最終更新日 2025-09-11

山城国一揆(1485)

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『惣国』の興亡 ― 山城国一揆(1485-1493)全史:背景、ダイナミクス、そして歴史的意義

序章:応仁・文明の大乱が遺したもの ― 一揆前夜の山城国

室町時代中期、文明十七年(1485年)に勃発した山城国一揆は、日本の歴史において民衆が自らの手で地域の平和と秩序を確立しようとした画期的な試みであった。しかし、この一揆は突発的な事件ではなく、長年にわたる戦乱と社会構造の変化が必然的にもたらした帰結であった。その根源を理解するためには、まず応仁・文明の乱(1467-1477)が残した深い傷跡と、そこから生まれた新たな社会の胎動に目を向けなければならない。

荒廃した「御膝元」

11年にも及ぶ応仁・文明の乱は、主戦場となった首都・京都を灰燼に帰しただけでなく、その周辺地域にも深刻な被害をもたらした。特に、京都と奈良という二大都市に挟まれた山城国、中でも南部の久世・綴喜・相楽の上三郡は、両軍の進軍路となり、繰り返し戦火に晒された 1 。寺社や民家は焼き払われ、田畑は荒廃し、民衆は疲弊の極みに達していた。この「戦乱疲れ」とも言うべき深刻な厭戦気分は、外部からの理不尽な暴力に対し、地域全体で立ち上がろうとする強固な意志の土壌を育んでいった 1

終わらない戦い ― 畠山氏の内訌

応仁の乱の直接的な引き金の一つとなった管領家・畠山氏の家督争いは、乱が形式的に終結した後も全く収束していなかった 5 。東軍の総帥の一人であった畠山政長と、西軍に属した畠山義就は、主戦場を河内や大和、そして南山城に移し、泥沼の戦いを継続していた 7 。特に文明十年(1478年)に政長が山城国守護に任じられて以降、その対立は新たな段階に入る。それまでの山城守護が名目上の存在であったのに対し、政長は実質的な領国支配、すなわち「領国化」を目指す動きを強めた 3 。これは、地域の支配構造を根本から変えようとする試みであり、在地勢力との緊張を一気に高めるものであった 10

成長する地域の力 ― 「惣」の発展と国人層の台頭

長引く戦乱は、皮肉にも地域社会の自立性を促した。農民たちは自らの生命と財産を守るため、村落単位の自治的・自衛的組織である「惣(そう)」を発展させた 7 。彼らは村の周囲に堀を巡らせた環濠集落を築き、独自の掟を定めて団結し、外部権力の侵入や不当な要求に対抗する力を蓄えていた 7 。時を同じくして、その地域に根を張る武士である国人や地侍も、守護大名の被官として仕えつつも、地域社会のリーダーとして独自の勢力を形成していた。この農民たちの共同体である「惣」の強固な結合力と、国人層の政治的・軍事的なリーダーシップが融合した時、守護大名という巨大な権力にさえ対抗しうる、新たな力が生まれることになる。山城国一揆は、まさにこの力が歴史の表舞台に現れた瞬間であった 3

第一章:文明十七年(1485)― 蜂起、そして両畠山軍の国外追放

文明十七年(1485年)の晩秋、南山城の人々の忍耐は限界に達した。畠山氏の内訌は、彼らの生活を根底から破壊する直接的な脅威として、眼前に迫っていたのである。

10月~11月:宇治川の対峙 ― 限界に達した忍耐

この年、畠山政長は京都から、義就は本拠地の河内から、それぞれ軍勢を率いて南山城に進軍。政長軍約1500、義就軍約1000が、宇治川を挟んで布陣した 13 。両軍は互いに牽制し合い、決定的な衝突を避けたまま睨み合いを続けた。この対峙は実に60日間にも及び、南山城地域は完全な臨戦態勢下に置かれた 14

この長期にわたる軍事対峙がもたらした被害は甚大であった。京都と奈良を結ぶ主要交通路は遮断され、物流は停滞した 13 。両軍は兵糧米を周辺の村々から強制的に徴発し、陣地の構築や雑務のために農民を人夫として動員した 1 。さらに、兵士たちは支配地域に勝手に関所を設け(新関)、通行人から高額な料金を徴収したため、商業活動は完全に麻痺状態に陥った 4 。兵士による民家への放火や略奪も頻発し、地域の秩序は崩壊寸前であった 4 。これは単なる迷惑行為ではなく、地域社会の生存そのものを脅かす危機であった。

