最終更新日 2025-09-15

小田原仕置(1590)

Perplexity」で事変の概要や画像を参照

天正十八年 小田原仕置の全貌 ― 戦国終焉を告げた天下人の「仕置」―

序章:天下統一、最後の一手

「小田原仕置」の再定義

天正18年(1590年)、豊臣秀吉が断行した「小田原仕置」は、日本の歴史における一大転換点として位置づけられる。一般に、この出来事は秀吉が関東の雄・後北条氏を滅ぼした「小田原征伐」という軍事行動として知られている。しかし、その本質を深く理解するためには、より広範な視座が必要となる。本報告書では、「小田原仕置」を、単なる一合戦としてではなく、その前段階である外交交渉の破綻から、戦後の関東・奥羽地方における大規模な領土再編と新秩序構築までを含む、一連の政治的・軍事的プロセスとして定義する。これは、秀吉による天下統一事業の総仕上げであり、約150年にわたって続いた戦国という時代の終焉を画定する、極めて象徴的な事件であった 1

天正後期の天下情勢

小田原仕置が敢行される直前の日本は、豊臣秀吉の権力が名実ともに確立されつつある時代であった。天正13年(1585年)に関白、翌年には太政大臣に就任し、朝廷の権威を背景に全国の諸大名を従える体制を構築。九州の島津氏を平定し、天皇の行幸を聚楽第に迎えるなど、その権威は揺るぎないものとなっていた。この秀吉の権力基盤を法的に支えたのが、天正15年(1587年)に発布された「惣無事令(そうぶじれい)」である。これは、大名間の私的な領土紛争を禁じ、すべての争いは秀吉の裁定によって解決するという画期的な法令であった。この「惣無事令」は、秀吉の天下人としての権威の源泉であると同時に、自らの実力で領土を拡大してきた戦国の価値観を根底から覆すものであり、最後までこれに完全には服さなかった後北条氏との衝突を不可避とする、直接的な法的根拠となったのである 6

関東の独立王国・後北条氏

その一方で、関東に覇を唱えていた後北条氏は、初代・伊勢宗瑞(北条早雲)が伊豆を平定して以来、約100年にわたり関東に一大独立勢力を築き上げていた。五代にわたる巧みな統治は、戦国大名の中でも特に先進的であったと評価されている。早くから領国の検地を実施して支配体制を確立し 9 、「四公六民」と称される比較的低い税率を敷くなど、民政にも意を用いていた 10 。その本拠である小田原城は、かつて上杉謙信や武田信玄といった当代きっての武将による大軍の包囲を幾度となく退けた、天下に名だたる堅城であった 3 。さらに、甲斐・信濃を巡る天正壬午の乱を経て、徳川家康とは同盟関係を結び、家康の娘・督姫が五代当主・氏直に嫁ぐなど、外交的にも安定した地位を確保していた 12 。これらの輝かしい歴史と実績が、後北条氏の独立志向と、秀吉の築く新秩序に対するある種の自負心の源泉となっていた。

この対立の核心は、単なる勢力争いに留まらない。それは、秀吉が提示した「惣無事令」という新しい秩序(法)と、後北条氏が固執した戦国以来の「自力救済」(実力による領土紛争の解決)という古い秩序との間の、根本的な価値観の衝突であった。後北条氏は、秀吉への臣従の意向を示しつつも、具体的な領土問題においては従来のやり方を手放すことができなかった。対する秀吉にとって、後北条氏の行動は、天下の公法に対する許されざる挑戦と映った。この理念の対立が、やがて日本全土を巻き込む大戦乱へと発展していくことになる。


第一部:戦乱への序曲

第一章:火種―名胡桃城事件の深層

沼田領問題の複雑な経緯

小田原仕置の直接的な引き金となったのは、上野国(現在の群馬県)の沼田領を巡る領有権問題であった。この問題の根は深く、天正10年(1582年)の本能寺の変と、それに続く旧武田領を巡る争乱「天正壬午の乱」にまで遡る。この乱の結果、徳川家康と後北条氏が和睦した際、その条件として沼田領は北条氏に引き渡されることが約束された。しかし、当時徳川氏の麾下(きか)にあって沼田領を実効支配していた真田昌幸は、この決定に猛反発し、独力で北条氏の侵攻を退け続けた 12 。これにより、沼田領は真田・北条・徳川、そして真田が後に頼る上杉氏の思惑が複雑に絡み合う、関東の火薬庫とも言うべき係争地と化していた。

