島原城築城(1604)
島原城は1618年、松倉重政が築城。一国一城令下の異例で、幕府の九州支配戦略と重政の野心が合致。過酷な労役と重税が領民の不満を募らせ、島原の乱の遠因となった。
「Perplexity」で事変の概要や画像を参照
肥前島原城築城始末 ― 栄華と悲劇の礎、その全貌
序章:島原城築城の真実 ― 年代の訂正と歴史的意義
島原城の築城は、日本の近世史において特異な光を放つ事象である。提示された「1604年」という年代は、この城が持つ複雑な歴史的背景を捉える上で、まず訂正を要する点である。信頼性の高い複数の史料が示す通り、島原城の築城が開始されたのは元和四年(1618年)、そしてその主要部分が完成したのは寛永元年(1624年)頃とされる 1 。この約7年間にわたる事業は、単なる城郭建築に留まらず、新たな時代の秩序形成、個人の野心、そして民衆の受難が交錯する一大叙事詩であった。
この年代の正確な特定は極めて重要である。なぜなら、島原城は元和元年(1615年)に徳川幕府によって発布された「一国一城令」の後に、例外的に新規築城が許可された数少ない城の一つだからである 1 。この事実は、島原城が単に一地方大名の居城としてではなく、幕府の九州、ひいては西国支配における戦略的意図を色濃く反映した国家的なプロジェクトであったことを物語っている。
本報告書では、「戦国時代という視点」を、単なる安土桃山時代までという時代区分としてではなく、実力主義、権力誇示、そして下剋上といった気風が残る「思想的風潮」として捉え直す。島原城は江戸時代初期の産物でありながら、その破格の規模、戦闘を第一に据えた構造、そして築城主・松倉豊後守重政の行動原理には、戦国の遺風が色濃く見て取れる。彼の野心は、安定した統治者としてのそれよりも、戦国の世を駆け上がった武将の功名心に近いものであった。
したがって、本報告書は島原城築城を、単なる建築事業の記録としてではなく、その前史であるキリシタン大名・有馬氏の治世から説き起こし、新領主・松倉重政の入封、壮大な城郭計画の背景、過酷を極めた築城の実態、そしてそれが必然的に導いた島原の乱という悲劇までを、時系列に沿って詳細に解き明かすことを目的とする。石垣の一つ一つに刻まれた民衆の呻きと、天守が見据えた栄華の夢、その光と影の全貌をここに記す。
第一章:前史 ― キリシタン大名・有馬氏の栄光と凋落
松倉重政が島原の地に足を踏み入れる以前、この半島は長きにわたり有馬氏の支配下にあり、独自の文化と歴史を育んでいた。島原城の誕生を理解するためには、まずこの土地が有していた記憶、すなわち有馬氏の栄光と、その劇的な終焉を紐解かねばならない。
島原半島の旧支配者とキリシタン文化
鎌倉時代以来、島原半島を本拠としてきた有馬氏は、戦国時代に入るとキリスト教と深く結びつくことで、その勢力を拡大させた。特に有馬晴信の時代、領内ではキリスト教が隆盛を極め、島原はイエズス会のアジアにおける重要な拠点の一つとなった 5 。この時期、半島は南蛮貿易の恩恵を大いに受け、経済的にも文化的にも繁栄の絶頂期を迎えていた 6 。セミナリヨ(小神学校)やコレジヨ(大神学校)が設立され、天正遣欧少年使節の一員である千々石ミゲルも有馬氏の縁者であったことは、この地の国際性を象徴している。
有馬氏の拠点城郭:日野江城と原城
このキリシタン王国の中心にあったのが、有馬氏の居城・日野江城であった 1 。半島南部に位置するこの城は、中世から戦国期にかけての山城であり、領国支配と南蛮貿易の拠点として機能していた。また、その支城として、日野江城の北方に築かれたのが原城である 6 。三方を海に囲まれたこの平山城は、天然の要害であり、有馬氏の軍事力を支える重要な砦であった 1 。これら二つの城は、来るべき江戸時代の平城とは異なり、戦国乱世の気風を色濃く残す城郭であった。
運命の転換点「岡本大八事件」
