最終更新日 2025-09-29

彦根山城普請開始(1604)

慶長9年、徳川家康は天下統一のため彦根山城を築城。井伊直政を配し、佐和山城資材を転用。対大坂を睨んだ軍事拠点として、徳川の武威と井伊家の基盤を確立する国家事業。
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慶長九年 彦根山城普請—徳川の天下を固める国家事業の実相

序章:慶長九年という時代の座標

慶長九年(1604年)、近江国彦根の地で一つの巨大な城の普請が開始された。彦根城である。この出来事は、単に井伊家の新たな居城が建設され始めたという一地方の事象に留まらない。それは、天下分け目の関ヶ原の戦いから四年を経てなお、未だ盤石とは言えなかった徳川の天下を、構造的かつ物理的に固めるための国家的プロジェクトの始動を意味していた。この年を理解するためには、当時の日本が置かれていた特異な政治的状況を把握する必要がある。

慶長五年(1600年)の関ヶ原合戦における東軍の勝利、そして慶長八年(1603年)の徳川家康の征夷大将軍就任と江戸幕府の開府により、徳川家が日本の新たな支配者としての地位を確立したかに見えた。しかし、その権力基盤は決して安泰ではなかった。大坂城には、依然として豊臣秀頼が摂津・河内・和泉にまたがる広大な直轄領を保持し、一大名として君臨していた 1 。秀頼の存在は、豊臣恩顧の西国大名たちにとって、依然として無視できない求心力の源泉であった。福島正則や加藤清正といった歴戦の猛者たちが、いつ秀頼を旗頭として徳川に反旗を翻すか、家康は片時も警戒を怠ってはいなかった。

このような天下の情勢下において、近江国、とりわけ琵琶湖東岸地域は、軍事・交通戦略上、比類なき重要性を持っていた。この地は、京・大坂と東国を結ぶ中山道、そして北国へと通じる北陸道が合流する結節点であり、日本の大動脈を扼する要衝であった 1 。家康がこの地を徳川の支配下に組み込み、西国への睨みを利かせるための強力な拠点を築くことは、彼の天下統一事業の総仕上げにおいて不可欠な一手であった。

したがって、慶長九年の彦根城普請開始は、徳川譜代筆頭である井伊家をこの戦略的要衝に配置し、西国大名を牽制し、そして何よりも大坂の豊臣家を物理的・心理的に封じ込める「大坂包囲網」の構築という、壮大な国家戦略の一環として位置づけられる 1 。それは、武力による決戦の時代が終わり、インフラ整備と戦略的配置による「構造的な封じ込め」の時代へと移行する、家康の国家構想を象徴する出来事であった。来るべき「大坂の陣」を潜在的に予期し、その勃発を抑止、あるいは有事の際に即応するための、極めて攻撃的な意図を内包した「予防的軍事投資」、それが彦根城普請の本質だったのである。

第一部:佐和山城の終焉と新城への胎動(慶長5年~8年)

第一章:徳川四天王・井伊直政の入封と「佐和山城」の宿命

彦根城の物語は、その前身である佐和山城の終焉から始まる。関ヶ原の戦いにおいて、井伊直政率いる「赤備え」の軍団は、西軍の島津隊を猛追するなど、徳川方勝利の立役者として獅子奮迅の働きを見せた 5 。その戦功を賞され、直政は上野国高崎12万石から、西軍の主将・石田三成の旧領であった近江佐和山18万石へと加増移封された 3 。慶長六年(1601年)正月、直政は正式に佐和山城に入城し、この地の新たな領主となった 6

しかし、直政がこの佐和山城を永続的な本拠地と見なさなかった理由は、政治的、そして機能的な側面から多岐にわたる。第一に、政治的な理由、すなわち「三成の記憶」の払拭である。佐和山城は、領民にとって長らく石田三成の居城として認識されていた。「三成に過ぎたるもの」と謳われた堅城であったが、その城に居続けることは、旧領主への思慕を断ち切り、徳川の威光を新たに示す上で障害となり得た 8 。新しい時代の支配者として、旧体制の象徴を物理的に消し去り、全く新しい拠点を築く必要があったのである。

