最終更新日 2025-09-28

岡崎城二の丸整備(1590)

豊臣秀吉の命で岡崎城主となった田中吉政は、徳川家康への備えとして城郭を近世城郭へと大改修。二の丸整備、総構え、東海道の「二十七曲り」を導入し、岡崎を軍事・経済両面で発展させた。
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岡崎城二の丸整備(1590年)の総合分析:豊臣政権の対徳川戦略と近世都市岡崎の誕生

序章:天正十八年、岡崎前夜 ― 変革の胎動

天正18年(1590年)、岡崎城とその城下町は、日本の歴史における一大転換点の渦中にあった。この年に始まったとされる「岡崎城二の丸整備」は、単なる一城郭の改修事業ではない。それは、豊臣秀吉による天下統一事業の最終段階において、最大のライバルである徳川家康を封じ込めるという国家戦略と、近世という新しい時代の都市計画思想が交差した、画期的なプロジェクトであった。本報告書は、この歴史的事業の全貌を、その戦略的背景から具体的な整備過程、そして後世に与えた影響まで、時系列に沿って詳細に解明するものである。

徳川家康時代の岡崎城:三河武士団の揺り籠

1590年の大変革以前、岡崎城は徳川家康とその三河武士団にとって、揺り籠とも言うべき象徴的な場所であった 1 。龍頭山と呼ばれる段丘の先端部に築かれた平山城であり、その縄張りは本丸を中心に、二の丸、三の丸が北東方向へ連なる「梯郭式」と呼ばれる配置を取っていた 2 。しかし、その構造は戦国中期までの様相を色濃く残すものであった。強固な高石垣は限定的で、防御の主体は土を盛り上げた土塁であり、各曲輪(くるわ)の形状も不規則であった 2 。これは、防御思想が古い段階に留まっていたことを示唆しており、統一政権下で計画的に築かれる近世城郭とは一線を画す、中世城郭の姿であった。

家康にとっては「神君誕生の城」として神聖視され、三河統治の拠点として機能したが、元亀元年(1570年)に家康が本拠を遠江国・浜松城へ移して以降、その役割は変化する 2 。当初は嫡男・松平信康の居城となり、信康が悲劇的な自刃を遂げた後は、石川数正や本多重次といった徳川家の重臣が城代として管理する、後方支援拠点としての性格を強めていた 4 。この時点での岡崎城は、徳川領国の「内」を守るための城であり、その機能と構造は徳川家の歴史と不可分に結びついていたのである。

天下統一の奔流:小田原征伐と家康の関東移封という激震

天正18年(1590年)、豊臣秀吉は関東の雄・北条氏を屈服させるため、小田原征伐を敢行し、これを成功させることで事実上の天下統一を成し遂げた 6 。この戦後処理において、秀吉は日本の政治地図を塗り替える大胆な一手に出る。徳川家康に対し、先祖代々の領地である三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の5ヵ国を召し上げ、その代わりに北条氏の旧領であった関東8ヵ国への移封(国替え)を命じたのである 6

この決定は、秀吉の極めて高度な政治戦略に基づいていた。第一に、豊臣政権にとって最大の潜在的脅威である家康を、政治の中心地である京・大坂から遠ざけ、箱根の険しい山々によって隔てられた関東に封じ込める狙いがあった 7 。第二に、家康を関東に置くことで、いまだ豊臣政権の威光が完全には及んでいない奥州の諸大名に対する「抑え」の役割を担わせるという意図も含まれていた 9

この徳川家康の関東移封という地殻変動は、岡崎城の運命を根底から覆した。家康が去った岡崎城は、もはや徳川家の聖地でも後方拠点でもなくなった。地理的に関東と畿内の中間に位置するこの城は、逆に関東の家康を監視し、彼が西へ軍を進める(西上)ことを阻止するための、豊臣政権における対徳川戦略の最前線拠点へと、その戦略的価値が180度転換したのである 4 。1590年の岡崎城整備は、この新たな戦略的使命を物理的に具現化するための、必然的な帰結であった。城の役割は、徳川の「内」を守る城から、徳川を「外」から封じ込める城へと、全く新しい目的を持って再定義されたのだ。