有馬晴信の栄光は、しかし、一つの事件によって脆くも崩れ去る。慶長17年(1612年)に発覚した「岡本大八事件」である。旧領回復を切望していた晴信は、徳川家康の側近・本多正純の家臣であった岡本大八の甘言に乗り、多額の賄賂を渡して幕府への周旋を依頼した 7 。しかし、これが詐欺であったことが露見し、事態は晴信が長崎奉行の暗殺を計画したという嫌疑にまで発展する 7 。結果、晴信は甲斐国へ流罪となり、死を賜った。キリシタンであった彼は自害を拒み、家臣に首を打たせたという 8 。
この事件は、単に一キリシタン大名の失脚に留まるものではなかった。それは、成立間もない徳川幕府が、九州、特に海外との窓口である長崎に近く、キリスト教の影響が根強いこの地域に対し、支配体制を根底から再構築しようとする強い意志の表れであった。有馬氏という土地に深く根差した「記憶」と「権力基盤」を一度完全にリセットする必要があったのである。
晴信の嫡男・直純は、家康の養女を娶っていたことや、父と袂を分かちキリスト教を棄教していたことから連座を免れ、一度は旧領を安堵された 9 。しかし、幕府の狙いは旧来のキリシタン勢力基盤の根絶にあった。慶長19年(1614年)、直純は日向国延岡へと転封を命じられる 7 。これにより、島原半島には権力の空白が生まれ、幕府にとって絶対的に信頼でき、かつ九州の有力外様大名への楔となりうる新たな支配者を配置する舞台が整った。その白羽の矢が立ったのが、大坂の陣で武功を挙げた松倉重政だったのである 1 。松倉氏の入封は、彼の個人的な功績のみならず、幕府の九州支配戦略という、より大きな文脈の中で決定された必然的な人事であった。
第二章:新領主の着任 ― 松倉重政、島原に入る
有馬氏が去った島原半島に、新たな領主として着任した松倉重政。彼の人物像は、後の島原での苛政から「暴君」として語られることが多い。しかし、その前半生、特に島原へ入る以前の彼の姿は、それとは全く異なる評価を受けていた。
松倉重政という人物
松倉重政は、天正2年(1574年)頃、大和国の武将・松倉重信の子として生まれた 12 。はじめは筒井順慶に仕えたが、筒井氏の改易などを経て、最終的には徳川家康にその才を見出される 12 。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与して功を挙げ、大和国五條に一万石余の所領を与えられ、大名へと列した 14 。
大和五條での「名君」
島原での悪評とは裏腹に、大和五條藩主時代の重政は「名君」として領民から慕われていた。彼は城下町を新たに整備し、商人を呼び込むために税を免除する「諸役免許」の政策を打ち出すなど、商業の振興に力を注いだ 12 。この時に築かれた町並みが、現在の五條新町の基礎となっている。五條の人々にとって、重政は町の発展の礎を築いた恩人であり、その評価は島原でのそれと劇的な対比をなしている 17 。
元和二年(1616年)の入封
重政の運命が大きく転回するのは、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣である。この戦いで彼は道明寺の戦いなどで武功を挙げ、その功績が幕府に高く評価された 12 。翌元和2年(1616年)、有馬氏転封後の肥前日野江四万三千石の領主として、島原半島への入封を命じられたのである 1 。当初、重政は有馬氏の旧居城であった日野江城に入り、藩政を開始した 18 。
新城建設への動機
しかし、重政は早々に日野江城と原城を見限り、新たな城の建設を決意する。その理由は多岐にわたる。
第一に、日野江城は戦国時代の山城であり、政治の中心として機能するには不便であったこと 1。
第二に、日野江城も原城も半島南部に偏っており、領国全体を統治する拠点としては地理的に不適格であったこと 1。
第三に、そしてこれが最も重要であるが、旧領主・有馬氏の威光と記憶が色濃く残る地を避け、自らの支配を象徴する全く新しい拠点を築くことで、領民に新時代の到来を明確に示す必要があったことである 1。
