延岡城築城(1601)
慶長6年、高橋元種は延岡城を築城。関ヶ原で東軍に内応し所領安堵された彼は、新時代に適応すべく近世城郭を建設。天然の要害に「千人殺し」の石垣を築き、城下町を整備。元種は改易されたが、延岡の礎を築いた。
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日向国・縣城(延岡城)築城始末 ― 関ヶ原の残響と高橋元種の野望 ―
序章:関ヶ原の戦塵、日向の地に収まる
慶長5年(1600年)、美濃国関ヶ原で繰り広げられた天下分け目の戦いは、わずか一日で徳川家康率いる東軍の圧倒的勝利に終わった。この戦いは、豊臣政権の権力構造を根底から覆し、日本全土を新たな秩序、すなわち江戸幕府による支配体制へと再編する巨大な地殻変動の始まりであった 1 。その衝撃波は、中央から遠く離れた九州の地にも、遅れて、しかし確実に到達し、現地の勢力図を塗り替えていく。延岡城の築城という事象は、この全国規模での権力再編の渦中にあった日向国において、一人の武将が生き残りを賭けて下した決断の帰結であり、新時代の到来を告げる狼煙でもあった。
関ヶ原の戦いに呼応し、九州では黒田如水や加藤清正ら東軍方の将が、西軍に与した島津義弘や立花宗茂らと各地で激しい戦闘を繰り広げていた。多くの大名が、豊臣家への恩義や旧来の人間関係から西軍に味方し、戦後、徳川家康による厳格な論功行賞の中で改易や減封という厳しい処断に直面することとなる 3 。この混乱の極みにあった九州において、各大名は自家の存続という至上命題を前に、内応、寝返り、恭順といった、時に非情ともいえる政治的決断を迫られていたのである 5 。
高橋元種が治める日向国縣(あがた)の地は、地政学的に極めて微妙な位置にあった。北には、かつて九州六ヶ国を支配した大友氏の旧領が広がり、南には関ヶ原で西軍の中核として奮戦し、その強大な軍事力を保持したまま薩摩へと帰還した島津氏が睨みを利かせている。この二大勢力に挟まれた緩衝地帯である縣を安定的に統治することは、九州全体の平定と新秩序の確立を目指す徳川家康にとって、看過できない重要な課題であった。この地における高橋元種の近世城郭築城は、単なる一地方大名の領国経営という枠を超え、徳川の天下統一事業における九州戦略の一翼を担う、極めて政治的な意味合いを帯びたプロジェクトであった。
関ヶ原の戦いにおいて西軍から東軍へ内応し、所領を安堵された高橋元種 2 。この事実は、家康からの「恩賞」であると同時に、今後徳川の世においてその忠誠を形で示せという無言の圧力でもあった。特に、強大な軍事力を温存する島津氏への警戒を強める家康にとって、その北方に信頼できる抑えの拠点を置くことは急務であった。元種に近代的で堅固な城の築城を許可、あるいは奨励することは、彼を対島津の最前線に位置する「楔」として機能させるという、家康の深謀遠慮があったと考えられる。したがって、慶長6年(1601年)に始まった縣城(後の延岡城)の築城は、高橋元種の個人的な野心と、徳川家康の天下布武の構想が、日向の地で交錯した結果生まれた、時代の転換点を象-徴する事業だったのである。
第一章:築城主・高橋元種の肖像
延岡城という壮大な事業を理解するためには、まずその築城主である高橋元種という人物の複雑な出自と、戦国の乱世を生き抜いた彼の生涯を深く掘り下げる必要がある。彼の人生は、名門の誇りと、生き残るための現実主義が交錯する、戦国末期から江戸初期にかけての武将の典型的な肖像を映し出している。
元種は元亀2年(1571年)、筑前の戦国大名・秋月種実の次男として生を受けた 4 。秋月氏は大蔵姓原田氏の流れを汲む、筑前の名門である。天正6年(1578年)、彼は同じく筑前の有力国人であった高橋鑑種の養子となる 4 。これは、筑前国における秋月・高橋両家の勢力を結びつけ、支配を盤石にするための政略的な縁組であった。ここで特筆すべきは、元種の義理の祖父にあたる高橋紹運(鎮種)の存在である。紹運は天正14年(1586年)、島津氏が九州統一を目指して北上した際、岩屋城にわずか763名の寡兵で籠城し、数万と号する島津の大軍を半月以上にわたって足止めした末に、城兵全員と共に玉砕を遂げた悲劇の武将として知られる 7 。この「岩屋城の戦い」における壮絶な抵抗は、豊臣秀吉の援軍が到着する時間を稼ぎ、結果的に島津の野望を挫く一因となった。この高橋家の武門の誇りと、脆弱な城で滅び去った記憶は、元種の精神性に深い影響を与え、後の築城事業への執念につながった可能性は否定できない。
