御成街道整備(1601)
慶長六年、上杉景勝は米沢へ減封。家老直江兼続は、藩存続を賭し、治水・都市計画・産業振興を統合した「領国経営のグランドデザイン」を推進。防衛都市米沢を築き、家臣団を再編し、後の米沢藩の礎を築いた。
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慶長六年米沢整備の真相:街道整備にあらざる、国家存亡を賭したグランドデザインの全貌
序章:誤解の氷解と真実の探求
慶長6年(1601年)、出羽国米沢において行われたとされる「御成街道整備」。この事象は、徳川将軍家の上洛路整備の一環であったとの認識が示されている。しかし、史料を丹念に紐解くと、この認識は二つの異なる歴史的事実が交錯した結果生じた誤解であることが明らかになる。本報告書は、まずこの誤解を解き明かし、その上で、慶長6年という年が米沢にとって、そして上杉家にとって真にどのような意味を持っていたのか、その真相を徹底的に究明するものである。
「御成街道」の実像
「御成街道(おなりかいどう)」という名称は、徳川将軍が「御成りになる(お出ましになる)」道筋を指す言葉であり、歴史学的には、徳川家康が鷹狩りのために下総国(現在の千葉県)に造成させた特定の街道を指すのが一般的である 1 。この街道は、船橋から東金に至る全長約37キロメートルに及ぶもので、造成が命じられたのは慶長18年(1613年)から19年(1614年)にかけてのことである 2 。その最大の特徴は、当時の土木技術としては異例ともいえる、ほぼ一直線の線形にあった 4 。これは、絶対的な権力者となった家康の威光を天下に示すための、意図的な設計であったと考えられる。
このように、下総国の御成街道は、時期(1613年以降)、場所(千葉県)、目的(将軍の鷹狩り)のいずれにおいても、慶長6年(1601年)の出羽国米沢とは直接的な関連性を見出すことができない。
慶長六年、米沢の真実
では、慶長6年の米沢では何が行われていたのか。それは、単なる一本の街道整備といった悠長な事業では断じてなかった。この年は、関ヶ原の戦いで西軍に与し、敗北した上杉家が、会津120万石から米沢30万石へと大減封され、存亡の淵に立たされた年である 6 。彼らにとっての1601年は、栄光からの転落と、絶望的な状況下での再出発を意味していた。
したがって、本報告書が解明する主題は、「街道整備」という個別の土木事業ではない。それは、敗戦の将となった上杉景勝とその家老・直江兼続が、藩の生き残りを賭けて米沢という新たな土地にゼロから築き上げた、治水、都市計画、産業振興を包含する壮大な**「領国経営のグランドデザイン」**そのものである。
奇しくも、同時期に語られる二つの「道」は、関ヶ原の勝者と敗者の置かれた状況を象徴的に示している。一方は、天下人の権威と遊興のために大地に引かれた直線という「支配の道」。もう一方は、滅亡の危機に瀕した藩が、民を養い、敵から身を守り、未来を繋ぐために、血と汗で大地に刻み込んだ「生存の道」。本報告は、後者、すなわち米沢における壮絶な国家再建事業の全貌を、時系列に沿って明らかにするものである。
第一章:崖っぷちからの再出発 ― 慶長6年(1601年)、米沢入封の衝撃
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いは、上杉家の運命を根底から覆した。徳川家康への敵対姿勢を明確にした上杉景勝は、西軍の敗北により、徳川幕藩体制下において最も厳しい処遇を受けることとなる。慶長6年(1601年)は、その帰結が現実のものとなった、屈辱と危機の始まりの年であった。
政治的・軍事的絶境
関ヶ原での直接的な戦闘はなかったものの、上杉家は東軍の最上義光、伊達政宗と激しい戦闘(慶長出羽合戦)を繰り広げていた。西軍の敗北後、上杉家は改易(領地没収)の危機に瀕したが、家康との交渉の末、家名の存続だけはかろうじて許された。慶長6年(1601年)8月、景勝は家臣の本庄繁長らを伴い上洛し、伏見城において家康に直接謝罪した 6 。その結果、会津120万石をはじめとする広大な領地は没収され、新たに出羽国米沢30万石への減移封が決定された 6 。石高は実に4分の1へと激減した。
