最終更新日 2025-10-03

小田原新宿立地(1601)

慶長6年、家康は東海道宿駅伝馬制度を制定し、小田原は宿場町へ再編。北条氏の軍事都市から近世都市へ転換し、大久保氏の城郭改修や稲葉氏による東海道ルート変更を経て、経済と社会が変容した。
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慶長六年の宿駅制定と「小田原新宿立地」の実相:戦国城下から近世宿場町への構造転換

序章:問いの提示 — 1601年、小田原に何が起こったのか

慶長6年(1601年)、相模国小田原において「新宿立地」という事変があったとされる。これは一般に、徳川体制下で宿駅が整備され、城下の再興が進められた出来事として理解されている。しかし、この「小田原新宿立地」という言葉が指し示す歴史的実相は、単一の事象に留まるものではない。本報告書は、この出来事を戦国時代の終焉と徳川による天下泰平の時代の幕開けという、より広範な歴史的文脈の中に位置づけ、その多層的な意味を解き明かすことを目的とする。

まず、核心的な論点を提示する。小田原の町名史を詳細に検討すると、「新宿町」という固有名詞が成立したのは、江戸時代前期、稲葉氏が城主であった時代に、城の大手口(正面玄関)が変更され、それに伴い東海道の経路が北寄りに付け替えられた時であったことが示されている 1 。稲葉氏が小田原藩主となるのは寛永9年(1632年)以降であり、慶長6年(1601年)とは約30年の年代的乖離が存在する 3 。この事実は、「小田原新宿立地(1601)」が、特定の「新宿町」という区画の誕生を直接指すものではない可能性を強く示唆する。

したがって、本報告書では「小田原新宿立地」を、特定の地名の成立としてではなく、より広義の都市計画プロセスとして捉え直す。すなわち、慶長6年(1601年)に徳川家康が発令した 東海道宿駅伝馬制度の制定 を直接的な契機として、戦国時代最大の軍事都市であった小田原に、幕府公認の宿場町としての 新たな機能(新しい宿場=新宿)を計画し、配置(立地)する という、一連の都市再編事業全体を指すものと定義する。この視座に立つことで、「新宿」という言葉が持つ「新しく設けられた宿」という一般名詞としての意味合いが浮かび上がる 5 。事実、東海道の品川宿においても、後に「歩行新宿」という新たな区画が追加された事例が見られる 7

このプロセスは、単なるインフラ整備に非ず、戦国時代の終焉 9 と徳川による全国支配体制の確立を象徴する、都市の機能と構造の根本的な「リプログラミング(再計画)」であった。本報告書は、北条氏時代の巨大城郭都市の構造から説き起こし、小田原征伐後の変容、大久保氏による初期統治を経て、1601年の宿駅制度制定が如何にして小田原を近世都市へと転換させたのか、その詳細な時系列と歴史的意義を徹底的に論証するものである。

第一章:前史 — 北条氏の巨大城郭都市とその崩壊(〜1590年)

北条氏の城下町経営

慶長6年(1601年)の変革を理解するためには、その前史、すなわち北条氏百年の治世下に形成された小田原の都市構造をまず把握せねばならない。伊勢宗瑞(後の北条早雲)に始まる後北条氏は、約一世紀にわたり南関東に君臨した戦国大名である 11 。二代氏綱の代に小田原城を本城と定めて以降、城と城下町は一体的に発展を遂げた 12 。特に三代氏康の時代には、小田原は「相模府中小田原」と称され、領国の政治・経済・文化の中心として繁栄の極みに達した 13

その都市経営は先進的であり、高度な測量技術を駆使して早川上流から取水し、城下町全体に生活用水を供給する上水道「小田原用水」を敷設していたことが知られている 14 。これは、大規模な人口を擁する都市機能を維持するための、高度な土木技術と統治能力の証左である。

