最終更新日 2025-09-27

小浜城築城(1601)

京極高次、関ヶ原の功臣として若狭国主となり小浜城を築く。中世山城から海城への転換は、戦国から泰平の世への移行を象徴。港町と一体化した都市設計で、日本海交易の要衝として小浜の繁栄を築いた。
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若狭小浜城築城始末 ― 関ヶ原の功臣、京極高次の国家構想と海城都市の誕生

序章:関ヶ原前夜、大津城の煙 ― 築城の序曲

慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが迫る中、その勝敗を左右するもう一つの重要な戦いが、琵琶湖畔の大津城で繰り広げられた。この戦いの主役こそ、後に若狭小浜城を築城することになる京極高次である。彼の行動は、小浜城誕生の直接的な序曲であり、その決断の背景を時系列で追うことは、築城の歴史的意義を理解する上で不可欠である。

徳川家康が会津の上杉景勝討伐のため大坂を発ったのは、同年6月のことであった。その途上、6月18日に家康は高次の居城である近江大津城に立ち寄る 1 。この時、高次は家康を丁重に饗応し、正室であるお初(浅井長政の次女)や、豊臣秀吉の側室であった妹の松の丸殿らと共に家康に拝謁した。この密会の場で、家康は高次に吉光の名を持つ小脇差を与え、「上方に変事あらば、大津を頼みとす」との言葉をかけたとされる 1 。これは単なる表敬訪問ではなく、来るべき決戦に向けた東軍への加担を促す、極めて政治的な密約であった。この瞬間、高次の運命の歯車は大きく動き始めていた。

やがて石田三成らが西軍を蜂起させると、近江の諸大名の多くが西軍に与した。この状況下で、高次は表向き西軍に従う姿勢を見せる 1 。彼は大谷吉継が率いる北国方面軍に加わるが、これは西軍を欺き、東軍に味方する好機を窺うための巧妙な偽装行動であった可能性が高い 1

そして、その時は来た。三成から北国から美濃へ転進せよとの命令が下ると、高次は突如として軍団を離れ、手勢約3,000を率いて居城大津城へと馳せ戻り、籠城の構えを見せたのである 2 。大津は琵琶湖水運と東海道・中山道を押さえる交通・軍事の要衝であり、西軍にとってこの裏切りは到底看過できるものではなかった 2 。直ちに毛利元康を総大将とし、立花宗茂、小早川秀包といった西軍の精鋭、総勢1万5千(一説には3万7千)もの大軍が大津城へと差し向けられた 2

壮絶な籠城戦の火蓋は、9月7日に切られた 2 。圧倒的な兵力差にもかかわらず、高次と城兵は果敢に抵抗した。夜陰に乗じて夜襲をかけるなど、その戦いぶりは凄まじく、特に家臣の赤尾伊豆守や山田大炊らの奮戦は目覚ましかったと記録されている 3 。しかし、衆寡敵せず、西軍の猛攻、とりわけ猛将・立花宗茂が率いる軍勢の攻撃は熾烈を極めた。

攻防は数日に及んだが、9月13日には三の丸、二の丸が相次いで陥落し、本丸は裸同然の危機的状況に陥る 5 。もはやこれまでと覚悟した高次であったが、9月14日、豊臣家からの使者(淀殿の使者とも、北政所の説得とも伝わる)を迎え、これ以上の将兵の犠牲を避けるべく、ついに開城を決意する 2

そして運命の9月15日、高次は城に近い園城寺(三井寺)に入り、剃髪染衣の姿となって降伏した 6 。奇しくもこの日、遠く美濃関ヶ原の地では、東西両軍が激突し、わずか半日で東軍の大勝利に終わっていた。高次は大津城から上がる狼煙で東軍の勝利を知ったが、時すでに遅く、「開城を決めた以上是非もなし」と潔く高野山へと退去した 5

