最終更新日 2025-10-01

延岡城下碁盤化(1603)

関ヶ原を生き抜いた高橋元種は、慶長八年、延岡城下を碁盤割に整備。これは徳川幕府への忠誠と近世大名としての統治能力を示す戦略的事業であり、延岡の礎を築いた。
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慶長八年の地平:高橋元種による延岡城下碁盤化の時系列的徹底分析—戦国から近世への都市創生—

序論:関ヶ原後の新秩序と延岡の黎明

慶長八年(1603年)、徳川家康は征夷大将軍に任官され、江戸に幕府を開府した 1 。これにより、百年に及んだ戦国の世は名実ともに終焉を迎え、日本史は新たな「治の時代」へと大きく舵を切った。この歴史的転換点と時を同じくして、遠く九州の東岸、日向国縣(あがた)の地においても、一つの画期的な事業が完成の時を迎えていた。後の延岡藩初代藩主、高橋元種による縣城(のちの延岡城)の完成と、それに伴う城下町の碁盤割(ごばんわり)である 1

この事業は、単なる一地方における都市開発に留まるものではない。それは、関ヶ原の戦いを経て確立された徳川の覇権という新たな政治秩序の中で、大名たちが如何にして自らの存続と領国の安定を図ろうとしたかを示す象徴的な出来事であった。特に、高橋元種は関ヶ原の戦いにおいて、当初は西軍に属しながら土壇場で東軍に寝返るという、きわめて危うい政治的選択を経て所領を安堵された外様大名であった 4 。彼にとって、新たな城と城下町の建設は、単なるインフラ整備以上の意味を持っていた。それは、軍事力のみならず、領国を平穏に統治する能力こそが問われる新時代への適応であり、徳川政権に対する恭順の意と統治者としての力量を可視化する、極めて戦略的な政治的表明であったのである。

この大規模な土木事業は、戦国武将から近世大名へと自己を変革せんとする高橋元種の強い意志の表れであった。徳川政権が盤石となりつつある中で、恒久的な統治拠点たる城郭と、計画的に配置された城下町を建設することは、領国の安定と繁栄に尽力する「統治者」としての姿勢を明確に示す行為に他ならない。それは、天下に弓引く存在ではなく、幕藩体制下の一員として領国の安寧を図る忠実な大名であることを、江戸の中央政権に対して雄弁に物語るものであった。

本報告書は、この慶長八年の「延岡城下碁盤化」という事象を、戦国時代から近世へと移行する日本史の大きな文脈の中に位置づけ、その背景、経緯、実行過程、そして歴史的意義を時系列に沿って徹底的に分析するものである。

【表1】「延岡城下碁盤化」関連年表

年代(西暦)

元号

主要な出来事(全国)

高橋元種および延岡(縣)関連の出来事

典拠

1571

元亀2

高橋元種、秋月種実の次男として誕生。

4

1587

天正15

豊臣秀吉、九州を平定。

元種、秀吉に降伏し、日向国縣5万3千石を与えられ松尾城主となる。

4

1598

慶長3

豊臣秀吉死去。

元種、慶長の役より帰国。

1

1600

慶長5

関ヶ原の戦い。

元種、西軍として大垣城に籠城するも、東軍に内応し所領安堵される。

3

1601

慶長6

縣城(延岡城)の築城に着手。

1

1603

慶長8

徳川家康、征夷大将軍に就任。江戸幕府開府。

縣城完成、元種は松尾城から移る。城下三町(南・中・北)の碁盤割が完成。

1

1609

慶長14

猪熊事件。元種、領内の罪人を捕縛し京へ護送。

3

1613

慶長18

元種、罪人隠匿の罪により改易。陸奥棚倉へ流される。

1

1614

慶長19

大坂冬の陣。

有馬直純が5万3千石で入封。元種、配流先の棚倉で死去。

1

1615

元和元

大坂夏の陣。豊臣氏滅亡。

有馬直純、元種計画を基に城下を拡張(元町、紺屋町、博労町)。

1

1655

明暦元

有馬康純、柳沢町を設け、延岡七町が完成。

1

1656

明暦2

有馬康純寄進の梵鐘に初めて「延岡」の地名が見られる。

1

第一章:高橋元種入封以前の日向国・縣

高橋元種が新たな都市を築いた土地は、決して白紙の状態ではなかった。そこには、中世以来の重層的な歴史と、在地に深く根差した権力構造が存在した。彼の都市計画を理解するためには、まずその「前史」を明らかにしなければならない。

