最終更新日 2025-09-15

島津義久臣従(1587)

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島津義久の臣従(1587年):九州の覇権、天下に帰す ― その詳細と歴史的意義

【表1】九州平定に至る主要事象年表(天正13年~15年)

年月日 (天正)

年月日 (西暦)

出来事

場所

主要人物

意義・影響

13年10月2日

1585年11月22日

豊臣秀吉、九州の諸大名に「惣無事令」(停戦命令)を発令。

大坂

豊臣秀吉、島津義久、大友宗麟

中央政権による地方紛争への介入。九州情勢の転換点。 1

14年1月

1586年2-3月

島津義久、秀吉を「由来なき仁」とし、惣無事令を事実上拒否。

鹿児島

島津義久

島津氏の豊臣政権への反抗姿勢が明確化。 1

14年4月5日

1586年5月23日

大友宗麟、大坂城で秀吉に謁見し、救援を正式に要請。

大坂

大友宗麟、豊臣秀吉

秀吉に九州出兵の正当な口実を与える。 3

14年6月

1586年7-8月

島津軍、筑前・筑後へ侵攻開始(豊薩合戦の本格化)。

筑前

島津義久

秀吉の介入前に九州統一を完遂する意図を示す。 1

14年7月27日

1586年9月10日

岩屋城の戦い。高橋紹運が玉砕するも、島津軍に大損害を与える。

筑前・岩屋城

高橋紹運、島津忠長

島津軍の進軍を遅滞させ、豊臣軍の介入を間に合わせる遠因となる。 1

14年12月12日

1587年1月20日

戸次川の戦い。島津家久、豊臣先遣隊を「釣り野伏せ」で撃破。

豊後・戸次川

島津家久、仙石秀久、長宗我部元親・信親

豊臣軍の初戦における大敗。秀吉に本隊の出陣を決意させる。 1

15年3月1日

1587年4月8日

秀吉、20万超の大軍を率いて大坂城を出陣。

大坂

豊臣秀吉

九州平定の本格的開始。圧倒的物量による制圧作戦が始まる。 1

15年3月28日

1587年5月5日

秀吉本隊、小倉に上陸。二正面作戦を開始。

豊前・小倉

豊臣秀吉、豊臣秀長

九州の諸将が豊臣方へ雪崩を打って寝返り、島津氏は孤立。 3

15年4月17日

1587年5月24日

根白坂の戦い。豊臣秀長軍が島津本隊を撃破。

日向・根白坂

豊臣秀長、島津義弘

島津軍の組織的抵抗力が壊滅。九州の覇権を賭けた事実上の決戦。 9

15年5月8日

1587年6月13日

島津義久、剃髪して泰平寺にて秀吉に謁見し、正式に臣従。

薩摩・泰平寺

島津義久(龍伯)、豊臣秀吉

島津氏の降伏が確定し、九州平定が終結。戦国の一時代が終わる。 10

15年6月7日

1587年7月12日

秀吉、箱崎にて「九州国分」を発表。

筑前・箱崎

豊臣秀吉

九州の新たな領土配分が決定。豊臣政権による支配体制が確立。 10


序章:九州の天、島津に傾く ― 臣従前夜のパワーバランス

天正15年(1587年)、島津義久が豊臣秀吉に臣従したという事実は、単に一地方大名が天下人に屈したという以上の意味を持つ。それは、九州という独自の歴史世界を統一寸前まで手中に収めた巨大勢力が、中央から押し寄せた新しい時代の秩序に組み込まれる画期的な出来事であった。この歴史的転換を理解するためには、まず、臣従前夜の九州において、島津氏がいかに圧倒的な存在であったかを確認せねばならない。

三州統一と二大勢力の撃破

島津氏第16代当主・島津義久は、父・貴久の遺志を継ぎ、義弘、歳久、家久という稀代の才を持つ三人の弟たちと共に、領土拡大に邁進した 12 。彼らの強固な結束は「島津四兄弟」と称され、他の戦国大名家に見られたような内紛とは無縁の、驚異的な組織力を発揮した。この一体化した軍事力と政治力をもって、彼らはまず薩摩、大隅、日向の「三州統一」という悲願を達成する 14 。日本の最西南端という地理的条件は、背後を気にすることなく全戦力を北方へ集中させることを可能にし、彼らの快進撃を支える大きな要因となった 16