結果として、高次の籠城はわずか一週間余りで終わった。しかし、この戦いが関ヶ原の本戦に与えた影響は計り知れない。立花宗茂ら西軍の最精鋭部隊1万5千を、決戦の当日まで大津の地に釘付けにし、関ヶ原の主戦場へ向かわせなかったのである 6 。戦後、大津に入った家康は、この高次の功績を「大なること」と最大限に評価し、灰燼に帰した大津の町と城を前に、彼に新たな未来を約束した 9 。高次の行動は、単なる状況判断による寝返りといった日和見主義的なものではない。もし関ヶ原の戦いが長期化、あるいは西軍の勝利に終わっていれば、京極家は確実に滅亡していたであろう。これは、自らの命と家門の存続の全てを「家康の勝利」という一点に賭けた、極めてリスクの高い戦略的投資であった。そしてこの賭けこそが、後の若狭一国拝領と小浜城築城へと繋がる壮大な物語の幕開けとなったのである。

第一部:若狭国主・京極高次の実像 ― 「蛍大名」の虚と実

小浜城の築城を語る上で、その事業主である京極高次という人物の多面的な実像を理解することは不可欠である。彼は「蛍大名」という不名誉なあだ名で知られる一方、関ヶ原での功績によって名誉を回復した武将でもある。その虚実入り混じる評価の背景には、彼の出自、そして彼を取り巻く類稀なる閨閥(けいばつ)ネットワークが存在した。

名門の凋落と閨閥の力

京極家は、室町幕府の四職(ししき)を務めたこともある佐々木源氏の名門であったが、戦国の下剋上の波に飲まれ、高次が生まれた頃には、かつての家臣であった浅井氏の庇護下にあるという凋落ぶりであった 10 。高次の母・京極マリアは浅井長政の姉であり、彼は浅井家の本拠・小谷城で幼少期を過ごした 10 。浅井家滅亡後は織田信長に仕えるも、本能寺の変後には明智光秀に与するなど、時流を読むことに失敗し、羽柴秀吉によって追われる身となるなど、苦難の青年期を送った 11

そんな彼の運命を劇的に好転させたのが、女性たちの力、すなわち閨閥ネットワークであった。まず、妹の龍子(後の松の丸殿)が秀吉の側室となったことで、その取りなしにより高次は許され、秀吉の家臣となることができた 6 。そして、彼の人生を決定づけたのが、天正15年(1587年)、従妹にあたる浅井三姉妹の次女・お初を正室に迎えたことであった 6

この婚姻により、高次は当代随一の閨閥の中心に位置することになる。妻の姉・茶々(淀殿)は豊臣秀頼の生母であり、豊臣政権の最高権力者の一人。そして妻の妹・お江は、後に徳川幕府二代将軍となる徳川秀忠の正室であった 4 。豊臣と徳川、天下を二分する両家の中心人物と極めて近い姻戚関係を結んだのである。この強力な縁戚関係が、彼を近江大津6万石の大名にまで押し上げた最大の要因と見なされ、「妻や妹の尻の光(七光り)で出世した」という意味合いから「蛍大名」と揶揄される所以となった 2

しかし、この閨閥は単なる個人的な出世の道具ではなかった。秀吉死後の緊迫した政治情勢において、豊臣家と徳川家の間に立つ京極家は、両陣営が非公式に接触できる数少ないチャンネルとして、一種の緩衝材、あるいはバランサーとしての極めて重要な政治的役割を担っていた。高次が交通の要衝である大津城主に抜擢されたのも、彼の武将としての資質に加え、このユニークな政治的立場が秀吉や家康に高く評価された結果であったと考えられる。

武将としての再評価と若狭拝領

「蛍大名」の陰に隠れがちだが、高次が決して無能な人物ではなかったことは、敵方の評価からも窺える。大津城籠城の際、西軍の将・大谷吉継は、高次の籠城を知り、「京極高次は智将であり、家臣の結束も固い。少兵といえど鉄壁の籠城になる」と、その能力を高く評価し警戒していた 4 。実際に、3,000の兵で1万5千以上の大軍を相手に一週間以上も持ちこたえた指揮能力と決断力は、凡将のできることではない 2 。丸亀藩京極家に伝わる肖像画はふっくらとした温和な容貌を描いているが、菩提寺である清瀧寺徳源院に伝わる木像は、眼光鋭い武将の面構えをしており、彼の多面的な人物像を物語っている 4

