最終更新日 2025-09-22

尼子氏滅亡(1566)

1566年、尼子氏は月山富田城開城で滅亡。経久の覇権は晴久の新宮党粛清で内部分裂し、若き義久の経験不足と毛利元就の兵糧攻めにより、内部崩壊した。
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月山城、落日す - 永禄九年、戦国大名尼子氏滅亡のリアルタイム・クロニクル

序章:落日の序曲 - 尼子氏、栄華の頂点とその翳り

戦国時代、中国地方にその名を轟かせた尼子氏。その滅亡は、永禄九年(1566年)の月山富田城開城という一つの事象に集約されるが、その根源は一日にして成ったものではない。栄華を極めた一族が、いかにして滅びの道をたどったのか。その軌跡は、尼子氏三代の光と影、そして時代の大きなうねりの中に刻まれている。

「謀聖」尼子経久が築いた山陰の覇権

尼子氏の勃興は、一代の英傑、尼子経久の登場に始まる。守護代の家に生まれながらも、一時はその地位を追われ流浪の身となった経久は、文明十八年(1486年)、奇策を用いて本拠・月山富田城を奪還するという劇的な下克上を成し遂げた 1 。以後、彼は「謀聖」とも「雲州の狼」とも称される卓越した謀略の才を発揮し、周辺の山名氏や大内氏といった大勢力と巧みに渡り合った。その影響力は出雲、伯耆、石見の山陰諸国に留まらず、安芸、備後など山陽方面にも及び、一時は中国地方十一ヶ国に覇を唱えるほどの権勢を誇った 1

経久の人物像は、冷徹な謀略家という一面と、家臣に対しては極めて寛容で無欲な人柄であったという二面性で語られる。褒められれば高価なものでも気前よく与えてしまうため、家臣がかえって気を遣ったという逸話は、彼のカリスマ性の一端を物語るものであろう 1 。この稀代の英雄の下で、尼子氏はその絶頂期を迎えたのである。

尼子晴久の時代:中央集権化の試みと「新宮党粛清」という内なる亀裂

経久の孫にあたる尼子晴久は、祖父が築いた広大な版図を受け継ぎ、尼子氏の権力をさらに強固なものにしようと試みた野心的な当主であった 3 。経久の時代、尼子氏の支配体制は、経久個人の力量と、彼に従う国人衆との緩やかな連合に大きく依存していた 4 。晴久はこの「伝統的」支配体制からの脱却を目指し、当主である尼子宗家の権力を絶対的なものとする中央集権化を推し進めたのである 4

その改革の頂点にして、後に尼子氏の命運を左右することになるのが、天文二十三年(1554年)に断行された「新宮党粛清」であった 4 。新宮党とは、経久の次男・尼子国久が率いる一族で、尼子軍の中でも最強と謳われた精鋭部隊であった。彼らは軍事の要であると同時に、宗家の意向とは別に動くことさえある半独立的な勢力でもあった。晴久は、この強大すぎる身内を粛清することで、家中の権力を一元化し、戦国大名としての支配体制を完成させようとしたのである 5

この粛清は、一見すると合理的な政策であった。当主の命令系統を一本化し、領国支配を安定させるという短期的な効果は確かにあっただろう。しかし、その代償はあまりにも大きかった。この決断は、尼子氏の屋台骨を支えてきた最強の軍事ユニットを自らの手で消滅させる行為に他ならなかった。来るべき毛利氏との総力戦を前に、これは計り知れない戦力ダウンを意味した。さらに深刻だったのは、家臣団に植え付けられた不信感である。「功を立てすぎれば、いつかは自分も粛清されるのではないか」。この疑心暗鬼は、組織の結束力を内側から蝕んでいく。晴久の中央集権化政策は、皮肉にも尼子氏の未来に、滅亡という名の時限爆弾を設置する結果となったのである。

巨星墜つ:晴久の急逝と若き当主・尼子義久の家督相続がもたらした動揺

永禄三年(1560年)十二月、中国地方の勢力図を揺るがす激震が走る。石見銀山を巡り毛利元就と熾烈な争いを繰り広げていた尼子晴久が、陣中にて急死したのだ 6 。尼子氏を牽引してきた強力なリーダーシップの突然の喪失は、一族にとって最大の打撃であった 3

