最終更新日 2025-09-24

府内町割再編(1588)

天正16年、大友義統は豊薩合戦で焦土と化した府内を町割再編。秀吉の九州平定後、制約下で祇園社領安堵や町人居住許可で復興を試みた。地方の現実的再生策で、後の府内発展の礎となった。
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天正十六年「府内町割再編」の総合的考察 ― 焦土からの再生と豊臣政権下の都市像

序章:破壊と再生の序曲

天正16年(1588年)、豊臣秀吉による天下統一が最終段階へと向かう激動の時代、九州の一角、豊後国府内(現在の大分市)において、静かながらも時代の転換を象徴する一歩が記された。それが本報告書で詳述する「府内町割再編」である。この一事象は、単に戦災からの復興という枠組みに留まらない。その背景には、南蛮文化と融合し栄華を極めた国際都市の栄光と、戦乱による灰燼からの再生という両極のドラマが存在する。

本報告書は、この「府内町割再編」を、その前史である国際都市の破壊から、同時代に日本全土を覆った豊臣政権の強大な都市政策との比較に至るまで、多角的な視点から分析し、その歴史的意義を徹底的に解明することを目的とする。この再編は、単なる物理的な区画整理だったのか。それとも、かつての栄光を失い、新たな天下人の下でかろうじて存続を許された大名が、自らの存在意義を示すために打った苦心惨憺の策だったのか。あるいは、中央の巨大な都市計画思想が地方へ波及する、その過渡期の事例と見なすべきか。この問いを解き明かすことで、戦国末期から近世へと移行する時代の地方都市が経験した、破壊と再生のリアルな姿を浮かび上がらせる。

第一章:西国の王都、府内 ― 繁栄の頂点とその構造(~天正14年/1586年)

国際都市府内の栄光

島津氏の侵攻を受ける以前の豊後国府内は、単なる一地方都市ではなかった。鎌倉時代以来、約320年にわたり豊後を治めた大友氏の政治・経済・文化の中心地であり、特に第21代当主・大友宗麟の治世において、その繁栄は頂点を迎えた 1

その繁栄を最も特徴づけるのが、西洋文化との積極的な融合であった。天文20年(1551年)のフランシスコ・ザビエルの来訪を契機として、府内はキリスト教布教の一大拠点となる 1 。市内には壮麗な教会(デウス堂)が建てられただけでなく、日本初とされる西洋式病院や、聖職者を養成する神学校(コレジオ)までもが設立され、その景観は宣教師たちをして「ヨーロッパの装いを多分ににじませた」と言わしめるほどであった 1 。当時の府内は、織田信長の「安土」や豊臣秀吉の「大坂」と並び称され、国際貿易港として栄えた「堺」や「博多」と肩を並べる、日本を代表する大都市の一つと認識されていたのである 2

この繁栄は、単なる宗麟の異国趣味の結果ではない。府内に最先端の文化と技術、そして南蛮貿易がもたらす富を集中させることは、大友氏が九州六カ国を支配する「王」たる威信を内外に示すための、高度な政治的戦略であった。壮麗な教会や活気あふれる国際港の存在は、府内を訪れる諸大名や商人に対し、大友氏が時代を先導する先進的な支配者であることを可視化する強力な装置として機能していた。

都市の規模と構造

近年の研究や発掘調査は、文献史料が伝える府内の繁栄を裏付けている。「戦国時代府内復元想定図」によれば、当時の都市域は南北約2.2km、東西約0.7kmにも及ぶ壮大な規模を誇ったと推定される 1 。その人口は数万人に達し、約5千もの家屋が軒を連ねていた 3

都市の中核には、政治の中心である大友氏館が位置した。館は一辺約200mの方形をなし、京都の有力守護大名であった細川管領家の邸宅に匹敵する壮麗なものであったと想定されている 1 。館内に設けられた庭園は、西の京・山口の大内氏館のそれを凌ぐ規模を誇り、大友氏の権勢を物語る 1