難攻不落の「総構」

北条氏時代の小田原を最も特徴づけるのは、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による来襲に備えて構築された、巨大な防御施設「総構」である 15 。これは、城郭本体のみならず、家臣団の屋敷や町人地を含む城下町全体を、全長約9kmにも及ぶ長大な堀と土塁で三重に囲い込むという壮大なものであった 15 。この総構によって、小田原は戦国時代最大の城郭都市となり、上杉謙信や武田信玄といった名将の攻撃をも退けた難攻不落の要塞としてその名を轟かせた 16

この構造が示す都市思想は、徹底して内向的かつ軍事的である。都市のあらゆる機能を防御壁の内側に取り込み、外部世界から遮断することで籠城戦を有利に進めることを目的としていた。しかし、この思想は、来るべき徳川の時代が求める、人・モノ・情報が自由に行き交う開放的な交通ネットワークとは全く相容れないものであった。北条氏にとって最大の強みであった総構は、天下統一後の徳川体制下においては、交通を阻害し、経済活動を妨げる「負の遺産」と化す宿命にあったのである。

北条氏時代の「新宿」

興味深いことに、16世紀の北条氏時代の時点で、城下町の東側には「新宿」と呼ばれる地域が存在していた。記録によれば、「東の新宿から宿の中心と考えられている本町・宮前町を経て西の大窪までの長い街並みが形成されていた」とある 13 。これは、領国の拡大と共に小田原の人口が増加し、城下町が東海道や甲州道に沿って拡大していく過程で形成された、新しい町人居住区であったと考えられる。この既存の「新宿」という地名と区画が、後の徳川時代における宿場町計画の地理的な素地の一つとなった可能性は十分に考えられる。

小田原征伐(1590年)と都市の疲弊

天正18年(1590年)、豊臣秀吉は20万を超える大軍を率いて小田原を包囲した 18 。北条氏は約6万の兵をもって3ヶ月余り籠城したが 13 、関東各地の支城が次々と陥落し 19 、城内では徹底抗戦派と和睦派が対立して方針が定まらない「小田原評定」と揶揄されるほどの混乱に陥った 10 。最終的に、同年7月5日、当主氏直の投降によって小田原城は開城し、後北条氏は事実上滅亡した 13

この長期にわたる包囲と籠城は、小田原の都市機能に深刻な打撃を与えた。城下の経済活動は完全に停止し、物的・人的資源は著しく消耗した。開城後、この広大な旧北条領は徳川家康に与えられ、小田原は新たな支配者を迎えることとなる 10 。家康とその後継者たちにとって、焦土と化したこの巨大都市を如何に復興させ、新時代の要請に適合した形へと再編するかは、喫緊の課題であった。

第二章:新時代の胎動 — 大久保氏統治下の復興と再編(1590年〜1600年)

徳川家康の関東入府と小田原の位置づけ

天正18年(1590年)の小田原開城後、豊臣秀吉の命により関東へ移封された徳川家康は、その本拠地として、当時まだ寒村であった江戸を選んだ 21 。これは、既存の都市構造に縛られず、自らの構想で新たな政治経済の中心を築こうとする家康の深謀遠慮の現れであった 22

しかし、家康が江戸を新たな拠点としたからといって、小田原の戦略的重要性が失われたわけではなかった。西国と関東を結ぶ東海道の要衝に位置し、天下の険・箱根を目前に控える小田原は、依然として関東防衛の西の玄関口であり、最重要拠点の一つであった 13 。家康はこの地を「東国の押さえ」と位置づけ、譜代の重臣である大久保忠世を4万5千石で小田原城主に封じた 3

前期大久保氏の統治(忠世・忠隣)

大久保忠世は、徳川家康の関東統治の礎を築くべく、戦乱で疲弊した小田原の復興に着手した。文禄3年(1594年)に忠世が没すると、その嫡男である忠隣が跡を継ぎ、武蔵羽生に2万石を加増され、6万5千石の大名となった 3 。忠隣は徳川政権下で順調に昇進を重ね、後には老中として幕政の中枢を担うほどの有力者となる 25

