最終更新日 2025-09-29

尼崎運河開削(1600)

尼崎運河開削は1600年の史実ではなく、1617年以降、戸田氏鉄による近世尼崎城築城に伴う庄下川等の大規模改修が実態。これは幕府の西国戦略の一環であり、地域の景観と社会に強烈なインパクトを与えた。
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慶長五年「尼崎運河開削」説の歴史地理学的再検証:関ヶ原から近世尼崎城の誕生まで

序論:伝承の検証と本報告書の視座

「慶長五年(1600年)、尼崎において港と城下を結ぶ運河が開削され、物流が改善された」という伝承が存在する。この簡潔な記述は、戦国時代の終焉と江戸時代の幕開けという画期的な年に、近世的な都市インフラ整備が行われたことを示唆しており、歴史愛好家の興味を強く惹きつける。しかしながら、この「1600年運河開削説」を史料的に裏付けることは極めて困難である。

本報告書は、この伝承の真偽を検証することを起点とし、単なる事実確認に留まらず、なぜこのような伝承が生まれたのかという歴史的記憶の形成プロセスにまで踏み込むものである。調査を進める中で、現在「尼崎運河」として知られる水路群が主に昭和期以降に整備されたものであること 1 、そして尼崎の都市構造を決定づけた画期的な土木事業が、1600年から17年後の元和三年(1617年)以降に開始された「近世尼崎城」の築城であったことが明らかになった 2

この17年という時間的乖離こそが、本報告書の探求の中心となる。我々は、まず1600年という時点における尼崎の政治的・軍事的状況を精査し、大規模な土木事業の実現可能性を問う。次に、「運河」と認識された水路、特に庄下川の地理的・歴史的実像を解明する。その上で、尼崎の歴史における真の転換点であった戸田氏鉄による築城事業の全貌を、徳川幕府の国家戦略という広範な文脈の中に位置づける。

この分析を通じて、本報告書は以下の仮説を検証する。すなわち、「1600年運河開削」という伝承は、史実そのものではなく、「1617年以降の戸田氏鉄による、既存河川を大規模に改修して城の外堀とする築城事業」という複雑な歴史事象が、後世の人々の記憶の中で、より象徴的で理解しやすい「運河開削」という言葉に単純化され、さらにその画期的な事業の開始年として、日本の歴史における一大転換点である「慶長五年(1600年)」という年号に引き寄せられる形で結びついた「歴史的記憶の産物」である、というものである。この仮説の検証を通じ、一つの伝承の解体から、戦国末期から江戸初期にかけての尼崎における政治、軍事、そして都市形成のダイナミズムを立体的に再構築することを、本報告書の目的とする。

第一章:慶長五年(1600年)、関ヶ原直後の尼崎

「1600年運河開削説」の妥当性を検証するためには、まずその年、尼崎がどのような状況にあったかを正確に把握する必要がある。関ヶ原の戦いが終結した直後の尼崎は、新たな支配体制への移行期にあり、大規模な都市インフラ整備に着手できるような安定した状況ではなかった。

1.1. 関ヶ原の戦いと摂津国の支配体制

慶長五年九月十五日、関ヶ原の戦いで徳川家康率いる東軍が勝利したことにより、日本の政治情勢は一変した。この戦いの結果、尼崎を含む摂津国は、西軍の毛利輝元らの支配から離れ、東軍に属した諸大名の管理下に置かれることとなった。具体的には、戦後処理の一環として、池田輝政、山崎家盛、亀井茲矩といった大名による分割統治が行われた 5

中でも中心的な役割を担ったのが、戦功により播磨姫路に52万石という広大な領地を与えられた池田輝政である 6 。輝政は徳川家康の娘婿でもあり、西国における徳川方の重鎮として絶大な権勢を誇った。しかし、彼の統治の中心はあくまで新たな本拠地である姫路に置かれていた。輝政は入封後、現在世界遺産として知られる壮麗な姫路城の大改築に着手しており、その関心と資源の大部分はこの巨大プロジェクトに向けられていた 7 。尼崎は、彼の広大な領地の一部に過ぎず、直接的な統治拠点を整備する優先順位は低かったと考えられる。1600年時点の尼崎は、支配者が交代した直後の過渡期にあり、政治的に極めて流動的な状態にあった。