豊臣裁定とその両義性

天下人となった豊臣秀吉は、この長年の懸案を解決すべく、天正17年(1589年)に裁定を下した。その内容は、沼田領の3分の2を北条氏に、残る3分の1(名胡桃城を含む)を真田氏の所領とするというものであった 13 。この裁定は、一見すると両者の顔を立てた公平なものに見え、長年の紛争に終止符が打たれたかに思われた。しかし、その内実には新たな火種が燻っていた。北条方からすれば、かつて約束された領地の大部分を取り戻したとはいえ、「本来は全て我々のものである」という不満が残った。一方の真田方にとっては、先祖伝来の地とされる沼田城を失い、わずかな土地しか安堵されなかったことへの遺恨は深かった。秀吉の裁定は、平和的解決を目指しながらも、結果的に両者の不満を完全には解消しきれない、両義的なものであった。

事件の勃発(天正17年10月23日)

この燻る火種は、裁定からわずか数ヶ月後に燃え上がった。天正17年10月23日、北条氏の家臣で沼田城代であった猪俣邦憲が、真田方の名胡桃城を謀略によって奪取するという事件が発生したのである 1 。この時、名胡桃城代であった鈴木重則は、城を奪われた責任を取り自害に追い込まれた。この猪俣の行動が、彼の独断によるものだったのか、あるいは北条氏当主である氏政・氏直の意を汲んだものであったのかについては、議論が分かれている。一説には、真田方の城主間の内紛に乗じる形で、戦国時代にはしばしば見られた局地的な紛争として発生したともされる 8 。しかし、重要なのは、この行動が「惣無事令」という新しい時代の物差しによって、単なる領土紛争から「天下への反逆」へと、その意味を劇的に変えられてしまった点にある 6

秀吉の激怒と最後通牒

事件の報せは、瞬く間に京の秀吉のもとへ届いた。秀吉はこれを「惣無事令」への明確かつ悪質な違反行為と断定し、激怒した。北条氏直は、事件は猪俣の独断であり、城を奪ったわけではないと弁明の使者を送ったが 13 、秀吉は一切耳を貸さなかった。彼は、事件関係者の即時処罰と、これまで先延ばしにされてきた氏政の上洛を厳命した。この要求が果たされない中、天正17年11月24日、秀吉は全国の諸大名に対し北条討伐の意志を伝え、事実上の宣戦布告を行った 1

この一連の秀吉の対応は、単なる怒りによるものではない。彼は、北条氏が臣従の意向を示しつつも、上洛を遅らせて豊臣政権内での待遇を有利にしようと交渉を続けていたことを見抜いていた。名胡桃城事件は、秀吉にとって、この曖昧な状態に終止符を打ち、自らの権威を天下に示し、北条氏を完全に屈服させるための絶好の機会となった。秀吉が北条氏に宛てた書状には「天道に背き、勅命に逆らう氏直に誅伐を加える」といった言葉が記されており 12 、この戦が単なる征伐ではなく、天下の秩序を乱す者への「天罰」であるという大義名分を掲げたものであったことを示している。事件は北条氏滅亡の「原因」であると同時に、豊臣政権がその支配体制を正当化し、強化するための「結果」として最大限に利用されたのである。

第二章:空前の大動員―両軍の戦略と軍備

名胡桃城事件をきっかけに、豊臣秀吉と後北条氏の対立が不可避となると、双方は来たるべき決戦に向けて、それぞれが持ちうる国力を総動員して軍備を整え始めた。それは、戦国時代の最後を飾るにふさわしい、空前の規模の軍事対決へと発展していく。

