府中(駿府)町割(1607)
慶長十二年、徳川家康は駿府に大御所として入り、大規模な町割を断行。軍事と経済を両立させた都市設計は、後の江戸のモデルとなる。戦国の経験を活かし、恒久平和を追求した家康の集大成であった。
「Perplexity」で事変の概要や画像を参照
慶長駿府大変革:徳川家康、最後の都市創造-府中町割(1607)の時系列的徹底分析
序章:天下人のグランドデザイン
本報告書は、慶長12年(1607年)を中心に展開された「府中(駿府)町割」を、単なる都市整備事業としてではなく、徳川家康の生涯をかけた天下平定事業の集大成であり、戦国時代の価値観と近世の統治思想が交錯する画期的な「事変」として捉え、その全貌を時系列に沿って解明することを目的とする。
慶長の時点では、徳川幕府は既に開かれている。しかし、この巨大プロジェクトの最高責任者である徳川家康の思考様式や行動原理は、紛れもなく戦国時代の過酷な経験によって形成されていた。したがって、この町割を単なる平時の都市計画として分析することは、その本質を見誤ることに繋がる。本事業は、大坂に拠点を置く豊臣家という潜在的脅威を常に意識し、西国大名への睨みを利かせるための、軍事思想と都市計画が不可分に結びついた一大プロジェクトであった 1 。それは、家康が構想した「恒久平和(パクス・トクガワーナ)」の理念を、都市という物理的空間に具現化する壮大な試みであり、その設計思想は後の江戸や名古屋といった徳川の主要都市のモデルとなっていくのである 3 。
第一章:舞台の設営-家康帰還以前の駿府
今川文化の遺産:「東国の京」
慶長の町割は、全くの無から創造されたわけではない。その土台には、戦国時代における駿府の栄光と悲劇の歴史が深く横たわっている。室町時代から戦国時代にかけ、駿府は今川氏の拠点として長期にわたり繁栄を極めた。特に今川義元の時代には、荒廃した京の都から多くの公家や文化人が避難してきたことにより、「東国の京」と称されるほどの洗練された文化都市が形成された 5 。
今川氏は京の都を模倣した町づくりを行い、これが後の家康による碁盤割の素地の一つとなった可能性が指摘されている 5 。しかし、その都市構造は、近世城下町とは本質的に異なっていた。今川氏の統治下では、家臣団は必ずしも城下に集住を強制されておらず、その本拠は各自の領地に置いていた。彼らは官僚として駿府に出仕し、その屋敷は町中に点在していたのである 8 。これは、大名が家臣団を城下に集約させ、厳格な身分制に基づいて居住区を配置する近世城下町とは一線を画す、より緩やかな「機能結節型都市」であった 8 。
荒廃と再興のサイクル
この「東国の京」の繁栄は、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いにおける今川義元の討死によって大きな転換点を迎える。今川氏が急速に衰退すると、永禄11年(1568年)、甲斐の武田信玄による駿河侵攻が開始され、駿府の市街は焼き払われ、焦土と化した 5 。
その後、武田氏が天正10年(1582年)に滅亡すると、駿河国は徳川家康の所領となる。家康は天正13年(1585年)に浜松から駿府へと本拠を移し、最初の城普請と城下町の復興に着手した 5 。この時期の経験、すなわち荒廃した都市を蘇らせ、自らの統治拠点として再構築した経験は、後の大御所時代における、より壮大かつ緻密な都市改造計画の重要な基盤となったことは想像に難くない。慶長の町割は、既存の都市基盤、特に今川時代から商業の中心地であった「本町」などのポテンシャルを認識しつつ、それを戦国大名としての統治理念、すなわち家臣団の集住と階層的な都市空間の再編という思想に基づき、根本的に「再構築」する事業であった。それは単なる「破壊と創造」ではなく、「継承と再編」という、より高度な都市計画だったのである。
第二章:大御所政治の拠点-駿府選択の戦略的意図
江戸か、駿府か:大御所の選択
慶長8年(1603年)に征夷大将軍となり江戸幕府を開いた家康は、わずか2年後の慶長10年(1605年)、将軍職を三男の秀忠に譲り、自らは大御所となった 5 。そして翌年、隠居の地として江戸ではなく、駿府を選んだ。この選択には、極めて多角的かつ戦略的な意図が込められていた。
