小千谷縮生産拡大(1600)
「Perplexity」で事変の概要や画像を参照
慶長五年越後大乱と小千谷縮の黎明:1600年「生産拡大」説の再検証
序章:1600年、越後小千谷の錯綜する歴史像
慶長五年(1600年)、日本の歴史が関ヶ原の戦いを軸に大きく転換したこの年に、越後国小千谷で「特産織物の生産が拡大し交易が伸長」したという事象は、一見すると戦国時代の終焉がもたらした経済的恩恵の一例として捉えられがちである。しかし、史料を深く精査する時、1600年の越後、とりわけ小千谷を含む魚沼地方は、「生産拡大」とは全く逆の、戦乱と破壊の渦中にあったという、驚くべき歴史的実像が浮かび上がる。
本報告書は、この歴史認識の間に存在する重大な齟齬を解き明かすことを目的とする。まず、1600年という年が、小千谷の織物史において、そして越後という地域全体にとって、どのような意味を持っていたのかを、政治的・軍事的側面から徹底的に検証する。なぜ「1600年」と「生産拡大」が結びつけられるに至ったのか、その背景にある歴史観を考察しつつ、当時のリアルタイムな状況を時系列で再構築する。
その上で、本報告書は、小千谷縮の真の黎明期を探求する。すなわち、1600年の動乱が終結し、新たな時代秩序が確立された後、いかなる社会的土壌と技術的革新が、後の飛躍的な生産拡大を可能にしたのかを詳述する。本稿は、第一部で1600年の大乱に至る政治的背景を、第二部で「上杉遺民一揆」の具体的な戦闘経過を、そして第三部で真の技術革命と産業としての確立が起こった江戸時代中期の状況を分析する。最終的に、1600年の軍事的「事変」が、未来の産業発展に意図せずして道を拓いたという、歴史の複雑でダイナミックな因果関係を提示し、結論としたい。
第一部:関ヶ原前夜の越後 ― 激動の政治情勢(1598年~1600年初頭)
第一章:支配者の交代と残された火種
慶長三年(1598年)、豊臣秀吉の命により、越後の領主であった上杉景勝は会津120万石へと移封された。これは単なる領地替えではなく、五大老筆頭の徳川家康を牽制し、東北地方に強力な豊臣恩顧の大名を配置するという、秀吉の高度な政治的、軍事的計算に基づくものであった 1 。上杉氏が去った後の越後には、秀吉子飼いの武将である堀秀治が45万石の領主として春日山城に入城した。しかし、長年にわたり越後の国人衆を束ね、在地社会に深く根を張ってきた上杉氏と異なり、堀氏の統治基盤は極めて脆弱であった 2 。
問題は、統治者の正統性だけに留まらなかった。上杉氏の経済力は、領内の米穀収入のみならず、麻織物の原料となる青苧(あおそ)の生産と流通を掌握する同業者組合「青苧座」からの収益、そして日本海交易の拠点であった直江津港に出入りする船舶から徴収する湊銭(入港税)によって大きく支えられていた 4 。この複雑な利権構造は、上杉氏と在地勢力(国人領主や商人)との長年の信頼関係の上に成り立っており、新領主である堀氏がこれを短期間で完全に掌握することは不可能であった。
さらに深刻な問題は、人的な火種であった。上杉氏の会津移封に際し、全ての家臣団が越後を去ったわけではなかった。先祖代々の土地に深く根を下ろした在地武士(国人)や土豪層の一部は、新領主である堀氏の支配を潔しとせず、旧主への忠誠心を秘めたまま越後に残留したのである。彼らこそが、後に「上杉遺民」と呼ばれ、大規模な武力蜂起の中核を担うこととなる 2 。彼らは単なる残留者ではなく、来るべき動乱に備え、上杉氏が意図的に残した「潜伏部隊」としての側面を持っていた。
第二章:堀氏の統治と経済的苦境
堀秀治の越後統治は、着任当初から深刻な困難に直面した。慶長三年(1598年)六月、秀治が越後に入国した時には、その年の年貢米はすでに上杉景勝によって会津へと運び去られた後であった 3 。これにより、堀氏の財政は初年度から破綻状態に陥り、統治に必要な資金を確保するため、皮肉にも前領主である上杉家から米を借用せざるを得ないという屈辱的な事態にまで追い込まれた 2 。
この財政危機を打開し、領内支配を強化するため、堀氏は新たな検地(太閤検地に倣った検地)の実施に踏み切った。しかし、これは実質的に領民への負担増を意味し、上杉時代を懐かしむ在地勢力の不満をさらに増幅させる結果となった 3 。上杉氏の移封に伴い、多くの農民も越後を去り、耕作放棄地が増加していた状況下での増税策は、領民の生活を著しく圧迫するものであった 3 。堀氏による統治は、上杉氏が築き上げた地域経済システムを理解せず、近視眼的な収奪を試みた経済統治の失敗であり、これが領国経営を極度に不安定化させた。
