平戸日蘭条項整備(1610)
1610年、平戸でオランダ商館の約定が成立。家康はカトリック排除と実利追求の対外戦略を推進。松浦鎮信は藩存続のためオランダを誘致。これは日本の国際関係の画期であり、鎖国体制の礎となった。
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慶長十五年「平戸日蘭条項整備」の多角的分析:戦国期日本の対外戦略と近世的国際関係の萌芽
序章:慶長十五年、肥前平戸の覚書
慶長十五年(1610年)、肥前国平戸において、オランダ東インド会社初代商館長ヤックス・スペックスと平戸藩主松浦鎮信との間で、商館運営に関する具体的な約定が整えられた。この「平戸日蘭条項整備」は、一般に「商館運営の約定を整え交易安定」をもたらした事象として知られている。しかし、この簡潔な要約は、当該事象が持つ歴史的重層性と、その成立に至るまでのダイナミズムを看過させる危険性を孕んでいる。本報告書は、この1610年の条項整備を、単なる二国間の商取引協定としてではなく、16世紀半ばから続く日本の対外関係史における画期であり、徳川家康の世界戦略、平戸松浦氏の地域存亡をかけた戦略、そしてオランダ東インド会社のアジアにおける覇権戦略という、三者の思惑が交差した「必然の帰結」として捉え直すことを目的とする。
利用者によって提示された概要は、事象の「結果」の一側面に過ぎない。本報告書では、その「過程」と「背景」を、「日本の戦国時代という視点」から徹底的に掘り下げる。ここで言う「戦国時代という視点」とは、権力闘争、実利主義、情報戦といった、戦国時代を通じて日本の支配者層に深く刻み込まれた行動原理や思考様式を指す。徳川家康や松浦鎮信の対オランダ政策は、まさにこの戦国以来のリアリズムの力学によって貫かれている。
1610年の条項整備が画期的であったのは、徳川幕府が初めて、カトリック布教という「イデオロギー」を完全に切り離し、「実利」のみを追求する形でヨーロッパ勢力と持続的な関係を結んだ出発点であったからに他ならない。織田信長や豊臣秀吉の対南蛮政策が、布教の許容と禁止の間で揺れ動き、常に宗教問題と不可分であったのに対し、家康はオランダを「布教のリスクがない貿易パートナー」として明確に認識していた 1 。この認識は、リーフデ号の乗組員ウィリアム・アダムスらがもたらした情報によって形成されたものであり、情報戦における家康の勝利の産物であった。したがって、1610年の合意は、貿易と宗教を「分離」するという、後の「鎖国」体制へと繋がる徳川幕府の基本理念を、初めて実践した事例として評価できる。それは単なる交易の安定化以上の、思想的な転換点だったのである。本報告書は、この歴史的瞬間を、多層的かつ時系列的に解き明かすものである。
第一章:前史 ― 去りゆく南蛮船と、来たるべき「紅毛人」への渇望
慶長十四年(1609年)にオランダ船が平戸へ公式に来航する以前の半世紀は、平戸にとって栄光と挫折の時代であった。この時期の経験が、なぜ平戸が、そして日本が、オランダという新たな貿易相手を渇望するに至ったのか、その必然性を解き明かす鍵となる。
第一節:平戸、南蛮貿易の拠点としての栄光と挫折
肥前国松浦党の根拠地たる平戸は、古くから東アジアの海上交通の要衝であった。その地政学的な優位性が最大限に発揮されたのが、大航海時代の到来である。天文十九年(1550年)、松浦隆信の治世下でポルトガル船が初めて平戸に入港し、平戸は南蛮貿易の一大拠点として空前の繁栄を謳歌し始める 3 。同年、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルもこの地を訪れ、キリスト教の布教を開始した 2 。当時のカトリック教国にとって、交易と布教は不可分一体の活動であり、松浦隆信もまた、貿易がもたらす莫大な利益に着目し、布教を容認したのである 2 。