1.2. 当時の尼崎の都市構造:尼崎古城と港

近世尼崎城が築かれる以前、この地には「尼崎古城」あるいは「大物城」と呼ばれる中世城郭が存在した 8 。この城は、戦国時代の享禄・天文年間に細川高国が築いたとされ、畿内における政治抗争の拠点として機能した 3 。しかし、その規模は比較的小さく、防御機能も限定的であったと推測される。

1600年時点の尼崎の都市構造は、この古城と、古くからの港町である大物浦(だいもつのうら)を中心としたものであった。物流改善の必要性自体は存在したかもしれないが、それは既存の港湾機能の維持・管理というレベルに留まるものであっただろう。全く新しい運河を「開削」するような大規模な公共事業は、強固な政治権力と潤沢な財源、そして安定した社会情勢を必要とする。戦後間もない混乱期に、現地の統治を任された代官レベルの判断で、このような国家的プロジェクトを計画・実行することは、財政的にも政治的にも極めて困難であったと言わざるを得ない。

1.3. 土木事業の実現可能性の欠如

池田輝政自身、関ヶ原の戦いの直前には、福島正則らと共に東軍の先鋒として岐阜城攻めに参加するなど、軍事行動の最前線にあった 10 。戦後は、広大な新領地の経営安定化と、西国大名への睨みを利かせるための拠点整備が喫緊の課題であった。このような状況下で、輝政が尼崎という一地域における恒久的なインフラ整備に、大規模な人的・物的資源を投入する動機も余裕も乏しかったと結論付けるのが合理的である。

興味深いことに、池田氏と尼崎には浅からぬ因縁がある。輝政の父である池田恒興(信輝)は、天正八年(1580年)に荒木村重の乱が鎮圧された後、織田信長から尼崎を含む摂津一国を与えられ、この地を支配した経験があった 11 。この「池田氏による尼崎支配」という歴史的記憶が、後世において、関ヶ原後の輝政の時代と混同され、「輝政の時代に尼崎で何か大きな事業が行われた」という漠然としたイメージを生み出す一因となった可能性は否定できない。しかし、それはあくまで記憶の混同であり、1600年時点での大規模土木事業の実施を裏付けるものではない。

第二章:「運河」の実像:庄下川と尼崎デルタの水系

「運河開削」という言葉は、何もない土地に新たな水路を掘るというイメージを喚起させる。しかし、尼崎の地理的条件と歴史を鑑みれば、この言葉が実態を正確に表しているとは言い難い。尼崎における水利事業は、ゼロからの「開削」ではなく、既存の自然河川を巧みに「整備・活用」する形で行われた。

2.1. 尼崎デルタの地理的特性

尼崎は、六甲山地から流れ出す武庫川と、北摂山系を源流とする猪名川が大阪湾に注ぐ場所に形成された広大なデルタ地帯に位置している 2 。この地形は、二つの宿命をこの地にもたらした。一つは、古来より絶え間ない水害の脅威である。河川は頻繁に流路を変え、洪水は田畑や人々の生活を飲み込んできた 14

もう一つは、水運の利便性である。網の目のように広がる河川は、内陸部と大阪湾を結ぶ天然の輸送路であり、尼崎は古くから水上交通の要衝として栄えた。この地理的条件は、この地域における土木事業の方向性を決定づけている。すなわち、治水(洪水を防ぐ)と利水(水運や農業用水に活用する)が、常に地域の存亡をかけた最重要課題であった。したがって、何らかの水路整備が行われたとしても、それは全く新しい水路を掘るのではなく、暴れ川であった既存の河川を制御し、その流れを人間の生活にとって有益な形に作り変えるというアプローチが取られるのが自然であった。

2.2. 庄下川の歴史:自然河川から都市インフラへ

「運河」の候補として最も有力視されるのが、現在の尼崎市の中心部を南北に流れる庄下川である。しかし、この庄下川は、人工的に開削された運河ではない。歴史地理学的な研究によれば、庄下川は尼崎デルタを形成してきた武庫川の一分流であり、古代からこの地を流れていた自然河川である 13

その名称は、中世に上流域に存在した「生島荘(いくしまのしょう)」の下流を流れる川であったことに由来するという説が有力である 13 。古代においては、武庫郡と河辺郡の郡境の一部をなしていたとも考えられており、1600年以前から地域の地理的・社会的な境界線として重要な役割を果たしていたことがわかる 13 。この歴史的事実は、「1600年に開削された」という説を根本から覆すものである。庄下川は、開削されたのではなく、元々そこに存在した川なのである。

