最終更新日 2025-09-19

小田原城総構完成(1590)

1590年、北条氏は小田原城に総延長9kmの総構を完成。戦国期土木技術の粋を集め、籠城共同体を形成するも、豊臣秀吉の圧倒的な総力戦と心理戦の前に支城網は崩壊。小田原評定の末、北条氏は滅亡した。
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天正十八年の城郭:小田原城総構の完成と北条氏の終焉

序章:終焉の始まり ― 1590年、関東の空

天正18年(1590年)、春。相模国小田原の地では、一つの巨大な城郭普請が完成の時を迎えようとしていた。城のみならず城下町、さらには耕作地までをも内包する、総延長9キロメートルに及ぶ壮大な防御線「総構(そうがまえ)」。それは、伊勢宗瑞(北条早雲)以来、関東に百年の覇を唱えた後北条氏の栄華と、戦国時代における土木技術の粋を集めた結晶であった 1 。しかし同時に、この巨大要塞の槌音は、天下統一を目前にした関白・豊臣秀吉への最後の、そして最も雄弁な抵抗の意思表示でもあった。

この報告書は、1590年という画期における「小田原城総構の完成」という事象を単なる建築史の一コマとしてではなく、戦国時代の終焉を象徴する政治的・軍事的カタストロフの中心に据え、その背景、構造、そして結末までを、あたかもリアルタイムで進行する事態のように多角的に解明するものである。なぜ北条氏は、対話ではなく城壁に一族の未来を託したのか。完成した総構は、彼らを守る鉄壁の盾となったのか、それとも自らを時代の潮流から隔絶する巨大な檻と化したのか。技術的達成の頂点と、戦略的破綻の深淵が交錯した北条氏滅亡の過程を、ここに詳述する。

第一章:対立の構造 ― なぜ巨大要塞は必要とされたか

1-1. 天下統一事業と「惣無事令」

小田原城総構という未曾有の普請が急がれた直接的な背景には、豊臣秀吉による天下統一事業の急速な進展があった。天正15年(1587年)、秀吉は25万の大軍を率いて九州の島津氏を降し、西日本を完全にその支配下に置いた 3 。残るは関東の北条氏と奥羽の伊達氏のみとなり、秀吉の視線は必然的に東国へと注がれた 3

秀吉が天下統一の手段として用いたのが「惣無事令(そうぶじれい)」である。これは、天皇の権威を背景に、大名間の私的な領土紛争(私戦)を禁じ、領地の境界画定はすべて豊臣政権の裁定に委ねるという法令であった 4 。しかし、この法令は、実力によって領土を拡張し、関東に独自の秩序を築き上げてきた北条氏の伝統的な戦略と根本的に相容れないものであった。秀吉の提示する「惣無事令」は、日本全土を覆う中央集権的な新しい秩序の確立を意味していた。これに対し、北条氏は自らを関東八州における独立した「公儀(こうぎ)」、すなわち最高権威と見なしており、その支配圏内での紛争解決は自らの権能であると考えていた。したがって、両者の対立は単なる領土問題に留まらず、戦国時代の終焉を巡る「新旧秩序の衝突」という、より根源的な性格を帯びていたのである。

1-2. 沼田領問題と外交の隘路

新旧秩序の衝突が具体的に顕在化したのが、上野国(現在の群馬県)の沼田領を巡る、北条氏と真田氏の長年にわたる領有権問題であった 5 。この紛争を解決すべく秀吉は仲介に乗り出し、天正17年(1589年)、沼田領の3分の2を北条氏に、残る3分の1(名胡桃城などを含む)を真田氏に与えるという裁定を下した 6

北条氏はこの裁定を受け入れ、当主・北条氏直の舅(しゅうと)であり、秀吉と北条氏の間に立つ徳川家康の斡旋もあって、一時は秀吉への臣従に向けた道筋が見え始めていた 6 。天正16年(1588年)には、当主・氏直の叔父にあたる北条氏規が名代として上洛し、秀吉に謁見している 8 。しかし、秀吉が再三にわたり要求した当主・氏直、あるいは隠居の身ながら実権を握る父・氏政の上洛は、ついに実現しなかった 8 。北条氏が上洛を躊躇した背景には、本拠地である関東を長期間離れることへの軍事的な不安、すなわち北の上杉氏や東の佐竹氏の動向への警戒があったとされる 9 。この上洛延期は、秀吉の北条氏に対する不信感を決定的に増幅させる結果となった。