しかし、この蜜月関係は長くは続かなかった。キリスト教徒の増加は、既存の仏教勢力との間に深刻な軋轢を生んだ。改宗した信者による寺社の破壊行為などが頻発し、領内の宗教的対立は先鋭化していった 6 。そして永禄四年(1561年)、その対立は最悪の形で噴出する。「宮ノ前事件」である。平戸港近くの宮ノ前において、絹糸の取引を巡る些細なトラブルが、ポルトガル商人と日本人住民との間の大規模な乱闘へと発展した 6 。仲裁に入った武士をポルトガル側が敵の助太刀と誤認したことから事態はエスカレートし、船に戻り武装したポルトガル人による襲撃と、これに応戦する武士団との間で斬り合いとなった 6 。結果、ポルトガル側は船長フェルナン・デ・ソウサ以下14名もの死傷者を出す惨事となり、生き残った者たちは平戸港から脱出した 6 。
この事件の報を受けたイエズス会日本教区長コスメ・デ・トーレスは、事件後の処罰が不十分であるとして平戸での貿易を拒絶する決定を下す 6 。翌年からポルトガル船の寄港地は、キリスト教に改宗した大村純忠が領する横瀬浦(後の長崎)へと移り、平戸は十数年にわたって築き上げた南蛮貿易の利権を一夜にして喪失した 4 。
この宮ノ前事件は、平戸藩主松浦氏にとって、骨身に染みる「失敗の教訓」となった。単なる偶発的な乱闘ではなく、宗教対立という根深い問題と、異文化間の商取引におけるルールが未整備であったことに起因する構造的な問題が、領国経営の根幹を揺るがす大失態を招いたのである。約半世紀後、新たな貿易パートナーとしてオランダを迎えるにあたり、藩主・松浦鎮信が最も恐れたのは、この悪夢の再来であった。この苦い経験こそが、紛争を未然に防ぐための周到な準備、すなわち慶長十五年(1610年)の条項整備へと繋がる、強力な動機となったのである。
第二節:海の覇権を巡る大競争時代
17世紀初頭の東アジア海域は、旧来の覇者と新興勢力が激しく火花を散らす、まさに「戦国時代」の様相を呈していた。1580年から同君連合を結んでいたポルトガル・スペインというカトリックの旧勢力に対し、八十年戦争を経て事実上の独立を勝ち取ったプロテスタントの新興国ネーデルラント連邦共和国(オランダ)と、イングランド(イギリス)が挑戦状を叩きつけていた 1 。
この大競争時代の中核を担ったのが、1602年に設立されたオランダ連合東インド会社(VOC)である 10 。VOCは単なる貿易会社ではなく、アジアにおける対スペイン・ポルトガル戦争を遂行するための、国家の強力な「手先」としての性格を帯びていた 9 。その戦略は、アジア域内貿易に深く食い込み、そこから得られる利益でヨーロッパとの間の香辛料貿易の資金を賄うというものであり、そのためには先行するイベリア勢力の牙城を切り崩す必要があった 9 。
この戦略において、日本は極めて重要な位置を占めていた。当時の日本は世界有数の銀産出国であり、同時に、明朝の海禁政策により直接交易ができなかった中国産生糸の巨大な消費市場でもあった。マカオを拠点とするポルトガル商人は、日本の銀と中国の生糸を交換する中継貿易で莫大な利益を上げており、この lucrative な交易ルートの支配こそが、両陣営にとっての最重要課題だったのである 9 。
しかし、オランダは当初、中国大陸に拠点を有していなかった。そのため彼らが取った戦略は、ポルトガルの商船を海上で襲撃して積み荷の生糸を奪い、それを日本に持ち込んで売りさばくという、海賊行為と紙一重の過激なものであった 11 。この熾烈な競争は、日本近海を新たな戦場へと変え、日本の支配者に対し、誰をパートナーとして選ぶのかという戦略的な問いを突きつけることになった。
第三節:松浦鎮信の執念
父・隆信の跡を継いだ平戸藩初代藩主、松浦鎮信(法印)は、戦国の気風を色濃く残す、老練な武将であった。彼は、宮ノ前事件によって失われたポルトガル貿易に代わる新たな交易利権の確保を、藩の存続をかけた最重要課題と位置づけていた 2 。平戸は歴史的に後期倭寇の根拠地の一つであり、鎮信は海外交易がもたらす富の重要性を誰よりも熟知していた 13 。彼はただ待つだけでなく、自らシャム(タイ)に交易を求める書状を送るなど、多角的かつ積極的な外交を展開し、平戸再生の好機を虎視眈々と狙っていたのである 13 。
第二章:運命の漂着 ― 豊後の浜辺に流れ着いた未来の鍵
歴史の転換点は、しばしば偶然の出来事によってもたらされる。慶長五年(1600年)、豊後の海岸に一隻のオランダ船が漂着した事件は、まさに日蘭関係の扉をこじ開け、徳川家康と松浦鎮信に千載一遇の好機をもたらす、運命的な出来事であった。
