広島城下町造成(1590)
天正十八年、毛利輝元は吉田郡山城から太田川デルタへ本拠を移し、広島城下町を造成。軟弱地盤を克服し、太田川の分流を堀に活用。軍事・経済・統治を統合した新都を築き、西国随一の商業都市へと発展させた。
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広島城下町造成(1590年):戦国末期における新都創生の軌跡
序章:時代の転換点と毛利氏の決断
天正十八年(1590年)を中心とする広島城下町の造成は、単なる一地方大名による本拠地の移転という事象に留まらない。それは、戦国という旧時代の終焉と、豊臣秀吉によって確立されつつあった新たな天下統一の秩序に適応しようとした、西国最大の雄・毛利氏の国家的戦略の表れであった。この一大事業を理解するためには、まず豊臣政権下における毛利輝元の立場と、旧来の本拠地が抱えていた構造的限界を深く考察する必要がある。
豊臣政権下の毛利氏の立場
毛利輝元は、祖父・元就が一代で築き上げた中国地方の広大な版図を継承し、豊臣政権下においては112万石を領する大大名であった 1 。その地位は、秀吉が最も信頼を置く大名で構成された「五大老」の一角を占めるに至り、名実ともに関東の徳川家康に次ぐ、西国随一の存在感を示していた。しかし、その立場は決して安泰ではなかった。秀吉の天下統一事業が完成に近づくにつれ、各大名は旧来の独立した「国主」から、豊臣政権という中央集権体制に組み込まれた「近世大名」へと、その性格を大きく変容させることを余儀なくされていた。この時代における大規模な築城事業は、単なる軍事拠点の構築という戦国的な意味合いを超え、大名の経済力、技術力、そして領民を動員する統治能力を天下に示す、極めて重要な政治的パフォーマンスとしての意味を帯びていたのである。
旧本拠地・吉田郡山城の限界
鎌倉時代以来、毛利氏が本拠としてきた安芸国の吉田郡山城は、中国山地の懐深く、江の川水系の可愛川と多治比川に挟まれた丘陵に築かれた、典型的な中世の山城であった 1 。幾重にも連なる曲輪と堅固な防御施設は、戦国の世を勝ち抜く上では理想的な要塞であった。しかし、時代が変わり、天下が統一されようとする中で、その地理的条件はむしろ毛利氏の発展を阻害する足枷となりつつあった。
山間に位置する郡山城は、領国経営、特に商業の振興や瀬戸内海の水運を基盤とする広域経済活動を展開するには著しく不便であった 2 。豊臣秀吉が淀川河口の低湿地に築き上げ、政治・経済・軍事を一体化させた一大拠点として機能していた大坂城と比較した時、その差は歴然としていた 3 。もはや、防衛一辺倒の山城では、新たな時代の大名として領国を統治し、経済を発展させ、ひいては豊臣政権内での発言力を維持することは困難である。輝元が下した決断は、この時代の要請に対する必然的な応答であった。
新時代への適応と輝元の戦略的決断
輝元は、豊臣秀吉の大坂城を明確に意識し、これに倣った城と城下町が一体となった近世的な新都の建設を決意する 3 。それは、旧来の軍事偏重の思考から、経済と流通を国家経営の根幹に据える近世大名へと、毛利氏が自己変革を遂げようとする強い意志の表明に他ならなかった。
この本拠地移転という一大プロジェクトは、単なる物理的な移動ではない。それは、毛利氏の権力構造そのものを再編し、家臣団を新たな都市に集住させ、領国支配をより直接的かつ強固なものにするための国家的事業であった。そして、その建設プロセス自体が、秀吉への恭順の意を示すと同時に、毛利氏が持つ潜在的な力を天下に誇示するための、高度に計算された政治的戦略でもあった。葦の茂るデルタという、誰もが困難と考える土地にあえて巨大都市をゼロから建設する様を天下に示すこと。それは、完成後の都市機能だけでなく、建設の過程そのものが、豊臣政権内での政治的駆け引きの道具として意図されていたことを示唆している。輝元は、新秩序の受動的な追随者ではなく、その中で自らの価値を最大化しようとした、能動的な戦略家だったのである。
表1:吉田郡山城と広島城の比較
項目 |
吉田郡山城 |
広島城 |
立地 |