天正15年(1587年)、豊臣秀吉による九州征伐が始まると、秋月・高橋家は秀吉の圧倒的な軍事力の前に降伏し、その軍門に下った 4 。戦後の国割りにおいて、元種は父祖伝来の地である筑前を離れ、日向国縣(現在の延岡市周辺)に5万3,000石を与えられ、独立した大名となった 4 。これは、有力な国人領主を旧領から切り離し、新たな土地で統治基盤をゼロから築かせることで、その勢力を削ぎ、中央集権的な支配体制に組み込むという豊臣政権の巧みな戦略であった。元種は当初、中世以来の山城である松尾城を居城とし、新たな領地での統治を開始する 9 。その後、文禄・慶長の役にも参陣し、豊臣政権下の大名としての軍役を果たしている 4 。
彼の運命を決定づけたのは、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いであった。兄である秋月種長と行動を共にしていた元種は、当初西軍に属し、大垣城に籠城していた 4 。しかし、9月15日の本戦で西軍が壊滅したとの報が城内に届くと、状況は一変する。東軍の水野勝成からの降伏勧告を受け入れた種長と元種は、生き残りのため東軍への内応を決意。同じく籠城していた相良頼房らと密謀し、城内において熊谷直盛、垣見一直といった西軍の諸将を殺害し、大垣城を内部から崩壊させ、東軍に明け渡したのである 4 。この土壇場での「裏切り」ともいえる功績により、元種は戦後、徳川家康から所領を安堵され、日向国縣5万3,000石の領主としての地位を維持することに成功した 3 。
この一連の経歴は、高橋元種の行動原理が二つの相克する動機によって突き動かされていたことを示唆している。一つは、家の存続を最優先し、そのためには裏切りをも厭わない、戦国の世を生き抜くための冷徹な現実主義、すなわち「サバイバル」の論理である。もう一つは、名門の血を引く者として、また5万3,000石の大名として、新たな時代に確固たる地位を築き、後世に誇るべき遺産、すなわち「レガシー」を築き上げたいという強い野心であった。関ヶ原での内応が前者の現れであるとすれば、その直後に着手された縣城の築城は、後者の野望が結実した最大級のプロジェクトであった。彼は単に生き残るだけでなく、新たな支配者として自らの権威を内外に示し、一族の誇りを再興するための壮大なモニュメントを必要としていた。旧態依然とした山城を捨て、近世的な思想に基づいた新たな城と城下町を建設することは、彼にとって、自らの統治が新時代にふさわしいものであることを宣言する、不可欠な行為だったのである。
第二章:近世城郭「縣城」の黎明
慶長6年(1601年)、高橋元種が新たな城の普請に着手した背景には、時代の大きな変化があった。なぜ彼は、既存の松尾城を捨て、莫大な費用と労力を投じてまで新城を築く必要があったのか。その答えは、中世から近世へと移行する時代の要請と、彼の統治者としての野望の中にあった。
なぜ新城が必要だったのか ― 中世山城・松尾城からの脱却
元種が当初居城としていた松尾城は、険しい山容を利用した典型的な中世の山城であった 9 。こうした山城は、敵の攻撃から身を守るための籠城戦には適しているが、平時の政治や経済活動の中心地としては極めて不便であった。山頂に政庁を構えていては、領民の動向を把握し、商業を振興させることは困難である。関ヶ原の戦いを経て、日本国内から大規模な合戦の脅威が薄れ、世の中が安定期へと向かう中で、大名の役割は純粋な軍事指揮官から、領国を豊かにする行政官・経営者へと大きくシフトしていた 9 。この新たな時代の統治者として、元種には領国の政治・経済を一体的に運営できる、平地の利便性を備えた新たな拠点が必要だったのである。
さらに、軍事技術の革新も新城建設を後押しした。戦国時代を通じて飛躍的に普及した鉄砲は、従来の土塁や空堀といった防御施設の有効性を著しく低下させた。火縄銃の鉛玉は、土の塁壁を容易に貫通し、遠距離からの攻撃を可能にした。これに対抗するためには、銃撃に耐えうる分厚い石垣と、敵の接近を阻む幅の広い水堀を主体とした、新たな防御思想に基づく城郭、すなわち「近世城郭」の構築が不可欠となっていた 9 。松尾城を捨て、縣城を築くという決断は、統治思想と軍事思想の両面において、旧時代と決別し、新時代に適応しようとする元種の強い意志の表れであった。
