最終更新日 2025-10-09

小西行長処刑(1600)

1600年関ヶ原後、西軍小西行長は捕縛され、武士の常識に反し自害を拒否。信仰を貫き、三成、恵瓊と共に六条河原で処刑。徳川の秩序を示す政治的儀式。
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慶長五年十月一日、六条河原の殉教:小西行長処刑のリアルタイム・クロニクルとその波紋

序章:関ヶ原の終焉、そして始まり

慶長五年九月十五日(西暦1600年10月21日)、美濃国関ヶ原に立ち込めた濃霧が晴れた時、日本の運命を決定づける天下分け目の戦いの火蓋が切られた。徳川家康率いる東軍と、石田三成を中心とする西軍が激突したこの戦いは、わずか一日で東軍の圧倒的勝利に終わった。しかし、この終結は単なる軍事的な決着を意味するものではなかった。それは、戦乱の世に終止符を打ち、二百六十余年にわたる泰平の世を築く徳川幕藩体制の、冷徹かつ計算され尽くした秩序構築の始まりを告げる号砲だったのである。

戦場の喧騒がまだ冷めやらぬうちから、勝者である家康の陣営は迅速に「戦後処理」へと移行した。その眼差しは、敗軍の将たち、特に西軍の中核を担った大名に向けられていた。豊臣政権下で重きをなした石田三成、毛利家の外交僧として暗躍した安国寺恵瓊、そして商人出身のキリシタン大名という異色の経歴を持つ小西行長。彼らは、徳川が築く新時代の礎となるべく、「見せしめ」という名の政治的儀式の主役に運命づけられていた 1

この処刑は、単なる反逆者への懲罰ではなかった。それは、豊臣恩顧の大名を多く含む東軍諸将、いまだ去就を決めかねる外様大名、そして天下の万民に対し、新たな支配者が誰であるかを視覚的かつ心理的に刻み込むための、高度に演出された政治的パフォーマンスであった。特に小西行長の処刑は、その特異な出自と信仰ゆえに、旧時代の多様性の終焉と、新時代の統制された価値観の到来を象身する出来事となる。

本報告書は、この「小西行長処刑」という事変を、単なる歴史年表上の一項目としてではなく、一人のキリシタン大名の信仰と矜持、そして徳川家康の冷徹な国家構想が交錯したドキュメントとして捉え直すものである。関ヶ原での敗北から捕縛、屈辱的な市中引き回しを経て、六条河原の露と消えるまでの約半月間。そのリアルタイムな軌跡を丹念に追うことで、戦国という時代の終焉と、近世という新たな時代の幕開けに刻まれた、血と祈りの意味を明らかにしていく。

第一章:異色の武将、小西行長 ― その実像と関ヶ原への道程

小西行長がなぜ西軍の主要武将として関ヶ原の戦場に立ち、そして処刑台へと送られるに至ったのか。その答えは、彼の生涯を貫く特異な出自、篤い信仰、そして宿命的ともいえる人間関係の中にこそ見出すことができる。彼は、従来の武士の枠組みでは捉えきれない、豊臣政権が生んだ新しいタイプの武将であった。

商人から大名へ:秀吉に見出された才覚

小西行長は、永禄元年(1558年)、和泉国堺の薬種商・小西隆佐の次男として生を受けた 3 。武士階級ではないこの出自は、彼の思考の根幹に、損得勘定や交渉を重視する合理主義と、国境を越えた交易を前提とする国際感覚を育んだ。やがて備前岡山の商人へ養子に出された行長は、その地を治める宇喜多直家に見出され、商人から武士へと転身する 3

彼の運命が大きく転回するのは、天正八年(1580年)頃、宇喜多氏が織田信長に恭順する過程で、その麾下の羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の目に留まったことによる 6 。秀吉は、行長が持つ商人としての知識、特に海上交通や兵站管理能力を高く評価した。水軍の指揮官に任じられた行長は、「海の司令官」と称されるほどの活躍を見せ 3 、紀州征伐や四国征伐といった秀吉の天下統一事業において、物資や兵員の海上輸送という重要な役割を果たし、絶大な信頼を勝ち取っていく 2 。その功績により、行長は肥後国南半分の約十五万石を与えられ、商人出身としては異例の大出世を遂げたのである 3

