山科本願寺焼討(1532)
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天文元年の劫火:山科本願寺焼討の真相と戦国畿内政治の力学
序章:享禄・天文の動乱 - 混沌の畿内
天文元年(1532年)8月24日、山城国山科に栄華を誇った浄土真宗本願寺教団の本拠、山科本願寺が一日して灰燼に帰した。この「山科本願寺焼討」は、単なる宗派間の対立に起因する局地的な事件ではない。それは、当時の畿内を覆っていた巨大な政治的・軍事的動乱、すなわち「享禄・天文の乱」と呼ばれる時代の混沌が生み出した、必然的な帰結であった 1 。この事件の深層を理解するためには、まず、それが置かれた戦国時代中期の畿内の権力構造を解き明かす必要がある。
室町幕府の権威は応仁の乱以降、著しく失墜していた。幕政を実質的に主導してきた管領・細川京兆家は、細川高国と、その対抗馬である細川澄元・晴元父子の間で泥沼の内紛を繰り広げていた 2 。この対立は、将軍職そのものを二つに引き裂く。高国が擁立する第12代将軍・足利義晴が京都に在る一方、晴元は義晴の弟・足利義維を擁して和泉国堺に独自の政権(堺公方府)を樹立。畿内には二人の将軍と二人の管領候補が並び立つという、極度の政治的無秩序状態が現出していた 1 。
享禄4年(1531年)の「大物崩れ」で晴元が高国を討ち果たし、一応の勝利を収めるも、畿内の混乱は収束しなかった。むしろ、晴元政権は盤石とは程遠く、彼の勝利に貢献した三好元長や木沢長政といった新興の武士層が強大な実力を保持し、新たな権力闘争の火種となっていた 4 。このような権力の空白と流動化は、本願寺のような強大な門徒組織を背景に持つ武装宗教勢力が、政治の舞台で無視できない存在として台頭する絶好の土壌を提供したのである 7 。
山科本願寺焼討は、この複雑に絡み合った政治的力学の中で発生した。本願寺が有する巨大な軍事動員力、すなわち「一向一揆」は、不安定な畿内情勢において、各勢力にとって魅力的な「切り札」であると同時に、制御不能な「脅威」でもあった。事件は、この政治的ダイナミズムが臨界点に達した瞬間に起きた、時代の象徴的な出来事だったのである。
第一部:権勢を誇る「仏国」- 山科本願寺の実像
焼き討ちの舞台となった山科本願寺は、単なる一寺院ではなかった。それは、蓮如が文明10年(1478年)に創建して以来、約半世紀の歳月を経て築き上げられた、当代随一の規模と機能を持つ巨大な要塞都市(寺内町)であった 8 。第10世法主・証如の時代にはその繁栄は頂点に達し、当時の公卿・鷲尾隆康はその日記『二水記』に「寺中広大無辺、荘厳ただ仏国のごとし。在家又洛中に異ならずなり(寺域は広大で、その荘厳さはまるで仏の国のようだ。立ち並ぶ家々は京の都と何ら変わらない)」と記し、その壮麗さと繁栄を驚きをもって伝えている 8 。
この「仏国」の実態は、近年の発掘調査によってより具体的に明らかになっている。寺内町は、東西約800メートル、南北約1キロメートルに及び、その周囲は強固な土塁と幾重にも巡らされた堀によって鉄壁の防御が施されていた 8 。発掘調査では、防御効果を最大化するためにV字型や逆台形に掘られた「薬研堀」や空堀、さらには寺内の水を外部に排出するための石組の暗渠排水口「水落」といった、当時の最先端の築城技術が確認されている 1 。特に、敵の側面を攻撃するための「横矢がけ」構造が導入されていた可能性も指摘されており、本願寺が高度な軍事知識と技術を有していたことを示唆している 12 。
寺内は、法主の居住空間であり、教団の政治・宗教儀礼の中心である「御本寺(ごほんじ)」と、数千軒に及ぶ門徒や商工業者の家々が立ち並ぶ町人地が明確に区画され、高度な都市機能を有していた 13 。御本寺跡の発掘調査では、庭園や石風呂、炊事施設といった生活空間の遺構と共に、中国から輸入された青磁や白磁、金蒔絵が施された高級漆器など、数千点にのぼる一級の工芸品が出土している 13 。これらは、本願寺が宗教的権威のみならず、莫大な富を蓄積した経済的中心地でもあったことを雄弁に物語る。