土持氏による支配と中世的秩序

平安時代末期から戦国時代に至るまで、日向国北部、現在の延岡市周辺を支配していたのは土持(つちもち)氏であった 8 。土持氏は、縣(あがた)を本拠とし、一族を周辺地域に配して勢力を拡大した在地領主であり、その支配は数百年に及んだ 9 。彼らの統治は、土地との密接な結びつきを特徴とする、典型的な中世的支配であった。その権力の象徴であり、最後の拠点となったのが、延岡市街の西方約4kmに位置する松尾城である 11

松尾城は、文安元年(1444年)から3年をかけて土持宣綱によって築かれたとされ、丘陵を利用した山城であった 12 。このような山城は、防御を主眼とした中世城郭の典型であり、領国支配の拠点であると同時に、有事の際の籠城を前提とした軍事施設であった。その周辺には、支配者の館を中心に小規模な町場が形成されていた可能性はあるが、それは高橋元種が後に築くような、計画的で大規模な城下町とは本質的に異なるものであった。

権力構造の転換と新たな支配者

しかし、この土持氏による長きにわたる支配は、戦国時代の激しい権力闘争の中で終焉を迎える。島津氏の台頭と耳川の戦い(1578年)を経て日向国が島津氏の支配下に入り、さらに天正十五年(1587年)、豊臣秀吉による九州平定によって、日向国の権力地図は完全に塗り替えられた 13

秀吉は、土持氏のような在地領主の力を削ぎ、自らに従う大名を新たな支配者として配置した。この九州仕置において、豊前国香春(かわら)の城主であった高橋元種が、その功績により日向国縣に5万3千石を与えられ、この地の新たな領主となったのである 5 。彼が最初に入った城は、土持氏の旧城である松尾城であった 1

この権力の交代は、単なる領主の交代以上の意味を持っていた。それは、土地と不可分であった中世的な在地支配から、中央政権(豊臣政権)の権威を背景とした、より広域的で集権的な近世的支配への移行の第一歩であった。旧来の支配者である土持氏の権威は否定され、新たな支配者である高橋元種による新しい秩序の構築が始まったのである。

元種が、土持氏の支配の象徴であった松尾城を長期間にわたって居城とせず、関ヶ原の戦いを経て、全く新しい場所に縣城(延岡城)の建設を決定したことは、極めて示唆に富む。それは、旧来の権威を物理的・象徴的に払拭し、自らの支配の正統性と新時代の到来を領民に明確に示すための、意図的な空間的断絶であった。中世的な山城である松尾城は、防衛には適していても、城下町と一体となって領国全体を統治する政庁としては機能的に不十分であった可能性も高い。したがって、新城建設は、政治的・象徴的な意味合いと、統治機能の近代化という実務的な意味合いの両方を兼ね備えた、新しい時代の幕開けを告げる必然的な選択だったのである。

第二章:激動の時代と高橋元種の台頭

延岡城下町の創設者である高橋元種は、どのような人物であったのか。彼の出自、経験、そして彼が日向国にもたらしたであろう知見を分析することは、慶長八年の都市計画の背景を理解する上で不可欠である。

秋月氏の血脈と領国経営の素地

高橋元種は元亀二年(1571年)、筑前の有力な戦国大名であった秋月種実の次男として生まれた 4 。その後、天正六年(1578年)に同族である高橋鑑種の養子となる 3 。実父の秋月氏も、養父の高橋鑑種も、筑前国において大友氏や毛利氏といった大勢力と渡り合い、巧みな領国経営を行っていた大名であった 14 。特に秋月氏が本拠とした秋月(現在の福岡県朝倉市)は、美しい城下町として知られ、その町割りには近世的な計画性が見られる 16 。元種は、このような環境で育つ中で、城郭の構築や城下町の経営に関する高度な知識やノウハウに自然と触れていた可能性が高い。