この越後の不穏な情勢を、会津から静観していたのが上杉家の執政・直江兼続であった。兼続は、堀氏の統治に不満を抱く越後の在地勢力と密かに連絡を取り、来るべき徳川家康との決戦に備え、蜂起を煽動した。これは、家康方である堀氏の背後を脅かし、その軍事力を越後に釘付けにするための、高度な軍事戦略であった 2 。越後の火種は、外部からの風によって、燃え上がる寸前の状態にあったのである。
第二部:リアルタイムで追う「1600年越後大乱」 ― 上杉遺民一揆の全貌
慶長五年(1600年)の越後、特に小千谷周辺で繰り広げられた「上杉遺民一揆」は、関ヶ原の戦いと密接に連動した、徳川方(東軍)と豊臣方(西軍)の代理戦争であった。その戦況は越後全域に及び、複雑な経過を辿った。以下に、主要な戦闘の推移を時系列で整理する。
表1:上杉遺民一揆の時系列展開(慶長五年 / 1600年)
日付(慶長5年) |
場所(郡名・城名) |
東軍(堀氏)の動向 |
西軍(一揆勢・上杉方)の動向 |
結果・備考 |
7月下旬 |
魚沼郡・下倉城 |
城主・小倉政熙が守備。 |
一揆勢が攻撃を開始。 |
下倉城陥落、小倉政熙討死 8 。一揆の本格的な勃発。 |
8月2日 |
魚沼郡・下倉城 |
坂戸城主・堀直寄が奪還作戦を開始。 |
- |
堀軍が下倉城を奪還 8 。 |
8月3日 |
三条・三条城 |
堀直政の嫡男・堀直清が城を守備。 |
一揆勢が三条城を包囲・攻撃。 |
堀氏の拠点に対する大規模な攻撃 8 。 |
8月~9月 |
越後各地(魚沼、小千谷、柿崎など) |
各地の城で防戦。 |
古城の修築や新砦の構築を行い、組織的に戦闘を継続 8 。 |
越後全域が内戦状態に陥る。 |
9月15日 |
美濃・関ヶ原 |
- |
- |
関ヶ原の戦いで西軍本隊が敗北。 |
9月下旬以降 |
越後各地 |
関ヶ原の勝利を受け、本格的な鎮圧作戦を開始。 |
西軍敗北の報により士気が低下。 |
堀氏が反攻に転じ、一揆勢は次第に追い詰められる。 |
10月以降 |
越後各地 |
残存勢力の掃討。 |
組織的抵抗が終焉。 |
数ヶ月にわたる内乱が鎮圧され、堀氏の支配が確立。 |
第一章:蜂起の勃発(1600年7月~8月)
慶長五年七月、徳川家康が上杉討伐を名目に会津へ向けて出陣すると、これを待っていたかのように直江兼続は行動を開始した。最上義光領(山形)への侵攻を開始すると同時に、越後に潜伏する上杉遺民や不満を持つ在地勢力に対し、一斉蜂起の指令を下したのである。
緒戦は一揆勢の圧倒的な優勢で進んだ。七月下旬、魚沼郡の下倉城が一揆勢の猛攻を受け、城主の小倉政熙は奮戦するも討死、城は陥落した 8 。これは、一揆勢の周到な準備と高い士気、そして堀氏の支配が末端の城砦にまで浸透していなかったことを示す象徴的な出来事であった。
この勝利に勢いを得た一揆勢の動きは、越後全域へと瞬く間に拡大した。魚沼地方はもとより、小千谷、柿崎など各地で蜂起が相次ぎ、堀氏の支配は根底から揺らいだ 8 。一揆勢は単なる烏合の衆ではなく、古城を修築し、会津との国境地帯には新たに砦を構築するなど、高度に組織化された軍事行動を展開した 8 。八月三日には、堀氏の執政・堀直政の居城である三条城が攻撃を受けるに至り、戦火は越後の中枢へと迫った。この時点で、越後は完全な内戦状態に突入したのである。
第二章:戦火の中の小千谷
史料には、この大乱の戦場として「小千谷」の名が明確に記されている 8 。小千谷は魚沼郡に属し、信濃川の舟運を押さえる交通の要衝である。この地を巡る攻防は、堀氏の領国を南北に分断し、補給路を遮断する上で極めて重要な意味を持っていた。したがって、この地域が激しい戦闘の舞台となったことは疑いようがない。
この事実は、「1600年の小千谷縮生産拡大」という説を根本から覆すものである。戦時下において、原料となる青苧の栽培、収穫した繊維から手で糸を績む作業、そして時間をかけて機を織るといった、一連の平和を前提とする生産活動は完全に不可能であった。地域の農民は、戦闘員として動員されるか、あるいは戦火を逃れて山中へ避難していたと考えるのが自然である。街道は寸断され、商人の往来も途絶える。1600年の小千谷は、織物の「生産地」ではなく、関ヶ原の戦いの東部戦線における「最前線」だったのである。「生産拡大」どころか、既存の生産基盤そのものが崩壊の危機に瀕していたと結論付けられる。
第三章:関ヶ原の戦いと越後の終結(1600年9月以降)
八月から九月にかけて越後全土で続いた激しい戦闘は、九月十五日、遠く離れた美濃国関ヶ原での出来事によって転機を迎える。西軍本隊が、わずか一日で徳川家康率いる東軍に壊滅させられたのである。
