最終更新日 2025-09-11

布教公許(1551)

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報告書:周防山口における布教公許(1551年)の多角的分析―戦国日本史の転換点

序章:戦国日本のなかの山口―西国の国際都市

天文20年(1551年)、周防国(現在の山口県)を拠点とする戦国大名・大内義隆が、イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルに対し、領内でのキリスト教布教を公式に許可した。歴史上「布教公許」として知られるこの出来事は、単なる一地方領主による宗教的寛容策に留まるものではない。それは、日本のその後の国際関係、宗教史、文化変容、さらには政治情勢にまで深遠な影響を及ぼした、画期的な事変であった。

この報告書は、一つの根源的な問いを基軸として構成される。すなわち、なぜ、禅宗をはじめとする仏教文化の篤実な庇護者であり、「末世の道者」とまで称された大内義隆は 1 、日本人にとって全く未知の異教であったキリスト教の布教を、公式に許したのであろうか。本報告書は、この問いに答えるべく、布教公許に至る政治的、経済的、文化的背景、その瞬間に至るまでの詳細な時系列、そしてそれがもたらした歴史的連鎖を、多角的な視点から徹底的に解明することを目的とする。

この歴史的決断の舞台となった山口の特異性を理解することは、極めて重要である。応仁の乱(1467-1477年)以降、中央の京都が荒廃の一途を辿るなか、山口は大内氏の統治のもとで驚異的な発展を遂げた。京都を模した都市計画が進められ、戦乱を逃れた公家や雪舟のような一流の文化人が多数集まり、洗練された文化サロンが形成されていた 1 。その繁栄は「西の京」と称されるほどであり、当時の日本において最も輝きを放つ都市の一つであった 3 。さらに、大内氏は日明勘合貿易の実権を掌握し、山口を国際交易の一大拠点へと発展させていた 3 。異国の文物や情報が絶えず流入するこの国際都市で布教の許可が下されたという事実そのものが、この出来事が単なる偶然の産物ではなく、時代の必然であった可能性を示唆している。

第一部:布教公許に至る道―背景と前提条件の解明

第一章:西国随一の権勢―大内氏の経済的・文化的基盤

大内義隆による布教公許という決断は、彼の個人的資質のみならず、大内氏が築き上げた独自の政治的・経済的・文化的基盤の上に成り立っていた。その基盤を理解することなくして、この歴史的転換点の本質を捉えることはできない。

勘合貿易の独占と富の蓄積

大内氏の権勢を支えた最大の柱は、日明貿易、すなわち勘合貿易によってもたらされる莫大な富であった。室町幕府3代将軍・足利義満の時代に始まったこの公式貿易は、明の皇帝に朝貢するという形式を取りながら、実質的には巨額の利益を生む国家的事業であった 5 。日本からは銅、硫黄、金、刀剣、漆器などが輸出され、明からは銅銭(永楽通宝など)、生糸、織物、陶磁器、書籍などが輸入された 5

当初、この貿易の権益は細川氏と大内氏が争っていたが、16世紀に入ると大内氏がその主導権を確立し、独占的な地位を築くに至った 1 。勘合符という一種の「パスポート」を用いるこの貿易 7 は、大内氏に安定した巨万の富をもたらし、その経済力は他の戦国大名を圧倒していた。一時期、日本で最大の経済力を持っていたとも言われる 3 。この圧倒的な財政基盤こそが、山口の都市建設、文化振興、そして新たな文物や思想を受け入れる精神的・物質的余裕の源泉となったのである。

「西の京」山口の成熟

勘合貿易で得た富を背景に、山口は文化都市として飛躍的な発展を遂げた。特に義隆の数代前の当主である大内弘世の代から、京都の街並みを模した計画的な都市づくりが進められていた 1 。碁盤の目状に区画された街路、寺社や邸宅の配置は、まさしく京都の写しであった。