第一章:新城主・田中吉政の着任とグランドデザイン

岡崎城大変革の実行者として白羽の矢が立ったのは、豊臣家臣・田中吉政であった。彼がなぜこの重要拠点に抜擢されたのか、そして彼が岡崎の地で描いた壮大な都市計画の全体像はどのようなものであったのか。本章では、新城主の人物像と、彼に託された使命を明らかにする。

豊臣政権の「土木の専門家」、田中吉政

田中吉政(当時は久兵衛)は、近江国(現在の滋賀県)の農家の出身から身を起こし、その才覚によって豊臣秀吉の甥・秀次の筆頭家老にまで上り詰めた、当時を代表する実力者の一人であった 12 。彼の経歴で特筆すべきは、単なる武功だけでなく、卓越した行政手腕、特に土木技術と都市計画における実績である。

秀次が近江八幡城主であった時代、吉政は実質的な代官として領国経営を取り仕切っていた 15 。彼は、商業の活性化と水運の確保を目的として、城下町と琵琶湖とを結ぶ長大な水路「八幡堀」を開削した 13 。さらに、織田信長が築いた安土城下から商人たちを計画的に移住させ、一大商人町を形成するなど、ゼロから都市の経済基盤を創り上げるという稀有な才能を発揮したのである 15 。この近江八幡での経験は、彼を豊臣政権内における都市計画の第一人者、すなわち「テクノクラート(技術官僚)」としての評価を確立させた。

小田原征伐において山中城攻めなどで功績を挙げた吉政は、戦後の論功行賞により、天正18年(1590年)、徳川家康が去った三河国岡崎城に5万7400石の領主として入封することとなった 14

岡崎に課せられた新たな戦略的使命と吉政の役割

吉政に与えられた最大の使命は、前章で述べた通り、岡崎城を「東国の家康に備える重要拠点」として、当時最新鋭の軍事要塞へと抜本的に改修することであった 4 。徳川家康の旧領の、まさに中心地へ単身乗り込む形となるため、徹底した防御力の強化は喫緊の課題であった 20

しかし、秀吉が吉政を抜擢した理由は、単に軍事要塞を築かせるためだけではなかった。近江八幡で都市そのものを創り上げた実績を持つ吉政を送り込むことで、軍事拠点化と同時に、徳川家の経済的基盤であった三河国を豊臣政権の経済圏に組み込むという、二重の目的があったと考えられる。

その意図を象徴するのが、吉政が入城翌年の天正19年(1591年)から断行した、徳川家ゆかりの寺社に対する政策である。彼は、徳川時代に手厚い保護を受けてきた寺社の領地を没収、あるいは移転させるという強硬策を打ち出した 21 。これは、旧領主である徳川家の影響力を精神的・経済的側面から一掃すると同時に、大規模な都市再開発に必要な土地と財源を確保するための、極めて合理的かつ戦略的な「聖域なき構造改革」であった。物理的な城郭改修と、支配体制の刷新は、車の両輪として進められたのである。

城と城下を一体で守る「総構え」構想

岡崎のグランドデザインを策定するにあたり、吉政は近江八幡での経験をさらに発展させた、壮大な構想を打ち立てる。それは、城郭本体だけでなく、武家屋敷や町人地を含む城下町全体を、長大な堀と土塁で囲い込んでしまう「総構え(そうがまえ)」あるいは「総曲輪(そうぐるわ)」と呼ばれる、当時最新式の都市防御システムであった 10

この計画の中核をなすのが、城の東・北・西の外周に、全長約4.7kmにも及ぶ長大な堀を巡らせるというものであった 2 。この堀は、後世に彼の名を冠して「田中堀」と呼ばれることになる 10 。この総構えによって、岡崎は城と城下が一体化した巨大な要塞都市へと生まれ変わることが計画された。これは、徳川家康という明確な仮想敵の襲来を想定し、都市全体で持久戦を行う思想に基づいた、全く新しい岡崎の姿であった。