内陸部の山城 |
沿岸部の平城 |
地理的条件 |
中国山地内の丘陵地 |
太田川河口の三角州(デルタ) |
戦略的機能 |
防衛中心 |
統治・経済・軍事の統合拠点 |
交通アクセス |
陸路のみで水運に乏しい |
瀬戸内海の水運と西国街道の陸運の結節点 |
城下町の構造 |
自然地形に沿った小規模な谷筋の町 |
計画的な碁盤目状の大規模な城下町 |
時代的性格 |
中世的・軍事的 |
近世的・政治経済的 |
第一章:新都の地政学 ― なぜ太田川デルタだったのか
毛利輝元が新都の地として選んだのは、太田川が瀬戸内海へと注ぐ広大な三角州地帯であった。この選択は、大きなリスクを伴う一方で、それを上回る計り知れない戦略的価値を秘めていた。本章では、この土地が持つ地政学的な意味と、輝元が直面した地理的課題、そして彼の先進的な都市設計思想を解き明かす。
選ばれし土地「五ヶ村」の戦略的価値
築城以前、この地は「五ヶ村」と呼ばれ、広大なデルタ地帯にいくつかの小村が点在する、葦の生い茂る寒村に過ぎなかった 1 。しかし、輝元はこの一見不毛に見える土地に、毛利氏の未来を託すに足る三つの大きな可能性を見出していた。
第一に、瀬戸内海の内海交通における圧倒的な優位性である。この地は、西日本の海上交通の大動脈である瀬戸内海航路に直結しており、ここを拠点とすることで、毛利氏は瀬戸内海の制海権をより強固に掌握することが可能となる 1 。これは、物資の輸送だけでなく、有事の際の水軍の展開においても計り知れない利点をもたらす。
第二に、陸上交通の要衝としての価値である。京都と九州を結ぶ大動脈である西国街道(山陽道)が、このデルタ地帯の北側を通過していた 5 。この重要な街道を計画的に城下へと引き込むことで、広島は人、物資、そして情報が絶えず行き交う一大集積地となる潜在能力を秘めていた 6 。
第三に、太田川水系がもたらす内陸水運の利便性である。太田川とその支流は、安芸国や備後国の内陸部へと深く伸びており、領国内で産出される米や材木などの物資を効率的に集積・輸送するための主軸となり得た 6 。
輝元は、この海運、陸運、そして河川水運という三つの交通網が交差する結節点に、政治・軍事・経済の機能を統合した新たな中心地を築くことで、毛利氏の領国経営を飛躍的に近代化させようと目論んだのである 1 。
自然との対峙 ― デルタ地帯の地理的課題
輝元の構想は壮大であったが、その実現には乗り越えなければならない極めて困難な地理的課題が存在した。太田川デルタは、地質学的に見れば、上流の花崗岩が長年の風化作用によって脆弱化した「マサ土」が、河川の運搬作用によって堆積して形成された土地である 7 。その地盤は、現代の土木工学の観点からも極めて低湿かつ軟弱であり、大規模な石垣や天守閣といった重量建築物を支えるには全く不向きであった 7 。
さらに深刻な問題は、治水の困難さであった。太田川は、デルタ地帯で幾筋もの分流となって瀬戸内海に注いでおり、その流路は常に不安定であった 4 。上流域は日本でも有数の多雨地帯であり、一度豪雨に見舞われれば、洪水や高潮が発生する危険性が極めて高い土地だったのである 8 。事実、築城からわずか20年後の元和三年(1617年)、広島は大洪水に見舞われ、城の一部が破損する被害を受けている 4 。
輝元の計画は、この自然の脅威を単に克服するだけでなく、むしろ複数の分流を天然の堀として利用し、広大な水濠に囲まれた難攻不落の要塞都市を創造するという、常人の発想を超えた野心的なものであった 4 。それは、自然との対決であると同時に、自然を都市設計の中に巧みに取り込もうとする試みでもあった。輝元の選択は、洪水という大きなリスクと、瀬戸内海の交易ネットワークを掌握できるという巨大なリターンを天秤にかけた、まさにハイリスク・ハイリターンな戦略的決断だったのである。
