最終更新日 2025-10-08

小諸城改修(1590)

天正18年、小田原征伐で大名に復帰した仙石秀久は小諸城主となった。城を近世城郭へ大改修し、豊臣の東国支配の拠点、自身の再起の証とした。
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天正十八年、小諸城改修 ―天下統一の奔流と、ある武将の再起が刻んだ近世城郭の黎明―

序章: 1590年、時代の転換点

天正十八年、西暦1590年。この年は、日本の歴史において単なる暦上の一点として記憶されるべきではない。一世紀以上にわたって列島を覆い尽くした戦乱の時代、すなわち「戦国」が実質的な終焉を迎え、豊臣秀吉による統一政権という新たな秩序が確立される、巨大な分水嶺として刻まれているからである。この歴史的な大転換の象徴こそ、関東に君臨した大勢力、後北条氏を屈服させた小田原征伐であった。

この天下統一事業の総仕上げという壮大な歴史の奔流の中で、信濃国の一角で始まった「小諸城改修」は、一見すれば局所的な事象に過ぎない。しかし、その内実を深く探る時、この改修事業が、まさしく時代の本質を映し出す鏡であったことが明らかとなる。それは、豊臣政権による国家統治の設計思想、一人の武将の劇的な人生の軌跡、そして城郭という軍事構築物における技術と思想の革新、これら三つの要素が交差する、歴史の結節点であった。

本報告書は、この小諸城改修を多角的に解き明かすことを目的とする。第一に、天下統一事業の最終局面という「マクロな政治・軍事」の文脈を時系列で追い、改修の背景となる時代の要請を明らかにする。第二に、城主となった仙石秀久という一人の武将の「ミクロな人生の軌跡」に焦点を当て、彼の栄光と挫折、そして再起の物語が改修事業にいかなる意味を与えたかを探る。そして第三に、石垣や天守といった構造物に具現化された「テクノロジーと思想の変遷」を分析し、小諸城がいかにして中世の砦から近世の城郭へと変貌を遂げたかを詳述する。

この改修は、単なる建築行為ではなかった。それは、豊臣政権による東国支配体制の確立と、それに伴う戦略的な人材配置、そして新しい時代の権威を可視化するという、高度に政治的な目的を帯びた国家的な「プロジェクト」だったのである。小田原城を包囲する中で、秀吉が敵の眼前に最新技術の粋を集めた石垣山城を築いてみせたように 1 、戦後の領地再編において各地に配置された豊臣系大名による築城や改修もまた、新たな支配者の力を誇示する重要な政治的パフォーマンスであった。一度はすべてを失い、秀吉の恩赦によってのみ存在を許された仙石秀久が小諸で手掛けた大改修は、まさにその象徴であり、彼の絶対的な忠誠と、豊臣政権の威光を東国に示すという二重の役割を担っていたのである。


第一部: 天下統一の総仕上げ ―小田原征伐のリアルタイム・クロニクル―

第一章: 惣無事令と名胡桃城事件 ―開戦へのカウントダウン―

豊臣秀吉による天下統一事業は、武力による征服と並行して、新たな秩序の構築という側面を強く持っていた。その根幹をなしたのが、天正15年(1587年)に関東・奥羽の諸大名に対して発令された「惣無事令」である 3 。これは、表面的には大名間の私的な領土紛争を禁じるものであったが、その本質は、朝廷の権威を背景とする関白秀吉が、日本全国における領土紛争の唯一の裁定者となることを宣言する、画期的な統治理念であった 2 。これにより、各大名が自らの武力で領土を拡張する戦国的な論理は否定され、秀吉の裁定に従うことが新たな秩序への参加条件となった。

この新たな秩序に対し、最後まで独立を保とうとしたのが関東の雄、後北条氏であった。当時、北条氏は上野国の沼田領を巡って真田氏と激しく争っていた 4 。秀吉はこの紛争に介入し、沼田領の三分の二を北条氏、三分の一を真田氏に与えるという裁定を下す。北条氏当主の氏直はこれを受け入れ、父である氏政の上洛を誓約するに至った 4 。しかし、天正17年(1589年)、事態は急変する。北条氏の家臣で沼田城代であった猪俣邦憲が、秀吉の裁定で真田領とされた名胡桃城を武力で奪取するという事件が発生したのである 3