第二章:近世城郭への脱皮 ― 岡崎城郭の抜本的改修

田中吉政が着手した岡崎城の改修は、単なる修繕や増築の域をはるかに超える、城郭の思想そのものを刷新する抜本的なものであった。本章では、具体的な城郭の改修内容、特に「二の丸整備」に焦点を当て、中世城郭が如何にして近世城郭へと変貌を遂げたのかを、考古学的知見も交えて詳細に分析する。

中世から近世へ:土の城から石の城への転換

吉政の改修における基本方針は、徳川時代に主流であった土塁主体の構造を根本から改め、強固な石垣や城壁を多用した近世城郭へと全面的に刷新することであった 1 。これは、豊臣政権の圧倒的な威光を視覚的に示すと同時に、火縄銃などの新しい兵器に対応した、実戦的な防御力を飛躍的に向上させるための必然的な選択であった 2

縄張り(城の設計)においても、大きな変更が加えられた。徳川時代には不規則な形状をしていた各曲輪は、より計画的で防御効率の高い形状へと再編された。特に、政治の中枢となる二の丸は正方形に近い形に整えられ、近世城郭の計画的な特徴を顕著に示している 2 。さらに、この時期に岡崎城の象徴となる初代天守と、それを支える石垣の天守台が初めて造営されたと考えられている 25 。岡崎城は、まさに「土の城」から「石の城」へと脱皮を遂げたのである。

二の丸の拡張と「政庁」機能の確立

近世城郭において、天守が軍事的な権威の象徴であるのに対し、城主の居館であり、領国経営の指令所となる「政庁」としての機能は、本丸や二の丸に建てられた御殿が担っていた 26 。吉政による岡崎城改修においても、この政庁機能の中核として二の丸が大規模に整備されたことは、事業の核心であった。

岡崎城跡で昭和55年(1980年)に初めて本格的に行われた発掘調査以来、二の丸は継続的な調査の対象となってきた 29 。これらの調査によって、二の丸御殿の塀の基礎と推定される石列や、排水のための石組溝、そして生活に不可欠な石組の井戸といった遺構が検出されている 29

特に、平成19年(2007年)の発掘調査で発見された井戸は、江戸時代に描かれた城の絵図に記されている二基の井戸のうちの一つである可能性が極めて高く、文献史料の記述を考古学的に裏付ける重要な発見となった 31 。これらの物理的な証拠は、二の丸に大規模かつ壮麗な御殿建築群が存在し、岡崎が豊臣方の拠点として、その統治機能と生活の中心をこの場所に置いていたことを雄弁に物語っている。二の丸の整備は、単なる区画整理ではなく、岡崎城の新たな「頭脳」と「心臓」を創造する事業であった。

石垣の構築と技術:招聘された和泉・河内の石工たち

岡崎城を「石の城」へと変貌させる大規模な石垣普請には、高度な専門技術が不可欠であった。このため吉政は、当時、石工技術の先進地であった大坂近郊の和泉国や河内国(現在の大阪府)から、専門の石工技術者集団を招聘したという伝承が、岡崎には根強く残っている 34

この伝承には、それを直接証明する一次的な文献資料が見つかっていないという指摘もあるが、関西の石工が持つ優れた技術が、この規模の工事に必要であったことは疑いようがない 34 。豊臣政権が本拠地とする大坂周辺は、城郭石垣の最新技術が集積する場所であり、そこから技術者を動員することは、この事業が豊臣政権直轄の国家プロジェクトであったことを示唆している。そして、この時に招かれた石工たちが岡崎に定住し、後の伝統的工芸品「岡崎石工品」の礎を築いたとされている 36

石垣の材料には、幸いにも岡崎近郊で豊富に産出される良質な花崗岩が使用された 29 。地元の資源と、中央から導入された最新技術の融合が、近世城郭・岡崎城の堅固な石垣を生み出したのである。近年の発掘調査では、慶長年間頃に積まれたとみられる古い時期の石垣も発見されており、吉政時代から江戸時代初期にかけての石垣技術の変遷を解明する手がかりとして注目されている 39