2.3. 「開削」と「整備」の峻別

では、なぜ庄下川が「運河」として認識されるようになったのか。それは、近世尼崎城の築城に伴い、この自然河川が大規模な改修を受け、城郭の防御システム(外堀)という新たな機能を与えられたからである。この事業は、豊臣秀吉が大坂の治水と防御のために築いた「文禄堤」や、江戸時代に河村瑞賢が淀川下流の治水と舟運改善のために行った「安治川開削」といった、近世の大規模土木事業の流れの中に位置づけることができる 17

しかし、その手法には明確な違いがある。安治川開削が、既存の流路とは別に新たな水路を掘削した文字通りの「開削」であったのに対し、尼崎の事例は、既存の河川である庄下川や大物川を浚渫・拡幅し、流路を一部直線化するなどして、城の防御と城下町の物流に最適化する「整備・改修」であった。この事業によって、庄下川は舟の航行が可能な水路となり、港と城下を結ぶ物流路としての機能も強化された。この「機能」が、その「起源」と混同され、「運河のように機能している」から「運河として開削された」という認識の飛躍が起こったと考えられる。言葉の定義が、歴史認識に歪みを生じさせた典型的な例と言えるだろう。

第三章:近世尼崎の黎明:戸田氏鉄による築城と城下町建設(1617年~)

1600年の尼崎には、大規模な都市開発を行う主体も動機も存在しなかった。尼崎の歴史における真の画期、すなわち「運河開削」という伝承の源泉となった巨大プロジェクトは、それから17年後の元和三年(1617年)、戸田氏鉄(とだうじかね)の入封と、それに続く近世尼崎城の築城開始によって幕を開ける。

3.1. 大坂の陣後の徳川幕府による西国支配戦略

慶長二十年(1615年)の大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡すると、徳川幕府は盤石な支配体制を確立するため、大坂を直轄地とし、その周辺を信頼の厚い譜代大名で固めるという国家戦略を推進した 3 。大坂は西国支配の拠点であり、その防御体制を強化することは幕府にとって最優先課題であった。

この戦略の一環として、元和三年(1617年)、尼崎に大きな動きがあった。大坂の陣で徳川方として功績を挙げ、尼崎藩主となっていた外様大名の建部政長が、播磨国林田(はやしだ)へ移封された 19 。そして、その後任として白羽の矢が立ったのが、近江国膳所(ぜぜ)藩主であった譜代大名の戸田氏鉄である。彼は5万石をもって尼崎に入封し、幕府から中世の尼崎古城に替わる新たな城の築城を命じられた 3 。これは、大坂城の西の守りを固めるための、極めて政治的・軍事的な意図に基づいた国家プロジェクトの始動を意味していた 9

3.2. 築城の名手、戸田氏鉄のグランドデザイン

戸田氏鉄は、武将としてだけでなく、築城技術に長けた人物としても知られていた。事実、彼は後に大坂城の修築工事においても普請総奉行を務めるなど、その手腕は幕府から高く評価されていた 22 。彼に与えられた尼崎での任務は、単なる居城の建設ではなく、西国街道と海上交通の要衝であるこの地に、徳川の権威を示す一大軍事拠点を築くことであった。

氏鉄が描いた尼崎城のグランドデザインは、この地の地理的特性を最大限に活用する壮大なものであった。城は、庄下川を西の外堀、大物川(現在は埋没)を東の外堀とし、南は大阪湾に直接面するデルタ地帯の砂州の上に築かれた 2 。三重の堀を巡らせた、いわゆる平城(ひらじろ)であり、満潮時には海水が堀に流れ込み、あたかも海に浮かぶような姿を呈した「水城(みずじろ)」であった 2 。その規模は、甲子園球場の約3.5倍にも及び、5万石の大名の居城としては破格の大きさであった 18 。これは、尼崎城が単なる藩主の居城ではなく、幕府の西国支配戦略における重要拠点として構想されたことの何よりの証左である 24

3.3. 築城プロセスと水利システムの構築

築城工事は、元和四年(1618年)春から本格的に開始された 3 。まず、城地を確保するために周辺の寺院を城の西側に計画的に移転させ、現在まで続く「寺町」を形成した 3 。そして、城郭の防御ラインとして庄下川と大物川を明確に位置づけ、大規模な河川改修工事に着手した。

