平戸藩キリシタン取締強化(1614)
慶長十九年、幕府の禁教令を受け、平戸藩はキリシタン取締を強化。藩主松浦隆信は長崎の教会破壊に加担し、藩内の信仰を地下化。オランダ・イギリスとの貿易に活路を見出し、藩の存続をかけた戦略的決断を下した。
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慶長十九年 平戸藩キリシタン取締強化の真相 ―幕令への恭順と独自の論理―
序論:慶長十九年、平戸藩の岐路
慶長十九年(1614年)、徳川幕府は「伴天連追放文」を全国に発布し、キリスト教を国法によって禁ずる断固たる姿勢を示した 1 。この全国一律の禁教令は、西海の果てに位置し、国際貿易港として半世紀以上にわたり独自の地位を築いてきた肥前国平戸藩にとって、単なる中央政権からの命令以上の、藩の存亡を左右する岐路を意味した。表面的には、平戸藩はこの幕令に迅速かつ忠実に従い、キリシタン取締を強化したと記録されている。しかし、この行動を単に幕府への追従行為として捉えることは、事態の本質を見誤らせる。
本報告書は、この「平戸藩キリシタン取締強化(1614)」という事象を、徳川幕府の全国的な禁教政策というマクロな視点と、平戸藩主松浦氏が置かれていた独自の政治的・経済的状況というミクロな視点の双方から解き明かすことを目的とする。分析を進めることで、平戸藩の行動が受動的な命令遵守ではなく、自らの政治的・経済的存続をかけた、複合的かつ戦略的な判断の結果であったことが明らかになるであろう。その行動の背後には、少なくとも三つの深層的な動機が存在した。第一に、幕府の禁教令に十五年も先行して断行された藩独自のキリシタン弾圧(慶長四年、1599年)の総仕上げという国内事情。第二に、布教を伴うカトリック勢力(ポルトガル)から、布教を切り離したプロテスタント勢力(オランダ・イギリス)への貿易パートナー転換という国際環境の変化。そして第三に、藩主自身の複雑な信仰的背景を乗り越え、徳川体制下で生き残るための極めて個人的な政治決断である。これらの要素が絡み合い、慶長十九年の平戸藩の動態を形成したのである。
第一章:背景 ―禁教前夜の全国情勢と平戸の特異性
第一節:徳川幕府の政策転換 ―融和から禁絶へ
江戸幕府を開いた徳川家康は、当初、キリスト教に対して融和的な姿勢を見せていた。豊臣秀吉の禁教令が徹底されなかったこともあり、家康もまた南蛮貿易がもたらす経済的利益を重視し、宣教師の活動を事実上黙認していたのである 3 。この時期、日本のキリシタン人口は増加を続け、最大で30万人を超えたと推定されている 3 。
しかし、幕藩体制の確立が進むにつれ、家康の態度は硬化していく。その転換点の一つが、慶長十七年(1612年)に発覚した岡本大八事件である。この事件は、キリシタンであった家康の側近・岡本大八が、キリシタン大名・有馬晴信を欺いた汚職事件であったが、幕府にキリスト教徒の組織力と、それが大名と結びついた際の潜在的な脅威を強く認識させる結果となった 1 。さらに、キリスト教徒が日本の寺社を破壊する行為や、スペインが日本への武力侵攻を検討していたという情報も、家康の警戒心を煽った 4 。
こうした状況下で、家康はキリスト教を幕府の支配体制と相容れない危険な思想と断定するに至る。そして慶長十八年十二月二十三日(西暦1614年2月1日)、臨済宗の僧・金地院崇伝に起草させた「伴天連追放文」が、二代将軍・徳川秀忠の名で公布された 1 。この文書は、「日本は神国」であると宣言し、キリスト教の教えは「正宗なる神仏を惑わす邪宗」であると断罪した。さらに、宣教師らが貿易を隠れ蓑に「邪法を広めて正宗を混乱させ、日本の政治を改変しようとしている」と非難し、これを「大きな禍の兆し」と結論付けた 1 。この論理は、キリスト教の禁絶が単なる宗教弾圧ではなく、日本の国家秩序と伝統を防衛するための、根源的な政治的・思想的決断であることを示している。この禁教令をもって、幕府の政策は黙認から完全な禁絶へと大きく舵を切ったのである。
第二節:平戸藩のキリシタン事情 ―先行する十五年の葛藤
平戸藩がキリスト教と深く関わるようになったのは、他の多くの西国大名と同様、南蛮貿易の利益が動機であった。天文十九年(1550年)、ポルトガル船が平戸に来航すると、時の藩主・松浦隆信(道可)は貿易の振興のため、フランシスコ・ザビエルらイエズス会宣教師の布教活動を許可した 5 。貿易と布教は表裏一体であり、この政策によって平戸は「西の都」と呼ばれるほどの賑わいを見せ、日本におけるキリスト教布教の初期拠点の一つとして繁栄した 5 。