第二に、より決定的な要因は、佐和山城が持つ機能的・地理的な欠陥であった。佐和山城は、中世以来の山城であり、防御には優れていたものの、平時の統治拠点としては多くの問題を抱えていた。山城であるため交通の便や水利が悪く、麓に広大な城下町を造成して家臣団や商工業者を集住させるには、土地があまりにも狭隘であった 3 。これは、軍事拠点であると同時に、領国の行政と経済の中心地としての機能を併せ持つ「近世城郭」の理念とは根本的に相容れないものであった。佐和山城の放棄は、単なる場所の移動ではなく、城と城下町が一体となった「近世的領国都市」を創出するという、新しい時代の統治思想への転換を意味していた。

この構想に基づき、直政は新城の建設を計画し、当初は佐和山の北西に位置する磯山を候補地として選定した 3 。しかし、彼の野望は道半ばで絶たれる。関ヶ原の戦場で島津隊を追撃した際に負った鉄砲傷が悪化し、慶長七年(1602年)、直政は佐和山城内でその生涯を閉じた 1 。家督は嫡男の直継(後の直勝)が継承したが、若年の彼に代わり、藩政と新城建設の重責は家老たちが担うこととなった 1 。直政の死は、井伊家の新城計画を井伊家個人の事業から、徳川幕府の国家的戦略へと昇華させる、重要な転機となったのである。

第二章:築城地の選定—家康の裁可

井伊直政の急逝により、新城建設計画は一時白紙に戻された。藩主となった直継がまだ若年であったため、藩政の実権は筆頭家老の木俣守勝が握り、この重大事を独断で進めることを避け、徳川家康に直接裁可を仰ぐという賢明な判断を下した 3

守勝は家康に対し、新城の候補地として、旧来の佐和山、直政が選定した磯山、そして新たに彦根山(金亀山)の三つを提示したと伝えられる 10 。この三案の中から最終的に彦根山が選ばれた背景には、家康の「国土経営」というマクロな視点が色濃く反映されている。彦根城は単なる井伊家の居城ではなく、西国支配の要となる「徳川の城」であるという認識が、その選定基準を決定づけた。

彦根山が持つ地政学的な優位性は、他の二候補地を圧倒していた。

第一に、交通の利便性である。彦根山は中山道や北陸道といった主要街道に近接しており、陸上交通の結節点として絶好の位置にあった 3。

第二に、水運の活用である。城のすぐ麓には当時、松原内湖が広がり、琵琶湖と直結していた。これにより、湖上水運を最大限に活用し、物資の大量輸送や軍勢の迅速な展開が可能となる 3。

第三に、城下町建設の適性である。彦根山の麓には、広大な城下町を計画的に建設するための平野部が広がっていた 1。

これらの点は、単なる防御のしやすさを超えて、人、物、情報が効率的に集散する「ハブ」としての機能性を重視するものであった。それは、戦争の時代から経済と統治の時代への移行を見据えた、家康の先見性を示す選択であった。家康は彦根山の持つ戦略的価値を即座に認め、この地への築城を承認した。この裁可により、彦根城の建設は井伊家の領国経営という枠を超え、幕府が全面的に支援し、周辺大名を動員する「天下普請」として実行されることが決定したのである 3 。彦根山の選定は、彦根城が徳川幕府の西国方面における司令部とも言うべき、公的な性格を帯びることを運命づけた瞬間であった。

第二部:天下普請の始動—慶長九年のリアルタイム・ドキュメント

家康の裁可を経て、彦根城築城は国家事業として動き出した。慶長九年(1604年)を起点とする第一期工事は、対大坂を強く意識し、軍事施設の急速な完成を目的として、幕府の総力を挙げて進められた。その壮大なプロジェクトの全容は、以下の年表に集約される。

表1:彦根城築城・第一期工事年表(慶長8年~元和8年)

年次(西暦)

主な出来事

典拠

慶長8年 (1603)

築城地が彦根山に正式決定。天下普請としての準備が開始される。

3

慶長9年 (1604)

**普請開始。**7月1日との説もある。幕府奉行が派遣され、助役大名が動員される。芹川の付け替えなど、城下町の地割りに関わる大規模な土木工事に着手。

3

慶長10年 (1605)

9月、徳川家康自らが彦根を訪れ、築城の進捗状況を視察。

4

慶長11年 (1606)