現存する「豊後国大友時代末期府内絵図」の模写図を見ると、この大友氏館(図中では「大友役所」)のすぐ西側に「ダイウス堂」が描かれ、外国人居住区であった「唐人町」も近接していることが確認できる 4 。これは、キリスト教関連施設や国際交易機能が、都市の政治的中枢と密接に結びついていたことを示唆する。一方で、図中には大智寺や若宮といった古くからの寺社も描かれており、府内の都市構造が、伝統的な日本の都市基盤の上に、戦略的に「国際ゾーン」を付加したハイブリッド型であったことがわかる。発掘調査で多数出土する中国華南三彩やベトナム、タイ産の陶磁器は、この地が名実ともに対外交流の拠点であったことを物語っている 1

第二章:劫火の記憶 ― 豊薩合戦と府内の壊滅(天正14年12月/1586年~天正15年初頭/1587年)

豊薩合戦と府内陥落の時系列

天正6年(1578年)の日向国・耳川の戦いにおける大敗以降、大友氏の勢力には翳りが見え始めていた 6 。その間隙を縫うように九州統一の野心を燃やしたのが、薩摩の島津氏であった。天正14年(1586年)、島津軍は満を持して大友領へ大挙侵攻し、豊薩合戦の火蓋が切られた 8 。窮地に陥った大友宗麟は、中央の新たな覇者である豊臣秀吉に救援を要請する 7

秀吉の援軍到着を前に、府内の運命を決定づける戦闘が勃発する。

  • 天正14年12月12日(西暦1587年1月20日) :戸次川の戦い。秀吉の先遣隊を率いる軍監・仙石秀久は、大友軍とともに島津家久の軍勢と対峙。秀久の無謀な渡河作戦により、豊臣・大友連合軍は島津軍の巧みな伏兵戦術の前に壊滅的な大敗を喫する。この戦いで、四国勢の長宗我部信親や十河存保といった有力武将が討死し、府内を守るべき防衛線は一日にして崩壊した 6
  • 天正14年12月13日(西暦1587年1月21日) :戸次川での圧勝の勢いを駆り、島津家久軍は府内へ進撃。大友氏の当主・義統は、残存兵力の温存を理由に、府内城での籠城戦を選択せず、城を放棄して北方の高崎山城や龍王城へと撤退した 9 。これにより、西国の王都・府内は、ほとんど抵抗を受けることなく島津軍の手に落ちた。

壊滅の実態 ― 物理的破壊と文化的破壊

義統の撤退は、軍事的には合理的な判断であったかもしれない。しかし、それは首都と領民を見捨てる行為に他ならなかった。主を失った府内は、侵攻してきた島津軍によって徹底的な破壊の対象となる。

イエズス会宣教師ルイス・フロイスはその著書『日本史』の中で、この時の惨状を「府内は島津家久の侵攻の際に焼失した」と明確に記録している 3 。また、別の書簡では「敵は進んで、突然府内に入り、すべてのものを焼き破壊した」とも記しており、その破壊が計画的かつ無慈悲なものであったことを伝えている 13 。この記録は、考古学的調査によっても裏付けられている。大友氏遺跡から出土する当時の陶磁器には、高熱に晒されたことを示す炎熱の痕跡が顕著に認められ、市街地が大規模な火災に見舞われたことを物語っている 3 。かつて府内を彩った万寿寺などの壮大な寺院も、この時にことごとく灰燼に帰した 14

島津軍によるこの徹底破壊は、単なる軍事行動の範疇を超えていた。府内、特に教会やコレジオといった南蛮文化の象徴は、大友氏の権威そのものであった(第一章参照)。これを破壊し尽くすことは、大友氏の威信を物理的・精神的に粉砕し、九州の新たな覇者は島津氏であることを天下に示すための、極めて象徴的な「文化破壊」であった。この劫火により、府内は物理的にも文化的にも一度更地へと帰し、その後の復興はゼロからの出発を余儀なくされたのである。

年月日 (西暦)

主要な出来事

場所

関係者

備考・影響

天正14年 (1586)

島津軍、豊後へ侵攻開始

豊後国

島津家久、大友義統

豊薩合戦の本格化。

天正14年12月12日 (1587/1/20)