五條での善政と島原での苛政は、一見すると同一人物の行動とは思えないほどの矛盾をはらんでいる。しかし、彼の行動原理を「幕府中央への強い出世欲と功名心」という一貫した視点から捉え直すと、その統治スタイルの変化は、彼が置かれた政治的環境への適応の結果として理解できる。五條では、一万石の小大名として領内の経済基盤を固め、町を豊かにすることこそが、領主としての評価を高める最善の道であった 15 。一方、島原では四万石余の大名となり、九州という幕府の重要戦略拠点に配置されたことで、彼の野心のベクトルは内向きから外向きへ、すなわち「幕府への過剰なアピール」へと劇的に転換したのである 21 。彼にとって、島原での統治は、さらなる加増と栄達を得るための手段であった。新城の建設は、その野心を実現するための、最初の、そして最大の一歩だったのである。
第三章:壮大なる設計 ― 幕府の意図と重政の野心
松倉重政が構想した新城は、単なる居城の移転ではなかった。それは、徳川の世における新たな秩序を九州の地に刻み込む、壮大な国家プロジェクトとしての側面を持っていた。その設計には、重政個人の野心と、徳川幕府の冷徹な戦略的意図が複雑に絡み合っていた。
「一国一城令」下の異例
元和元年(1615年)、幕府は全国の大名に対し、居城以外の城を破却するよう命じる「一国一城令」を発布した。これは、大名たちの軍事力を削ぎ、幕府への反乱の芽を摘むための決定的な政策であった。しかし、そのわずか3年後の元和4年(1618年)、重政は全く新しい城の築城許可を幕府から得ている 1 。これは極めて異例の措置であり、幕末の海防目的の築城を除けば、この時期に新規築城が許されたのは島原城を含め、全国でわずか三城のみであったとされる 1 。この事実こそ、島原城が幕府にとって特別な意味を持つ城であったことの何よりの証左である。
幕府の狙い:九州支配の楔
幕府がこの異例の築城を認可した背景には、明確な戦略があった。第一に、有馬氏の旧領であり、キリシタンの温床と見なされていた島原半島を、幕府の権威の下で完全に制圧する必要があった 4 。第二に、有明海を挟んで対峙する佐賀の鍋島藩や、南の薩摩の島津藩といった、潜在的な脅威となりうる有力外様大名を牽制するための強力な軍事拠点を求めていた 1 。島原城は、いわば徳川の権威を九州に示すための「見せる城」であり、その威容は周辺大名への無言の圧力となることが期待されていたのである。
築城地の選定
重政が新城の地として選んだのは、島原湊に近い「森岳」と呼ばれる丘陵地であった 2 。この地は、かつて天正12年(1584年)の沖田緡の戦いで、有馬氏が龍造寺氏を破った縁起の良い場所とされていた 1 。しかし、それ以上に、有明海の海上交通を扼する要衝であり、領国全体を見渡せる戦略的・政治的中心地として、まさに理想的な立地であった 20 。
破格の城郭計画
重政が計画し、幕府が認可した城郭の規模は、彼の禄高である四万三千石には到底見合わない、破格のものであった。五層の壮大な天守閣を中核に、三基の三層櫓、そして多数の二層櫓や平櫓を要所に配置した、壮麗かつ堅固な城塞 2 。その規模は「十万石級」とも評され、重政の過剰なまでの功名心と、幕府の期待に何としてでも応えようとする忠誠心の現れであった 12 。
戦国時代の城が、領主が自らの領地を守るための「自律的拠点」であったのに対し、島原城のような江戸時代初期の城は、幕府の統治体制を地方に浸透させるための「出先機関」としての性格を帯びていた。重政がこれほど巨大な城を築けたのは、彼の野心だけではなく、幕府の「暗黙の了解」と戦略的後押しがあったからに他ならない。幕府は、重政の過剰な忠誠心を、九州の有力大名への牽制として巧みに利用したのである。島原城は、重政個人の野心と幕府の戦略的意図が合致した「合作」であり、その設計思想は、戦国的な「個の武威」の誇示と、江戸時代的な「中央の権威」の代行という、二つの側面を併せ持っていた。