忠世・忠隣父子が統治した慶長19年(1614年)までの24年間は「前期大久保氏時代」と称される。この期間、小田原は徳川の軍事・政治思想に基づいて再定義される重要な「移行期」であった。従来、この時期の小田原城は北条氏時代の縄張りをほぼ踏襲しただけと考えられてきた 4 。しかし、近年の発掘調査の進展により、この見解は大きく修正されつつある。調査の結果、前期大久保氏時代に、大規模な堀の掘削や高石垣の構築、瓦葺き建造物の導入など、広範にわたる城郭改修が実施されていたことが明らかになったのである 4

これは、単なる居城の修繕に留まるものではない。土塁と空堀を主体とした北条氏の「土の城」から、石垣と瓦を用いた壮麗な「見せる城」へと、その姿を大きく変貌させたことは、徳川の権威を内外に誇示する強力な政治的メッセージであった。同時に、城内の区画を整理し、動線を再構築するこれらの改修は、来るべき宿場町としての機能を円滑に導入するための、物理的な下準備としての側面も持っていたと考えられる。つまり、この時期の城郭の近世化と、慶長6年(1601年)の宿場町化は、断絶した事象ではなく、連続した都市再編プロセスの一部として捉えるべきなのである。

関ヶ原の戦い(1600年)へ

慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利を収め、名実ともに天下人としての地位を確立した。これにより、江戸を中心とした全国支配体制の構築が本格的に始動する。この新たな体制において、江戸と上方(京都・大坂)を結ぶ大動脈・東海道の整備は最重要政策の一つであった 28 。そして、その経路上に位置する小田原は、家康をはじめとする要人が往来する際の重要な中継地として、新たな役割を担うことが決定づけられたのである。


【表1:小田原・主要年表(1590年〜1640年)】

西暦(和暦)

城主/管轄

主要な出来事

1590年(天正18)

(北条氏→)大久保忠世

豊臣秀吉による小田原征伐。北条氏滅亡。徳川家康の関東入府に伴い、大久保忠世が4万5千石で小田原城主となる 3

1594年(文禄3)

大久保忠隣

忠世が死去し、嫡男の忠隣が6万5千石で跡を継ぐ 24 。この頃より、石垣や瓦を用いた城郭の近世化改修が始まる 24

1600年(慶長5)

大久保忠隣

関ヶ原の戦い。徳川家康が天下の実権を掌握する。

1601年(慶長6)

大久保忠隣

徳川幕府が東海道に宿駅伝馬制度を制定。小田原宿が公式に成立する( 小田原新宿立地 30

1614年(慶長19)

幕府直轄(番城)

大久保忠隣が改易される。幕府は小田原城の二の丸・三の丸の石垣や城門などを破却する 3

1619年(元和5)

阿部正次

阿部正次が5万石で入封する 3

1623年(元和9)

幕府直轄(番城)

阿部正次が岩槻藩へ転封。小田原は再び番城となる 3

1632年(寛永9)

稲葉正勝

稲葉正勝が8万5千石で入封。将軍家光の上洛に備え、大規模な城郭改修(近世化工事)に着手する 3

1633年(寛永10)

稲葉正勝

寛永小田原地震が発生し、城内・城下に甚大な被害が出る 4

1634年(寛永11)

(稲葉正則)

正勝が死去。子の正則が跡を継ぎ、城郭の再建・整備を継続。この過程で大手口が変更され、東海道が付け替えられる 4


第三章:慶長六年の大変革 — 東海道伝馬制度と小田原宿の成立

慶長6年(1601年)正月:宿駅伝馬制度の制定

本報告書の中核をなす慶長6年(1601年)の出来事は、前年の関ヶ原の戦いにおける徳川家康の勝利と密接に連動している。天下統一事業を最終段階へと進める家康は、矢継ぎ早に新たな全国支配体制の構築に着手した 28 。その根幹をなす政策が、江戸と京・大坂を結ぶ大動脈、東海道の整備であった 33

慶長6年(1601年)正月、幕府は東海道の各宿場に対し、伝馬朱印状を交付した 34 。これにより、公用の書状や荷物を輸送するための人馬を常に準備しておく「宿駅伝馬制度」が公式に発足した 30 。この制度は、幕府からの指令を迅速に全国へ伝達し、物資を安定的に輸送することを可能にするものであり、後の参勤交代の基盤ともなる、徳川三百年の泰平を支える最重要インフラであった。

