と同盟。遊佐長教が後援。 |
三好長慶 |
細川家臣(阿波守護代) |
晴元への宿怨、自己の勢力拡大、実力による地位向上 |
主君は晴元だが、父の仇であり不信。同族の三好政長と敵対。 |
三好政長 |
細川家臣 |
晴元の腹心として権勢を維持、長慶の牽制 |
晴元に忠誠。長慶と敵対。 |
六角定頼 |
近江守護 |
畿内における影響力の維持・拡大、キャスティング・ボートを握る |
義輝の烏帽子親。晴元の舅。将軍家と晴元の間で中立的立場を模索。 |
朽木稙綱 |
近江の国人(奉公衆) |
将軍家への奉公、領地の安泰 |
代々足利将軍家に仕える。将軍家の伝統的な庇護者。 |
第四章:舎利寺の戦い ― 三好長慶、その名を轟かす
将軍家と細川氏綱の連携という、自らの政権に対する明確な挑戦に対し、管領・細川晴元は即座に反撃を開始した。この局面で、戦いの趨勢を決定づけたのは、将軍・義晴が最後の頼みとしていた六角定頼の動向であった。
晴元方の反撃と六角定頼の背反
定頼は、将軍・義輝の烏帽子親という名誉ある立場と、娘婿である晴元を支援するという現実的な利害を天秤にかけた。そして、彼は後者を選んだ。定頼は将軍家との約束を反故にし、娘婿である晴元に援軍を派遣することを決定したのである 22 。この裏切りにより、義晴の描いた挟撃作戦は完全に破綻した。軍事的・政治的に後ろ盾を失った将軍家は、一転して窮地に立たされることになった。
七月:摂津舎利寺の決戦
天文16年7月(一説には8月6日)、両軍の主力は摂津国の舎利寺(現在の大阪市生野区周辺)で激突した 13 。細川氏綱軍と、それに味方する将軍配下の軍勢に対し、細川晴元軍が雌雄を決するべく戦いを挑んだのである。
この決戦において、晴元軍の中核を担い、その軍事的才能を遺憾なく発揮したのが、三好長慶であった。長慶は、自身の本拠地である四国からの軍勢を主力とし、一説には500隻の軍船と2万と号する大軍を動員したとされる 13 。応仁の乱以来の大規模な合戦と評されるこの戦いで、長慶は圧倒的な軍事力をもって氏綱軍を粉砕した。氏綱軍は2,000人以上の死者を出すという壊滅的な打撃を受け、敗走した 13 。
戦いの影響
舎利寺の戦いの結果は、各勢力の運命を大きく左右した。
- 将軍家 : 連携していた氏綱軍が壊滅し、最後の頼みの綱であった六角定頼にも裏切られたことで、軍事的にも政治的にも完全に孤立無援の状態に陥った。京都に留まることはもはや不可能となり、都からの退去以外の選択肢を失った。
- 細川晴元 : 宿敵・氏綱を打ち破り、将軍家の挑戦を退けたことで、一時的にせよその権力を維持することに成功した 13 。しかし、この勝利はあまりにも大きな代償を伴うものであった。
- 三好長慶 : この戦いにおける圧勝は、三好長慶という武将の軍事的才能を畿内全域に轟かせ、その評価を不動のものとした。彼はもはや単なる細川家の有力な家臣ではなく、畿内の勢力図を単独で塗り替えうる実力者として、誰もが認めざるを得ない存在となったのである 13 。
この舎利寺の戦いは、晴元にとって「勝てば勝つほど自らの首を絞める」という、極めて逆説的な勝利であった。長慶は考えたに違いない。「主君・晴元は私を信用せず、父の仇でありながら、その力を利用するだけだ。ならば、この戦で私の武力がなければ晴元政権が成り立たないことを、天下に知らしめてやろう。これは、父の無念を晴らし、私が天下を望むための、確かな第一歩だ」。この勝利によって長慶の名声が高まれば高まるほど、主君である晴元の権威は相対的に低下し、両者の力関係は逆転していく。晴元は勝利に安堵する一方で、制御不能なまでに強大化した家臣への警戒心をさらに募らせ、腹心・三好政長への依存を強めていく。この確執の深化こそが、舎利寺の戦いがもたらした最大の帰結であり、わずか2年後の天文18年(1549年)、長慶が政長を討ち、晴元と将軍を京から追放する「江口の戦い」へと直結していくのである 12 。1547年の勝利は、1549年の下剋上の壮大な序曲となったのであった。
第五章:敗走、そして近江へ ― リアルタイム・ドキュメント
舎利寺での決定的な敗北は、将軍・足利義晴と義輝の運命を暗転させた。京都における全ての希望は断たれ、父子に残された道は、先祖代々繰り返されてきた「都落ち」のみであった。
表2:天文十六年(1547年)主要事変年表
時期 |
出来事 |
関係者の動向 |
正月26日 |
後奈良天皇への拝謁 |
将軍父子、京都にて朝廷への権威を誇示。晴元への政治的優位を狙う。 |
3月29日 |
将軍山城入城・氏綱方への与同表明 |
将軍父子、晴元への宣戦布告。六角定頼の支援を期待し、細川氏綱と結ぶ。 |
4月以降 |
晴元・六角連合軍の進軍 |
六角定頼が晴元に加勢。将軍・氏綱連合軍は軍事的に劣勢に立たされる。 |
7月(8月6日説あり) |
舎利寺の戦い |
三好長慶率いる晴元軍が、氏綱軍に圧勝。将軍方の軍事的中核が壊滅する。 |
7月19日 |
将軍山城を自焼し坂本へ退去 |
敗報と定頼の裏切りを受け、将軍父子は京都を脱出。近江坂本へ逃れる。 |
9月 |
坂本から朽木谷へ移動 |
晴元方の圧力が強まる中、さらに奥深く、将軍家と縁の深い朽木谷へ退去する。 |