跡を継いだのは、晴久の嫡男・義久。時に二十歳 8 。若き当主の眼前には、あまりにも過酷な現実が広がっていた。新宮党粛清によって、彼を補佐すべき有力な一族はほとんど存在しない 6 。加えて、父・晴久の強権的な支配によって抑圧されてきた国人衆の不満が、当主の代替わりを機に一気に噴出し始めていた 6

晴久の死は、単なる当主の交代以上の意味を持っていた。それは、尼子氏の対毛利戦略における一貫性と、状況に応じて硬軟を使い分ける戦略的柔軟性の喪失を意味した。父・晴久であれば、軍事と外交を巧みに織り交ぜて対処したであろう局面で、経験の浅い義久は、老獪な毛利元就が仕掛けた外交の罠に、いとも容易くはまってしまう。

毛利氏が晴久の死を好機と見て石見への侵攻を再開すると、義久は軍事的な対決を避け、室町幕府の仲介による和平交渉の道を選んだ 6 。しかし、これは元就の思う壺であった。元就は和平の条件として「石見国への不干渉」を突きつけ、義久はこれを呑んでしまう(雲芸和議) 6 。この決定は、石見で尼子氏を頼りに毛利に抵抗していた福屋氏や本城常光といった国人衆を見殺しにすることを意味した 4 。彼らは梯子を外され、孤立し、次々と毛利の軍門に降っていく。義久は「和平」という美名の下、自らの手で尼子氏の西の防衛線を解体してしまったのである。戦いの火蓋が切られる前に、リーダーシップの質の差は、すでに勝敗の天秤を大きく毛利方へと傾けていた。

第一章:永禄の嵐 - 毛利元就、周到なる出雲侵攻

西の憂いを断ち切った毛利元就は、いよいよ尼子氏の本国・出雲へとその矛先を向けた。その侵攻は、力任せの蹂躙ではなく、あたかも巨大な網で獲物を絡め取るかのような、周到かつ冷徹な計画に基づいて遂行された。

尼子十旗の切り崩し:白鹿城の攻防と周辺国人衆の離反ドミノ

永禄五年(1562年)七月、元就は満を持して出雲への大軍を進めた 4 。彼の戦略は、尼子氏の本拠・月山富田城を直接叩くことではなかった。まず、本城を守る衛星城砦群、通称「尼子十旗」を一つずつ確実に無力化し、月山富田城を裸城にするという、緻密なものであった 9

侵攻が開始されるや否や、先の雲芸和議で尼子義久への信頼を失っていた出雲西部の有力国人、三沢氏や三刀屋氏らが、雪崩を打って毛利方へと寝返った 4 。尼子氏の支配体制の脆さが、早くも露呈した瞬間であった。

翌永禄六年(1563年)、毛利軍は尼子方の重要拠点であり、日本海からの補給路を扼する白鹿城に猛攻を仕掛けた。義久は必死に援軍を送るが、衆寡敵せず、城は陥落 6 。これにより、月山富田城は外部からの支援を断たれる危機に瀕し、その孤立は決定的なものとなっていく。

包囲網の完成:毛利両川(吉川元春・小早川隆景)の役割と進軍経路

この出雲侵攻作戦において、元就の二人の息子、「毛利両川」と称された吉川元春と小早川隆景が、両翼として中心的な役割を果たした 10

「武」の元春と「智」の隆景。この対照的な二人の将が、それぞれの持ち味を最大限に発揮した。勇猛果敢で知られる次男・吉川元春は、山陰方面の主攻を担当し、陸路から尼子方の諸城を次々と攻略していった 12 。一方、智謀に長け、水軍の統率にも長けた三男・小早川隆景は、山陽方面の抑えと瀬戸内海からの海上封鎖を担当し、尼子氏の背後を脅かし続けた 12

