己酉条約締結(1609)
慶長十四年、徳川家康は朝鮮との国交回復を望み、対馬宗氏が仲介。国書偽造という禁じ手を用いつつも、己酉条約を締結した。これにより戦国以来断絶した日朝関係は修復され、平和な通信使の時代が始まった。
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己酉条約(1609年)の徹底研究:戦国時代の終焉と徳川外交の黎明
序論:灰燼からの再出発
日本の戦国時代、その最終章は国内の統一事業に留まらず、豊臣秀吉による未曾有の対外侵略戦争、すなわち文禄・慶長の役(1592-1598)によって締め括られた。この大戦は、日本国内の戦国大名が蓄積した巨大な軍事エネルギーの暴発であり、朝鮮半島全土を焦土と化し、日朝両国に計り知れない惨禍をもたらした。戦役の終結は、両国間にあった公式な外交関係の完全な断絶という、深い傷跡を残すこととなる。この「戦国の負の遺産」をいかに清算し、新たな国際秩序を構築するかは、秀吉の死後に天下を掌握した徳川家康にとって、避けては通れない最重要課題であった。
家康にとって、朝鮮との国交回復は単なる二国間関係の修復に止まらなかった。それは、秀吉の無謀な対外政策を明確に否定し、豊臣政権との差別化を図ることで、自らが打ち立てる新政権の正統性と安定性を内外に誇示するための、極めて重要な政治的行為であった 1 。したがって、1609年(慶長14年)に締結された己酉条約は、単なる通商条約としてではなく、約一世紀にわたって続いた「武」の時代、すなわち戦国時代の動乱に終止符を打ち、徳川による「文」と秩序の時代の到来を告げる、外交上の画期的な出来事として捉えるべきである。本報告書は、この己酉条約が締結されるに至った複雑な背景、水面下での熾烈な交渉、そして条約がその後の歴史に与えた深遠な影響を、時系列に沿って徹底的に解明することを目的とする。
第一章:和解への道―三者の相克する思惑
己酉条約締結に至る交渉過程は、徳川家康、朝鮮王朝、そして両者の間に立つ対馬宗氏という、三者の全く異なる立場と動機が複雑に絡み合う、緊張を孕んだドラマであった。この三者の利害のズレと相克こそが、後に国書偽造という前代未聞の外交的禁じ手を生み出す根源となる。
1-1. 徳川家康の国家構想:「天下人」の威信と実利
関ヶ原の戦いを経て日本の新たな支配者となった徳川家康は、国内の安定化を最優先課題としていた。その国家構想において、近隣諸国との安定した関係構築は不可欠な要素であった 1 。特に、豊臣政権が破綻させた朝鮮との関係修復は、複数の戦略的意図を含んでいた。
第一に、豊臣政権との明確な差別化である。家康は朝鮮出兵に対して批判的な立場をとり、秀吉の死後は前田利家らと共に速やかな撤兵を主導したと伝えられる 3 。朝鮮との和解を自らの手で成し遂げることは、秀吉の侵略戦争を過去のものとして葬り去り、平和を希求する新たな為政者としての自己像を確立する上で、絶好の機会であった。
第二に、幕藩体制の安定である。朝鮮との対立状態が継続することは、西国大名の動揺を誘発しかねない潜在的なリスク要因であった。特に、朝鮮との地理的・歴史的な繋がりが深い大名たちを安定的に統治するためには、外交関係の正常化が急務であった。
しかし、家康は単なる平和を求めていたわけではない。彼が目指したのは、あくまで「日本国王」としての権威を損なわない、対等な形での国交回復であった。朝鮮側が国交回復の条件として突きつけた「日本側からの国書先渡し」や、それに伴う謝罪という形式は、新たな天下人たる家康の威信を著しく傷つけるものであり、到底受け入れられるものではなかった 5 。この「権威」と「面子」の問題が、交渉を著しく困難なものにしたのである。
1-2. 朝鮮王朝の矜持と実利:癒えぬ傷と国民への責任
一方、朝鮮王朝にとって、文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱)は国家存亡の危機であった。国土は蹂רובされ、多くの民が殺戮・拉致され、首都漢城(現在のソウル)にあった王陵までもが日本軍によって暴かれるという屈辱を味わった。それゆえ、日本に対する不信感と憎悪は骨の髄まで達しており、国交回復への道のりは極めて険しいものであった。