この決断の背景には、輝元が水を単なる障害や脅威としてではなく、都市を構成する積極的な要素として捉えていた先進的なビジョンが窺える。川を防御施設としての堀として利用する 4 のは当然として、城下町の隅々にまで張り巡らされた水路は、物資輸送の効率的なルートとなり 6 、人々の生活を支えるインフラとしても機能する 11 。これは、土地をただ埋め立てて造成するという発想ではなく、水と共存し、その力を最大限に活用する「水の都」を創造しようとした思想の表れであった。この発想の転換こそが、広島創生の根幹をなすものであり、輝元の非凡さを示す証左と言えるだろう。
第二章:広島創生記 ― 造成事業のリアルタイム・クロニクル(1589年~1591年)
広島城下町の造成は、単一の土木工事ではなく、計画的に演出された一連の政治的・社会的イベントの連続体であった。ここでは、文献資料に基づき、輝元が決断を下した天正十六年(1588年)から、彼が新城へ入城する天正十九年(1591年)までの約2年間を、あたかもリアルタイムで追体験するかのように再現する。
天正十六年(1588年)暮れ:決断の刻
この年の12月、毛利輝元は、長年検討を重ねてきた新本拠地の建設地を、太田川河口の五ヶ村とすることをほぼ最終決定した 12 。この時点ではまだ公式な発表はされていないものの、毛利家中枢では、この前代未聞のプロジェクトに向けた具体的な準備が水面下で始まっていたと推測される。家臣団への内々の説明や、建設に必要な資材、労働力、資金の算定など、来るべき大事業に向けた緊張感が、吉田郡山城内に漂い始めていたであろう。
天正十七年(1589年):黎明の槌音
年が明けた天正十七年、輝元の構想は一気に具現化へと向かう。
春 、この世紀の大事業を統括する普請奉行として、輝元の叔父にあたる穂田(毛利)元清と、輝元の側近中の側近である二宮就辰という、毛利家きっての重鎮二名が任命された 1 。この人選は、輝元がこの事業に寄せる並々ならぬ期待と、家中を挙げて取り組むという固い決意を示すものであった。
2月頃 、輝元は普請奉行らを伴い、自らの目で建設候補地を検分する。その際、現地の地理に明るい土豪・福島元長の案内を受け、己斐山や二葉山といった高台から、広大なデルタ地帯を見下ろしたと伝えられている 1 。彼の眼前に広がっていたのは、葦原と点在する小島、そして幾筋にも分かれて流れる川が織りなす、未開の風景であった。しかし、輝元の目には、そこに壮麗な城と、活気に満ちた城下町が広がる未来の姿がはっきりと見えていたに違いない。
そして 4月15日 、歴史的な日を迎える。輝元は、五ヶ村のうち最大の島であった在間(ざいま)の地に立ち、鍬初めの儀式を執り行った。この儀式をもって、造成工事は正式に開始された。この時、輝元はこの新たな土地を「広島」と命名したと伝えられている 4 。広く平坦な島が連なる地形から着想を得たこの名は、新しい都市にかける輝元の希望と意気込みを象徴するものであった。
7月 、輝元は家臣団に対し、広島城の堀普請を命じる公式な文書を発給する。この命令書こそが、現存する史料の中で「広島」という地名が初めて確認できる、記念すべきものである 12 。工事はまず、城郭の輪郭を定める堀の掘削から始まった。低湿な土地を深く掘り、その過程で出た大量の土砂は、周囲を埋め立て、城地全体を嵩上げするために利用された 1 。これは、単なる堀作りではなく、土地そのものを創造する、壮大な基礎工事の始まりであった。
天正十八年(1590年):都市の骨格、町割りの完成
造成開始から一年近くが経過した天正十八年の 1月頃 、広島の未来を決定づける重要な節目が訪れる。普請奉行の二宮就辰が、商人である平田屋惣右衛門という人物と共に、城下町の「町割り」、すなわち都市計画を完成させたのである 12 。この事実は、広島という都市の成り立ちを考える上で極めて示唆に富んでいる。武士である奉行と、経済の専門家である商人が、都市計画の初期段階から共同で作業にあたったということは、広島が当初から、武家による統治・防衛機能と、商人による経済・商業機能を両輪として構想されていたことを物語っている。武士の論理だけでなく、物流の効率性や市場の配置といった商人の視点が初期設計に組み込まれたことこそ、広島がその後、西国有数の商業都市へと発展する礎となったのである。