義隆の時代には、応仁の乱で荒廃した京都から、三条西実隆をはじめとする多くの公家や文化人が戦乱を逃れて山口に下向した 2 。彼らは山口に都の洗練された文化をもたらし、義隆を中心とする高度な文化サロンが形成された。義隆自身も和歌や連歌、芸能に深く通じており、彼らとの交流を楽しんだ 1 。高名な画僧・雪舟もまた、山口を活動の拠点の一つとしたと伝えられている 1 。こうして山口は、政治・経済の中心であると同時に、当代随一の文化の中心地としての地位を確立し、「西の京」の名を不動のものとした。この異文化に対する開放性と知的好奇心に満ちた文化的土壌が、後にザビエルがもたらす全く新しい思想を受け入れる素地となったことは想像に難くない。

宗教政策と寺社勢力

大内氏は伝統的に宗教、特に禅宗を手厚く保護してきた 8 。義隆自身も、箱崎宮の再建や厳島神社、宇佐神宮など多くの寺社を手厚く保護したことから、僧侶や公家から「末世の道者」と称えられていた 1 。これは、大内氏の統治が既存の宗教的権威と深く結びついていたことを示している。しかし、その一方で、この強固な仏教勢力との関係性は、新たな宗教であるキリスト教の布教を許可する上で、慎重な政治的判断を必要とする要因でもあった。義隆が最終的に布教を許可したことは、彼の宗教観や政治的計算が、単なる伝統の墨守には留まらなかったことを物語っている。

第二章:統治者・大内義隆の実像―文化人と領主の狭間で

布教公許という前代未聞の決断を下した大内義隆とは、いかなる人物だったのか。彼の多面的な人物像と、彼が置かれていた複雑な政治状況を分析することは、この歴史的事件の核心に迫る上で不可欠である。

人物像の多面性

ルイス・フロイスが後に「当時の日本の最も有力な王」と評したように 1 、大内義隆は権力、財力、文化のいずれにおいても当代トップクラスの大名であった。彼は儒学や漢学、和歌、連歌、有職故実、芸能など、あらゆる文化に明るい一流の文化人であり、その治世初期は政治的にも安定していた 1 。しかし、その洗練された文化的素養とは裏腹に、軍事的な才能には恵まれていなかったとされる 9 。父・義興のような武勇を誇るタイプではなく、彼の文治主義的な傾向は、大内家の屋台骨を支える武断派の家臣たちとの間に、次第に埋めがたい溝を生んでいくことになる。

国際感覚と知的好奇心

大内氏が代々行ってきた勘合貿易や朝鮮との交易は、義隆に同時代の他の大名とは一線を画す国際感覚を育ませた 4 。彼は日常的に海外の情勢や文物に接しており、未知の世界に対する強い知的好奇心を持っていた。彼自身の言葉とされる記録には、ザビエルとの謁見に際し、その高い学識と欧州事情に興味を示したと記されている 10 。ザビエルが語る「天主(デウス)」の教えや、彼がもたらした西洋の文化・技術は、義隆の知的好奇心を強く刺激した 10 。布教の許可は、単なる宗教的寛容からではなく、南蛮との交易がもたらすであろう新たな利益の可能性を見据えた、極めて戦略的な判断でもあったのである 10

治世後期の政治状況

義隆の治世は、出雲の尼子氏を攻めた月山富田城の戦いでの大敗を境に、大きく傾いていく。この敗戦後、義隆は政治への関心を急速に失い、山口の築山御殿で公家たちと文芸活動に耽るようになったと言われる 1 。政治の実権は、相良武任ら文治派の側近に委ねられたが、これが筆頭重臣である陶隆房(後の晴賢)ら武断派の家臣たちの不満を爆発させる直接的な原因となった 9 。家臣団の統制は乱れ、政権内部の対立はもはや修復不可能なレベルに達していた。

このような不安定な政治状況下で、ザビエルとの出会いは義隆にとって特別な意味を持った可能性がある。内政の行き詰まりから目をそらし、新たな知的刺激を求める逃避であったかもしれない。あるいは、仏教勢力や武断派家臣とは異なる、全く新しい外部の権威(=キリスト教と、その背後にあるポルトガル王国の存在)と結びつくことで、失墜しかけた自らの権威を再強化しようとする、起死回生の一手であった可能性も否定できない。

