最終更新日 2025-09-25

小谷城下再編(1573)

天正元年、羽柴秀吉は浅井氏の山城・小谷を廃し、琵琶湖畔の長浜に経済都市を築く。小谷の町人を移住させ楽市楽座を開き、水運を活かした商都を形成。この都市再生は、秀吉の後の領国経営の原点となった。
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『小谷城下再編(1573年)の総合的考察:ある城下町の死と再生が語る戦国時代の変革』

序章:『小谷城下再編』とは何か

天正元年(1573年)、近江国小谷において、旧主・浅井氏の居城であった小谷城とその城下町が、新たな支配者である羽柴秀吉によって解体され、琵琶湖畔の長浜へとその機能が完全に移転させられるという事象が発生した。これを本報告書では「小谷城下再編」と定義する。

この「再編」という言葉は、一見すると穏やかな都市計画の変更を想起させるかもしれない。しかし、その実態は、織田信長の圧倒的な軍事力による旧権力(浅井氏)の完全な破壊と、それに続く新権力(織田政権、およびその代理人である羽柴秀吉)による新たな支配体制の構築という、極めて動的かつ革命的な事象であった。それは、単に一つの城と町がその役目を終えたという局地的な出来事に留まらない。戦国時代の城郭のあり方、領国経営の思想、そして経済と軍事の関係性が、中世的な段階から近世的な段階へと大きく転換する、その画期を象徴する重要な事例である。

本報告書は、この「小谷城下再編」を、浅井氏の滅亡という軍事的事象、羽柴秀吉による長浜城下町の建設という都市創造、そして戦国時代の統治思想の変遷という三つの側面から重層的に分析し、その全貌と歴史的意義を明らかにすることを目的とする。これは、北近江という一地域の歴史を紐解くと同時に、戦国という時代がその頂点を極め、次なる「天下統一」の時代へと移行していくダイナミズムを解明する試みである。

第一章:再編前夜―戦国大名浅井氏と小谷城下の繁栄

小谷城下町の再編を理解するためには、まずその前身である浅井氏の統治下における小谷城とその城下町がいかなる存在であったかを知る必要がある。約半世紀にわたり、小谷は北近江の政治・軍事・経済の中心として、独自の繁栄を謳歌していた。

第一節:北近江の覇者・浅井三代の興亡

浅井氏は、近江国浅井郡丁野郷を本拠とする土豪であり、元々は北近江の守護大名であった京極氏の被官であった 1 。その名を戦国の世に轟かせたのは、初代の浅井亮政である。亮政は主家である京極氏の内部抗争に乗じて巧みに勢力を拡大し、越前の朝倉氏や美濃の斎藤氏と結びながら、一代で北近江の覇者へと成り上がった 3

亮政の跡を継いだ二代・久政の時代には、南近江の六角氏の圧迫を受けて一時的にその軍門に下るなど、雌伏の時を過ごした 2 。しかし、久政の子である三代・長政は、家臣団に推されて父を隠居させると、六角氏からの自立を宣言。野良田の戦いで六角軍を破り、浅井氏の威勢を再び高めた 1 。そして、尾張から急速に台頭してきた織田信長の妹・お市の方を正室に迎え、織田家と強固な同盟を締結する 3 。これにより長政は、信長の上洛を助けて六角氏を駆逐し、北近江における浅井氏の支配権を盤石なものとした。

大永年間(1521年~1528年)に亮政によって築城されてから、天正元年(1573年)に長政が信長に滅ぼされるまでの約50年間、小谷城は浅井三代の拠点として、北近江統治の中枢機能を担い続けたのである 4

第二節:難攻不落の山城・小谷城の構造

浅井氏の拠点であった小谷城は、標高495メートルの峻険な小谷山に築かれた、戦国時代屈指の規模を誇る山城である 1 。春日山城(新潟県)、観音寺城(滋賀県)、七尾城(石川県)、月山富田城(島根県)などと共に「日本五大山城」の一つに数えられ、その堅固さは難攻不落と評された 9

その縄張り(城の設計)は、大きく三つの要素から構成される。第一に、清水谷の東側尾根上に連なる「本城」と呼ばれる大規模な曲輪群。第二に、大嶽城や山崎丸など、山中の要所に点在する「出城的曲輪群」。そして第三に、山の斜面に鱗状に築かれた多数の「小規模曲輪群」である 1