築城地の選定 ― 五ヶ瀬川と大瀬川に抱かれた天然の要害
新城の建設地として元種が選んだのは、五ヶ瀬川と大瀬川という二つの大河が合流する地点に形成された中州にそびえる、標高約53メートルの独立丘陵、通称「延岡山」であった 9 。この場所は、まさに天然の要害と呼ぶにふさわしい絶好の立地であった。城の北を流れる五ヶ瀬川と南を流れる大瀬川は、そのまま巨大な外堀として機能し、敵の容易な接近を許さない 9 。また、二つの川は水運の大動脈でもあり、物資の輸送や商業活動の拠点としても理想的であった。山城の堅固さと、平城の利便性を兼ね備えたこの「平山城」という形式は、織田信長の安土城以降、この時代の城郭建築の主流となっており、縣城もまたその思想を忠実に受け継いでいる 9 。
縄張師・神田壱岐守の設計思想
縣城の縄張(基本設計)は、神田壱岐守という人物が担当したと伝えられている 14 。「壱岐守」という受領名から、彼が単なる石工や大工の棟梁ではなく、築城技術に精通した武士階級の技術者官僚であったことが推測される 15 。彼の設計は、当時の最新鋭の築城術を反映した、合理的かつ堅牢なものであった。
城郭の主要部は、延岡山の山頂に本丸を置き、そこから西側へ向かって二の丸、三の丸を階段状に配置する「梯郭式」と呼ばれる縄張を基本としている 13 。これにより、敵は下から上へと、幾重にも連なる防御ラインを突破しなければ本丸に到達できない構造になっている。そして、本城の西側の麓には、藩主の居館や政務を執り行う御殿が置かれる「西の丸」が設けられた 9 。この、戦闘を指揮する「詰の城」としての本城と、平時の生活と政治の場である西の丸を分離する構成も、近世城郭の特徴の一つである。
縣城の設計思想は、単に軍事的な防御効率を追求するだけに留まらなかった。それは、領主の権威を領民や他国の使者に対して視覚的に誇示する、「見せる城」としての役割を強く意識したものであった。例えば、城の顔ともいえる巨大な石垣群、特に後述する「千人殺し」の石垣は、城下の町人地からもはっきりと見上げることができたとされ、見る者に高橋氏の権力と財力を強烈に印象付けたに違いない 20 。中世の山城が山中に隠れるように存在したのに対し、人々の生活空間のすぐそばに、石垣をまとった威容を誇示するようにそびえ立つ近世城郭は、領主の権力が領国の隅々にまで及んでいることを見せつける、強力な政治的シンボルであった。縣城の縄張は、戦国時代的な「守る」ための実用性と、江戸時代的な「見せる(統治する)」ための象徴性が融合した、まさに時代の過渡期ならではのハイブリッドな設計思想の産物だったのである。
表1:松尾城と縣城(延岡城)の比較分析
高橋元種がなぜ新城建設という一大事業に踏み切ったのか、その必然性は、旧居城である松尾城と新城である縣城を比較することでより明確に理解できる。
比較項目 |
松尾城(中世山城) |
縣城(近世平山城) |
立地 |
標高の高い山頂部 2 |
川に挟まれた平地の丘陵 9 |
主たる防御施設 |
土塁、空堀、切岸 |
高石垣、水堀 9 |
縄張 |
複雑な地形を利用した連郭式 |
梯郭式を基本とする計画的配置 13 |
主たる機能 |
純粋な軍事拠点、籠城施設 |
政治・経済・軍事の複合拠点 9 |
城と町の関係 |
城と町は分離 |
城と城下町が一体化した都市計画 9 |
象徴性 |
閉鎖的、軍事的権威 |
開放的、政治的・経済的権威の誇示 20 |
第三章:普請の槌音 ― 慶長六年から八年への軌跡
関ヶ原の戦後処理が一段落し、徳川による新たな支配体制が形を見せ始めた慶長6年(1601年)、日向国縣の地で、壮大な築城工事の槌音が響き渡った。高橋元種の命のもと、縣城(延岡城)の普請が開始されたのである 1 。ここから慶長8年(1603年)の完成に至るまでの約2年間は、当時の最先端技術と多くの人々の労働力が注ぎ込まれた、まさに創造の時代であった。
慶長6年(1601年):普請開始と石垣工事