第一に、軍事的な価値である。大坂には依然として豊臣秀頼がおり、その周囲には関ヶ原の戦いを経てもなお、豊臣恩顧の大名が西国に多数存在していた。駿府は箱根の西に位置し、江戸と西国を結ぶ東海道の要衝である 2 。ここに家康自らが拠点を置くことは、西国勢力に対する強力な牽制となり、万が一の事態に備える前線基地としての役割を果たすものであった 2 。
第二に、地政学的重要性である。駿府は東海道の中核に位置し、日本の大動脈を直接掌握することができる 12 。情報と物流を制することは、天下を安定的に統治する上で不可欠であった。
そして第三に、家康個人の愛着も無視できない。人質として過ごした幼少期、そして天下人への道を歩み始めた壮年期と、生涯の約三分の一を過ごした駿府は、家康にとって特別な土地であった 2 。温暖な気候や豊かな物産も、その選択を後押ししたであろう 13 。
「二元政治」という名の最高司令部
家康の駿府移住により、江戸の秀忠政権と駿府の家康政権による「二元政治」体制が確立された 14 。しかし、その実態は対等なものではなかった。江戸の幕府が制度的な統治機構として機能する一方、駿府の大御所政権が実質的な最高意思決定機関として君臨したのである 15 。
事実、禁中並公家諸法度や武家諸法度といった、その後の徳川の治世の根幹をなす基本法の多くが駿府で起草されている 15 。駿府は単なる隠居所ではなく、徳川体制の基本設計を行うシンクタンクであり、国家の舵取りを行う最高司令部であった。その権威は国内に留まらず、当時来日したオランダ人やイギリス人といった外国使節も、江戸の将軍秀忠ではなく、まず駿府の家康との会見を最優先したという事実が、当時の駿府が事実上の日本の首都であったことを物語っている 14 。この状況は、戦国の実戦経験が乏しい二代目の秀忠に対し、大御所自らが政治、外交、軍事、法整備の「実演」を見せる、実践的な政治教育の場としての機能も担っていたと考えられる。
権威の視覚化:日本一の城郭都市構想
この絶大な権力を内外に示すため、家康は壮大な計画を構想する。それが、駿府城を前代未聞の規模で拡張し、城と城下町を一体とした巨大な政治的装置として再創造することであった。その象徴が、天守台の規模である。発掘調査の結果、慶長期の駿府城天守台は、徳川将軍家の居城である江戸城のそれを凌駕する、日本史上最大の規模であったことが判明している 16 。これは、大御所家康の権威が二代将軍秀忠をも上回ることを天下に示す、明確な政治的メッセージであった。この壮大な城郭建設と一体で進められたのが「府中町割」であり、両者は家康のグランドデザインの下で、分かちがたく結びついていたのである。
第三章:一大事業の胎動から完成まで-慶長の町割、リアルタイム再現(1606年~1610年)
1606年(慶長11年):設計と始動の年
大御所として駿府に帰還した家康は、ただちに新都市建設の構想に着手した。その動きは迅速かつ計画的であった。
春から夏にかけて、 最初の課題として取り組まれたのが治水である。城下町の安全と発展を恒久的に確保するためには、暴れ川として知られた安倍川の制御が不可欠であった。家康は、川の流路そのものを変更するという、大規模な治水工事を開始する 17 。これは、後の都市計画全体の基盤を固めるための、極めて重要な先行事業であった 18 。
同時期に、 都市計画と建設の実務を担う専門家集団が組織される。彦坂九兵衛光正や畔柳寿学といったテクノクラートが町奉行に任命され、彼らが中心となって新都市の具体的なレイアウト設計が進められた 20 。その設計には、土地の気脈を読み、繁栄を導くとされる風水の思想も取り入れられたと伝えられている 20 。
12月、 都市の経済的中枢を確立するため、家康は京都伏見にあった銀座、すなわち銀貨の鋳造所を駿府に移転させるという、戦略的な一手を打つ。これにより、現在の両替町周辺に金融センターが形成され、「両替町」という町名が誕生した 21 。これは、新都市が政治・軍事だけでなく、経済的にも自立し、幕府の財政基盤を支えることを意図した、先見性のある措置であった。
1607年(慶長12年):建設と災禍の年
年が明けると、プロジェクトは一気に加速する。