第一節:慶長五年(1600年)四月、リーフデ号の衝撃
関ヶ原の戦いを約半年後に控えた慶長五年(1600年)四月、オランダ船リーフデ号が豊後国臼杵湾(現在の大分県臼杵市)に漂着した 14 。アジア航路開拓を目指してロッテルダムを出航した5隻の船団のうち、マゼラン海峡の荒波と太平洋の過酷な航海を乗り越え、唯一日本にたどり着いた船であった 12 。しかしその代償は大きく、出航時に110名ほどいた乗組員は、衰弱しきったわずか24名にまで減少していた 2 。
この生存者の中に、後の日本史にその名を刻むことになる二人の重要人物がいた。イギリス人の航海士ウィリアム・アダムス(後の三浦按針)と、オランダ人のヤン・ヨーステン(後の耶揚子)である 14 。彼らの漂着は、天下分け目の決戦を前に、日本の政治情勢が最も緊迫していた時期の出来事であった 15 。
第二節:大坂城での対面と情報戦
漂着者一行の代表として、ウィリアム・アダムスは当時大坂城にいた五大老筆頭、徳川家康と謁見することになる 2 。この対面は、単なる異国人との物珍しい出会いではなかった。それは、家康が仕掛けた高度な情報戦の始まりであった。家康の尋問は、世界の情勢、航海の真の目的、そして特にカトリック国(ポルトガル・スペイン)と彼らプロテスタント国との関係性など、極めて戦略的な関心に基づいていた 17 。
アダムスらがもたらした情報は、家康にとって衝撃的かつ極めて価値の高いものであった。彼らは、ポルトガルやスペインが世界各地で布教活動を隠れ蓑に植民地化を進めていること、一方でオランダやイギリスは純粋な交易を望んでおり、布教には熱心でないことなどを詳述した 1 。これは、それまでイエズス会宣教師など、カトリック側のフィルターを通してしかヨーロッパの情報を得られなかった家康にとって、世界を複眼的に捉えるための、全く新しい視点を提供するものであった。
家康にとってアダムスとヨーステンは、単なる漂流民ではなく、既存の情報源を相対化し、検証するための「カウンター・インテリジェンス」の源泉であった。彼らを幕府の外交顧問として厚遇し、江戸に屋敷まで与えたのは 18 、彼らが持つ航海術や造船術といった技術的知識だけでなく、この「情報源」としての価値を最大限に活用しようとする、家康の深謀遠慮の表れであった。日蘭関係の幕開けは、この情報戦における家康の戦略的勝利という、強固な土台の上に築かれたのである。
第三節:布石 ― 平戸からの助け船
数年の後、慶長十年(1605年)、家康はリーフデ号の船長ヤコブ・クワッケルナックとメルキオール・ファン・サントフォールトの帰国を許可した 19 。この千載一遇の好機を、平戸の松浦鎮信が見逃すはずはなかった。彼はすぐさま家康に願い出て、自ら西洋式の船を新造し、彼らをオランダのアジアにおける拠点であったパタニ(マレー半島)まで送り届けるという大役を買って出たのである 2 。
この船は単なる送還船ではなかった。家康はこの船に、オランダとの交易を公式に希望する旨を記した親書(朱印状)を託していた 19 。つまり、鎮信の船は事実上の外交使節団の役割を担ったのである。これは、鎮信によるオランダへの恩を売り、将来的な関係構築において主導権を握るための、計算され尽くした「投資」であった。平戸へのオランダ商館誘致という壮大な計画に向けた、極めて巧みかつ決定的な布石が、この時に打たれたのであった。
第三章:慶長十四年(1609年)夏の攻防 ― 駿府と平戸、二つの舞台
松浦鎮信によって打たれた布石は、4年の歳月を経て実を結ぶ。慶長十四年(1609年)夏、オランダからの公式使節団が日本に来航した。この時から徳川家康による通商許可の朱印状が下賜されるまでの過程は、駿府と平戸という二つの舞台で繰り広げられた、緻密な外交交渉の記録である。
第一節:オランダ船、平戸へ入港
慶長十四年七月一日(旧暦五月三十日)、オランダ東インド会社の船、デ・ローデ・レーウ・メット・ペイレン号とデ・フリフーン号の2隻が、松浦鎮信の待つ平戸港に入港した 7 。この船団には、オランダ総督マウリッツ・ファン・ナッサウの親書を携えた特使アブラハム・ファン・デン・ブルックと、商業面の交渉を担当するニコラース・ポイクが乗船していた 17 。さらに、かつてリーフデ号で漂着し、鎮信の船でパタニへ渡ったメルキオール・ファン・サントフォールトが、通訳として一行に加わっていた 19 。