そして、大津城での功績が、彼の人生を再び大きく動かす。関ヶ原の戦後、徳川家康は高次の功を讃え、若狭一国8万5千石を与えた 9 。高次は一度、城を開城したことを恥じてこれを固辞したが、弟・高知らの説得により受諾した 3 。さらに翌慶長6年(1601年)には、近江高島郡に7千石を加増され、合計9万2千石の国持大名となった 4

この若狭国拝領は、単なる功績への報奨という側面だけでは説明できない。若狭は古代より「御食国(みけつくに)」として京の食文化を支え、日本海海運の要衝として経済的に極めて重要な地であった 15 。家康は、この経済の大動脈を掌握するため、自らに命がけの忠誠を示し、かつ豊臣家とも繋がりを持つ高次をこの地に配置するという、極めて戦略的な人事を行ったのである。これにより、凋落していた名門京極家は、高次という「中興の祖」を得て、近世大名家として華々しく再興を遂げた 4 。彼の新たな挑戦の舞台は、若狭の地へと移されたのである。

第二部:新時代の城づくり ― 後瀬山城から小浜城へ

若狭国主となった京極高次が最初に着手した大事業は、新たな居城の建設であった。しかし、彼は若狭武田氏以来の伝統的な拠点であった後瀬山城を継承せず、全く新しい場所に城を築くという大胆な決断を下す。この拠点移転は、単なる引っ越しではなく、戦国乱世から泰平の世へと移行する時代の大きな価値観の転換を象徴する、画期的な出来事であった。

旧拠点・後瀬山城の限界と新時代の要請

高次が入国した当初の若狭国の政庁は、後瀬山城であった。この城は、室町時代に若狭守護・武田氏によって築かれた、典型的な中世の山城である 16 。山全体を要塞化した構造は、戦時の防御拠点としては非常に優れていた。しかし、時代は大きく変わろうとしていた。関ヶ原の戦いを経て、世は「戦」から「治」の時代へと向かいつつあった。

このような新しい時代において、後瀬山城はいくつかの致命的な欠点を抱えていた。山頂にある詰城は標高が高すぎて日常の政務には不便であり、山麓にあった守護館は、9万石を超える大名の藩庁としてはあまりに狭隘であった 16 。もはや城は、敵の攻撃から身を守るだけの軍事要塞ではなく、領国全体の行政を司り、経済を活性化させるための中心的拠点としての機能が求められていたのである 16 。山の上に領民を見下ろすように構える「垂直的」な支配の象徴であった山城は、新しい時代の統治理念にはそぐわなくなっていた。

雲浜への遷都 ― 地理的・経済的ポテンシャルの選択

高次が新たな城の建設地として選んだのは、北川と南川という二つの川の河口に挟まれた「雲浜(うんぴん)」と呼ばれる広大な三角州であった 16 。この選択は、極めて合理的かつ先進的なものであった。

第一に、その防御性である。三方を川と海に囲まれたこの地は、天然の堀を持つ要害であり、平地にありながら高い防御力を期待できた 16

第二に、そしてより重要なのが、その経済的・交通的なポテンシャルである。小浜は古くから日本海有数の港町として栄え、戦国時代末期には「泉州堺か若狭小浜か」と並び称されるほどの繁栄を誇っていた 15 。雲浜の地は、この活気ある港に隣接し、水運を最大限に活用できる絶好のロケーションであった。高次は、既存の港湾機能と新しい城を一体化させることで、領国経済のネットワークの中心に自らを置き、そこから生み出される富によって藩の財政基盤を確立するという「水平的」な支配モデルを構想したのである。この拠点移転は、彼の統治思想そのものを体現するものであった。

近世城郭としての基本設計

小浜城の基本設計(縄張り)は、高次の家臣であり、大津城籠城戦でも武勇を示した赤尾伊豆守と、安養寺三郎左衛門が担当したと伝えられている 20 。彼らが描いた設計図は、来るべき泰平の世を見据えた、近世城郭の理想形を追求するものであった。

城郭の形式は、本丸を中心に二の丸、三の丸が同心円状に広がる「輪郭式」の平城とされた 16 。これは、防御性に優れるだけでなく、城下町とのスムーズな連携を可能にし、行政拠点としての利便性を高めるための合理的な配置であった。戦時の防御性よりも、平時の統治機能に重きを置くという、近世城郭の思想が明確に反映されていた 16 。高次の決断は、若狭の地に、軍事・行政・経済が一体となった新しい時代の都市を創造する、壮大なグランドデザインの第一歩だったのである。