特に中核となる本城は、中央に穿たれた巨大な堀切(大堀切)によって、南北二つのブロックに明確に分断されているのが最大の特徴である 1 。発掘調査の成果によれば、この南北のブロックはそれぞれ異なる機能を持っていたと考えられている。南側のブロックには、城内で最大の面積を持つ「大広間」や、政務や生活の場であったとみられる御殿跡が確認されており、浅井氏の当主が日常的に政務を執り、生活する実務的な空間であった 1 。一方、大堀切を隔てた北側のブロックには、「京極丸」と呼ばれる広大な曲輪が存在する。ここは、浅井氏が名目上の主君として遇していた京極氏のための空間であったと推測されており、浅井氏の実務空間とは一線を画していた 1

この城郭構造は、浅井氏の権力のあり方を如実に物語っている。すなわち、旧主である京極氏を守護として形式的に奉じつつ、その執権として実権を掌握するという、浅井氏の二重の権力構造が、城の縄張りにまで反映されていたのである。小谷城は、単なる軍事要塞ではなく、浅井氏の統治体制そのものを体現した政治的空間でもあった。

第三節:清水谷に広がる城下町の姿

小谷城の南麓に広がる清水谷には、大規模な城下町が形成されていた。この城下町は、東の沼地と西の旧山田川を自然の防御線とし、南北を土塁や堀で囲い込んだ「惣構(そうがまえ)」と呼ばれる強固な防御施設を備えていた 1

惣構の内側、清水谷の中心部には、浅井氏一族や赤尾氏、三田村氏といった有力家臣団の屋敷が建ち並び、政治の中枢を形成していた 1 。また、浅井氏の菩提寺である徳昌寺をはじめとする寺社も点在し、町の精神的な支柱となっていた。

さらに、惣構の内外を貫く北国街道沿いには、商工業者たちの住む町屋が広がっていた。発掘調査や文献からは、「呉服町」や「金屋(かなや)」といった同業者町、そして「大谷市場」と呼ばれる市場の存在が確認されており、活発な経済活動が行われていたことがうかがえる 1 。小谷城下町は、山城の麓にありながら、政治・軍事・経済の機能が一体となった、北近江における一大拠点都市だったのである。このように、小谷城とその城下町は、防御を最優先としながら麓の谷間に諸機能を集約させた、中世的な山城都市の最終完成形の一つであったと言える。

第二章:落城―小谷城、最後の数日間(1573年8月)

浅井氏の約半世紀にわたる栄華は、義兄である織田信長との対立によって、突如として終焉の時を迎える。元亀元年(1570年)の金ヶ崎の戦いにおける長政の離反から始まった3年以上にわたる織田・浅井間の抗争は、天正元年(1573年)8月、小谷城の総攻撃という形で最終局面を迎えた。


【表1】小谷城落城に至る主要な出来事の時系列表

年月

出来事

概要

元亀元年 (1570) 4月

金ヶ崎の戦い

織田信長が越前の朝倉義景を攻撃。浅井長政が信長を裏切り、朝倉方につく。信長は辛くも撤退 5

元亀元年 (1570) 6月

姉川の戦い

織田・徳川連合軍と浅井・朝倉連合軍が激突。織田・徳川連合軍が勝利するも、浅井氏に決定的な打撃は与えられず 13

元亀元年 (1570) 9-12月

志賀の陣

浅井・朝倉軍が比叡山延暦寺と結び、京都近郊で織田軍と対峙。天皇の勅命により和睦 13

天正元年 (1573) 7月

槇島城の戦い

信長が、自身への包囲網を主導していた将軍・足利義昭を京都から追放。室町幕府が事実上滅亡 15

天正元年 (1573) 8月8日

阿閉貞征の寝返り

浅井氏の重臣で、山本山城主の阿閉貞征が織田方に寝返る。これにより、小谷城への包囲網が完成する 15

天正元年 (1573) 8月13-20日

一乗谷城の戦い

小谷城救援に来た朝倉義景軍を、信長が刀根坂で撃破。追撃して朝倉氏の本拠地・一乗谷を焼き払い、義景は自刃。朝倉氏が滅亡 15

天正元年 (1573) 8月27日

小谷城総攻撃開始

朝倉氏を滅ぼした織田軍主力が小谷城へ帰還。総攻撃が開始される。木下秀吉が京極丸を占拠 15

天正元年 (1573) 8月29日

浅井久政の自刃

織田軍の猛攻を受け、小丸に籠っていた父・久政が自刃 4

天正元年 (1573) 9月1日

浅井長政の自刃・落城

長政が本丸にて自刃。小谷城は落城し、戦国大名浅井氏は滅亡 4


8月8日~26日:包囲網の完成と最後の援軍の壊滅

天正元年8月、浅井氏にとって運命を決定づける事態が発生する。長年浅井氏を支えてきた重臣の一人、山本山城主の阿閉貞征が織田信長に寝返ったのである 15 。これを好機と見た信長は、即座に3万と号する大軍を率いて北近江に侵攻し、小谷城の対岸にある虎御前山に本陣を構え、城を完全に包囲した。