毛利軍の強さは、個々の武将の能力だけでなく、その組織力にもあった。元就の嫡孫・毛利輝元を名目上の総大将に据え、元就自身が後見し、元春・隆景が実戦部隊を率いるという指揮系統は、盤石そのものであった 15 。この強固な「毛利両川体制」の下、侵攻は着実に進められ、永禄八年(1565年)の春を迎える頃には、月山富田城周辺の支城はほぼ陥落。尼子方の勢力は、史料に「富田一所にあい究まり候(富田城ただ一つに追い詰められた)」と記されるほどの絶望的な状況に追い込まれたのである 4

表1:第二次月山富田城の戦い 主要関係者一覧

勢力

氏名

役職・役割

備考

毛利軍

毛利元就

総大将(実質)

謀略・兵糧攻めを主導。中国地方の覇者。

毛利輝元

総大将(名目)

元就の嫡孫。この戦いが初陣となる 15

吉川元春

毛利両川の一翼

元就の次男。山陰方面の軍事担当。猛将として知られる 11

小早川隆景

毛利両川の一翼

元就の三男。山陽方面・水軍担当。智将として知られる 12

尼子軍

尼子義久

当主

晴久の嫡男。若くして家督を継ぎ、籠城戦を指揮 6

尼子倫久

義久の弟

義久と共に籠城。塩谷口の防衛を担当 18

尼子秀久

義久の弟

義久と共に籠城。菅谷口の防衛を担当 12

宇山久兼

筆頭家老

尼子氏の忠臣。私財を投じて兵糧を運び込むも、讒言により誅殺される 15

山中幸盛(鹿介)

武将

「山陰の麒麟児」。勇猛果敢に戦うも、滅亡後は尼子再興に生涯を捧げる 7

第二章:月山富田城の攻防 - 難攻不落の城塞と元就の深謀

周囲の支城を全て失い、孤立無援となった月山富田城。しかし、尼子氏百年の本拠は、そう易々と落ちる城ではなかった。ここに、戦国史上名高い籠城戦の幕が上がる。攻めるは知将・毛利元就、守るは若き当主・尼子義久。両者の意地と謀略が、出雲の大地に火花を散らすこととなる。

表2:月山富田城攻防戦 詳細年表(1562年~1566年)

年月

毛利軍の動向

尼子軍・城内の状況

備考

永禄5年(1562) 7月

出雲侵攻開始。

西出雲の国人衆(三沢氏ら)が毛利方へ離反 4

永禄6年(1563) 9月

白鹿城を攻略。

海からの補給路に脅威。

永禄8年(1565) 4月

月山富田城への三方からの総攻撃を開始 19

尼子軍は善戦し、毛利軍の侵入を阻止 15

永禄8年(1565) 9月

総攻撃を中止し、兵糧攻め・長期包囲に戦術を転換 19

籠城戦が本格化。

永禄9年(1566) 正月頃

包囲を厳重化。降伏・退去を認めない高札を立てる 19

兵糧の欠乏が深刻化し始める 23

宇山久兼が私財で兵糧を搬入 15

永禄9年(1566) 中頃

降伏・退去を認める方針に転換し、投降を誘う 19

投降者・脱走兵が続出 23

宇山久兼が讒言により誅殺され、城内の士気が崩壊 15

永禄9年(1566) 11月21日

義久の降伏を受け入れ、生命の保証を約束 15

尼子義久、降伏を決断。

開城時の城兵は僅か300余名だったとされる 15

永禄9年(1566) 11月28日

月山富田城に入城。

義久ら、城を明け渡す。

戦国大名尼子氏の滅亡。

天然の要害:月山富田城の構造と防御機能の徹底解説

月山富田城が「難攻不落」と称えられたのには、明確な理由があった。標高約190メートルの月山全体を要塞化したこの城は、典型的な複郭式山城であり、その規模と構造は日本五大山城の一つに数えられるほどであった 27