12月初旬:平等院の集会 ― 「国衆」の決断

この惨状に耐えかねた南山城の上三郡(久世、綴喜、相楽)の国人、地侍、そして農民たちが、地域の中心地である宇治の平等院に集結した 1 。当時の記録である『大乗院寺社雑事記』は、この集会の参加者について「上は六十歳、下は十五六歳」と記している 1 。これは、一部の武士による軍事行動ではなく、地域の存亡をかけた、老若男女を問わない住民総意の決起であったことを雄弁に物語っている。

この集会で、彼らは歴史的な決断を下す。それは、畠山政長派・義就派という、これまで属してきた派閥の垣根を越え、ただ一つの「山城国衆」として団結し、両軍の即時撤退を要求することであった 7 。これは、中央の守護大名の論理ではなく、地域に生きる者たちの論理を最優先するという、力強い自己主張の表明であった。

12月11日以降:交渉による「下剋上」

国衆は、両畠山軍の陣営にそれぞれ使者を送り、南山城からの即時撤兵を要求した。その要求は、単なる嘆願ではなかった。「この要求に従わない場合は、我ら国衆が一方の陣営に味方し、もう一方を攻撃する」という、事実上の最後通牒であった 13

この一揆の成功は、単なる住民の怒りの爆発によるものではなく、極めて高度な戦略的判断に基づいていた。彼らは自らが血を流す武力衝突を避けつつ、膠着状態にある両軍に対し、自らが戦局のキャスティング・ボートを握る「第三勢力」として登場したのである。これにより、両畠山軍は、敵対する相手に加え、地域の全住民を敵に回すという破滅的なリスクを突きつけられた。どちらの陣営にとっても、敵軍と国衆連合軍の双方を相手に戦うことは不可能であった。

交渉は難航したものの、国衆は団結して強気の姿勢を崩さなかった 1 。彼らの要求は「両軍の撤退」であり、どちらか一方を利するものではないため、両軍にとっては不本意ながらも、これを受け入れる以外に戦線を維持する方法はなかった。ついに両軍は撤退を受諾し、南山城から軍を引き揚げた。国人・農民が、大大名である守護の軍隊を、大規模な武力衝突なしに実力で撤退させたこの事件は、身分の低い者が上の者に打ち克つ「下剋上」の時代の到来を象G徴する、画期的な出来事として歴史に刻まれた 5

第二章:『惣国』の誕生と八年間の自治

畠山両軍の追放という前代未聞の成果を上げた山城国衆は、次なる段階へと進んだ。それは、外部権力によって乱された地域の平和と秩序を、自らの手で再建し、維持することであった。こうして、日本史上でも類を見ない、8年間にわたる自治共同体「惣国」が誕生した。

表1:山城国一揆 主要関連年表(1485-1494)