天正十五年(1587年)、豊臣秀吉の九州平定に際して父や兄と共に降伏し、日向国縣に5万3千石の領地を与えられた 5 。これにより、彼は豊臣政権下の一大名として、中央政権の動向を常に意識しながら領国を治めるという、近世大名としてのキャリアをスタートさせたのである。

文禄・慶長の役と最先端築城技術

元種の経歴において特筆すべきは、慶長の役(1598年)への参陣である 3 。これは単なる軍役の経験に留まらなかった。この朝鮮出兵において、日本軍は朝鮮半島南部に橋頭堡として多数の城郭、いわゆる「倭城(わじょう)」を築いた。これらの倭城は、日本の築城技術の粋を集めた実験場であり、総石垣造り、防御区画の巧みな配置、そして「登り石垣」といった新技術が導入されるなど、日本の城郭史における技術的飛躍の舞台となった 18

高橋元種は、この最先端の築城技術が実践される現場に身を置いていたのである。彼が目の当たりにしたであろう堅固な石垣の構築法、効率的な空間配置、兵站を意識した都市計画思想は、その後の彼の思考に大きな影響を与えたと考えられる。

実際に、文禄・慶長の役から帰国した大名たちは、そこで得た知見を自らの領国における築城に活かした。関ヶ原の戦い直後から全国で始まる、姫路城や仙台城に代表される大規模な築城ラッシュは、この朝鮮半島からの技術的フィードバックという文脈の中にあった 20 。慶長六年(1601年)に開始された延岡城の普請もまた、この大きな技術革新の潮流の中に位置づけられる。高橋元種が朝鮮半島で得たであろう新たな築城技術と思想が、延岡という地で具体化されることになるのである。

第三章:運命の転換点、関ヶ原の戦い

慶長八年(1603年)の都市建設を可能にした直接の政治的要因は、慶長五年(1600年)に起こった関ヶ原の戦いにおける高橋元種の動向であった。この天下分け目の戦いにおける彼の決断が、その後の彼の運命、そして延岡の未来を決定づけた。

西軍への参陣と東軍への内応

関ヶ原の戦いが勃発すると、高橋元種は兄である筑前国秋月藩主・秋月種長と行動を共にし、西軍に属して大垣城(現在の岐阜県大垣市)に籠城した 3 。これは、豊臣政権との関係が深かった九州の多くの大名がとった行動であり、当時の情勢を鑑みれば自然な選択であった。

しかし、元種が畿内で西軍として行動している間、彼の領国である日向国では不穏な動きが生じていた。かねてより徳川家康と気脈を通じていた隣国の飫肥(おび)領主・伊東祐兵が東軍方として決起し、元種の支配下にあった宮崎城を攻撃、これを陥落させるという事件が発生していたのである 23 。領国が直接脅かされるという事態は、遠く大垣城にいる元種の判断に少なからぬ影響を与えた可能性がある。

慶長五年(1600年)9月15日、関ヶ原での本戦において西軍が壊滅的な敗北を喫したという報せが大垣城にもたらされると、城内の空気は一変する。この機を捉えた東軍の将・水野勝成からの調略に応じ、元種は兄・種長、そして同じく籠城していた相良頼房らと密謀し、東軍への寝返りを決断した 3 。彼らは城内において、西軍の将であった熊谷直盛、垣見一直らを殺害し、城の守将・福原長堯を降伏させて大垣城を開城した 6 。この土壇場での功績が徳川家康に認められ、元種は西軍に与しながらも改易を免れ、所領を安堵されるという結果を得たのである 4