表1:岡崎城の構造変化:田中吉政による整備以前と以後

項目

整備以前(徳川家康時代まで)

整備以後(田中吉政による改修)

典拠資料

城郭分類

平山城(中世城郭)

平山城(近世城郭)

2

縄張り

梯郭式。本丸・持仏堂曲輪など不規則な形状の郭が多い。

梯郭式を基礎としつつ、総構えを導入。城郭全体が計画的に拡張。

2

主要曲輪

二の丸・三の丸は存在するが、形状は不整形。

二の丸を正方形に近い形に整備。政庁機能の中核として拡張。

2

防御施設

土塁が主体。石垣は限定的で野面積み。

高石垣を多用。特に人目に付く場所に重点的に配置。

2

城郭規模

本丸・二の丸・三の丸を中心とした規模。

城下町全体を囲む総構え(総堀約4.7km)を構築し、日本有数の規模に。

2

象徴的建造物

天守は存在しないか、簡素なものであったと推定。

初代天守と石垣の天守台を築造。

25


第三章:城下町大変革のリアルタイム・クロニクル

岡崎城郭本体の改修と並行し、あるいはそれ以上にダイナミックに進められたのが、城下町の大規模な再編事業であった。これは、単なる町の整備ではなく、岡崎という都市の骨格そのものを新たに創り出す壮大なプロジェクトであった。本章では、その過程を可能な限り時系列に沿って再現する。

黎明期(1590年~):計画策定と基盤整備

天正18年(1590年)に岡崎城へ入った田中吉政が最初に着手したのは、徹底した現状分析と、それに基づくグランドデザインの策定であった。彼は岡崎の地形が、北東から南西に向かって低くなる段丘地形であることを正確に把握した 10

この地形的特徴を最大限に活用し、彼は大規模な造成工事を開始する。すなわち、城の北東側の高い段丘を削り、その膨大な量の土砂を用いて、南西側の低湿地を埋め立てるという、合理的かつダイナミックな土木事業である 10 。この造成により、それまで利用が困難であった土地が、新たな市街地を建設するための広大な用地として生まれ変わった。これと並行して、都市計画の根幹である総構えの堀、すなわち「田中堀」の掘削が開始された 18 。掘削で出た土は、堀の内側に盛り上げられて防御壁である土塁の造成に利用され、極めて効率的な工事が進められた 18 。これは、都市の骨格を定めるための、まさに黎明期の基盤整備であった。

交通網の再編(1591年頃~):東海道の引き込みと「二十七曲り」

基盤整備に続いて、吉政は岡崎の将来を決定づける画期的な決断を下す。それまで岡崎城の南、菅生川の対岸を迂回していた日本の大動脈・東海道を、城下町のまさに中心部へと引き込むという計画であった 1

この計画の最大の特徴は、城下に引き入れた東海道を、意図的に何度も鋭角に屈折させた、極めて複雑な道筋に整備した点にある。後に「岡崎二十七曲り」として知られるようになるこの特異な構造には、二つの明確な意図が込められていた 1

第一の意図は、軍事的な防御である。見通しの利かないクランク状の道は、万が一、関東の徳川軍が侵攻してきた際に、その大軍の進軍速度を著しく低下させ、城下での迎撃を容易にするための巧妙な罠であった 1 。これは、経済的メリットを享受しつつ、軍事的リスクを最小化するための、独創的な解決策であった。

第二の意図は、経済的な振興である。道を長く複雑にすることで、街道沿いに多くの商店が軒を連ねる敷地を生み出し、旅人の滞在時間を延ばすことで、城下町の商業を活性化させる狙いがあった 12 。この「二十七曲り」は、欠町から両町、伝馬通、籠田町などを経て矢作橋へと至るルートであり、軍事と経済の論理が融合した、吉政の都市計画思想の象徴であった 24

新町の誕生と町割り(1592年頃~):都市機能の配置

交通網の再編と並行して、造成された土地には計画的な「町割り」(区画整理)が実施され、新たな都市機能が配置されていった。吉政は、兵(武士)・農・商・工の居住区を区分する「兵農分離」の考え方に基づき、機能的な都市を構築した 42