この名胡桃城事件は、秀吉にとって北条氏討伐の完璧な口実となった。秀吉はこれを惣無事令への明確な違反と断じ、同年11月には諸大名に対し、氏政が上洛しない場合は北条氏を征伐する旨を通知し、ついに宣戦を布告した 3 。北条氏と姻戚関係にあった徳川家康も秀吉への恭順を明確にし、嫡男の長丸(後の秀忠)を人質として差し出すことで、完全に豊臣方として参陣する道を選んだ 3 。秀吉の周到な政治的・外交的布石により、北条氏は完全に孤立し、戦国最後の巨大な戦役への道が不可避となったのである。

第二章: 豊臣軍、東へ ―天正18年2月~3月:怒涛の進撃―

天正18年(1590年)1月、秀吉は全国に軍事動員令を発した。これに応じ、2月には徳川家康、前田利家、上杉景勝、織田信雄、豊臣秀次といった全国の有力大名が次々と出陣を開始する 5 。その総兵力は22万ともいわれ 4 、陸路と海路から、怒涛の如く関東を目指した。軍勢は大きく三方面に分かれて進撃した。徳川家康らを主力とする東海道軍、前田利家・上杉景勝らの北国勢を中心とする東山道軍、そして九鬼嘉隆らが率いる水軍である 2

3月1日、秀吉自身も京の聚楽第から出陣 5 。戦いの趨勢を決定づけたのは、緒戦における豊臣方の圧倒的な攻撃力であった。特に、豊臣秀次が率いる部隊が向かった伊豆の山中城は、箱根の天険に拠る北条氏の西の守りの要であった。北条方はこの城を鉄壁と信じていたが、3月29日、豊臣軍の猛攻の前に、山中城はわずか半日、数時間の戦闘で陥落してしまう 2

この事実は、小田原城で籠城策を固めていた北条氏陣営に、計り知れない衝撃を与えた。それは単なる一城の陥落ではなかった。北条氏が絶対の自信を持っていた防衛戦略の根幹、すなわち箱根の天険を利用して敵の大軍を食い止めるという基本構想が、戦いの初期段階でいとも容易く破綻したことを意味したからである。この報は、豊臣軍の戦闘能力が旧来の戦の常識を遥かに超えていることを北条方の将兵に痛感させ、その後の戦況に暗い影を落とすことになった。

第三章: 小田原城包囲網 ―天正18年4月~7月:国力と権威の顕示―

4月初旬、東海道を進んできた豊臣軍本隊は小田原に到着し、難攻不落を誇る巨城を完全に包囲した 6 。その布陣は、東方に徳川家康、北方に豊臣秀次や蒲生氏郷、西方に宇喜多秀家といった諸将が隙間なく配置され、相模湾には九鬼水軍が展開し、文字通り蟻の這い出る隙間もない包囲網が完成した 6

秀吉の戦略は、単なる力攻めではなかった。包囲と並行して、関東各地に点在する北条方の支城を各個撃破する作戦が着々と進められた。前田・上杉らの北国勢は、上野国の松井田城、武蔵国の鉢形城、八王子城などを次々と攻略 5 。これにより、小田原城は完全に孤立し、救援の望みを絶たれていった。

この包囲戦において、秀吉の真骨頂が発揮されたのが、石垣山城の築城である。秀吉は、小田原城を眼下に見下ろす笠懸山に、新たな本陣の築城を命じた。驚くべきことに、この城は単なる土塁と柵で囲まれた陣城ではなかった。総石垣で固められ、天守まで備えた本格的な近世城郭だったのである 2 。当時の関東には、このような石垣と天守を持つ城は存在しなかった。秀吉は、この最新技術の城を、わずか80日という驚異的な速さで完成させ、6月26日、一夜にして出現したかのように見せつけることで、北条方の度肝を抜いた 5