第三章:フランシスコ・ザビエルの日本布教戦略―京都での挫折と学び

大内義隆が布教を許可するに至った背景には、許可を求めた側の人物、フランシスコ・ザビエルの戦略と思考の変遷が決定的な役割を果たしていた。彼の日本における布教活動は、試行錯誤の連続であり、特に京都での経験がその後の戦略を根本から変えることになる。

初期の布教活動と限界

1549年8月、ザビエルは日本人アンジロウ(ヤジロウ)の案内で鹿児島に上陸し、日本で最初のキリスト教の布教を開始した 11 。その後、平戸に移り、領主・松浦隆信の歓迎を受けて100人ほどの信者を獲得するなど、一定の成果を上げた 13 。しかし、薩摩では仏僧の反対に遭い活動が制限されるなど 14 、その影響力はあくまで局所的なものに留まっていた。ザビエルは、個々の領主の許可を得るだけでは、日本全国に福音を広めることはできないと痛感し始めていた。

最高権威を目指した上洛

ザビエルは、日本の統治システムの頂点に立つ「日本の国王」、すなわち天皇から全国的な布教の許可を得ることが、最も効率的かつ確実な方法であると考えるようになった 13 。彼の書簡には、「日本の国王や大諸侯たちがいるミヤコへ行きたい」という強い願望が繰り返し記されている 13 。彼は、日本の政治的・文化的中心地である京都で最高権威者のお墨付きを得ることで、全ての障壁を取り払い、布教活動を飛躍的に進展させられると期待していたのである。

京都での絶望と戦略転換

1550年10月に山口を経由し、多大な困難の末に1551年1月、ザビエルは念願の京都に到着した 12 。しかし、彼が目の当たりにしたのは、応仁の乱の戦火によって荒廃しきった都の無残な姿であった 12 。天皇の権威は名目上のものに過ぎず、実権は完全に失われていた。さらに、ザビエルは天皇への謁見を願ったが、高価な献上品を持たない彼の願いは聞き入れられることはなかった 14

この京都での痛烈な失敗は、ザビエルにとって決定的な学習の機会となった。彼は、日本の権力構造がヨーロッパのような中央集権体制ではなく、実効支配力と富を持つ地方の有力大名(=実力者)が真の権力者であることを悟った。そして、布教の鍵は、名目上の最高権威者ではなく、これらの実力者から直接許可を得ることにあると理解した。この認識に基づき、彼は布教戦略を180度転換させる。すなわち、「貧しい托鉢僧」として教えを説くスタイルから、「異国の権威ある使節」として有力者にアプローチし、相手の文化や価値観を尊重しながら交渉を進めるという、極めて現実的な戦略へと舵を切ったのである。

この新しい戦略の最初のターゲットとして選ばれたのが、西国随一の富と権勢を誇り、国際情勢にも明るい大内義隆であった。こうして、新しい刺激と権威を求める統治者(義隆)、現実的な戦略に転換した宣教師(ザビエル)、そして国際性に富んだ都市(山口)という三つの要素が、1551年の春、山口という舞台で交差する。それは偶然ではなく、それぞれの背景が導いた必然的な帰結であった。ザビエルが山口で確立したこのアプローチ、すなわち「権威者へのトップダウンアプローチ」と「貿易や技術という実利とのパッケージング」は、その後のイエズス会宣教師たちの基本戦略となり、大友宗麟や織田信長への働きかけにも応用されていく。山口での布教公許は、単発の成功事例に留まらず、その後の「キリシタンの世紀」の布教戦略の原型、すなわち「山口モデル」を創出した点で、極めて重要な意味を持つのである。

第二部:1551年、山口―歴史が動いた瞬間の時系列再現

第一章:再訪―周到な準備と戦略の転換(1551年4月下旬)

1551年4月、京都での挫折を経て平戸に戻ったザビエルは、大内義隆との再会見に向けて周到な準備を進めた。前年(1550年)の最初の山口訪問では、みすぼらしい身なりの僧として扱われ、義隆にまともに取り合ってもらえなかった経験があった 14 。その苦い教訓から、彼は今回、全く異なるアプローチを取ることを決意する。