豊臣方:天下人の威信をかけた総力戦

秀吉が動員した軍勢は、日本の戦争史上でも類を見ない規模であった。その総兵力は21万から22万に達したと記録されている 1 。これは単なる兵士の数ではない。徳川家康、織田信雄、前田利家、上杉景勝といった、かつては互いに覇を競った全国の名だたる大名たちが、秀吉の命令一下に結集した「戦国オールスター」とも言うべき軍団であった 12 。この大軍勢の存在そのものが、北条氏に対する圧倒的な軍事的圧力であると同時に、秀吉の天下人としての権威を内外に示す、強力な政治的メッセージでもあった。

この大軍を支える兵站計画もまた周到であった。秀吉は開戦に先立ち、奉行の長束正家に命じて20万石もの兵糧米を事前に徴発させ 12 、九鬼嘉隆や長宗我部元親らが率いる強力な水軍を編成。伊勢・志摩から兵糧や武具を海上輸送する万全の体制を整えた 12 。しかし、これほどの大軍の補給は容易ではなく、一部の戦線では兵糧不足も発生し、北条方が米価を吊り上げて経済的な揺さぶりをかけるといった側面も見られた 23

豊臣軍の戦略は、その圧倒的な兵力を最大限に活かすものであった。主力である秀吉本隊と徳川家康軍は東海道を、前田利家・上杉景勝らが率いる北方隊は東山道(中山道)を進軍。二方面から同時に北条領国へ侵攻し、関東各地に点在する北条氏の支城網を分断・無力化しながら、最終目標である小田原城を包囲殲滅するという、壮大な挟撃作戦であった 12

北条方:関東の総力を結集した籠城策

対する後北条氏は、豊臣方の大動員の報を受け、領国内の総力を結集して防衛体制を固めた。領内の15歳から70歳までの男子を対象に動員令を発し、その兵力は約5万6千に達した 11 。これは一戦国大名の動員数としては驚異的であったが、それでも豊臣軍の4分の1程度に過ぎなかった。さらに、兵の質においても、歴戦の専門戦闘員集団で構成された豊臣軍に対し、北条軍の主力は訓練が不十分な農民兵が多数を占めていた 11

この圧倒的な兵力差を前にして、氏政・氏直父子が選択した戦略は、小田原城を中心とした徹底的な籠城策であった。これは、かつて上杉謙信、武田信玄という二人の軍神の猛攻を、小田原城に籠もることで退けた輝かしい成功体験に基づいていた 3 。北条方は、小田原城の防御力を絶対的に信頼し、町全体を堀と土塁で囲んだ巨大な防御施設「総構(そうがまえ)」をさらに拡張・改修して決戦に備えた 12 。そして、箱根口の山中城、伊豆の韮山城、武蔵北部の鉢形城といった主要な支城に兵力を重点的に配置し、これらの城で豊臣軍の進撃を可能な限り遅らせ、長期戦に持ち込むことで敵の疲弊を待ち、勝機を見出そうとしたのである 7

分類

総兵力

主要武将・部隊

豊臣連合軍

約220,000

東海道軍(本隊)

約170,000

豊臣秀吉、豊臣秀次、徳川家康、織田信雄、蒲生氏郷、細川忠興、堀秀政、池田輝政、石田三成など

北方隊

約35,000

前田利家、上杉景勝、真田昌幸など

水軍

約14,000

長宗我部元親、九鬼嘉隆、脇坂安治、加藤嘉明など

関東諸侯軍

約18,000

佐竹義宣、宇都宮国綱、里見義康など

後北条軍

約56,000

小田原城(本城)

-

北条氏政、北条氏直

山中城

約4,000

松田康長、北条氏勝

韮山城

約3,600

北条氏規

鉢形城

約5,000

北条氏邦

松井田城

約2,000

大道寺政繁

その他支城

-

成田泰季(忍城)、清水康英(下田城)など


第二部:小田原征伐―リアルタイム・クロノロジー

後北条氏の命運を賭けた籠城策に対し、豊臣秀吉は日本全土から集結させた圧倒的な兵力をもって、関東全域にわたる同時多発的な制圧作戦を展開した。以下に、その約4ヶ月にわたる戦いの推移を時系列で詳述する。

日付(天正18年)