山科本願寺のこの物理的構造は、単なる自衛のための防御施設という次元を超えていた。かつて比叡山延暦寺によって京都・大谷の本願寺を破壊された苦い経験から、自衛は教団存続の至上命題であったことは間違いない 16 。しかし、山科のそれは、内部に独自の経済圏と社会秩序を形成し、外部の武家権力による支配、特に検地や徴税を拒絶する「治外法権」の空間を物理的に現出させるものであった。この要塞都市の存在そのものが、畿内の統一支配を目指すいかなる権力者にとっても、容認しがたい「独立国家」として映ったのである。したがって、後に起こる焼き討ちは、単なる建物の破壊に留まらず、本願寺が築き上げた治外法権という概念そのものへの攻撃という側面を持っていた。
第二部:蜜月から敵対へ - 細川晴元と本願寺の亀裂
当初、細川晴元と本願寺は政治的利害を共有する協力者であった。しかし、その蜜月はわずか2ヶ月余りで終わりを告げ、両者は全面的な敵対関係へと突き進む。この劇的な関係性の変化は、戦国時代の権力闘争の非情さと、宗教勢力が持つ力の両義性を浮き彫りにしている。
第一章:利害の一致 - 飯盛城の共同戦線
享禄5年(1532年)5月、事態は細川晴元の家臣・木沢長政が、主家である河内守護・畠山義堯と、それを支援する三好元長の連合軍によって居城・飯盛山城を包囲されたことから動き出す 4 。自軍のみでの救援が困難と判断した晴元は、窮余の一策として、本願寺に一向一揆の動員を要請した 6 。
この要請は、本願寺にとっても渡りに船であった。敵将の三好元長は、本願寺と教義上のライバル関係にあった法華宗(日蓮宗)の熱心な信者であり、これまでも本願寺門徒を弾圧してきた経緯があったからである 21 。ここに両者の利害は完全に一致した。本願寺第10世法主・証如は、祖父・実如の「諸国の武士を敵とせず」という遺言を破り、17歳の若さで自ら山科から大坂御坊へと下向。畿内全域の門徒に対し、「浄土真宗と法華宗の最終決戦」と位置づけて動員を号令した 4 。
同年6月15日、呼応して蜂起した数万(一説に十万とも二十万とも)の一向一揆は、飯盛山城を包囲する畠山・三好軍の背後を急襲し、これを瞬く間に壊滅させた。総大将の畠山義堯は追撃の末に自害に追い込まれる 6 。勢いに乗る一揆勢は、返す刀で6月20日には三好元長が籠る和泉国堺の顕本寺を包囲。抵抗を諦めた元長もまた自刃し、晴元の政敵は一掃された 20 。この時点では、晴元の戦略は完璧に成功したかに見えた。
第二章:制御不能の力 - 大和での暴走
しかし、晴元の目論見は、一向一揆という「パンドラの箱」を開けてしまったことに気づくまでに、そう時間はかからなかった。飯盛城の戦いで自らの強大な力を自覚した一揆勢は、晴元の統制を離れ、独自の行動を開始する 26 。彼らの行動原理は、晴元への忠誠ではなく、阿弥陀仏への信仰と、日頃から搾取を受けている旧来の権力構造への反発であった。
同年7月、その矛先は隣国の大和に向けられた。一揆勢は大和国へ雪崩れ込み、守護格の興福寺や春日大社を襲撃。美麗を誇った東北院をはじめ、数百にのぼる僧坊や子院に火を放ち、徹底的な破壊と略奪を行った。当時の記録には、興福寺の猿沢池の鯉や、神の使いとされる春日大社の鹿までもことごとく食い尽くしたと記されており、その凄まจじさがうかがえる 4 。
この大和での常軌を逸した暴走は、援軍を要請した張本人である細川晴元にとって、全くの想定外の事態であった。畿内の秩序維持を責務とする管領として、自らが引き金となって未曾有の破壊と混乱を生み出してしまったことは、彼の政治的権威を根底から揺るがすものであった 4 。一向一揆は、もはや便利な「軍事力」ではなく、畿内全体の秩序を破壊しかねない制御不能の「脅威」へとその姿を変えたのである。
第三章:反目と包囲網の形成
自らが解き放った力の恐ろしさを目の当たりにした晴元は、本願寺との即時手切れを決断する。将軍・足利義晴や、以前から本願寺の勢力拡大に強い警戒感を抱いていた近江守護・六角定頼も、この晴元の動きに同調した 4 。
時を同じくして、京都では「一向宗が京に攻め寄せ、法華宗を殲滅する」という風聞が急速に広まっていた 1 。当時の京都では、町衆を中心に法華宗が広く信仰されており、彼らは自衛のために強固な団結を誇っていた。この噂に危機感を抱いた法華宗徒は、自らの信仰と生活を守るため、武装蜂起(法華一揆)を決行。彼らは、共通の敵を持つ細川晴元と連携する道を選んだ 26 。
天文元年8月初頭、堺において晴元方の木沢長政の軍勢と一向一揆が衝突し、死者が出る事態が発生。これをきっかけに、両者の敵対関係は決定的となった 4 。ここに、