小田原宿の指定と「新宿立地」のリアルタイム分析

この歴史的な制度制定において、小田原は品川、川崎、神奈川、大磯などに続く9番目の宿場として正式に指定された 23 。この指定は、小田原の都市構造に決定的な変革を迫るものであった。

小田原の地理的条件は、宿場町として極めて重要であった。江戸日本橋から約80km(二十里余)という距離は、当時の旅程において2泊目の宿泊地として最適であった 23 。さらに、その先には東海道最大の難所である箱根の山々が聳え立っている 11 。この「天下の険」を越える前、あるいは越えた後には、ほとんどの旅人が小田原での宿泊を余儀なくされた。このため、小田原宿は設立当初から、東海道屈指の規模と重要性を持つ宿場となることが運命づけられていたのである。

では、1601年の「新宿立地」とは、具体的にどのようなプロセスであったのか。それは物理的な建設行為以上に、**「制度の移植」**という側面が強かったと考えられる。幕府という中央権力が定めた「宿場」という全国標準の制度パッケージを、小田原という既存の都市空間に埋め込む作業であった。

  1. 計画策定: 幕府からの宿場指定という公的な命令を受け、当時の小田原藩主・大久保忠隣は、宿場としての機能を物理的に配置するための都市計画(町割り)に着手したはずである。
  2. 機能の配置: 宿場の中核をなす施設、すなわち大名や公家が宿泊する「本陣」、その予備施設である「脇本陣」、公用荷物の人馬継立業務を担う「問屋場」、そして一般旅行者が利用する無数の「旅籠」を、城下町のどこに配置するかが最大の課題となった 2
  3. 空間の創出: これらの施設を配置するため、小田原征伐で疲弊・荒廃していた北条氏時代の町人地が再整備されたと推測される。特に、東海道沿いの土地は、有力町人の屋敷を除き、間口5間(約9m)、奥行20間(約36m)といった短冊形の規格化された区画に整然と割り振られた可能性がある 13

この、 幕府の公的制度に基づき、新たな宿場機能を持つエリアを計画的に創出する一連の行為 こそが、1601年時点における「新宿立地」の実態であった。それは、小田原の都市空間が、特定の戦国大名に奉仕するローカルな城下町から、徳川幕府が統治するナショナルな交通網の一部へと、その公的性格を大きく変えた瞬間を画する出来事であった。

第四章:「新宿」の名を巡る考察 — 概念から地名への変遷

「小田原新宿立地」を巡る謎を解く鍵は、「新宿」という言葉が持つ複数の意味と、その歴史的変遷にある。小田原の都市史において、「新宿」は少なくとも三つの異なる文脈で現れる。これらの「新宿」を時系列に沿って分析することで、小田原の都市構造が段階的に変革されていった「都市の地層」を読み解くことができる。

三つの「新宿」

  1. 北条氏時代の「新宿」: 第一章で述べた通り、これは16世紀に城下町が東方へ拡大した際に生まれた新しい居住区を指す地名であった 13
  2. 1601年の「新宿(概念)」: 第三章で論じたように、これは東海道宿駅制度によって新たに付与された「新しい宿場機能」およびその機能が配置されたエリアを指す、いわば概念的な呼称であった。
  3. 稲葉氏時代の「新宿町(固有名詞)」: これは、寛永9年(1632年)以降に小田原藩主となった稲葉氏が、城と城下町の大規模な改修を行った際に、新たに東海道沿いに設定した町の固有名詞である 1

東海道ルートの変更と「古新宿町」の誕生

なぜ、大久保氏が整備した宿場町の後に、稲葉氏は再び東海道のルートを変更し、新たな「新宿町」を設ける必要があったのか。その背景には、三代将軍・徳川家光の上洛計画があった。稲葉正勝は、家光の宿泊所として小田原城をそれにふさわしい城郭へと整備する幕命を帯びていた 4