この報が越後にもたらされると、戦局は一変した。絶対的な後ろ盾であった上杉景勝が率いる西軍の敗北は、一揆勢の士気を根底から打ち砕いた。勝利の望みを失い、一揆勢の結束は急速に崩壊していった。
一方、堀氏はこの好機を逃さなかった。関ヶ原での勝利によって後顧の憂いがなくなった堀軍は、本格的な反撃に転じる。各地の城や砦に立てこもる一揆勢を各個撃破し、数ヶ月にわたって続いた大乱を力で鎮圧した。この一揆の鎮圧は、越後における上杉氏の影響力を完全に排除し、堀氏による新たな支配体制を確立する決定的な契機となった。それは、越後において戦国時代が名実ともに終焉し、徳川幕藩体制下の近世的な領国秩序へと移行する、血を伴う画期であった。この動乱は、短期的には破壊と混乱をもたらしたが、長期的視点で見れば、旧来の国人領主による割拠的な支配構造を解体し、新たな産業が発展するための社会的な更地を用意した「創造的破壊」のプロセスであったと評価できる。
第三部:小千谷縮、真の黎明期 ― 混乱から創造へ
第一章:越後麻布の伝統と基盤
1600年の動乱が、小千谷縮生産の直接的な契機でなかったとすれば、その真の起源はどこに求められるべきか。答えは、越後の地に古くから根付いていた麻織物の豊かな伝統にある。
越後における麻織物の歴史は極めて古く、縄文時代の土器に布の圧痕が残されていることからも、その源流は先史時代にまで遡ると考えられている 9 。歴史時代に入ると、奈良の正倉院には天平年間(8世紀中頃)に税として納められた「越後布」が今も保管されており、この地が古くから高品質な麻織物の産地として中央にも知られていたことがわかる 10 。
戦国時代には、上杉謙信が越後の特産品である越後上布(じょうふ、高品質な麻布)を、織田信長への贈答品として用いた記録が残っている 11 。その原料である青苧の生産と流通は、上杉氏の領国経営を支える重要な財源の一つであった 7 。豪雪地帯である越後の湿潤な気候は、麻の繊維を扱うのに適しており、長く厳しい冬の間の女性たちの重要な手仕事として、その技術は連綿と受け継がれてきた 9 。
しかし、1600年時点の越後布は、あくまでも平織の高級麻布であった。後の小千谷縮の最大の特徴となる、布の表面の細かな凹凸、すなわち「シボ」を生み出す技術は、まだこの地には存在していなかった。豊かな伝統という土壌はあったが、革命的な飛躍には、外部からの新たな知見と、それを可能にする時代の到来を待たねばならなかった。
第二章:堀次郎将俊と技術革命(寛文年間:1661年~1673年)
1600年の大乱から半世紀以上の歳月が流れた寛文年間(1661年~1673年)、徳川幕府による治世は安定期に入り、日本は未曾有の平和を享受していた。社会の安定は、人々の移動を活発にし、各地の技術や文化の交流を促した。この時代背景こそが、小千谷縮誕生の舞台を整えた。
この時期、播州明石(現在の兵庫県明石市)の元武士であった堀次郎将俊(ほりじろうまさとし)、通称・明石次郎という人物が小千谷の地に移り住んだ 17 。彼がもたらした知見こそが、越後の麻織物に革命をもたらすことになる。堀次郎は、故郷の明石で織られていた絹織物「明石縮」が持つ、独特のシボのある風合いを、越後の麻織物に応用することを着想したのである 20 。
その技術の核心は、二つの工程にあった。第一に、緯糸(よこいと)に極めて強い撚り(より)をかけること。第二に、その強撚糸を用いて織り上げた布を、湯の中で丹念に揉み込む「湯もみ」という作業を行うことである 18 。湯の中で揉まれると、強く撚られた緯糸が元に戻ろうとして収縮し、布の表面に均一で細かな凹凸、すなわち「シボ」が生まれる。
このシボの創出は画期的であった。布が肌に密着せず、常にさらりとした感触を保つため、通気性に富み、高温多湿な日本の夏に最適な衣料が誕生した。従来の平滑な越後上布とは全く異なる、機能性と独特の美しさを兼ね備えたこの新しい麻布は「小千谷縮」と名付けられ、夏の高級織物としてその名を馳せることになる 17 。小千谷縮の誕生は、無からの発明ではなく、越後の伝統的な素材(高品質な麻)と、明石の先進的な加工技術(絹織物のシボ出し技法)とが、堀次郎将俊という一人の人物を介して融合した「技術のハイブリッド化」の賜物であった。
第三章:生産拡大と市場の形成
堀次郎将俊によって完成された小千谷縮の製造技術は、小千谷から魚沼地方一帯へと爆発的な勢いで普及した 20 。その生産量は飛躍的に増大し、小千谷村の記録によれば、天和元年(1681)に2,517反であった生産高が、わずか一年後の翌年には5,062反へと倍増したことが記されている 25 。