天守が完成(大津城天守の移築が完了)。井伊直継が佐和山城から彦根城へ居を移す。これに伴い、佐和山城は公式に廃城となる。

6

慶長12年 (1607)

本丸、鐘の丸など、城郭の主要部分が概ね完成する。

14

慶長19年 (1614)

大坂冬の陣が勃発したため、普請が一時中断される。

12

元和元年 (1615)

大坂夏の陣終結。藩主が病弱な直継から弟の直孝に交代。豊臣家滅亡を受け、第二期工事が彦根藩単独で再開される。

11

元和2年 (1616)

戦時の緊張が解け、政庁兼居館として山麓に表御殿の建設が開始される。

10

元和8年 (1622)

築城開始から約20年の歳月を経て、城郭全体が完成する。

14

第一章:公儀御奉行の派遣と助役大名の動員

慶長九年、彦根の地には徳川の号令一下、幕府の奉行と近隣諸国の大名たちが集結した。これは「天下普請」と呼ばれる、江戸幕府初期に多用された国家的な建設事業の形態である。彦根城の築城は、城主である井伊家が単独で行ったのではなく、幕府が直接監督し、周辺大名に労働力や資材の提供(助役)を命じることで進められた 17

幕府からは、普請全体を統括するために6名(一説には3名)の奉行が派遣された 4 。そして、『井伊年譜』などの記録によれば、伊賀、伊勢、尾張、美濃、飛騨、若狭、越前の7か国にまたがる12家以上の大名に対して助役が命じられたという 4 。この動員は、単に労働力を確保するという実務的な目的だけではなかった。それは、家康が諸大名に対して行う、極めて高度な政治的パフォーマンスでもあった。

助役を命じられた大名、特に豊臣恩顧の外様大名にとっては、これは徳川への服従を具体的な「労働」という形で示す、忠誠の踏み絵であった。同時に、大規模な普請への参加は各大名の財政に大きな負担を強いるため、彼らの経済力を削ぎ、軍事的な反抗を未然に防ぐという経済戦略としての側面も持っていた。慶長九年の彦根の地は、各大名家が自家の旗印を掲げて担当工区の進捗を競い合う、徳川の新しい秩序を可視化するための巨大な舞台と化したのである。

表2:天下普請における助役大名一覧(推定)

大名家(推定)

当主

領国

石高(目安)

備考

尾張松平家

松平忠吉

尾張国

52万石

徳川家康の四男であり、井伊直政の娘婿にあたる 12

浜松松平家

松平忠利

遠江国

5万石

のちの小倉藩主 12

大垣石川家

石川康道

美濃国

5万石

12

(その他)

(不明)

伊賀、伊勢、美濃、飛騨、若狭、越前など

(不明)

『井伊年譜』等に7か国12大名との記録が残る 17

この表からも、家康の息子であり直政の娘婿でもある松平忠吉という、徳川家にとって極めて重要な人物が参加していることがわかる。これは、彦根城普請が幕府にとって最優先事項の一つであったことを明確に物語っている。

第二章:大地の改造—城下町建設の序曲

慶長九年の彦根で始まった普請は、城の石垣を組み、櫓を建てる以前に、まず大地そのものを造り変えることから着手された。それは、城郭単体ではなく、それを支える城下町全体を見据えた、壮大な都市計画の始まりであった。城の軍事力は、それを支える城下町の経済力と人口によって維持されるという、近世的な都市思想がそこにはあった。

普請開始と同時に、あるいはそれに先んじて、大規模な治水・造成工事が敢行された。最大の事業は、芹川(善利川)の流路変更である。当時、彦根山麓の松原内湖に注いでいたこの川は、氾濫を繰り返す低湿地帯を形成していた。これを根本的に解決するため、流路を南へ約2キロメートルにわたって付け替え、琵琶湖へ直接放流するようにした 4 。この大工事により、広大で水はけの良い土地が生まれ、計画的な都市建設が可能となった。

さらに、現在の尾末町付近にあった尾末山という小高い丘を丸ごと切り崩し、その膨大な量の土砂を用いて周辺の低地を埋め立てたと伝えられている 4 。慶長九年の彦根の地には、槌音や石を運ぶ人々の喧騒だけでなく、川の流れを変え、山を平らにするという、文字通り「国造り」の音が響き渡っていた。これは、彦根城普請が単なる要塞建設ではなく、新たな政治・経済の中心都市をゼロから創り出すという、壮大なビジョンに基づいていたことの証左である。