この過程で、材木を扱う「材木町」、田畑に関連する「田町」、屋根葺き職人が集う「板屋町」、魚市場である「肴町」といった、職能や商業の種類ごとに人々を集住させた新しい町が次々と誕生した 10 。これは、都市の生産性と経済効率を高めるための合理的な配置であった。

さらに、城の西側には新たに「伝馬町」が設けられた 22 。伝馬とは、公用の旅人や物資を次の宿場まで運ぶための人馬を提供する制度であり、伝馬町はその中心地であった。この町の設置により、岡崎は東海道における公式な宿場町としての機能を確立し、江戸時代を通じて東海道有数の規模を誇る「岡崎宿」として発展する強固な礎が築かれたのである 12

インフラ整備の進展:治水と架橋

都市の持続的な発展には、安全で安定したインフラが不可欠である。吉政はこの点も深く理解しており、大規模なインフラ整備事業にも着手した。

その一つが、文禄3年(1594年)頃に豊臣秀吉の直接命令を受けて開始された矢作川の治水工事である 10 。当時、矢作川はしばしば氾濫を繰り返し、城下町や周辺の農地に甚大な被害をもたらしていた。吉政は、強固な堤防を築くことで川の流れを安定させ、水害の脅威から都市を守った 16

もう一つが、矢作川への架橋である。彼は、それまで渡し船に頼っていた矢作川に、初めて本格的な橋(矢作橋)を架ける工事を開始した 11 。この橋は彼の転封後、慶長6年(1601年)に完成するが、東海道の交通の利便性を飛躍的に向上させ、岡崎の物流拠点としての地位を不動のものにした 10 。これらの事業は、土地を造成し、人の流れを呼び込み、住む場所と働く場所を整備した上で、最後に生活の安全と利便性を恒久的に確保するという、現代の都市開発にも通じる極めて論理的なプロセスであった。

第四章:「田中吉政の岡崎」が遺したもの

田中吉政による一連の整備事業は、わずか10年ほどの期間に集中的に行われたが、その影響は岡崎の歴史、ひいては戦国末期の都市形成史において、極めて大きく、多岐にわたるものであった。本章では、この大変革がもたらした短期的・長期的影響を評価し、その歴史的意義を考察する。

軍事都市から東海道屈指の宿場町へ

吉政の都市計画がもたらした最も顕著な成果は、岡崎を交通の要衝として、経済的に繁栄する都市へと変貌させたことである。日本の大動脈である東海道を城下町の中心に引き込んだことで、岡崎には人、物、そして情報が絶えず流れ込むようになった 12

特に、軍事目的で造られた「二十七曲り」が、結果として街道沿いの商業活動を活発化させ、旅人の滞在を促したことは、歴史の妙と言える 23 。この強固なインフラを基盤として、江戸時代に入ると岡崎宿は、本陣3軒、旅籠112軒(天保14年時点)を数える、東海道で三番目の規模を誇る大宿場町へと発展した 12 。また、整備された街道は、岡崎名産の八丁味噌や陶磁器といった地場産業の販路を全国に拡大させる上でも、決定的な役割を果たした 16 。対徳川の軍事拠点として設計された都市が、結果として平和な時代の経済的繁栄の基盤となったのである。

近世岡崎の都市構造の確定

田中吉政が定めた都市の骨格は、驚くほど長きにわたって維持された。彼が築いた総構えの範囲、二十七曲りをはじめとする主要な道路網、そして材木町や伝馬町といった町割りは、その後の江戸時代を通じて、岡崎の基本的な都市構造としてほぼそのまま受け継がれた 10

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、吉政は筑後国柳川へと転封となり、岡崎城は再び徳川家の支配下に戻る。以降、この城は「神君誕生の城」として神聖視され、本多氏や水野氏といった譜代大名が城主を務めることになった 1 。しかし、彼らは吉政が築いた近世城郭と城下町の優れたインフラを否定するのではなく、むしろそれを基礎として、さらなる発展を遂げさせた。ここにも歴史の皮肉が見て取れる。豊臣の将が対家康のために心血を注いで築いた最新鋭の要塞都市が、巡り巡って徳川の世における岡崎の繁栄を支える揺るぎない土台となったのである。