朝鮮側が講和の絶対条件として掲げたのは、主に三点であった。第一に、侵略に対する徳川家康からの正式な謝罪を込めた国書を先に受け取ること。第二に、宣陵・靖陵といった王陵を暴いた犯人を捜索し、朝鮮へ引き渡すこと。そして第三に、日本へ連れ去られた数万人にのぼる朝鮮人被虜人(捕虜)をすべて送還(刷還)することであった 6 。これらは、国家として受けた屈辱を晴らし、国民の苦しみに応えるための、譲れない一線であった。
しかし、当時の朝鮮国王・光海君は、明と勃興しつつあった後金(後の清)との間で巧みな中立外交を展開したことで知られる、現実主義的な君主でもあった 8 。彼は、硬直した名分論に固執するだけでなく、被虜人の送還という国民を救うための「実利」を極めて重視した。この実利主義的な側面が、対馬藩を通じた日本の交渉の呼びかけに、完全な拒絶ではなく、条件付きで応じる余地を生み出したのである。
1-3. 対馬宗氏の存亡:国境の島が背負った宿命
この徳川幕府の「権威」と朝鮮王朝の「矜持」という、相容れない二つの要求の狭間で、絶望的な苦境に立たされたのが対馬藩主・宗氏であった。対馬は山がちで土地が痩せており、農業生産力が極めて低い。そのため、古来より朝鮮との中継貿易によって得られる利益が、藩の経済を支える生命線であった 10 。文禄・慶長の役による国交断絶は、対馬藩の財政を直撃し、藩そのものの存亡を脅かす死活問題となっていた。
宗氏は室町時代から、日朝間の外交・貿易の窓口としての特殊な地位を築いてきた 12 。徳川の世においても、その既得権益を維持し、幕府内での存在価値を証明するためには、自らの仲介によって国交回復を成し遂げる以外に道はなかった 14 。しかし、彼らが直面した現実は、日朝両国の最高権力者が作り出した、解決不能に見える外交的僵着状態であった。家康は自らの権威にかけて先に国書を送ることはせず、朝鮮は国家の尊厳にかけて国書を受け取らねば交渉に応じない。この構造的な対立が、対馬宗氏に「偽造」という最後の、そして最も危険な選択肢以外の道を奪っていく。国書偽造は、宗氏の単独の暴走というよりも、日朝両国の要求が生み出した、いわば「構造的な必然」だったのである。
第二章:偽りと祈りの交渉史―リアルタイム・クロノロジー(1598年~1609年)
豊臣秀吉の死から己酉条約が締結されるまでの約11年間は、まさに息詰まるような外交交渉の連続であった。それは、偽りと欺瞞に満ちた水面下の工作と、平和への切実な祈りが交錯する、劇的な期間であった。
1598年~1600年:戦後の混沌と交渉の胎動
1598年8月、豊臣秀吉が死去すると、五大老は即座に朝鮮からの全軍撤兵を決定。これにより、7年間に及んだ大戦は終結した。しかし、日朝関係は完全な断絶状態に陥り、戦後の混沌が両国を覆っていた。
1600年9月、関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利し、天下の実権を掌握する。この戦いで、対馬藩主・宗義智は小西行長との縁から西軍に属しており、本来であれば改易されてもおかしくない立場にあった 16 。しかし、家康は朝鮮との交渉において宗氏が持つ特殊な知見と人脈が不可欠であることを深く理解していた。家康は宗義智の本領を安堵する代わりに、朝鮮との国交回復交渉という重責を担わせる。関ヶ原の戦いが終わるや否や、家康は宗氏に対し、「内々に書を遣わして尋ね試み、合点すべき点あれば公儀よりの命と申すべし」と内命を下した 4 。これは、交渉の初期段階における失敗のリスクをすべて対馬藩に負わせつつ、成功した暁にはその功績を幕府のものとする、家康の老獪な戦略を示すものであった。
1601年~1606年:停滞と水面下の偽装工作
家康の命を受けた宗氏は、早速朝鮮に使者を派遣し、国交回復の打診を始めた。しかし、朝鮮側の態度は極めて硬く、前述の「国書先渡し」と「犯陵賊の引渡し」という条件を繰り返し主張し、交渉は完全に暗礁に乗り上げた。
このままでは交渉は決裂し、藩の存亡も危ういと判断した宗義智と、その腹心で外交僧でもあった景轍玄蘇、家老の柳川調信らは、ついに重大な決断を下す。徳川家康の名を騙り、朝鮮側が要求する形式に沿った国書を偽造して、交渉の突破口を開こうとしたのである 4 。これは幕府を欺く大罪であったが、彼らにとっては藩を救うための唯一の道であった。同時に、宗氏は交渉の誠意を示すため、日本国内にいる朝鮮人被虜人を捜索し、少しずつ送還を開始した 7 。この「偽りの国書」と「被虜人送還という目に見える実利」の組み合わせが、硬直していた朝鮮側の態度を徐々に軟化させる効果を発揮し始める。