信仰と政治:キリシタン大名としてのアウグスティヌス

行長の人物像を語る上で不可欠なのが、彼の篤いキリスト教信仰である。父・隆佐が宣教師フランシスコ・ザビエルと交流を持った影響から、行長は幼少期に洗礼を受け、「アウグスティヌス」という洗礼名を授かっていた 3 。この信仰は、彼の行動原理の根幹をなし、その統治と思想に深く影響を与えた。

彼は私財を投じて大坂にハンセン病の病院を、また領内には孤児院を設立するなど、社会的弱者の救済に尽力した 3 。これは単なる信仰心の発露に留まらず、領民の心を掴み、安定した統治を実現するための合理的な政策でもあった。天正十五年(1587年)に秀吉がバテレン追放令を発した際には、改易された高山右近を自領に匿い、秀吉に諫言するなど、信仰を守るためには政治的リスクを厭わない強い意志を示している 8 。彼のアイデンティティは、武将である以前に、まずキリシタン「アウグスティヌス」であった。

宿敵・加藤清正:肥後統治と朝鮮出兵で先鋭化した確執

行長の肥後入国は、彼の生涯にわたる宿敵との対立の始まりでもあった。肥後国の残り北半分を与えられたのは、秀吉子飼いの猛将・加藤清正であった 3 。これは、性格も出自も対照的な二人を競わせることで、双方の能力を最大限に引き出そうとする秀吉の巧みな人事戦略であったとされる 10 。しかし、この配置は両者の間に修復不可能な亀裂を生むことになる。

対立が表面化したのは、行長の領内で発生した天草一揆の鎮圧を巡ってであった 3 。行長が同じキリシタンである一揆勢に手心を加えたのに対し、清正は武力による徹底的な鎮圧を行った 13 。この一件は、信仰に基づく融和的な統治を目指す行長と、武断的な支配を信条とする清正との、統治思想の根本的な違いを露呈させた。

この確執を決定的なものにしたのが、文禄・慶長の役である。一番隊の将として朝鮮に渡った行長は、清正と先陣を争い、漢城(現在のソウル)を陥落させる武功を挙げた 14 。しかし、商人出身の行長は、この無謀な大陸侵攻の非現実性を早期に見抜き、石田三成らと連携して明との和平交渉を秘密裏に進める 14 。これに対し、あくまで秀吉の命令遂行を主張する清正ら武断派は、行長の動きを裏切りとみなし、両者の対立は激化した。清正が諸将の前で行長を「薬屋風情が」と侮蔑した逸話は、武士の家柄ではない行長への根深い軽蔑と、旧来の武士の価値観と豊臣政権が生んだ新しいテクノクラート(実務官僚)的武将との価値観の衝突を象徴している 17

石田三成との盟約:なぜ彼は西軍に与したのか

朝鮮出兵における和平交渉の推進という共通の目的は、行長と石田三成との間に強い盟友関係を築かせた 14 。彼らは共に「文治派」と目され、清正や福島正則ら「武断派」との対立構造を豊臣政権内に作り上げていく。秀吉の死後、この対立は徳川家康によって巧みに利用され、関ヶ原の戦いへと繋がっていく。

行長が関ヶ原で西軍に与した理由は、複雑な要因が絡み合っている。三成との友情や、豊臣家への恩義はもちろんあっただろう。しかし、それ以上に大きかったのは、宿敵・加藤清正が家康に与し、東軍の先鋒として動いていたことへの強烈な対抗心であった 17 。いわば、清正との個人的な確執が、行長を西軍へと追いやった側面は否定できない。彼の関ヶ原での選択は、合理的な政治判断以上に、武将としての意地と、長年のライバル関係がもたらした感情的な帰結でもあったのである。

第二章:敗走から捕縛まで ― 信仰が導いた選択(慶長五年九月十五日~十九日)

関ヶ原での敗北は、西軍の将たちに過酷な選択を迫った。武士としての名誉を保つために自刃するか、再起を期して落ち延びるか。しかし、小西行長が選んだ道は、そのいずれでもなかった。彼はキリシタンの教えに従い、自らの命を絶つことを拒み、あえて生きて捕らえられるという、当時の武士の常識からは逸脱した道を選んだ。それは、彼の信仰が導いた最後の、そして最も主体的な決断であった。