この処置は、単なる経済的打撃に留まらなかった。新たな本拠地となった米沢は、北に最上氏、南に伊達氏という、先の戦で刃を交えた徳川方の大名に四方を完全に包囲された、まさに敵地の中の孤島であった 8 。常に軍事的な圧迫を受け、いつ再度の侵攻を受けるか分からないという、極度の緊張状態に置かれることとなったのである。
項目 |
減封前(会津時代) |
減封後(米沢時代) |
変化 |
石高 |
120万石 |
30万石 |
4分の1に減少 |
主要領地 |
会津、東出羽、佐渡など |
出羽置賜郡、陸奥伊達郡・信夫郡 |
大幅に縮小 |
藩主の立場 |
豊臣政権 五大老 |
徳川幕藩体制下の一外様大名 |
政治的影響力の喪失 |
家臣団規模(推定) |
約6,000人(武士のみ) |
ほぼ同規模を維持 |
財政に対し極度に過大 |
地政学的状況 |
東日本の要衝を支配 |
徳川方大名による包囲網の中 |
軍事的脅威の増大 |
経済的・社会的破綻
上杉家が直面した最大の危機は、経済と社会の崩壊であった。石高が4分の1になったにもかかわらず、景勝と兼続は、上杉謙信以来の家風を重んじ、家臣団をほとんど解雇することなく米沢へ引き連れるという決断を下した 9 。その数は、家臣とその家族、さらには領内の寺社関係者や職人まで含めると、数万人に達したと伝えられている 10 。
しかし、移住先の米沢は、かつて蒲生氏によって基礎が築かれただけの、わずか8町6小路の町人町と数百の侍町があるに過ぎない、小さな城下町であった 6 。この小さな町に、突如として数万の人口が流入した結果、城下は未曾有の大混乱に陥った。住居は絶望的に不足し、下級家臣に至っては、一つの家に二、三世帯が雑居することを強いられ、それでも住処が見つからない者は、掘っ立て小屋を建てて雨露をしのぐという、悲惨な状況であった 6 。
藩財政は、事実上の破綻状態にあった。30万石の収入では、膨大な家臣団への俸禄を支払うことは到底不可能であり、大幅な減俸が断行された 14 。江戸の町人たちの間では、「新品の金物の金気を抜くには、『上杉』と書いた紙を貼ればよい。上杉が勝手に金気を吸い取ってくれる」という皮肉な洒落が流行るほど、その窮乏ぶりは知れ渡っていた 9 。
この絶望的な状況下で家臣団を維持するという決定は、一見すると非合理的な温情主義に映るかもしれない。しかし、その内実には、直江兼続の冷徹な長期的戦略があった。彼は、上杉家最大の資産が、謙信以来の「忠義」という絆で結ばれた、高度に訓練された統治・軍事の専門家集団、すなわち家臣団そのものであることを見抜いていた。目先の財政的苦境を甘受してでもこの人的資源を維持することこそが、将来の藩再建における最大の資本となる。この決断は、危機(過剰な人口)を、来るべき大事業を成し遂げるための資源(労働力・専門家集団)へと転換させる、極めて高度な戦略的判断だったのである。慶長6年9月、景勝と兼続が米沢城に入った時、彼らの前には、破綻した国家をゼロから再建するという、あまりにも巨大な課題が横たわっていた。
第二章:直江兼続のグランドデザイン ― 防衛都市・米沢の設計思想
未曾有の国難に直面した米沢藩において、その再建の設計図を描いたのが家老・直江兼続であった。彼の計画は、場当たり的な問題解決の寄せ集めではなく、明確な設計思想に貫かれた、首尾一貫したグランドデザインであった。それは、軍事、政治、経済の三要素を融合させ、米沢盆地全体を一つの生命体として捉える、壮大な構想であった。
思想の根幹:「総構え」としての領国経営