出来事

2月中

徳川家康軍が駿河へ出陣。

3月1日

豊臣秀吉が京の聚楽第を出陣。

3月27日

秀吉、沼津(静岡県)に入城。

3月29日

山中城、わずか半日で陥落。 豊臣軍による韮山城包囲開始。

4月1日

井伊直政隊が足柄城を攻略。

4月3日

豊臣軍の先鋒部隊が小田原に到着し、 小田原城の包囲を開始。

4月20日

北方隊、松井田城を攻略。

4月21日

徳川家康の説得により、玉縄城が無血開城。

4月22日

江戸城が無血開城。

4月23日

豊臣水軍、下田城を攻略。

5月22日

石田三成・真田昌幸軍が武蔵松山城を攻略。岩槻城も陥落。

6月5日

石田三成軍による忍城水攻め開始。

6月9日

伊達政宗が白装束で小田原に参陣し、秀吉に謁見。

6月14日

北方隊、鉢形城を攻略。

6月24日

約3ヶ月の籠城の末、韮山城が開城。

6月26日

石垣山一夜城が完成。

7月5日

北条氏直が降伏し、小田原城が開城。

7月11日

北条氏政・氏照兄弟が切腹。

7月16日

忍城が開城。

第三章:東海道の激闘―箱根路の攻防(天正18年3月~)

侵攻開始(3月1日~)

天正18年3月1日、豊臣秀吉は3万2千の兵を率いて京の聚楽第を出陣した 1 。それに先立ち、先鋒を務める徳川家康の軍勢は2月中に本国の駿河へ進出しており、豊臣軍の侵攻は計画通りに開始された 1 。秀吉は3月27日に沼津へ入城すると、翌28日には直ちに箱根路の要衝である山中城と韮山城への攻撃を命じ、戦端が開かれた 21

山中城の攻防(3月29日)

小田原城の西方を守る最大の拠点、山中城の攻防戦は、小田原征伐全体の帰趨を占う最初の激戦となった。城を守るのは松田康長ら約4千の兵。対する豊臣方は、総大将・豊臣秀次、そして徳川家康らが率いる総勢約6万7千という、桁違いの大軍であった 12 。北条方は、空堀を畝状に配置した独特の防御施設「障子堀」などを駆使して必死の抵抗を試みたが 23 、圧倒的な兵力差の前にはなすすべもなかった。豊臣軍は城を幾重にも包囲し、猛攻を加えた結果、戦闘開始からわずか半日(数時間)で山中城は陥落した 1 。この西の要のあまりにも早い陥落は、小田原城に籠もる北条方の将兵に大きな衝撃と動揺を与え、豊臣軍の士気を大いに高める結果となった。

韮山城の包囲(3月29日~6月24日)

山中城と時を同じくして、伊豆半島の付け根に位置する韮山城でも戦闘が開始された。城を守るのは、北条氏政の弟であり、外交にも通じた知将・北条氏規。その兵力は約3千6百であった 6 。対する包囲軍は、織田信雄を総大将とし、蒲生氏郷、細川忠興らを加えた約4万の軍勢である 7 。氏規は巧みな指揮で兵を鼓舞し、約10倍の敵を相手に善戦。約3ヶ月もの間、城を堅守し続けた。しかし、周辺の支城が次々と陥落し、小田原本城も完全に包囲されて孤立無援となる中、旧知の仲であった徳川家康が派遣した使者の説得に応じ、将兵の助命を条件に6月24日、ついに開城した 1 。氏規の粘り強い抵抗は北条武士の意地を示すものであったが、最終的に現実的な判断を下し、無用な犠牲を避けた。

第四章:関東制圧戦―各個撃破される支城網(4月~6月)

東海道で激戦が繰り広げられる一方、他の戦線でも豊臣軍は北条氏の支城網を次々と切り崩していった。北条氏の防衛構想は、かつての上杉謙信や武田信玄のような単一方向からの侵攻を想定したものであり、秀吉が展開した全国規模の動員力による多方面同時侵攻(飽和攻撃)には対応できなかった。各支城は連携を断たれ、救援もままならないまま、個別に撃破されていく運命にあった。

