小浜港改修(1602)
慶長7年、京極高次は小浜港を大規模改修。中世山城から近世港湾都市への転換を象徴する壮大な都市開発だった。関ヶ原の功で若狭国主となった高次は、小浜を日本海側の戦略拠点として再構築した。
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『慶長七年 小浜大変革 ― 戦国の終焉、港湾都市の黎明 ―』
序章:若狭小浜、歴史の交差点
若狭国小浜は、日本の歴史において常に特別な地位を占めてきた地である。古代より、若狭湾の豊かな海産物を朝廷に献上する「御食国(みけつくに)」としての役割を担い、京の都とは切っても切れない関係にあった 1 。この事実は、小浜が単なる一地方の港ではなく、中央政権にとって常に戦略的な価値を持つ拠点であったことを物語っている。日本海航路の要衝として、大陸や朝鮮半島からの人、物、文化が往来する玄関口でもあり、その地理的優位性は、この地に経済的繁栄と文化的深みをもたらした 2 。
戦国時代の末期には、その繁栄は頂点に達し、「泉州堺か若狭小浜か」と並び称されるほど、日本有数の港湾商業都市としてその名を馳せた 1 。しかし、その繁栄を支える拠点であった後瀬山(のちせやま)城は、若狭武田氏が築いた典型的な中世の山城であった。山上に築かれた城は防御には優れていたものの、麓に広がる港や町人地との一体的な運営には構造的な限界を抱えていた。防衛を第一とする戦国の論理が、経済活動の効率化を阻害していたのである。
この、古代から続く小浜の「中央との繋がり」という歴史的資産と、戦国末期における経済的ポテンシャル、そして中世的城郭が抱える構造的限界という三つの要素が交差する点に、慶長五年(1600年)の関ヶ原合戦を経て若狭国主となった京極高次が登場する。彼の事業は、単なるインフラ整備ではなかった。それは、徳川が支配する新たな天下において、小浜の持つ歴史的価値と経済的潜在能力を再統合し、最大化しようとする、壮大な戦略的試みだったのである。
第一章:大事業前夜 ― 京極高次、若狭国主となる
螢光の如き武将、高次の出自と経歴
京極高次は、戦国の乱世を巧みに生き抜いた武将である。その生涯は、時代の激動を映す鏡であった。京極氏は元来、北近江の守護大名であり、浅井氏の主筋にあたる名門であったが、下剋上によってその実権を家臣であった浅井氏に奪われ、高次自身も浅井氏の居城・小谷城内で庇護される形で生を受けた 4 。
しかし、高次は類稀なる閨閥(けいばつ)に恵まれていた。妹の竜子(松の丸殿)は豊臣秀吉の側室となり、そして正室には、浅井長政とお市の方の次女・お初(常高院)を迎えた 4 。お初の姉は秀吉の側室・淀殿、妹は後に二代将軍・徳川秀忠の正室となるお江与である 7 。この豊臣・徳川両家と深く結びついた血縁関係は、彼の政治的生命線を幾度となく救い、後の大抜擢へと繋がる決定的な要因となった。
天下分け目の大津城籠城戦
高次の武将としての真価が問われたのが、慶長五年(1600年)の関ヶ原の合戦であった。東軍に与した高次は、居城である近江大津城にわずかな兵力で籠城。毛利元康、立花宗茂らが率いる一万人を超える西軍の大軍勢を、関ヶ原の主戦場へと向かわせることなく、その地に釘付けにしたのである 4 。この籠城戦がなければ、西軍の兵力は関ヶ原で倍加し、天下分け目の戦いの趨勢は大きく変わっていた可能性も否定できない。高次の奮戦は、東軍勝利の隠れた大きな要因となった。
若狭一国拝領の政治的意味
戦後、徳川家康は高次の功績を高く評価した。敗軍の将として高野山にいた高次に対し、家康は再三にわたり使者を送って説得し、破格の恩賞として若狭一国八万五千石を与えた 8 。西軍に与したため領地を没収された旧領主・木下勝俊に代わり、高次が若狭に入封したことは、この地における支配体制の完全な刷新を意味した 7 。翌慶長六年(1601年)には近江高島郡に七千石を加増され、その所領は九万二千石余に達した 7 。