第四章:巨城、大地に立つ ― 築城のリアルタイム・クロニクル(元和四年~寛永元年)
元和四年(1618年)、島原の森岳の地で、歴史に残る大普請の槌音が響き渡った。以来、寛永元年(1624年)頃までの約7年間、この地は巨大な城郭を築き上げるための巨大な建設現場と化した。そのプロセスは、近世城郭技術の粋を集めると同時に、領民の想像を絶する労苦の上に成り立っていた。
元和四年(1618年) - 普請始め
築城は、まず地形そのものを造り変える大規模な土木工事から始まった。森岳と呼ばれた丘陵を切り崩し、平地を造成し、深く広大な堀を掘り進める作業である 22 。この普請のために、領内全域から農民が人足として強制的に徴用された。彼らは自らの田畑を耕す時間さえ奪われ、来る日も来る日も土を運び、石を積む過酷な労働に従事させられた 18 。
城の基本設計である縄張は、本丸、二の丸、三の丸を南から北へ一直線に配置する「連郭式」が採用された 3 。これは、防御機能と藩庁としての政務機能の効率性を両立させる、近世城郭の典型的なスタイルである。城郭全体は、東西約360メートル、南北約1260メートルにも及ぶ長大な外郭(惣構え)によって囲まれ、計画的な城下町建設の基盤となった 1 。
築城中期 - 石垣普請の壮絶
島原城の威容を最も象徴するのが、高く、そして複雑に構築された石垣である。特に本丸南面に見られる、塁線が幾重にも屈曲する「屏風折り」と呼ばれる構造は、島原城の防御思想を如実に物語っている 3 。この複雑な形状は、石垣に取り付こうとする敵に対し、あらゆる角度から十字砲火を浴びせることを可能にするための工夫であり、築城主・重政の戦に対する徹底したこだわりがうかがえる。
この巨大な石垣を築くためには、膨大な量の石材が必要であった。その石材を確保するため、重政は一国一城令によって廃城となった有馬氏の旧居城・日野江城や堅城・原城を解体し、その石垣を転用したと伝えられている 11 。この行為は、単なる資材の再利用に留まらない。それは、旧体制の物理的な破壊であり、その残骸の上に松倉氏による新体制を築き上げるという、極めて象徴的な意味を持っていた。領民たちは、かつての主の城の石を、新たな主の城のために、血の滲むような思いで運んだのである。
築城後期 - 天守、聳え立つ
寛永元年(1624年)頃、約7年にわたる大工事の末、城の主要な建築物がその威容を現した。
- 天守閣 : 本丸の北西隅に聳え立ったのは、白亜五層(構造上は四重五階とも)の壮大な天守閣であった 2 。華美な破風などの装飾を排した「層塔型」と呼ばれる実戦的なデザインは、この城が単なる権威の象徴ではなく、あくまで戦闘拠点として構想されたことを示している 24 。
- 櫓群 : 本丸には天守を補佐するように、丑寅(北東)、巽(南東)、西の三方に三層櫓が聳え立ち、鉄壁の防御網を形成した 1 。城全体では、二層櫓7基、平櫓39基(異説あり)が配置され、惣構えの各所にも櫓台が設けられていた 20 。まさに、城全体が巨大な要塞であった。
- 門と堀 : 城の中枢である本丸と二の丸は、幅の広い水堀によって完全に隔絶されていた 3 。両者を結ぶのは、有事の際に即座に破壊可能な「廊下橋」一本のみであり、籠城戦を想定した徹底的な防御思想が見て取れる 2 。
城下町の形成
築城と並行して、城の周囲には計画的な城下町が整備された。城の東側には町人地が、西側には武家屋敷が配置され、島原は名実ともに島原半島の新たな政治・経済・文化の中心地として生まれ変わったのである 1 。
この島原城がいかに破格の規模であったかは、同程度の石高を持つ他の大名の居城と比較することで一層明らかになる。
表:島原城の破格の規模:同格大名居城との比較
大名家 |
藩 |
石高 |
居城 |
天守の規模 |
櫓の数(推定) |
特徴 |
松倉氏 |
肥前島原藩 |
4万3千石 |
島原城 |
層塔型5重5階 |
約40-60基 |