この繁栄の中で、藩の重臣であった籠手田安経とその一族、そして一部勘解由らもキリスト教に改宗した 5 。彼らは敬虔なキリシタンとして、自らの領地に住む人々を集団的に改宗させ、平戸島西部や生月島はキリシタンの一大勢力圏と化した 7 。しかし、このキリシタン勢力の拡大は、藩内に深刻な亀裂を生じさせる。古くからの仏教勢力と新興のキリスト教勢力との間で対立が先鋭化し、藩政の安定を揺るがす要因となっていった 6 。
状況が決定的に変化したのは、キリスト教に寛容であった松浦隆信(道可)が慶長四年(1599年)に死去した後のことである。跡を継いだ松浦鎮信(法印)は、藩内におけるキリシタン家臣の勢力拡大を強く警戒していた。鎮信は、籠手田氏らに対し棄教を迫り、これに従わない彼らとその配下の信徒約600名を平戸から追放するという強硬策に打って出た 7 。この事件により、平戸藩は徳川幕府が全国禁教令を発布する十五年も前に、藩独自の判断で大規模なキリシタン弾圧と禁教政策を開始するという、全国的にも極めて特異な状況下にあった 2 。教会は破壊され、信徒たちは信仰の支柱を失ったが、領民の大量流出を懸念した鎮信は、これ以上の過酷な迫害を一時的に手控えたため、多くの信徒は水面下で信仰を維持し続けた 2 。
第三節:新たな貿易秩序の胎動 ―オランダ・イギリス商館の開設
慶長四年(1599年)の弾圧により、平戸藩はカトリック勢力と距離を置くことになったが、国際貿易港としての地位を失うことはなかった。その理由は、布教を目的としない新たな貿易パートナー、すなわちプロテスタント国家のオランダとイギリスの登場である。
慶長十四年(1609年)、オランダ東インド会社の船が平戸に入港し、徳川家康から通商許可を得て、平戸にオランダ商館が開設された 10 。さらに、全国禁教令が発布される前年の慶長十八年(1613年)には、イギリス東インド会社のクローブ号が来航し、これも家康の許可を得て平戸にイギリス商館を設置した 10 。
この二つの商館の存在は、平戸藩の対外政策、ひいてはキリシタン政策に決定的な影響を与えた。ポルトガルやスペインといったカトリック国が貿易と布教を不可分一体のものとして推進したのに対し、オランダとイギリスは純粋な商業的利益を追求し、布教活動には関与しなかった。この事実は、平戸藩にとって画期的な意味を持っていた。かつては「キリスト教を弾圧することは、貿易の利益を失うこと」を意味した。しかし、プロテスタントという「布教なき貿易」の選択肢を得たことで、この方程式は崩壊したのである。
むしろ、「カトリックを弾圧し、幕府への忠誠を示しつつ、プロテスタントとの貿易で利益を上げる」という、藩にとって遥かに有利な新しい方程式が成立した。カトリック勢力を排除することに伴う経済的リスクが大幅に軽減されたことで、平戸藩は幕府の禁教令に対し、ためらいなく、むしろ積極的に同調できる戦略的環境を手に入れた。1614年の決断は、単なる宗教的・政治的理由だけでなく、この新しい国際環境を最大限に活用しようとする、平戸藩の冷徹な経済的合理性によって強力に後押しされていたのである。
第二章:事変の詳説 ―慶長十九年(1614年)、平戸藩の動態
第一節:幕令の受領と藩内の相克(1614年初頭)
慶長十八年十二月(西暦1614年初頭)、将軍・徳川秀忠の名で発せられた「伴天連追放文」が平戸藩に伝達された時、藩の実権は若き藩主・松浦隆信(宗陽)が握っていた 2 。彼は、1599年にキリシタン追放を断行した祖父・鎮信(法印)の後継者であったが、その出自は極めて複雑であった。彼の母・松東院(洗礼名メンシア)は、九州を代表するキリシタン大名・大村純忠の五女であり、自身も熱心なキリシタンであった 6 。彼女は、息子の隆信が病に罹った際、キリシタンのミサと祈りによって平癒したとして、隆信自身に洗礼を受けさせたという記録さえ残っている 2 。
この事実は、幕府が「邪宗」と断罪したキリスト教と、藩主自身が直接的な関係にあったことを意味する。幕府から見れば、これは潜在的な謀反の芽と見なされかねない、極めて危険な要素であった。幕府からの禁教の厳命は、藩主個人の信仰的背景や家族関係に深く突き刺さるものであり、深刻な葛藤を引き起こしたことは想像に難くない。
