御油宿整備(1601)
慶長6年、家康は東海道の伝馬制度を確立し、御油宿を公式宿場に指定。隣の赤坂宿とは元々一つの宿場で、距離が極めて近く、上下線で業務を分担するなど特殊な関係にあった。
「Perplexity」で事変の概要や画像を参照
御油宿整備(1601年)の総合的考察:戦国から泰平への道程
序章:慶長六年の地平 ― 戦国から泰平への転換点
慶長5年(1600年)9月、関ヶ原における徳川家康の勝利は、日本の歴史における決定的な分水嶺となった。しかし、この軍事的勝利が、即座に盤石な支配体制を意味したわけではない。大坂城には豊臣秀頼が依然として存在し、西国には豊臣恩顧の大名が多数雌伏していた 1 。天下は未だ完全に平定されたとは言えず、家康の目前には、戦の勝利を恒久的な政治支配へと転換させるという、巨大な課題が横たわっていた。この時期の家康の政策は、すべてがこの至上命題に向けられた、迅速かつ周到な布石であった。
家康の構想の中心にあったのは、江戸を新たな政治・経済の中心地として確立することであった。そのために、江戸城の大規模な拡張と城下町の造成(天下普請)を諸大名に命じると同時に、国家の動脈となるインフラ、すなわち江戸と既存の中心地である京・大坂を結ぶ交通網の整備を最重要課題と位置づけた 2 。この事業は、単に物資を運ぶための物流路を確保するという次元に留まるものではなかった。それは、徳川の権威を物理的な形で全国に示し、中央からの指令を迅速に伝達し、有事の際には軍隊を滞りなく移動させるための、国家の神経網であり血管網を構築する壮大なプロジェクトであった 4 。
この新たな国家秩序を構築する上で、その象徴的かつ実質的な第一歩となったのが、慶長6年(1601年)に断行された東海道における伝馬制度の確立であり、その重要な一翼を担ったのが三河国・御油宿の整備であった 1 。これは、戦国時代を通じて分断され、各々の領主によって閉鎖的に管理されていた空間を、江戸を中心とする統一された国家空間へと再編成する、家康の強固な意志の表明であった。戦国時代の伝馬制度が、本質的に各大名の領国内における軍事行動のロジスティクスを主目的としていたのに対し 8 、家康が構想したシステムは、その概念を大きく転換させるものであった。もちろん、豊臣家が存続する状況下で、軍事的な側面は依然として重要であったが 2 、1601年の制度設計は、幕府の公用文書をリレー形式で運ぶ継飛脚(つぎびきゃく)や、幕府役人の円滑な移動といった、恒常的な行政機能の維持に明確な重点を置いていた 9 。さらに、宿場に対して地子免許(固定資産税の免除)といった経済的恩典を与えることで、地域社会の自律的な運営と発展を促すという、持続可能なシステム構築への視点が盛り込まれていた 4 。これは、戦時体制下における一時的な徴発ではなく、平時における統治体制への移行を明確に見据えたものであった。本レポートでは、この御油宿整備という事変を、泰平の世の礎を築くための、極めて戦略的な一手として多角的に分析する。
第一章:戦国動乱の遺産 ― 伝馬制度の萌芽と発展
徳川家康が慶長6年(1601年)に導入した伝馬制度は、全くの無から創造されたものではない。それは、古代律令制から戦国動乱期に至るまで、日本の為政者たちが交通と通信の重要性を認識し、試行錯誤を重ねてきた制度的遺産の集大成であった。
律令制からの系譜
伝馬制度の直接的な淵源は、奈良時代に中央集権国家を支えるために整備された駅伝制にまで遡ることができる 4 。この古代の制度は、都と地方の国府を直線的に結ぶ官道(五畿七道)に、一定間隔(約16kmごと)で「駅家(うまや)」を設置し、駅馬を常備させるものであった 5 。その目的は、中央政府の命令を地方に伝え、地方からの報告や租税を都へ運ぶという、公務移動と情報伝達に特化しており、徳川の伝馬制もその基本概念を色濃く受け継いでいる 5 。
戦国大名による領国支配と交通網