唯一の頼みは、長年の盟友である越前の朝倉義景からの援軍であった。長政の要請に応じ、義景は自ら2万の軍勢を率いて小谷城の北方まで進出する。しかし、織田軍が築いた堅固な砦に行く手を阻まれ、戦況は膠着。やがて朝倉軍が撤退を開始したその瞬間を、信長は見逃さなかった。刀根坂において織田軍の猛烈な追撃を受け、朝倉軍は壊滅的な敗北を喫する 15 。義景はかろうじて本拠地の一乗谷に逃げ帰るも、織田軍の追撃は止まらず、8月20日、一族の裏切りにあって自刃。ここに名門・朝倉氏は滅亡した 4

最後の援軍が霧散したという報は、籠城する小谷城の兵たちの士気を根底から打ち砕いたに違いない。小谷城は、完全に孤立無援となったのである。

8月27日:京極丸陥落、父子の分断

越前を平定した信長は、8月26日に虎御前山の本陣に帰還すると、全軍に小谷城への総攻撃を命じた 15 。そして翌27日の夜半、戦局を決定づける出来事が起こる。後に豊臣秀吉となる木下秀吉が率いる一隊が、清水谷の断崖を密かに登り、本丸と小丸の中間に位置する重要拠点、京極丸への奇襲を敢行し、これを占拠したのである 15

この京極丸の陥落は、物理的な拠点の一つの喪失以上の意味を持っていた。これにより、本丸に籠る当主・長政と、父・久政が守る小丸との連絡が完全に遮断されてしまった。難攻不落を誇った小谷城は、信長の巧みな分断戦略によって、内部から切り裂かれたのである。

8月28日~29日:父・久政の自刃

父子を分断することに成功した織田軍は、攻撃の矛先を孤立した小丸に集中させた。小丸には、隠居の身であった浅井久政が約800の兵と共に籠っていた 15 。久政らは奮戦するものの、兵力で圧倒的に勝る織田軍の波状攻撃の前に、次第に追い詰められていく。そして8月29日(28日説もある)、もはやこれまでと悟った久政は、小丸にて自害して果てた。享年49であった 4

9月1日:浅井長政の最期と小谷城開城

父の死後も、長政は本丸に残った約500の兵と共に数日間、最後の抵抗を続けた 15 。しかし、落城がもはや時間の問題であることを悟った長政は、武将として最後の務めを果たすべく、静かに身辺の整理を始める。

まず、浅井家の血を未来に繋ぐため、嫡男である万福丸を信頼できる家臣に託して城外へと脱出させた 13 。続いて、妻であり、敵将・信長の妹でもあるお市の方と、三人の娘たち(茶々、初、江)を、これ以上戦火に巻き込むことはできないと判断し、織田軍の陣へと引き渡した 8

守るべきものを全て守り抜いた長政は、天正元年9月1日、本丸下の袖曲輪にあった重臣・赤尾清綱の屋敷において、一族郎党と共に見事な最期を遂げた。享年29。この瞬間、北近江に約半世紀君臨した戦国大名・浅井氏は、三代にしてその歴史の幕を閉じたのである 4 。小谷城の落城は、兵力差のみならず、信長による「浅井と朝倉」という外部連携の分断、そして「城内の父子」という内部連携の分断という、二重の分断戦略の勝利であった。

第三章:新時代の幕開け―羽柴秀吉による北近江統治と長浜への移転

浅井氏の滅亡は、北近江における一つの時代の終わりであると同時に、新たな時代の幕開けを意味していた。その主役となったのが、小谷城攻めで最大の功績を挙げた羽柴秀吉であった。彼が断行した一連の戦後処理こそが、「小谷城下再編」の実態である。

第一節:小谷城の廃城と長浜築城の決断

戦後、信長による浅井一族への処断は苛烈を極めた。久政と長政の首は京で晒され、その頭蓋骨は金箔を塗られて酒宴の肴にされたと伝わる 5 。城外へ逃がされた嫡男・万福丸も捕らえられ、関ヶ原で磔に処された 13

