岸和田城改修(1597)
1597年、秀吉の叔父婿・小出秀政が岸和田城を近世城郭へ改修。大坂南方防衛と紀州への備えが目的で、五層天守で政権の威信を示した。関ヶ原・大坂の陣で役割を担った。
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慶長二年 岸和田城改修の真相:豊臣政権末期における戦略的要衝の近世城郭化
序章:戦国終焉の刻、和泉国岸和田の戦略的価値
慶長二年(1597年)、和泉国岸和田において、壮麗な五層天守を戴く近世城郭がその威容を現した。この大規模な改修は、単なる一地方城郭の改築に留まらず、天下統一を成し遂げた豊臣政権の末期における、緻密な軍事戦略と政治的意図が交錯する、時代の転換点を象徴する事変であった。本報告書は、この「岸和田城改修」を、リアルタイムの時系列に沿って多角的に分析し、その歴史的真相に迫るものである。
天正期以前の岸和田城:中世城郭としての性格と変遷
岸和田城の起源については、古くは建武年間(1334-38年)に楠木正成の一族である和田高家によって築かれたとの伝説が広く知られている 1 。しかし、これは江戸時代に高まった楠木氏への崇敬の念から生まれた創作である可能性が指摘されており、一次史料の上で岸和田に城の存在が確認できるのは、永禄元年(1558年)に三好氏が入城したことを記す書状まで下る 3 。平成の発掘調査では、岸和田古城の築城は15世紀後半と推定されており、中世の岸和田は、和泉国の支配権を巡って細川氏、三好氏、そして在地勢力の松浦氏らが激しく争奪を繰り広げる舞台であった 3 。
この城の戦略的重要性が初めて飛躍的に高まったのは、三好長慶の時代である。長慶の実弟・三好実休らは、畿内と四国を結ぶ海上交通の結節点として岸和田を重視し、大規模な改修を行った 3 。この時点で、岸和田城は単なる和泉の一拠点から、広域的な戦略性を帯びた城郭へと変貌を遂げ始めていた。
豊臣秀吉の紀州征伐と和泉国平定:岸和田城が最前線基地となるまで
天正十一年(1583年)、羽柴秀吉は家臣の中村一氏を岸和田城に入城させ、当時、織田・豊臣政権にとって最大の脅威の一つであった紀州の根来寺・雑賀衆勢力と対峙させた 2 。岸和田城は、大坂の南方を脅かすこの強大な武装集団に対する最前線の軍事基地となったのである 7 。
天正十三年(1585年)、秀吉は十万と号する大軍を率いて紀州征伐を断行。岸和田城はその出撃拠点として完璧に機能し、秀吉は根来寺を焼き討ちにするなど、紀州勢力を壊滅させた 2 。征伐後、和泉国は秀吉の弟・羽柴秀長の所領となり、秀長の死後は豊臣家の直轄領として再編された 6 。これにより、岸和田城の役割は、一時的な前線基地から、大坂を防衛し、紀州の再蜂起を恒久的に抑え込むための戦略的要衝へと完全に変化した。岸和田城の価値は、大坂に近いという静的な地理的要因のみならず、紀州勢力という「動的な脅威」の存在によって決定づけられた。1597年の大改修は、この脅威に永久に蓋をし、豊臣政権の足元を盤石にするという、紀州征伐の総仕上げとも言うべき戦略的必然性を持っていたのである。
本報告書が解き明かす「1597年改修」の歴史的意義
本報告書は、この岸和田城改修を、単なる建築史的事実としてではなく、豊臣政権末期の政治・軍事状況、城主・小出秀政個人の立場、そして当代最高の築城技術が交差する一点として捉え、その重層的な意味を解き明かすことを目的とする。
第一章:城主・小出秀政 ― 豊臣一門としての立場と役割
慶長二年の大改修を主導した人物は、小出播磨守秀政である。彼がなぜこの国家的な大事業を担うことになったのかを理解するには、豊臣政権内における彼の特異な立場を解明する必要がある。
秀吉の叔父婿という特異な立場:小出秀政の出自と経歴