総構え、屏風折りの高石垣 |
(比較対象例1) |
三河刈谷藩 |
約3万石 |
刈谷城 |
御三階櫓 |
10基程度 |
平城 |
(比較対象例2) |
伊勢神戸藩 |
約5万石 |
神戸城 |
天守なし/御殿 |
数基 |
平城 |
この表が示すように、島原城の規模は四万石クラスの大名の城としては明らかに突出している。「分不相応」という言葉は、決して誇張ではない。この異常なまでの投資こそが、次章で詳述する、領民を地獄へと突き落とした苛政の直接的な原因となったのである。
第五章:城の礎、民の涙 ― 苛政の実態
壮麗な島原城の石垣の一石一石、天守を飾る瓦の一枚一枚は、領民の血と汗、そして涙によって贖われたものであった。松倉重政は、分不相応な築城費用と、幕府への忠誠を示すための過剰な公役の費用を捻出するため、領民に対して人間性の限界を超えるほどの搾取を行った。
財源捻出のカラクリ
重政が藩の財政を成り立たせるために用いた手法は、極めて悪質なものであった。
- 過酷な検地 : 彼は島原藩の石高を実態調査する検地を行い、その結果を不正に操作した。実際の生産力は四万石程度であったにもかかわらず、幕府にはその倍以上である 十万石格 として届け出たのである 12 。これは、藩の格式を高め、より多くの軍役を負担することで幕府への忠誠心を示そうという重政の功名心から出たものであったが、そのしわ寄せは全て領民にのしかかった。年貢の基準額が、現実の収穫量を遥かに超える水準に設定されたからである。
- 地獄の税制 : この不正な石高を基準とした年貢率は、収穫の9割を藩に納める「九公一民」であったと伝えられるほど過酷を極めた 30 。農民の手元には、翌年の種籾すら残らないほどの搾取であった。さらに、年貢米だけでなく、あらゆるものに税が課せられた。人頭税である「口米」、家屋の間口や窓の数、さらには墓穴を掘ることまで課税対象になったという逸話が残るほど、その収奪は徹底していた 30 。これらの奇抜な税の存在については、後世の創作が含まれる可能性も否定できないが、それほどまでに松倉氏の税制が異常であったことを物語っている。
抵抗者への弾圧とキリシタン弾圧の激化
このような苛政に対し、年貢を納められない農民が続出するのは当然であった。しかし、重政は彼らに対して一切の情けをかけず、むしろ見せしめとして残忍な拷問と処刑を行った。
- 残忍な拷問 : 年貢未納者に対しては、様々な拷問が行われた。中でも悪名高いのが、農民に藁でできた蓑を着せて火を放ち、苦しみもがく様を「 蓑踊り 」と称して見物したというものである 18 。また、水牢に閉じ込める水責めなども行われ、領民は恐怖によって支配された 18 。
- キリシタン弾圧の激化 : 当初、重政は南蛮貿易の利益を考慮し、領内のキリシタンを黙認していた 6 。しかし、寛永2年(1625年)、江戸城で三代将軍・徳川家光に拝謁した際、キリシタン対策の甘さを厳しく叱責されると、その態度は一変する 5 。幕府への忠誠を証明する絶好の機会と捉えた重政は、徹底的なキリシタン弾圧に乗り出した。信者の顔に「吉利支丹」の焼印を押したり、指を切り落としたりといった拷問に加え、寛永4年(1627年)には、雲仙地獄の熱湯を利用した残忍な処刑を開始した 18 。
重政のキリシタン弾圧は、単なる宗教政策ではなかった。それは、分不相応な築城と公役によって破綻した藩財政を立て直すための経済政策でもあった。弾圧は、幕府への忠誠を示すと同時に、摘発したキリシタンの財産を没収することで、財政の穴埋めをするという側面を持っていたのである。さらに、領民の不満の矛先を「年貢の重さ」から「キリシタンという共通の敵」へと逸らす効果も狙っていた可能性がある。
こうして、島原藩における「経済的搾取」と「宗教的弾圧」は分かちがたく結びつき、相互に激化していった。壮麗な島原城の石垣は、文字通り、領民の汗と血、そして無数の悲鳴の上に築き上げられていったのである。