しかし、松浦隆信(宗陽)は、この個人的な相克を乗り越え、藩の存続を最優先するという政治的決断を下す。この決断は、単なる藩主としての職務遂行を超えた意味合いを持っていた。それは、自らのキリシタンとしての過去を公的に払拭し、徳川の治世下における忠実な大名として生まれ変わるための、一種の「通過儀礼」であった。単に領内で取締りを強化するだけでは、幕府への忠誠を証明するには不十分であった。かつてキリシタンと縁の深かった松浦家が、今や心底から幕府に従っていることを、疑いの余地なく示さねばならなかった。そのための最も効果的な手段が、次に示すキリシタンの中心地・長崎への出兵と、教会破壊への積極的な加担だったのである。
第二節:長崎における教会破壊への加担(1614年10月~11月)
慶長十九年十月、幕府は高山右近や内藤如安といった有力キリシタン、そして多数の宣教師を長崎に集め、マニラやマカオへ追放する措置を断行した 2 。この国家的な事業において、平戸藩主・松浦隆信は、同じくキリシタン大名の血を引く大村藩主・大村純頼と共に、藩兵を率いて長崎へ赴いた 2 。彼らに課せられた任務は、追放されるキリシタンたちの警護と、長崎市内に林立する教会施設の徹底的な破壊であった。
この行動は、平戸藩が幕府の禁教政策の忠実な実行者であることを、幕府上使や他の西国大名に対して明確に示すための、計算された政治的パフォーマンスであった。十一月、幕府上使・山口直友と長崎奉行・長谷川藤広の指揮のもと、破壊作業は実行された。現在の長崎歴史文化博物館の地にあった「山のサンタ・マリア教会」や、旧長崎県庁舎跡地にあった「被昇天の聖母教会」、港を見下ろす「岬のサンパウロ教会」など、合計11に及ぶ主要な教会堂が、平戸藩兵も加わった手によって次々と打ち壊されていった 15 。かつて「東の小ローマ」とまで称された長崎のキリシタン文化の象徴が、音を立てて崩れ去っていく光景は、幕府の禁教への断固たる意志を天下に示すものであり、それに積極的に加担する松浦隆信の姿は、彼の過去との決別と幕府への完全な恭順を内外に強く印象付けた。
第三節:藩内における取締強化の具体策(1614年以降)
長崎での「奉公」を終え、平戸に戻った松浦隆信は、その矛先を自領内のキリシタンへ向けた。幕府の権威を背景に、これまで水面下で続けられてきた藩内のキリスト教信仰を根絶するための、より徹底した取締強化策が実行されたのである。
まず、領内に残存していた教会堂や十字架といったキリスト教のシンボルは、ことごとく破壊された 8 。そして、信徒に対しては棄教が強く迫られた。この時期に、後の宗門改制度や絵踏につながるような、信仰を炙り出すための原型的な仕組みが導入され始めたと考えられる。棄教に応じない者は処罰の対象となり、多くの信徒は生命と信仰の狭間で過酷な選択を迫られた。
この結果、平戸のキリシタンの多くは、表面的には仏教徒や神道の氏子を装い、密かにキリスト教の信仰を維持する「潜伏キリシタン」とならざるを得なかった 5 。彼らは仏壇や神棚を設けつつも、その奥にマリア観音を隠し、オラショと呼ばれる祈りを唱え、信仰共同体を維持していった 5 。この時点で、平戸藩のキリシタン政策は、慶長四年(1599年)の有力者「追放」を中心としたものから、慶長十九年(1614年)以降の、一般民衆を対象とした「潜伏を強いる管理体制」へと、その質を大きく変化させたのである。
表:慶長十八年末~十九年における幕府と平戸藩の動向
年月 (西暦) |
幕府・全国の動向 |
平戸藩の動向 |
備考 |
慶長18年12月 (1614年1-2月) |
金地院崇伝が「伴天連追放文」を起草。徳川秀忠の名で全国に禁教令を発布 1 。 |
幕府からの禁教令を受領。藩主・松浦隆信(宗陽)が藩内の対応を最終決定。 |
藩主の母はキリシタン大名・大村純忠の娘 6 。 |
慶長19年 (1614年) |
全国の教会破壊、宣教師の捕縛、信徒の国外追放準備が進行 3 。 |
藩内キリシタンへの監視を強化。長崎への出兵準備を開始。 |
1599年から続く藩独自の禁教政策の最終段階へ移行 2 。 |
慶長19年10月 (1614年11月) |
高山右近、内藤如安ら有力信徒と多数の宣教師を長崎に集め、マニラ・マカオへ追放 2 。 |
藩主・松浦隆信が自ら藩兵を率いて長崎へ出陣 2 。 |