彼の戦略転換の核心は、自らの立場を「貧しい神の僕」から「ポルトガル領インド総督の公式使節」へと変えることにあった。彼は、本来であれば天皇に捧呈すべく用意していたインド総督とゴア司教の親書を携え、外交使節として義隆に謁見する計画を立てた。これは、日本の支配者層が権威や体面を重んじる文化を持っていることを見抜いた上での、計算された演出であった。

さらに、その権威を視覚的に示すための「小道具」として、豪華な献上品が用意された。それらは、望遠鏡、洋琴(クラヴィコードと推定される鍵盤楽器)、自鳴鐘(機械式置時計)、ガラス製の水差し、鏡、眼鏡、小銃、そして美しい絵画など、当時の日本人にとっては驚異の的であったであろう品々であった 2 。これらは単なる贈り物ではない。西洋の進んだ技術力と文化水準を雄弁に物語り、文化人である義隆の知的好奇心を最大限に刺激するための、極めて戦略的な「プレゼンテーションツール」だったのである。

この戦略転換が如何に劇的であったかは、二度の訪問を比較することで一層明確になる。

表1:ザビエルの山口における二度の訪問比較

項目

1550年(初訪問)

1551年(再訪問)

目的

天皇への上洛の経由地

大内義隆からの布教許可獲得

立場/服装

貧しい巡回僧

インド総督の公式使節

献上品

なし

望遠鏡、置時計、洋琴など13品 2

義隆の反応

冷遇、無視に近い扱い 14

強い関心を示し、丁重に歓待 2

結果

滞在許可を得られず退去

布教公許、大道寺の提供 15

この表が示す通り、ザビエルは京都での失敗から学び、わずか数ヶ月のうちにアプローチを根本から変えた。その結果が、歴史を動かすことになる。

第二章:謁見と問答(1551年4月下旬~5月上旬)

準備を万端に整えたザビエル一行は、1551年4月下旬、再び山口の地を踏んだ。今回は前回と打って変わり、大内義隆との公式な謁見が速やかに実現した。

義隆は、公式使節として現れたザビエルを丁重に迎え、献上された品々に驚きと強い関心を示した。特に、定刻になると自動で時を告げる自鳴鐘の精巧な仕組みには、深く感銘を受けたと伝えられている 2 。これらの珍しい品々がもたらした文化的・技術的インパクトは、義隆の心を大きく開き、ザビエルの言葉に真摯に耳を傾けさせるための完璧な導入となった。

謁見の場では、義隆からキリスト教の教義に関する様々な質問が投げかけられた。天地を創造した唯一神(デウス)の存在、霊魂の不滅、なぜ神は悪魔を創ったのか、といった根源的な問いが交わされた。ザビエルは、通訳のフアン・フェルナンデスを介し、時には仏教の教えと比較しながら、キリスト教の論理的な世界観を説いた。義隆自身がキリスト教に改宗することはなかったが、その教えの持つ体系性と論理性に深い感銘を受けたとされる 10 。この対話は、単なる儀礼的な謁見を超え、二つの異なる文明の知性が初めて本格的に交わった瞬間であった。

第三章:「公許」の発令(1551年5月)

数度の謁見と問答を経て、大内義隆は歴史的な決断を下す。天文20年5月、彼はフランシスコ・ザビエルに対し、領内におけるキリスト教の布教を公式に許可したのである。

この決断の背景には、複数の動機が複雑に絡み合っていたと考えられる。

第一に、南蛮貿易がもたらすであろう経済的利益への期待。ザビエルとの良好な関係が、ポルトガル船の来航を促し、大内氏にさらなる富をもたらすという計算があったことは間違いない 10。

第二に、ザビエルが示した西洋の進んだ文化や技術への純粋な魅力と知的好奇心 10。

第三に、領内で大きな力を持つ既存の仏教勢力に対する牽制。新たな宗教勢力を公認することで、旧来の権威とのバランスを取ろうとする政治的な狙いがあった可能性も指摘できる。