これは、圧倒的な技術力、財力、そして動員力を見せつけ、北条方の戦意を根底から打ち砕くための、壮大な心理戦であった 1 。さらに秀吉は、この戦場の城に茶々(淀殿)や千利休、文化人らを呼び寄せ、連日茶会を催すなど、戦場を政治と文化のパフォーマンスの場へと変容させた 2 。これは、戦がもはや武力のみで決するものではなく、経済力や文化をも含めた「国力」の総力戦であることを天下に示す行為であった。

圧倒的な武力と、それ以上に巧みな心理戦の前に、小田原城内の士気は衰え、決戦派と和睦派が対立して方針が定まらない「小田原評定」と呼ばれる状況に陥った 6 。やがて城内は疲弊し、7月5日、ついに北条氏直は降伏し、開城。戦いを主導した父・氏政と叔父・氏照は切腹を命じられ、ここに戦国大名・後北条氏は滅亡した 3


表1:小田原征伐 主要戦況年表(天正18年2月~7月)

年月日 (天正18年)

場所 (国・城)

主要な出来事

豊臣方主要武将

北条方主要武将

典拠資料

2月~

各地

豊臣軍、進発開始

豊臣秀次、徳川家康、前田利家 他

-

5

3月29日

伊豆・山中城

豊臣秀次軍の猛攻により、わずか半日で落城

豊臣秀次、中村一氏

松田康長

2

4月2日~

相模・小田原城

豊臣軍本隊による包囲開始

豊臣秀吉、徳川家康 他

北条氏直、北条氏政

6

4月20日

上野・松井田城

北国勢の攻撃により開城

前田利家、上杉景勝

大道寺政繁

5

6月14日

武蔵・鉢形城

北国勢の攻撃により開城

前田利家、上杉景勝

北条氏邦

6

6月23日

武蔵・八王子城

前田利家、上杉景勝らの攻撃により落城

前田利家、上杉景勝

北条氏照の家臣

6

6月26日

相模・石垣山城

秀吉の本陣として完成。北条方に披露される

豊臣秀吉

-

5

7月5日

相模・小田原城

北条氏直が降伏し、開城

豊臣秀吉

北条氏直

6


第二部: 敗将から新領主へ ―仙石秀久、復活の軌跡―

第一章: 栄光と挫折 ―秀吉最古参の将―

小諸城改修の主役となる仙石秀久は、波瀾万丈という言葉を体現したような武将であった。美濃国の土豪の家に生まれた秀久は、若くして織田信長に見出され、その命により木下藤吉郎、後の豊臣秀吉の与力となった 7 。秀吉がまだ織田家の一武将であった頃からの家臣であり、その家臣団の中では最古参の一人として、秀吉から深い寵愛を受けた 7

秀久は、姉川の戦いでの武功をはじめ、秀吉の中国攻めや淡路国平定などで軍功を重ね、その地位を確固たるものとしていく 9 。秀吉が天下人への道を駆け上がるのに伴い、秀久もまた順調に出世を遂げ、ついに淡路一国5万石、さらには四国平定の功により讃岐一国を与えられる大名にまで上り詰めた 9 。まさに、秀吉子飼いの武将として栄光の道を歩んでいたのである。

しかし、その栄光は天正14年(1586年)、九州征伐の過程で突如として暗転する。島津氏討伐の先陣を命じられた秀久は、豊後国・戸次川で島津軍と対峙した。この時、軍監という重責にありながら、秀吉からの持久戦をせよとの命令を無視し、功を焦って突出するという致命的な判断ミスを犯す 9 。結果は、島津軍の巧みな釣り野伏戦法の前に惨敗。長宗部元親の嫡男・信親や十河存保といった有力武将を戦死させ、あろうことか秀久自身は味方を見捨てて戦場から逃亡するという、武将として最大級の醜態を晒してしまった 9