鎮信はこの待望の来航を熱狂的に歓迎し、直ちに駿府に隠居していた大御所・徳川家康へ早馬を送り、吉報を伝えた 2 。アダムスは江戸に近い浦賀への入港を望んでいたとされるが、結果的にオランダ船が平戸を選んだことは、鎮信の長年の努力が報われた瞬間であった 11 。
第二節:駿府への旅路と交渉のリアルタイム記録
使節団一行の目的は、日本の実質的な最高権力者である家康に謁見し、通商の許可を得ることにあった。彼らが江戸の二代将軍・秀忠のもとではなく、駿府の家康を直接目指したという事実は、当時の日本の政治において、外交の実権が完全に家康の掌中にあったことを如実に物語っている 19 。
この駿府への旅と交渉の様子は、ニコラース・ポイクが記録した「駿府旅行記」によって、今日我々もリアルタイムで追体験することができる。この記録は長らく行方不明とされていたが、後にドイツのカールスルーエにあるバーデン地方図書館で唯一の写本が発見され、日蘭交渉初期の様子を伝える極めて貴重な一次史料となっている 19 。
「駿府旅行記」によれば、一行は駿府城で家康に謁見し、オランダ総督の親書と数々の献上品を手渡した 19 。その交渉の場で、オランダ使節が最も注目し、その動向に腐心していた人物こそ、家康の側近となっていたウィリアム・アダムスであった。ポイクはアダムスを「皇帝(家康)のもとで大きな尊敬を得、かつ親密な関係にある男」と記し、彼との良好な関係を築くことが交渉成功の鍵を握っていると正確に分析していた 19 。オランダ側は、これから始める商売そのものよりも、まずアダムスの歓心を買うことに火花を散らしていた様子がうかがえる。一方で、家康と、その懐刀である本多正純は、そのアダムスを巧みにコントロールし、交渉の主導権を完全に掌握していたことも、ポイクの記述から読み取れる 19 。
第三節:家康の決断 ― 朱印状に込められた戦略
家康はオランダ使節を丁重に迎え、彼らの要求通り、通商を許可する朱印状を発給した 18 。この朱印状は、現在もオランダのハーグ国立公文書館に国宝級の扱いで厳重に保管されている 19 。その内容は、オランダ側に破格の待遇を与えるものであった。特筆すべきは、「日本のどこの港に寄港してもよい」という、極めて広範で自由な通商活動を保障する一文が記されていたことである 22 。
この「どこでも寄港可」という条項は、単なる家康の好意や寛大さの表れではない。それは、既存の貿易構造を破壊し、幕府が日本の対外貿易全体をコントロールするための、高度な政治戦略であった。当時、西国における南蛮貿易はポルトガルが拠点を置く長崎に集中しており、その利権は特定の勢力に偏在し、幕府の直接的なコントロールが及びにくい側面があった 20 。家康は、オランダや後に来航するイギリスに自由な港湾選択権を与えることで、平戸の松浦氏だけでなく、他の西国大名にも貿易船誘致の機会を与え、港同士を競争させようとした。
長崎のポルトガル、平戸のオランダ、そして将来的には他の港でも、といった具合に貿易拠点が分散・競争する状況が生まれれば、特定勢力の強大化を防ぎ、幕府は各勢力の上位に立つ調停者として、貿易の主導権を握ることができる。この朱印状は、オランダへの許可証であると同時に、国内の諸大名と既存のポルトガル勢力に対する、強力な牽制球でもあった。家康の戦国武将としてのリアリズムと、天下人としての深謀遠慮が、この一枚の朱印状には凝縮されていたのである。
第四章:条項整備 ― 日蘭交易の礎を築いた約定の詳細
慶長十四年(1609年)に徳川家康から下賜された朱印状は、日蘭間の公式な通商関係を国家レベルで保障するものであった。しかし、それはあくまで包括的な許可であり、平戸の現場における日々の商館運営や交易活動に関する細則までを定めたものではなかった。この「国家間合意」を、実務レベルで機能させるために不可欠だったのが、翌慶長十五年(1610年)に行われた、初代オランダ商館長と平戸藩との間での具体的な運営上の取り決め、すなわち「平戸日蘭条項整備」である。