戸次川の戦い

戸次川

島津家久、仙石秀久、長宗我部信親

豊臣・大友連合軍が大敗。府内防衛線が崩壊。

天正14年12月13日 (1587/1/21)

府内城陥落、市街地焼失

府内

島津家久、大友義統

義統は戦わず撤退。国際都市府内が壊滅的被害を受ける。

天正15年3月 (1587/4月)

豊臣秀吉、九州へ出陣

-

豊臣秀吉、豊臣秀長

豊臣軍の本格介入により戦局が転換。

天正15年4月 (1587/5月)

島津軍、豊後より撤退

豊後国

島津軍

秀吉軍の圧迫による戦略的撤退。

天正15年5月8日 (1587/6/13)

島津義久、秀吉に降伏

泰平寺

島津義久、豊臣秀吉

九州平定が完了。

天正15年5月23日 (1587/6/28)

大友宗麟、病死

津久見

大友宗麟

大友家におけるキリスト教保護の象徴的存在を失う。

天正15年6月 (1587/7月)

九州国分

箱崎

豊臣秀吉、大友義統

義統は豊後一国を安堵され、豊臣政権下の大名となる。

天正15年7月 (1587/8月)

バテレン追放令発布

-

豊臣秀吉

義統のキリスト教政策に大きな制約が加わる。

天正16年 (1588)

府内町割再編

府内

大友義統

祇園社領の安堵と町人居住を許可。復興への第一歩。

第三章:天下人の介入 ― 九州平定と大友氏の存続(天正15年/1587年)

豊臣政権による戦後秩序の形成

府内が焦土と化す中、戦局は中央からの巨大な力の介入によって劇的に転換する。天正15年(1587年)3月、豊臣秀吉は自ら20万ともいわれる大軍を率いて九州へ出陣。弟の豊臣秀長が率いる別動隊も豊後方面へと進軍を開始した 9 。この圧倒的な物量の前に、九州制覇を目前としていた島津軍も抗う術はなく、豊後から撤退を開始する 9

同年5月、島津義久は秀吉に降伏。ここに九州平定は完了した 11 。戦後、秀吉は筑前箱崎(現在の福岡市)において、九州の新たな支配体制を定める「九州国分」を実施する 18 。この戦後処理において、大友義統は、秀吉にいち早く救援を求め、その麾下に入った功績を認められ、豊後一国を安堵された 10 。これにより、大友氏は滅亡の危機を回避し、豊臣政権に組み込まれた一大名として存続することとなった 13

しかし、この存続は、大友氏が自力で勝ち取ったものではなかった。それは、九州における旧来の有力者である大友氏を、豊臣政権の九州支配における駒として「生かす」方が統治上、有利であるという秀吉の冷徹な政治判断の結果であった。義統に安堵された豊後一国は、恩賞であると同時に、豊臣政権への絶対的な忠誠を求められる「枷」でもあった。秀吉から「二度と九州全土に野心を抱くことなかれ」と釘を刺された義統は 10 、もはや独立した戦国大名ではなく、天下人の意向を常に窺わなければならない一地方領主へとその立場を大きく変えたのである。彼の当面の使命は、戦火で疲弊した領国を、豊臣政権の枠組みの中で復興させることであった 10

新たな統治の制約

義統が復興に着手するにあたり、二つの大きな出来事がその方向性を規定した。一つは、父・宗麟の死である。九州平定の最終盤、天正15年5月23日、大友宗麟は隠居地の津久見で病没した 10 。キリスト教の強力な保護者であった宗麟の死は、大友家の精神的支柱の喪失を意味した。

そしてもう一つが、秀吉によるバテレン追放令の発布である。宗麟の死からわずか一ヶ月後、秀吉は全国にキリスト教宣教師の国外追放を命じた 20 。この絶妙なタイミングは、義統に対し、父が推進したキリシタン保護政策を継承することが、もはや政治的に不可能であることを明確に突きつけた。秀吉の意向に沿うよう努めなければならない義統にとって 10 、かつての府内の象徴であった教会やコレジオを大々的に再建する選択肢は、事実上、失われたのである。府内復興は、この厳しい政治的制約の中で、新たな道を模索せざるを得なかった。