第三章:資材の調達—「破城」と「再生」の論理

天下普請の目的の一つは、対大坂を睨み、有事に備えて可能な限り迅速に城を完成させることであった 4 。当時、日本各地で築城ラッシュが起きており、石材や木材といった資材は貴重であった。そこで彦根城では、周辺に存在する既存の城郭や寺社を解体し、その部材を徹底的に再利用するという、極めて合理的かつ政治的な手法が採られた 3

この資材転用は、単なる時間とコストの節約に留まらなかった。それは、旧時代の権力者の象徴を「破壊」し、徳川の新しい城の礎として「再生」させるという、新時代の到来を天下に示す象徴的な行為であった。特に、敵将であった石田三成の佐和山城は徹底的に破却され、その石垣の石材はことごとく彦根城へと運び込まれた 3 。これは、勝者が敗者の遺産を完全に吸収し、自らの権威の礎とするという、戦国以来の論理の具現化であった。

また、織田信長の安土城や豊臣秀吉の長浜城からも、琵琶湖の水運を駆使して石材が運び込まれた 3 。旧時代の覇者たちの城が解体され、徳川の城の一部となる。これは、過去の歴史を徳川の物語の中に再編・統合していくという、巧みな歴史の編集作業でもあった。

建造物についても同様であった。彦根城の象徴である天守は、関ヶ原の前哨戦において東軍として奮戦した京極高次の大津城から移築されたものである 3 。これは、徳川に忠誠を尽くした者への栄誉を形として示すものであり、資材転用におけるアメとムチの使い分けが見て取れる。慶長九年の普請開始とは、これらの「部品」となるべき旧時代の城々を解体し、仕分けし、彦根へと輸送するという、壮大なロジスティクス作戦の開始でもあったのである。

表3:主要建造物・石垣の転用資材一覧

彦根城の部位

転用元とされた城郭・寺社

備考

典拠

天守

大津城

関ヶ原前哨戦で西軍の猛攻に耐えた、京極高次の居城。その功績を称える意味合いを持つ。

3

天秤櫓

長浜城

豊臣秀吉が初めて城主となった城の大手門を移築したと伝わる。

3

太鼓門櫓

(不明の城)

解体修理により、どこかの城門を縮小して移築したことが判明しているが、元の城は特定されていない。

17

西の丸三重櫓

(伝)小谷城

浅井長政の居城・小谷城の天守を移築したとの伝承があるが、解体調査では直接的な証拠は発見されなかった。

20

石垣

佐和山城、安土城、長浜城など

琵琶湖の水運を最大限に活用して搬入された。旧時代の権力の象徴が徳川の城の礎となった。

3

第三部:戦うための城—彦根城の縄張りと先進技術

彦根城の設計、すなわち「縄張り」は、平和な時代の政庁としてではなく、来るべき戦乱を想定した、極めて実践的な軍事思想に基づいて行われた。それは、中世山城の堅固さと近世城郭の機能性を融合させ、さらに当時の最新技術を導入した、まさに「戦うための城」であった 3

第一章:対大坂を睨む軍事拠点としての設計

慶長九年に開始された第一期工事における縄張りは、徹頭徹尾「対大坂戦」を前提としていた。その思想は、城の構造の随所に見て取ることができる。

最も象徴的なのは、城の正面玄関である大手門の向きである。築城当初、大手門は豊臣家の本拠地である大坂城を睨む南側に構えられていた 17 。これは、主たる仮想敵が誰であるかを明確に示す設計であった。また、有事の際に指揮所となる城主の居館(御殿)も、当初は防御の要である山上の本丸に置かれていた 17 。これも、常に臨戦態勢にあることを前提とした配置である。

この思想は、城郭内だけに留まらなかった。城下町そのものが、巨大な防御施設として計画されていた。大坂方面からの攻撃に備え、外堀のさらに外側に足軽の居住区を配置し、第一防衛線として機能させた 17 。前述の芹川の付け替えも、治水目的と同時に、城下町の南側を固める天然の堀としての役割を意図したものであった。