第一節:初代商館長ヤックス・スペックスの着任
朱印状という最大の成果を得たオランダ側は、正式に平戸を日本における活動拠点と定め、商館を設立することを決定した 12 。その初代商館長(opperhoofd)として白羽の矢が立ったのが、ヤックス・スペックスであった 25 。彼は1607年にオランダを出航した艦隊の一員としてアジアへ渡り、日本との交易を開始する船団に加わって来日した人物である 24 。商館の立ち上げというゼロからの事業と、平戸藩との間で交わされる実務交渉の全てが、彼の双肩にかかっていた。
第二節:商館運営を巡る約定の再構成
1610年の条項整備について、その全てを網羅した単一の成文史料が今日に伝わっているわけではない。それは、スペックスと松浦鎮信、あるいはその家臣との間で交わされた、実務レベルの覚書や口頭での約定の総体であったと推定される。しかし、その後の商館の運営実態や、商館誘致の動機となった過去の出来事から逆算することで、この時に合意されたであろう主要な項目を論理的に再構成することは可能である。それは、宮ノ前事件という痛恨の失敗を繰り返すまいとする平戸藩の強い意志と、アジアでの交易拠点を安定的に確保したいオランダ側の利害が一致した、極めて現実的な取り決めの集合体であった。
その内容は、大きく「土地・施設」「交易・税制」「司法・紛争解決」「情報提供」の四つのカテゴリーに分類できる。
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土地と施設に関する取り決め:
商館は当初、平戸の町人が所有する土蔵付きの民家を借り受ける形で業務を開始した 27。したがって、まず土地や建物の賃借契約、およびその借料に関する具体的な合意がなされたことは間違いない。さらに、将来的な事業拡大を見据え、倉庫や住居といった施設の増改築に関する許可や、その際の手続きについても、初期の段階で基本的な了解が取り付けられていたと考えられる。事実、商館は1616年に倉庫や埠頭を造成し、その後も段階的に施設を拡張、1639年には壮麗な石造倉庫を建設するに至るが 10、これらの発展は、この初期の合意が強固な基礎となっていたからこそ可能だったのである。 -
交易と税に関する取り決め:
交易品の価格をどのように決定するかは、双方にとって最も重要な問題であった。完全な相対交渉に委ねるのか、あるいは藩の役人が仲介し、公定価格を設定するのか、といった具体的な手続きが定められたであろう。そして、松浦鎮信が商館を誘致した最大の目的は、交易から上がる利益であった。そのため、オランダ側が平戸藩に対して支払うべき税(運上金)や各種手数料の有無、その算定方法や税率に関する規定は、この条項整備の中核をなす項目であったと推察される。 -
司法権と紛争解決に関する取り決め:
これは、宮ノ前事件の教訓から、平戸藩が最も重要視した項目であったに違いない。日本人との無用な軋轢を避けるため、商館員の行動規範がある程度定められた可能性がある。さらに重要なのは、万が一オランダ人と日本人の間で紛争が発生した場合の解決手続きである。どちらの国の法で裁くのか、平戸藩の奉行が仲裁に入るのか、あるいは商館長の自治に委ねられるのか。こうした司法権に関する取り決めは、異文化間の接触において発生しうる混乱を最小限に抑え、安定した関係を長期的に維持するための生命線であった。 -
情報提供に関する取り決め:
徳川家康がオランダに期待した役割は、単なる貿易相手に留まらなかった。それは、ポルトガル・スペイン勢力に対抗するための、新たな情報チャンネルとしての役割であった。したがって、オランダ船が入港する際には、ヨーロッパやアジア各地の最新情勢を幕府および平戸藩へ報告することが、暗黙の、あるいは明文化された義務として課せられたと考えられる。この取り決めこそが、後に制度化され、江戸時代を通じて日本の対外情報収集の根幹を担うことになる「和蘭風説書」の原型となったのである 29。
これらの約定をまとめたのが、以下の表である。これは、散逸した情報や状況証拠から、慶長十五年(1610年)の「条項整備」の全体像を論理的に復元する試みである。