以下の表は、高次が捨てた城と、新たに築こうとした城の性格の違いを明確に示している。

比較項目

後瀬山城(旧拠点)

小浜城(新拠点)

立地

山上(標高約150m)

海浜・河口三角州(平地)

城郭形態

中世山城

近世平城(輪郭式海城)

主要機能

軍事防衛、籠城

藩庁(行政)、港湾(商業)、物流ハブ

統治理念

権威と武力による垂直的支配

経済掌握による水平的支配

時代背景

戦国乱世

徳川治世(パクス・トクガワーナ)の到来

この比較から、小浜城築城が単なる建築事業ではなく、時代の変化を的確に捉えた戦略的な「国家(藩)構想」であったことが鮮明に浮かび上がってくる。

第三部:慶長六年の槌音 ― 築城のリアルタイム・ドキュメント

慶長6年(1601年)、京極高次は若狭の未来を賭けた一大プロジェクト、小浜城の築城に着手した。その槌音は、新しい時代の到来を告げる響きであったが、同時にそれは領民の労苦と、当時の最先端技術、そして中央政権との複雑な力学の中で奏でられる、困難な協奏曲でもあった。

第一章:普請の開始と領民の負担

築城は、まず広大な雲浜の三角州を城地として造成することから始まった 16 。城の予定地にあった下竹原の集落は西津へと移転させられ、いよいよ本格的な工事が開始される 19

最初の、そして最も困難な作業は、軟弱な地盤を固めるための大規模な捨石工事であった 19 。この普請は「国役普請」として若狭一円の浦々に課せられた 21 。三人乗り以上の船を持つ者は、若狭湾の名勝・蘇洞門(そとも)などから切り出された巨石を船に積み、小浜の築城現場まで運ぶことを命じられたのである 19 。これは、領民にとって極めて重い夫役(ぶやく)であり、彼らの労働力なくして城の基礎を築くことは不可能であった 22

資材調達は若狭国内にとどまらなかった。例えば、城の重要なインフラである大橋の用材は、遠く離れた出羽国能代(現在の秋田県)にまで求められた。そして、その巨大な木材の海上輸送もまた、若狭の浦々の船に課せられたのである 19 。これは、築城という巨大事業が、藩の支配力を超えた広域の物流ネットワークと、領民への賦役制度によって支えられていた実態を物語っている。

第二章:石垣を築く者たち ― 近江穴太衆の技

城の威容と防御力を決定づける石垣の普請には、当時最高の技術を誇った石工集団、近江の「穴太衆(あのうしゅう)」が動員されたと記録されている 19 。彼らは織田信長の安土城築城でその名を天下に轟かせ、各地の大名から築城の依頼が殺到していた、当代随一の技術者集団であった 24

穴太衆が得意としたのは、「野面積み(のづらづみ)」と呼ばれる、自然石をほとんど加工せずに巧みに組み上げていく技法である 24 。一見、無造作に積まれているように見えるが、その内部構造は極めて精緻に計算されていた。「石は二番で置け」という口伝に示されるように、石の重心をやや奥にかかるように配置することで、地震の際には石同士が動いて衝撃を吸収・分散し、かえって全体が締まって強固になるという、驚くべき耐震構造を持っていた 24 。また、石垣の裏込めには栗石などを詰めて排水性を高め、豪雨による土圧での崩壊を防ぐ工夫も施されていた 24

近年の発掘調査では、二の丸の北東部から、京極高次の時代に築かれたと考えられる古い石垣が発見されている 27 。後の酒井氏時代に築かれた整然とした「切込接(きりこみはぎ)」の石垣とは異なり、この京極期の石垣は野面積みに近い、比較的粗いながらも力強い積み方が特徴である 27 。これは、築城初期の様子を伝える貴重な物証であり、小浜城の石垣が、当時の最先端技術の結晶であったことを示している。