島津の威勢を決定づけたのは、九州の二大勢力との決戦における圧勝であった。天正6年(1578年)の「耳川の戦い」では、当時九州最大の大名であった豊後の大友宗麟率いる大軍を壊滅させ、大友氏を没落へと追いやった 13 。さらに天正12年(1584年)には、「沖田畷の戦い」において「肥前の熊」と恐れられた龍造寺隆信を討ち取り、九州北西部の覇権をも掌握した 19

これらの勝利は、島津の強さが単なる兵の勇猛さだけでなく、義久を頂点とする指揮系統の一元化、そして義弘の武勇、歳久の知略、家久の戦術といった弟たちの専門能力が有機的に結合した、極めて高度な軍事組織の産物であったことを示している。この盤石な体制があったからこそ、九州の国人領主たちは次々と島津の軍門に降り、九州統一は目前に迫っていたのである 21

第一章:中央からの介入 ― 惣無事令という「挑戦」

九州という島世界の中で完結するはずだった統一事業は、本能寺の変以降、破竹の勢いで天下統一を進める豊臣秀吉の介入によって、全く新たな局面を迎える。それは、武力と武力が衝突する以前の、法と論理による「戦い」の始まりであった。

天下人・秀吉の視線と惣無事令

天正13年(1585年)、四国を平定し、朝廷より関白の位に就いた豊臣秀吉は、織田信長が果たせなかった天下統一事業の総仕上げに着手していた 5 。彼の視線の先には、未だ中央政権の権威が及ばぬ九州、関東、そして東北があった。特に、九州で急速に勢力を拡大する島津氏の存在は、天下統一における最大の障害の一つと見なされていた 3

同年10月、秀吉は九州の島津、大友両氏を含む諸大名に対し、関白の権威、ひいては天皇の威光を背景として、大名間の私的な領土紛争を禁じる「惣無事令」を発令した 1 。これは単なる停戦命令ではなかった。領土問題の裁定権をすべて豊臣政権に委ねよという、戦国時代の「自力救済」の原則を根底から覆すものであり、これに背くことは天皇への反逆と見なされるという、巧みな政治的枠組みであった 25 。秀吉は、武力を用いる前に、まず「法」と「大義名分」によって島津を包囲しようとしたのである。

島津氏の反発と大友宗麟の嘆願

この前代未聞の命令に対し、島津家中の反応は複雑であった。『上井覚兼日記』によれば、すぐさま拒絶したわけではなく、鹿児島に重臣を集め、数日間にわたる評議が行われたことが記録されている 28 。しかし、最終的に島津氏が出した結論は、事実上の「否」であった。その理由は複合的である。第一に、源頼朝以来の名門としての矜持が、秀吉を「由来なき仁(成り上がり者)」と見なし、その命令に服することを許さなかった 1 。第二に、秀吉が提示した、実力で獲得した領地の過半を大友氏に返還せよという「九州国分案」は、到底受け入れられる内容ではなかった 7 。そして第三に、そもそもこの紛争は天正8年(1580年)の和睦を大友側が一方的に破ったことに端を発しており、非は大友にあるというのが島津側の論理であった 28

島津が中世的な「武家の道理」に固執する一方で、劣勢に立たされていた大友宗麟は、この秀吉の介入に最後の望みを託した。天正14年(1586年)4月、宗麟は自ら大坂城に赴き、秀吉に臣従を誓うことで、正式な救援を要請した 4 。秀吉にとって、これは九州出兵を正当化する絶好の口実となった。この瞬間、島津氏は「九州の覇者」から、中央政権に背く「逆徒」へと、その立場を転換させられたのである。

第二章:豊薩合戦 ― 九州征伐の前哨戦

秀吉本隊の到着を前に、九州の地では最後の激しい戦いが繰り広げられた。それは、九州統一を完遂しようとする島津の執念と、それを阻まんとする者たちの壮絶な抵抗、そして中央から派遣された先遣隊の悲劇が織りなす、九州平定の序曲であった。