表1:平戸日蘭条項整備(慶長十五年頃)の主要項目(推定)
カテゴリ |
推定される約定内容 |
関連する背景・史料 |
土地・施設 |
商館用地の賃借契約。当初は既存家屋の借用。将来の拡張・建築に関する手続きの合意。 |
27 (当初民家を借用) / 10 (後の拡張) |
交易・税制 |
交易品の価格交渉方法の取り決め。平戸藩への運上金(税)の納付義務と税率に関する合意。 |
2 (松浦氏の経済的動機) / 30 (幕府の貿易統制) |
司法・紛争解決 |
商館員の行動規範。日蘭間の紛争発生時の仲裁・解決プロセスの設定(平戸藩の介入など)。 |
6 (宮ノ前事件の教訓) |
情報提供 |
来航時に海外情勢を報告する義務。後の「和蘭風説書」の原型。 |
19 (家康の情報戦略) / 29 (風説書の制度化) |
身分保障 |
商館員の生命・財産の安全保障。藩による保護。 |
22 (朱印状の国家レベルの保障を、藩レベルで具体化) |
第五章:平戸オランダ商館の成立と展開
慶長十五年(1610年)の条項整備によって法的な枠組みと実務的な運営基盤を得た平戸オランダ商館は、その後、目覚ましい発展を遂げる。しかし、その繁栄は永続するものではなかった。幕府の対外政策の転換という大きな時代のうねりが、平戸の国際貿易港としての歴史に終止符を打つことになる。1610年の合意が、いかなる歴史的射程を持っていたのかを明らかにするためには、その後の展開を概観する必要がある。
第一節:「小さなオランダ街」の形成
商館設立後、平戸の崎方町一帯は、さながら「小さなオランダ街」の様相を呈していった。当初借り受けた民家だけでは手狭になり、周囲の土地を買い上げて、本館、宿泊所、調理場、倉庫などが次々と建設・増設されていった 10 。特に、増大する交易品を保管するための倉庫の建設は急務であり、1616年には最初の倉庫が完成、その後も複数の倉庫が建てられた 10 。その発展の頂点を示すのが、寛永十六年(1639年)に完成した、日本で初めての西洋式石造建築とされる堅牢な倉庫である 10 。
平戸時代のオランダ商館が、後の長崎出島と大きく異なっていたのは、その開放的な雰囲気であった。商館員は比較的自由に行動でき、平戸の住民との日常的な交流も盛んに行われていた 31 。後の明朝の復興運動を担い、「国姓爺」として知られる鄭成功の父、鄭芝龍が平戸の日本人女性・田川マツと結ばれ、鄭成功をもうけたのも、まさにこの自由な交流が可能であった平戸時代の出来事である 26 。
第二節:イギリス商館との競争と共存
平戸の国際性は、オランダの独占ではなかった。慶長十八年(1613年)、イギリス東インド会社も徳川家康から同様の朱印状を得て、オランダ商館のすぐ近くにイギリス商館を設立した 3 。これにより平戸は、オランダとイギリスという二つのプロテスタント国の対日貿易の拠点となり、カトリック勢力であるポルトガル・スペインに対抗する前線基地としての性格を強めた。両国は時に協力し、時には日本市場で激しく競争しながら、平戸の国際的な賑わいを一層深めていった。
第三節:幕府の対外政策転換と平戸時代の終焉
平戸オランダ商館が繁栄を極める一方で、徳川幕府の対外政策は、次第に硬化の一途をたどっていた。キリスト教に対する警戒心は禁教令へと繋がり、貿易の管理・統制を強化する、いわゆる「鎖国」体制への移行が着々と進められていた。寛永十四年(1637年)に勃発した島原の乱は、その動きを決定的なものとし、幕府は乱の背後にカトリック勢力の策動を疑い、ポルトガル人を日本から追放するに至る。
その矛先は、やがて平戸のオランダ商館にも向けられた。寛永十七年(1640年)、幕府は大目付・井上政重を平戸に派遣し、前年に完成したばかりの石造倉庫の破却を厳命した 10 。その表向きの理由は、倉庫の破風に西暦年号である「1639」という数字が刻まれており、これがキリスト教年号であるため禁教令に違反するという、言いがかりに近いものであった 10 。
そして翌、寛永十八年(1641年)、幕府は追い打ちをかけるように、オランダ商館そのものを長崎の出島へ移転するよう命令した 10 。これにより、1609年の入港から33年間にわたって続いた平戸オランダ商館の歴史は、突如として幕を下ろしたのである 10 。