北方軍の進撃

前田利家と上杉景勝が率いる3万5千の北方隊は、碓氷峠を越えて上野国へ侵攻した。4月20日には、重臣・大道寺政繁が守る松井田城を、真田昌幸らの活躍もあって攻略 1 。その後も厩橋城(4月19日)、箕輪城(4月24日)などを次々と制圧した 1 。そして6月14日には、武蔵北部の要衝であり、猛将・北条氏邦が籠城する鉢形城も、本多忠勝や前田利家らの猛攻の末に開城させた 1 。これにより、北関東における北条氏の支配力は完全に瓦解した。

徳川軍による無血開城工作

徳川家康は、軍事的な圧力と並行して、巧みな外交交渉と調略を展開し、北条方の戦線を内側から切り崩していった。4月21日、山中城から敗走し玉縄城に籠もっていた北条氏勝に対し、使者を送って説得。氏勝はこれに応じ、城を無血で明け渡した 1 。この玉縄城の早期の無血開城は、他の支城の城主たちの心理に大きな影響を与え、降伏への流れを加速させるきっかけとなった。その翌日の4月22日には、後の徳川幕府の拠点となる江戸城も戦わずして開城 1 。さらに、河越城(5月3日)、小金城(5月5日)なども、次々と豊臣方に降伏していった 1

水軍による沿岸制圧

陸路からの侵攻と同時に、海上からも北条領への圧力が加えられた。長宗我部元親、九鬼嘉隆、脇坂安治らが率いる豊臣水軍は、伊豆半島の沿岸を制圧。4月23日には、北条氏配下の伊豆水軍の最大拠点であった下田城を海上からの攻撃で陥落させた 1 。これにより、伊豆半島は完全に豊臣方の支配下に入り、小田原城への海上からの補給・連絡路は完全に遮断された。

忍城の戦い―特異な事例

関東の諸城が次々と陥落・開城する中で、武蔵北部の忍城だけは特異な経過を辿った。城主・成田氏長が小田原城に籠城中で不在の中、その家臣たちが城を守っていた。攻撃の指揮を執ったのは石田三成であったが、彼は城が沼地に囲まれている地形を利用した水攻めを敢行。しかし、この作戦は堤防の決壊などにより失敗に終わった 20 。城兵の士気は高く、小田原城が開城するまで持ちこたえ、最終的に本城の降伏を受けて7月16日に開城した 1 。この戦いは、豊臣方唯一の苦戦として後世に伝わっている。

第五章:百日の包囲―小田原城の攻防と終焉(4月3日~7月11日)

包囲網の完成(4月3日)

関東各地の支城が次々と攻略されていく中、豊臣軍の先鋒部隊は4月3日に小田原へ到着し、難攻不落の巨城の包囲を開始した 1 。秀吉本人は4月5日に箱根湯本の早雲寺に本陣を構え 24 、やがて20万を超える大軍が城を幾重にも取り囲み、蟻の這い出る隙間もないほどの厳重な包囲網が完成した。

石垣山一夜城の築城(6月26日完成)

長期戦を覚悟した秀吉は、軍事的な圧力に加え、巧みな心理戦を展開する。その象徴が、小田原城を眼下に見下ろす笠懸山(かさがけやま)に築かれた「石垣山城」である。秀吉は、この城の築城を極秘裏に進め、完成と同時に周囲の木々を一斉に伐採させた。これにより、小田原城の将兵からは、あたかも一夜にして本格的な石垣を持つ総石垣の城が出現したかのように見えた 6 。この「一夜城」は、豊臣方の圧倒的な財力、技術力、そして動員力を北条方に見せつけ、長期籠城によって敵の疲弊を待つという彼らの唯一の希望を打ち砕く、絶大な心理的効果をもたらした 6

包囲下の遊興と政宗の参陣

秀吉の心理戦はそれだけではなかった。彼は、最も寵愛していた側室の淀殿(茶々)を前線に呼び寄せ、茶人の千利休に連日茶会を催させるなど、戦場とは思えぬほどの遊興に興じ、その余裕綽々たる態度を見せつけた 6 。これもまた、籠城する将兵の戦意を内側から削ぐための高度な戦略であった。