2月、 駿府城の大規模な拡張・修築工事が「天下普請」として正式に発令された 18 。これは、江戸幕府が諸大名に命じて行わせる国家的土木事業であり、越前、美濃、尾張、三河、遠江といった全国の有力大名が動員され、工事が開始された 24 。この普請は、単なる建設事業に留まらず、諸大名の財力を削ぎ、徳川への忠誠を試すという、戦国時代以来の高度な政治的術策でもあった。御殿の設計には当代随一の文化人であった小堀遠州、大工棟梁には宮大工の名門・中井家の当主である中井正清が起用され、まさに当代最高の技術と人材が駿府に集結した 18 。
閏4月29日、 城の警備を担う大番三組が初めて駿府城に配置され、軍事拠点としての機能が公式に稼働し始める 3 。
7月、 本丸の主要部分が驚異的な速さで竣工し、家康は未だ建設の槌音響く駿府城へと正式に移り住んだ 17 。この時点の城下は、全国から集まった大名、武士、職人、人足、商人たちで溢れかえり、一大建設ラッシュの喧騒と熱気に包まれていたと推察される。それは、新しい時代の幕開けを象徴する活気と、未だ秩序の定まらない混沌が混在する光景であっただろう。
しかし、その年の暮れに事態は暗転する。 12月、 未だ完成途上にあった本丸が失火により炎上。天守や御殿など、完成したばかりの建造物が一夜にして全て灰燼に帰すという大惨事に見舞われたのである 17 。一大事業は、開始早々に最大の危機を迎えた。
1608年(慶長13年)~1609年(慶長14年):復興と新秩序の確立
この未曾有の災禍に対し、家康は一切動揺を見せなかった。むしろ、これを好機と捉えたかのように、迅速かつ断固たる対応を見せる。
1608年(慶長13年)、 家康は直ちに本丸の再建を命令。驚くべきことに、この年のうちには本丸御殿が再完成する 17 。この迅速極まりない復興は、大御所の揺るぎない権威と、それを支える圧倒的な財力・動員力を天下に示す、またとない機会となった。この火災は、結果として、より耐火性の高い構造(総瓦葺など)を導入し、防火を意識した都市計画を徹底する口実を与えた可能性がある。数多の危機を乗り越えてきた家康が、この災禍を逆利用し、より完成度の高い都市を再建する機会としたとしても不思議ではない。
1609年(慶長14年)、 本丸再建と並行して、城下町の区画整理事業が本格的に始動する。これこそが「慶長の町割」の核心であり、「駿府九十六ヶ町」と呼ばれる新たな行政区画の整備がこの年に始まったとされる 5 。全国から有能な職人や商人が呼び寄せられ、同業の者を同じ町内に住まわせる「職業別集住制」が強力に推進された 25 。
この年、もう一つの重要な都市改造が行われる。今川時代からのメインストリートであった「本通り」に対し、城の南側に新たに「新通り」を建設し、こちらを新しい東海道としたのである 21 。これは、人の流れと物流を自らが設計した新しい都市の中心軸へと誘導し、経済の動脈を完全に掌握しようとする、極めて戦略的な都市計画であった。
1610年(慶長15年):権威の象徴、ここに成る
この年、 焼失から2年余りの歳月を経て、日本最大級の規模を誇る新天守がついに完成した 17 。その威容は、三重の堀に囲まれた城郭と、碁盤の目状に広がる城下町と一体となり、一つの完成された都市景観を創出した。東海道を旅する大名や庶民は、この壮大な光景を目の当たりにし、徳川の治世の偉大さと、大御所家康の絶対的な権威を肌で感じることになったであろう 12 。ここに、家康が生涯の最後に手掛けた都市創造事業は、一つの頂点を迎えたのである。
第四章:新時代の都市解剖-駿府城下町の構造と設計思想
慶長の町割によって誕生した駿府城下町は、戦国の記憶と近世の合理性という、二つの異なる時代精神が同居する、極めて特徴的な都市構造を持っていた。
二つの顔を持つ都市:防御と経済の両立
家康の都市設計思想は、城下を機能に応じて明確に二分した点に見て取れる。
武家地:戦国の記憶
城の周囲、特に北西側の高台には武士の居住地が配置された 7。このエリアの道路網は、意図的に複雑に設計されていた。道幅は狭く、見通しを妨げるように直角に折れ曲がる「鉤の手(かぎのて)」や、行き止まりが随所に設けられた 26。これは、万が一敵が城下に侵入した場合に、その進軍を遅らせ、混乱させることを目的とした、純粋な軍事思想の産物である。平時においても常に戦を忘れない、家康の戦国武将としての経験が色濃く反映された空間設計であった。