応仁の乱(1467-1477年)以降、室町幕府の権威が失墜し、群雄割拠の時代が到来すると、各地の戦国大名は自らの領国を効率的に支配し、軍事的に防衛するため、独自の交通・通信網の整備に乗り出した 8 。特に、今川氏、後北条氏、武田氏、上杉氏といった東国の大名は、領国内の要所に宿駅を設け、公用のための人馬提供を周辺の村々に義務付ける伝馬制を積極的に採用した 5 。これは、本城と各地の支城との間の迅速な連絡、兵員や軍需物資の輸送、敵情視察などの情報収集を目的としたものであり、領国経営に不可欠な軍事インフラであった 8 。公用の馬を使用する者には、その証明として「伝馬手形」が発行され、宿駅でそれを提示することで人馬の提供を受けるという仕組みは、後の徳川幕府の制度に直接的に繋がるものである 5 。家康自身、若き日に今川氏の支配下にあった三河国において、天文23年(1554年)に定められた今川氏の伝馬制度を実見しており、その有効性と運用方法を熟知していたと考えられる 14 。
織田・豊臣政権による交通政策の革新
戦国大名の伝馬制が、あくまで領国内に限定されたものであったのに対し、天下統一へと歩を進めた織田信長と豊臣秀吉は、より全国的な視野に立った交通政策を展開した。
織田信長は、経済の活性化と軍隊の迅速な移動を妨げる関所を撤廃し、「楽市楽座」によって商取引の自由を促した 5。さらに、街道の道幅を3間から3間2尺(約5.4m~6m)に拡幅し、並木を植樹するなど、物理的なインフラ整備にも着手した 15。また、それまで不統一であった距離の単位を36町=1里と定め、一里塚を築くなど、交通網の標準化を進めた点も画期的であった 5。
豊臣秀吉は、信長の政策を継承・発展させ、近世社会の基礎を築く二つの重要な政策、すなわち「太閤検地」と「刀狩・人掃令」を断行した。これらの政策は、直接的な交通政策ではないものの、徳川の伝馬制度が成立するための社会経済的な前提条件を整えたという点で、極めて重要な意味を持つ。
太閤検地は、全国の田畑の面積を統一された基準(1段=300歩)と枡(京枡)で測量し、土地の等級に応じて石盛(こくもり)を定め、村ごとの生産力を石高という客観的な数値で把握するものであった 16。これは、いわば国家規模での「データ革命」であり、これにより、それまで曖昧であった村々の負担能力が可視化された。徳川幕府が、後に宿場や助郷村に対して伝馬役という均質な義務を全国規模で課すことができたのは、この検地帳という社会経済データベースが存在したからに他ならない 18。
一方、刀狩や人掃令による兵農分離は、武器を持つ武士と、農耕に従事し年貢・諸役を負担する百姓の身分を明確に区別した 16。これにより、伝馬役のような公役は、原則として百姓が担うべきものとして位置づけられ、軍役との分離が図られた 5。
家康が慶長6年に打ち出した伝馬制度は、こうした戦国期から織豊政権期にかけて蓄積された、物理的なインフラ(道)と社会経済的な情報基盤(検地帳・身分制)という「ハード」と「ソフト」の両面における遺産を巧みに継承し、それを江戸を基点とする全国一元的なシステムへと再編・標準化することで、より強固な中央集権体制の基盤として昇華させたものであった 4 。
第二章:三河という名の揺り籠 ― 徳川家康と故国の戦略的価値
慶長6年(1601年)の東海道整備において、三河国、そしてその一角を占める御油宿が初期の対象となった背景には、この地が徳川家康にとって持つ、単なる地政学的な重要性を超えた、重層的な意味合いが存在した。三河は、家康の原風景であり、支配者としての哲学を形成した試練の地であり、そして天下統一後の国家構想における戦略的要衝であった。
家康の原風景としての三河
徳川家康は、天文11年(1542年)、三河国岡崎城主・松平広忠の嫡男として生を受けた 20 。しかし、その幼少期は、西の織田氏と東の今川氏という二大勢力の狭間で翻弄される苦難の連続であった。6歳で織田氏の人質となり、その後、人質交換によって今川氏へと送られ、故郷の地を踏むことができない不遇の時代を駿府で過ごした 22 。