九月十五日:関ヶ原での奮戦と西軍の瓦解

慶長五年九月十五日、小西行長は宇喜多秀家隊の西、北天満山に約四千の兵を率いて布陣した 7 。霧が晴れると同時に始まった戦闘で、小西隊は正面の織田有楽、古田重勝、そして側面から攻撃を仕掛けてきた田中吉政、筒井定次らの東軍部隊と激戦を繰り広げた 2 。兵数では劣るものの、行長は奮戦し、一時は東軍を押し返すほどの戦いぶりを見せた。

しかし、昼過ぎ、松尾山に布陣していた小早川秀秋の裏切りが戦局を一変させる。秀秋隊一万五千が西軍の大谷吉継隊に襲いかかると、これをきっかけに脇坂安治、朽木元綱、赤座直保、小川祐忠らが次々と東軍に寝返り、西軍は総崩れとなった 7 。側面と背後を突かれた小西隊もこれ以上戦線を維持することは不可能となり、行長は全軍の壊滅を避けるため、戦場からの離脱を決断。伊吹山方面へと敗走を開始した。

九月十六日~十八日:伊吹山中への逃避行

戦場を離脱した行長は、伊吹山(現在の岐阜県と滋賀県の県境に位置する)の山中へと逃れ、潜伏した 19 。この数日間、彼は何を思い、何を祈ったのか。史料にその内面を直接記したものはないが、彼の置かれた状況と信仰からその心中を推察することは可能である。豊臣家への忠義を果たせなかった無念、家族や家臣たちの安否への気遣い、そして何よりも、自らの魂の救済を神に祈り続けたであろうことは想像に難くない。武士であれば、この潜伏期間中に自刃の場所と覚悟を決めるのが常道であった。しかし、行長にとって自害は神に対する大罪であり、決して許される選択肢ではなかった 8

九月十九日:「主よ、わが魂を御手に委ねん」― 捕縛の受容

潜伏から数日後の九月十九日、行長は伊吹山麓の糟賀部村(現在の岐阜県不破郡関ケ原町)にて、東軍の落人狩りを指揮していた地元の有力者・林蔵主の一党と遭遇する 19 。もはや逃れる術はない。しかし、行長の取った行動は、敵の予想を裏切るものであった。

彼は抵抗する素振りも見せず、自ら堂々と名乗り出ると、林蔵主に向かってこう告げたと伝えられる。「我は小西摂津守行長である。キリシタンの教えにより自害はできぬ。汝、我を捕らえて家康公のもとへ差し出し、褒美を得るがよい」 19 。これは、単なる諦念や宗教的教義の遵守ではない。敗軍の将として無様に捕らえられるのではなく、自らの意志で「捕縛される」という状況を主体的に選択し、武士の名誉ある死(自刃)とは異なる、キリスト教的価値観における「名誉ある受難」を自ら演出しようとした、行長の最後の自己主張であった。彼は、武士社会の価値観に殉じるのではなく、自らの信仰に殉じる道を選んだのである。

この自発的な捕縛は、彼が武士としての死に様を自らデザインする、最後の戦いであった。この後、行長の身柄は関ヶ原の領主であった竹中重門(竹中半兵衛の子)の家臣に引き渡され、徳川家康が本陣を置く大津へと送られることになった 20

第三章:囚人としての日々 ― 大津、大坂、堺を巡る屈辱の旅路(慶長五年九月十九日~二十九日)

捕縛から処刑までの約十日間、小西行長は石田三成、安国寺恵瓊と共に、罪人として屈辱的な旅路を強いられた。この護送と市中引き回しのルートは、決して無作為に選ばれたものではない。それは、徳川家康による周到に計算された政治的デモンストレーションであり、彼らの社会的・政治的生命を、物理的な処刑に先立って段階的に抹殺していくための儀式であった。

九月十九日~二十一日:大津本陣へ

九月十九日に捕縛された行長は、まず家康が戦後の差配を行っていた近江国草津、そして大津の本陣へと護送された 20 。大津は、勝利者である家康が君臨する場所であり、ここで囚われの身を晒すことは、勝者と敗者の立場を天下に明確に示すための第一歩であった。

行長が到着する少し前の九月二十一日、同じく伊吹山中で捕らえられた石田三成が先に大津城へ護送され、城門の前に縄で縛られ、生き晒しにされたという記録が残っている 22 。これは、彼を憎む東軍の諸将への見せしめであると同時に、豊臣政権の中枢を担った彼の権威を徹底的に貶めるための残酷な処置であった。行長もまた、同様の屈辱的な扱いを受けた可能性は極めて高い。この「生き晒し」という行為を通じて、家康は彼らがもはや一国一城の主ではなく、裁きを待つ一介の罪人であることを諸大名に知らしめたのである。