倉庫の年号が単なる口実に過ぎなかったことは明らかである。幕府の真の狙いは、貿易によってもたらされる莫大な富と、それに付随する海外情報を、幕府の直轄地である長崎に集約・一元管理することにあった。平戸藩のような特定の外様大名が、貿易利権を独占し、幕府から半ば独立した形で海外と繋がる状況を、幕府はもはや許容しなかったのである。これは、かつて家康が諸港を競争させることで貿易全体をコントロールしようとした戦略の、最終的な帰結であった。幕府による全国支配体制が盤石になるにつれて、地方の独自性は削がれ、全ての富と情報が中央に収斂される体制、すなわち近世的な中央集権体制が完成へと向かう、その象徴的な出来事であった。
結論:一六一〇年の条項が拓いた二百数十年の道
慶長十五年(1610年)の「平戸日蘭条項整備」は、肥前の一地方における、一つの商館の運営規則を定めただけの出来事ではなかった。それは、戦国時代の動乱を経て新たな国際秩序を模索していた日本の、対外政策における基本方針を体現する、画期的な一歩であった。本報告書で詳述してきたように、この事象は、徳川家康の天下人としての情報戦略と実利主義、失地回復に燃える平戸藩主・松浦鎮信の地域存亡をかけた誘致活動、そしてアジアの海に覇を唱えんとするオランダ東インド会社の世界戦略が、歴史の交差点で見事に合致した瞬間に生まれた、必然の産物であった。
この条項整備が画期的であったのは、それが後の「鎖国」時代へと繋がる、徳川日本の対外関係の基本原則を初めて具体化した点にある。すなわち、キリスト教布教というイデオロギーを徹底的に排除し、純粋な「実利」としての交易関係を構築すること。そして、貿易の対価として、海外の情勢という「情報」を体系的に入手する仕組みを構築すること。この二つの原則は、1610年の平戸で産声を上げ、その後の日蘭関係を規定し続けることになった。
平戸における33年間の経験は、決して無駄にはならなかった。宮ノ前事件の教訓から生まれた紛争解決のルール、日々の交流の中で育まれた相互理解、そして「和蘭風説書」へと繋がる情報提供の義務。これらの積み重ねによって醸成された日本とオランダの間の特殊な信頼関係こそが、幕府が対外関係を厳しく制限する「鎖国」時代において、オランダを唯一ヨーロッパとの交易を許された国家たらしめた根源的な理由である。平戸での条項整備と、それに基づく33年間の共存の歴史なくして、長崎出島のオランダ商館が二百数十年にわたり存続することはあり得なかったであろう。
最終的に平戸オランダ商館は、幕府の中央集権化政策の前に、その役割を終え、長崎出島へと移転させられた。しかし、1610年に平戸の地で蒔かれた種は、形を変えながらも生き続け、近世日本の発展に不可欠な海外の知識や文物を日本にもたらす、細くも強靭なパイプとして機能し続けたのである。この事象は、戦国時代特有の権力闘争と実利主義の論理の延長線上にありながら、近世という新たな時代の安定した国際関係を模索する、過渡期の日本の姿を鮮やかに映し出している。1610年の平戸での約定は、まさに、そこから始まる二百数十年の道を拓いた、歴史的な礎石であったと言える。
引用文献
- ポルトガル - 世界史の窓 https://www.y-history.net/appendix/wh0603_2-068.html
- レポート ・平戸はなぜオランダ商館? https://washimo-web.jp/Report/Mag-Hirado.htm
- 平戸 - 世界史の窓 https://www.y-history.net/appendix/wh1002-006_1.html
- 平戸市 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%88%B8%E5%B8%82
- 施設のご案内 - 【公式】平戸オランダ商館ホームページ https://hirado-shoukan.jp/facility/
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