この工事こそが、実質的な「運河化」であり、「運河開削」伝承の核心部分である。川底を深く掘り下げる浚渫、川幅を広げる拡幅、そして石垣による護岸工事などが行われ、自然河川は城の堅固な外堀へと姿を変えていった。この改修により、川の流れは安定し、より大型の船が城下まで航行することが可能となり、港と城下を結ぶ物流路としての機能も飛躍的に向上したと考えられる。それは、防御、治水、物流という複数の目的を同時に達成する、極めて高度な複合的エンジニアリングであった。

3.4. 軟弱地盤における築城技術

尼崎城が築かれたのは、河川の堆積作用によって形成された、地盤の軟弱なデルタ地帯であった 2 。このような場所に巨大な石垣や天守を築くには、当時の最先端の土木技術が必要であった。戸田氏鉄は、旧領であった膳所城(滋賀県大津市)の築城経験が豊富であった。琵琶湖に突出した水城であった膳所城もまた、軟弱な湖畔に築かれており、その経験が尼崎城築城に活かされた可能性は高い 27

近世の築城技術には、軟弱地盤対策として様々な工夫が見られる。例えば、地盤に木の枝葉を敷き詰めて補強する「敷粗朶(しきそだ)」工法や、盛り土を少しずつ段階的に行うことで、時間をかけて地盤の圧密沈下を促し、強度を増す「緩速載荷(かんそくさいか)」工法などである 30 。尼崎城の築城においても、こうした先進的な土木技術が駆使されたことは想像に難くない。このプロジェクトは、単に川を掘り、石を積むだけの作業ではなく、地形そのものを改造し、自然の力を制御する「ランドスケープ・エンジニアリング」と呼ぶべき性質を持っていた。この「水を支配する」という事業の強烈なインパクトこそが、後世に「運河を開削した」という、よりシンプルで力強い物語として記憶される原因となったのである。

第四章:時系列で見る尼崎の変容(1600年~1625年)

これまでの分析で、「1600年運河開削説」が史実ではなく、1617年以降の築城事業の記憶が変容したものである可能性が高いことを論じてきた。本章では、ユーザーの「リアルタイムな状態が時系列でわかる形」という要望に応えるため、1600年から近世尼崎城の主要部分が完成するまでの約25年間を時系列で整理し、各出来事の背景と相互関係を具体的に解説する。これにより、なぜ1600年には大規模工事が起こり得ず、なぜ1617年が真の転換点であったのかが一目瞭然となる。

慶長・元和期における尼崎関連年表(1600-1625)

年(西暦/和暦)

統治者/主要人物

尼崎における主要動向

幕府/周辺地域の関連動向

根拠資料

1600年(慶長5)

池田輝政

関ヶ原の戦いの結果、輝政の所領の一部となる。政治的に流動的な状態。

関ヶ原の戦い。徳川家康が覇権を握る。

5

1603年(慶長8)

(徳川家康)

尼崎郡代・建部光重の子として、後の初代尼崎藩主・建部政長が誕生。

徳川家康、征夷大将軍に就任し江戸幕府を開く。

19

1610年(慶長15)

建部政長

尼崎郡代であった父・光重が死去。政長が8歳で家督を継ぐ。

豊臣家と徳川家の緊張が高まる時期。

19

1614年(慶長19)

建部政長

大坂冬の陣。尼崎は徳川方の後方拠点として戦略的重要性が高まる。

大坂冬の陣が勃発。

19

1615年(元和元)

建部政長

大坂夏の陣において、徳川方として尼崎を堅守。その功により1万石の大名となり、初代尼崎藩が成立。

大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡。幕府は一国一城令を発布。

19

1617年(元和3)

戸田氏鉄

【真の起点】 幕府の戦略により建部政長は播磨へ移封。代わって譜代大名の戸田氏鉄が5万石で入封。幕府より新城の築城を命じられる。

幕府による大坂周辺の譜代大名配置が進む。明石城の築城も開始される。

3

1618年(元和4)