そして第四に、義隆自身の知的探求心と、異文化に対する寛容な精神である。

この公許の具体的な証として、義隆はザビエル一行の布教と居住の拠点として、当時使われていなかった廃寺、大道寺を与えた 17 。これは、既存の寺社との直接的な衝突を避けつつ、布教活動に具体的な場所を提供するという、義隆の巧みな政治的配慮が窺える措置であった。こうして大道寺は、日本における最初の常設のキリスト教会(南蛮寺)となり、山口におけるキリスト教布教の輝かしい歴史の舞台となったのである 14

第四章:山口での布教活動の展開(1551年5月~9月)

布教の公許と大道寺という拠点を得たザビエルの活動は、一気に加速した。彼は大道寺において、毎日2回の公開説教を行った 15 。その内容は、天地創造主であるデウスの教えやイエス・キリストによる救済といったキリスト教の核心部分に留まらなかった。ザビエルは、当時の日本社会、特に仏僧の堕落に対して、極めて厳しい批判を展開した。男色(衆道)の罪、金銭によって救済が左右されるという教え(布施を強要する姿勢)、子殺しや堕胎の黙認などを、神の教えに反する行いとして公然と非難したのである 22

これらの説教は、山口の仏僧たちとの間で激しい公開討論(宗論)を巻き起こした 25 。大道寺や街頭で繰り広げられる論争は、多くの民衆の関心を集め、キリスト教の教えが良くも悪くも山口の隅々にまで知れ渡るきっかけとなった。ザビエルの無骨な日本語や異様な風体は嘲笑の的となることもあったが 26 、その論理的で情熱的な語りは、多くの人々の心を捉えた。

その結果は驚くべきものであった。約5ヶ月間の精力的な活動で、山口では武士から庶民に至るまで500人以上が洗礼を受けたと記録されている 12 。この成功を象徴する出来事が、盲目の琵琶法師との出会いであった。彼はザビエルの説教に深く心を打たれ、キリスト教の教えを受け入れ、ロレンソ了斎という洗礼名を受けた。彼は後に優れた伝道者となり、日本人による布教活動の先駆けとなった 15

山口での日々は、ザビエル自身にとっても忘れがたい経験であった。彼は後の書簡で、山口での経験を振り返り、「私の生涯でこれほどの霊的な満足感を受けたことは決してなかったと、ほんとうに言うことができると思います」と記している 27 。それは、彼の新しい戦略が完璧に機能し、日本布教の確かな手応えを掴んだ喜びの表明であった。

第三部:激動の余波―公許後の展開と歴史的意義

第一章:ザビエルの退去と政変の勃発

山口での布教が軌道に乗り、多くの信者を獲得した1551年9月、ザビエルのもとに豊後国(現在の大分県)の大名・大友義鎮(後の宗麟)から招きの使者が届いた。大友氏は大内氏と並ぶ九州の有力大名であり、ザビエルはこの機会を逃さなかった。山口での成功を足がかりに、九州へと布教の輪を広げるべく、彼は後事をコスメ・デ・トーレス神父らに託し、山口を離れる決断を下した 14

しかし、ザビエルが山口を去ったまさにその直後、彼の築き上げた全てを根底から揺るがす大事件が発生する。ザビエルが出発してからわずか10日後の同年9月、大内義隆と対立を深めていた重臣・陶隆房(晴賢)が、ついに謀反の兵を挙げたのである。義隆はなすすべなく山口を追われ、長門の大寧寺に追い詰められて自害した 20 。世に言う「大寧寺の変」である。キリスト教の布教を許可し、ザビエルと深い知己の関係を築いた庇護者・大内義隆の突然の死により、山口のキリスト教共同体は、発足からわずか数ヶ月で存亡の危機に立たされた。

第二章:新体制下でのキリスト教―断絶と継承

主君を弑逆した陶晴賢が山口の実権を握ったことで、義隆が保護したキリスト教は弾圧され、宣教師たちは追放されるのが自然な成り行きであった。キリスト教は、晴賢らが打倒した「旧体制の象徴」の一つと見なされてもおかしくなかったからである。しかし、事態は誰もが予想しなかった方向に展開する。

陶晴賢は、大内氏の家督を継がせるため、豊後の大友義鎮と密約(「内々之儀」)を結び 28 、義鎮の実弟である大友晴英を新しい当主として山口に迎え入れた。彼こそが後の大内義長である 28 。この傀儡当主の擁立という政治的背景が、山口のキリスト教徒たちにとって奇跡的な救いとなった。