兼続の設計思想の根幹をなすのが、米沢の領国全体を一つの巨大な城塞と見なす「総構え(そうがまえ)」という概念である 8 。これは、単に城の周囲に堀や城壁を巡らせるという狭義の城郭建築論ではない。山、川、道、田畑、そして城下町といった領国を構成するすべての要素を、防衛システムとして有機的に連携させる、総合的な国土計画であった。
四囲を伊達、最上といった旧敵に囲まれているという地政学的な脅威が、この徹底した防衛思想を生んだことは想像に難くない 8 。いつどこから敵が侵攻してきても、領国全体でこれを遅滞させ、消耗させ、最終的に撃退する。そのための多層的な防御網を、米沢盆地の地勢そのものを利用して構築すること。それが「総構え」思想の核心であった。
三位一体の計画:軍事・政治・経済の融合
兼続のグランドデザインが卓抜していたのは、それが単なる「防衛計画」に留まらなかった点にある。彼の計画においては、常に三つの目的が一体として追求された。
-
軍事的目的:いかにして領国を守るか
敵の侵攻を想定し、城下町の構造、街道の引き方、河川の流路に至るまで、すべてが防御拠点として機能するように設計された。 -
政治的目的:いかにして藩を治めるか
城郭や城下町の構造を通じて、藩主の権威を示し、家臣団の身分秩序を可視化し、効率的な統治と有事の際の迅速な動員を可能にする仕組みが組み込まれた。 -
経済的目的:いかにして民を養うか
限られた土地と資源から最大の富を生み出し、破綻した藩財政を再建し、急増した領民の生活を支えるための基盤を構築する。治水・利水事業や産業振興がこれにあたる。
これら三つの要素は、決して分離して考えられてはいない。例えば、後述する用水路「堀立川」の開削は、城の堀という「軍事」、城下の生活用水路という「経済(民生)」、そして灌漑による新田開発という「経済(農業)」の目的を同時に達成する、まさに三位一体の事業であった 10 。
この独創的な設計思想は、兼続の類稀な経歴から生まれたものと考えられる。彼は豊臣政権下で、会津120万石の統治と米沢30万石の城主を兼務し、当時の最先端の統治技術や大規模土木事業のノウハウに触れていた 11 。特に関ヶ原直前に徳川との決戦に備えて指揮した、巨大な神指城の築城計画は、彼の構想力と技術力を示すものである 8 。しかし、米沢では神指城のような壮大な天守を持つ城は計画されなかった 10 。これは、財政的な制約と、勝者である徳川幕府を刺激しないための政治的配慮という、敗者の立場から生まれた徹底した現実主義の表れである。豊臣的な壮大さ、上杉伝統の実戦主義、そして敗者としての現実的制約。これら三つの要素を融合させ、兼続は米沢という新たなキャンバスに、「防衛機能に特化した実利的な領国」という、他に類を見ない設計図を描き出したのである。
第三章:大地を制す ― 空前の大土木事業の時系列
直江兼続のグランドデザインを現実のものとするため、米沢入封直後から、領国の物理的基盤を根本から作り変える空前の大土木事業が開始された。それは、自然の脅威を制御する「治水」と、大地の恵みを引き出す「利水」を両輪とする、国家再建の第一歩であった。
【慶長6年(1601年)頃~】治水事業の開始:暴れ川・松川との闘い
米沢盆地が抱える最大の自然の脅威は、城下の東を流れる松川(最上川の最上流部)であった。この川は、ひとたび大雨が降れば容易に氾濫を起こす「暴れ川」であり、城下町と周辺の田畑に繰り返し甚大な被害をもたらしていた 11 。藩の存立基盤を確立するためには、まずこの松川の治水が最優先課題であった。入封直後の慶長6年頃から、兼続の指揮のもと、詳細な調査と治水計画の策定が開始されたと推定される 15 。
【~慶長12年(1607年)頃】「直江石堤」の完成
松川治水の中核をなしたのが、後に「直江石堤(なおえいしづつみ)」または「谷地河原堤防(やちがわらていぼう)」と呼ばれることになる、長大な堤防の建設である 16 。この堤防は、約10キロメートルにもわたって築かれ、城下町と後背地の農地を洪水の脅威から守る防波堤となるものであった 11 。