築城工事は、まず城の土台となる石垣の普請から本格的に始まった。領内各地から多くの人々が人足として動員され、石材の調達と運搬にあたった。縣城の石垣には、主に花崗斑岩、砂岩、そして遠く阿蘇からもたらされた溶結凝灰岩などが用いられている 14 。これらの巨大な石材を石切場から切り出し、修羅やころ(丸太)を駆使して築城現場まで運搬する作業は、それ自体が一大事業であった。
縣城の石垣は、当時の石垣技術の発展段階を如実に示す、貴重な実物資料となっている。その基本的な工法は、自然石をほとんど加工せずに巧みに組み上げていく「野面積み」である 12 。この工法は、石と石の間に隙間が多く、一見すると粗雑に見えるが、排水性に優れ、かえって崩れにくいという利点があった 22 。一方で、石垣全体の強度を左右する隅角部には、長方形に加工した石材の長辺と短辺を交互に組み合わせて積む「算木積み」の技法が採用されている 12 。しかし、その技法はまだ発展途上の段階にあり、隅石の長辺と短辺の長さの差が比較的小さいなど、算木積みが完成形に近づくとされる慶長10年(1605年)頃よりも古い、過渡的な特徴を示している 12 。これは、縣城がまさに石垣技術の進化の途上で築かれたことを物語っている。
また、城内の石垣、特に北大手門周辺には400を超える多様な「刻印」が確認されている 12 。これらの刻印は、工事を担当した石工集団や、石材を供給した村々を示すマーキングと考えられている。しかし、興味深いことに、これらの刻印の様式が、元種の改易後、元和6年(1620年)から始まった徳川大阪城の天下普請において、有馬家が担当した丁場の刻印と類似していることが指摘されている 12 。このことから、これらの刻印が押された石垣の多くは、高橋元種による当初の工事ではなく、慶長19年(1614年)以降に入封した有馬直純による大規模な改修工事の際に築かれた可能性が高い。城は一度の工事で完成するのではなく、歴代城主によって絶えず改修が加えられ、進化していく生命体のような存在であったことがうかがえる。
「千人殺し」の築造 ― 伝説と科学が交差する防御思想
高橋元種による築城工事の中でも、ひときわ異彩を放つのが、本丸と二の丸の間にそびえ立つ巨大な高石垣、通称「千人殺し」である 9 。高さ約19メートル、総延長約70メートルにも及ぶこの石垣は、九州でも屈指の規模を誇り、見る者を圧倒する威容を備えている 11 。この石垣には、「隅に据えられた一つの礎石を外すと、石垣全体が崩れ落ち、殺到した千人の敵兵を一度に倒すことができる」という恐るべき伝説が残されている 25 。
長年、この話は城の堅固さを誇張するための伝説に過ぎないと考えられてきた。しかし、近年の研究により、これが単なる伝説ではなく、力学的な裏付けを持つ、意図的に設計された防御システムであった可能性が浮かび上がってきた 27 。力学的な計算によれば、攻城兵器としても使われた巨大な丸太(破城槌)などで特定の隅石に繰り返し衝撃を与えれば、人力で石を動かすことは理論的に可能であったとされる。
さらに決定的だったのは、大正時代に撮影された古写真や、現存する石垣の精密な測量から、この石垣の稜線(角の部分)が、意図的に右側へとわずかに湾曲するように築かれていることが発見された点である 27 。この湾曲が何を意味するのか。模型を用いた崩壊実験を行ったところ、この湾曲を持つ石垣は、隅石が外れた際に、崩れた石材が意図した通り右側、すなわち本丸へと続く主要な登城路を完全に塞ぐ方向へと崩壊することが確認されたのである 27 。これは、いざという時に城の主要な動線を自ら破壊・閉塞し、敵の進軍を食い止めると同時に、敵兵をより防御しやすい別の狭いルートへと誘導するための、恐ろしくも独創的な戦術であったと考えられる。
この「千人殺し」の設計思想は、戦国時代の籠城戦における奇策やゲリラ的な発想が、土木技術と結びついて到達した究極の形といえる。平和な時代(Pax Tokugawa)が到来しつつあった慶長年間に、このような「自爆装置」ともいえる仕掛けを城の中核部に組み込んだ事実は、築城主・高橋元種の心理を雄弁に物語っている。彼自身、裏切りによって生き残った武将であり、徳川の世の永続性を心の底から信用してはいなかったのかもしれない。万一の裏切りや戦乱の再燃に備え、最後まで抵抗し、敵に一矢報いるための最後の切り札として、この仕掛けを石垣に埋め込んだ。したがって、「千人殺し」は単なる防御施設ではなく、新しい時代の秩序を信じきれない戦国武将の猜疑心と生存本能が、石垣という形で結晶化した、心理的な遺物と解釈することができるのである。