絶望的な状況の中、山口に残っていたトーレス神父に対し、新当主・大内義長は、キリスト教の布教を改めて許可するという内容の「裁許状」を発行したのである 30 。この裁許状の存在は、山口の聖ザビエル記念公園にその碑が残されていることからも確認できる 17 。傀儡である義長自身の意思というよりは、むしろ彼の背後にいた兄・大友宗麟の強い意向が働いた結果と見るのが妥当であろう。宗麟はすでにザビエルと接触し、南蛮貿易がもたらす利益に強い関心を示していた 32 。晴賢としても、宗麟との関係を維持するために、この条件を飲まざるを得なかった可能性が高い。つまり、山口のキリスト教の命運は、大内氏内部の力学ではなく、周防と豊後という二大勢力を結ぶ、より大きな国際政治の力学によって救われたのである。

この公式な後ろ盾の継続により、山口の教会は危機を乗り越えた。そして1552年、大道寺において日本で最初のクリスマスミサが祝われたとされている 19 。西洋音楽である賛美歌が山口の空に響き渡り、この地における南蛮文化は新たな段階へと進んだ。

第三章:歴史的意義と後世への影響

1551年の山口における布教公許と、その後の政変を乗り越えての布教継続は、日本史に計り知れない影響を及ぼした。

大友宗麟への影響と九州布教の拠点化

山口でのザビエルの成功と、実弟・義長による布教許可の追認は、かねてより南蛮文化に関心を寄せていた大友宗麟の態度を決定的なものにした。宗麟はザビエルを豊後府内に歓待し、領内での手厚い保護を約束した 32 。これにより、イエズス会の布教活動の重心は山口から豊後へと移り、九州がその後の日本のキリシタン布教の中心地となっていく大きな流れが形成された。宗麟自身も後にキリシタン大名となり、府内に総合病院を建設するなど、キリスト教文化の導入に積極的な役割を果たした 34

イエズス会布教戦略の確立

山口での経験は、イエズス会の対日布教戦略そのものを確立させたと言える。京都での失敗と山口での成功の対比から、彼らは「貿易と布教の一体化」「有力大名へのトップダウンアプローチ」という極めて有効な手法を学んだ 26 。この「山口モデル」は、ヴァリニャーノをはじめとする後継の宣教師たちに引き継がれ、織田信長や豊臣秀吉といった天下人との交渉においても基本戦略として用いられた。日本のキリシタン史の展開は、この山口での経験なくしては語れない。

大内文化の終焉と歴史への刻印

大内義長と陶晴賢の体制も長くは続かず、やがて中国地方の覇権を狙う毛利元就によって滅ぼされ、西国に栄華を誇った大内氏は完全に歴史から姿を消した 34 。熱心な浄土真宗の信者であった元就はキリスト教に否定的であり 35 、大内氏の滅亡とともに、山口におけるキリスト教の黄金期は短期間で幕を閉じた。しかし、そこで蒔かれた種が消えることはなかった。九州の大名たちに与えた影響は言うまでもなく、毛利家臣の中にも、後にキリシタンとなる毛利秀包のような人物も現れた 36

さらに重要なのは、山口の布教公許が、日本の宗教史において「組織的かつ公的に認可された異文化宗教の受容」の最初の本格的な事例となった点である。それまで日本に伝来した仏教などが、神仏習合という形で土着の信仰と融合しながら長い時間をかけて受容されていったのとは異なり、キリスト教は唯一絶対神を掲げ、偶像崇拝を否定し、既存の宗教(仏教)を明確に「誤り」と批判する非妥協的な性格を持っていた 22 。このような排他的な一神教が、領主の公式な許可を得て組織的に布教されたことは、日本の歴史上初めてのことであった。それは、日本の宗教的寛容性のあり方を問い直すとともに、後の豊臣秀吉によるバテレン追放令や江戸幕府の禁教令といった、宗教をめぐる深刻な対立と排斥の時代の幕開けを、期せずして準備する出来事でもあったのである。