その構造は、単なる土を盛り上げた土手ではなく、川側の斜面を石で覆い固めた、極めて堅固な「石堤」であった 16 。記録によれば、堤防の天端(上辺)の幅は約三間(約5.4メートル)、基底(下辺)の幅は約五間(約9メートル)、高さは五~六尺(約1.5~1.8メートル)にも及んだ 16 。これは、近世初頭の治水技術の粋を集めた大事業であり、兼続の土木技術に対する深い知見を物語っている。この堤防の完成により、松川の氾濫は抑制され、米沢の地は初めて安定した生産基盤と安全な居住空間を手に入れることになった。
【慶長年間】利水網の構築:生命線を引く
治水と並行して、城下の生活用水と広大な農地の灌漑用水を確保するための、大規模な利水事業が展開された。これは、米沢盆地全体に水のネットワークを張り巡らせ、土地の生産性を飛躍的に向上させることを目的としていた。
主要な事業としては、まず「堀立川(ほりたてがわ)」、「木場川(きばかわ)」、「御入水堰(ごにゅうすいぜき)」といった新たな用水路の開削が挙げられる 10 。これらの水路は、城下に清冽な水を供給するライフラインであると同時に、城郭の堀としての軍事的な役割も果たした 8 。
さらに、河川から効率的に水を取り入れるための取水堰として、「猿尾堰(さるおぜき)」や、慶長18年(1613年)に完成した「帯刀堰(たてわきぜき)」などが次々と建設された 11 。これらの堰と用水路が有機的に結ばれることで、米沢盆地に安定した水の供給網が形成され、大規模な新田開発が可能となった。表高30万石に対し、実質的な収穫高である内高が51万石に達したという後の記録は、この治水・利水事業がいかに大きな成功を収めたかを雄弁に物語っている 7 。
これら一連の大土木事業は、単なるインフラ整備以上の意味を持っていた。それは、第一章で述べた、俸禄を十分に支払えず、働き口もないまま米沢に移住してきた膨大な数の家臣団という「負債」を、領国再建の担い手という「資産」へと転換させる、巨大な雇用創出プロジェクトでもあった。家臣たちを事業の労働力として動員することで、彼らに役割と仕事を与え、不満を解消し、藩への帰属意識を高める。そして、その労働力の対価として、藩の存続に不可欠なインフラを自前で構築する。これは、危機的状況下における社会政策、経済政策、そして軍事教練(集団行動の訓練)の側面をも併せ持った、極めて高度な国家プロジェクトだったのである。
第四章:城塞都市の誕生 ― 「慶長の町割り」のリアルタイム展開
治水・利水事業によって大地の骨格が整えられると、直江兼続は次なる段階、すなわち防衛思想を具現化した城塞都市の建設に着手した。米沢城の改修を核とし、城下町全体を多層的な防御システムとして再編する「慶長の町割り(けいちょうのまちわり)」と呼ばれるこの都市計画は、慶長6年の入封直後から始まり、10年以上の歳月をかけて米沢の姿を一変させた。
【慶長66年(1601年)~】米沢城の改修:実戦思想の城郭
入封直後、兼続はまず藩主・景勝の居城となる米沢城の本丸と二の丸の整備に着手した 10 。彼の城郭設計思想は、徹底した実戦主義と現実主義に貫かれていた。華美で防衛上の弱点となりうる高層の天守閣はあえて建設せず、代わりに城の要所に三階建ての櫓を配した、実用的な平城としたのである 10 。これは、逼迫した藩財政への配慮であると同時に、天下人となった徳川家を刺激しないための、敗者としての慎重な政治判断でもあった。
しかし、この実用本位の城郭において、一つだけ極めて象徴的な施設が設けられた。本丸の南東の一角に土を高く盛り、そこに上杉家の始祖であり、軍神と崇められた上杉謙信の遺骸を安置する御堂を建立したのである 8 。これは、藩の精神的支柱を城の中心に据えるという強い意志の表れであった。苦しい生活を強いられる家臣団に対し、「我々は謙信公の御霊と共にあり、その遺志を継ぐものである」という強烈なメッセージを発信し、精神的な求心力を維持しようとする、高度な政治的演出であった。物理的な防御壁だけでなく、人心の結束という心理的な城壁をも築こうとしたのである。