細川晴元・六角定頼・法華一揆 という、昨日までの敵と味方が入り乱れた奇妙な反本願寺連合が形成され、巨大な「仏国」を殲滅するための包囲網が完成したのである。
この一連の過程は、戦国時代における権力の流動性を象徴している。晴元は「管領」という伝統的権威を持ちながら、それを裏付ける実力に欠けていた。そのため、本願寺という外部の実力に依存して政敵を排除した。しかし、その実力が自らの権威を脅かし始めた瞬間、今度は法華一揆という別の実力を利用してそれを叩き潰そうとした。これは、名目上の権力者が、実力を持つ諸勢力に翻弄される戦国時代の権力構造の縮図に他ならなかった。
第三部:炎上 - 山科本願寺、最後の一日(天文元年八月二十四日)
天文元年八月二十四日(西暦1532年9月23日)、栄華を極めた山科本願寺は、歴史の舞台からその姿を消す。各種史料を基に、その運命の一日を時系列で再構成することで、当時の緊迫した状況を追体験する。
前夜(八月二十三日)
細川晴元、六角定頼、そして京都の法華一揆から成る連合軍、総勢三万から四万と号する大軍が、山科盆地へと進軍し、本願寺を完全に包囲した 20 。すでに本願寺の法主・証如は6月の時点で戦況の中心であった大坂御坊に拠点を移しており、山科には不在であった 4 。山科の防衛指揮は、蓮如上人の末子(第27子)であり、証如の大叔父にあたる実従(じつじゅう)が執っていた 4 。連合軍は本願寺に隣接する花山や音羽といった地域で放火や略奪を開始し、決戦前夜の緊張は極限にまで高まっていた 4 。
払暁~午前(八月二十四日)
『祇園執行日記』によれば、二十四日の早朝、連合軍による総攻撃の火蓋が切られた 1 。幾重にも巡らされた堀と、高くそびえる土塁に守られた本願寺は、当初は激しい抵抗を見せたものと推測される。しかし、連合軍の圧倒的な兵力の前に、籠城側の疲弊は時間の問題であった。
正午頃(午の刻)
戦況は正午頃、突如として大きく動く。複数の記録によれば、連合軍は寺内町の南西角に設けられていた防御上の弱点、すなわち寺内の水を外部へ排出するための暗渠「水落(みずおち)」に攻撃を集中させた 4 。一説には、連合軍が偽りの和平交渉を持ちかけ、本願寺側が人質交換のために警戒を緩めた一瞬の隙を突かれたとも伝えられている 4 。
いずれにせよ、水落の防御線は突破された。内部への侵入に成功した部隊は、即座に火を放った。『本福寺明宗跡書』は、水落のすぐ北側に位置していた興正寺が最初に炎上したと記している 4 。折からの強風に煽られた炎は、瞬く間に木造の家々が密集する寺内町全体へと燃え広がった。
午後~日没
一度燃え上がった火の勢いは、もはや誰にも止められなかった。公卿・鷲尾隆康は『二水記』の中で、わずか「一時(いっとき、約2時間)」のうちに、あれほど壮麗を誇った寺中がことごとく焼け落ち、その黒煙は天を覆い尽くしたと、その凄惨な光景を記録している 1 。
燃え盛る炎と阿鼻叫喚の巷と化した寺内で、指揮官の実従は最後の務めを果たす。彼は混乱の中、本願寺教団の最も重要な宝である宗祖・親鸞聖人の御影(ごえい)と歴代の寺宝を辛うじて運び出すことに成功し、日没にまぎれて醍醐寺方面へと脱出した 4 。
逃げ遅れた門徒や寺内町の住民の多くが炎に巻かれ、あるいは討ち死にした。焼き討ち後も、焼け跡から財宝を略奪しようとする者があとを絶たず、その混乱は数日間にわたって続いたという 9 。蓮如の時代から半世紀にわたり築き上げられた「仏国」は、文字通り、たった一日で地上から姿を消したのである。
表1:天文元年八月二十四日 山科本願寺攻防 時系列表
時刻(推定) |
連合軍(細川・六角・法華一揆)の動き |
本願寺側の対応・状況 |
特記事項・典拠史料 |
前夜(8月23日) |
総勢3万~4万の兵で山科本願寺を完全包囲。周辺の花山・音羽地区で放火・略奪を開始。 |
法主・証如は不在。蓮如の末子・実従が籠城軍を指揮。防衛体制を固める。 |
決戦前夜の緊迫した状況。 4 |
払暁(8月24日 早朝) |
全軍による総攻撃を開始。外周の堀や土塁へ激しく攻めかかる。 |
籠城軍は各所で激しく応戦。 |
本格的な攻城戦が開始される。 1 |
午前 |
圧倒的兵力で波状攻撃を継続。籠城側を徐々に消耗させる。 |
防衛線を維持しつつ抵抗を続けるが、兵力差は歴然。 |
攻防は熾烈を極めたと推測される。 |
正午頃(午の刻) |
寺内町南西角の排水施設「水落」に攻撃を集中させ、突破に成功。内部から放火。 |