この年、日本国内では、豊臣秀吉による天下統一事業が小田原征伐によって最終段階を迎え、名実ともに戦国の世は終わりを告げた 12 。輝元は、この歴史的な戦役にも毛利軍を派遣しつつ、本国では巨大な新都建設を同時並行で進めるという、極めて困難な舵取りを強いられていた。
天正十九年(1591年):主の入城と新時代の幕開け
年が明け、天正十九年の 閏1月頃 、輝元は歴史的な決断を下す。吉田郡山城を離れ、未だ普請の槌音が鳴り響く広島城へと、本拠を正式に移したのである 1 。この時点で完成していたのは、本丸や二の丸といった城の中枢部分のみであり、城全体としてはまだ未完成の状態であった 12 。
この「未完成の都への移転」は、極めて象徴的な意味を持つ。それは、毛利氏が旧来の権力基盤と完全に決別し、新都・広島を新たな政治の中心とするという、輝元の揺るぎない決意を家臣団、そして天下に示すための行動であった。また、普請の最終段階を自らの目で直接監督するという、実務的な意味合いも大きかった。
そして 3月 、豊臣政権による太閤検地が実施され、毛利領は中国地方9か国、112万石と公式に確定する 12 。広島という新たな拠点を構えた輝元は、名実ともに西国随一の大名としての地位を、天下統一後の新秩序の中で改めて確立したのである。
この後も広島の建設は続き、翌天正二十年(1592年)4月には豊臣秀吉自身が広島を訪れ、その威容を検分している 12 。石垣の普請が完了したのは文禄二年(1593年)、そして城全体の普請が完了し、竣工を祝う綱引きが西白島で行われたのは慶長四年(1599年)のことと伝えられている 3 。鍬入れから実に10年の歳月を要した、まさに世紀の大事業であった。
表2:広島城下町造成 詳細年表(1588年~1599年)
年月 |
出来事 |
関連人物 |
国内外の情勢 |
備考 |
天正16年 (1588) |
12月 |
五ヶ村への築城をほぼ決定 |
輝元 |
豊臣秀吉、刀狩令を発布 |
天正17年 (1589) |
春 |
普請奉行を任命 |
穂田元清, 二宮就辰 |
- |
|
2月頃 |
輝元、城地を検分 |
輝元, 福島元長 |
- |
|
4月15日 |
鍬初めの儀式。地名を「広島」と命名 |
輝元 |
- |
|
7月 |
堀普請を家臣に命令 |
輝元 |
- |
天正18年 (1590) |
1月頃 |
広島の町割りが完成 |
二宮就辰, 平田屋惣右衛門 |
豊臣秀吉、小田原征伐を開始し天下統一 |
天正19年 (1591) |
閏1月頃 |
輝元、広島城に入城 |
輝元 |
- |
|
3月 |
太閤検地により112万石が確定 |
輝元 |
- |
天正20年 (1592) |
4月 |
豊臣秀吉、広島に滞在 |
秀吉, 輝元 |
文禄の役が始まる |
文禄2年 (1593) |
- |
石垣の普請が終了 |
- |
- |
慶長4年 (1599) |
- |
城全体の普請が終了 |
- |
豊臣秀吉死去(前年) |
第三章:世紀の大事業を支えた技術と人々
広島城下町の造成は、輝元の構想力と政治力だけで成し遂げられたものではない。その背後には、デルタ地帯という困難な自然条件を克服した当時の最先端土木技術、動員された無数の人々の労働、そしてそれを支えた莫大な財源という三つの要素が存在した。本章では、この世紀の大事業を物理的に可能にした技術、労働力、そして経済基盤について具体的に掘り下げる。
デルタを克服した土木技術
広島の造成は、自然との壮絶な闘いの連続であった。当時の人々は、経験と創意工夫によって、軟弱なデルタ地帯に巨大な都市を築き上げるという難事業に挑んだ。
「島普請」から「城普請」へ : 記録によれば、造成はまず個々の島を安定させ、洪水の流れを制御する「島普請」から始められたという 7 。具体的には、城の建設予定地の上流に位置していた箱島(現在の白島)付近で、本流と支流の川筋を固定する工事から着手したとされている 9 。これは、無計画に埋め立てを進めるのではなく、まず都市全体の治水の根幹を確立するという、極めて合理的かつ計画的なアプローチであった。