この一連の処遇は、単なる論功行賞を超えた、家康の深謀遠慮の現れであった。家康は、日本海側の最重要港湾の一つである小浜を含む若狭国を、自身の勝利に直接的に貢献し、かつ閨閥を通じて徳川家とも深い繋がりを持つ信頼できる人物に委ねたのである。これは、新たな徳川の天下における国土再編という国家戦略の一環であり、日本海側の物流と軍事の要衝を盤石に固めるための、極めて戦略的な人事であった。高次がこれから着手する小浜の大改造は、この家康の国家戦略に、一国の大名として応える形での領国経営の第一歩となるのであった。
第二章:グランドデザイン ― 山城から海城へ、新時代の都市構想
戦略的決断:後瀬山城の放棄
若狭国主として入封した京極高次が最初に行ったことは、大胆かつ象徴的な決断であった。それは、中世以来、若狭支配の拠点であった後瀬山城を放棄することである 11 。この決断は、単なる居城の移転ではない。戦乱の世における防衛第一主義から、泰平の世における経済振興と効率的な統治を重視する、近世的な都市思想への明確なパラダイムシフトを宣言するものであった。山城の時代は終わり、海と共存する新たな都市の時代が始まろうとしていた。
新天地・雲浜:水城の理想郷
高次が新たな城の建設地に選んだのは、北川と南川という二つの河川が小浜湾に注ぐ河口部に広がる「雲浜(うんぴん)」と呼ばれる湿地帯であった 11 。この場所は、まさに近世城郭、特に経済を重視する都市の拠点として理想的な立地条件を備えていた。北川と南川を天然の外堀として利用し、西は直接小浜湾に面することで、防御と水運を完璧に両立させることが可能であった 13 。この「水城(みずじろ)」という形式は、城そのものが港湾施設として機能することを意味していた。
縄張りと設計思想
小浜城の設計、すなわち縄張りは、高次の家臣である安養寺三郎左衛門と赤尾伊豆守に命じられたと伝わる 13 。彼らの設計思想の核心は、城と港の完全な一体化にあった。城の石垣はそのまま港の護岸となり、城内と港が直結する構造が企図された。もはや港は城の付属施設ではなく、城郭機能を持つ巨大な港湾ターミナルそのものを建設するという壮大な構想であった。ユーザーが問う「小浜港改修」とは、この「築城」という一大事業と分かちがたく結びついた、プロジェクトの中核要素だったのである。
城下町の再編計画
高次のグランドデザインは、城の建設だけに留まらなかった。築城と同時に、城の南側に広がる地域に、武家屋敷と町人地を計画的に配置する、大規模な都市計画が開始された 12 。それまで武家と町人が混在していた中世的な町並みは一新され、機能的にゾーニングされた近世的な城下町へと生まれ変わった。
特に町人地は、商業機能を集約するために東組・西組・中組の三つに分けられた 17 。この時に行われた区画整理は、現代に至るまで小浜西組の美しい町並みとしてその姿を留めており、400年以上前の都市計画が今なお生きている証左となっている 18 。さらに、流通の拠点として小浜市場が新たに整備され、若狭の海産物が集積し、京の都へと送られる「鯖街道」の起点としての繁栄の礎が、この時に築かれたのである 20 。
これらの事実を統合すると、高次の計画は、軍事拠点(城)、行政拠点(城下)、経済拠点(港・市場)を分断せず、一つの有機的な都市システムとしてゼロから設計したものであったことがわかる。したがって、「港の改修」という言葉は事象の一側面しか捉えておらず、その実態は、まさしく「港湾都市の創造」と呼ぶべき壮大な事業であった。
第三章:慶長七年(1602)の動静 ― 築城と改修のリアルタイム・クロニクル
京極高次による小浜の大改造は、数十年にわたる長大なプロジェクトであった。その中で、ユーザーが焦点を当てる慶長七年(1602年)は、壮大な構想が物理的な形を取り始める、極めて重要な初期段階にあたる。以下の年表は、この年の出来事をより大きな文脈の中に位置づけるものである。
表1:小浜城築城と都市開発の主要年表
西暦 (元号) |
統治者 |
主要な出来事 |
意義・備考 |
1600 (慶長5) |
京極高次 |
関ヶ原の合戦。高次、大津城籠城の功により若狭一国を拝領。 |
若狭における京極時代の幕開け。 |