この失態に対する秀吉の怒りは凄まじく、秀久は讃岐国を没収され、高野山へ追放される 9 。秀吉からの厚い信頼を完全に裏切った秀久は、武将としての生命を絶たれたも同然であり、歴史の表舞台から完全に姿を消した「死んだ武将」となったのである。

第二章: 小田原の陣、再起を賭けて

高野山での蟄居生活を送り、浪人の身となった秀久であったが、彼は再起を諦めていなかった。その千載一遇の機会となったのが、天正18年(1590年)の小田原征伐であった。追放の身である秀久が、天下を挙げての一大事業に参加することは通常では考えられない。しかし、ここで秀久の運命を再び動かしたのが、徳川家康の存在であった。家康の取りなしにより、秀久は一兵卒としてではあるが、家康の指揮下で参陣することを特別に許可されたのである 9

秀久はこの最後の機会にすべてを賭けた。小田原城の早川口攻めなどにおいて、彼は一介の兵として泥にまみれ、先陣を切って奮戦した 9 。失った信頼と名誉を、戦場での働きという最も純粋な形で取り戻そうとするその姿は、まさに執念の塊であった。かつての一国の大名というプライドを捨て、ただひたすらに武功を挙げることだけに集中したのである。

第三章: 信濃小諸五万石 ―「楔」としての配置―

7月に小田原城が開城し、戦いが終わると、秀吉による戦後処理、すなわち論功行賞と領地の再配分が行われた。この時、誰もが予想しなかった人事が断行される。一度はすべてを失った仙石秀久が、小田原での戦功を認められ、信濃国小諸に5万石を与えられて、奇跡的ともいえる大名への復帰を果たしたのである 8

この秀久の小諸入封は、単なる戦功への温情的な褒賞と見るべきではない。その背後には、秀吉の天下統一後の国家構想、とりわけ強大な力を持つ徳川家康に対する冷徹な政治的計算が存在した。小田原征伐後の最大の政治課題は、家康の処遇であった。秀吉は、家康を長年支配してきた三河・遠江から切り離し、旧北条領である関東250万石へ移封した 6 。これは大幅な加増であると同時に、西国から遠ざけ、新たな領地経営に専念させるという巧みな封じ込め策でもあった。

さらに秀吉は、この巨大な徳川領を包囲し、牽制するための布石を打った。甲斐には甥の羽柴秀勝、信濃の松本には家康のもとから出奔してきた石川数正、そして江戸と京を結ぶ中山道の要衝である上田や小諸といった地には、信頼の置ける豊臣系の大名を配置する必要があった 13

仙石秀久は、この役割にうってつけの人物であった。戸次川での大失態と敵前逃亡という過去は、彼が秀吉の恩赦なくしては大名として存在し得ないことを意味していた。彼にとって秀吉への忠誠は絶対であり、裏切るという選択肢は皆無に等しい。このような背景を持つ秀久を、中山道の要衝・小諸に配置することは、徳川家康に対する極めて有効な「楔(くさび)」を打ち込むことであった。秀久の劇的な復活劇の裏には、このような秀吉の深謀遠慮があったのである。


第三部: 近世城郭の胎動 ―新生・小諸城の誕生―

第一章: 「穴城」のポテンシャル ―改修前夜の姿―

仙石秀久が新たな領主として入封した小諸城は、すでに長い歴史と優れた縄張りを持つ城であった。その起源は長享元年(1487年)にこの地の豪族・大井光忠によって築かれたことに遡る 14 。その後、戦国時代に入り、甲斐の武田信玄が東信濃を経営する上でこの地を重要拠点と定め、大規模な改修を施した 15 。信玄の軍師であった山本勘助が縄張りを行ったという伝説も残るが 15 、史料的な裏付けはないものの、この城が武田氏の築城術と思想を色濃く反映していることは確かである 14

小諸城の最大の特徴は、その特異な立地にある。通常の城が城下町を見下ろす高台に築かれるのに対し、小諸城は城郭が城下町よりも低い位置にあることから、「穴城」という異名を持つ 11 。これは、浅間山の火山灰が堆積してできた広大な台地を、千曲川とその支流が深く侵食して形成した「田切地形」と呼ばれる断崖絶壁を、天然の要害として最大限に活用した結果であった 21 。城の背後や側面は切り立った崖に守られ、極めて攻めにくい構造となっていたのである 19