城の防御システムは重層的である。山麓の飯梨川を天然の堀とし、川沿いの城下町が第一の防衛線となる 27 。そこから中腹にかけては、城主の居館であった「山中御殿平」をはじめとする広大な曲輪が配置され、高い石垣と土塁で固められていた 29 。そして、この城の防御機能の心臓部とも言えるのが、山中御殿から山頂の本丸へと続く「七曲り」と呼ばれる険しい登城路である 29 。この一本道は、左右の曲輪から十字砲火を浴びせることが可能な設計となっており、下から力攻めで突破することは事実上不可能であった 27 。かつて、大大名・大内義隆が三万を超える大軍を率いながら、この城を攻めあぐねて惨めな敗走を喫した歴史が、その堅牢さを何よりも雄弁に物語っている 4

三方からの総攻撃:塩谷口、菅谷口における毛利両川の激闘

永禄八年(1565年)四月、元就はまず力攻めを試みる。軍を三隊に分け、月山富田城の主要な三つの虎口(出入り口)からの一斉攻撃を命じた 19

南の塩谷口は、猛将・吉川元春が担当。尼子義久の弟・倫久と、後に「山陰の麒麟児」と謳われる山中幸盛(鹿介)らがこれを迎え撃った 18 。北の菅谷口は、智将・小早川隆景が攻めかかり、義久のもう一人の弟・秀久が防衛にあたった 12 。そして西の御子守口は、初陣の毛利輝元が本陣を構えた 19

しかし、尼子軍の士気は極めて高く、地の利を活かした頑強な抵抗の前に、毛利軍は多大な損害を被る。特に元春、隆景が担当した方面では激戦が繰り広げられたが、ついに城内への侵入を果たすことはできなかった 15 。この結果は、元就に月山富田城の堅固さを改めて痛感させるとともに、戦術の根本的な転換を決意させるに十分であった。

戦術転換:「力攻め」から「兵糧攻め」へ - 長期包囲戦の始まり

総攻撃の失敗から、元就は即座に兵を引かせた。そして、戦国史に残る冷徹な持久戦へと舵を切る。すなわち、月山富田城を大軍で完全に包囲し、兵糧や物資の補給路を完全に遮断する「兵糧攻め」である 19

この戦術転換は、元就の戦略家としての真骨頂を示すものであった。彼の真の武器は、兵力や謀略の才のみならず、「時間」を自らの味方につける戦略的な忍耐力にあった。かつて大内義隆がこの城を攻めた際、元就もその一将として従軍しており、力攻めの無謀さを身をもって知っていた 15 。彼はその苦い経験から、短期的な勝利に固執せず、時間をかけて敵の内部崩壊を待つという、最も確実で、かつ自軍の損害を最小限に抑える戦法を選択したのである。

この戦術転換は、籠城する尼子方にとって希望の喪失を意味した。力攻めであれば、一瞬の隙や武運によって逆転の目もあったかもしれない。しかし、兵糧攻めは、時が経てば経つほど、確実に、そして静かに死が迫ってくる戦いである。元就は、戦いの舞台を「武勇」が雌雄を決する場から、「忍耐と消耗」が支配する場へと変えることで、尼子氏の運命に、もはや覆すことのできない封印を施したのである。

第三章:城内の絶望 - 飢餓、猜疑、そして崩壊

毛利元就が仕掛けた兵糧攻めという見えざる敵は、月山富田城の堅固な石垣を越え、城兵たちの心身を内側から静かに、しかし確実に蝕んでいった。一年以上に及ぶ籠城生活は、勇猛な尼子武士団を、飢えと疑心暗鬼が渦巻く地獄へと突き落としていく。

飢えと士気の低下:城内で深刻化する食糧難と相次ぐ投降・脱走兵

毛利軍による鉄壁の包囲網は、城内への食糧搬入を完全に断った。数万の兵と領民を抱える城内の兵糧は、日に日に底をついていった 22

元就の策略は、単なる兵糧の遮断に留まらなかった。当初、彼は「降伏も退去も一切許さぬ」という高札を立て、城内の人口を減らさず、兵糧の消費を早めさせるという非情な策を用いた 19 。そして、城内の飢餓が極限に達したと見るや、今度は一転して「降伏する者はこれを受け入れ、退去も自由とする」と告知し、さらには城の近くで粥の炊き出しを行うなど、巧みな心理戦で城兵の心を揺さぶった 19