1601 (慶長6) |
京極高次 |
後瀬山城を廃し、雲浜の地に小浜城の築城を開始。 |
新時代の都市構想の着手。 |
1602 (慶長7) |
京極高次 |
領内浦々に捨石を命じ、海上輸送にて基礎工事を本格化。 |
本報告書の中心。港湾都市の物理的基盤形成期。 |
1607 (慶長12) |
京極高次 |
石垣など外構が一応完成。 |
プロジェクトの第一段階完了。 |
1609 (慶長14) |
京極高次/忠高 |
京極高次が死去。嫡男・忠高が跡を継ぐ。 |
事業の継承。 |
1634 (寛永11) |
京極忠高/酒井忠勝 |
京極忠高が出雲松江へ転封。酒井忠勝が新城主となる。 |
支配者が交代し、事業は新体制下で継続。 |
1635 (寛永12) |
酒井忠勝 |
幕府の許可を得て天守の建造を開始。近江の穴生衆が石垣を担当。 |
最高の技術者集団による本格的な城郭建築の開始。 |
1636 (寛永13) |
酒井忠勝 |
天守閣が完成。 |
城の象徴が完成。 |
1645 (正保2) |
酒井忠勝 |
本丸多門櫓が完成し、城郭全体が竣工。 |
築城開始から40年以上を経て、壮大なプロジェクトが完了。 |
慶長六年(1601):プロジェクトの始動
全ての始まりは、高次が若狭に入国した翌年の慶長六年に遡る。この年、小浜城の築城が正式に開始された 11 。最初の具体的な行動は、城の建設予定地にあった下竹原の住民を西津へと移転させることであった 11 。これは、領主の絶対的な権限に基づくトップダウンの都市開発であり、これから始まる大事業の規模と性格を物語るものであった。
慶長七年(1602)春~夏:資源と労働力の大量動員
年が明けて慶長七年、プロジェクトは一気に加速する。春から夏にかけて、高次は若狭領内の浦々(漁村)に対し、城の基礎を固めるための「捨石(すていし)」作業を賦役として厳命した 11 。具体的には、「三人乗以上の船に大石を積んで小浜に運ぶこと」が命じられ、領民の船と労働力が大々的に徴発された 11 。良質な石材として知られる蘇洞門(そとも)の石などが、若狭湾の海上を往来する無数の船によって、建設現場である雲浜へと次々に運び込まれた。この時点で、小浜の港は完成した交易港としてではなく、巨大な建設資材の搬入拠点として、かつてないほどの活況を呈していた。これは、大規模なロジスティクスを伴う、まさに海上輸送作戦であった。当時の港湾工事では、湿地に木杭を打ち込み、その上に石を積んで基礎を固める「石椋(いしくら)工」といった技術が用いられており、小浜の湿地帯でも同様の工法が採用されたと推測される 22 。
慶長七年(1602)夏~秋:基盤整備と港湾機能の原型構築
夏から秋にかけて、海上輸送された膨大な量の石材が、雲浜の湿地帯、特に本丸の海手を中心に次々と投じられ、軟弱な地盤が固められていった 11 。これは、後の城郭と港湾施設の土台となる、大規模な埋め立て・地盤改良工事であった。
同時に、北川と南川の河口部では、城の天然の堀としての機能を高め、また資材を運ぶ大型船の航行を容易にするため、浚渫(しゅんせつ)や流路の整理が行われたと考えられる。当時の河川工事では、鋤簾(じょれん)などを用いた人力での浚渫が一般的であり、多くの領民が動員されたであろう 23 。この地道で過酷な土木作業を通じて、新たな城の輪郭、すなわち新しい港の岸壁線や船着き場の原型が、混沌とした建設現場の中に徐々に姿を現し始めた。
慶長七年(1602)秋~冬:城郭と町割の可視化
基礎工事が進むにつれて、秋から冬には石垣の普請が本格化していったとみられる。ただし、壮麗な天守台や高くそびえる石垣が完成するのは、後の酒井氏の時代であり、この段階ではまだ初期的なものであった 11 。
城の建設と並行して、南側の城下町予定地では、区画整理(地割り)と道路網の敷設が進められた。これにより、武家地と町人地(東・中・西組)のゾーニングが、図面上の計画から物理的な形を取り始めた 12 。