1607年:国交正常化への大きな一歩「回答兼刷還使」の来日
対馬藩が届けた(偽の)国書と、被虜人送還という具体的な行動を受け、朝鮮王朝はついに日本への使節派遣を決定する。1607年(慶長12年)、正使・呂祐吉を長とする一行が日本へ派遣された。ただし、この使節の正式名称は、善隣友好を意味する「通信使」ではなく、「 回答兼刷還使 」とされた 18 。
この名称には、朝鮮側の複雑な立場が巧みに織り込まれていた。すなわち、この使節はあくまで日本の国書に対する「回答」であり、主たる目的は被虜人を「刷還(連れ戻す)」ことにある、という建前を明確にしたのである 7 。これにより、朝鮮は国内の強硬な反日世論を抑えつつ、被虜人救出という実利を得ることができた。一方で、徳川幕府は「朝鮮側から公式な使節が来日した」という事実そのものを、自らの権威の証明として大いに活用することができた。まさに、日朝双方が互いの「面子」を保つための絶妙な外交的妥協点であった。また、朝鮮側には、家康が確立した新政権の実情を探るという、国情視察の目的も含まれていた 21 。
呂祐吉ら一行は、釜山を発ち、対馬、壱岐を経て瀬戸内海を航行し、大坂に上陸。そこから陸路で京都を経て江戸へと向かった 22 。一行は江戸城で二代将軍・徳川秀忠に謁見し、国書を奉呈。その帰路には駿府城に立ち寄り、大御所として実権を握る家康にも謁見した 19 。この一連の行程を通じて、徳川政権による日本の安定した統治体制が朝鮮側に強く印象付けられ、国交正常化への道筋は確実なものとなった。この第一回の使節派遣により、約1300人の被虜人が故国へ帰ることができたと記録されている 19 。
1608年~1609年:最終交渉と条約締結
回答兼刷還使の成功を受け、いよいよ具体的な通交・貿易のルールを定めるための実務者交渉が、朝鮮南東の港湾都市・釜山で開始された。日本側は引き続き、対馬藩の景轍玄蘇らが代表として交渉に臨んだ。
交渉は最後まで難航した。朝鮮側は、再び日本人が国内で騒乱を起こすことを極度に警戒し、通交に対して厳格な制限を設けることを強く主張した。数か月にわたる折衝の末、1609年(慶長14年)の己酉の年、ついに両者は合意に達し、日朝間の新たな通交規範を定めた条約が締結された。これが「己酉条約」(日本側呼称:慶長十四年条約)である 23 。
【表1:己酉条約締結に至る主要年表(1598-1609)】
西暦(和暦) |
日本側の動向 |
朝鮮側の動向 |
主要な出来事 |
1598年(慶長3年) |
豊臣秀吉死去。五大老が朝鮮からの撤兵を決定。 |
日本軍の撤退。 |
文禄・慶長の役が終結。日朝国交断絶。 |
1600年(慶長5年) |
関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利し、天下を掌握。 |
- |
家康、対馬藩主・宗義智に国交回復交渉を内命。 |
1601年-1606年 |
対馬藩、朝鮮との交渉を開始するも難航。 |
国書先渡しと犯陵賊引渡しを強硬に要求。 |
対馬藩、家康の国書を偽造し、被虜人送還を進める。 |
1607年(慶長12年) |
将軍秀忠、大御所家康が使節団と謁見。 |
正使・呂祐吉を長とする「回答兼刷還使」を派遣。 |
第1回回答兼刷還使が来日。国交正常化が事実上決定。 |
1608年(慶長13年) |
対馬藩の使者が釜山で実務交渉を開始。 |
通交・貿易に関する厳格な制限を主張。 |
- |
1609年(慶長14年) |
- |
- |
己酉条約(慶長十四年条約)締結。 |
第三章:己酉条約(慶長十四年条約)の条文徹底分析
己酉条約は、友好と信頼に基づく自由な交流を目指したものではなく、むしろ文禄・慶長の役で生まれた深い「不信」を前提として、将来起こりうるリスクを徹底的に管理・制限することを目的とした、極めて実務的な取り決めであった。その条文の端々から、朝鮮側の強い警戒心と、二度と過ちを繰り返させないという固い意志が読み取れる。
条約の基本性格:厳格な「管理・制限」体制