小出秀政は天文九年(1540年)、豊臣秀吉と同じ尾張国中村の生まれである 11 。彼の経歴で最も重要な点は、その正室・栄松院(俗名「とら」)が、秀吉の生母である大政所の妹であったことである 11 。これにより秀政は、秀吉から見れば年下の叔父(叔母婿)という、血縁ではないものの極めて近しい姻戚関係者となった 14 。
譜代の家臣団を持たなかった秀吉は、天下統一の過程で、弟の秀長をはじめ、加藤清正や福島正則といった親族や同郷者を積極的に登用し、権力基盤を固めた 10 。秀政もその一人であり、秀吉の立身出世に伴ってその家臣となり、蔵奉行などの側近として信頼を積み重ねていった 11 。秀政の起用は、まさに豊臣政権の構造的特徴を象徴する人事であり、大坂の南の守りという最重要拠点に、最も信頼できる姻戚を配置するという秀吉の統治戦略の現れであった。
岸和田城主拝命と三万石への加増
秀政が岸和田城を与えられたのは、紀州征伐直後の天正十三年(1585年)7月のことである 14 。当初の所領は四千石とされ、大名というよりは城代に近い立場であった可能性が指摘されている 14 。しかし、その戦略的重要性から彼の立場は急速に強化される。天正十五年(1587年)には一万石に加増されて大名となり、文禄四年(1595年)には三万石へと加増された 6 。
この石高の増加、特に三万石への加増は、岸和田城の大規模改修計画と密接に連動していたと考えられる。当時、三万石クラスの大名が五層もの壮大な天守を建設することは異例であり、その背景には秀政個人の財力を超えた、豊臣政権による直接的・間接的な支援があったと見るのが妥当である 15 。この城は、秀政個人の居城であると同時に、豊臣一門の重鎮が守る、政権の威信をかけた「国家事業」としての性格を帯びていた。この事実は、城の規模が石高に対して不相応に大きいという謎を解く鍵となる。
秀頼の輔佐役としての晩年
秀政に対する秀吉の信頼は終生変わることがなかった。慶長三年(1598年)に秀吉が死の床に就くと、その遺産分配において秀政は一門衆筆頭の木下家定と同等の金子三十枚を受領し、若き後継者・豊臣秀頼の輔佐役の一人に任命されている 10 。これは、秀政が単なる一城主ではなく、豊臣政権の屋台骨を支える最重要人物の一人と見なされていたことの何よりの証左である。
第二章:天下普請の時代 ― 岸和田城改修のリアルタイム・クロノロジー(天正十五年~慶長二年)
岸和田城の近世城郭化は、一朝一夕になされたものではない。ここでは、現存する史料や発掘調査の成果を基に、改修工事のプロセスを可能な限り時系列に沿って再構築し、慶長二年の完成に至るまでの「リアルタイムな状態」を再現する。
【天正十五年(1587年)頃】 大改修の始動 ― 近世城郭への設計思想
秀政が一万石の大名として正式に城主となったこの年、岸和田城の大改修計画が始動した 16 。この計画の核心は、旧来の土塁と空堀を主とした中世城郭を、高石垣と広壮な水堀、そして権威の象徴である天守を中核とする「近世城郭」へと全面的に刷新することにあった。これは、織田信長の安土城築城に端を発する、当時の最新の築城思想の潮流に沿うものであった。この時期は、秀吉が九州を平定し、その権勢がまさに絶頂期にあった頃であり、長期的な国土経営の一環として、大坂の恒久的な防衛拠点整備が構想されたと考えられる。
【文禄四年(1595年)頃】 普請の本格化 ― 権力と技術の集中投下
秀政が三万石に加増されたこの年を境に、改修事業は本格的な実行段階へと移行した 6 。岸和田城跡の発掘調査では、この時期に城郭の基盤を形成する大規模な整地が行われたことが考古学的に確認されており、計画が図面上のものから現実の普請へと移ったことを裏付けている 18 。
しかし、この時期の豊臣政権は盤石ではなかった。同年、関白・豊臣秀次が謀反の疑いで切腹させられるという政権を揺るがす大事件が発生。豊臣家の内紛が露呈し、秀吉の老いも相まって、政権の将来に暗雲が垂れ込め始めていた。このような政治的混乱の中にあっても岸和田城の普請が滞りなく、むしろ急ピッチで進められたことは、この事業が秀吉個人にとって極めて高い優先度を持っていたことを示唆している。それは、政権の安定期における長期計画から、来るべき混乱に備えるための防衛体制の強化という、より切迫した動機へとシフトした結果であったかもしれない。