結論:1551年の布教公許が日本史に刻んだもの

天文20年(1551年)の周防山口における布教公許は、戦国日本の歴史における画期的な転換点であった。それは、大内義隆という類稀な文化人領主が持つ知的好奇心と政治的打算、そして京都での手痛い失敗から現実的な戦略を学んだフランシスコ・ザビエルの粘り強い交渉が、国際都市・山口という特異な土壌の上で交差した、奇跡的とも言える産物であった。

この出来事は、単に一つの宗教が布教を許されたという事実以上に、広範かつ深遠な影響を日本史に与えた。第一に、それはその後のイエズス会の対日布教戦略の礎を築いた。有力大名に接近し、貿易の利益と先進技術を提示しながら布教の許可を得るという「山口モデル」は、キリシタンの世紀を通じて宣教師たちの基本戦術となった。

第二に、大友宗麟をはじめとする九州のキリシタン大名の登場を促す直接的な引き金となった。山口での成功がなければ、九州がキリスト教の一大中心地となることはなく、日本のキリシタン史は全く異なる様相を呈していたであろう。

そして最も重要なのは、この布教公許が、日本という国が西洋世界と初めて本格的に、かつ公式に向き合った瞬間であったという点である。それは、大航海時代の荒波が日本の岸辺に到達したことを告げる号砲であり、その後の日本の宗教、文化、国際関係、そして政治体制にまで、避けがたい影響を与え続ける「キリシタンの世紀」の真の幕開けを告げる出来事であった。大内義隆の決断は、彼自身と大内家の滅亡によって短命に終わったかに見えたが、その決断が解き放った歴史の潮流は、その後数世紀にわたって日本を揺さぶり続けることになるのである。

巻末付録

表2:山口布教公許に関連する年表

年月

出来事

関連人物

典拠

1549年8月

ザビエル、鹿児島に上陸

ザビエル、アンジロウ

11

1550年9月

ザビエル、平戸に来航

ザビエル、松浦隆信

12

1550年12月

ザビエル、最初の山口訪問(冷遇される)

ザビエル、大内義隆

14

1551年1月

ザビエル、京都に到着(目的果たせず)