【慶長8年(1603年)頃~】「慶長の町割り」:防御する都市構造
慶長8年頃から、本格的な城下町の区画整理が開始されたと伝えられている 8 。その設計は、兼続の「総構え」思想を色濃く反映した、徹底的な防衛本位のものであった。
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侍屋敷の階層的配置
家臣団の屋敷は、本丸を中心に同心円状に、かつ身分に応じて階層的に配置された 10。二の丸には重臣、慶長13年(1608年)から拡張された三の丸には上級・中級家臣、そして三の丸の外縁部には下級家臣の屋敷が割り当てられた。これは、身分秩序を可視化する統治上の意図と同時に、万が一敵が城下に侵入した場合、中心部へ至るまでに幾重もの武士の壁を突破しなければならないという、多層的な防御思想の具現化であった。 -
防衛拠点としての寺町
城下町の防衛上の弱点となりうる外縁部、特に北と東の町外れには、意図的に寺社が集められ、「北寺町」「東寺町」と呼ばれる寺院街が形成された 8。これは単なる宗教施設の配置ではない。有事の際には、堅固な塀や大きな本堂を持つ寺院群が、一つの巨大な砦として機能するよう計画されていた 21。境内に不規則に並ぶ墓石(万年塔)は敵の突進を阻む障害物となり、寺には武器弾薬が備蓄され、兵士の駐屯地となる。寺院を軍事拠点として組み込むという発想は、兼続の独創的な都市防衛術であった 8。 -
経済と兵站の動脈
街道は城下に引き込まれ、商人町や職人町を通過するように設計された 10。これは、城下の経済活動を活性化させると同時に、人の流れを藩の管理下に置き、有事の際には兵站線として活用する狙いがあった。 -
侵攻を阻む「枡形」
城下への主要な入口には、道を意図的にクランク状に屈折させた「枡形(ますがた)」が設けられた 20。これにより、敵軍が一直線に城内へ突入することを防ぎ、枡形を囲む土塁や建物の上から側面攻撃を加えることを容易にした。これは、当時の城郭・都市防衛の定石であったが、米沢では町の四方に徹底して配置された。
【慶長13年(1608年)~】三の丸の大拡張
初期の応急処置的な居住区整備を経て、慶長13年からは、急増した家臣団を恒久的に収容するための三の丸の新設・大拡張工事が開始された 10 。これは、米沢の都市構造が最終的な形へと完成に向かう、総仕上げの段階であった。この一連の町割りによって、その後250年以上にわたる米沢城下町の基本骨格が、わずか10年余りの期間で形成されたのである。
第五章:民の糧を創る ― 殖産興業と藩財政再建
大規模な土木事業と城塞都市の建設は、あくまで藩存続のための器作りであった。その器に魂を吹き込み、藩の血肉となる富を生み出すため、直江兼続は並行して藩財政の根本的な再建策、すなわち殖産興業政策を強力に推進した。それは、米だけに依存する脆弱な経済構造から脱却し、米沢の風土を活かした多角的な産業を育成する、長期的な視点に立った経済改革であった。
財政再建の基本方針:倹約と自給自足
まず断行されたのは、藩を挙げた徹底的な倹約令であった。兼続自身が率先して質素な生活を送り、その食事はわずかな山椒を添えただけの質素なものであったと伝えられる 13 。この厳格な姿勢は、藩主から下級家臣に至るまで、苦境を分かち合うという意識を共有させ、改革への求心力を生み出した。
さらに、住居すらままならなかった下級家臣に対しては、荒れ地であっても約150坪の土地を与え、そこで柿や栗などの果樹を栽培したり、牛馬を飼育したりすることを奨励した 13 。これは、藩の財政負担を軽減すると同時に、家臣たち自身の生活基盤を安定させ、自給自足能力を高めるためのセーフティネット構築であり、地に足の着いた民生政策であった。
換金作物の戦略的導入