1-3. 導火線:名胡桃城事件

両者の緊張関係が破局へと向かう直接の引き金となったのが、天正17年(1589年)10月23日に発生した「名胡桃城事件」である 10 。北条氏の家臣で沼田城代であった猪俣邦憲が、秀吉の裁定によって真田領と確定したはずの名胡桃城を、独断とも言われる形で武力奪取したのである 4 。これは「惣無事令」に対する公然かつ明白な違反行為であり、秀吉に北条討伐の絶好の口実を与えることになった。

この事件の背景には、北条氏内部の深刻な路線対立があった。当主の氏直や、秀吉との交渉役を担っていた氏規らが融和的な姿勢を示す一方で、隠居後も絶対的な権力を保持していた父・氏政とその弟・氏照らは、秀吉に対して強硬な主戦派を形成していた 6 。猪俣の行動が氏政ら強硬派の意を汲んだものであったか、あるいは単なる現場の暴走であったかは定かではない。しかし、いずれにせよ、家中の方針を統一し、家臣の逸脱行為を抑えきれなかった統治機構の機能不全が、破局を招いたことは明らかである。

北条氏の統治構造は、氏直と氏政の二元体制に加え、家臣からの訴訟を取り次ぐ「奏者」「小奏者」といった複雑な制度を有していた 14 。このような構造は、平時においては機能したかもしれないが、秀吉という未曾有の国家的脅威に直面した際、迅速で統一された意思決定を著しく阻害した。氏直が弁明の使者を派遣する一方で、氏政は強硬姿勢を崩さず、結果として秀吉の目には「弁明しつつ戦争準備を進める二枚舌」と映ったであろう。情報を一元管理し、即座に全国規模の動員を決定できる秀吉の統治機構と、複雑な合議と二元体制の中で揺れ動く北条氏のそれとの間には、致命的な「情報の非対称性」と「統治構造の優劣」が存在した。この差が、外交交渉を最終的な決裂へと導いた根源的な要因の一つであった。

第二章:戦国期土木技術の集大成 ― 小田原城総構の全貌

2-1. 総構の起源と段階的拡張

秀吉の来攻に備えて完成された小田原城総構は、天正18年(1590年)に突如として計画・建設されたものではない。その起源は、過去の苦い戦訓に遡る。永禄4年(1561年)の上杉謙信による小田原攻め、そして永禄12年(1569年)の武田信玄による来攻である。これらの経験から、大規模な籠城戦を想定し、城下町全体を防衛線に取り込む必要性を痛感した三代当主・氏康の時代から、総構の構想と普請は段階的に進められてきた 15

記録によれば、永禄12年の「三の丸大普請」を皮切りに、天正6年(1578年)の「戌歳大普請」、天正13年(1585年)の「乙酉大普請」など、複数回にわたる大規模な城普請が確認されている 15 。そして、対秀吉との対立が現実味を帯びてきた天正15年(1587年)以降の「亥歳大普請」「相府大普請」、そして最後の仕上げとなった天正17年(1589年)秋からの「寅歳大普請」によって、この巨大防御システムは最終的な完成を見たのである 15

2-2. 構造と規模 ― 9kmの巨大要塞

完成した総構は、小田原城とその城下町をすっぽりと囲い込む、総延長9キロメートルにも及ぶ壮大な防御線であった 1 。その規模は、当時の日本において最大級の城郭であり、豊臣大坂城の構えをも凌いでいたとさえ言われる 2

その設計思想の最大の特徴は、自然地形を巧みに利用している点にある。城の西側に連なる箱根の山麓から続く丘陵地帯には、巨大な空堀(からぼり)を幾重にも掘削し、特に防衛上の要衝である小峰御鐘ノ台(こみねおかねのだい)には大規模な大堀切を設けて尾根筋を遮断した 16 。一方で、城の東側から南側にかけて広がる沖積低地では、早川や山王川(現在の渋取川)といった河川や湿地帯を巧みに利用した水堀(みずぼり)を配置し、地形に応じて防御施設の構造を柔軟に変化させていた 18 。堀の規模は、場所によっては幅が20メートルから30メートル、土塁の頂上から堀底までの深さが約12メートル、斜面の角度は約50度にも達し、物理的な侵入を極めて困難なものにしていた 1