九月二十八日:大坂での市中引き回し

大津での晒しものの後、行長、三成、そして新たに捕縛された安国寺恵瓊の三人は、大坂へと護送された 23 。そして九月二十八日、彼らは豊臣家の本拠地である大坂の市中を、罪人として引き回されることになった 19

この行為が持つ政治的意味は計り知れない。大坂は、豊臣秀吉が築き上げた権力の象徴であり、豊臣家の威光がいまだ色濃く残る都市であった。その心臓部で、豊臣恩顧の代表格である三成と行長を罪人として引き回すことは、「豊臣の時代は終わった」という強烈なメッセージを、大坂の民衆、そしていまだ豊臣家に心を寄せる者たちに叩きつけるための、極めて象徴的なパフォーマンスであった。彼らがかつて権勢を誇った町を、今は囚人として練り歩かされる姿は、豊臣政権の完全な終焉を何よりも雄弁に物語っていた。

九月二十九日:堺での引き回しと京都へ

大坂での引き回しを終えた一行は、翌九月二十九日、次なる屈辱の舞台である堺へと送られた 19 。堺は、行長の父・隆佐が活躍した地であり、行長自身の商業的、そして宗教的な支持基盤ともいえる町であった 4 。豪商たちが経済を動かし、多くのキリシタンが暮らすこの自由都市で彼を晒し者にすることは、彼の個人的な権威と人脈を根底から破壊する行為に他ならなかった。

この約十日間にわたる旅路は、単なる処刑場への移動ではなかった。それは、家康が描く新秩序の前に、旧勢力の象徴たる彼らの権威を一つ一つ丁寧に剥ぎ取っていくための、計算され尽くしたプロセスであった。大津で武将としての名誉を、大坂で豊臣家臣としての権威を、そして堺で個人としての支持基盤を破壊された後、彼らは最終的な処刑地である京都へと護送された。京都は天皇の座所であり、日本の伝統的な権威の中心地である。そこで家康の裁きを執行することは、この処刑が私的な報復ではなく、「天下の公儀」による正当なものであることを天下に示すための、最後の仕上げであった。

第四章:六条河原の最期 ― 殉教者アウグスティヌスの処刑(慶長五年十月一日)

慶長五年十月一日(西暦1600年11月6日)、小西行長の運命の日は、冷たい秋風が吹く京都で訪れた。彼の最期は、武士としてではなく、信仰者「アウグスティヌス」としての生涯を貫徹する、荘厳な信仰告白の場となった。

処刑場・六条河原の情景

処刑の場として選ばれたのは、鴨川のほとりに広がる六条河原であった。この場所は、当時、重罪人の処刑場として広く知られており、武士が名誉ある死(切腹)を遂げる自邸などとは全く異なる、不名誉な場所であった 27 。あえてこの地が選ばれたのは、家康が彼らを武士としてではなく、天下に弓を引いた「大罪人」として処断するという強い意志の表れに他ならない 28

当日の六条河原には、処刑を見届けようとするおびただしい数の群衆が詰めかけ、物々しい雰囲気に包まれていた。石田三成、小西行長、安国寺恵瓊の三人は、それぞれ肩輿に乗せられ、京都の市中を引き回された末に、この処刑場へと到着した 30 。彼らの憔悴しきった姿は、群衆の目に、権力者の無残な末路として焼き付けられたであろう。

執行直前の信仰告白

執行の時が迫り、役人が三成、恵瓊、行長の順に処刑台へと進ませた。その際、一人の浄土宗の僧侶が、行長に経文を差し出し、阿弥陀仏の名を唱えて往生を願うよう勧めた。しかし、行長はこの申し出を毅然として拒絶した 21 。彼は仏教による救済ではなく、自らが生涯を捧げた神による救済を信じていた。

行長は静かに懐を探り、一枚の聖画像(イコン)を取り出した。それは、ポルトガル王妃から贈られたと伝えられる、キリストと聖母マリアが描かれたものであった 4 。彼はその聖画像を高く頭上に掲げ、天を仰いで静かに祈りを捧げ始めた 21 。周囲の喧騒が嘘のように静まり返る中、彼の唇はラテン語の祈りを紡いでいたのかもしれない。これは、彼の人生の全てを懸けた、最後の、そして最大の信仰告白であった。彼は、死の恐怖に直面してもなお、自らの信仰を曲げることなく、魂を神の御手に委ねることを選んだのである。