年月

山城国の動向

幕府・周辺の動向

典拠資料

文明17 (1485) 10-11月

畠山政長・義就両軍、宇治川を挟み60日間対峙。

畠山氏の内訌、南山城で激化。

13

文明17 (1485) 12月

国人・農民ら、平等院で集会。両畠山軍に撤退を要求。

1

文明17 (1485) 12月下旬

両畠山軍、要求を受け入れ南山城から撤退。

13

文明18 (1486) 2月13日

再び平等院で集会、『国中掟法』を制定。惣国による自治開始。

15

文明18 (1846) 5月26日

幕府、伊勢貞陸を山城国守護に補任(形式的)。

3

長享元 (1487) 11月

幕府、伊勢貞陸を再度守護に補任。

17

長享元 (1487) 6月22日

惣国側、幕府の要請に応じ守護役を負担した記録あり。

3

明応2 (1493) 2月5日

惣国側、守護役を負担した記録あり。

10代将軍足利義材、河内の畠山基家(義就の子)討伐へ出陣。

3

明応2 (1493) 4月

細川政元、クーデター(明応の政変)を起こし、将軍義材を追放。

20

明応2 (1493) 閏4月27日

守護・伊勢貞陸、政変を機に山城国の実効支配に乗り出す。

3

明応2 (1493) 8-9月

惣国、内部対立から自治を放棄。抵抗派は稲屋妻城に籠城。

伊勢貞陸、古市澄胤を守護代に任命し、抵抗派の鎮圧を命じる。

1

明応2 (1493) 9月11日

稲屋妻城、古市軍の攻撃により落城。惣国は完全に崩壊。

古市澄胤、抵抗派を鎮圧。

1

明応3 (1494) 11月

古市軍により一揆の残党が掃討され、完全に終結。

3

天文6 (1537) 12月24日

稲屋妻城の戦死者を弔う「逆修の碑」が建立される。

22

文明十八年(1486年)2月13日:自治憲章『国中掟法』の制定

両軍撤退から約2ヶ月後、国衆は再び宇治の平等院に集い、南山城の自治運営の基本方針となる『国中掟法(くにじゅうじょうほう)』を正式に制定した 14 。この掟は、彼らが目指す社会の姿を明確に示した、いわば自治憲章であった。その内容は主に以下の三つの柱から構成されていた 4

  1. 両畠山氏の入国禁止 :今後、畠山政長・義就いずれの勢力も南山城へ入ることを禁ずる。これは、外部権力、特に守護の軍事介入を永久に排除し、地域の非武装中立を目指すという断固たる意志の表明であった。
  2. 寺社本所領の回復 :戦乱によって侵害された寺社や公家などの荘園を、元の持ち主(本所)に返還する。これは、地域の伝統的な経済基盤である荘園制度の秩序を回復し、領主権を安定させることで社会全体の安定を図るものであった。
  3. 新関の撤廃 :畠山軍などが勝手に設けた新しい関所をすべて撤廃する。これは、経済活動の自由を確保し、停滞した物流と商業を復興させることを目的としていた。

これらの条文は、地域の平和(安全保障)、経済基盤の安定、そして商業の自由という、近代的な国家運営にも通じる普遍的な理念を含んでおり、当時の社会状況において極めて先進的なものであった。

自治組織の運営 ― 「三十六人衆」と「月行事」

自治の指導部として、南山城三郡の有力国人の中から「三十六人衆」と称される代表者が選出された 14 。彼らが地域の最高意思決定機関として惣国を運営した 12

さらに、実際の行政運営においては、「月行事(がちぎょうじ)」という特筆すべき制度が採用された。これは、選挙によって選ばれた代表者が月交代で政務を担当するという、一種の輪番制であった 14 。この仕組みは、特定の個人や一族に権力が集中することを防ぎ、合議制を基本とする民主的な運営を目指したものであった。

この自治共同体は自らを「惣国(そうこく)」と称し 4 、地域の治安維持や犯罪者の処罰を行う警察権(検断権)や、荘園からの年貢の一部を徴収する権利(半済権)も行使した 3 。これは、事実上、守護が持っていた権能の多くを自らの手に収めたことを意味し、名実ともに自治国家として機能していたことを示している。

室町幕府との奇妙な共存関係

幕府の御膝元である京都のすぐ南で起きたこの前代未聞の事態に対し、室町幕府は武力による鎮圧という強硬手段を取らなかった 3 。この背景には、複雑な政治的計算があった。

山城国一揆による8年間の自治は、単に一揆勢の力が強かったからだけではなく、「畠山氏の権力後退」という惣国の目的と、「畠山氏の弱体化」という幕府(特に管領・細川政元)の政治的意図が奇跡的に合致して生まれた「権力の真空地帯」であった。当時の管領であった細川政元にとって、政敵である畠山氏の勢力が、自らの手を汚すことなく削がれることは、むしろ歓迎すべき事態であった 3 。また、幕府自身も山城国を直轄領(御料国)化したいという思惑があり、特定の有力守護がこの地を完全に支配することを望んでいなかった 3

こうした幕府の意向を反映し、幕府は文明十八年(1486年)と長享元年(1487年)の二度にわたり、政所執事の伊勢貞陸を山城守護に任命した 3 。しかし、これはあくまで幕府の権威を形式的に示すためのものであり、貞陸が実際に南山城に入部して実効支配を行うことは惣国に阻まれ、不可能であった 17