ザビエル

12

1551年4月下旬

ザビエル、山口を再訪し義隆に謁見

ザビエル、大内義隆

16

1551年5月

布教公許。大道寺が与えられる

大内義隆

15

1551年5-9月

山口で布教活動、約500人が受洗

ザビエル、ロレンソ了斎

12

1551年9月

ザビエル、大友宗麟の招きで豊後へ出発

ザビエル、大友宗麟

14

1551年9月

大寧寺の変。大内義隆、自害

大内義隆、陶晴賢

20

1551年

大内義長が新当主に擁立される

大内義長、陶晴賢、大友宗麟

28

1552年

大内義長、トーレス神父に裁許状を再発行

大内義長、トーレス

30

1552年12月

大道寺にて日本初のクリスマスが祝われる

トーレス

19

引用文献

  1. 「大内義隆」西国の覇者として全盛期を迎えるも、家臣のクーデターで滅亡へ。 | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/796
  2. 大内義隆 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%86%85%E7%BE%A9%E9%9A%86
  3. 【武田知弘氏インタビュー】戦国時代は経済戦争の時代でもあった ... https://www.sbbit.jp/article/cont1/23662
  4. 山口県の歴史【第1回|中世編】大内氏-毛利氏~中世史から見えた、近代の先鋭的な政治力 https://discoverjapan-web.com/article/46435
  5. 勘合貿易/日明貿易 - 世界史の窓 https://www.y-history.net/appendix/wh0801-024_01.html
  6. 日明貿易 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%98%8E%E8%B2%BF%E6%98%93
  7. 勘合貿易 日本史辞典/ホームメイト https://www.touken-world.jp/history/history-important-word/kango-boeki/
  8. 大内氏の妙見信仰と興隆寺二月会 - 山口県文書館 http://archives.pref.yamaguchi.lg.jp/user_data/upload/File/kiyou/017/kiyou17-02.pdf
  9. 大内義隆・雅にだけ生きた最後の当主 - 周防山口館 https://suoyamaguchi-palace.com/ouchi-yoshitaka/
  10. 大内義隆(おおうち よしたか) 拙者の履歴書 Vol.157~文雅と戦の狭間に生きて - note https://note.com/digitaljokers/n/n213f8e065d51
  11. キリスト教の伝来と繁栄の時代 | 「おらしょ-こころ旅」(長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産) https://oratio.jp/monogatari/monogatari-01
  12. 聖フランシスコ・ザビエルの足跡と平戸でのキリスト教の芽生え ... https://www.nippon.com/ja/features/c02303/
  13. ザビエル鹿児島を去り都へ - カトリック鹿児島司教区 https://kagoshima-catholic.jp/kagoshima-and-christianity/692.html/
  14. お知らせブログ - 銀天エコプラザ「ザビエルが結ぶマラッカと山口のつながり」 http://ubekuru.com/blog_view.php?id=4930
  15. フランシスコ・ザビエル - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%BB%E3%82%B6%E3%83%93%E3%82%A8%E3%83%AB
  16. 山口歴史探訪 西国一の大名大内氏の足跡を訪ねて 18 西国一の御屋形様 大内義隆とサビエル 1 https://4travel.jp/travelogue/11882193
  17. 聖ザビエル記念公園 - キリシタンゆかりの地をたずねて - 女子パウロ会 https://www.pauline.or.jp/kirishitanland/20110727_XavierPark.php
  18. 「基礎演習Ⅱ」における地域とグローバルの視点構築の試み ―アーネスト・サトウが注目した戦国山口とキリスト教の栄枯盛衰 http://www.l.yamaguchi-pu.ac.jp/archives/2017/01.part1/01.intercultural%20studies/18.inter_FURUBEPPU.pdf
  19. 大内義隆の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/97911/
  20. 大道寺 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%81%93%E5%AF%BA
  21. フランシスコ・ザビエル 日本史辞典/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/history/history-important-word/francis-xavier/
  22. 日本におけるキリスト教宣教の歴史的考察I - CORE https://core.ac.uk/download/147573759.pdf
  23. キリシタン世紀と日本仏教の変容 - 一、ザビエルの見た日本人と日本仏教 - CORE https://core.ac.uk/download/pdf/229097575.pdf
  24. フランシスコ・ザビエルが理解できなかった日本の男色文化 - ニュースクランチ https://wanibooks-newscrunch.com/articles/-/2637?page=2
  25. キリシタン時代最初期におけるキリスト教と仏教の交渉 - 東京基督教大学機関リポジトリ https://tcu.repo.nii.ac.jp/record/25/files/cw20142406.pdf
  26. キリスト教の日本に対する影響 - CORE https://core.ac.uk/download/pdf/197303702.pdf
  27. 4.大内文化の夕暮れに - Laudate | 日本キリシタン物語 https://www.pauline.or.jp/kirishitanstory/kirishitanstory04.php
  28. 大友義鎮 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8F%8B%E7%BE%A9%E9%8E%AE
  29. さらば!! 西国一の大名・大内氏「最後の当主」大内義長 - ふくの国 山口 https://happiness-yamaguchi.pref.yamaguchi.lg.jp/kiralink/202303/yamaguchigaku/index.html
  30. サビエル記念聖堂(山口県山口市亀岡町)の歴史 - 周防山口館 https://suoyamaguchi-palace.com/xavier-memorial/
  31. 大内義長 大友家の人・子孫は東広島で名家に - 周防山口館 https://suoyamaguchi-palace.com/otomo-harufusa/
  32. 大海原の王 「大友宗麟」 - 大分市 https://www.city.oita.oita.jp/o029/bunkasports/citypromotion/documents/5147ff54002.pdf
  33. 【大友宗麟】キリスト教国建設の野望による組織の崩壊|モリアドの森岡 - note https://note.com/moriad/n/nb694f8b06828
  34. 「大友宗麟(義鎮)」九州にキリスト教王国建設を目指した男! - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/795
  35. 安芸門徒への移行 - 安芸の夜長の暇語り - FC2 http://tororoduki.blog92.fc2.com/blog-entry-52.html
  36. キリシタン大名・毛利秀包/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/97078/