斬首の瞬間とその後

祈りを終えた行長は、静かに首を差し出した。石田三成、安国寺恵瓊に続き、彼の首は鋭い一閃と共に胴から離れた 2 。享年四十三歳(生年には諸説あり)。武士の多くが辞世の句を残すのに対し、行長のそれが伝えられていないのは、キリスト教の価値観において死は終わりではなく、神の御許へ召される栄光の瞬間であり、仏教的な無常観に基づく辞世の文化とは相容れなかったためであろう。

三人の首は、見せしめとして三条河原に運ばれ、三日三晩晒された 2 。徳川の新権力に逆らう者がどのような末路を辿るかを、天下に知らしめるための最後の演出であった。しかし、イエズス会の記録によれば、行長の遺体はその後、信仰を同じくする者たちの手によって密かに引き取られ、カトリックの作法に則って丁重に埋葬されたという 19 。公権力によって「罪人」として扱われた彼の肉体は、信仰共同体の手によって、殉教者として尊厳を取り戻したのである。

【時系列表】敗走から処刑までの軌跡

日付(慶長五年)

場所

主要な出来事

典拠・考察

9月15日

美濃国関ヶ原

関ヶ原の戦い。西軍敗北。行長は戦場を離脱し、伊吹山方面へ敗走。

各種合戦記 2

9月16日~18日

伊吹山中

潜伏・逃避行。キリシタンの教義に基づき、武士の習わしである自決を選ばず。

『板坂卜斎覚書』等 19

9月19日

伊吹山麓糟賀部村

落人狩りの林蔵主と遭遇し、自ら名乗り出て捕縛を促す。竹中重門の家臣に引き渡される。

『関原始末記』 19

9月19日夜~21日

近江国草津・大津

徳川家康の本陣へ護送される。先に捕縛された石田三成と共に、大津城にて晒された可能性が高い。

諸将の書状、『当代記』等 20

9月28日

大坂

石田三成、安国寺恵瓊と共に大坂市中を引き回される。豊臣政権の終焉を象徴する政治的演出。

『慶長記』、『義演准后日記』 19

9月29日

堺の市中を引き回される。行長の個人的な支持基盤に対する示威行動。その後、京都へ護送。

『義演准后日記』等 19

10月1日

山城国六条河原

石田三成、安国寺恵瓊と共に斬首。仏僧の回向を拒否し、キリストとマリアの聖画像を掲げ祈る。

各種年代記、イエズス会報告 21

第五章:処刑がもたらした波紋 ― 新時代への序曲

小西行長の死は、単に一個人の、そして小西一族の終焉に留まるものではなかった。それは、徳川家康が築こうとする新しい時代の秩序を天下に示すための象徴的な事件として、日本の政治、社会、そして宗教に静かだが確実な波紋を広げていった。

政治的衝撃:「見せしめ」の効果と外様大名への威嚇

西軍の首謀者とされた三名の公開処刑は、徳川家康に敵対する者がいかなる運命を辿るかを、天下の諸大名に強烈に印象付けた。特に、商人から成り上がり、豊臣政権下で重用された外様大名である行長の処刑は、同じような境遇にある他の外様大名たちにとって、他人事ではなかった。これは、能力本位で多様な人材を登用した豊臣の時代が終わり、家格と忠誠に基づいた厳格な徳川の秩序が始まることを告げる、明確なメッセージであった 31 。この「見せしめ」の効果は絶大であり、多くの外様大名が徳川への恭順を誓う心理的な要因となった。

行長の処刑は、豊臣政権が内包していた多様性(出自、信仰、技能の多様性)を否定し、徳川幕府が志向する、より均質で統制された武家社会への転換を象徴する出来事であった。豊臣秀吉のカリスマの下では、行長のような商人出身者、三成のような文治官僚、そして清正のような生粋の武人といった、異なる背景を持つ人材が共存し、その能力を発揮することができた。しかし、家康が目指したのは、そのような流動的な社会ではなく、身分や家格に基づいた安定的で統制の取れた幕藩体制であった。行長の処刑は、この社会構造の大きな転換点に起きた、一つの象徴的な事件と位置づけることができる。