この需要の高まりに応える形で、17世紀中頃から、小千谷には「縮市」が開かれるようになった。毎年春から夏にかけて開かれるこの市には、江戸、京、大坂の三大都市をはじめ、全国各地から商人が集まった 20 。小千谷は、単なる生産地から、全国規模の流通網を持つ一大集散地へと変貌を遂げたのである。
やがて、生産者から製品を買い付けて全国市場に供給する問屋制度が確立され、小千谷縮は産業としての基盤を固めていった 25 。その品質は高く評価され、幕府や諸大名の御用布として採用される一方、富裕な町人たちの間でも夏の最高級衣料として広まり、魚沼地方を代表する一大産業へと発展した 13 。その最盛期であった天明年間(1780年代)には、年間生産量が20万反を超えたと記録されている 28 。
この目覚ましい発展は、1600年の動乱によってもたらされた「平和と秩序」という政治的・社会的土壌なくしてはあり得なかった。徳川幕府が確立した安定した社会、整備された街道網、そして藩の権威によって保証された安全な商業活動という基盤があって初めて、一介の浪人がもたらした技術革新の種は芽吹き、産業として花開くことができたのである。
結論:1600年の「事変」が拓いた道
本報告書の詳細な調査によって、「小千谷縮生産拡大(1600)」という事象は、歴史的誤認であることが明白となった。慶長五年(1600年)の小千谷は、関ヶ原の戦いと連動した「上杉遺民一揆」という大規模な内乱の戦禍にあり、およそ生産活動とは無縁の、破壊と混乱の渦中にあった。特産織物の生産が拡大するどころか、その基盤自体が脅かされていたのである。
しかし、歴史を長期的視点から俯瞰する時、この1600年の軍事的「事変」は、後の小千谷縮の発展にとって、皮肉にも決定的な意味を持っていたことが明らかになる。この内乱の鎮圧を通じて、越後における上杉氏旧来の、国人領主を基盤とした中世的な支配構造は完全に終焉を迎えた。そして、それに代わる、より中央集権的で均質な近世的支配体制が確立されたのである。
この政治的・社会的基盤の安定という「土壌」がなければ、その約60年後に堀次郎将俊という技術革新の「種」がこの地に蒔かれても、決して芽吹くことはなかったであろう。戦国の遺風を払拭した1600年の動乱は、意図せざる結果として、新たな産業が花開くための道を拓いたのである。
したがって、1600年は「生産拡大」の年ではなかった。しかし、それは後の「生産拡大」を可能ならしめた、血を伴う「産みの苦しみ」の年であったと結論付けられる。それは、戦国から近世へと時代が大きく移行する中で、一つの地域産業が誕生するまでに、政治の動乱と経済の発展がいかに複雑な綾を織りなすかを示す、極めて示唆に富んだ歴史の一幕である。
引用文献
- 「失敗の日本史」上杉景勝の判断ミスがなければ徳川家康は関ヶ原で負けていた 大局が読めないしくじり大名の末路 - プレジデントオンライン https://president.jp/articles/-/45133?page=1
- 福島城と堀秀治万葉風 - WAKWAK http://park2.wakwak.com/~fivesprings/books/niigata/hori.html
- 越後国・堀氏の讒言と会津征討【前編】 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/8511
- file-17 直江兼続の謎 その2~上杉家の関ヶ原~ - 新潟文化物語 https://n-story.jp/topic/17/
- 「きもの十日町のあゆみ」より 越後布時代 青苧座と上杉氏 https://karamushi.jp/blog/2010/12/31/%E3%80%8C%E3%81%8D%E3%82%82%E3%81%AE%E5%8D%81%E6%97%A5%E7%94%BA%E3%81%AE%E3%81%82%E3%82%86%E3%81%BF%E3%80%8D%E3%82%88%E3%82%8A%E3%80%80%E8%B6%8A%E5%BE%8C%E5%B8%83%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%80%80%E9%9D%92/
- 長尾能景書状 - 上越市ホームページ https://www.city.joetsu.niigata.jp/site/cultural-property/cultural-property-city057.html
- 上越立ち止まりスポット9-②(青苧:あおそ)|Gustav Papa - note https://note.com/ishimasa/n/n8bb970d10def