第三章:遅延する工事 ― 天下普請の影

高次の壮大な築城計画であったが、その進捗は必ずしも順調ではなかった。その最大の要因は、徳川幕府が全国の大名に課した「天下普請」の存在である 28 。江戸城や大坂城の修築、主要河川の治水工事など、幕府は矢継ぎ早に大規模な公共事業を命じ、諸大名にその費用と人足の負担を求めた。

小浜藩主となった京極家も例外ではなく、これらの幕府からの軍役や普請役に度々動員された 19 。藩の財政と人的資源は、自らの居城建設よりも、幕府への奉公に優先的に割かざるを得なかった。これは、戦国時代の独立領主から、幕藩体制下の一地方行政官へと大名の立場が変化していく過渡期の力関係を如実に示している。

その結果、小浜城本体の工事は遅々として進まなかった。慶長12年(1607年)頃には石垣などの外構部が一応の完成を見たとされるが 19 、城の象徴である天守閣をはじめとする主要な建造物は未完成のままであった 19 。慶長14年(1609年)に高次が47歳でこの世を去り、子の忠高が跡を継いだが、この状況を打開することはできなかった。京極氏による築城は、道半ばで大きな転機を迎えることになる。

以下の年表は、京極氏から酒井氏へと引き継がれた、小浜城の長い建設の道のりを概観するものである。

年号(西暦)

小浜城関連の出来事

幕府・藩関連の出来事

慶長5年 (1600)

-

関ヶ原の戦い。京極高次、若狭国拝領。

慶長6年 (1601)

**築城開始。**後瀬山城を廃し、雲浜の地で捨石・地ならしに着手。

高次、近江高島郡で7千石加増。合計9万2千石となる。

慶長12年 (1607)

石垣など外構部が 一応の完成 をみる。

-

慶長14年 (1609)

-

京極高次没。子の忠高が家督相続。

寛永元年 (1624)

-

京極忠高、越前敦賀郡を加増され、11万3千石余となる。

寛永11年 (1634)

-

京極忠高、出雲松江へ転封。酒井忠勝が12万3千石で入封。

寛永12年 (1635)

幕府の許可を得て、 天守台の普請が完成し、天守の棟上げ が行われる。

幕府大工頭・中井正純が指揮を執る。

寛永13年 (1636)

3重3階の天守閣が完成。

-

寛永19年 (1642)

百間橋虎口、大手門などが築造される。

-

正保2年 (1645)

本丸多門櫓などが完成し、 城郭全体がほぼ完成 する。

-

第四部:城と港町の統合設計 ― 海洋国家のグランドデザイン

京極高次が構想した小浜城は、単なる軍事拠点ではなかった。それは、城郭、港、そして市場が有機的に結びついた、日本海交易を基盤とする一大経済都市の核として設計されていた。この先進的な都市計画思想は、小浜のその後の歴史を決定づける、壮大なグランドデザインであった。

第一章:城郭の構造と意図 ― 防御と経済の両立

小浜城の縄張りは、その設計思想を雄弁に物語っている。本丸を中心に、内堀を挟んで北の丸、西の丸、二の丸、三の丸が同心円状に配置された「輪郭式」と呼ばれる構造は、どの方向からの攻撃にも備えやすい、防御に優れた形式であった 16

しかし、その真骨頂は、若狭湾に直接面した「海城(水城)」としての機能にある 16 。北川と南川を天然の外堀とし、城のすぐ西側には小浜湾が広がる。これにより、船が直接城の石垣に横付けすることが可能となり、物資の搬入・搬出が極めて効率的に行えた 27 。海に面した石垣は波止場の役割も兼ね、藩の御用船の発着場としても機能した 27 。この構造は、戦時には海からの補給路を確保し、平時には物流拠点として機能するという、軍事と経済の二元的な機能を両立させるための、極めて合理的な設計であった。

第二章:城下町の誕生 ― 計画都市おばま

高次の都市計画は、城の建設と城下町の整備を一体のものとして進めた点に特徴がある 32 。これは、城を都市の中核インフラとして位置づける、近世的な都市計画思想の現れであった。

城の周囲には藩士たちが住む武家屋敷地区が、そしてその外側には町人たちが暮らす商工業地区が、計画的に配置(町割り)された 32 。町人地は東組・中組・西組の三つに分けられ、特に港に近い小浜西組は、中世以来の街路や地割りを活かしつつ、近世の港町として再整備された様子を今に伝えている 34