大村藩と共に、追放者の警護と教会破壊の任にあたる。 |
慶長19年11月 (1614年12月) |
幕府上使・山口直友と長崎奉行・長谷川藤広の指揮下で、長崎市内の主要教会11箇所を徹底的に破壊 15 。 |
平戸藩の藩兵が、長崎の教会破壊作業に直接参加 2 。 |
幕府への忠誠を明確に示すための積極的加担。 |
慶長19年以降 |
禁教政策を全国で本格化。宗門改制度の整備へと進む 1 。 |
藩内での取締を恒常化。潜伏キリシタンの時代へ移行 8 。 |
オランダ・イギリスとの貿易は継続される 10 。 |
第三章:影響とその後 ―禁教強化が平戸にもたらしたもの
第一節:信仰の地下化と変容
慶長十九年(1614年)の取締強化は、平戸におけるキリスト教信仰のあり方を根底から変えた。公の場での信仰が不可能になった信徒たちは、完全に地下へと潜行し、約250年にも及ぶ長い潜伏の時代へと入っていく。宣教師という指導者を失った中で、彼らは独自の信仰共同体を形成し、親から子へと密やかに信仰を継承していった 5 。
その信仰形態は、弾圧を避けるために日本の伝統的な宗教と融合・偽装しながら、その核を維持するという独自のものへと変容した。例えば、キリスト教の聖画を仏画風の掛け軸に描き変えたり、聖水を徳利に入れて保管したりするなど、様々な工夫が凝らされた 5 。また、ラテン語の祈りを日本語の音に置き換えた「オラショ」が口伝で受け継がれ、共同体の結束を支える重要な役割を果たした 5 。
一方で、弾圧は多くの殉教者を生んだ。平戸藩による禁教初期にキリシタンが処刑された中江ノ島は、潜伏キリシタンたちにとって重要な聖地となり、彼らは密かにこの島を崇敬し、聖水を汲む「お水取り」といった儀式を行っていた 21 。こうした殉教の記憶は、潜伏キリシタンたちの信仰心を一層強固なものにし、彼らのアイデンティティを形成する上で不可欠な要素となった。追放された宣教師の中には、カミロ・コンスタンツォのように危険を冒して再潜入し、平戸一帯で宣教を続けた者もいたが、彼らもまた捕縛され、殉教の道を辿った 22 。平戸のキリスト教は、弾圧によって一度は潰えたかに見えたが、その信仰は地下で深く、そして独自に根を張り続けたのである。
第二節:貿易体制の再編と平戸の変質
禁教強化は、平戸の国際貿易港としての性格をも決定的に変質させた。カトリック勢力との公的な関係が断絶した一方で、布教を伴わないプロテスタント国家であるオランダとイギリスとの関係が、藩の対外貿易の主軸として確立された。これにより、平戸はかつての「宗教と一体化した貿易港」から、「宗教色を排した純粋な商業港」へとその性格を大きく転換させた。
この変化は、短期的には平戸藩に安定した貿易利益をもたらし、幕府の禁教政策とも矛盾しないという利点があった。しかし、長期的には、平戸が日本の対外貿易の窓口としての地位を失う遠因となった。イギリス商館はオランダとの競争に敗れるなどして経営が振るわず、元和九年(1623年)にはわずか10年で閉鎖されてしまう 10 。残ったオランダ商館も、幕府が貿易管理と情報統制を強化する中で、最終的に寛永十八年(1641年)、長崎の出島へと移転を命じられる。
これにより、戦国時代から日本の西の玄関口として栄華を誇った平戸の国際貿易港としての歴史は、事実上の終焉を迎える。キリスト教(カトリック)を排除し、プロテスタントとの貿易に活路を見出した平戸藩の戦略は、徳川の治世下で生き残るための巧みな一手であったが、それは同時に、平戸が国際貿易の最前線から退き、一地方の城下町へと変質していく過程の始まりでもあった。
結論:平戸藩の選択が意味するもの
慶長十九年(1614年)に平戸藩が断行した「キリシタン取締強化」は、徳川幕府の絶対的な命令に対する単なる恭順行為ではなかった。それは、幕藩体制という新たな政治秩序の中で、西海の雄・松浦氏が藩の存続をかけて行った、多角的かつ戦略的な行動であったと結論付けられる。
その本質は、三つの複合的な論理によって説明できる。第一に、それは慶長四年(1599年)以来、十五年間にわたって続けられてきた藩独自のキリシタン統制政策の最終的な完遂であった。幕府という絶対的な権威を借りることで、藩内の潜在的な対立勢力を根絶し、藩主の権力基盤を盤石にするという国内政治的な目的があった。