「生存」から「統治」へのパラダイムシフト

この所領安堵は、高橋元種にとって単なる「生き残り」以上の、決定的な意味を持っていた。それは、いつ終わるとも知れない戦乱の時代が終わり、徳川の天下の下での恒久的な領国統治の時代が始まるという、時代の大きな転換点を彼に認識させるものであった。

関ヶ原以前の大名の思考は、常に戦争を前提としていた。領国経営の最優先事項は、いかに軍事力を維持し、次の戦に勝利するかであった。しかし、徳川の覇権が確立されたことにより、大名に求められる資質は根本的に変化した。もはや問われるのは、純粋な武勇ではなく、「いかに領国を安定させ、石高を向上させ、幕府の御用に堪えるか」という統治能力、すなわち行政官としての手腕であった。

この新しい時代の要請に応えるためには、防衛一辺倒の中世的な山城では不十分であった。政治、経済、そして軍事の中心地として機能する、新たな城と計画的な城下町が不可欠となる。したがって、関ヶ原の戦いの終結と所領安堵は、高橋元種の思考を「軍事」から「統治」へ、そして「生存」から「経営」へと転換させる決定的な契機となった。その具体的な行動として結実したのが、翌慶長六年(1601年)から始まる、縣城および城下町建設という壮大なプロジェクトだったのである。

第四章:延岡城下碁盤化—慶長八年(1603年)に至る軌跡の時系列分析

関ヶ原の戦いを乗り越え、新たな時代の統治者としての道を歩み始めた高橋元種は、その構想を直ちに実行に移した。慶長六年(1601年)から慶長八年(1603年)に至る3年間は、現在の延岡市の原型が形作られた、極めて重要な期間である。ここでは、その過程を可能な限りリアルタイムに近い形で再構成する。

慶長六年(1601年):グランドデザインと普請の開始

  • 春〜夏:計画策定
    関ヶ原の戦後処理が一段落し、所領安堵が確実なものとなったこの時期、高橋元種は領国経営の新たな拠点建設に向けた最終的な意思決定を下した。彼は、中世以来の拠点であった松尾城からの移転を決断し、新城の建設地として、五ヶ瀬川と大瀬川という二つの川に挟まれた独立丘陵、現在の城山を選定した 12。この場所は、川を天然の堀とする防御上の利点と、水運を利用した物資輸送の利便性を兼ね備えており、その選地自体が、軍事と経済を両立させようとする近世的な都市計画思想の表れであった。
  • 秋〜冬:築城着手
    計画が固まると、元種は縣城(のちの延岡城)の築城に正式に着手した 1。まず、城全体の基本設計である「縄張り」が行われ、本丸、二の丸といった主要な曲輪(くるわ)の配置や、堀、石垣の位置が決定された。この段階で、城の東側に広がる平地に建設する城下町の区画計画も同時に策定されたと考えられる。後の延岡の町並みの特徴となる、直線的で計画的な「碁盤割」の構想が、この時に描かれたのである。やがて、領内から多くの人足が動員され、石材や木材が運び込まれ、大規模な普請(土木工事)の槌音が響き始めた。

慶長七年(1602年):城郭と町割りの同時進行

この年は、築城工事が最盛期を迎えた一年であった。縣城の主要な曲輪を区画する壮大な石垣が組まれ、深い堀が掘削されるなど、城の骨格が次々と姿を現していった。当時の様子を伝える数少ない史料である『慶長日向国絵図』には、縣城に三層の建築物や複数の櫓が描かれており、天守に類する高層建築が計画、あるいは実際に建設されていた可能性が高いことを示唆している 24 。これは、単なる防御施設ではなく、領主の権威を象徴する「見せる城」を目指していたことの証左である。

城郭の建設と並行して、城下町の造成も急ピッチで進められた。城の東側では、事前に計画された碁盤の目状の区画に従って、新たな道路が敷設され、宅地の造成が行われた。武士が住む武家屋敷地は城の直近に、そして町人が住む町人地はその外側に配置するという、身分制に基づいた空間のゾーニングが具体化されていった。この段階で、後の南町、中町、北町の原型となる幹線道路網が、整然とした姿を現し始めたと考えられる 7 。城と町が一体となって、同時進行で建設されていく様は、まさに新しい都市の誕生を告げる光景であった。