2-3. 北条流築城術の真髄

総構の防御力を支えたのは、規模だけでなく、北条氏が長年の経験で培ってきた独自の高度な築城技術であった。

障子堀・畝堀 : 北条流築城術の代名詞とも言えるのが、「障子堀(しょうじぼり)」と「畝堀(うねぼり)」である 21 。これは、空堀の底に、あえて土の壁(畝)を掘り残すことで、堀の中に侵入した敵兵の自由な移動を妨げる構造である 23 。畝によって区切られた狭い空間に閉じ込められ、動きの止まった敵兵を、土塁の上から弓矢や鉄砲で効率的に攻撃することができた 17 。小田原城総構においても、竜洞院裏の発掘調査によって障子堀の存在が確認されている 19

関東ローム層の活用 : 小田原周辺の地質である粘土質の関東ローム層も、強力な防御要素として利用された。この赤土は非常に滑りやすく、一度堀に落ちた兵士が急な斜面を這い上がることはほぼ不可能であったと言われ、さながら「蟻地獄」のような効果を生み出した 17

版築 : 土塁の構築には、土を何層にも分けて突き固める「版築(はんちく)」と呼ばれる高度な土木技術が用いられた 19 。これにより、雨水による浸食にも強い、堅固で安定した土壁を形成することができた。

これらの技術は、織田・豊臣政権下で発展した石垣を多用する城郭とは一線を画す、「土の城」の技術的到達点であった。石材の乏しい関東の地において、現地の土と地形を知り尽くした北条氏ならではの合理的かつ効果的な選択であり、その技術力は同時代の他の大名を凌駕するものであった。総構は、いわば「ローテクの極致」とも言うべき、土木技術の集大成だったのである。

2-4. 戦略思想 ― 籠城共同体の創出

小田原城総構の最も特筆すべき点は、その防御線が単なる軍事施設だけでなく、城下で暮らす商人や職人の居住区、さらには食料を生産するための田畑までも内部に取り込んでいたことである 4

これは、敵の大軍に包囲され、外部からの補給が完全に遮断されたとしても、城郭内部で食料を自給自足し、長期間にわたって籠城を継続することを可能にする戦略思想の表れであった。兵士だけでなく、非戦闘員を含む領民全体で城に籠り、一つの巨大な「籠城共同体」を形成する。これにより、兵糧攻めという籠城戦における最大の弱点を克服しようとしたのである。この自己完結型の防衛システムは、他の多くの戦国城郭には見られない小田原城の最大の特徴であり、北条氏が絶対の自信を持つ籠城戦略の根幹をなすものであった。

第三章:リアルタイム・ドキュメント ― 破局への秒読みと最後の槌音

天正17年(1589年)秋から天正18年(1590年)春にかけて、事態は破局へと向かって急速に進行する。北条氏が総構の最終普請という局地的な戦術準備に没頭する一方で、豊臣秀吉は全国規模の戦略的包囲網を着々と構築していった。両陣営の動向を時系列で対照すると、その視野と行動の規模、速度における圧倒的な差が浮き彫りになる。