慶長8年(1603年):縣城の完成と機能の始動
慶長8年(1603年)の秋、2年以上にわたる普請の末、縣城の主要部分がついに完成した 1 。高橋元種は、旧来の松尾城からこの新城へと正式に移徙(いし)し、移転の儀式と神事能の奉納を行った 1 。これをもって、縣城は名実ともに日向国縣の政治・軍事の中心地として、その機能を始動させた。奇しくもこの年は、遠く江戸で徳川家康が征夷大将軍に任じられ、江戸幕府が開かれた年でもあった 1 。日向の地における新城の誕生は、日本の歴史が新たな時代へと突入したことを告げる、地方からの応答であった。
第四章:城と町、一体の創造
高橋元種の構想は、単に堅固な城を一つ築くだけでは終わらなかった。彼は、城の建設と並行して、その麓に計画的な城下町を形成するという、より壮大な都市計画に着手していた。これは、彼が単なる武人ではなく、領国の経済と社会構造までを見据えた、近世的な領国経営者としての視点を持っていたことを示している。縣城と城下町の一体的な創造は、現代にまで続く延岡という都市の原点を築く画期的な事業であった。
高橋元種による町割り ― 城下町「縣」のグランドデザイン
縣城の完成後、元種は本格的な城下町の「町割り」に着手した 4 。彼のグランドデザインは、身分による居住区の明確な分離と、防衛機能と経済機能の効率的な両立を目的としていた。
まず、城の東側の平地に、商人や職人が居住し、商工業の中心となる町人地が計画的に配置された。これが、南町・中町・北町の三町であり、城下町の経済的な心臓部となった 9 。これらの町は、城から一定の距離を保ちつつも、大手門へと続く道筋によって城と有機的に結ばれていた。
一方、藩主の家臣である武士たちの屋敷は、城を直接防衛する戦略的な位置に集められた。城の南北に隣接する本小路や桜小路、そして五ヶ瀬川の北岸に設けられた北小路などが武家屋敷地として整備された 9 。これにより、城の周囲を信頼できる家臣団で固めるという防衛上の要請と、武士と町人という身分の違いによる居住区の分離が徹底されたのである。
この元種による初期の都市計画は、彼の改易後も後継者たちによって引き継がれ、さらに発展していく。次代の藩主となった有馬直純は、元町、紺屋町、博労町を新たに増設し 1 、さらにその子・康純の時代には柳沢町が設けられ、「延岡七町」と称される城下町の骨格が完成した 1 。高橋元種が描いた都市の青写真が、後継者たちによって見事に受け継がれ、拡張されていったことがわかる。
城と城下町が織りなす新たな経済・文化圏の誕生
城下町の形成は、この地に革命的な変化をもたらした。それまで領内に分散していた武士、商人、職人が城の麓に集住することで、物資と情報、そして人々が集積する新たな経済の中心地が誕生した。城は軍事・政治の拠点であると同時に、最大の消費地でもあり、その需要を満たすために商業が活性化し、領内各地から産物が集められた。
この高橋元種による城下町の建設は、単なる都市開発事業以上の意味を持っていた。それは、織田信長や豊臣秀吉が中央で進めた「兵農分離」政策の、日向国における実践であった。戦国時代まで、武士(特に地侍)の多くは農村に居住し、平時は農業に従事し、戦時に兵士となる半農半兵の生活を送っていた。これは、領主の支配力が領国の末端まで及びにくい要因となっていた。元種は、武士を土地から切り離して城下町に強制的に移住させることで、彼らを完全に自らの管理下に置くことに成功した。これにより、家臣団の統制が飛躍的に強化され、迅速な軍事動員が可能になると同時に、武士階級の特権が確立された。一方で、農民は農業に専念させられ、武装する機会を奪われる。商人や職人は特定の区画に集められ、税の徴収や産業の統制が容易になる。
このように、高橋元種が築いた城と城下町のセットは、物理的な防御拠点であると同時に、領民を身分ごとに管理・支配するための、近世的な社会システムそのものであった。彼が引いた一本の区画線は、単に道を分けるだけでなく、人々の生き方や社会のあり方までも規定する、新しい時代の秩序の象徴だったのである。