この大規模な近世化工事の一環として、城の防御構造の再編と、将軍が通るための公式ルート「御成道」の整備が行われた 13 。稲葉氏は、城の正面玄関である大手門の位置を変更し、東海道を城下のより中心部、大手門に正対するルートへと引き込むことで、徳川将軍の権威を最大限に演出しようとしたのである。この東海道の付け替えによって、新ルート沿いに「新宿町」が誕生した。

その結果、相対的に古いルートとなった大久保氏時代の東海道沿いの町は、やがて「古新宿町」と呼ばれるようになった 1 。この「古新宿町」こそが、慶長6年(1601年)の「新宿立地」によって整備された、当初の宿場町の中心エリアであった可能性が極めて高い。地名の変遷は、都市構造の変革を雄弁に物語る歴史の証人なのである。

絵図による検証

前期大久保氏時代の小田原城と城下町の姿を伝える最古の絵図として、「加藤図」と呼ばれる絵図が現存する 4 。この絵図は、稲葉氏による大規模改修が行われる以前の都市構造、特に東海道の旧ルートや城門の配置を知る上で、極めて貴重な史料である。近年の発掘調査の成果と照らし合わせることで、その信頼性も再評価されている 4 。この「加藤図」を分析することで、1601年に整備されたであろう宿場エリア、すなわち後の「古新宿町」の位置を具体的に推定することが可能となる。地名は、都市の歴史的変遷を解き明かすための、地図上に残された考古学的遺物とも言えるのである。


【表2:北条氏時代と近世における小田原の都市構造比較】

時期

① 北条氏時代末期 (〜1590年)

② 前期大久保氏時代 (1601年頃)

③ 稲葉氏時代以降 (1634年頃〜)

東海道ルート

総構の南側を通過する、比較的単純な東西路 13

北条氏時代のルートを基盤とし、宿場機能が付加された経路(後の「古新宿町」周辺) 40

城の大手口変更に伴い、北側に付け替えられ、城下中心部を貫通する新経路 1

城の大手口の位置

八幡山丘陵の西側、現在の幸田口門付近が主たる入口であったと考えられている 15

北条氏時代の構造を継承しつつ、近世化改修が進行中 4

将軍御成道整備のため、東側に新たな大手門が設けられ、東海道に正対する形となる 13

「新宿」エリア

城下町の東側に拡大した新しい町人地(地名としての「新宿」) 13

宿駅制度により整備された宿場機能エリア(概念としての「新宿」)。後の「古新宿町」に相当 40

新しい東海道沿いに設けられた町(固有名詞としての「新宿町」) 1

都市の性格

城と城下町が一体となった、巨大な内向的・軍事要塞都市 16

軍事拠点としての性格を維持しつつ、全国交通網の一部としての宿場機能が付加された過渡期の都市。

城と宿場町が計画的に配置された、開放的・交通結節点としての近世城下町 13


第五章:経済と社会の変容 — 宿場町としての繁栄の礎

慶長6年(1601年)の宿駅制度制定は、小田原の都市構造のみならず、その経済と社会のあり方を根底から変容させる起爆剤となった。それは、小田原の経済構造を、城下の武士階級を主な消費者とする「内需型(藩内経済)」から、全国を移動する不特定多数の旅人を消費者とする「外需型(広域経済)」へと劇的に転換させるものであった。

東海道屈指の宿場町へ

箱根越えという地理的要因と、北条氏時代から続く都市としての蓄積を背景に、小田原宿は急速に発展を遂げた。江戸時代後期、天保14年(1843年)頃の記録によれば、小田原宿には大名などが宿泊する本陣が4軒、脇本陣が4軒あり、その数は東海道五十三次の中で最多であった 37 。一般旅行者向けの旅籠も95軒を数え、人口約5,400人、家数約1,500軒という規模は、神奈川県内の宿場では群を抜く最大級のものであった 11 。この事実は、小田原が名実ともに関東の西の玄関口として、交通・宿泊の一大拠点であったことを示している。