戸田氏鉄

**近世尼崎城、築城開始。**庄下川・大物川を外堀とする大規模な河川改修・土木工事が始まる。

徳川秀忠が築城の様子を視察に訪れるなど、幕府の強い関与がうかがえる。

3

1625年頃

戸田氏鉄

築城は数年の歳月をかけて進められ、四重の天守や三重の櫓を備えた城郭の主要部分が完成に近づく。城下町の整備も並行して行われる。

徳川家光が三代将軍に就任(1623年)。幕府の支配体制が盤石となる。

18

この年表は、尼崎の運命を決定づけた一連の出来事の因果関係を明確に示している。

  • 1600年~1614年(準備期): この期間、尼崎は依然として中世的な都市構造のままであり、統治者も豊臣恩顧の小領主(建部氏)であった。徳川幕府による直接的な都市開発計画は存在せず、大規模な土木事業が起こる余地はなかった。
  • 1615年(転換点): 大坂の陣による豊臣氏の滅亡が、全ての引き金となった。この事件により、尼崎の地政学的な重要性が幕府中枢に再認識され、大坂防衛網の一翼を担わせるという新たな国家戦略が策定される。
  • 1617年以降(実行期): 戦略を実行に移すため、主体(譜代大名・戸田氏鉄)、目的(大坂の西の守り)、そして命令者(徳川幕府)という全ての要素が揃った。1618年の築城開始は、この必然的な帰結であった。「運河開削」伝承の源泉となる、庄下川などを外堀とする大規模な土木工事は、この国家プロジェクトの一部として実施されたのである。

このように時系列で追うことで、1600年という時点がいかに無関係であったか、そして尼崎の近世的な変容が、いかに大坂の陣後の徳川幕府のグランドデザインと密接に結びついていたかが浮き彫りになる。

結論:『尼崎運河開削(1600)』説の再解釈

本報告書における歴史地理学的な検証の結果、「慶長五年(1600年)に尼崎で運河が開削された」という直接的な史実は確認できなかった。この広く知られた伝承は、史実そのものではなく、より複雑で大規模な歴史事象が、後世の人々の記憶の中で変容し、再構築された結果生まれたものと結論付けられる。その形成には、主に以下の三つの要因が複合的に作用したと考えられる。

  1. 時間的錯誤: 尼崎の都市形成史における真の画期は、徳川幕府の国家戦略に基づき、譜代大名・戸田氏鉄が築城を開始した「元和三年(1617年)以降」であった。しかし、この出来事が、日本の歴史全体におけるより象徴的な画期である「慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦い」という年号に引き寄せられる形で、記憶の中で誤って結びつけられた。
  2. 内容的単純化: 「既存の自然河川(庄下川など)を大規模に改修し、城郭の防御、城下町の治水、そして港湾とを結ぶ物流という複数の目的を達成するための、複合的な水利システムを構築した」という複雑な土木事業の本質が、後世に語り継がれる過程で、「運河を開削した」という、より象徴的で理解しやすい言葉へと集約・単純化された。
  3. 主体の混同: 織田信長配下の池田恒興や、関ヶ原後の池田輝政など、尼崎と歴史的に縁の深い池田氏の記憶が、実際の事業主体である戸田氏鉄の功績と混同され、伝承に曖昧さをもたらした可能性も指摘できる。

この伝承の解体を通じて、我々は尼崎における近世的都市開発の真の歴史的意義を再定義することができる。その原動力は、1600年時点の地域的な物流改善といった経済的動機ではなく、1615年の大坂の陣終結後における、徳川幕府による国家的軍事戦略にあった。近世尼崎城の誕生とそれに伴う大規模な水利工事は、戦国時代の終焉と、新たな統一権力による国土改造時代の幕開けを象徴する、西摂における画期的な出来事であった。

したがって、「尼崎運河開削(1600)」という事象は、史実としてではなく、**「近世尼崎城築城という巨大プロジェクトが、地域の景観と社会に与えた強烈なインパクトを物語る『歴史的記憶の産物』」**として理解することが、最も的確な歴史的評価であると言えるだろう。

引用文献

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  5. 関ヶ原の戦い|日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典 - ジャパンナレッジ https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=804
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  11. その時 尼崎が動いた(1/2) - 南部再生 http://www.amaken.jp/28/2801/
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  16. 現尼崎市域の猪名川・藻川(もがわ)流域の水害と治水の歴史を調べたい。 | レファレンス協同データベース https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000307523&page=ref_view
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  24. 尼崎城が再建!3月29日から公開されます。 | 口コミ | 【公式】兵庫県観光サイト HYOGO!ナビ https://www.hyogo-tourism.jp/review/12
  25. 尼崎城を掘る | あまがさき観光局【公式】 https://kansai-tourism-amagasaki.jp/event/4237/
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