岩屋城の死闘

惣無事令を黙殺した島津軍は、天正14年(1586年)6月、秀吉の本格介入の前に九州全土を制圧すべく、筑前・筑後への大攻勢を開始した 5 。その進路上に立ちはだかったのが、大友方の名将・高橋紹運が守る岩屋城であった。

同年7月、島津忠長、伊集院忠棟らが率いる3万とも5万ともいわれる大軍が岩屋城に殺到した 32 。対する紹運の兵力は、わずか763名に過ぎなかった 6 。しかし、紹運と城兵たちは決死の覚悟で城に立てこもり、半月にわたって島津軍の猛攻を凌ぎ続けた。昼夜を分かたぬ攻防の末、城はついに陥落し、紹運は高櫓に登って壮絶な割腹を遂げ、城兵全員が討ち死にした 6

この戦いは、戦略的に極めて大きな意味を持った。島津軍は岩屋城を落とすために多数の将兵を失い、貴重な時間を浪費した 6 。この遅滞がなければ、島津軍は豊臣軍の先遣隊が到着する前に九州北部を制圧していた可能性が高い。高橋紹運の玉砕は、文字通り九州全土の運命を左右する防波堤となったのである 32

戸次川の悲劇

大友宗麟の救援要請に応じ、秀吉は四国を平定したばかりの諸将を先遣隊として急派した。総大将は子飼いの仙石秀久、これに長宗我部元親・信親親子、十河存保らが加わった、兵力およそ6千の部隊であった 34

天正14年12月、島津義久の弟で戦術の天才と評された島津家久が、1万8千の兵で大友方の鶴賀城を包囲した 7 。豊臣先遣隊はこれを救援すべく、戸次川(現在の大野川)対岸に布陣した。ここで、部隊の運命を決定づける軍議が開かれる。軍監であった仙石秀久は、功を焦るあまり、秀吉本隊の到着を待たずに直ちに川を渡って攻撃すべきだと強硬に主張した 4 。これに対し、歴戦の将である長宗我部元親は、圧倒的な兵力差と地理的不利を理由に、籠城して援軍を待つべきだと慎重論を唱えた。しかし、仙石はこの意見を一蹴。かつて四国で長宗我部氏に煮え湯を飲まされた仙石や十河存保の私怨も、この無謀な決定の背景にあったとされる 23

この内部対立は、豊臣政権が旧敵を組み込んで形成された「寄せ集め軍」の構造的欠陥を露呈するものであった。指揮系統は乱れ、相互不信が渦巻く中、冷静な戦略判断は不可能であった。

12月12日、仙石の命令により豊臣軍は渡河を開始。これを待ち構えていた島津家久は、お家芸である「釣り野伏せ」の戦術を完璧に実行した 20 。偽りの退却で敵を深追いさせ、十分に引きつけたところで、左右に潜ませていた伏兵が一斉に襲いかかり、三方から包囲殲滅する戦法である 34 。虚を突かれた豊臣軍はたちまち大混乱に陥り、総崩れとなった。この戦いで、長宗我部元親が将来を嘱望した嫡男・信親、そして勇将・十河存保らが討死 4 。仙石秀久は辛うじて戦場を離脱したものの、この大敗の責任を問われ、秀吉の逆鱗に触れて領地を没収、高野山へ追放された 4 。戸次川での勝利は島津の武威を九州に轟かせたが、それは同時に、天下人・秀吉の全面介入という、もはや後戻りのできない事態を招く引き金となったのである。

第三章:巨人の進撃 ― 豊臣本隊、九州を席巻す

戸次川での手痛い敗北は、豊臣秀吉に九州問題の完全な解決を、それも圧倒的な武力によって成し遂げることを決意させた。天正15年(1587年)の春、日本の歴史上でも類を見ない規模の大軍が、九州の地にその歩みを進める。それは、もはや戦国時代的な局地戦ではなく、国家の総力を挙げた「制圧戦」の様相を呈していた。