慶長七年(1602年)の「リアルタイムな状態」とは、完成した港の姿ではない。それは、港湾都市をゼロから創造するための、巨大な建設活動そのものであった。領民を総動員した石材の海上輸送、湿地の埋め立て、河川の浚渫といった、ダイナミックで混沌としたプロセスこそが、この年の小浜の実像である。それは、新たな支配者が、その権威を物理的な形で大地に刻み込み、新しい時代の秩序を創り出していく、権力の発露そのものであった。
第四章:未完の夢と後世への遺産
事業の継承と支配者の交代
京極高次が描いた壮大な都市構想は、彼一代で完成するものではなかった。慶長十四年(1609年)、高次はこの世を去り、大事業は嫡男の忠高に引き継がれた 7 。しかし、京極氏による若狭統治は長くは続かなかった。寛永十一年(1634年)、忠高は出雲松江藩へと加増転封となり、小浜を去ることになる 15 。この時点で、小浜城は外構こそ整っていたものの、天守閣はなく、未だ完成には至っていなかった 8 。
酒井氏による事業の完成
京極氏に代わって小浜藩主となったのは、徳川家譜代の重臣、酒井忠勝であった。忠勝は、高次が遺したグランドデザインの価値を認め、その完成に向けて事業を継承した。幕府から正式な許可を得て、築城工事を再開 11 。石垣普請には、当時最高の技術を誇った近江の石工集団「穴生衆(あのうしゅう)」を招聘した 11 。寛永十三年(1636年)には、幕府の大工頭・中井正純の指揮のもと、三層の壮麗な天守閣が完成 11 。その後も各所の整備が進められ、築城開始から40年以上の歳月を経た正保二年(1645年)、ついに小浜城はその全容を現し、壮大なプロジェクトは竣工を迎えた 11 。
京極氏の都市計画が遺したもの
支配者は京極氏から酒井氏へと代わったが、高次が定めた城と城下町の基本設計は、その後の小浜の発展の揺るぎない礎となった。彼が築いた港湾都市の基盤があったからこそ、小浜は江戸時代を通じて北前船の寄港地として、また鯖街道の起点として経済的繁栄を享受し続けることができたのである。藩の殖産興業として奨励された若狭塗や、北前船によって日本海沿岸各地に運ばれた若狭瓦といった地域の特産品も、この都市基盤の上で花開いた文化であった 19 。
そして何よりも、高次が区画した町人地、特に小浜西組は、商家や茶屋町が軒を連ねる往時の面影を色濃く残し、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている 17 。これは、京極高次の都市計画が、一人の領主の治世を超えて生き続け、現代の我々にまでその価値を伝え続けている何よりの証拠である。
高次の最大の功績は、物理的な建造物を完成させたこと以上に、後継者がその価値を認め、引き継ぎ、さらに発展させることが可能な、持続可能な都市の「設計図」と「初期基盤」を遺したことにある。彼の計画が、個人的な野心や一代限りの事業ではなく、普遍的で合理的な設計思想に基づいていたからこそ、全く別の家系である酒井氏もその計画を継承した。これは、戦国的な個人の武功を誇示する時代から、近世的な持続可能な領国経営へと価値観が移行する、時代の大きな流れを体現するものであった。
結論:戦国から近世へ ― 「小浜港改修」が持つ時代的意義
本報告書で詳述した通り、慶長七年(1602年)を中心とする「小浜港改修」は、単なる港湾の修復工事という言葉では到底捉えきれない、壮大な総合都市開発プロジェクトであった。それは、新時代の幕開けを告げる、軍事(城郭)、政治(城下町)、経済(港湾・市場)が有機的に一体化された、近世的な港湾都市の創造事業であった。
この事業は、戦国の動乱を生き抜いた武将・京極高次が、関ヶ原の合戦という「最後の戦」を経て、いかにして平和な時代の統治者へと自己変革を遂げようとしたかの象徴的な事例と言える。中世的な山城を捨て、海と共に生きる経済都市をゼロから築くという選択は、まさに「戦国」から「近世」への時代の扉を開く行為そのものであった。