七月十九日:都落ち
舎利寺での敗報、そして後ろ盾と信じていた六角定頼の裏切りという二重の衝撃は、将軍山城に籠る義晴・義輝父子を完全な窮地に追い込んだ。今や敵となった定頼は、父子に対して晴元との和解を強要するに至った 3 。しかし、一度は袂を分かった相手との屈辱的な和解を受け入れることは、将軍としての権威を完全に放棄することを意味した。
進退窮まった父子は、再起を期して京都を脱出することを決断する。天文16年7月19日、義晴と義輝は、拠点としていた将軍山城に自ら火を放ち、燃え盛る城を後にして、近江坂本へと落ち延びていった 3 。かつて父・義晴が幾度となく身を寄せた地ではあったが、もはやそこも安住の地ではなかった。
九月:朽木谷へ
坂本は京都に近く、今や敵となった六角氏の本拠地・観音寺城からも目と鼻の先である。細川晴元と三好長慶が率いる軍勢の圧力が日増しに強まる中、父子はさらに奥地へと移動する必要に迫られた。
そして9月、将軍父子は坂本を離れ、若狭街道の要衝であり、古くから足利将軍家と深い主従関係で結ばれてきた奉公衆・朽木稙綱の所領である、山深い朽木谷(現在の滋賀県高島市)へとその身を移した 21 。これは、単なる避難場所の変更ではない。畿内の政治の中心から完全に隔絶された山中の僻地への退去は、将軍家が畿内における実権を完全に喪失したことを天下に示すものであった。
第六章:朽木御所の日々 ― 将軍府の亡命と再起への布石
将軍家の庇護者・朽木氏
将軍父子が最後の頼みとした朽木谷は、足利将軍家にとって特別な意味を持つ土地であった。この地を治める朽木氏は、近江源氏佐々木氏の一流であり、室町幕府の成立以来、将軍直属の親衛隊ともいえる奉公衆として代々将軍家に仕えてきた名門である 26 。当時の当主であった朽木稙綱は、10代将軍・足利義稙から「稙」の一字を賜るなど、将軍家との個人的な関係も極めて密接であった 27 。
また、朽木谷は京都と日本海側の若狭国小浜を結ぶ交通の要衝を押さえつつ、四方を山に囲まれた天然の要害でもあった 29 。そのため、過去にも政争で京を追われた将軍を庇護した歴史があり、将軍家にとって最後の駆け込み寺ともいえる場所だったのである。
亡命政権「朽木御所」
朽木谷に迎えられた将軍父子は、ここに事実上の亡命政権、世に言う「朽木御所」を樹立する。ここを拠点として、父子は京都への帰還を目指し、各地の有力大名に使者を送って協力を求めるなど、懸命な外交努力を続けることになる。
しかし、この亡命生活は長期化を余儀なくされた。天文17年(1548年)に一度は細川晴元と和睦が成立し、1年ぶりに帰京を果たすも 1 、その平和は長くは続かなかった。翌天文18年(1549年)、今度は細川晴元がその家臣であった三好長慶に「江口の戦い」で敗北。晴元は将軍父子を伴って、またしても近江坂本へと逃れることになるのである 1 。そして、父・義晴はついに京の地を再び踏むことなく、天文19年(1550年)に近江の地で失意のうちに病没した 2 。
若き義輝への影響
この一連の出来事、すなわち11歳で将軍となりながら、その治世の始まりを都からの敗走と亡命先での苦闘で過ごした経験は、若き将軍・足利義輝の人格形成に決定的かつ深刻な影響を与えた。父と共に権力闘争の非情さを目の当たりにし、有力大名の裏切りによって全てを失う屈辱を味わい、そして最愛の父を異郷の地で看取った。この経験は、義輝の心に深い無力感と、他者の力を安易に信用することへの強い不信感を刻み込んだ。
朽木御所の存在は、当時の日本の統治構造における「権威(将軍)」と「実力(武力)」が完全に分離してしまった状態を象徴している。将軍は、朽木という山中の亡命先から、全国の大名に和平交渉の斡旋や官位の授与といった命令を下す(権威の行使)。しかし、その命令を実効性あらしめる軍事力(実力)は、彼自身の手にはなく、気まぐれな大名たちの協力に依存せざるを得なかった。この無力感こそが、後の義輝を、他者の武力に頼るのではなく、自らの武威と卓越した外交手腕によって将軍権威の回復を目指す、類まれな「剣豪将軍」へと変貌させた原動力であったと考えられる。大名間の調停に精力的に奔走し、時には自ら剣を振るってその威光を示そうとした彼の治世の原点は、間違いなくこの朽木谷での屈辱と苦闘の日々にあったのである。
結論:一つの退去が映し出す時代の転換点
天文16年(1547年)の「将軍義輝近江退去」は、戦国史の年表における一行の記述に留まらない、時代の大きな転換を告げる画期的な事件であった。この出来事は、複数の歴史的力学が交錯した結節点であり、その影響は畿内のみならず、戦国時代全体の趨勢に及んだ。
第一に、この退去は、足利将軍家が傀儡状態から脱却し、自立を目指した最後の大きな賭けの完全な失敗を意味した。父・義晴が描いた、六角定頼を後ろ盾として細川晴元政権を打倒する計画は、定頼の裏切りによって脆くも崩れ去った。これにより、将軍家は自らの軍事力も、信頼できる後援者も失い、その権威は名実ともに地に墜ちた。