二十万の大軍と二正面作戦

天正15年1月1日、秀吉は石田三成、大谷吉継らに、兵25万人、兵糧30万人分、馬飼料2万頭分という、桁外れの動員準備を命じた 1 。この大軍を遠隔地で長期間維持できる兵站能力こそが、島津氏との決定的な力の差であった 38

3月1日、秀吉は自ら2万5千の兵を率いて大坂城を出陣 1 。九州に上陸後、全軍を二手に分け、九州を南北から挟撃する壮大な作戦を展開した 8

  • 日向方面軍(東路): 総大将は秀吉の弟・豊臣秀長。毛利輝元、小早川隆景、黒田孝高(官兵衛)といった中国・四国の歴戦の将たちを主力とする約10万の軍勢。豊後から日向へと南下し、島津軍の主力を引きつける役割を担った 3
  • 肥後方面軍(西路): 総大将は豊臣秀吉自身。蒲生氏郷、前田利長、細川忠興など、豊臣恩顧や織田旧臣を中心とする10万を超える本隊。豊前小倉から筑前、肥後を経由して、島津氏の本拠地である薩摩へ一直線に進撃するルートを取った 3

この圧倒的な軍勢は、島津軍が野戦を挑むこと自体を無意味にする「見せるための武力」であった。秀吉の真の武器は、この大軍を支えるロジスティクスにあり、彼は軍事行動と並行して進軍路の整備(太閤道)すら行っていたのである 41

九州諸将の離反と肥後方面軍の快進撃

3月28日、秀吉の本隊が豊前小倉に上陸すると、戦局は一変する 3 。その威容を目の当たりにした九州の国人領主たちは、もはや島津に勝ち目なしと判断し、雪崩を打って豊臣方へと寝返った。特に、島津方の中核であった筑前の秋月種実が降伏し、名刀「国俊」を献上したことは、他の諸将の離反を決定づけた 5 。島津の築き上げた九州連合は、戦わずして内側から崩壊していったのである。

これにより、秀吉率いる肥後方面軍の進撃路には、もはや大きな障害は存在しなかった。秀吉は破竹の勢いで南下し、4月18日には肥後の八代に到達 42 。後方の連絡線を確保するため、宇土城に加藤清正、御船城に黒田官兵衛、八代城に福島正則といった信頼の置ける武将を配置し、着実に支配地域を固めていった 42 。そして4月27日、秀吉は陸路に固執せず、海路を用いて一気に薩摩国の出水に上陸 19 。島津氏の心臓部へ、まさに王手をかけたのであった。秀吉の九州平定は、敵を殲滅することよりも、その圧倒的な国家総力を見せつけることで抵抗意志を砕き、自らの支配体制に組み込むことを目的とした、近世的な「制圧」であった。

第四章:根白坂の決戦 ― 島津の野望、潰える

二つの巨大な鉄床が南北から迫る中、戦国最強と謳われた島津軍団は、その存亡を賭けた最後の大勝負に打って出た。日向国、根白坂。かつて耳川の戦いで大友軍を破った栄光の地は、今や島津の野望が潰える決戦の舞台となろうとしていた。

戦線の縮小と高城の攻防

豊臣軍の圧倒的な兵力差を前に、島津義久は九州全土での抗戦を断念。戦線を本拠地である薩摩・大隅・日向の三国に縮小し、有利な地形で敵を迎え撃つ本土決戦に戦略を切り替えた 9 。豊後から撤退する島津義弘・家久の軍勢は、大友方の志賀親次や佐伯惟定の追撃を受け、多大な損害を出しながらも辛うじて日向へと退いた 9

その頃、豊臣秀長率いる日向方面軍は、日向北部の要衝・高城を包囲していた 18 。高城は、かつて耳川の戦いの勝敗を決した重要な拠点であり、城将は勇将・山田有信が務めていた 43 。秀長は力攻めを避け、兵糧攻めによる持久戦を選択。同時に、島津の救援軍が必ず通過するであろう高城南方の根白坂に堅固な砦を築き、宮部継潤らの部隊に守りを固めさせた 9 。豊臣方は、島津の次の手を完全に予測していたのである。この的確な状況判断と情報収集能力は、黒田官兵衛ら優れた軍監の存在が大きく、島津の伝統的な戦術を封じるための周到な準備であった。