年月日

北条方の動向

豊臣方の動向

天正17年10月23日

猪俣邦憲、名胡桃城を武力で奪取 10

天正17年11月

氏直、弁明の使者を派遣するも、領内には動員準備令を発し、「寅歳大普請」による総構の最終仕上げを加速 6

秀吉、氏直の弁明を事実上拒否。11月24日、全国の諸大名に対し北条討伐の陣触れ(事実上の宣戦布告)を発令 6

天正18年2月

総構の普請は最終段階へ。籠城に向けた兵糧や武具の備蓄を固める。

2月1日、先鋒部隊が出陣開始。徳川家康軍3万が東海道を進発。毛利・九鬼・長宗我部らの水軍1,000隻以上が瀬戸内を出航 27

天正18年3月

総構、ほぼ完成。各地の支城も臨戦態勢に入る。

3月1日、秀吉本隊が京都を出立。3月27日、秀吉は沼津の三枚橋城に着陣。豊臣秀次、徳川家康、織田信雄らの大軍が箱根周辺に集結を完了 27

天正18年3月29日

豊臣軍、北条領への全面侵攻を開始。西の玄関口である山中城、伊豆の韮山城への攻撃が始まる 27

天正18年4月3日

豊臣軍の先鋒部隊が小田原城下に到達。陸海から小田原城の完全包囲を開始 11

この対照年表が示すのは、両者の戦争準備における「速度」と「規模」の致命的なミスマッチである。北条氏の準備は、あくまで関東という地域ブロック内での覇権争いの延長線上にあった。数ヶ月をかけて土を掘り、壁を築くという、伝統的な戦国時代の戦争準備であった。対照的に、秀吉の動員は、陸軍22万、水軍数万という、日本という国家全体の軍事力を動員する、全く次元の異なるものであった 1 。北条氏が城という「点」の防御を固めている間に、秀吉は西日本全土という「面」で、兵站線を含めた巨大な包囲網を構築し、関東に押し寄せた。北条氏は、自分たちが対峙している相手がもはや「一人の戦国大名」ではなく、「統一国家そのもの」の圧倒的な軍事力であることを、この時点に至っても本当の意味で理解できていなかった。総構の完成は、この絶望的な認識のズレが生んだ、巨大な記念碑とも言えたのである。

第四章:完成、そして包囲 ― 鉄壁の要塞が見た夢

4-1. 支城網の崩壊

天正18年3月下旬、豊臣軍の侵攻が開始されると、北条氏が誇る広域防衛システム、すなわち本城である小田原城と関東各地の支城が連携して敵を食い止めるという戦略は、瞬く間に瓦解した。豊臣軍は、東海道、東山道、そして海上からという多方面同時侵攻作戦を展開し、北条氏の支城ネットワークを個別に、そして徹底的に撃破していった。

特に象徴的だったのは、3月29日に攻撃が開始された西の防衛拠点・山中城の陥落である。豊臣秀次を総大将とし、徳川家康も加わった数万の軍勢の猛攻の前に、北条流築城術の粋を集めたこの堅城は、わずか半日で陥落した 11 。伊豆方面では、北条氏規が守る韮山城が包囲され、水軍の拠点であった下田城も、長宗我部元親や脇坂安治らの海上からの攻撃を受け、約50日の抵抗の末に開城した 11 。さらに、北方軍として進撃した前田利家・上杉景勝らの部隊によって、武蔵国の鉢形城や八王子城といった主要な支城も次々と攻略され、開城していった 11

北条氏の防衛システムは、本城と支城が有機的に連携して初めて機能するよう設計されていた。しかし、秀吉の圧倒的な物量による同時多発的な攻撃は、その連携を物理的に不可能にした。一つの駒が抜かれると、ドミノ倒しのようにシステム全体が崩壊する構造的な脆さを内包していたのである。そして、小田原城総構の絶対的な堅固さへの過信が、かえって支城の将兵たちに「本城さえ無事であれば北条家は安泰だ」という油断を生ませ、徹底抗戦の意欲を削いだ可能性も否定できない 16

4-2. 包囲下の小田原 ― 総構の真価と限界

天正18年4月3日、先行していた徳川家康らの軍勢が小田原城下に到達し、ついに北条氏の本拠地は20万を超える大軍によって陸と海から完全に包囲された 28 。ここに、完成したばかりの総構が、初めて実践の場でその真価を問われることになった。

結果として、総構の防御力は圧倒的であった。城を幾重にも取り囲む巨大な堀と土塁は、豊臣軍のいかなる力攻めも寄せ付けず、秀吉は早々に直接攻撃を断念せざるを得なかった 17 。戦術を長期包囲による兵糧攻めに切り替えたが、前述の通り、城内には田畑までもあり、備蓄も潤沢であったため、兵糧が尽きる気配は一向に見えなかった 33 。戦術的なレベルで見れば、北条氏が想定した籠城戦略は、この時点では完全に成功していたと言える。戦線は膠着し、静かな睨み合いが続いた。

4-3. 心理戦の舞台 ― 石垣山一夜城

膠着した戦況を打破するため、秀吉が投じた次の一手は、武力による攻撃ではなく、圧倒的な権威と国力を見せつける高度な心理戦であった。その象徴が、小田原城を眼下に見下ろす笠懸山(かさがけやま)に築かれた「石垣山城」である 28

秀吉は、この地に本格的な総石垣の城の築城を命じ、約80日間という驚異的な短期間で完成させた 34 。そして、完成と同時に城の周囲を覆っていた木々を一斉に伐採させ、小田原城内からは、あたかも一夜にして巨大な城が出現したかのように見える劇的な演出を施した 31 。この「一夜城」伝説は、秀吉の底知れぬ動員力、財力、そしてこの戦を必ず終わらせるという揺るぎない意志を、籠城する北条方の将兵にまざまざと見せつけ、その士気に致命的な打撃を与えた 31