一方、浅井氏の旧領である北近江三郡(浅井郡、伊香郡、坂田郡)は、戦功第一とされた羽柴秀吉に与えられた 8 。一国一城の主となった秀吉が下した最初の、そして最も重要な決断は、浅井氏の拠点であった小谷城を継承せず、これを完全に放棄(廃城)することであった。そして、琵琶湖畔の「今浜」と呼ばれていた地に、全く新しい城と城下町を建設することを決定する。秀吉は主君・信長への忠誠を示すため、信長の「長」の字を拝領し、この新たな拠点を「長浜」と命名した 8

第二節:経済と水運の掌握:なぜ小谷ではなく長浜だったのか

なぜ秀吉は、難攻不落と謳われた名城・小谷城を捨て、新たな城を築くという莫大な労力と費用のかかる選択をしたのか。その理由は、両城の立地と機能性を比較することで明らかになる。それは、城と領国経営に対する価値観が、根本的に変化したことを示している。


【表2】拠点城郭としての小谷城と長浜城の比較

項目

小谷城(浅井氏)

長浜城(羽柴秀吉)

立地

山間部(山城)

琵琶湖畔(平城)

主目的

軍事的防御、地域防衛

領国経営、経済・交通の掌握

交通

北国街道(陸路)に依存

琵琶湖水運と陸路の結節点

経済性

閉鎖的な城下町経済

開放的な商業都市(楽市楽座)

支配形態

軍事力を背景とした地域支配

経済力と一体化した広域支配


小谷城は、戦時の防御拠点としては比類なき性能を誇るが、平時における領国経営、特に経済活動の拠点としては大きな欠点を抱えていた 8 。山城であるため大規模な商業地の展開には限界があり、物流も陸路に限定される。これは、あくまで北近江という限定された地域内での軍事的優位を前提とした、中世的な城郭思想の産物であった。

それに対し、秀吉が選んだ長浜は、全く異なる思想に基づいていた。琵琶湖畔という立地は、当時の物流の大動脈であった琵琶湖の水運を直接掌握できることを意味する 19 。船を使えば、大量の物資を迅速かつ安価に輸送でき、湖の対岸にある坂本(明智光秀)、安土(織田信長)といった拠点とも緊密に連携できる 20 。秀吉は、城を単なる「守る場所」から、人・物・金が集積し、富を「生み出す場所」へと変えようとしたのである。この選択は、軍事力だけでなく経済力こそが天下を制するという、織田政権の先進的な統治思想を体現するものであった。

第三節:「城下町の引っ越し」―人・物・町の再編事業

長浜への拠点移転は、単に新しい城を築くだけでは終わらなかった。秀吉は、小谷城下町が持っていた有形無形の資産を、計画的かつ組織的に長浜へと「引っ越し」させたのである。

まず、物理的な資産として、小谷城の解体が行われた。発掘調査では落城時に城が炎上した痕跡がほとんど見つかっておらず、これは建物が意図的に解体され、その部材や石垣の石などが長浜城の築城資材として再利用されたという伝承を裏付けている 8

さらに重要なのは、人的・経済的資産の移転であった。秀吉は、小谷城下で商工業を営んでいた町人たちを、半ば強制的に長浜へと移住させた 1 。その証拠に、小谷城下にあった「伊部町」「呉服町」「大谷市場町」「鍛冶屋町」といった町名が、そのまま長浜城下の町名として引き継がれている 24 。これは、単に住民を移動させただけでなく、彼らが形成していたコミュニティや経済基盤を丸ごと移植しようとしたことを示している。

そして秀吉は、新たな城下町・長浜において、画期的な経済政策を実施する。城を中心とした計画的な町割り(都市計画)を行うと同時に 25 、「楽市楽座」令を発布したのである 26 。これは、旧来の同業者組合(座)が持っていた特権を廃止し、市場税(楽市)や営業税(楽座)を免除することで、誰もが自由に商売できるようにする政策であった 27 。この規制緩和により、長浜には各地から多くの商工業者が集まり、城下町は急速に発展を遂げた。

この一連の事業は、もはや単なる戦後処理ではない。「軍事防衛」という価値観の象徴であった小谷を破壊し、「経済発展」という新たな価値観の器として長浜を創造するという、壮大な社会実験であった。秀吉は、城(ハードウェア)と町の経済システム(ソフトウェア)を一体のものとして設計し、領国経営の強力なエンジンとすることに成功したのである。