- 上杉遺民一揆 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E9%81%BA%E6%B0%91%E4%B8%80%E6%8F%86
- 小千谷縮の特徴と魅力|なぜ雪さらしをするの? - 地域百貨 https://chiikihyaku.jp/goods/927.html
- 夏着物の代表『小千谷縮』とは?値段と技術の違い、ユネスコ無形文化遺産に指定された歴史ある織物の特徴や工程を紹介 | きものおもひ https://kimonoomohi.com/process/natsu_kimono/
- file-32 越後上布ってどんな布? - 新潟文化物語 https://n-story.jp/topic/32/
- 幻の織物といわれる越後上布!小千谷縮との違いや特徴をご紹介! https://kitsuke-lesson.info/column/introduction-8/
- 小千谷縮の歴史 - IONOストア https://ojiya-chijimi.jp/history/chijimi/history
- 【特集】越後の青苧(あおそ)は上杉謙信の財源だったのか?歴史上の謎を探る - 新潟県内のニュース https://www.niikei.jp/486149/
- 奉納越後上布幟 - 文化遺産オンライン https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/136174
- ユネスコ無形文化遺産「小千谷縮・越後上布」 - 南魚沼市 https://www.city.minamiuonuma.niigata.jp/docs/3820.html
- 小千谷縮(おぢやちぢみ) - 小千谷市ホームページ https://www.city.ojiya.niigata.jp/site/kanko/ojiyachijimi.html
- 小千谷の織物 https://ojiya.or.jp/cloth/
- 堀将俊 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E5%B0%86%E4%BF%8A
- 小千谷縮 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%8D%83%E8%B0%B7%E7%B8%AE
- 吉新織物有限会社 | 小千谷縮|重要無形文化財|小千谷ちぢみ|麻織物|新潟県| 織物 着物 伝統工芸 https://www.yoshishin-orimono.com/
- 【新潟県⑤】十日町明石縮(とおかまちあかしちぢみ)|暮らしの美フェスタ https://tiiki.jp/tradition/item20.html
- 小千谷縮(おぢやちぢみ)とは | IONOストア - 歴史・技法・素材 https://ojiya-chijimi.jp/history/chijimi
- 小千谷縮(おぢやちぢみ) - 新潟県ホームページ https://www.pref.niigata.lg.jp/sec/chiikishinko/1293144422887.html
- 歴史 | 小千谷織物同業協同組合 https://ojiya.or.jp/history/
- 小千谷縮の歴史~さらりとした風合いが特徴の織物~ | ハレトケギフト https://blog.haretoke.gift/6760/
- 歴史|株式会社西脇商店|越後産地織物 染織品 製造卸販売|小千谷市 https://www.nishiwaki-ojiya.com/ourstory/
- 歴史|重要無形文化財 越後上布・小千谷縮布技術保存協会 ウェブサイト https://johfu-chijimi.jp/history.html
- 小千谷縮(ちぢみ)!世界文化遺産に登録された夏着物の最高峰!その産地と特徴に迫る https://ichika-wasou.jp/blogs/kimono-usefull/tsumugi-05-odiya
- 小千谷縮(おぢやちぢみ)とは?400年続く涼感麻織物の歴史・魅力・購入方法まで紹介 https://kogei-japonica.com/media/crafts/ojiya-chijimi/
- 小千谷縮布は何を残したのか - researchmap https://researchmap.jp/read0084067/misc/30948082/attachment_file.pdf