全12条からなるこの条約の根底に流れる思想は、日本との通交を対馬藩という単一の窓口に限定し、その交流の規模、場所、人物を厳格に管理下に置くことであった 23 。これは、室町時代に見られたような、西国の諸大名や商人が無秩序に朝鮮と通交し、時に倭寇と化すような事態の再発を絶対に防ぐための、いわば「防火壁」としての性格を持っていた。日本人の行動を釜山に新設される倭館という一点に封じ込め、隔離する構造は、後に江戸幕府が長崎に設けた出島と同様の発想であり、近世日本の対外関係の基本的な型を形成するものであった。
主要条文の解説
条約の主要な規定は、以下の通りである 23 。
- 通交資格の厳格な制限 : 朝鮮へ渡航できる日本の使者を、①日本国王使(将軍の使者)、②対馬島主の使者、③対馬島内の受職人(朝鮮王朝から象徴的な官職を与えられた対馬藩の重臣)の三者に限定した。これにより、対馬藩が日朝外交の唯一の公式な窓口であることが法的に確立された。
- 歳遣船(年間貿易船)数の削減 : 対馬藩が年間に派遣できる貿易船の数を20隻に制限した。これは、戦役以前の規模(一説には30隻)から削減されたものであり、貿易の規模を朝鮮側が完全にコントロール下に置こうとする意図の表れであった。
- 寄港地の限定と倭館での隔離 : 日本の船舶が寄港できる港を釜山一港のみに限定した。そして、渡航した日本人は釜山に設置された「倭館」と呼ばれる日本人居留地内でのみ活動が許され、倭館の外へ出て自由に移動すること、特に首都・漢城へ上ることは原則として固く禁じられた。これは、首都を蹂躙され、国土を荒らされた戦争の記憶が生み出した、直接的なトラウマの反映であった。
- 対馬藩主への歳賜米の削減 : 朝鮮国王から対馬藩主に儀礼的に下賜される米および大豆の量を、合わせて100石に削減した(戦役以前は200石)。これも、対馬藩に対する朝鮮側の優位性を示し、経済的な恩恵を制限する意図があったと考えられる。
- 渡航証明書(文引)の義務化 : 朝鮮へ渡航する全ての船舶に対し、対馬藩が発行する正式な渡航証明書である「文引」の携帯を義務付けた。これにより、倭寇や偽の使者を防ぎ、全ての通交を対馬藩による一元的な管理下に置くことを徹底させた。
これらの条文は、一つ一つが戦争の記憶が法文化した結果と見なすことができる。己酉条約は、友好の証というよりも、互いの不信を前提に、それでもなお限定的な関係を維持するための、苦渋に満ちたルールブックだったのである。
【表2:己酉条約による通交・貿易規範の要点】
項目 |
条約締結以前(室町時代~戦国時代) |
条約締結以後(己酉条約体制) |
変化の要点 |
通交資格 |
対馬宗氏の他、西国の諸大名、商人なども独自に通交。 |
日本国王使、対馬島主使、対馬の受職人の三者に限定。 |
対馬藩による窓口の一元化・独占化。 |
歳遣船数 |
比較的自由。対馬藩は年間30隻程度を派遣。 |
年間20隻 に厳しく制限。 |
貿易規模の縮小と朝鮮側による管理強化。 |
寄港地 |
三浦(乃而浦、富山浦、塩浦)など複数の港。 |
釜山一港 のみに限定。 |
交流拠点の集約と監視の容易化。 |
行動範囲 |
比較的自由で、使節は首都・漢城への上京も可能。 |
釜山倭館内 に厳しく制限。漢城への上京は原則禁止。 |
日本人の活動を特定区域に隔離。 |
歳賜米 |
対馬藩主に対し、米・大豆合わせて200石を下賜。 |
100石 に削減。 |
朝鮮側の優位性を示し、経済的恩恵を縮小。 |
第四章:条約が創り出した世界
己酉条約の締結は、単に断絶していた国交を回復させただけでなく、その後約200年間にわたる近世日朝関係の基本構造を決定づけた。それは、平和と文化交流の輝かしい時代を創出する一方で、その土台には常に危ういリスクを内包するものであった。
4-1. 朝鮮通信使の時代へ:平和の象徴
己酉条約によって両国関係が正常化への軌道に乗ったことを受け、朝鮮から日本へ派遣される国書の奉呈を目的とした使節団の名称は、戦後処理という暫定的な意味合いを持つ「回答兼刷還使」から、対等な善隣友好を意味する「 通信使 」へと変わっていった(正式には1636年の第4回派遣以降) 20 。