しかし、秀久が入城した時点での小諸城は、その防御思想において土塁や空堀を中心とした中世城郭の域を出るものではなかった。鉄砲の普及や、小田原征伐で見られたような大軍による組織的な攻城戦といった、新たな時代の戦闘様式に完全に対応するには、構造的な刷新が不可欠であった。秀久に与えられた使命は、この優れた天然の要害に、豊臣政権下で標準となりつつあった最新の築城技術を導入し、近世城郭へと生まれ変わらせることであった。

第二章: 石垣と天守の時代 ―近世城郭への変貌―

天正18年(1590年)の入封直後から、仙石秀久は小諸城の大改修に着手した。これは、単なる補強工事ではなく、城の思想そのものを転換させる一大プロジェクトであった 11

まず、城の中枢部である本丸や二の丸を中心に、防御の主役が中世的な土塁から近世的な高石垣へと刷新された 23 。壁面には、自然石を巧みに組み上げた「野面積み」が用いられ、排水性に優れ堅固な石垣が築かれた 19 。特に注目すべきは、石垣の隅部(角)に、長方形に加工した石を交互に組み合わせて強度を飛躍的に高める「算木積み」という、当時最新の技術が導入された点である 19 。この技術は、織田信長が安土城で完成させ、豊臣政権下の城郭で広く採用されたものであり、その導入は小諸城が豊臣系城郭として生まれ変わったことを示す象徴であった。

次に、領主の権威を可視化する装置として、本丸の北西隅に三層の天守が建造された 21 。小田原征伐後、秀吉が徳川家康を牽制するために配置した松本城などと同様に、金箔瓦で葺かれていた可能性も指摘されており 13 、その威容は領民や周辺の諸勢力に対し、新たな支配者である仙石氏と、その背後にいる豊臣政権の絶大な力を誇示する役割を果たした。(なお、この天守は後の寛永3年(1626年)に落雷によって焼失し、再建されることはなかった 21 )。

さらに、城の出入り口である虎口の防御も格段に強化された。大手門や三の門は、単なる門ではなく、上に櫓を載せた壮麗かつ堅固な櫓門として整備された 23 。特に、本丸へ至る最後の関門である黒門橋は、有事の際には橋桁を本丸側に引き込んで敵の侵入を完全に遮断できる「算盤橋」と呼ばれる構造を持っていたとされ、極めて高度な防御思想が窺える 21 。また、二の門跡などには、敵兵を直進させずに方形の空間に誘い込み、三方から集中攻撃を浴びせる「枡形虎口」が採用され、城の防御はより複雑かつ能動的なものへと進化した 18

興味深いのは、城の中心部が石垣造りの近世城郭へと変貌を遂げた一方で、その外郭部の空堀などは中世城郭の姿を色濃く残していた点である 23 。この新旧の技術の融合は、小諸城がまさに中世から近世へと移行する過渡期に大改修された城郭であることを示す、貴重な証左となっている。

第三章: 城と町の一体化 ―領国経営の中心地へ―

仙石秀久の事業は、城郭内部の軍事的な改修に留まるものではなかった。彼は、城と城下町を一体のものとして捉え、小諸を信濃東部における政治・経済の中心地へと変貌させる、壮大な都市計画を推進した。

秀久は、城の防御線を三の丸の外側まで拡張し、その周囲に武士や商工業者の居住区を計画的に配置し、新たな城下町を整備した 8 。さらに、中山道をはじめとする街道や宿場の整備にも力を注ぎ、物流と交通の円滑化を図った 8 。これにより、小諸は単なる軍事拠点から、人・物・情報が集まる地域のハブとしての機能を備えることになった。