京極高次のビジョンは、彼一代では完成しなかった。しかし、その強固な設計思想は、後継者である酒井氏の統治によって見事に結実し、江戸時代の小浜藩の繁栄を支え、さらには現代の小浜の美しい町並みや豊かな文化にまで深く根付いている。400年以上前に描かれた一人の武将のグランドデザインが、時代を超えて地域に与え続ける影響力の大きさは、歴史が我々に示す最も深遠な教訓の一つである。
引用文献
- 日本海の暖流と寒流が合流する若狭湾によって、豊富な海産物を育む天然の良港であったことから、飛鳥・奈良時代から朝廷に食材を献上する御食国でもありました。これらのことは - 小浜市の歴史と文化を守る市民の会 https://shiminnokai.com/history
- 暮らしに息づく伝統文化を探る 福井県小浜市 御食国若狭 - JR西日本 https://www.westjr.co.jp/company/info/issue/bsignal/16_vol_164/issue/01.html
- 福井県小浜市:若狭湾に輝く、歴史と文化、そして美食の港町 - チフォー https://chifo.life/fukui-obama/
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- 食文化館の戦国時代!~お初(常高院)・京極高次の展示をしました - 小浜市 http://www1.city.obama.fukui.jp/obm/mermaid/diary/?p=1178
- 西軍に与したため、戦いののち領知を奪われた。そして近江大津城で奮戦した京極高次が - 『福井県史』通史編3 近世一 https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T3/T3-0a1a2-03-01-04-01.htm
- 京極高次の居城 小浜城 - きままな旅人 https://blog.eotona.com/%E4%BA%AC%E6%A5%B5%E9%AB%98%E6%AC%A1%E3%81%AE%E5%B1%85%E5%9F%8E%E3%80%80%E5%B0%8F%E6%B5%9C%E5%9F%8E/
- 秀吉と家康の信頼を勝ち取った京極高次 苦境から一転…なぜ復活を果たすことができたのか? https://sengoku-his.com/2427
- 京極高次はなぜライフゼロから出世できたのか? - note https://note.com/noricone/n/n22dd897c4724
- たび重なる幕府からの普請役や軍役を課せられ、小浜城の工事は思うように進展しておらず、酒井忠勝の入部した寛永十一年には天守閣は - 『福井県史』通史編3 近世一 https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T3/T3-0a1a2-03-01-04-05.htm
- 小浜 - 『福井県史』通史編3 近世一 https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T3/T3-4-01-01-01-07.htm
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- 2-1 2 歴史から学ぶ 2.1 海洋・港湾土木遺産調査 2.1.1 港湾の歴史 1),2),3),4) (1) 近代史以前の港湾 - 日本建設業連合会 https://www.nikkenren.com/publication/fl.php?fi=396&f=kaiyou_2014_02-1.pdf
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- 御食国、小浜市を訪ねて - 福井県立大学 https://www.fpu.ac.jp/rire/publication/column/001621.html
- 歴史的な町並み(三丁町・小浜西組)や寺社仏閣を歩いて楽しむ - 若狭おばま観光協会 https://wakasa-obama.jp/special/wakasa-obama-santyou-nishigumi/