一瞬の隙を突かれ、内部への侵入を許す。興正寺が最初に炎上し、火が寺内全域へ延焼開始。 |
戦局の決定的な転換点。「一時(約2時間)にして寺中焼亡」(『二水記』)。 4 |
午後 |
寺内各所を制圧。逃げ惑う門徒らを攻撃。 |
組織的抵抗は崩壊。炎と混乱の中、指揮官・実従が親鸞聖人御影と寺宝を運び出す。 |
寺内は阿鼻叫喚の地獄絵図と化す。 4 |
日没後 |
焼き討ち完了。焼け跡の略奪が始まる。 |
実従らは醍醐寺方面へ脱出成功。山科本願寺は完全に壊滅。 |
略奪は数日間続いたとされる(『二水記』)。 4 |
第四部:灰燼の先に - 事変が残した遺産
山科本願寺の焼失は、一つの時代の終わりであると同時に、新たな時代の幕開けでもあった。この事件は、本願寺教団そのものの在り方を根底から変え、畿内の政治・宗教勢力図を大きく塗り替える、長期的かつ決定的な影響を及ぼした。
第一章:石山への道 - 武装教団の再誕
山科という壮麗な本拠地を失った本願寺教団であったが、その信仰の灯は消えなかった。法主・証如が避難していた摂津国大坂の御坊が、新たな本山と定められたのである。これが、後に織田信長を11年もの長きにわたって苦しめることになる、戦国時代最大級の宗教要塞「石山本願寺」の始まりであった 34 。
山科陥落の悲劇は、教団にとって痛烈な教訓となった。新たな本拠地・石山は、三方を川に囲まれ、北は淀川水系を通じて京へ、南は紀伊水道を経て西国へと繋がる水運の要衝であり、天然の要害であった。教団は山科での経験を活かし、石山の地をより一層武装化・要塞化。寺内町の周囲に無数の砦や出城を配し、鉄砲を大量に配備するなど、その姿はもはや寺院というよりも、戦国大名の大城郭そのものであった 16 。山科から運び出された親鸞聖人の御影が石山に安置されたことで、この地は名実ともに本願寺教団の新たな中心となり、教団はより強固な軍事組織へと生まれ変わった 27 。山科の灰燼は、結果として、より強大な武装教団を誕生させるための「創造的破壊」の契機となったのである。
第二章:法華一揆の隆盛と新たな火種
一方で、山科本願寺焼討において連合軍の中核として活躍した京都の法華一揆は、その功績を背景に、京都における影響力を飛躍的に増大させた。彼らは市中の警固権を掌握し、幕府の支配を離れて自治を行う「自検断権」を確立。さらには地子銭(土地税)の納入を拒否するなど、約5年間にわたり京都を実質的に支配するに至った 28 。
しかし、この法華宗の急進的な勢力拡大は、新たな対立の火種を生んだ。特に、古くから京都の宗教界に君臨してきた比叡山延暦寺は、法華宗の台頭を自らの権威と既得権益に対する深刻な脅威と見なした 28 。両者の緊張は、天文5年(1536年)に起きた宗教問答(松本問答)で延暦寺の僧が法華宗徒に論破されたことをきっかけに爆発する 43 。面目を潰された延暦寺は、再び六角定頼ら武家勢力と結び、京都洛中洛外の日蓮宗二十一本山をことごとく焼き払った。これが「天文法華の乱」である 44 。山科本願寺を焼いた炎は、回りまわって、今度はその焼き討ちの主役であった法華宗徒自身を焼き尽くす劫火の遠因となったのである。
第三章:畿内勢力図の再編
細川晴元は、一向一揆という畿内における最大の脅威を中枢から排除することに成功し、一時的にせよ、自らの政権を安定させることに成功した 4 。しかし、長期的に見れば、この一連の動乱は彼の権力基盤を内部から蝕む結果を招いた。
第一に、一向一揆によって父・元長を殺された三好長慶が、新たな三好家の当主として台頭する契機を与えた。長慶は父の無念を胸に秘め、雌伏の時を経て、やがて晴元を凌駕する実力者へと成長していく 19 。第二に、晴元が一向一揆に対抗するために頼った木沢長政のような家臣たちが、この動乱を通じて力を増し、自立性を高めていった。彼らはもはや晴元の忠実な家臣ではなく、いつ裏切るか分からない危険な同盟者であった。
山科本願寺焼討は、武家権力が宗教勢力という「非対称な力」を利用して敵を滅ぼした結果、今度はその宗教勢力が新たな脅威となり、別の宗教勢力というさらなる「非対称な力」を用いてこれを叩くという、複雑な連鎖反応を引き起こした。これは、もはや武士階級の論理だけでは畿内を統治できなくなった、より混沌とした時代の到来を告げるものであった。
結論:戦国史における山科本願寺焼討の歴史的意義