町人地:近世の合理性
一方、城の大手門の南側に広がる商人・職人の居住区は、全く異なる設計思想に基づいていた 7。ここでは、物流と経済活動の効率を最大化するため、道路が直角に交差する整然とした「碁盤割(ごばんわり)」が採用された 26。これは、来るべき商業社会の発展を見据えた、極めて合理的な都市設計思想の表れであり、徳川の治世が武断だけでなく、経済による統治をも重視していたことを示している。
「駿府九十六ヶ町」:社会秩序の地図化
家康は、都市空間を物理的に区画するだけでなく、そこに住む人々の社会構造そのものをデザインしようとした。その具現化が、職種ごとに居住区を固定する「職業別集住制」の徹底であり、「駿府九十六ヶ町」の成立であった 7 。これにより、幕府は各産業の生産管理、技術の継承、そして領民の動向把握を容易にし、社会全体を効率的に統制することが可能となった。以下の表は、その代表的な町名とその機能を示したものである。
町名 |
主な職業・機能 |
由来と特記事項 |
関連史料 |
両替町 |
銀座(銀貨鋳造)、両替商 |
慶長11年、伏見銀座が移転。金銀の両替屋が集まったことに由来。後の東京銀座の原型。 |
21 |
呉服町 |
呉服商 |
呉服商が集住したことに由来。今川時代からの商業中心地「本町」を継承・発展させた。 |
27 |
鋳物師町 |
鋳物師(金属鋳造職人) |
徳川家御用達の鋳物師が集住。火災の危険性から城下のはずれに配置され、後に移転。 |
29 |
大工町 |
大工 |
駿府城普請などに従事した大工が集住。慶長の町割により一部が「新通大工町」へ移転。 |
31 |
紺屋町 |
染物師(紺屋) |
染物業者が集住したことに由来。駿府代官屋敷も置かれ、行政機能の一部を担った。 |
33 |
研屋町 |
刀剣研師 |
伏見から移住した御用研師が居住。刀剣研磨に適した清澄な水が得られる土地が与えられた。 |
35 |
上下桶屋町 |
桶職人 |
駿府城の台所などで使用する桶を製作する職人が集住。城の御用を勤めたため公役を免除。 |
37 |
大鋸町 |
木挽職人(製材) |
大鋸(おおが)を用いて木材を製材する職人が集住したことに由来。 |
39 |
茶町 |
茶商 |
安倍川上流で生産される良質な茶を集め、選別・販売する商人が集住した。 |
41 |
上下魚町 |
魚問屋 |
城中御用の魚問屋が設置された。城に近い方を「上魚町(かみんたな)」、遠い方を「下魚町(しもんたな)」と呼んだ。 |
43 |
この表は、家康の都市計画が単なる区画整理ではなく、社会構造そのものをデザインする「社会工学」であったことを具体的に示している。駿府が全国からいかに多くの技術者や商人を集めたかという都市のダイナミズム、そして400年以上前の都市機能が現代の地名にまで受け継がれている歴史の連続性を、この一覧は雄弁に物語っている。
革新的な都市インフラ:「せり・会所」と用水路
駿府の都市設計における先進性は、そのインフラストラクチャーにも見られる。町人地の各ブロック(平均50間四方)の中央には、「せり」または「会所」と呼ばれるユニークな共用空間が設けられていた 26 。
この空間は、単なる空き地ではなかった。それは、町々から出るゴミ捨て場や共同便所といった衛生機能、火災の延焼を防ぐ防火帯(火除地)、さらには野菜を栽培する菜園など、複数の機能を持つ画期的な都市設備であった 26 。これは、近世都市における公衆衛生と防災の思想を先取りするものであり、現代の都市計画における「持続可能性」の概念にも通じる。家康は、権威を示す壮大な都市を建設する一方で、そこに住む町人たちの生活の質や、都市が長期的に機能し続けるための仕組みを、極めて現実的に、かつ先進的に設計していたのである。
また、今川時代から利用されていた用水路も大規模に再整備され、城下の隅々まで清廉な水を供給するシステムが構築された 26 。特筆すべきは、染物屋など汚水を出す職人町を用水路の流路の末端に配置するなど、公害を意識したゾーニングが行われていた点である 26 。これは、彼の統治哲学が、権力による支配だけでなく、民生の安定を重視するものであったことの力強い証左と言えよう。