兼続は、米沢の冷涼な気候風土に着目し、この地に適した換金作物の栽培を戦略的に導入した。その代表が、織物の原料となる 青苧(あおそ、麻の一種) 、京などで高価な染料として取引された 紅花(べにばな) 、そして漆器の原料となる**漆(うるし)**であった 11 。これらの作物は、年貢として徴収する米とは別に、藩の重要な現金収入源となった。特に、藩が特産物を買い上げて江戸や上方の市場で販売するという「買上制」は、藩財政を支える大きな柱へと成長していった 6 。
新たな産業の育成と技術導入
作物の栽培に留まらず、新たな産業の育成にも力が注がれた。
- 鯉の養殖 :貴重なたんぱく源として、また祝儀の席に欠かせない高級食材として、鯉の養殖が奨励された 11 。
- 鉄砲鍛造 :軍事力の維持・強化は喫緊の課題であった。兼続は人里離れた吾妻山中で、密かに鉄砲の製造に着手した 11 。これは、大坂の陣で徳川方として参陣した際にその威力を発揮することになるが、同時に、高度な金属加工技術を藩内に蓄積し、職人を育成するという産業政策的な側面も持っていた。
これらの多岐にわたる殖産興業政策は、着実に成果を上げていった。新田開発と産業振興の結果、米沢藩の表向きの石高(表高)は30万石であったが、実質的な収穫・生産高を示す内高は51万石に達したと伝えられている 7 。この数字は、兼続の経済政策がいかに大きな成功を収めたかを如実に示している。
兼続の殖産興業は、単に目先の財政を再建しただけではなかった。それは、領民全体を経済活動に参加させ、「自ら工夫して富を生み出す」という気風と、そのための技術やノウハウを領内に深く根付かせる「社会の土壌改良」であった。約150年後、再び財政破綻の危機に瀕した米沢藩を、名君・上杉鷹山が再建することになる。鷹山が奨励した織物産業や特産品生産が速やかに軌道に乗ったのは、他ならぬ兼続の時代に撒かれたこの「種」があったからこそである 9 。兼続の政策は、100年先を見据えた、持続可能な藩経済の礎を築いたのであった。
終章:百年の計 ― 直江兼続が遺した米沢の骨格
慶長6年(1601年)の入封から始まった、直江兼続による一連の米沢整備事業。それは、敗戦と大減封という絶望的な状況から、わずか10年余りで藩の存立基盤を再構築するという、近世史上でも類例を見ない壮大な国家再建プロジェクトであった。兼続が遺したものは、単なる建物や堤防ではない。それは、その後250年以上にわたって米沢藩を支え続け、現代の米沢市にまで至る、不変の「骨格」であった。
米沢藩250年の礎
兼続が築いた治水システムは、米沢の地を水害の脅威から解放し、安定した農業生産を可能にした。彼が描いた都市計画「慶長の町割り」は、堅固な防衛機能と効率的な統治機構を両立させ、江戸時代の長期にわたる平和の礎となった 10 。そして、彼の殖産興業政策は、米だけに頼らない多様な産業基盤を育み、後の上杉鷹山による藩政改革成功の土壌を用意した 24 。危機的状況から短期間で藩の基盤を再建したこの事業は、近世大名による領国経営の最も成功した事例の一つとして、高く評価されるべきものである。
現代に生きる遺産
兼続の功績は、歴史の教科書の中に留まってはいない。その遺産は、400年の時を超えて、今なお米沢の地に息づいている。
- 暴れ川・松川の治水のために築かれた「直江石堤」は、その一部が「直江堤公園」として保存され、市民の憩いの場となっている 11 。
- 城下と田畑を潤すために開削された「堀立川」や「帯刀堰」からの水は、現代では流雪溝などに姿を変え、雪国米沢の市民生活に欠かすことのできない役割を果たし続けている 11 。
- そして何よりも、「慶長の町割り」によって定められた城下町の基本構造は、道路網や町名にその名残を留め、現在の米沢市街地の骨格として、今なお生き続けているのである 10 。
歴史的意義の再評価
直江兼続が主導した慶長6年からの米沢整備事業は、単なる敗戦処理や復興事業ではなかった。それは、国家存亡の危機という最大の逆境を、領国を根本から作り変える創造的なエネルギーへと転換させた、卓越した危機管理と地域創生の普遍的モデルである。