決戦、そして敗北

肥後方面から秀吉本隊が迫る中、島津首脳は、まず日向方面軍に決戦を挑み、これを撃破した後に秀吉本隊と対峙する作戦を採択した 18 。天正15年4月17日の夜、島津義久・義弘が率いる約2万の島津本隊は、高城を救援すべく、根白坂の豊臣軍砦に得意の夜襲を敢行した 9

島津兵の突撃は凄まじく、一時は宮部継潤の陣を突き破るほどの勢いを見せた。しかし、豊臣軍は個々の部隊がバラバラに戦う烏合の衆ではなかった。藤堂高虎や宇喜多秀家らの部隊が即座に救援に入り、組織的な連携で陣形を立て直す 19 。夜が明ける頃には、豊臣秀長の本隊も到着し、戦場は圧倒的な兵力差に覆われた。衆寡敵せず、島津軍はついに総崩れとなり、島津忠隣をはじめ多くの将兵が討死。軍は壊滅的な打撃を受けて敗走した 46

根白坂での完敗は、島津軍の組織的抵抗力を事実上、完全に奪い去った 2 。この敗北は、戦国時代を通じて磨き上げられてきた島津の奇襲戦術が、豊臣の圧倒的な物量、優れた情報力、そして近代的な組織力の前に、もはや通用しないという時代の転換を象徴する出来事であった。

敗報を受け、義久はこれ以上の抗戦は無益と判断し、降伏を決断する。しかし、次兄・義弘や三兄・歳久はなおも徹底抗戦を主張し、家中は分裂の危機に瀕した 19 。九州の覇権を賭けた最後の戦いは、島津の「武」が豊臣の「システム」に敗れた瞬間であった。

第五章:泰平寺の臣従 ― 一つの時代の終わり

根白坂での決戦に敗れ、九州統一の夢が潰えた島津義久に残された道は、天下人・豊臣秀吉の軍門に降ることだけであった。天正15年(1587年)5月、薩摩国川内(現在の薩摩川内市)の泰平寺を舞台に、九州の覇者が天下人に膝を屈するという、戦国時代の終焉を象徴する歴史的な一幕が演じられた。

降伏への道程

義久が降伏を決断した後も、薩摩国内では平佐城などが最後の抵抗を続けていたが、義久からの開城命令が届くと、ついに武器を置いた 1 。もはや、島津家に抗戦の術はなかった。

同年5月6日、島津義久は降伏の意思を明確に示すため、伊集院の雪窓院において剃髪し、仏門に入った 11 。名を「龍伯」と改め、俗世を離れることで、独立した戦国大名としての「島津義久」の死を演出し、武人としての過去と決別する姿勢を示したのである 50 。これは単なる敗北宣言ではなく、豊臣政権という新たな秩序の中で生きるための、高度な政治的パフォーマンスであった。

泰平寺の会見

5月8日、秀吉が本陣を置く川内の泰平寺にて、歴史的な会見が行われた 10 。義久は黒染めの衣をまとい、静かに秀吉の前に進み出た 42 。その姿を見た秀吉は、義久の覚悟を瞬時に理解した。秀吉は、義久が「一命を捨てて走り入ってきた」としてその降伏を受け入れ、反逆の罪を赦免したのである 1 。会見は厳粛ながらも和やかな雰囲気で進み、秀吉は義久を厚くもてなしたと伝えられている 11

この泰平寺の会見は、単なる降伏儀式ではなかった。それは、武力による征服の完了を宣言すると同時に、敗者である島津氏を「討伐されるべき敵」から「豊臣大名の一員」へとその身分を転換させ、新たな支配秩序へ名誉ある形で編入するための、極めて象徴的な「儀式」であった。秀吉は、武力と政治的演出を巧みに使い分けることで、単なる恐怖支配ではない、より安定した統治体制を築こうとしたのである。

義久の降伏後も、徹底抗戦を主張していた弟の義弘は、兄・義久自らの懸命な説得を受け、子・久保を人質に差し出すことで、ついに降伏を受け入れた 19 。最も強硬であった歳久も、最終的には兄たちの決定に従った 19 。ここに、九州全土を巻き込んだ戦乱は、完全に終結した。