軟弱地盤対策の切り札「胴木」 : 広島城の石垣普請において、最も重要な技術が「胴木(どうぎ)」であった。これは、軟弱な地盤に直接石垣の基礎となる根石を置くのではなく、その下に松などの太い丸太を梯子状や筏状に組み、広範囲にわたって荷重を分散させる工法である 14 。木材は、常に地下水に浸かっている状態であれば酸素が遮断されるため、腐食しにくいという特性を持つ 17 。この胴木工法は、低湿地での築城には不可欠な技術であり、広島城の巨大な石垣を今日まで支える根幹となっている。この技術は、毛利氏が交易を行っていた中国大陸から伝来した可能性も指摘されている 9 。
石材と木材の調達 : 普請に必要な膨大な資材は、広範囲から計画的に集められた。石垣に用いる石材の多くは、仁保島や江波島といった広島湾内に浮かぶ島々から、船を駆使して海上輸送された 1 。また、建築に用いる木材は、毛利領内である周防国(現在の山口県)などから切り出され、これもまた水運を利用して建設現場へと運ばれた 1 。石垣の積み方には、自然石をほとんど加工せずに積み上げる「野面積み」と、石の接合部を加工して隙間を減らす「打込接(うちこみはぎ)」の中間的な技法が用いられており、当時の石工技術の粋が集められていたことがわかる 18 。これらの資材が広範囲から計画的に輸送された事実は、毛利氏が瀬戸内海に高度な海上輸送ネットワーク、すなわち兵站・物流網という「見えないインフラ」を確立していたことを示している。このインフラこそが、巨大な資材を必要な時に必要な場所へ供給することを可能にした、プロジェクト成功の隠れた要因であった。
動員された労働力と指揮系統
この大事業を実際に遂行したのは、名もなき無数の人々の力であった。
普請奉行の役割 : 工事全体の計画、指揮、監督は、普請奉行である穂田元清と二宮就辰が担った 1 。彼らは輝元の命令を現場に伝え、石工や大工といった専門技術者集団、そして膨大な数の人夫を統括する、プロジェクトマネージャーとしての重責を果たした。
労働力「夫役(ぶやく)」 : 建設作業の根幹をなした労働力は、領内の民衆に課せられた「夫役(ぶやく)」であった 21 。これは、年貢の納入と同様に領民に課せられた義務であり、戦国大名が城の建設や堤防の修築といった大規模な普請を行う際の、基本的な労働力確保の手段であった。広島城の建設に動員された人数の具体的な記録は残されていないが 23 、城と城下町の規模から考えれば、数万から数十万人規模の人々が、農作業の閑散期などを利用して断続的にこの事業に関わったと推定される。一部の専門技術者には賃金が支払われたケースもあったとされるが 25 、基本的には領民の義務的な労働奉仕によって、この巨大プロジェクトは支えられていたのである。
莫大な費用の源泉
広島の造成は、莫大な費用を必要とする国家プロジェクトであった。その財源は、毛利氏が掌握していた二つの大きな経済基盤によって賄われていた。
石見銀山の富 : 広島造成を財政的に可能にした最大の要因は、当時毛利氏の支配下にあった石見銀山の存在である。16世紀後半、石見銀山は世界でも有数の銀産出量を誇り、ここから産出される高品質の銀が、毛利氏の莫大な軍資金や、今回のような大規模な普請費用を支える最大の財源となっていた 26 。
瀬戸内海の交易利益 : 毛利氏は、強力な水軍を背景に瀬戸内海の制海権を掌握し、海上交通路を利用した交易からも大きな利益を得ていた 30 。特に、石見で産出された銀は、対外貿易(主に明や朝鮮半島、南蛮諸国)における重要な決済手段として用いられ、火薬の原料となる硝石や、生糸、絹織物といった貴重な物資の輸入を可能にした 29 。こうした交易活動が毛利氏の財政を潤し、広島建設という巨大な投資を可能にしたのである。
広島城下町の造成は、「石見銀山という圧倒的な財源」と、「胴木工法に代表される先進的な土木技術」、そして「領民を動員する夫役という社会システム」という三つの要素が有機的に結合した結果、初めて可能となった。この巨大プロジェクトは、毛利氏の総合的な国力を結集した、まさに国家の威信をかけた事業だったのである。
第四章:完成図 ― 戦国末期の城下町の構造