【慶長元年(1596年)】 激動の中の築城 ― 天災と天下普請
この年、慶長伏見地震が発生し、畿内一円に甚大な被害をもたらした。秀吉の居城であった伏見城も倒壊し、その再建が国家的な急務となった。岸和田城の工事への直接的な影響を示す史料はないが、伏見城の再建と並行して、岸和田城の普請もまた進められていた。
豊臣政権は、大坂城や伏見城の築城において、諸大名に労働力や資材を提供させる「天下普請」のシステムを確立していた。岸和田城改修は公式な天下普請ではなかった可能性が高いが、普請奉行や作事奉行といった政権の専門官僚のノウハウや、穴太衆に代表されるような高度な技術者集団の動員において、豊臣政権の全面的なバックアップがあったことは想像に難くない 19 。
【慶長二年(1597年)】 五層天守の竣工 ― 戦乱前夜の威容
着工から約十年、ついに五層の天守が完成し、城下町までを囲い込む総曲輪を備えた近世城郭としての岸和田城が誕生した 1 。当時の岸和田周辺では、和泉山脈から切り出された石材を運ぶ荷車、堀を掘削する人足、石垣を組み上げる石工、木材を加工する大工など、数千、数万規模の人々が動員されていたであろう。その槌音や掛け声は、一見すれば天下泰平の世を象徴する光景であるが、その内実は、間近に迫る新たな戦乱の足音でもあった。
皮肉なことに、岸和田城が完成したこの慶長二年、秀吉は再び朝鮮への出兵(慶長の役)を命じている 22 。西国大名の多くが朝鮮半島へ渡り、国内の緊張が高まる中、畿内の守りの要として岸和田城が完成したことの政治的・軍事的意味は極めて大きい。それは、秀吉亡き後の混乱を見据えた最終準備であると同時に、徳川家康をはじめとする国内の潜在的な不穏分子に対する無言の圧力であり、豊臣政権の権威がいまだ健在であることを天下に誇示する、壮大なプロパガンダであった。
第三章:近世城郭としての新生 ― 1597年時点の岸和田城の建築技術的分析
慶長二年に完成した岸和田城は、当時の最先端技術の粋を集めた城郭であった。その革新性は、城全体の設計思想である「縄張り」、防御力と威容を兼ね備えた「高石垣」、そして権威の象徴である「五層天守」の三つの側面に明確に見て取ることができる。以下の表は、1597年の改修がいかに画期的なものであったかを示している。
表1:岸和田城の時代別構造比較
項目 |
中世城郭期(三好・松浦氏時代) |
近世城郭完成期(1597年・小出秀政) |
江戸中期(正保城絵図・岡部氏) |
縄張り |
主郭(現二の丸付近か)を中心とした連郭式か |
本丸・二の丸を中核とする輪郭式。総曲輪の採用。 |
1597年の構造を継承しつつ、城下町を拡張。 |
天守 |
なし、あるいは簡素な櫓程度 |
複合式望楼型・五重五階(推定) |
松平康重による改修(層塔型か)。1827年に焼失。 |
石垣 |
一部で石積みが見られる程度か |
打込みハギによる高石垣。算木積み採用。 |
随時修復。一部に「江戸切り」が見られる。 |
堀 |
空堀・小規模な水堀 |
幅広な多重の水堀 |
岡部氏による外堀の拡張。 |
防御思想 |
局地的な防衛拠点 |
城・城下一体の総合的防衛拠点。権威の象徴。 |
紀州藩の監視役。幕藩体制下の地方拠点。 |
城郭全体の縄張り:総曲輪による防御思想の革新
1597年の改修における最大の思想的革新は、城と城下町を一体的に防衛する「総曲輪(惣構)」の採用にある 1 。これは、本丸や二の丸といった城の中枢部だけでなく、武士や町人が住むエリアまでを堀と土塁で囲い込む設計であり、大坂城など豊臣系城郭に共通する先進的な特徴であった。兵農分離が進み、城下に集住させた領民ごと籠城戦を戦い抜くという、新しい時代の戦争形態に対応したものであった。