都市計画の要となったのが、商業機能の戦略的な集積である。高次は慶長12年(1607年)、湿地帯を埋め立てて新たに「小浜市場」を整備した 36 。この市場には、海産物の集荷業者、廻船問屋、加工業者、小売業者などが集められ、若狭湾で水揚げされた物資の一大集散地となった。藩が主導して市場を創設し、商人たちを集住させる政策は、自由な経済活動を奨励しつつ、そこから生まれる富を藩が効率的に掌握しようとする、一種の「重商主義的」な思想に基づいていた。年貢米だけに依存する旧来の藩経営から脱却し、交易がもたらす利潤を財政の柱に据えようとする、高次の先進的な経済観が窺える。

第三章:「海の道」と「陸の道」の結節点

こうして整備された小浜の都市インフラは、二つの重要な経済回廊の結節点として機能することで、その真価を発揮した。

一つは、日本海を縦断する「海の道」である。江戸時代を通じて、小浜港は「動く総合商社」と称された北前船の重要な寄港地として大いに栄えた 37 。北前船は、蝦夷地(北海道)で昆布や鰊(にしん)などの海産物を安く仕入れ、それを上方(京・大坂)で高く売り、帰路では上方の米、塩、古着、酒などを仕入れて北国で売るという「買積(かいづみ)」方式で、一航海で千両(現在の価値で6千万円~1億円)もの莫大な利益を上げた 39 。小浜の商人たちはこの交易に深く関わり、藩の経済を大いに潤した。

もう一つは、京の都へと繋がる「陸の道」である。小浜市場で水揚げされた新鮮な魚介類、特に鯖は、一塩されて夜を徹して熊川宿などを経由し、京都へと運ばれた。このルートは「鯖街道」として知られ、小浜は京の豊かな食文化を支える重要な供給基地としての地位を確立した 33 。「京は遠ても十八里」という言葉は、小浜と京との物理的・経済的な近さを示す言葉として、当時広く知られていた 33

他の多くの寄港地が北国からの物産の中継地として栄えたのに対し、小浜はそれに加え、背後に巨大消費地である京を控え、上方からの物産を北国へ送り出す供給基地としての役割も担っていた。この「双方向の物流ハブ」としての機能こそが、小浜に持続的な繁栄をもたらした最大の要因であった。京極高次による城と港町の一体整備は、この地理的優位性を最大限に引き出すための、まさに国家的なグランドデザインだったのである。

第五部:継承と完成、そして終焉

京極高次によって始められた壮大な小浜城築城プロジェクトは、彼の死と京極家の転封により、未完のまま新たな担い手へと引き継がれることになった。その人物は、徳川幕府の重鎮・酒井忠勝。彼の手によって城は完成を迎え、若狭支配の象徴として二百数十年もの間君臨したが、やがて明治維新という時代の大きなうねりの中で、その歴史に幕を閉じる運命にあった。

酒井忠勝の入封と築城事業の完成

寛永11年(1634年)、高次の子・忠高は、幕府の命により出雲松江藩へと加増転封された 16 。道半ばであった小浜城には、新たな城主として酒井忠勝が入封する。忠勝は徳川家康の妹を母に持ち、三代将軍・家光からは「我が右手は讃岐(忠勝)、我が左手は伊豆(松平信綱)」と言わしめるほど絶大な信頼を得ていた、幕政の中枢を担う譜代大名の筆頭格であった 41

この藩主交代は、小浜城の性格を大きく変えるものであった。京極氏にとって築城が自らの家門再興と領国経営の確立という藩レベルの事業であったのに対し、幕府の重鎮である酒井氏がこれを引き継いだことは、小浜城が単なる一藩の拠点から、幕府の日本海支配を象徴する「公儀の城」へと、その政治的意味合いを昇華させたことを意味する。