石垣山城の第一の目的は、秀吉自身の本陣としての軍事的機能や、万一の際の最終防衛拠点としての役割であった 37 。しかし、それ以上に重要だったのは、「見せる」ための劇場装置としての役割である。北条氏が築き上げた伝統的な「土の城」に対し、秀吉は最新技術の粋を集めた「石の城」を、その目の前に出現させることで、技術力と国力の絶対的な差を可視化した。さらに秀吉は、淀殿をはじめとする女性たちを前線に呼び寄せ、千利休に茶会を開かせるなど、戦場とは思えぬほどの余裕を見せつけることで、北条方の戦意を内側から崩壊させていった 11 。戦いは、物理的な戦闘から、権威と威信をかけた象徴闘争へと、その次元を変えていたのである。

4-4. 内部からの崩壊 ― 小田原評定と降伏

外部との連絡を完全に絶たれ、各地の支城が次々と陥落したという絶望的な報がもたらされる中、小田原城内では次第に厭戦気分が蔓延していった。打開策を見出せないまま、結論の出ない会議が延々と繰り返され、この状況は後に「小田原評定」と揶揄されることになる 13

城内では、徹底抗戦を主張する氏政・氏照ら主戦派と、もはや降伏はやむなしと考える当主・氏直との間で意見が激しく対立した 38 。約3ヶ月にわたる籠城の末、7月5日、ついに氏直が将兵の助命を条件に開城を決断し、降伏した 28

戦後、秀吉は開戦の責任を問い、氏政と氏照、および宿老の大道寺政繁、松田憲秀に切腹を命じた 28 。当主であった氏直は、舅である徳川家康の助命嘆願もあって死を免れ、高野山へ追放された 7 。ここに、関東に百年の栄華を誇った戦国大名・後北条氏は、その歴史の幕を閉じたのである。

終章:歴史の教訓 ― 総構が語るもの

小田原城総構を巡る一連の事象は、戦国時代の終焉における重要な教訓を内包している。

第一に、それは「戦術的成功と戦略的失敗の逆説」を物語っている。小田原城総構は、戦術兵器としては間違いなく大成功であった。当代随一の軍事力を持つ豊臣軍20万の力攻めを完全に防ぎきり、その設計思想の正しさを証明したからである。しかし、この完璧な要塞への過信こそが、秀吉という新しい時代の支配者との外交交渉において、北条氏の判断を硬直化させ、柔軟な戦略的選択肢を奪う結果となった。城は守れても、家は守れなかったのである。鉄壁の要塞は、物理的な敵を防ぐと同時に、時代の変化という見えざる敵から自らを隔絶する壁ともなった。

第二に、時代の変化への不適応である。北条氏の籠城戦略は、上杉謙信や武田信玄といった、あくまで「同時代のライバル」を想定したものであった。しかし、秀吉がもたらしたのは、単なる軍事力の差ではなく、国家規模の兵站能力と、政治・経済・心理戦を複合させた「総力戦」という、全く新しい戦争のパラダイムであった。旧来の価値観と成功体験に固執した北条氏は、この時代の構造的変化に対応することができなかった。総構の完成は、旧時代の軍事思想が到達した最後の輝きであると同時に、その限界を白日の下に晒した瞬間でもあった。

最後に、後世への影響である。北条氏は滅びたが、その卓越した築城技術と思想は、歴史から完全に消え去ったわけではない。総構の圧倒的な防御力は、敵であった秀吉や家康にも強烈な印象を与えた。秀吉自身が後に築く大坂城の巨大な総構や、家康による江戸城の拡張計画にも、この小田原での経験が何らかの影響を与えた可能性は高い 17 。皮肉なことに、北条氏の技術的遺産は、彼らを滅ぼした天下人の手によって、近世城郭の設計思想へと受け継がれていったのである。

小田原城総構は、戦国時代の終わりと、新しい統一政権の時代の幕開けを告げる、巨大なモニュメントとして、今も歴史にその姿を刻んでいる。

引用文献

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  2. 小田原城総構を散策してきました|社員がゆく|Nakasha for the Future https://www.nakasha.co.jp/future/report/odawara_castle.html
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