天正十八年(1590年)に二宮就辰と平田屋惣右衛門によって完成された「町割り」は、広島という都市の骨格を決定づけた。その設計思想は、防御、統治、そして経済という三つの側面から読み解くことができる。創生期の広島城下町は、戦国末期の集大成ともいえる、極めて計画的かつ機能的な都市構造を持っていた。
防御と統治の空間設計
広島城下町の設計は、まず城郭を中核とする軍事・政治空間の構築から始まった。
城郭の構造 : 広島城は、内堀に囲まれた本丸と二の丸を中枢とし、その外側を、毛利一門や譜代の重臣たちの広大な屋敷を配した三の丸が大きく取り囲む、同心円的な構造を基本としていた 1 。毛利の両輪とされた小早川隆景や吉川広家といった一門衆の屋敷は、本丸に最も近い場所に配置された 31 。この配置は、城の防御を物理的に固めるだけでなく、城主である輝元との物理的な距離が、そのまま家中における身分や家格の序列を示すという、政治秩序を空間的に可視化する役割も果たしていた。
天然の要害 : 輝元の都市計画の妙は、太田川の分流を巧みに利用した点にある。城の西側は本川を、北側は別の分流をせき止める形で、そのまま広大な外堀として活用した 4 。これにより、人工的な堀の掘削を最小限に抑えつつ、広大な水濠を持つ難攻不落の要塞都市を効率的に形成することに成功した。
碁盤目状の街路 : 城下の町人地は、当時の先進的な都市であった京都や大坂を模範とし、整然とした碁盤目状に区画整理された 6 。これは、美しい都市景観を創出すると同時に、有事の際には部隊の展開や防御陣地の構築を容易にするという、軍事的な意図も色濃く反映されていた。
経済活動の脈動と階層的空間配置
広島城下町は、軍事都市であると同時に、西国随一の商業都市となるべく設計されていた。その経済機能は、巧みな空間配置によって最大化が図られた。
武士・町人・寺社のゾーニング : 城下町は、城の周囲を武家屋敷が取り囲み、その外側に商人や職人が住む町人地、さらに都市の外縁部に寺社が配置されるという、明確なゾーニング(機能的空間配置)が行われていた 6 。これは、城の防衛と、武士の権威を保つという統治上の理由に加え、商業活動の効率化という経済的な理由も含まれていた。
経済の動脈 : 町人地は、城下の南側を東西に貫く大動脈・西国街道沿いや、物資の荷揚げ場である「雁木」が設けられた川沿いに集中して配置された 6 。これにより、陸路と水運によってもたらされる人や物資の流れを最も効率的に受け止め、商業活動へと転換する基盤が作られた。広島は、「城を中心とする同心円的な軍事・政治空間」と、「西国街道と河川を軸とする直線的な経済空間」という、二つの異なる論理に基づいた空間構造が重ね合わさって形成された、複合的な都市だったのである。
市場の形成 : 毛利氏の時代に広瀬村で始まったとされる「十日市」は、毎月十日に開かれる定期市として、近隣の農村から多種多様な農作物や生活雑貨が持ち込まれ、大きな賑わいを見せた 6 。これは、後の十日市町の起源となり、広島が単なる城下町に留まらず、周辺地域を巻き込んだ広域経済圏の中心として機能し始めたことを示している。
このように、広島の都市計画は、堀や川、あるいは身分ごとの居住区といった様々な「境界」を意図的に設定することによって成り立っていた。これらの境界は、単に空間を分割するだけでなく、防御(敵の侵入を防ぐ)、統治(身分秩序の可視化)、経済(特定の場所に機能を集中させる)といった多様な役割を担っていた。特に、川を「防御線」であると同時に「物流路」として利用した点は、境界が持つ多義的な機能を巧みに活用した好例と言える。この「境界の設計思想」を読み解くことで、輝元たちが目指した、秩序と活気が両立する理想の都市像が浮かび上がってくるのである。
終章:広島城下町造成が残した遺産
毛利輝元が心血を注いだ広島城下町の造成は、その後の歴史の激動の中で、輝元自身の運命とは対照的な道を歩むことになる。この一大事業が、広島の歴史と現代に何を残したのかを総括し、その歴史的意義を結論付けたい。
輝元の夢と挫折