宿場経済の勃興と名産品

絶え間ない人々の往来は、小田原に新たな経済活動と富をもたらした。旅人たちの宿泊、食事、そして土産物に対する需要が、新たな産業を育んだのである。

  • かまぼこ: 相模湾の豊富な海の幸を活かしたかまぼこは、保存が利き、栄養価も高いことから、旅の携帯食や土産物として人気を博した。街道沿いには「かまぼこ通り」と呼ばれる商店街が形成され、小田原を代表する名産品となった 11
  • 小田原提灯: 携帯性を追求し、胴の部分を折り畳んで懐に入れられるように工夫された小田原提灯は、夜間の移動が必須であった旅人にとって画期的な商品であった。その実用性から、やがて全国的にその名を知られるようになった 2
  • 漆器・木工品: 箱根山系の豊かな木材資源を背景に、室町時代から続く木工業は、宿場町として増加した湯治客や旅人の需要に応える形で、盆や椀などの漆器生産へと発展した 46

これらの名産品は、いずれも宿場町としての機能と密接に結びつき、外部から訪れる人々の需要に応える形で発展した産業であった。宿場町の成立は、小田原を徳川の全国経済ネットワークに深く組み込み、その後の小田原の産業構造を決定づけるほどの強い影響を与えたのである。

都市景観の変化

経済の活性化は、都市の景観をも一変させた。街道沿いには旅籠や商家が軒を連ね、活気に満ちた町並みが形成された 13 。17世紀末に日本を訪れたドイツ人医師エンゲルベルト・ケンペルは、その紀行文の中で小田原の様子を次のように記している。「小田原の町の外側には門と番所があり、町筋は清潔で、糸のようにまっすぐ延びており、中でも中央の通りは非常に道幅が広い。(中略)家屋はおよそ千戸、小さいけれども小ぎれいで大部分は白壁であった」 16 。この記述からは、1601年の宿駅制定から約90年後、小田原が計画的に整備された、清潔で美しい都市へと変貌を遂げていたことが鮮やかに浮かび上がってくる。

終章:総括 — 「小田原新宿立地」が画した時代

本報告書で詳述してきたように、慶長6年(1601年)の「小田原新宿立地」とは、特定の町の命名という単一の事象ではなく、徳川幕府による東海道宿駅伝馬制度の制定に伴い、戦国城下町・小田原に宿場としての新たな機能を計画・配置した、一連の都市再編プロセス全体を指すものである。

この事変は、小田原の歴史における決定的な転換点であった。北条氏百年の治世下に築かれた、外部から閉ざされた巨大軍事要塞としての役割は、この時をもって終焉を迎えた。そして、徳川の天下泰平を支える全国交通網の、経済と交通の結節点へと生まれ変わったのである。それは、都市の存在目的が「防衛と支配」から「流通と交流」へと、そのパラダイムを根本から転換したことを象徴している。

前期大久保氏による宿場町の基礎作り、そしてその後の稲葉氏による大規模な近世化工事を経て形成された小田原の都市骨格は、単なる過去の遺産ではない。現代の小田原市の中心市街地における町割りや道路網にも、その歴史的痕跡は色濃く残されている 13 。慶長6年(1601年)の大変革は、その後の400年以上にわたる小田原の都市の歴史を規定する、まさに原点の一つであったと言える。戦国から近世へという時代の大きなうねりの中で、一つの都市が如何にしてその機能と構造をダイナミックに変容させていったのか、「小田原新宿立地」はその壮大な歴史的ドラマを今に伝えているのである。