歴史的意義の再評価

田中吉政による岡崎の整備事業は、日本の都市史において重要な位置を占める。それは、戦国時代の終焉と近世社会の到来という大きな時代の転換期において、軍事と経済、防御と繁栄という二つの要素をいかにして両立させるかという課題に対する、一つの優れた解答を示した先進的な都市計画の実例として高く評価されるべきものである。

そして、この事業を主導した田中吉政という人物もまた、再評価されるべきである。彼は、戦場での武勇に優れただけの単なる武将ではなかった。近江八幡、そして岡崎での事業が示すように、彼は秀吉の天下統一事業をインフラ整備の側面から支えた、極めて有能な行政官であり、土木技術者であった 17 。岡崎における一連の事業は、彼の類稀なる能力が最大限に発揮された、キャリアの集大成の一つと言っても過言ではないだろう。

結論:1590年の変革が持つ多層的意義

天正18年(1590年)に始まった「岡崎城二の丸整備」を中核とする一連の事業は、単一の建築事象として捉えるべきではない。それは、豊臣秀吉の天下統一戦略というマクロな政治情勢、田中吉政という稀有なテクノクラートの個人的な能力、そして近世という新しい時代への移行期における最新の築城・都市計画思想という、複数の要素が岡崎という一点で交差した、複合的かつ画期的な歴史事象であった。

この変革は、岡崎城を土塁主体の中世の砦から、高石垣を誇る近世の要塞へと物理的に変貌させた。同時に、岡崎の町を、徳川家という特定の家の地方拠点から、日本の大動脈である東海道に直結し、全国的な交通網に組み込まれた経済都市へと、その性格を根本から脱皮させた。それは、岡崎の歴史における一種の「ビッグバン」であり、現代に至る岡崎の都市構造の原型を決定づけた出来事であった。

軍事、政治、経済、そして土木技術の全てが凝縮されたこの一大事業の痕跡は、発掘調査によって地中から現れる遺構だけでなく、現代の岡崎の町の区画や道筋にも、今なお色濃くその面影を留めている。それは、戦国時代の終焉がもたらした社会のダイナミズムと、新しい時代を築こうとした人々の強固な意志を、我々に静かに伝え続けているのである。

引用文献

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  35. 岡崎石工品 | 愛知県 https://www.pref.aichi.jp/sangyoshinko/densan/402.html
  36. 岡崎石工品 | 岡崎市ホームページ https://www.city.okazaki.lg.jp/1300/1301/1313/p009148.html
  37. キラリと光る匠の技 ~石の匠~ 岡崎石工団地 - 岡崎ルネサンス https://citypromotion.okazaki-kanko.jp/report/life-kk-01
  38. 岡崎城跡 石垣めぐり https://www.city.okazaki.lg.jp/1300/1304/1332/p022955_d/fil/isgkmap.pdf
  39. 岡崎市(公式)/岡崎城跡南切通し 発掘調査成果 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=RFnRBIUo_oE
  40. 愛知県岡崎市の城下町/ホームメイト https://www.touken-collection-nagoya.jp/aichi-shizuoka-jokamachi/okazakishi-jokamachi/
  41. Q.二十七曲りについて知りたい。 - 岡崎市 https://www.city.okazaki.lg.jp/faq/004/154/p032802.html
  42. 第1章 岡崎市の歴史的風致形成の背景 https://sbc7912999a290127.jimcontent.com/download/version/1746510318/module/7506808659/name/L24Ab%20%E5%B2%A1%E5%B4%8E%E5%B8%82%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%9A%84%E9%A2%A8%E8%87%B4%E7%B6%AD%E6%8C%81%E5%90%91%E4%B8%8A%E8%A8%88%E7%94%BB03%202023.pdf
  43. 岡崎のまちづくりを行った【田中吉政-たなかよしまさ-】のご紹介(伝馬通 https://pokelocal.jp/article.php?article=1613