家康の人生における最初の大きな転機は、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いであった。今川義元が織田信長に討たれるという衝撃的な事件を契機に、家康は長年続いた人質生活に終止符を打ち、今川氏からの独立を決意する。そして、今川方の城代が退去した故郷・岡崎城へと帰還し、ようやく自立した戦国大名としての第一歩を踏み出したのである 21。この岡崎城への帰還は、家康にとって単なる領地の回復以上の意味を持っていた。それは、自らの意志で運命を切り拓く、新たな人生の始まりを象徴する出来事であった。
三河一向一揆の試練と支配哲学の形成
しかし、独立後の三河統治は決して平坦な道ではなかった。永禄6年(1563年)、家康は生涯最大の危機とされる三河一向一揆に直面する 26 。これは、浄土真宗本願寺派の寺院が持つ「守護使不入」の特権を、家康の家臣が侵害したことを発端とする宗教一揆であった 27 。一揆は瞬く間に三河全土に広がり、深刻だったのは、熱心な門徒であった本多正信や渡辺守綱といった譜代の家臣団の一部までもが家康に背き、一揆側に与したことであった 27 。
約半年にわたる激しい戦闘の末、家康は辛うじて一揆を鎮圧する。この経験は、20代前半の家康に、領国支配の根幹を揺るがす二つの教訓を深く刻み込んだ。一つは、領主の支配権を超えて人々を結びつける宗教的なネットワーク(水平的ネットワーク)が、いかに強力な抵抗勢力となりうるかという脅威である。もう一つは、寺社や在地領主が持つ既得権益を排除し、領主による一元的な支配(垂直的支配)を確立しなければ、安定した統治は実現できないという認識であった 27。
この苦い経験を通じて、家康は、既存の在地勢力が形成する秩序やネットワークに対し、国家が管理する新たな公的秩序を上書きすることの重要性を学んだ。慶長6年の東海道整備は、まさにこの思想を国家規模で実践するものであった。かつて自らを苦しめた一揆の根源地ともいえる三河の地に、江戸の幕府を頂点とする垂直的な支配のネットワークを、街道と宿駅という物理的なインフラとして建設する。人々は日々の伝馬役を通じて、徳川の権威が隅々まで及んでいることを実感せざるを得なくなる 29。これは、かつての「神仏の道」や「門徒の繋がり」といったネットワークに対し、幕府が管理する「公儀の道」という新たな秩序を提示し、人々の意識と生活空間を再編成する、高度に政治的なインフラ戦略であったと解釈できる。
東海道の要衝としての三河
三河国は、日本の東西を結ぶ大動脈である東海道が貫通する、地政学上の要衝である 30 。家康は関東移封以前、三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の五カ国を領有していた時代から、領国経営の一環として宿駅の整備を進めていた 31 。関ヶ原の戦いの後、江戸を本拠地と定めた家康にとって、自らの故郷であり、最も信頼できる譜代家臣団の基盤でもある三河国を通過する東海道を完全に掌握することは、西国への睨みを効かせ、江戸と上方を結ぶ支配体制を磐石にする上で、絶対に欠かせない戦略であった 2 。
御油宿を含む三河国内の宿駅整備は、この最重要路線の中核部分を、最も信頼できる「ホームグラウンド」において確固たるものにするという戦略的意図に基づいていた。家康自身の出自の地であり、苦難を乗り越えて完全に掌握した三河に、新時代の象徴である宿駅を整備することは、天下人としての冷徹な戦略と、故郷に対する家康の個人的な思いが交差する、象徴的な事業であったと言えるだろう。
第三章:1601年、国家改造の号砲 ― 東海道伝馬制の確立
関ヶ原の戦いからわずか数ヶ月後、慶長6年(1601年)正月に発令された東海道伝馬制度は、徳川家康による新たな国家建設の意志を明確に示す、迅速かつ計画的なプロジェクトであった。その実施は、戦国の気風が未だ色濃く残る中で、泰平の世の統治システムを構築しようとする、周到な準備と実行力に支えられていた。
リアルタイム・クロニクル(1600-1601)
- 慶長5年(1600年)9月15日 : 関ヶ原の戦いで東軍が勝利。家康は戦後処理に直ちに着手し、西軍に与した大名の改易・減封、所領没収を断行。これにより豊臣氏の蔵入地を含む広大な土地が徳川の直轄領となり、新たな支配体制の財政的基盤が築かれた 1 。