この城と城下町の一体的な整備こそが、戦国時代の「砦」と、近世(江戸時代)の「藩庁」とを分かつ決定的な違いである。秀久は、戦乱が終わり、これからは領国を豊かにし、民を治める「経営」こそが領主の最も重要な役割であることを深く理解していた。彼の行った一連の事業は、その後の小諸藩の発展の礎となり、彼が単なる武人ではなく、優れた領国経営者であったことを雄弁に物語っている 20


表2:小諸城の構造比較:武田氏時代と仙石氏改修後

構成要素

武田氏時代(推定)

仙石氏改修後

変化の意義・目的

典拠資料

中心防御

土塁、切岸

高石垣(野面積み、隅部は算木積み)

防御力向上(対鉄砲)、権威の象徴化

19

中心施設

館、物見櫓

三重天守、本丸御殿

領主の権威の可視化、政庁機能の確立

21

主要な門

簡易な門、木戸

大手門・三の門(壮麗な櫓門)、枡形虎口

防御機能の複雑化・強化、城の格式向上

23

空堀、天然の谷(地獄谷)

空堀(一部存続)、黒門橋(引込式)

天然地形の活用に加え、より能動的な防御機構を付加

21

城の機能

軍事拠点(砦)

藩政の中心(藩庁)、城下町と一体化した経済拠点

軍事機能から統治機能への重点シフト

20


終章: 小諸城改修が映し出すもの

天正十八年(1590年)に始まった小諸城改修は、単発の建築事業としてではなく、時代の大きな転換点における複合的な歴史事象として捉えるべきである。それは、豊臣秀吉による天下統一という巨大な政治的・軍事的文脈の中で、仙石秀久という一人の武将の劇的な再起の物語を舞台として、日本の城郭が中世の砦から近世の統治拠点へと大きく変貌を遂げる様を見事に体現した、歴史的なモニュメントであった。

この改修は、戦国乱世の終焉と、新たな統治秩序の始まりを、石垣と天守という揺るぎない形で大地に刻み込んだ象徴的事業であった。それは、武力のみが支配する時代から、法と権威が統治する時代への移行を告げる狼煙でもあった。秀久が導入した算木積みの石垣や壮麗な櫓門は、彼が豊臣政権という新たな中央権力に属する大名であることを示す記号であり、その築城行為自体が、新秩序への参画と忠誠の表明だったのである。

仙石秀久の生涯は、一度は致命的な失敗によってすべてを失いながらも、決して諦めることなく、与えられた機会を最大限に活かして復活を遂げた武将の典型として再評価されよう。彼が築いた近世城郭・小諸城と、それと一体となった城下町は、その後の小諸藩の発展の礎となり、彼の領国経営者としての優れた手腕を今日に伝えている 20

今日、懐古園として親しまれる小諸城址は、その特異な「穴城」という構造と、中世の土の城の記憶を残しつつ近世の石の城へと変貌を遂げた過渡期的な特徴により、日本の城郭史において比類なき価値を持つ。その苔むした石垣の一つ一つは、1590年という時代の転換点に生きた人々の野心、挫折、そして未来への希望を、静かに、しかし雄弁に物語り続けているのである。

引用文献

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  2. 小田原征伐 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%94%B0%E5%8E%9F%E5%BE%81%E4%BC%90
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  13. 松本城|「戦う城」に学ぶ経営戦略 城のストラテジー|シリーズ記事 - 未来へのアクション https://future.hitachi-solutions.co.jp/series/fea_shiro/02/
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  18. 山本勘助の縄張かどうかわからんまま小諸城をたずねた https://yamasan-aruku.com/aruku-308/
  19. 小諸城の歴史と見どころを紹介/ホームメイト https://www.touken-collection-nagoya.jp/chubu-castle/chubu-komoro-castle/
  20. 小諸城の歴史 | 信州・小諸|詩情あふれる高原の城下町 - こもろ観光局 https://www.komoro-tour.jp/spot/castle/history/
  21. 【日本唯一】小諸城址懐古園の魅力再発見!隠された見どころを ... https://yukichiloglog.com/highlights-of-komoro-castle/
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