この飴と鞭を使い分ける策は、絶大な効果を発揮した。永禄九年(1566年)に入ると、飢えに耐えかねた兵士たちが、夜陰に紛れて城を抜け出し、毛利軍に投降する事態が頻発する 23 。はじめは下級兵士であった脱走者は、やがて武士階級にまで及び、ついには牛尾氏、亀井氏、佐世氏といった尼子氏譜代の重臣までもが、一族郎党を引き連れて城を去っていった 19 。堅城を誇った月山富田城は、その内部から音を立てて崩れ始めていた。

悲劇の忠臣・宇山久兼:讒言による誅殺が招いた人心の完全な瓦解

この絶望的な状況下にあって、なおも尼子氏への忠義を貫き、抵抗を続ける武将がいた。筆頭家老の宇山久兼である。彼は私財を投げ打って密かに兵糧を買い付け、険しい間道を使って城内へ運び込むなど、文字通り身を粉にして奮闘していた 15

しかし、この忠臣の存在そのものが、新たな悲劇の火種となる。極限状態に陥った城内では、正常な判断力は失われ、猜疑心が蔓延していた。義久の近臣であった大塚与三右衛門が、義久に対し「宇山久兼は、兵糧搬入を恩に着せ、兵士たちを自らの配下に集めております。これは毛利に内通し、城内で謀反を起こす企みに違いありません」と讒言したのである 8

若き当主・尼子義久は、この偽りの告げ口を信じてしまった。長きにわたる籠城のストレス、父・晴久による新宮党粛清の記憶、そして有力家臣への潜在的な恐怖心が、彼の判断を狂わせた。永禄九年正月、義久は、尼子氏最後の希望ともいえる忠臣・宇山久兼を、自らの命令で誅殺するという、取り返しのつかない過ちを犯してしまう 15

宇山久兼の死は、単に一人の有能な家臣が失われたという以上の意味を持っていた。それは、尼子氏という組織が、外部からの攻撃によってではなく、内部の猜疑心と機能不全によって自壊した瞬間を象徴する出来事であった。物理的な兵糧の枯渇が城兵たちの「肉体的な死」を招くとするならば、この事件は、尼子家臣団の「精神的な死」、すなわち主君への忠誠心と仲間への信頼関係の完全な崩壊をもたらしたのである。最後の頼みの綱であった忠臣が、その忠義を尽くすべき主君の手によって殺された。この事実は、城内に残る者たちに、もはやこの組織のために命を懸ける価値はない、という最終通告を突きつけたに等しかった。尼子軍の士気は完全に崩壊し、組織としての抵抗は、事実上この時点で終焉を迎えた。

第四章:降伏と滅亡 - 戦国大名尼子氏、ここに終焉す

忠臣・宇山久兼の死によって、月山富田城内の結束は完全に失われた。もはや籠城を続ける気力も術もなく、残された道は一つしかなかった。永禄九年(1566年)十一月、百年にわたり山陰に君臨した戦国大名・尼子氏は、その歴史に幕を下ろすことになる。

永禄九年(1566年)十一月:尼子義久、降伏を決断

宇山久兼の誅殺後、城内の統制は完全に崩壊し、兵士たちの脱走は後を絶たなかった 15 。食糧は尽き、人心は離れ、城はもはや骸と化していた。これ以上の抵抗が無意味であることを悟った尼子義久は、永禄九年十一月二十一日、ついに降伏を決断。毛利元就に使者を送り、城を明け渡す意思を伝えた 4

報せを受けた元就は、義久とその弟たちの生命を保証する旨を記した起請文(誓約書)を送り、降伏を正式に受け入れた 15 。長きにわたった月山富田城の攻防戦は、こうして静かに終結した。

開城の儀と尼子三兄弟の処遇

同年十一月二十八日、月山富田城の城門が開かれた。尼子義久、倫久、秀久の三兄弟が、少数の供を連れて城を出る。かつては山陰・山陽に威を振るった尼子軍であったが、この時、城に残っていた兵は、わずか三百余名に過ぎなかったと伝えられている 15