将軍の代替わりを祝賀する目的で派遣されるようになった朝鮮通信使は、1607年から1811年までの間に合計12回行われ、数百人規模の一行が江戸までを往復する壮大な外交使節団となった 14 。彼らの往来は、単なる外交儀礼に留まらず、学術、芸術、文化など多岐にわたる分野での交流を促し、江戸時代の平和な日朝関係を象徴する一大事業として、歴史にその名を刻んでいる。己酉条約は、まさにこの輝かしい時代の礎を築いたのである。
4-2. 対馬藩の確立された地位と内在するリスク
条約の締結により、対馬藩は日朝間の外交と貿易の独占権を徳川幕府から公式に認められ、国境の島としての特殊な地位を盤石なものとした 12 。幕府も、3年に一度の参勤交代を免除するなど、その特殊な役割を評価し、対馬藩を優遇した 17 。
しかし、その栄光ある地位は、国書偽造という極めて危うい土台の上に成り立っていた。この隠された真実は、条約締結から26年後の1635年(寛永12年)、ついに白日の下に晒されることになる。いわゆる「 柳川一件 」である 4 。藩主・宗義成と、国書偽造を主導した家老・柳川調興との間で藩内の権力闘争が激化し、追いつめられた柳川氏が、自らの罪も承知の上で、これまでの国書偽造の事実を幕府に告発したのである 5 。
この江戸時代初期における最大の外交スキャンダルに対し、三代将軍・徳川家光と幕閣が下した裁定は、極めて政治的なものであった。幕府は、柳川氏をはじめとする偽造の実行犯らを流罪や斬罪に処する一方で、藩主の宗義成については「幼少時のことで関知していなかった」としてお咎めなしとし、宗氏が引き続き対朝鮮外交の窓口役を担うことを認めた 27 。これは、幕府が日朝関係の安定を最優先し、今さら外交の担い手である対馬藩を取り潰すことの不利益を考慮した、現実的な判断であった。
この事件は、歴史の皮肉を雄弁に物語っている。己酉条約がもたらした約200年間の平和は、交渉初期段階における「偽装」という不正行為によって支えられていた。まさに「嘘から出た実」を国家レベルで体現した稀有な事例と言える。そして、柳川一件で偽造が発覚したにもかかわらず日朝関係が破綻しなかったのは、条約締結から四半世紀以上が経過し、条約に基づく安定した関係が既に双方にとって利益のある「既成事実」となっていたからに他ならない。もし偽造がすぐに発覚していれば、国交は再び断絶したであろう。偽造によって稼いだ「時間」が、偽りの関係を「本物の安定」へと熟成させたという、逆説的な構造がここには存在するのである。
結論:戦国の終焉を告げた外交的偉業
1609年の己酉条約は、豊臣秀吉が残した戦国時代最大の負の遺産、すなわち破綻した対朝鮮関係を清算し、日朝間に新たな安定と秩序をもたらした、徳川幕府最初にして最大の外交的成功であった。それは、戦国という「武」の時代の完全な終焉と、徳川による「文治」の時代の幕開けを、国際関係の面から象徴する出来事であった。
この条約は、新時代の平和秩序を構想した徳川家康の戦略、国家の尊厳を守りつつも国民の救済という実利を優先した朝鮮王朝の現実的な判断、そして何よりも、二大国家の威信と面子の狭間で、藩の存亡をかけて国書偽造という禁断の手段にまで手を染めた対馬宗氏の、執念ともいえる外交努力の賜物であった。
その出発点には欺瞞という危うい要素を内包しながらも、結果として約200年の長きにわたる平和な「信を通わす」時代、すなわち朝鮮通信使の時代を現出したという事実は、歴史の複雑さと奥深さを示している。己酉条約は、単なる二国間条約の枠を超え、戦国時代の動乱を乗り越え、近世という新たな時代の扉を開いた、画期的な外交的偉業として再評価されるべきである。
引用文献
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- 朝鮮通信使8 | 日朝文化交流史 - FC2 https://tei1937.blog.fc2.com/blog-entry-587.html
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- 聘交渉の際にも国書を偽造し、朝鮮国王の国書を改ざんした。 柳川 http://repo.beppu-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php?file_id=5388