また、本丸と二の丸を重ねた形が機織りの道具「ちきり」に似ていることから「ちきり城」という別称が生まれたとされる 23 。二の丸は本丸へ至る唯一の経路に配置された独立性の高い曲輪であり、敵を迎え撃つための前線基地、すなわち「馬出」としての強力な機能を持っていたと推測される 5 。
「高石垣」の技術:権力と自然の融合
岸和田城の石垣には、地元和泉山脈で産出される「和泉砂岩」が多用されている 24 。これは輸送コストを抑える合理的な選択であったが、和泉砂岩は風化しやすく脆いという弱点を持っていた 3 。この「ローカル」な材料の弱点を克服するために、当時の「グローバル」、すなわち天下標準の最新技術が投入された。
具体的には、石材の接合部をある程度加工して隙間を減らし、強度を高める「打込みハギ」という技法が採用された 1 。また、崩れやすい石垣の隅角部には、長方形に加工した石を交互に積み上げる「算木積み」という技法が用いられ、垂直に近い高石垣の構築を可能にした 24 。これらの大規模な石垣普請には、豊臣政権下で活躍した石工集団「穴太衆」の技術が導入された蓋然性が極めて高い 20 。
さらに、岸和田城には他の城ではほとんど見られない「犬走り石垣」という特異な構造が存在する 3 。これは本丸石垣の下部にもう一段設けられた腰巻のような石垣で、軍事的には敵に足場を与える不利な構造である。しかし、これは脆い和泉砂岩で組まれた高石垣の基礎を補強するために、現地の地質や材料特性に対応して生み出された、独自の工夫であったと考えられる。これは、当時の築城技術が画一的ではなく、地域の特性に応じて柔軟に適用されていたことを示す好例と言える。
権威の象徴、五層天守:史料からの復元
1597年に完成した天守は、五重五階の壮大なものであったことが複数の史料から確認できる 16 。江戸時代初期に描かれた『正保城絵図』などの絵図史料を分析すると、その姿は、下見板を張った黒い壁面を持ち、複数の千鳥破風で飾られた、典型的な織豊期の「望楼型」天守であったと推定される 3 。その高さは石垣上から約32.4メートルに達したと記録されており 23 、紀州街道を見下ろし、大阪湾を航行する船上からもその威容を望むことができたであろう。この天守は、遠方を監視する司令塔という軍事的機能と同時に、豊臣政権の権威を視覚的に天下に示すという、極めて重要な政治的役割を担っていた。
第四章:完成直後の激震 ― 豊臣政権崩壊と岸和田城の役割(慶長三年~慶長二十年)
最新技術の粋を集めて築かれた岸和田城は、その完成直後から歴史の激動に飲み込まれていく。豊臣秀吉が築かせた「豊臣を守るための城」は、皮肉にもその後の時代の権力闘争の中で、築城者の意図を超えた役割を演じることとなる。
秀吉の死と関ヶ原前夜:大坂城の南の盾
慶長三年(1598年)8月、豊臣秀吉が死去。幼い秀頼を頂点とする豊臣政権は、五大老・五奉行による集団指導体制へ移行するが、その実権は筆頭大老の徳川家康へと急速に傾斜していく 31 。この緊迫した情勢下で、大坂城の南の玄関口に位置する岸和田城の戦略的価値は、築城時以上に高まった。城主の小出秀政は秀頼の輔佐役として大坂城に詰めることが多く、岸和田城は事実上、豊臣政権の直轄防衛拠点として、来るべき決戦に備えることとなった 11 。
関ヶ原の戦いと小出家の選択:分割による家の存続
慶長五年(1600年)、関ヶ原の戦いが勃発。豊臣家への恩義から、城主・秀政と嫡男・吉政は石田三成方の西軍に与し、秀政は大坂城の留守居役を、吉政は細川幽斎が籠る丹後田辺城攻めに加わった 12 。
一方で、秀政の次男・秀家は徳川家康方の東軍に所属していた 13 。これは、どちらが勝利しても家名を存続させるための、戦国武家ならではの巧みな生存戦略であった。そして、この選択が小出家と岸和田城の運命を決定づける。