忠勝は早速、幕府から正式な許可を得て、中断していた築城事業を再開・拡張した 16 。そして寛永13年(1636年)、ついに城の象徴である天守閣が完成する 27 。その高さは石垣を含め約29メートルにも及ぶ、壮麗な3重3階の層塔型天守であった 16 。この「層塔型」は、下から上へと規則的に小さくなっていく、関ヶ原以降に主流となった新様式であり、規格化され合理的な建設を可能にする、当時の最新の建築様式であった 43 。その後も各所の普請は続けられ、着工から40年以上の歳月を経た正保2年(1645年)頃、小浜城はその壮大な城郭の全貌を現した 19

藩政のシンボルから廃城へ

完成した小浜城は、以後、明治維新に至るまでの約240年間、酒井家14代の居城として、また若狭小浜藩の政治・経済の中心として、若狭湾にその威容を誇り続けた 27 。しかし、城主である酒井忠勝自身は、大老として幕政に参与することがほとんどで、生涯で小浜の地に滞在したのは十数回、延べ9ヶ月ほどであったという 47 。これは、近世大名が自領の経営者であると同時に、幕府という中央政府に仕える官僚でもあったという二重の役割を象徴している。

しかし、徳川の世の永い平和を謳歌した小浜城にも、終わりの時が訪れる。明治維新である。明治4年(1871年)、城内に新政府軍の駐屯地である大阪鎮台第一分営を設置するための改築工事の最中に二の丸から出火し、天守閣を除く城内の建物の大部分が焼失してしまう 16 。これは、新政府の支配を快く思わない旧藩士族による放火であったとも伝えられている 46

そして明治6年(1873年)、全国に「廃城令」が発布され、城は公的な役割を完全に終えた 48 。全国の多くの城が「無用の長物」として扱われ、小浜城もその例外ではなかった。火災を免れた壮麗な天守閣も、翌明治7年(1874年)には民間に払い下げられ、解体された 16 。こうして、京極高次の夢と、酒井家の威光の象徴であった小浜城は、物理的にその姿を消した。この一連の出来事は、旧来の武家社会の価値観が崩壊し、新しい時代が到来したことを告げる、象徴的な事件であった。

現在、城の本丸跡には、明治8年(1875年)に藩祖・酒井忠勝を祀る小浜神社が建立され、往時の姿を伝える壮大な石垣とともに、静かにその歴史を今に伝えている 16

結論:砂上の楼閣が遺したもの

慶長6年(1601年)に雲浜の地に最初の杭が打たれてから、明治7年(1874年)に最後の天守が解体されるまで、小浜城は約270年にわたり若狭国の中心として存在した。その歴史は、一人の武将の野心から始まり、時代の大きな転換点を体現し、そして若狭小浜という都市に不朽の遺産を残した物語であった。

第一に、小浜城築城は、戦国から泰平の世への移行を象徴する画期的な事業であった。京極高次が軍事優先の中世山城を捨て、行政と経済を主眼に置いた近世海城を構想した決断は、来るべき徳川の治世を見据えた、卓越した先見性によるものであった。それは、支配のあり方が武力による威圧から、経済の掌握による経営へと転換したことを示す、歴史的なモニュメントであった。

第二に、この築城事業が現代の小浜市に残した影響は計り知れない。城と港、そして市場を有機的に結びつけるという統合的な都市設計は、その後の小浜の都市構造と経済基盤を決定づけた。このグランドデザインがあったからこそ、小浜は北前船交易と鯖街道の結節点として近世を通じて経済的な繁栄を享受し、その歴史的な町並みや文化は、国の重要伝統的建造物群保存地区として、今なお大切に受け継がれている 34

第三に、小浜城は、当時の技術と権威の結晶であった。近江穴太衆による堅牢な石垣は、自然の力を利用した日本の伝統的土木技術の到達点を示し、酒井氏によって完成された壮麗な天守閣は、それを実現し得た徳川幕府の絶対的な権威を日本海側に誇示するものであった。

物理的な建造物としての小浜城は、今や壮大な石垣を残すのみである。しかし、京極高次が雲浜の三角州に描いた「海洋交易国家」の夢と、それによって形成された都市の骨格、そして育まれた豊かな文化は、形を変えて現代に生き続けている。小浜城は単なる「砂上の楼閣」ではなく、若狭小浜の歴史とアイデンティティを形作った、不滅の礎だったのである。

引用文献

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