そして6月9日、北条氏が最後の望みをかけていた奥州の雄・伊達政宗が、ついに小田原に参陣した。遅参の罪を問われることを覚悟した政宗は、死に装束である白装束を身にまとい、秀吉に謁見。恭順の意を示すことで、かろうじて改易を免れた 1。これにより、北条氏が期待していた東方からの援軍という可能性は完全に断たれ、小田原城は完全に孤立した。

城内の対立と降伏(7月5日)

3ヶ月に及ぶ籠城生活により、城内では兵糧はまだ尽きていなかったものの、将兵の士気は著しく低下していた。外部からの援軍の望みも絶たれ、目の前には豊臣方の圧倒的な国力を見せつけられる中で、城内の意見は二つに割れた。徹底抗戦を主張する前当主の氏政ら主戦派と、これ以上の籠城は無意味として降伏を主張する現当主の氏直や叔父の氏規ら和睦派の対立が深刻化した。最終的に、将兵の命を救うことを第一と考えた氏直が降伏を決断。7月5日、約100日間に及んだ籠城戦の末、小田原城は開城した 6

北条氏の最期(7月11日)

開城後、秀吉による戦後処理、すなわち「仕置」が行われた。秀吉は、開戦の最高責任者として前当主の北条氏政とその弟で鉢形城主の氏照、そして重臣の大道寺政繁、松田憲秀に切腹を命じた 11 。7月11日、氏政と氏照は小田原城下で自刃し、関東に100年君臨した名門・後北条氏は事実上滅亡した。

一方、当主の氏直は、徳川家康の娘婿であったこと、そして自ら切腹を申し出て全将兵の助命を嘆願した姿勢が秀吉に評価されたこともあり 27、一命を助けられ、高野山への追放処分となった 13。氏直は翌天正19年(1591年)に赦免され、秀吉の家臣として再起を図るが、まもなく疱瘡(ほうそう)を患い、30歳の若さでこの世を去った 30。

なお、北条一門のうち、韮山城で最後まで奮戦した氏規の家系は、その武勇と忠義を評価され、後に河内国(大阪府)に領地を与えられて家名を存続。江戸時代には河内狭山藩主として幕末まで続くこととなった 33。


第三部:戦後の「仕置」―新秩序の構築

小田原城の開城と後北条氏の滅亡は、戦いの終わりであると同時に、新たな秩序構築の始まりであった。秀吉は、武力によって獲得した関東・奥羽の広大な土地を再配分し、豊臣政権の支配体制を盤石なものとするための大規模な「仕置」に着手した。この一連の措置は、日本の勢力図を根底から塗り替え、後の江戸時代の礎を築くことになる。

大名

旧領地・石高(目安)

新領地・石高(目安)

備考

後北条氏

関東一円 約240万石

没収

滅亡

徳川家康

三河・遠江・駿河・甲斐・信濃 約130万石

関東八州 約250万石

大幅な加増を伴う国替え(移封)

蒲生氏郷

伊勢松坂 約12万石

会津 約70万石(後に92万石)

東北の抑えとして大幅加増・移封

伊達政宗

出羽・陸奥南部 約72万石

葛西・大崎旧領など 約62万石

会津などを没収され、実質的な減転封

葛西晴信・大崎義隆

陸奥国葛西・大崎領

没収

小田原不参により改易

第六章:関東仕置―徳川家康の関東移封

小田原仕置における最大の眼目は、豊臣政権下で最大の実力者であった徳川家康の処遇であった。秀吉が下した決断は、家康に旧領である三河、遠江、駿河、甲斐、信濃の五カ国を召し上げ、その代わりに滅亡した北条氏の旧領である関八州を与えるという、前代未聞の大規模な国替え(移封)であった 15

秀吉の深謀遠慮

この措置は、石高の上では約130万石から250万石以上への大幅な加増であり、表向きは家康の功績に報いるものであった。しかし、その裏には秀吉の巧みな政治的計算が隠されていた。最大の狙いは、家康を先祖代々受け継いできた本拠地から引き離し、譜代の家臣団と土地との強い結びつきを断ち切ることで、その強大な力を削ぐことにあった 34 。さらに、北条氏の旧臣や領民による一揆などの抵抗が予想される未だ不安定な関東の統治に失敗すれば、かつて肥後(熊本県)で統治に失敗し切腹させられた佐々成政の例のように、それを口実に家康を取り潰すことさえ視野に入れていたとされる 15