興味深いのは、大坂の陣を経て豊臣家が滅亡し、世が泰平になると、城の機能が変化した点である。参勤交代が制度化されると、藩主が江戸へ向かうための起点となる佐和口が実質的な正面玄関となり、城の「顔」は南西から北東へと180度転換した 17 。城の構造変化が、時代の政治情勢の変化そのものを雄弁に物語っている。慶長九年時点の設計図にこそ、当時の緊迫した空気が刻み込まれているのである。

第二章:倭城から伝わった最新防衛設備「登り石垣」

彦根城の軍事的性格を際立たせているのが、全国でも極めて珍しい先進的な防御設備の存在である。その代表格が「登り石垣」と「大堀切」である。

「登り石垣」とは、山の斜面を敵兵が横方向に移動するのを妨げるため、麓から山頂に向かって縦方向に築かれた石垣のことである 4 。彦根城には、この登り石垣が良好な状態で5箇所も現存しており、国内屈指の規模を誇る 4 。この特異な築城技術は、豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の際、日本軍が朝鮮半島各地で築いた「倭城(わじょう)」で多用されたものであった 4 。朝鮮の戦場でその有効性を実証された最新技術が、帰還した大名や技術者によって日本国内の築城に「逆輸入」されたのである。慶長九年の設計段階でこの技術が採用されたことは、築城チームに大陸での実戦経験者がいたこと、そして徳川方が豊臣方との戦いを、極めて現実的な戦術レベルで想定していたことを示唆している。

もう一つの特徴的な設備が「大堀切」である。これは、本丸へと続く山の尾根筋を、巨大な空堀によって人工的に断ち切る防御施設である 3 。彦根城では、天秤櫓の前と西の丸の裏という、城の中枢部に至る二つの経路上に効果的に配置されている。敵の進軍をこの堀底で強制的に停止させ、両側の高所から集中攻撃を加えるための「キルゾーン」を形成する意図があった 22

これらの登り石垣や大堀切は、櫓や門、堀と巧妙に連結され、城全体を有機的な一大防衛システムとして機能させている 4 。彦根城は、関ヶ原の教訓のみならず、朝鮮半島の戦場から得られた生々しい教訓をもとに設計された、当代随一の戦闘要塞だったのである。

結論:彦根城普請開始が持つ歴史的意義

慶長九年(1604年)の彦根城普請開始は、単一の城の建設という枠を遥かに超え、日本の歴史が大きく転換する時代の節目を象徴する、多層的な意義を持つ出来事であった。

第一に、それは 徳川の武威の可視化 であった。西軍の首魁・石田三成の旧領に、幕府の威信をかけた天下普請によって、壮麗かつ当代随一の堅固さを誇る城を築く行為そのものが、徳川の権威と支配の正統性を天下に示す、最大のデモンストレーションであった。それは、もはや武力だけでは統治できない時代において、巨大建造物というメディアを通じて天下に徳川の力を知らしめる、高度な政治的メッセージであった。

第二に、それは 譜代筆頭・井伊家の基盤確立 を意味した。この国家事業を主導し、対西国の最前線という重責を担うことで、井伊家はその後の江戸時代を通じて大老を輩出するなど、譜代大名筆頭としての地位を不動のものとした 3 。彦根城と城下町は、250年以上にわたる彦根藩の政治・経済・文化の礎となったのである。

第三に、それは 近世城郭都市・彦根の誕生 であった。普請は城だけでなく、治水から始まる計画的な城下町をも創出した 4 。軍事、政治、経済の機能が一体となったこの都市モデルは、その後の日本の近世都市形成に大きな影響を与えた。

そして最後に、彦根城は**「戦いの時代の終わり」と「備えの時代の始まり」を告げる記念碑**であった。それは、戦国時代最後の戦乱となる可能性があった大坂の陣に備えるための、究極の実戦要塞であった。と同時に、その圧倒的な存在感によって戦乱を抑止し、その後の長期的な平和(パックス・トクガワーナ)を維持するための「抑止力」としての役割を担う、時代の転換点に立つ城でもあった。慶長九年の普請開始の槌音は、まさにその転換の始まりを告げる号砲だったのである。

引用文献

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