終章:城主の栄光と没落、そして城の遺産
堅固な城を築き、新たな城下町の礎を据えた高橋元種。彼の前途には、新時代の領主としての輝かしい未来が約束されているかに見えた。しかし、彼がその城で過ごした栄光の時間は、あまりにも短かった。彼のその後の運命は、戦国の価値観を引きずったままでは、徳川の世を生き抜くことがいかに困難であったかを物語っている。
縣城完成後の束の間の栄華と突然の改易
慶長8年(1603年)の縣城完成から慶長18年(1613年)までの約10年間、元種は縣城主としてこの地を治めた。この間、慶長14年(1609年)には、朝廷を巻き込む大スキャンダル(猪熊事件)を起こして逃亡中であった公家の猪熊教利を領内で捕縛し、京へ護送するなど、幕府への奉公にも努めている 4 。彼は、徳川の世における忠実な外様大名として、その地位を固めようとしていた。
しかし、慶長18年(1613年)、その運命は暗転する。津和野藩主・坂崎直盛と対立し、出奔した甥の宇喜多左門(水間勘兵衛)を、元種が領内の高千穂に匿っていたことが露見したのである 2 。幕府の罪人を庇護したこの行為は、徳川の法秩序に対する重大な挑戦と見なされた。結果、元種は幕府から改易、すなわち領地没収という最も重い処分を言い渡された 1 。関ヶ原の乱世を裏切りによって生き延び、新時代にふさわしい城と町を築き上げた男は、その完成からわずか10年で、全てを失うことになった。
元種は嫡子と共に陸奥国棚倉藩主・立花宗茂のもとへ預けられ、翌慶長19年(1614年)、配流先の棚倉で失意のうちに44歳の生涯を閉じた 1 。彼の悲劇的な最期は、もはや個人の武勇や情誼といった戦国的な価値観が通用せず、幕府の厳格な法秩序に従うことだけが生き残る道となった、江戸時代初期の政治の厳しさを象徴している。
後継者たちによる発展と「延岡」への改称
高橋氏が去った後の縣藩には、慶長19年(1614年)、肥前国日野江から有馬直純が5万3,000石で入封した 1 。有馬氏はその後、直純、康純、永純と3代78年間にわたってこの地を治め、元種が築いた基盤の上で、城の修築や城下町の拡張を精力的に行った 1 。
特に2代藩主・有馬康純の時代には、城下町は大きく発展し、今日の延岡市街地の原型が完成した。そして明暦2年(1656年)、康純が今山八幡宮に寄進した梵鐘の銘文に、「日州延岡城主有馬左衛門佐」という一節が刻まれた 1 。これが史料上で確認できる「延岡」という地名の初見であり、この頃に藩の名称も「縣」から「延岡」へと改められたと考えられている。
高橋元種が遺したもの ― 現代に続く都市の原点
高橋元種自身は悲劇的な最期を遂げたが、彼がこの地に遺したものは計り知れない。彼が築いた縣城と城下町の基本設計は、その後の有馬氏、三浦氏、牧野氏、そして幕末までこの地を治めた内藤氏といった歴代藩主たちによって、大切に受け継がれ、発展していった 28 。彼が築城の地として選んだ延岡山は、現在「城山公園」として整備され、市民の憩いの場として親しまれている 1 。そして、彼が引いた町割りの線は、400年以上の時を経た今もなお、延岡市中心市街地の骨格として生き続けているのである 9 。高橋元種は、政治的には敗者であったかもしれないが、延岡という都市の創設者として、その歴史に不滅の名を刻んでいる。
延岡城築城という一連の事象は、高橋元種という一人の武将の栄枯盛衰を通じて、日本の歴史が「戦乱の時代」から「統治の時代」へと移行する、巨大なダイナミズムを凝縮して示している。築城の動機が関ヶ原の戦後処理にあり、「千人殺し」のような徹底した実戦本位の思想が城の構造に見て取れる点は、紛れもなく「戦国時代の終わり」を物語っている。一方で、城と城下町を一体的に開発し、近世的な支配体制の基盤を創出した点は、疑いようもなく「江戸時代の始まり」を告げている。延岡城は、戦国という時代が終焉を迎え、江戸という新たな時代が幕を開ける、まさにその境界線上に建てられた、歴史の記念碑なのである。
引用文献
- 延岡の歴史 https://nobekan.jp/%E5%BB%B6%E5%B2%A1%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2/