第四章:復興への第一歩 ― 天正十六年「府内町割再編」の深層分析(天正16年/1588年)

核心史料「大友義統書状」の読解

九州平定の翌年、天正16年(1588年)、大友義統は焦土と化した府内復興への第一歩を踏み出す。その具体的な内容を今に伝える唯一の一次史料が、義統が家臣の税所(さいしょ)氏に宛てて発給した一通の書状である 21 。この文書こそが、「府内町割再編」の実態を解き明かす鍵となる。

書状に記された義統の指示は、以下の三点に要約される。

  1. 祇園社領の安堵 : 府内に存在する祇園社の社領である屋敷地の所有権を、領主として改めて保証(安堵)する。
  2. 町人の居住許可 : その屋敷地の一部に、町人(商工業者)を住まわせることを許可する。
  3. 屋敷料の徴収と使途 : 居住する町人から地代(屋敷料)を徴収し、それを原資として、破損した祇園社の社殿の屋根の葺き替え費用に充てること。

「町割再編」に込められた多重の目的

「町割」という言葉は、通常、都市の区画を物理的に整理・再編することを指す。しかし、この書状の内容は、単なる土木事業に留まらない、極めて複合的な目的を持った社会経済政策であったことを示している。

第一に、 宗教的権威の回復と領民の心の拠り所の再建 である。祇園社は地域の鎮守であり、人々の信仰の中心であった。その所領を安堵し、社殿の修復に道筋をつけることは、戦乱で傷つき、領主に見捨てられた(第二章参照)と感じていた領民の心を慰撫し、大友氏の領主としての求心力を回復させるための象徴的な意味合いを持っていた。特に、キリスト教施設の再建が政治的に困難な状況下(第三章参照)で、伝統的な宗教施設から復興に着手することは、最も穏当かつ効果的な選択であった。

第二に、 経済復興の起点の創出 である。都市の再生には、その担い手である商工業者の帰還が不可欠である。祇園社領という一等地に「町人を住まわせる」という布告は、戦火を逃れて離散した人々を府内に呼び戻すための強力なインセンティブとなった。これは、商業活動を再開させ、都市に活気を取り戻すための最優先課題であった。

第三に、 財政的制約下での巧みな財源確保 である。戦乱で疲弊し、かつての勢いを失った大友氏には、大規模な復興事業に投下する潤沢な資金はなかった。そこで義統が考案したのは、領主が直接財政支出を行うのではなく、町人から徴収する屋敷料を社殿修復の原資とする、自己完結型の復興モデルであった。これは、現代の公民連携(PPP)やPFI(プライベート・ファイナンス・イニシアティブ)の萌芽ともいえる発想であり、土地という既存の社会資源を有効活用し、民間の経済活動を公共の利益に還元させる巧みな仕組みであった。

この「府内町割再編」は、物理的な都市計画というよりも、土地の「利用権の再分配」を通じた、きわめて現実的な社会経済復興策であった。そこには、中世的な寺社領の権威を尊重する(安堵する)という古い秩序と、土地を経済資産と捉え都市経営に活かそうとする近世的な合理性が同居しており、時代の転換期に生きた領主の苦悩と創意工夫が凝縮されている。

第五章:時代の鏡像 ― 豊臣期都市計画思想との比較

大友義統が府内で局所的かつ現実的な復興策を進めていた同時期、中央では豊臣秀吉が、自らの権力を象徴する壮大なスケールの都市改造を次々と断行していた。この中央の動向と比較することで、「府内町割再編」の歴史的特質は一層明確になる。