慶長八年(1603年):新時代の幕開けと都市の誕生

  • 2月12日:江戸幕府開府
    この日、江戸において徳川家康が征夷大将軍に任じられ、江戸幕府が開かれた 2。この報せは、工事の最終段階にあった日向国縣の地にも届いたはずである。名実ともに徳川の世が始まったという事実は、自らの城と城下町を完成させようとしていた高橋元種にとって、自らの事業が新時代の秩序の中に正しく位置づけられることを意味し、その意義を再確認させるものであっただろう。
  • 秋:縣城完成と入城
    慶長六年から足掛け三年に及んだ大工事の末、秋には縣城が完成した 3。高橋元種は、旧来の支配の象徴であった松尾城を離れ、完成したばかりの壮麗な新城へと正式に移った 1。これは単なる引越しではなく、旧時代の支配者(土持氏)の権威と決別し、徳川の天下における新たな統治者として君臨することを示す、極めて政治的な意味合いを持つ「入城儀式」であった。
  • 同時期:城下三町の完成
    城の完成と時を同じくして、城下町の初期区画である南町、中町、北町の三町が完成した 7。これにより、行政と軍事の中心である城と、経済活動の中心である町人地が、計画的に分離・整備された近世的な都市空間が誕生した。武家屋敷は城の防衛ラインを形成し、町人地は商業の発展を担う。この機能的な都市構造の実現こそが、「延岡城下碁盤化」の核心であった。慶長八年、徳川幕府の誕生と共に、日向国縣の地にも、新しい時代の秩序を体現した都市が産声を上げたのである。

第五章:延岡城下町の設計思想と全国的文脈

高橋元種が延岡で実現した「碁盤割」は、決して孤立した現象ではなかった。関ヶ原の戦いを経て、全国の大名たちは新たな時代に対応すべく、競って城と城下町の建設・整備に着手しており、1600年代初頭は日本史上、類を見ない「都市創生の時代」であった。延岡の都市計画を、同時代の他の主要な事例と比較検討することで、その思想的背景、独自性、そして歴史的な位置づけを明らかにすることができる。

「碁盤割」に込められた近世の理念

直線的な街路が直交する「碁盤割」という都市計画手法は、その整然とした見た目以上に、複数の戦略的な意図を含んでいた。第一に、見通しが良く、区画が明確であるため、火災時の延焼防止や治安維持に有利であるという「合理性」があった 26 。第二に、敵が侵入した際に遠方から迎撃しやすく、また「枡形(ますがた)」と呼ばれるクランク状の交差点を組み合わせることで敵の進軍を阻むという「防御性」も考慮されていた。そして第三に、最も重要な点として、城を頂点とし、身分に応じて居住区を明確に区画することで、支配者の権威を都市の隅々にまで浸透させる「支配の可視化」という目的があった 27 。延岡における行政(城)と商業(町人地)の分離整備は、まさにこの近世的な支配理念の具現化であった。

同時代の主要城下町計画との比較

延岡の都市計画を相対的に評価するため、同時代に建設された他の代表的な城下町と比較する。

  • 名古屋城下(徳川家康): 慶長十五年(1610年)から始まる名古屋の都市建設は、徳川家康自身が主導した国家的な巨大プロジェクトであった 29 。尾張の中心地を清須から丸ごと移転させる「清須越(きよすごし)」を行い、京都をモデルとした壮大な碁盤割の城下町を建設した 30 。これは、江戸と大坂の中間に位置する重要拠点として、徳川の威信を天下に示すための計画都市であった。
  • 仙台城下(伊達政宗): 慶長五年(1600年)末から築城が始まった仙台城では、伊達政宗が独特の都市計画思想を展開した 32 。彼は天然の要害である青葉山に城を築きながらも、徳川家康への配慮からあえて天守閣を設けなかったとされる 34 。城下町は碁盤割を基本としつつも、軍事的な色彩を抑え、経済活動の中心地(芭蕉の辻)を設けるなど、領国の経済的発展と民衆の暮らしやすさを重視した、当時としては先進的な構想であった 35
  • 姫路城下(池田輝政): 関ヶ原の戦功により播磨52万石を与えられた池田輝政は、慶長六年(1601年)から姫路城の大改築に着手した 37 。彼の計画は、西国の外様大名を監視するという幕府の戦略的意図を色濃く反映しており、城下町全体を内堀、中堀、外堀が渦巻状に取り囲む、極めて防御思想の強い要塞都市として設計された 20