それは、明確なビジョンを掲げるリーダーシップ、軍事・政治・経済を統合する長期的視点、そして何よりも「人」という資源の価値を信じ、その力を最大限に引き出す人間尊重の思想が、いかに困難な状況下でも未来を切り開くことが可能であるかを示している。当初の問いであった「御成街道整備」という一つの事象の探求は、結果として、一人の稀代の為政者が、絶望の淵からいかにして国家を再生させたかという、壮大な歴史の物語へと我々を導いた。直江兼続が米沢の大地に刻んだ百年の計は、現代に生きる我々にも、なお多くの示唆を与え続けている。
米沢藩 初期整備事業 年表(慶長6年~)
年代(西暦) |
元号 |
主要な出来事・事業 |
1601年 |
慶長6年 |
8月:上杉景勝、伏見城で徳川家康に謝罪。米沢30万石への減移封が決定。 9月:景勝、兼続らが米沢城に入城。米沢藩が成立。 直後より、米沢城の改修、治水・利水事業(直江石堤等)の調査・計画に着手。 |
1603年頃 |
慶長8年 |
本格的な城下町の区画整理「慶長の町割り」が開始される。 |
1607年頃 |
慶長12年 |
「直江石堤(谷地河原堤防)」が概ね完成。 |
1608年 |
慶長13年 |
三の丸の新設・大拡張工事に着手。 |
1609年 |
慶長14年 |
用水路「堀立川」が完成。 |
1613年 |
慶長18年 |
取水堰「帯刀堰」が完成。 |
1614年 |
慶長19年 |
大坂冬の陣に徳川方として参陣。兼続が製造させた鉄砲隊が活躍。 |
1619年 |
元和5年 |
直江兼続、死去。 |
1623年 |
元和9年 |
上杉景勝、死去。 |
引用文献
- 御成街道】若葉区を横断する、歴史感じる街道(令和6年2月) - 千葉市 https://www.city.chiba.jp/wakaba/chiikizukuri/hasshin/onarikaidou.html
- www.city.chiba.jp https://www.city.chiba.jp/wakaba/chiikizukuri/hasshin/onarikaidou.html#:~:text=%E5%BE%A1%E6%88%90%E8%A1%97%E9%81%93%E3%81%AF%E3%80%81%E8%88%B9%E6%A9%8B%E5%B8%82,%E3%82%82%E5%BB%BA%E8%A8%AD%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82
- 御 成 街 道 - 東金市 http://www.city.togane.chiba.jp/cmsfiles/contents/0000000/419/onarikaidou.pdf
- 【御成り街道】 - ADEAC https://adeac.jp/tougane-city/text-list/d100050/ht040020
- 御成街道 - 千葉古街道歴史散歩 - ちばこく 千葉国道事務所 https://www.ktr.mlit.go.jp/chiba/limit/rekishi/01/01_rekisi.htm
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- 上杉時代館の「直江兼続公」講座_「兼続公の米沢」_建設 - 山形県米沢市 http://www5.omn.ne.jp/~jidaikan/yone3.html
- 上杉治憲 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E6%B2%BB%E6%86%B2
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- 直江兼続ゆかりの史跡/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/44023/