豊臣秀吉の都市革命

秀吉の都市計画は、天下人の強大な権力と明確な政治的意図に基づいていた。

  • 大坂 : 石山本願寺の跡地に築かれた大坂城とその城下町は、秀吉の新たな本拠地として、白紙の上に描かれた計画都市であった。城郭を中心に、大名が住む武家地、商工業者が集まる町人地、そして防御線としての寺町が、身分階層に応じて整然と配置された 22 。特に町人地は、城に向かって伸びる「竪町プラン」で構成され、自由な商いを奨励する経済特区のような政策によって全国から商人が集められ、「天下の台所」としての繁栄の礎が築かれた 22
  • 京都 : 秀吉は、天皇の権威をも自らの支配体制に組み込むべく、京都の大改造にも着手した。内裏の西に壮麗な政庁「聚楽第」を建設し、その周囲に諸大名の屋敷を配置 25 。さらに天正19年(1591年)には、洛中を全長22.5kmに及ぶ土塁と堀で囲む「御土居」を築造し、市中の寺院を強制的に周縁部へ移転させて寺町を形成した 25 。これは、京都を巨大な城塞都市へと変貌させ、支配秩序を空間的に可視化する試みであった。

秀吉の都市計画に共通するのは、支配者の権威の誇示(金箔瓦で葺かれた天守など 23 )、階層秩序の徹底、軍事機能の強化、そして経済機能の計画的配置といった、トップダウンによる強力な国家意思の発現であった。

府内復興との差異

これに対し、府内の町割再編は、あらゆる面で対照的であった。秀吉の事業が都市全体の構造を根底から作り変える「革命」であったとすれば、義統のそれは、既存の共同体と権威を拠り所としながら、傷ついた都市機能を修復しようとする「治療」に近い。

その規模と手法は、祇園社領という特定のエリアを対象とした局所的なものに留まり、強制移転や大規模な土木工事を伴うものではなかった。その思想も、権威の誇示よりも、共同体の再生と経済活動の再開という、内向きで現実的な目的を優先していた。秀吉の都市が「支配者のための都市」であったのに対し、義統の再編が目指したのは「領民が帰るための都市」の再建であった。

この圧倒的な差異は、両者の政治的立場の違いを如実に物語っている。義統はもはや独立した権力者ではなく、豊臣政権という中央集権体制に組み込まれた一地方領主に過ぎなかった。大規模な都市改造に必要な財源も、領内の土地と人民に対する絶対的な支配権も、そして何より中央政権からの承認も、彼には欠けていた。府内町割再編の「小規模さ」と「現実主義」は、義統が、秀吉の厳格な管理下で許された、最大限の裁量の範囲内で行った必死の努力の証なのである。この中央と地方の格差こそが、戦国時代の終わりと、新たな統一政権の時代の到来を明確に示している。

終章:中世府内の終焉と未来への遺産

天正16年の町割再編は、大友氏による府内復興の、最初にして最後の公的な一手となった。このささやかな希望の火が燃え広がることはなかった。文禄2年(1593年)、義統は朝鮮出兵(文禄の役)における不手際を秀吉に咎められ、改易処分を受ける 19 。これにより、鎌倉時代から400年以上にわたって豊後を支配した名門・大友氏の統治は、ここに終焉を迎えた。

大友氏が去った後、府内には福原直高、次いで竹中重利といった新たな領主が入部し、近世的な府内城と新たな城下町の建設が開始された 28 。この新しい都市は、中世大友府内町の中心地とはやや位置をずらして計画的に建設された。旧市街の住民は新城下町へと移転させられ、ここに国際都市として栄えた中世府内の命脈は完全に絶たれたのである 30

しかし、歴史の皮肉というべきか、中世府内町の跡地の多くが、近世以降は主に田畑として利用されたため、大規模な開発を免れた 30 。その結果、かつての壮麗な都市の町割りや遺構が、奇跡的に地下に良好な状態で保存されることとなった。現代を生きる我々が、発掘調査を通して450年前の国際都市の姿に触れることができるのは、この歴史的経緯に負うところが大きい。

「府内町割再編」は、結果として未完に終わった都市復興計画であった。しかし、それは豊臣政権という巨大な潮流の中で、一地方領主が自らの領国の再生のために、いかに現実的かつ創造的な努力を試みたかを示す、極めて貴重な歴史的証言である。焦土の中から立ち上がろうとしたその苦闘は、戦国という時代が終わりを告げ、新たな秩序が形成される過渡期を生きた人々の息遣いを、今に伝えている。

引用文献

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