肥後宇土城の攻防と小西家の滅亡

行長が京で囚人としての日々を送っている間、彼の本国である肥後宇土城では、留守を預かる家臣たちが、宿敵・加藤清正の軍勢を相手に絶望的な籠城戦を繰り広げていた 8 。行長の弟・小西長貞らが指揮する守備隊は奮戦したが、主君の処刑という報が届くと、城兵の士気は尽き、宇土城は開城した。

戦後、小西家は改易となり、その領地はすべて加藤清正に与えられた 11 。これにより清正は、長年のライバルを排除し、肥後一国五十二万石の大名へと飛躍を遂げた。これは、両者の長年にわたる確執の、あまりにも残酷な最終的決着であった。行長の一人息子は捕らえられて処刑され、対馬の領主・宗義智に嫁いでいた娘マリアも離縁されるなど、小西家の血筋はここに断絶した 34

信仰の証:キリシタンたちへの影響とヨーロッパでの評価

行長の殉教にも似た最期は、日本のキリシタン社会に大きな衝撃と影響を与えた。権力に屈することなく信仰を貫いた彼の姿は、後に激化する徳川幕府の禁教政策の下で苦難の道を歩む信徒たちにとって、大きな精神的支柱の一つとなった。

行長の死後、小西家の家臣団は離散したが、その一部は他の大名家に仕え、また多くは浪人となって潜伏した 36 。約三十七年後に勃発する島原の乱において、一揆軍の指導者層に小西家の旧臣の名が多く見られることは 8 、行長が残した影響の大きさと、彼の旧領におけるキリシタン信仰の根深さを物語っている。

一方、行長の死の報は、イエズス会の宣教師たちによってヨーロッパにもたらされた。そこでは、彼は信仰のために命を捧げた忠義の武将、殉教者として高く評価された。イタリアのジェノバでは、彼の生涯を題材とした音楽劇が上演されるなど、日本国内での「逆臣」という評価とは全く異なる、英雄としての名声を得たのである 19 。彼の死は、国境を越え、信仰という普遍的な価値観の中で語り継がれていった。

終章:歴史における小西行長 ― 再評価の視点

小西行長の生涯と死は、現代の我々に多くの問いを投げかける。彼は単なる敗軍の将だったのか。それとも信仰に殉じた聖者だったのか。あるいは、時代の大きな変化に翻弄された有能なテクノクラートだったのか。その評価は、見る者の立場や時代によって大きく揺れ動いてきた。

江戸時代を通じて、彼は徳川の治世に反旗を翻した「逆臣」として、否定的な評価を受けることが多かった。しかし、近年の研究では、彼の卓越した実務能力、特に水軍の運用や外交交渉における手腕、そして国際的な視野の広さなどが再評価されている 13 。彼は、武力だけが全てであった戦国の世に、交渉と経済という新たな力で道を切り拓こうとした、時代の先駆者であったのかもしれない。

彼の生き様はまた、「武士であること」と「キリシタンであること」という二つのアイデンティティの間で生じた、深刻な緊張関係を体現している。武士の作法である自刃を信仰ゆえに拒否した彼の最後の選択は、当時の武士の倫理観に一石を投じ、死の意味そのものを問い直すものであった。

最終的に、小西行長という人物は、単一のレッテルで評価できるような単純な存在ではない。商人、武将、大名、外交官、そしてキリシタン「アウグスティヌス」。複数の顔を持つ彼は、その複雑さゆえに旧来の価値観と衝突し、悲劇的な最期を遂げた。彼の処刑は、戦国という多様性が許容された時代の終わりと、統制された近世社会の始まりを告げる、一つの象徴的な出来事であった。彼の血が染み込んだ六条河原の砂は、時代の大きな転換点を、今も静かに物語っている。