天文元年の山科本願寺焼討は、単に壮麗な寺院が戦火に消えたという一事件に留まらない。それは、戦国時代という時代の特質を凝縮した、極めて多層的かつ重要な歴史的出来事であった。この事変は、①中央権力の失墜に乗じて繰り広げられる武将たちの権謀術数、②信仰を旗印に巨大な軍事・経済力を有するに至った宗教教団の政治化、そして③自らの生活と信仰を守るために武装蜂起した都市民衆の台頭という、戦国時代を特徴づける三つの要素が、山科の地で交錯し、爆発した複合的な事変であった。
本願寺教団にとって、この事件は壊滅的な悲劇であったと同時に、より強靭な組織へと脱皮するための「創造的破壊」の契機となった。山科の壮麗な伽藍と引き換えに、彼らは石山という難攻不落の要塞と、武家権力と渡り合うための非情な現実認識を手に入れた。この経験がなければ、後の織田信長との11年にも及ぶ石山合戦を戦い抜くことは不可能であっただろう。
畿内の政治史において、この事件はさらなる混乱の序曲であった。細川晴元は目先の脅威を取り除くことには成功したが、その過程で生み出された新たな権力の担い手たち、すなわち三好長慶や法華一揆が、次なる動乱の主役となっていく。宗教勢力を政治の道具として利用しようとした試みは、結果として自らの権力基盤を揺るがし、より複雑で予測不可能な闘争の時代を招来したのである。
最終的に、山科本願寺焼討は、戦国時代の権力と信仰が織りなす、危険でダイナミックな関係性を鮮やかに描き出している。武家政権が、自らの論理とは異なる原理で動く宗教勢力を安易に利用しようとするとき、いかにその力に翻弄され、意図せざる結果を招くか。この事件が提示した教訓は、やがて天下統一を目指す織田信長が、なぜ旧来の宗教的権威との全面対決という道を選ばざるを得なかったのかを理解する上で、欠かすことのできない重要な一幕として、日本史にその記憶を刻んでいる。
引用文献
- 天文の錯乱・山科本願寺焼失と『祇園執行日記』に見える京都周辺 ... https://amago.hatenablog.com/entry/2015/06/15/125654
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- 【百二】 「山科興正寺の焼失」 ~山科寺内町焼亡の際、最初に燃えた https://www.koshoji.or.jp/shiwa_102.html
- 【細川晴元の時代】 - ADEAC https://adeac.jp/takarazuka-city/text-list/d100020/ht200590
- 飯盛城の戦いとは何? わかりやすく解説 Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E9%A3%AF%E7%9B%9B%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
- 大和国人一揆崩壊と薬師寺炎上~大和武士の興亡(11) - 大和徒然草子 https://www.yamatotsurezure.com/entry/yamatobushi11
- やましなを歩く山科本願寺跡とその周辺 - 京都市 https://www.city.kyoto.lg.jp/yamasina/page/0000012089.html
- 講演記録 http://furusato.la.coocan.jp/kagamiyama/10ronbun/ronbun002.html
- 山科本願寺跡 | 京都府教育委員会 文化財保護課 https://www.kyoto-be.ne.jp/bunkazai/cms/?p=2246
- 山科本願寺の内堀 - 公益財団法人京都市埋蔵文化財研究所 https://www.kyoto-arc.or.jp/news/leaflet/286.pdf
- 【百一】 「山科寺内」 ~進んだ知識や技術が集まる場 - 本山興正寺 https://www.koshoji.or.jp/shiwa_101.html
- 発掘調査成果から探る山科本願寺の実像 柏田有香氏(2/2ページ) - 中外日報 https://www.chugainippoh.co.jp/article/ron-kikou/ron/20171122-002.html
- 山科本願寺跡発掘調査(第18次調査)現地説明会 配布資料(2012/9/8) https://www.gensetsu.com/20120908yamashina/doc1.htm