一方で、惣国側も幕府の権威を完全に否定したわけではなかった。彼らの目的はあくまで地域の自治であり、幕府との全面対決は望んでいなかった。そのため、幕府から求められた際には、守護役と呼ばれる税を納めるなど、限定的な協力関係を維持した 3 。惣国と幕府は、互いに完全な支配も敵対もせず、「畠山氏の排除」という共通の利益のために、相手を暗黙のうちに利用し合うという、極めて高度で不安定な政治的バランスの上に成り立っていたのである。

第三章:明応二年(1493年)― 内部分裂と惣国の崩壊

8年間にわたり維持された南山城の平和と自治は、しかし、永遠には続かなかった。惣国という共同体は、内部に構造的な脆弱性を抱えていた。そして、明応二年(1493年)、中央政局の激変という外部からの衝撃が引き金となり、その脆弱性が一気に露呈し、連鎖的な崩壊へと至る。

自治の綻び ― 内部からの崩壊

共通の敵であった畠山軍を失った後、惣国の結束は徐々に揺らぎ始めた。まず、自治の指導を担う国人層と、彼らに支配される農民との間に対立の芽が生じた 10 。特に、惣国が守護に代わって年貢の半分を徴収する「半済」を実施したことは、国人層を新たな支配者として位置づける結果となり、農民の不満を招いた可能性がある 18

さらに深刻だったのは、指導者層である「三十六人衆」内部の利害対立であった 14 。彼らは一枚岩ではなく、もともと細川氏や畠山氏と被官関係を結んでいた者も含まれていた 3 。そのため、中央の政治情勢と連動して、容易に分裂しうる素地を内包していたのである。「反・畠山」という共通の目的で結ばれた利害共同体は、それを超える強固な統治理念やイデオロギーを欠いていた。

外部からの衝撃 ― 「明応の政変」

明応二年(1493年)4月、管領・細川政元が将軍・足利義材を廃して新たな将軍を擁立するというクーデター「明応の政変」を断行した 20 。この事件は、これまで惣国の存在を暗黙のうちに容認してきた幕府内のパワーバランスを根底から覆した。惣国を支えていた「権力の真空」状態は終わりを告げ、各勢力が山城国の実効支配をめぐって動き出す絶好の機会となった。

守護・伊勢貞陸の介入と惣国の分裂

この機を逃さなかったのが、これまで名目上の守護に甘んじていた伊勢貞陸であった。彼は政変を好機と捉え、山城国の完全支配に乗り出す 10 。その手始めとして、彼は畠山基家(義就の子)の家臣であった大和の有力国人・古市澄胤を守護代に任命し、軍事力を背景とした介入を開始した 10

この「外部勢力」の導入は、内部に亀裂を抱えていた惣国指導部を決定的に分裂させた。古市氏という強力な武力を前に、一部の国人は伊勢・古市に従うことで自らの既得権益を確保しようと考えた。こうして、惣国は守護支配を受け入れる「恭順派」と、あくまで自治を守り抜こうとする「抵抗派」に二分されたのである 10

最後の抵抗 ― 稲屋妻城の悲劇

指導部が分裂したことで、惣国は組織としての抵抗力を失った。多数派となった恭順派は集会を開き、8年間続いた自治を自らの手で放棄することを決議した 22

しかし、数百人にのぼる抵抗派の国人たちはこの決定を認めず、最後まで戦う道を選んだ。彼らは現在の京都府精華町にあったとされる稲屋妻城に立て籠もり、自治の理念を守るための最後の抵抗を試みた 1

明応二年九月、守護代・古市澄胤の軍勢が稲屋妻城に総攻撃をかけた。籠城側は激しく抵抗し、双方に多くの死者を出す激戦となったが、衆寡敵せず、城はついに落城した 1 。この悲劇的な結末をもって、山城国一揆はその8年間の歴史に幕を下ろしたのである。

終章:山城国一揆の歴史的意義

山城国一揆は、わずか8年で終焉を迎えたものの、日本の歴史、特に戦国時代の幕開けを告げる上で極めて重要な意味を持つ事件であった。その試みは、後世に多くの教訓と遺産を残している。

「戦国時代の国民議会」という評価の再検討

山城国一揆は、長く歴史の中に埋もれていたが、大正元年(1912年)、歴史学者・三浦周行によってその詳細が明らかにされ、「戦国時代の国民議会」と高く評価された 22 。この評価は、月行事といった民主的な運営手法や、武力ではなく交渉によって守護軍を撤退させた点に着目したものである。もちろん、その実態は有力国人層による寡頭制の側面も強く、現代的な意味での「国民議会」とは異なる。しかし、戦乱の時代に、地域の住民が主体となって合議を開き、自らの手で地域のあり方を決定しようとした点で、その先進性は揺るがない。