引用文献

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  2. 小西行長は何をした人?「嘘も方便とはいかず文禄・慶長の役を招 ... https://busho.fun/person/yukinaga-konishi
  3. 小西行長の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/97667/
  4. 第43話 〜小西行長 - ここまで知らなかった!なにわ大坂をつくった100人=足跡を訪ねて=|関西・大阪21世紀協会 https://www.osaka21.or.jp/web_magazine/osaka100/043.html
  5. キリシタン大名・小西行長/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/97046/
  6. 「小西行長」商人から武士へ転身。異例の出世を遂げるも最期は… - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/680
  7. 【岐阜関ケ原古戦場記念館】古戦場史跡紹介「小西行長が捕まった場所」 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=4h5b-hY3OBQ
  8. 小西行長 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%A5%BF%E8%A1%8C%E9%95%B7
  9. 小西行長|宇土市公式ホームページ https://www.city.uto.lg.jp/article/view/1101/1792.html
  10. 日本史探究スペシャル ライバルたちの光芒~宿命の対決が歴史を動かした!~|BS-TBS https://bs.tbs.co.jp/rival/bknm/04.html
  11. 加藤清正は何をした人?「虎退治の豪傑は朝鮮出兵で勢い余って隣の国まで攻めた」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/kiyomasa-kato
  12. 加 藤 清 正 実 像 - 熊本市 https://www.city.kumamoto.jp/kiji0032846/Bun_89210_21_1152w_all_n.pdf
  13. 『したたかなキリシタン大名』 小西行長の生涯に迫る!! - サムライ書房 https://samuraishobo.com/samurai_10015/
  14. 西軍 小西行長/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/41113/
  15. 小西行長(こにし ゆきなが) 拙者の履歴書 Vol.106~キリシタン武将、東西の世の狭間にて - note https://note.com/digitaljokers/n/n384951630f5a
  16. 「豊臣秀吉」朝鮮出兵で配下に裏切られた裸の王様 天下人の大きすぎる野望に誰も付き従えなかった - 東洋経済オンライン https://toyokeizai.net/articles/-/706561?display=b
  17. 小西行長(西軍) 加藤清正との確執がこの戦いに私を導いた…… - 歴史人 https://www.rekishijin.com/22846
  18. 歴史・人物伝~関ケ原編⑭「キリシタンが選んだ道」小西行長 - note https://note.com/mykeloz/n/n2c82e788d24d
  19. 小西行長の最期|宇土市公式ウェブサイト https://www.city.uto.lg.jp/museum/article/view/4/30.html
  20. 歴史の目的をめぐって 小西行長 https://rekimoku.xsrv.jp/2-zinbutu-10-konishi-yukinaga.html
  21. 北天満山・小西行長 陣跡 | スポット情報 - 関ケ原観光ガイド https://www.sekigahara1600.com/spot/konishiyukinagajinato.html
  22. 石田三成~徳川家康に挑んだ関ヶ原~ - 中世歴史めぐり https://www.yoritomo-japan.com/sengoku/jinbutu/isida-mitunari.html
  23. 石田三成のお墓(11月6日が命日) | ゆぎおす - くらしのマーケット https://curama.jp/630495040/blog/c9b6f956-61a1-4d79-9127-ecc2c2b1b6b3/
  24. 石田三成の辞世 戦国百人一首㉕|明石 白(歴史ライター) - note https://note.com/akashihaku/n/n9a45a7d380a5
  25. 1600年 関ヶ原の戦い | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1600-3/
  26. その理由に涙。黒田長政が処刑前の石田三成に陣羽織を着せる「恩返し」をしたワケ - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/103310/
  27. 1619年10月6日京都のキリシタン 52名が殉教したが、 その殉教地について種々な記述 がなされてきた。そのなかで「六条河原」という記述が https://kyoto.catholic.jp/christan/jyunkyouchi.pdf
  28. 古くから死罪や晒し首の舞台となっていた処刑場「三条河原」に散った幕末の志士や戦国武将たち【後編】 - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/223116
  29. 美人妻より「茶壺」を選んだ武将・荒木村重。一族を見捨てひとり生き延びたその価値観とは https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/82923/
  30. 石田三成斬首~大志を抱く者は最期の瞬間まで諦めない - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/4391
  31. 防長減封 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%B2%E9%95%B7%E6%B8%9B%E5%B0%81
  32. 関ヶ原の戦いで改易・減封となった大名/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/41120/
  33. 肥後國 宇土城 - FC2 http://oshiromeguri.web.fc2.com/higo-kuni/uto/uto.html
  34. 秋田に落ち延びた小西行長の子・六郷の「小西塚」と行長の子孫に関する「新秋田叢書」の記述 https://ishi1600hisa.seesaa.net/article/501175488.html
  35. 「朝鮮出兵」で先陣を務めた、小西行長が辿った生涯|秀吉政権を支えたキリシタン大名【日本史人物伝】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/1152924/2
  36. 弟*小西行景と宇土の物語|CafeCoco*キリシタンの足跡 - note https://note.com/cocosan1793/n/na2e0c7d8a4c5
  37. 清正の宿敵、小西行長 ~秀吉カラーの男 - note https://note.com/hisutojio/n/n34af52aec670