一方で、この移封を、秀吉が家康の実力を高く評価し、豊臣政権にとって最大の不安定要素である関東・東北を平定するという重責を、政権ナンバー2である家康に委ねた、信頼の証であったとする見方もある 38。秀吉の家康に対する評価は、常に警戒と信頼が入り混じった複雑なものであった。

家康の決断と好機

天下人からの命令を、家康は拒否することができなかった。しかし、彼はこの移封を単なる左遷とは捉えず、むしろ千載一遇の好機と捉えた。第一に、秀吉のいる京・大坂から物理的に大きく距離を置くことで、豊臣政権の直接的な干渉を受けにくくなり、独自の政治的・軍事的な裁量を保ちやすくなる 34 。第二に、この大規模な国替えを機に、旧来の土地のしがらみに縛られた家臣団を再編成し、より強力で近代的な主従関係を構築する絶好の機会と捉えた 34

そして何よりも、家康は関東平野の持つ将来性を見抜いていた。彼は広大な関東支配の拠点として、当時はまだ一地方都市に過ぎなかった江戸を選択。利根川水系を利用した水運の利便性と、広大な開発の余地を持つこの地に、将来の日本の中心となるべき壮大な都市計画の第一歩を記したのである 34。秀吉にとって家康を封じ込めるための「最大の戦略」は、結果的に家康にとって天下取りへの布石となる「最大の好機」へと転化した。これは、日本史上屈指の戦略的転換点であったと言える。

徳川家臣団の配置

関東に入部した家康は、早速新領国の支配体制固めに着手した。徳川四天王をはじめとする譜代の重臣たちを、旧北条氏の拠点であった要衝に巧みに配置した。相模国の小田原城には大久保忠世、上野国の館林城には榊原康政、上総国の万喜城(後に大多喜城)には本多忠勝、そして上野国の箕輪城(後に高崎城)には井伊直政を配するなど、関東全域にわたる支配ネットワークを迅速に構築し、新時代の統治を開始したのである 24

第七章:奥羽仕置と再仕置―天下統一の総仕上げ

関東の仕置に続いて、秀吉は未だ豊臣政権の支配が完全には及んでいなかった奥羽(東北地方)の秩序構築に取り掛かった。小田原城開城で天下統一が完了したと一般には言われるが、実際にはその後1年以上にわたり、奥羽では大規模な反乱と鎮圧が続くことになる。

宇都宮での裁定(奥羽仕置)

小田原征伐後、秀吉は自ら軍を率いて奥羽へ向かい、その途上の下野国宇都宮で、参集した奥羽の諸大名に対する処分、すなわち「奥羽仕置」を宣告した 40 。その基準は、小田原への参陣の有無であった。参陣しなかった、あるいは大幅に遅れた大崎義隆、葛西晴信、白河義親といった名門大名は、領地を全て没収される改易処分となった 24 。伊達政宗も参陣が遅れた罪を問われ、攻略したばかりの会津領などを没収され、結果的に減封処分となった 26 。そして、没収された広大な領地には、秀吉の腹心が新たな領主として配置された。会津には蒲生氏郷が、葛西・大崎の旧領には側近の木村吉清が封じられた 26

葛西・大崎一揆の勃発(天正18年10月~)

秀吉によるトップダウンの支配体制は、しかし、奥羽の在地社会の現実に直面し、激しい抵抗に遭う。特に、旧葛西・大崎領の新たな領主となった木村吉清が、性急な検地や刀狩りを実施し、旧来の家臣層を無視した強引な統治を行ったため、領民や在地武士たちの不満が爆発。天正18年10月、旧領全域で大規模な一揆が蜂起した 41 。さらに、この一揆の背後で、失った領地の回復を狙う伊達政宗が煽動しているのではないかという疑惑が浮上する 42 。政宗はこれを強く否定したが、秀吉や蒲生氏郷の疑念を完全に払拭することはできなかった。

奥羽再仕置(天正19年)