これらの巨大プロジェクトと比較すると、5万3千石の高橋元種による延岡の計画は規模こそ小さいものの、その内容は時代の本質を的確に捉えていた。すなわち、文禄・慶長の役で得た知見を活かした織豊系城郭の技術に基づく堅固な城を築き、同時に、碁盤割による近世的な町人地を整備するという、軍事と統治の両立を目指すものであった。それは、戦国時代の緊張感を色濃く残しつつも、新しい「治の時代」の統治者として適応しようとする、過渡期にある外様大名の城下町計画の典型例として評価することができる。

【表2】同時代の主要城下町計画との比較

都市名(藩)

計画主体

計画開始年

設計思想・特徴

規模(石高)

延岡(縣藩)

高橋元種

慶長6年(1601)

織豊系城郭技術+碁盤割。防御と統治の両立。

5万3千石

仙台(仙台藩)

伊達政宗

慶長5年(1600)

経済・生活重視。天守を置かず、軍事色を抑制。

62万石

姫路(姫路藩)

池田輝政

慶長6年(1601)

西国監視の拠点。三重の堀を持つ高度な要塞都市。

52万石

名古屋(尾張藩)

徳川家康

慶長15年(1610)

幕府の威信を示す巨大計画都市。清洲越。

(天領/御三家)

第六章:高橋元種の藩政と碁盤化の遺産

慶長八年(1603年)に新たな城と城下町を完成させた高橋元種は、ここを拠点として藩政を展開していく。しかし、彼の治世は予期せぬ形で終わりを告げる。だが、彼が遺した都市の骨格は、その後の延岡の発展の礎となった。

建設後の藩政と突然の改易

新城下町を拠点とした元種の藩政は、徳川政権との協調を重視するものであったことがうかがえる。慶長十四年(1609年)に発生した、公家衆と女官の密通事件である「猪熊事件」では、主犯格の一人である猪熊教利が元種の領内に潜伏していた。元種はこれを捕縛し、幕府の意向に従って京へ護送している 3 。これは、彼が幕藩体制下の大名として、中央政権の秩序維持に協力する姿勢を明確に示していた証拠である。

しかし、このような忠実な姿勢にもかかわらず、彼の運命は暗転する。慶長十八年(1613年)、元種は幕府の罪人である坂崎左衛門を匿ったという罪状で、突如として改易(領地没収)の処分を受けたのである 1 。この改易の背景には、幕府内の権力闘争であった「大久保長安事件」への連座説が有力視されており、元種が中央の政争に巻き込まれた悲劇であった可能性が高い 4 。心血を注いで築き上げた城と城下町を追われた元種は、陸奥国棚倉藩主・立花宗茂預かりとなり、翌慶長十九年(1614年)、失意のうちに44年の生涯を閉じた 4

後継者による継承と都市の発展

創設者の悲劇的な退場にもかかわらず、彼が創った都市の「設計図」は生き続けた。元種の改易後、慶長十九年(1614年)に新たな領主として肥前国日野江から有馬直純が5万3千石で入封した 1 。通常、前任者の政策は否定されることも少なくないが、有馬氏は高橋元種が築いた都市計画を否定するどころか、それを基礎として、さらなる拡張を行った。