下剋上の先駆けとしての側面とその限界

守護大名という絶対的な権力を実力で地域から排除し、国人層が支配権を握った点で、山城国一揆はまさしく「下剋上」の先駆けと言える 5 。しかし、彼らは守護領国制そのものを完全に否定し、新たな政治体制を樹立するには至らなかった。最終的に新たな守護の支配を受け入れたことは、その限界を示している。彼らは既存の体制を打倒しようとする革命家ではなく、あくまで地域の平和と安定を求める現実主義者であった 3

表2:主要な「一揆」の比較分析表

項目

正長の土一揆 (1428)

山城国一揆 (1485-1493)

加賀一向一揆 (1488-1580)

主体

馬借、農民

国人、地侍、農民 (惣)

一向宗門徒 (武士、農民、商人)

目的

徳政(債務破棄)の要求

守護軍の追放と地域の自治

守護の打倒と信仰に基づく自治国家の樹立

統治形態

一時的な蜂起であり、恒常的な統治組織はない

三十六人衆・月行事による「惣国」運営

本願寺の指導下にある坊官・門徒による統治

結束の核

経済的困窮

地域の安全保障・経済的利益(世俗的)

浄土真宗の信仰(宗教的イデオロギー)

期間

短期間

8年間

約100年間

結果

幕府による徳政令発布(一部成功)

内部対立と外部介入により崩壊、守護支配へ回帰

織田信長勢力により平定されるまで自治を維持

典拠資料

7

3

27

なぜ8年で終わったのか ― 加賀一向一揆との比較

山城国一揆の特質を理解する上で、ほぼ同時期に発生し、守護を打倒して約100年間の自治を達成した加賀一向一揆との比較は不可欠である 27 。両者の運命を分けた最大の要因は、「宗教的結束の有無」であった。加賀一向一揆は、浄土真宗(一向宗)という強固な信仰によって結ばれた宗教共同体であり、蓮如というカリスマ的指導者の下で鉄の団結を誇った 29 。一方、山城国一揆は、あくまで「反・畠山」という地域の利害に基づく政治的・軍事的な連合体であり、それを超越するほどの強固なイデオロギーを欠いていた。この結束力の差が、内部対立や外部からの介入に対する脆弱性となって現れ、8年という比較的短期での終焉を招いたのである。

後世への遺産

山城国一揆は敗北に終わったが、その記憶は地域に深く刻まれた。稲屋妻城の麓には、一揆終焉から約40年後の天文六年(1537年)に、稲屋妻城の戦いで若くして命を落とした者たちを弔うために親たちが建立したとされる「逆修の碑」が今も残されている 22 。これは、一揆が単なる歴史上の事件ではなく、地域の人々の心に生き続けた出来事であったことを物語っている。

山城国一揆は、戦乱の時代に民衆が自らの手で平和と秩序を築こうとした、日本史上稀有な自治の試みであった。その挑戦と挫折は、後の世に大きな影響を与え、地方自治の先駆けとして、今日なお重要な示唆を与え続けている 19

引用文献

  1. 精華のふるさとを戦乱から守る!山城国一揆|みつける 精華町 https://www.town.seika.kyoto.jp/section/mitsukeru/07.html
  2. 10分で読める歴史と観光の繋がり 戦国時代の幕開け応仁の乱、足利義政が発展させた東山文化 日本の美意識〝わび・さび〟/ゆかりの世界遺産・銀閣寺と龍安寺、小京都 津和野 | いろいろオモシロク https://www.chubu-kanko.jp/ck.blog/2022/01/13/10%E5%88%86%E3%81%A7%E8%AA%AD%E3%82%81%E3%82%8B%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%81%A8%E8%A6%B3%E5%85%89%E3%81%AE%E7%B9%8B%E3%81%8C%E3%82%8A-%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%B8%E3%81%AE%E8%BB%A2/
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  15. 山城国一揆とは何か | アゴラ 言論プラットフォーム https://agora-web.jp/archives/240421064354.html
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