第四章:再編がもたらしたもの―歴史的意義と後世への影響

小谷城下の解体と長浜の建設という一連の「再編」は、戦国時代の歴史において、極めて重要な意義を持つ出来事であった。それは、城郭のあり方を変え、新たな領国経営のモデルを示し、そして滅びた者と生き残った者の運命を大きく分かつ分水嶺となった。

第一節:山城から平城へ―城郭思想の転換点を象徴する事変として

戦国時代前期から中期にかけて、城の主たる役割は防御にあった。そのため、多くの城は天然の要害である山に築かれた「山城」であった 29 。浅井氏の小谷城は、その山城時代の最後を飾る、最も完成された城郭の一つであったと言える。

しかし、織田信長のような圧倒的な兵力と経済力を持つ統一権力が登場すると、山城に籠城していても、兵糧攻めや内部からの切り崩しによって、いずれは敗北することが明らかになった 18 。時代の要請は、戦時に籠城するための拠点から、平時に領国を効率的に統治し、経済を発展させるための政治経済拠点へと変化していた。小谷城の廃城と、交通の要衝である平地に築かれた長浜城の誕生は、まさにこの城郭思想の大転換、すなわち「山城の時代」から「平城・平山城の時代」への移行を象徴する画期的な出来事であった 31 。信長の天下統一事業において、城が「籠る場所」から「支配する場所」へとその役割を変えていった大きな流れの中に、この事象は明確に位置づけられる 33

第二節:秀吉の領国経営の原点としての長浜

羽柴秀吉にとって、長浜は初めて自らの才覚で一から作り上げた城と町であった。ここで彼が試みた、水運という物流網を重視した拠点選定、計画的な都市設計(町割り)、そして楽市楽座による経済振興策といった一連の領国経営手法は、大きな成功を収めた。

この長浜での経験は、秀吉の統治者としてのキャリアにおける、いわば「雛形」あるいは「実験場」となった。後に彼が天下人として大坂城を築き、その城下町を日本最大の経済都市へと発展させた際にも、長浜で培われた都市プロデューサーとしての手腕がいかんなく発揮されたことは想像に難くない 34 。秀吉の卓越した経済感覚と、城と町を一体的に経営する能力の原点は、この長浜にあったと言えるだろう。

第三節:小谷の終焉と長浜の誕生―二つの町の運命と浅井の血脈

「再編」によって、二つの町の運命は大きく分かれた。城主と住民を失った小谷は、急速にその活気を失い、城は廃墟と化し、城下町は静かな山村へと還っていった。現在、その地には国の史跡として城の遺構が残るのみであり、訪れる者に往時の栄華と悲劇を静かに語りかけている 6 。一方、長浜は北近江の新たな中心地として発展を遂げ、秀吉が築いた町割りは、現代の市街地の骨格として今なお生き続けている 36

しかし、歴史の皮肉は、浅井氏の血脈にこそ見て取れる。武家としての浅井氏は、長政の自刃と万福丸の処刑によって滅亡した。物理的な拠点であった小谷城も失われた。だが、長政とお市の方の間に生まれた三人の娘たちは、戦国の動乱を生き抜いた。長女・茶々は豊臣秀吉の側室となって世継ぎ・秀頼を産み、次女・初は京極高次に嫁ぎ、そして三女・江は徳川二代将軍・秀忠の正室となったのである 3

特に江が生んだ息子・家光は三代将軍となり、娘・和子は後水尾天皇の中宮となって明正天皇を産んだ。これにより、滅びたはずの浅井氏の血は、武家の頂点である徳川将軍家と、公家の頂点である天皇家へと受け継がれていくことになった 3 。拠点と権力は破壊され、新たなものに再編されたが、その血脈は新たな時代の支配者層の内部で生き残り、日本の歴史に深くその名を刻み続けることになった。小谷城下の再編は、物理的な町の死と再生の物語であると同時に、権力の無常と血脈の不思議さを我々に示す、壮大な歴史のドラマでもあったのである。

引用文献

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  35. 【小谷城跡】アクセス・営業時間・料金情報 - じゃらんnet https://www.jalan.net/kankou/spt_25483af2170018192/
  36. 地域で育まれた伝統的な営みを活かしたまちづくりの進展~滋賀県長浜市の『歴史まちづくり計画(第2期)』の認定 - 国土交通省 https://www.mlit.go.jp/report/press/toshi10_hh_000346.html
  37. 一言主17 浅井家の450年 - 長浜市 https://www.city.nagahama.lg.jp/0000013701.html