第二に、この事件は、畿内に君臨した細川晴元政権の内部崩壊の序章であった。晴元は将軍家の挑戦を退けることには成功した。しかし、その勝利は、家臣である三好長慶の圧倒的な軍事力に依存したものであり、結果として長慶の野心を刺激し、その台頭を決定的なものにした。主君を救った勝利が、自らの首を絞める結果となる。この皮肉な構図こそ、下剋上の時代の本質を物語っている。
そして何よりも、この事件は、三好長慶という新たな時代の覇者が、その実力を天下に示す最初の舞台となった。舎利寺の戦いにおける圧勝は、彼がもはや一介の被官ではなく、畿内の政治秩序を自らの力で構築しうる存在であることを証明した。この事件を境に、畿内の政治力学は「将軍―管領」という旧来の枠組みから、「実力者・三好長慶」を中心とする新たな秩序へと大きく舵を切ることになる。
事実、この2年後の天文18年(1549年)、長慶は江口の戦いで主君・晴元と、晴元が擁する三好政長を打ち破り、将軍父子をも畿内から駆逐する。そして、織田信長に先駆けること約20年、事実上の「天下人」として畿内に君臨する三好政権を樹立するのである 13 。
若き義輝が朽木谷で味わった屈辱は、彼の生涯をかけた将軍権威回復への苦闘の原点となり、それは最終的に三好三人衆らによる暗殺(永禄の変)という悲劇に行き着く。そして、その弟・義昭を奉じて上洛する織田信長の登場まで、畿内は三好氏とその家臣団が支配する時代が続く。天文16年の将軍退去は、その全ての始まりを告げる、静かな、しかし決定的な号砲だったのである。
引用文献
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- 足利義輝の家系図・年表/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/89263/
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- 京都追放→流浪は足利将軍のお家芸。15年も流浪して返り咲いた10代将軍足利義稙の生涯【麒麟がくる 満喫リポート】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/1016152
- 足利義晴の家系図・年表/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/89233/
- 室町13代将軍・足利義輝の外交政策…戦国大名は幕府再興の要。一方で朝廷は軽視? https://sengoku-his.com/353
- 室町幕府12代将軍/足利義晴|ホームメイト https://www.meihaku.jp/muromachi-shogun-15th/shogun-ashikagayoshiharu/
- 六角定頼 武門の棟梁、天下を平定す - ミネルヴァ書房 https://www.minervashobo.co.jp/book/b449986.html
- 「六角義賢(承禎)」信長に最後まで抵抗し続けた男! 宇多源氏の当主 - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/308
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- 細川晴元は何をした人?「将軍を追い出して幕府にかわって堺公方府をひらいた」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/harumoto-hosokawa
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- 三好長慶は何をした人?「五畿を平定して信長に先駆けた最初の天下人になった」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/nagayoshi-miyoshi
- 「三好政長(宗三)」宗家当主の三好元長を排除した細川晴元の側近 - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/610
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- 大物崩れ/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/11089/
- 「三好元長」晴元家臣として功績を挙げるも、関係悪化で主君に ... https://sengoku-his.com/439
- 細川晴元(ほそかわ はるもと) 拙者の履歴書 Vol.67~管領の座から転落、激動の宿命 - note https://note.com/digitaljokers/n/na9233d991bf6
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- 「足利義晴」管領細川家の内紛に翻弄された室町幕府12代将軍。 | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/207
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