- 山科本願寺のお宝 - 公益財団法人京都市埋蔵文化財研究所 https://www.kyoto-arc.or.jp/news/leaflet/215.pdf
- なんで本願寺は東と西の2つもあるの? https://kyotolove.kyoto/I0000135/
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- 大物崩れ/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/11089/
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- 仁義なき戦いにピリオドを打て!細川・足利の将軍争奪戦を制した男・三好長慶【前編】:2ページ目 https://mag.japaaan.com/archives/194520/2
- 考古学からみた天下人三好長慶の軌跡と飯盛城一 https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach_mobile/44/44084/115102_1_%E5%A4%A9%E4%B8%8B%E3%81%AE%E6%94%AF%E9%85%8D%E8%80%85%E4%B8%89%E5%A5%BD%E6%AE%BF%E2%80%95%E8%80%83%E5%8F%A4%E5%AD%A6%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%BF%E3%81%9F%E5%A4%A9%E4%B8%8B%E4%BA%BA%E4%B8%89%E5%A5%BD%E9%95%B7%E6%85%B6%E3%81%AE%E8%BB%8C%E8%B7%A1%E3%81%A8%E9%A3%AF%E7%9B%9B.pdf
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- 戦国時代の京都について~その⑧ 天文法華の乱・一向一揆との死闘 - 根来戦記の世界 https://negorosenki.hatenablog.com/entry/2023/05/11/203116
- 法華一揆と一向一揆|了光山 護国寺 - 日蓮宗ポータルサイト https://temple.nichiren.or.jp/5011103-gokokuji/local/151/
- 【3分でわかる】京都の歴史!天文法華の乱編 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=Cu59CiJlxd4
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- 【戦国時代】一向一揆と本願寺の戦略地図~信長包囲網に参画し各地で一揆を起こす (2ページ目) - まっぷるウェブ https://articles.mapple.net/bk/1211/?pg=2
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- 「天文法華の乱」は日本で起きた宗教戦争。被害規模は「応仁の乱」以上! そのきっかけと流れとは【親子で歴史を学ぶ】 | HugKum(はぐくむ) https://hugkum.sho.jp/618233
- 法華一揆 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E8%8F%AF%E4%B8%80%E6%8F%86
- 天文法華の乱の遺跡 https://www.kyoto-arc.or.jp/news/s-kouza/kouza255.pdf
- 都市史15 天文法華の乱 - 京都市 https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/toshi15.html
- 天文法華の乱(テンブンホッケノラン)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A9%E6%96%87%E6%B3%95%E8%8F%AF%E3%81%AE%E4%B9%B1-102825