終章:新たな秩序 ― 九州国分とその後の世界

島津義久の臣従により、九州平定は完了した。豊臣秀吉は、武力制圧後の統治、すなわち新たな秩序の構築に着手する。それは、単なる領土の再配分にとどまらず、九州を日本の統一国家体制に組み込み、来るべき新時代に向けた国家改造計画の始まりでもあった。

九州国分と島津家の処遇

天正15年(1587年)6月、秀吉は筑前箱崎(現在の福岡市)に滞在し、九州全土の新たな領土配分、いわゆる「九州国分」を断行した 10

その裁定において、最大の焦点であった島津氏の処遇は、破格のものであった。反逆の首謀者でありながら、島津義久には本領である薩摩一国が、そして弟の義弘には大隅国と日向国諸県郡が安堵されたのである 2 。これは、他の反抗した大名が改易や大幅な減封となったのに比べ、異例の温情措置であった 1 。この背景には、薩摩という辺境の地で深く根を張る島津氏を根絶やしにすることの困難さと、その精強な軍事力を将来の対外政策(朝鮮出兵)に利用しようという、秀吉の高度な政治的計算があった 1

一方で、九州のその他の地域には、豊臣政権の支配を確固たるものにするための配置がなされた。救援を求めた大友義統には豊後一国が安堵されたが 10 、肥後には腹心の佐々成政が、筑前には毛利家の重鎮・小早川隆景が封じられるなど、九州の要衝は豊臣恩顧の大名によって固められた 10

新たな秩序とその影響

島津氏の臣従は、数十年にわたり戦乱が続いた南九州に安定をもたらした。しかし、秀吉による新たな統治体制は、新たな火種も生んだ。肥後に入部した佐々成政が、性急な検地を強行した結果、大規模な「肥後国人一揆」が勃発 1 。成政は失政の責を問われて切腹を命じられ、九州統治の難しさが改めて浮き彫りになった。

秀吉の九州国分は、単なる領土再編ではなかった。彼は荒廃した博多の町の復興を命じ 10 、バテレン追放令を発してキリスト教勢力の影響力を削ぎ、人身売買を禁じるなど 10 、九州の経済・社会構造そのものを中央のコントロール下に置こうとした。彼の視線は、国内統一の先にある、朝鮮半島や明といった海の外に向けられていたのである 1 。九州は、日本という統一国家の「西の玄関口」として、新たな戦略的位置づけを与えられた。

島津義久の臣従は、九州という独立性の高い世界が、名実ともに中央政権の支配下に組み込まれたことを意味する。これにより、秀吉の天下統一事業は事実上完了し、残すは関東の北条氏と東北の諸大名のみとなった 24 。戦国大名による地方分権の時代は終わりを告げ、中央集権的な統一国家が日本を統治する、新たな時代の幕が上がったのである。泰平寺での一礼は、一つの時代の終焉と、次なる時代の黎明を告げる、静かな号砲であった。

引用文献

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  5. 九州平定/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/11100/
  6. 岩屋城の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%B1%8B%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  7. 戸次川古戦場 - しまづくめ https://sengoku-shimadzu.com/spot/%E6%88%B8%E6%AC%A1%E5%B7%9D%E5%8F%A4%E6%88%A6%E5%A0%B4/
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  9. 根白坂の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%B9%E7%99%BD%E5%9D%82%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
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  14. 島津家久のすごい戦績、戦国時代の九州の勢力図をぶっ壊す! - ムカシノコト https://rekishikomugae.net/entry/2024/03/07/155220
  15. 十六代 島津 義久(しまづ よしひさ) - 尚古集成館 https://www.shuseikan.jp/timeline/shimadzu-yoshihisa/
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  20. 島津家久、軍法戦術の妙~沖田畷、戸次川でみせた鮮やかな「釣り野伏せ」 | WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/3975
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  55. No.043 「 肥後国衆一揆(ひごくにしゅういっき) 」 - 熊本県観光サイト https://kumamoto.guide/look/terakoya/043.html