第六章:完成後の光と影 ― 藩政の中心、そして不満の温床
寛永元年(1624年)頃、島原城はその威容を完成させ、名実ともに島原藩の政治・軍事の中心として機能し始めた。雲仙岳を背に有明海を望む白亜の巨城は、松倉氏の権威と、その背後にある徳川幕府の威光を島原半島全域、さらには対岸の諸大名にまで知らしめるに十分な迫力を持っていた。しかし、その輝かしい光の裏側では、破滅へと向かう濃い影が着実に広がっていた。
重政の死と勝家の相続
城の完成後も、重政の野心は留まることを知らなかった。彼はキリシタンの根拠地であるルソン(フィリピン)への遠征を幕府に申し出るなど、さらなる功名を求めて活動を続けた 12 。しかし、その計画が実行に移される直前の寛永七年(1630年)、重政は遠征準備の視察中に小浜温泉で急死する 12 。
父の跡を継いで二代目藩主となったのは、嫡男の松倉勝家であった 14 。彼は、父が築いた壮大な城と、それによってもたらされた二つの巨大な負の遺産――完全に破綻した藩財政と、領民の骨の髄にまで達した憎悪――を、そのまま引き継ぐことになった。
暴政のエスカレート
勝家の治世は、父・重政の路線をさらに過激化させたものであった。彼は、父以上に過酷な年貢の取り立てを行い、領民を一層追い詰めていった 4 。島原の乱の原因は、しばしば勝家個人の暴虐な資質に帰せられることが多い。しかし、より本質的な問題は、重政が作り上げた「分不相応な藩の体制」そのものにあった。
十万石格とされた城と軍役を維持するためには、もはや誰が藩主であっても、領民から搾取し続ける以外に道はなかったのである。勝家は、この構造的な欠陥から逃れることができなかった。彼の圧政は、父が敷いた路線の必然的な延長線上にあり、いわば「運命づけられた暴政」であったと言える。
折しも、寛永年間を通じて日本各地は天候不順に見舞われ、特に寛永18年から19年(1641年-1642年)にかけては「寛永の大飢饉」と呼ばれる深刻な食糧危機が発生していた 36 。島原藩も例外ではなく、凶作が領民の窮状に追い打ちをかけた。食べるものさえなく、生きる望みを失った領民たちの不満と絶望は、もはや限界点に達していた。壮麗な島原城は、彼らにとって希望の象徴などではなく、自らの生活を破壊し、未来を奪った憎悪の対象でしかなかった。火薬庫は満たされ、あとは僅かな火花を待つばかりとなっていた。
第七章:歴史的帰結 ― 島原の乱と城の遺産
松倉氏二代にわたる苛政によって蓄積された民衆の怒りは、ついに抑えがたい奔流となって溢れ出した。その引き金となったのは、憎悪の象徴そのものである島原城であった。
寛永十四年(1637年) - 乱の勃発
寛永十四年(1637年)10月、代官による苛烈な年貢の取り立てと、それに抵抗した農民への残虐な仕打ちが直接のきっかけとなり、島原半島南部で農民が一斉に蜂起した 35 。この反乱は、瞬く間に半島全域、さらには海を隔てた天草にまで広がり、江戸時代最大の一揆「島原の乱」へと発展する。島原城の築城と、それに伴う過酷な搾取と弾圧が、この大反乱の根本的な原因であったことは疑いようがない 4 。
島原城攻防戦
蜂起した数万の一揆軍が、まず目指したのは藩庁であり、圧政の象徴である島原城であった 18 。彼らは城下に火を放ち、大手門などに猛然と攻めかかった 4 。しかし、松倉重政が心血を注いで築き上げた巨大要塞は、その真価を発揮する。高く険しい石垣、計算され尽くした櫓の配置、そして深い堀は、武器も訓練も不十分な一揆軍の攻撃を全く寄せ付けなかった。数日にわたる攻撃も実らず、多大な犠牲者を出した一揆軍は、島原城の攻略を断念せざるを得なかった 18 。
この事実は、島原城が近世城郭として極めて高い防御性能を誇っていたことを証明すると同時に、歴史の皮肉を物語っている。城は、その堅牢さによって主である松倉家を守った。しかし、その城を築いたという行為そのものが、領民の恨みを買い、反乱を招き、最終的に松倉家を滅亡へと導いたからである。