有馬直純は、元種が整備した南町・中町・北町の三町に加え、元和元年(1615年)に五ヶ瀬川の北岸に元町、紺屋町、博労町を新たに造成した 1 。さらに二代藩主・康純の時代には柳沢町が設けられ、ここに「延岡七町」と呼ばれる城下町の骨格が完成した 1 。これは、高橋元種の計画が、特定の個人の思想に留まらず、地理的条件や経済的合理性に適った、普遍的な価値を持つものであったことを何よりも雄弁に物語っている。

そして、有馬康純の治世である明暦二年(1656年)、今山八幡宮に寄進された梵鐘(ぼんしょう)に、初めて「延岡」という地名が刻まれた 1 。藩名であった「縣」に代わり、城と城下町の名称として「延岡」が定着していく。しかし、その都市の骨格、原型を創ったのが、悲運の初代藩主・高橋元種であったことは疑いようのない事実である。

高橋元種の生涯は、近世初期の大名が常に中央政権の意向に翻弄される不安定な存在であったことを示す悲劇であった。しかし、彼が描いた都市の設計図は、彼の失脚という個人の運命を超えて生き続け、後継者によって見事に完成された。創設者の名は歴史の中に埋もれがちになる一方で、彼が描いた都市の骨格は数百年後の現代延岡市にまで受け継がれている。個人の悲劇と、都市という創造物が持つ永続性との鮮やかな対比が、この歴史事象の深い味わいを形作っているのである。

結論:戦国から近世へ—延岡城下町が語る時代の転換

慶長八年(1603年)の「延岡城下碁盤化」は、単なる地方都市の建設事業ではなかった。それは、徳川家康が征夷大将軍となり、新たな時代が幕を開けた画期的な年に、高橋元種という一人の武将が、戦国の価値観から脱却し、近世の統治者として生き抜くために行った、政治的・社会的・技術的挑戦の結晶であった。

彼の事業は、以下の三つの側面から、時代の大きな転換を象徴している。

第一に、 政治的側面 において、この都市建設は関ヶ原の戦いを危うい立場で乗り切った外様大名が、徳川の天下において自らの存在価値を示すための戦略的プロジェクトであった。それは、武力ではなく統治能力によって評価される新時代への適応宣言であり、幕藩体制への恭順を形にしたものであった。

第二に、 技術的側面 において、縣城(延岡城)の築城と城下町の計画には、文禄・慶長の役で培われた最先端の築城技術と、全国的な潮流であった近世的な都市計画思想が反映されていた。これは、延岡が中央の技術革新と無縁の辺境ではなく、時代の最前線と連動していたことを示している。

第三に、 社会的側面 において、城を頂点とし、武士と町人の居住区を計画的に分離・配置した碁盤割の町並みは、身分制を基本とする新たな社会秩序の空間的な表現であった。それは、日向国における中世的な在地支配の終焉と、近世的な中央集権体制の始まりを画するモニュメントとなった。

高橋元種自身は、その完成からわずか10年で志半ばにして政治の舞台から姿を消すという悲運に見舞われた。しかし、彼が描いた合理的で優れた都市の青写真は、後継者である有馬氏に引き継がれ、拡張され、その後の延岡の発展の確固たる礎となった。

結論として、延岡城下碁盤化は、戦国から近世へという日本史のダイナミックな移行期を凝縮した、きわめて象徴的な出来事であったと言える。それは、関ヶ原直後の日本全国で沸き起こった「都市創生の時代」の確かな一例であり、高橋元種が遺した直線的な町割りは、現代の延岡市中心市街地の原型として、今なおその歴史的意義を静かに物語っているのである。

引用文献

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  2. 関ヶ原の戦い|徳川家康ー将軍家蔵書からみるその生涯ー - 国立公文書館 https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/ieyasu/contents3_01/
  3. 高橋元種 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E5%85%83%E7%A8%AE
  4. 高橋元種 - 戦国武将列伝wiki http://seekfortune.wiki.fc2.com/wiki/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E5%85%83%E7%A8%AE
  5. 延岡藩 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%B6%E5%B2%A1%E8%97%A9
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  13. 日向国 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%90%91%E5%9B%BD
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