一揆の報を受けた秀吉は、奥羽の再平定を決意。甥の豊臣秀次を総大将とし、徳川家康、蒲生氏郷らを加えた大規模な鎮圧軍を再び派遣した 45 。この天正19年(1591年)に行われた一連の鎮圧と、その後の再度の領土再編を「奥羽再仕置」と呼ぶ 45

蒲生氏郷や伊達政宗らの活躍により、葛西・大崎一揆は鎮圧された。さらに、この仕置に不満を抱いて反乱を起こした北の雄・九戸政実も、豊臣軍の圧倒的な兵力の前に滅ぼされた 45。

戦後、一揆を誘発した責任を問われた木村吉清は改易 49。その旧領である葛西・大崎領は、一揆鎮圧の功績と、煽動疑惑に対する懲罰的な意味合いを込めて、伊達政宗に与えられた。これにより政宗は本拠を米沢から岩出山城へ移すことになり、実質的には旧領の一部を失う減転封となった 26。一方で、政宗の旧領であった米沢などは蒲生氏郷に加増され、氏郷は90万石を超える大大名となり、東北における豊臣政権の監視役としての役割を担うことになった 26。

この奥羽仕置と再仕置は、秀吉の天下統一が、単なる軍事的な勝利宣言だけでは完結しなかったことを示している。中央の論理を地方に強引に適用しようとした結果、在地社会の複雑な秩序と激しく衝突し、大規模な暴力と再編を繰り返すことでしか、新たな支配体制は確立しえなかったのである。


終章:小田原仕置の歴史的意義

天正18年(1590年)の小田原仕置と、それに続く一連の戦後処理は、日本の歴史に計り知れない影響を与えた。その意義は、単に一つの戦国大名が滅んだという事実を遥かに超え、時代そのものの構造的転換を象徴するものであった。

第一に、 戦国時代の事実上の終焉 を告げた点である。関東に100年にわたり独立王国を築いてきた後北条氏の滅亡、そして最後までその去就が天下の注目を集めていた奥州の伊達政宗の服属により、応仁の乱以来、約1世紀半にわたって続いた群雄割拠の戦国乱世は、実質的に終結した 2 。これ以降、大名間の大規模な私戦は(後の関ヶ原の戦いという例外を除き)終息し、中央の政治権力による秩序維持の時代、すなわち近世へと移行していく。

第二に、 豊臣政権による全国統一の完成 を意味する。小田原仕置と奥羽再仕置を経て、秀吉は名実ともに日本全土をその支配下に置く「天下人」となった 3 。秀吉が発した「惣無事令」は、もはや単なる理想ではなく、日本全土に強制力を持つ公法として機能し始めた。武力による紛争解決が常であった時代から、法と裁定による秩序の時代への大きな一歩が、この仕置によって記されたのである。

第三に、 近世大名配置の原型が形成 された点である。この仕置の結果として行われた大規模な領土再編は、その後の日本の勢力図を決定づけた。とりわけ、徳川家康が広大で生産力の高い関東に移封されたことは、その後の歴史を動かす最大の要因となった。家康が江戸を拠点として築き上げた政治的・経済的基盤が、後の江戸幕府260年の平和の礎となったことは言うまでもない。同様に、伊達政宗の仙台藩、蒲生氏郷の会津藩の成立など、この時に形成された大名の配置は、江戸時代の藩体制の原型として、後世に大きな影響を与え続けた。

最後に、「仕置」という概念そのものが持つ重要性である。秀吉の行った「仕置」は、単なる武力による征服に留まらず、その後の領土配分、統治体制の再構築、そして新たな法秩序の強制までを含む、包括的な政治プロセスであった。この方法は、後の徳川幕府による大名統制策にも受け継がれ、近世的な「公儀」による中央集権的な支配体制の確立へと繋がっていった。しかし、その過程で多くの在地勢力が切り捨てられ、新たな支配体制への抵抗も生んだ。小田原仕置は、戦国乱世に終止符を打ち、新たな時代への扉を開いた輝かしい功績の裏で、強大な権力による一方的な秩序の押し付けという、光と影の両側面を併せ持つ出来事として、日本の歴史に深く刻まれている。

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