島原城を落とせなかった一揆軍は、指導者・天草四郎時貞を擁し、かつて松倉氏が廃城とした原城へと立てこもった 5 。皮肉にも、有馬氏時代の堅城が、最後の抵抗の舞台となったのである。
松倉家の末路
翌寛永十五年(1638年)、幕府軍の総攻撃によって原城は陥落し、籠城した者たちは女子供に至るまでことごとく惨殺され、島原の乱は終結した。乱の鎮圧後、幕府は藩主・松倉勝家に対し、この未曾有の一揆を引き起こした統治失敗の責任を厳しく追及した。
幕府が問題視したのは、単なる圧政そのものではなかった。最大の罪は、その圧政をコントロールできず、全国を揺るがす大規模な反乱にまで発展させ、鎮圧のために幕府が多大な兵力と費用を投じなければならない事態を招いた「統治能力の欠如」にあった 39 。勝家は改易の上、所領を没収され、武士としての名誉ある死である切腹さえ許されず、大名としては前代未聞の
斬首刑 に処せられた 18 。この厳しい処罰は、全国の諸大名に対する強烈な見せしめであった。「領民を搾取し藩を富ませることは黙認するが、それによって幕府の安寧を揺るがす事態を招くことは断じて許さない」という、徳川の冷徹な統治哲学を天下に示すものであった。
終章:島原城が物語るもの
島原城の築城は、日本の近世史における光と影を凝縮した象徴的な出来事である。その歴史を紐解くことは、権力者の野心、国家の戦略、そしてそれに翻弄される民衆の姿を浮き彫りにする。
島原城は、二つの相反する顔を持つ。一つは、安土桃山時代から受け継がれた築城技術の粋を集め、徳川の威光を九州に示すために築かれた、壮麗な近世城郭という「栄華の象徴」としての顔である。その計算され尽くした縄張、高く美しい石垣、威風堂々たる天守と櫓群は、日本の城郭建築史において特筆すべき存在である。
しかし、同時に、この城はもう一つの顔を持つ。それは、その礎の下に、名もなき無数の民衆の犠牲が埋まっている「圧政の象徴」としての顔である。分不相応な城を築くために課せられた過酷な労役と重税、抵抗する者への残忍な拷問、そして幕府への忠誠を示すための苛烈なキリシタン弾圧。城の石垣の一つ一つが、領民の呻きと絶望を吸い込んでいるかのようである。
松倉重政という一人の大名の野心が、徳川幕府の九州支配という政治的思惑と結びついた時、それは巨大なエネルギーを生み出し、壮麗な城郭を大地に出現させた。しかし、そのエネルギーは同時に、領民の生活と尊厳を破壊し、最終的には江戸時代最大の内乱という巨大な悲劇を生み出す原因となった。城は主を守ったが、城を建てたという行為が主を滅ぼしたという歴史の皮肉は、権力の持つ構造的な矛盾を我々に突きつける。
今日、昭和39年(1964年)に復元された天守閣は、島原のシンボルとして多くの人々に親しまれている 2 。その美しい姿を仰ぎ見るとき、我々はその背後に横たわる、栄華と悲劇が織りなす壮絶な歴史に思いを馳せるべきである。島原城は、単なる過去の建造物ではない。それは、権力がいかにして行使され、社会にどのような影響を与えるのかを、現代に生きる我々に静かに、しかし雄弁に語りかけ続ける、生きた歴史の証人なのである。
引用文献
- 島原城築城 / 歴史TOP / 島原市 https://www.city.shimabara.lg.jp/rekishi/page2678.html
- 島原城について https://shimabarajou.com/about
- 屈曲した高石垣を残す<島原城> https://sirohoumon.secret.jp/simabara.html
- 島原城 | 「おらしょ-こころ旅」(長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産) https://oratio.jp/p_resource/shimabarajo
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