第二に、それは国際環境の変化を的確に捉えた、極めて合理的な経済的判断であった。布教を伴わないプロテスタント国家(オランダ・イギリス)という新たな貿易パートナーを確保したことで、カトリック勢力を排除しても貿易利益を維持できるという見通しが立っていた。この経済的合理性が、禁教令への積極的な同調を可能にした。
そして第三に、それは藩主・松浦隆信(宗陽)自身の、極めて個人的な政治的決断であった。キリシタンの母を持ち、自らも洗礼を受けた過去を持つ彼にとって、誰よりも率先して禁教政策を遂行することは、その過去を清算し、徳川の忠実な臣下として認知されるための不可欠な通過儀礼であった。
このように、平戸藩の選択は、幕府への恐怖心や忠誠心のみならず、藩の既定方針、経済的打算、そして藩主個人の政治的生存戦略が複雑に絡み合った結果であった。それは、戦国の遺風が色濃く残る時代から近世へと移行する過渡期において、一地方権力が生き残るために下した、苦渋に満ちた、しかし冷徹なまでに計算された選択だったのである。
引用文献
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- 平戸市再考No.015キリシタン禁教と諸宗教 - 島の館|平戸市生月町 https://shimanoyakata.hira-shin.jp/index.php/view/326
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- 徳川家康「キリスト教を徹底弾圧した」深い事情 日本がスペイン植民地になった可能性もある https://toyokeizai.net/articles/-/355272?display=b
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- イギリス商館(イギリスしょうかん)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E3%81%84%E3%81%8E%E3%82%8A%E3%81%99%E5%95%86%E9%A4%A8-3142862
- キリスト教の迫害/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/97028/
- イエズス会が記録した細川ガラシャの姿|髙田重孝 - note https://note.com/shigetaka_takada/n/n45d45ce7abe8
- 長崎歴史文化博物館 (宣教師の国外追放と協会の破壊、キリシタン根絶へ) - 国土交通省 https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/R1-00785.html
- 江戸町の歴史について - 長崎県 https://www.pref.nagasaki.jp/shared/uploads/2013/03/1370491747.pdf
- 長崎新キリシタン紀行-vol.3 弾圧と日本人の信仰心 - ながさき旅ネット https://www.nagasaki-tabinet.com/feature/shin-kirishitan/3
- 「いま甦る、キリシタン史の光と影。」 第8話聖地として語り継がれた地 https://christian-nagasaki.jp/stories/8.html
- 16-19世紀日本におけるキリシタンの受容・禁制・潜伏 https://kokubunken.repo.nii.ac.jp/record/1860/files/KA1078.pdf
- 長崎新キリシタン紀行-vol.4 潜伏キリシタンの集落と信仰構造の実態 - ながさき旅ネット https://www.nagasaki-tabinet.com/feature/shin-kirishitan/4
- 世界遺産「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」って? | 観光特集 - travel Nagasaki https://www.at-nagasaki.jp/feature/christian
- 焼罪 | 「おらしょ-こころ旅」(長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産) https://oratio.jp/p_resource/yaiza-2