- 延岡藩 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%B6%E5%B2%A1%E8%97%A9
- 延岡城 ~九州の「陸の孤島」に建つ千人殺しの石垣 | 戦国山城.com https://sengoku-yamajiro.com/archives/195_nobeokajo-html.html
- 高橋元種 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%A9%8B%E5%85%83%E7%A8%AE
- 高橋元種 Takahashi Mototane - 信長のWiki https://www.nobuwiki.org/character/takahashi-mototane
- 延岡城 - 古城址探訪 http://kojousi.sakura.ne.jp/kojousi.nobeoka.htm
- 敵陣も涙!城兵全員が討死した「岩屋城の戦い」763名の壮絶な最期とは - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/166128/
- 高橋元種(たかはし もとたね) 拙者の履歴書 Vol.294~九州乱世 失意の行方 - note https://note.com/digitaljokers/n/nc83ce6d31752
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- 火盗改メ・贄(にえ) 壱岐守正寿(まさとし)の栄転 http://chuukyuu.info/who/edo/2011/09/post-ee77.html
- 滝川正利 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BB%9D%E5%B7%9D%E6%AD%A3%E5%88%A9
- 刀伊の入寇~異民族襲来という未曽有の危機。撃退したのは藤原のあの人物だった! (2ページ目) https://articles.mapple.net/bk/26164/?pg=2
- 延岡城 余湖 http://yogokun.my.coocan.jp/kyushu/nobeokasi.htm
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- 【超入門!お城セミナー】石垣って積み方に違いがあるの? - 城びと https://shirobito.jp/article/554
- 延岡城跡コース | ふれあうツアーズ [Fureaú tours] 日本の魅力に触れる旅をナビゲート https://www.fureautours.jp/tours/view/d80788fc-ac70-4294-9b00-a8e0ddaa98bf
- 観光スポット紹介「延岡地域」延岡城跡・城山公園 - 延岡市公式ホームページ https://www.city.nobeoka.miyazaki.jp/site/miryoku/1288.html
- 延岡城跡・城山公園 - 延岡市観光協会 https://nobekan.jp/season/spring/%E5%9F%8E%E5%B1%B1%E5%85%AC%E5%9C%92%EF%BC%88%E5%BB%B6%E5%B2%A1%E5%9F%8E%E8%B7%A1%EF%BC%89/
- 延岡城 「千人殺しの石垣」 に関する研究 https://cms.miyazaki-c.ed.jp/6037/wysiwyg/file/download/1/500
- 延岡藩(のべおかはん)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%BB%B6%E5%B2%A1%E8%97%A9-112400
- 延岡城跡めぐり | 延岡観光協会 https://nobekan.jp/history/castle/
- 延岡市概要 - 延岡市公式ホームページ https://www.city.nobeoka.miyazaki.jp/site/miryoku/2645.html