慶長五年(1600年)、関ヶ原の戦いが勃発すると、輝元は西軍の総大将として、完成したばかりの広島城から大坂城へと入る。しかし、西軍は徳川家康率いる東軍に敗北。戦後、輝元は周防・長門の二国(現在の山口県)へ37万石弱にまで大減封され、失意のうちに広島の地を去ることを余儀なくされた 2 。自らがゼロから創造した壮麗な新都は、皮肉にも彼の覇権の夢の終焉を告げる舞台となってしまったのである。
後継者たちによる発展
輝元の後、広島城主となったのは、関ヶ原で武功を挙げた福島正則であった 4 。その後、福島氏が改易されると、紀州から浅野長晟が入城し、以後、明治維新まで浅野氏が広島藩主としてこの地を治めることになる 4 。福島氏、そして浅野氏の時代を通じて、広島城下町はさらに整備・拡張が進められた。特に、海辺の干拓による新田開発や市街地の拡大、西国街道のさらなる整備などが精力的に行われ、広島は人口7万人を擁する、江戸、大坂、京都、名古屋、金沢に次ぐ全国有数の大都市へと成長を遂げた 5 。
現代に続く都市の骨格
輝元が天正十八年(1590年)に定めた都市の骨格は、驚くべきことに、その後の400年以上にわたる時代の変遷、そして近代における原子爆弾による壊滅的な被害すら乗り越え、現代の広島市の都市構造の基礎として、今なお生き続けている 33 。碁盤目状の街路パターンや、都市を貫流する6本の川と共存する景観は、まぎれもなく輝元の時代の都市計画の遺産である。
毛利輝元による広島城下町の造成は、「都市計画」としては歴史的な大成功であった。しかし、それを主導した輝元自身の「政治戦略」は、結果として失敗に終わった。この歴史の皮肉は、我々に重要な示唆を与える。輝元が築いた強固な拠点と優れた経済基盤は、彼自身ではなく、後継者である福島氏や浅野氏、そして何よりも広島という都市そのものに、長期的な繁栄をもたらした。これは、優れた都市インフラが、創設者の意図や運命を超えて、後世に価値を生み出し続ける力を持つことを証明している。
輝元は広島を失ったが、彼がデルタの大地に描いた壮大な都市の青写真は、時代を超えて生き続けた。一個人の野心から始まった事業は、結果として400年以上にわたる都市の繁栄の礎を築いた。その意味において、広島城下町の造成は、日本の都市史における画期的な出来事であり、その歴史的価値は計り知れないものがあると言えるだろう。
引用文献
- 広島城跡(史跡) | 【公式】広島の観光・旅行情報サイト Dive! Hiroshima https://dive-hiroshima.com/explore/3318/
- 毛利輝元(モウリテルモト)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E8%BC%9D%E5%85%83-16898
- 広島城:街のシンボル | April 2023 | Highlighting Japan https://www.gov-online.go.jp/eng/publicity/book/hlj/html/202304/202304_05_jp.html
- 太田川 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E7%94%B0%E5%B7%9D
- 1:「広島城」の築城とデルタの発展 ~ 広島 | このまちアーカイブス - 三井住友トラスト不動産 https://smtrc.jp/town-archives/city/hiroshima/index.html
- 解説集 – 町並み - 江戸の世のひろしま探訪|広島県の歴史・文化ポータルサイト https://hiroshima-history.com/townscape/
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- 毛利輝元没後400年記念事業|広島市公式ウェブサイト https://www.city.hiroshima.lg.jp/tourism-culture/history/1026883/1026891/1038090/1037138.html