義久ら三兄弟は、まず元就の本陣が置かれた洗合城へと送られた後、毛利氏の本拠地である安芸国へと移送され、円明寺に幽閉の身となった 4 。しかし、彼らは殺されることなく、その後は毛利氏の客分として遇された。関ヶ原の戦いの後には、長州藩主となった毛利氏から禄を与えられ、子孫は尼子姓から本姓の佐々木氏に復して、毛利家臣として幕末まで存続することになる 17

こうして、尼子氏の血筋そのものは絶えることなく続いた。しかし、一個の独立した武家勢力として、山陰地方に巨大な王国を築き上げた戦国大名・尼子氏は、この永禄九年十一月二十八日をもって、歴史の舞台から完全に姿を消したのである 24 。中国地方の勢力図は一変し、毛利氏がその覇権を不動のものとする新たな時代が始まった。

終章:七難八苦の旗印 - 尼子再興の夢と潰え

戦国大名としての尼子氏は滅亡した。しかし、その物語はまだ終わってはいなかった。主家への忠義を胸に、絶望的な戦いを挑み続けた者たちがいた。その中心にいたのが、あの月山富田城で最後まで勇戦した武将、山中幸盛、通称「鹿介」であった。

山中幸盛(鹿介)の執念:尼子勝久を奉じての再興軍蜂起

主家を失い浪人となった山中鹿介は、決して再興の夢を諦めなかった 43 。「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈ったという逸話は、彼の不撓不屈の精神を象徴している 44 。鹿介は各地に散った尼子遺臣を糾合し、京都で僧となっていた尼子一族の尼子勝久を探し出して還俗させ、再興軍の総大将として擁立した 20

好機は永禄十二年(1569年)に訪れる。毛利軍の主力が、九州の覇者・大友宗麟との戦いのために北九州へ出陣し、山陰地方の守りが手薄になったのである 45 。この隙を突き、鹿介率いる尼子再興軍は出雲に上陸し、蜂起した(第一次尼子再興戦) 4

布部山の戦いから上月城の悲劇へ

再興軍の勢いは凄まじく、瞬く間に出雲国の大部分を奪還し、月山富田城を包囲するまでに至った 20 。しかし、九州から急遽引き返してきた吉川元春率いる毛利軍本隊との決戦「布部山の戦い」で大敗を喫し、再興の夢は一度頓挫する 20

だが鹿介は屈しなかった。今度は、天下統一へと邁進する織田信長を頼り、その支援を取り付けることに成功する 7 。信長の中国方面軍司令官・羽柴秀吉の配下として、再度の蜂起を果たしたのである。天正六年(1578年)、秀吉軍に従い、播磨国の上月城を拠点とすることに成功した 48

しかし、これが尼子氏にとって最後の輝きとなった。毛利氏が三万を超える大軍で上月城を包囲。秀吉に救援を求めるも、信長は播磨平定の鍵となる三木城の攻略を優先し、「上月城は見捨てよ」という非情な命令を下す 43

この決定は、尼子再興軍がもはや独立した勢力ではなく、織田信長の天下統一事業という、より大きな戦略地図の中の一つの「駒」に過ぎないことを示していた。1566年の滅亡が、あくまで中国地方という地域内の覇権争いの結果であったのに対し、この上月城での滅亡は、中央の巨大権力の都合によって切り捨てられた結果であった。戦国時代の終焉と、新たな統一権力による秩序の到来を象徴する出来事であったと言える。

孤立無援となった上月城で、尼子勝久は城兵の助命を条件に自刃。捕らえられた山中鹿介も、護送中に毛利方の手によって謀殺された 50 。享年三十四。七難八苦を願い、主家再興に生涯を捧げた「山陰の麒麟児」の執念も、時代の大きな奔流の前には、ついに力尽きたのである。

引用文献

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  2. 尼子伊予守経久 - 伯耆国古城・史跡探訪浪漫帖「しろ凸たん」 https://shiro-tan.jp/history-a-amago-tsunehisa.html
  3. 「新宮党事件」はなぜ起こったのか - みやざこ郷土史調査室 https://miyazaco-lhr.blog.jp/archives/1620423.html
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