関ヶ原での西軍壊滅の報を受け、西軍に属していた長宗我部盛親の軍勢が、海路で本国・土佐へ撤退する途上、和泉国石津浦(現在の堺市西区)に上陸した。この時、東軍として関ヶ原から帰還していた小出秀家が、父の居城である岸和田城の兵を率いてこれを迎撃し、撃退したのである(「石津浦の戦い」) 35 。この戦功が高く評価され、徳川家康は西軍に付いた秀政・吉政父子の罪を問わず、所領を安堵した 33 。1597年の大規模改修は、そのわずか3年後、早くもその真価を発揮した。もし岸和田城が旧態依然とした中世城郭のままであったなら、秀家が寡兵で長宗我部軍を撃退することは困難であり、小出家は改易の憂き目に遭っていた可能性が高い。改修は、まさに小出家の存亡を救う、極めて有効な「投資」だったのである。
大坂の陣における最前線基地:徳川方としての試練
豊臣家と徳川家の最終決戦となった大坂の陣において、岸和田城は徳川方の最前線基地として重要な役割を果たした 37 。慶長二十年(1615年)の大坂夏の陣では、豊臣方の大将・大野治房が紀州の徳川方・浅野長晟を討つべく大軍を率いて南下。その進路上に位置する岸和田城を攻撃した 39 。
この時、城を守っていたのは秀政の孫にあたる小出吉英であった。吉英は、祖父が築いた堅城に籠り、豊臣方の大軍の猛攻を凌ぎきった 39 。岸和田城の防衛成功は、大野軍の紀州進出を阻み、豊臣方が紀州勢と連携するのを阻止する上で決定的な意味を持った。かつて豊臣政権の威信をかけて築かれた城は、最終的に豊臣家を滅亡へと追い込む徳川方の拠点として、その防御能力を遺憾なく発揮したのである。この歴史の皮肉は、城という存在が、築城者の意図を超えて、時代の権力構造の変化に翻弄されていく様を冷徹に物語っている。
終章:歴史的遺産としての岸和田城改修
慶長二年(1597年)の岸和田城改修は、日本の城郭史、ひいては戦国時代から近世へと移行する時代の画期を象徴する出来事であった。その歴史的意義は、単に一つの城が新しくなったという事実を遥かに超えている。
1597年改修が後世に与えた影響の総括
小出秀政によって確立された近世城郭としての岸和田城の基本構造と縄張りは、その後の城主である松平氏、そして寛永十七年(1640年)に入城し、以後明治維新まで二百三十年にわたり岸和田を治めた岡部氏の時代まで、ほぼそのまま受け継がれた 1 。岡部氏は、城下町の拡張や堀の整備を行い、岸和田を大坂南部の政治・経済の中心地として発展させたが、その礎は1597年の改修によって築かれたものであった 1 。総曲輪の構築によって形成された城と城下町が一体となった都市構造の骨格は、今日の岸和田市の景観にもその面影を色濃く残している。この改修は、岸和田という地を、和泉の一地方都市から、南大阪の拠点都市へと飛躍させる決定的な契機となったのである。
戦国時代の終焉と近世の黎明を体現する城郭としての評価
1597年の岸和田城は、戦国乱世を通じて培われた軍事技術と築城思想の一つの集大成であった。城下町ごと守る総曲輪、大筒の破壊力に耐えうる高石垣、そして死角のない縄張りは、戦いの現実から生まれた実践的な知恵の結晶である。
同時に、この城は、絶対的な権力者がその威光を天下に示すための「見せる城」という、近世城郭の性格を色濃く帯びていた。大阪湾と紀州街道を見下ろす五層の天守は、軍事施設である以上に、豊臣政権の権威を可視化する政治的なモニュメントであった。
その完成から、豊臣政権が滅亡するまで、わずか十八年。岸和田城は、その短い期間に凝縮された豊臣家の栄華と末期の焦燥、そして徳川の世という新しい時代の胎動を、その石垣と堀の内に刻み込んでいる。慶長二年(1597年)の改修は、戦国という一つの時代が終わりを告げ、近世という新たな時代が幕を開ける、まさにその転換点を象徴する歴史的遺産であると結論付けられる。
引用文献
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