引用文献

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  25. 【小田原藩大久保氏】 - ADEAC https://adeac.jp/tondabayashi-city/text-list/d000020/ht000202
  26. 【R-SG009】大久保忠隣幽居跡 https://www.his-trip.info/siseki/entry591.html
  27. 【神奈川県】小田原城の歴史 謙信・信玄・秀吉の前に立ちはだかった巨大城郭 | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/1967
  28. 横浜旧東海道の魅力に触れてみませんか https://www.city.yokohama.lg.jp/kanko-bunka/miryoku/torikumi/tokaido/tokaido.html
  29. 旧東海道と宿場制度 横浜市保土ケ谷区 https://www.city.yokohama.lg.jp/hodogaya/shokai/rekishi/tokaido/shuku-seido.html
  30. 2024年は東海道五十七次400周年 https://tokaido.net/tokaido57-establishment/
  31. 小田原が宿場になったのはいつ頃ですか? - 関東地方整備局 https://www.ktr.mlit.go.jp/yokohama/tokaido/02_tokaido/04_qa/index2/a0210.htm
  32. 天守から絶景!「小田原城址」、城らしい雰囲気や造りが楽しめる【神奈川・小田原市】 - 関東近郊 https://tokitabi.blog/remains/kanagawa2205-odawaraj/
  33. 静岡駿府城の徳川家康像写真提供 - 歴史 https://www.yokokan-minami.com/site/rekishi/kaido_toku.html
  34. 東海道はいつ頃できたのですか? - 関東地方整備局 https://www.ktr.mlit.go.jp/yokohama/tokaido/02_tokaido/04_qa/index1/a0102.htm
  35. 1_05 東海道品川宿 1 東海道品川宿 品川宿の成立 徳川家康は、江戸と各地を結ぶために諸街道を https://www.city.shinagawa.tokyo.jp/jigyo/06/historyhp/en/pdf/kaisetsu_multi/tagengo_jpn/PDF_jpn/1_05jpn.pdf
  36. 東海道品川宿に https://www.city.shinagawa.tokyo.jp/jigyo/06/historyhp/pdf/pub/pamphlet/shinagawasyuku.pdf
  37. 東海道と箱根八里 https://www.hakone-hachiri.jp/wp/tokaido
  38. 小田原宿(東海道 - 大磯~小田原) - 旧街道ウォーキング - 人力 https://www.jinriki.info/kaidolist/tokaido/oiso_odawara/odawarashuku/
  39. 第1章 小田原市の歴史的風致形成の背景 https://www.city.odawara.kanagawa.jp/global-image/units/60592/1-20200523095935.pdf
  40. 古新宿町(こしんしくちよう)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%8F%A4%E6%96%B0%E5%AE%BF%E7%94%BA-3046735
  41. 御台場【小田原城街歩きガイド】 https://www.scn-net.ne.jp/~yanya/odaiba.html
  42. 紙本着彩小田原城絵図 加藤図 - おだわらデジタルミュージアム https://odawara-digital-museum.jp/selection/definition/36/
  43. www.hakone-hachiri.jp https://www.hakone-hachiri.jp/wp/tokaido#:~:text=%E5%B0%8F%E7%94%B0%E5%8E%9F%E5%AE%BF%E3%81%AB%E3%81%AF%E6%9C%AC%E9%99%A3,%E5%AE%BF%E5%A0%B4%E7%94%BA%E3%81%A7%E3%81%82%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%80%82
  44. 藤沢宿と県内各宿場の規模について https://www.city.fujisawa.kanagawa.jp/bunkazai/kyoiku/bunka/kyodoshi/kibo.html
  45. 特集 Vol.2 海と共に栄えた街・東海道「小田原宿」 https://wwwtb.mlit.go.jp/kanto/kankou/kankou/edokaidoportal/feature/vol_02/index.html
  46. 恵まれた自然と 新鮮な海産物。 箱根の入口で城下町として栄えた『小田原』 https://www.kamaboko.com/odawara/information/
  47. 小田原市観光戦略ビジョン(案) https://www.city.odawara.kanagawa.jp/global-image/units/561913/1-20221207104354.pdf
  48. 小田原市の維持向上すべき歴史的風致 https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunka_gyosei/shokan_horei/bunkazai/rekishifuchi/pdf/odawara_gaiyo.pdf
  49. 小田原城とその城下 https://www.city.odawara.kanagawa.jp/global-image/units/573897/1-20230323161444_b641bfc64a3d59.pdf
  50. 発掘された小田原城とその城下 - 神奈川県 https://www.pref.kanagawa.jp/documents/8040/r6kouza1.pdf