第五章:駿府モデルの遺産-後世への影響と歴史的評価
江戸への影響:「駿府型町割」の波及
駿府で試みられ、成功を収めた都市計画の原理は、その後の徳川の都市づくりに大きな影響を与えた。その最も直接的な例が、銀座の移転である。慶長11年(1606年)に駿府に設置された銀座と、それに伴い形成された「両替町」は、慶長17年(1612年)に江戸の京橋へと移された 21 。この移転先は当初「新両替町」と呼ばれたが、やがて通称であった「銀座」が定着し、現在の東京・銀座の直接的なルーツとなったのである 3 。
さらに、駿府の町割そのものが、後の江戸城下町の拡張や、明暦の大火(1657年)後の大規模な都市改造において、一つのモデルケースとして参照された可能性は高い 3 。防火帯としての広小路の設置や、職業別の集住といった思想は、防災都市・江戸を形成していく上で重要な指針となったと考えられる。
同時代の都市計画との比較
駿府町割の歴史的意義は、同時代の他の都市計画と比較することで、より鮮明になる。
名古屋「清須越」との比較
駿府町割とほぼ同時期、慶長15年(1610年)から始まった名古屋城の建設と、それに伴う「清須越」は、家康が主導したもう一つの巨大都市計画である 46。しかし、その手法は駿府とは異なっていた。清須越が、既存の城下町(清須)の寺社、町家、さらには住民までをも丸ごと新しい土地(名古屋)に移転させる「移植型」の都市計画であったのに対し 48、駿府町割は既存の都市核(今川時代の町)を活かしつつ、それを抜本的に再編・拡張する「改造型」の都市計画であった。この違いは、状況に応じて最適な手法を選択する、家康の柔軟かつ現実的な都市計画思想の多様性を示している。
大坂との対比
豊臣秀吉が築いた大坂城下町は、楽市・楽座の思想を背景に、商業の自由を重視した開放的な構造を持っていた。それに対し、家康の駿府は、厳格な身分制と職業別集住に基づく、統制型の都市であった。この明確な対比は、経済の力で天下を動かそうとした豊臣政権と、法と秩序による安定支配を目指した徳川政権の、根本的な統治思想の違いを都市構造のレベルで浮き彫りにしている。
大御所政治の終焉と駿府の変容
元和2年(1616年)に家康が駿府城でその生涯を閉じると、駿府は政治の中枢としての役割を急速に失っていく。大御所政権を支えていた大名や旗本も江戸へ引き揚げ、駿府の政治的な輝きは失われた 21 。その後、駿府城は城主が置かれず、幕府から派遣された城代が管理する体制となり 26 、都市の性格も政治・軍事の中心から、東海道五十三次の一大宿場町へと変容していく。しかし、家康が築いた碁盤割の町並みや機能的な用水路、そして「九十六ヶ町」に由来する町名は、都市の骨格として生き続け、その後の駿府、そして現在の静岡市の発展の礎として、今日に至るまで受け継がれているのである 5 。
結論:戦国を越えた先に見据えた「恒久の平和」
「府中(駿府)町割」は、慶長12年という一点の事象ではなく、1606年から1610年にかけて展開された、徳川家康の政治理念の最終的な表現であった。それは、彼の人生の集大成とも言うべき、壮大な都市創造事業だったのである。
その都市構造には、戦国の記憶である徹底した防御思想と 3 、近世の幕開けを告げる合理的な経済・社会統制思想が、見事なまでに同居していた 25 。これは、武力によって天下を統一した戦国武将が、法と秩序による恒久平和を構想する統治者へと変貌を遂げる、家康自身の生涯そのものを象徴している。
家康は、自身の旗印に「厭離穢土欣求浄土(おんりえどごんぐじょうど)」という言葉を掲げた。それは、穢れた戦乱の世を厭い、平和で清らかな浄土の実現を求めるという、彼の終生の願いであった 40 。駿府という都市そのものが、家康が後世に残そうとしたこの理想を、石垣、堀、そして整然とした町並みによって大地に刻み込んだ、壮大な歴史的記念碑であったと言えるだろう。
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