- 慶長5年後半~6年初頭 : 家康は、戦後処理と西国支配の安定化のため、伏見城や大坂城に滞在し、諸大名への論功行賞や朝廷工作を進めた。この間、水面下では、伊奈忠次、大久保長安、彦坂元正といった腹心の能吏(テクノクラート)たちに対し、江戸を中心とする新たな全国交通網の基本構想の策定を命じていたと推察される 33 。彼らは、戦国的な武功ではなく、検地、治水、財務、鉱山経営といった専門知識で家康に仕え、合理的で体系的な政策立案を可能にした。
- 慶長6年(1601年)正月 : 家康は、東海道筋の宿場(中世以来の宿駅を母体としつつ、新たに指定された場所も含む)に対し、「伝馬朱印状」と、奉行連署による「御伝馬之定(ごてんまのさだめ)」を一斉に交付した 1 。これにより、徳川幕府による公式な宿駅伝馬制度が正式に発足した。三河国の御油宿も、この時に江戸日本橋から35番目の宿場として公式に指定されたのである 7 。
制度の法的根拠:「伝馬朱印状」と「御伝馬之定」
この新制度の根幹をなしたのは、各宿場に下付された二種類の文書であった。この二文書一組での交付は、権威の象徴的管理と実務の標準化を巧みに組み合わせた、高度な統治技術を示している。
- 伝馬朱印状 : この文書には、家康が用いた「駒曳朱印(こまひきしゅいん)」と呼ばれる、馬の手綱を引く馬士が描かれた朱印が押され、「此の御朱印なくしては伝馬を出すべからざる者也(この御朱印がなければ伝馬を出してはならない)」という簡潔な一文のみが記されていた 13 。これは、複雑な理屈ではなく、朱印という視覚的なシンボルそのものが徳川の絶対的な権威の源泉であることを示し、公用輸送の唯一の許可証であることを末端の宿場にまで浸透させるものであった。宿場は、公用旅行者が持参する伝馬手形に押された印影と、自宿に保管されているこの朱印状の印影を照合し、合致した場合にのみ、無償または規定料金で人馬を提供する義務を負った 38 。これは、中世以来の権威の示し方を踏襲しつつ、それを徳川家が独占することを示したものである。
- 御伝馬之定(伝馬定書) : 関東代官頭の伊奈忠次、鉱山奉行などを務めた大久保長安、そして家康側近の彦坂元正という三奉行の連署で出された、より実務的な規則書である 33 。これには、宿場運営の根幹となる具体的な規定が盛り込まれていた。
- 常備伝馬数 : 各宿が常に用意しておくべき伝馬の数を、当初は原則として36疋(ひき)と定めた 36 。
- 継立区間 : 荷物や人を次のどの宿場まで送り届けるかを明確に指定した 10 。
- 地子免許 : 伝馬役という重い負担を課す見返りとして、宿場内の屋敷地に課される税金(地子)を免除する土地の坪数を規定した 39 。
- 積載量制限 : 伝馬一疋あたりに積載できる荷物の重量を30貫(約112.5kg)までとするなど、過重労働を防ぎ、輸送の標準化を図る規定が設けられた 39 。
この「御伝馬之定」は、具体的で数値化された規則に基づく、近世的な官僚制による合理的・標準化された行政手続きの始まりを示すものであった。
家康は、「伝馬朱印状」というカリスマ的・象徴的な権威と、「御伝馬之定」という合法的・実務的な規則を組み合わせることで、「将軍の権威に基づき、奉行が定めた規則に従って、宿場は伝馬役を遂行せよ」という、明確かつ揺るぎない指揮命令系統を確立した。これにより、宿場は抽象的な忠誠心だけでなく、義務と権利が明記された具体的なルールに基づいて行動することになり、制度の安定性と持続性が飛躍的に高まった。この二文書方式は、戦国から近世へと移行する時代の、徳川政権の統治スタイルの本質を如実に物語っている。
第四章:御油宿の解剖学 ― 一宿駅の誕生と構造
慶長6年(1601年)の東海道伝馬制度確立に伴い、公式な宿場として指定された御油宿は、その立地と構造、そして隣接する赤坂宿との特異な関係性において、徳川幕府の交通政策が地域の実情に即して柔軟に適用された事例として興味深い特徴を有している。
御油宿の設置と立地
御油宿は、江戸の日本橋を起点として数えて35番目の宿場として正式に指定された 7 。地理的には三河国の東部に位置し、東海道は東の吉田宿(現・豊橋市中心部)から御油宿を経て、西の赤坂宿(現・豊川市赤坂町)へと続いていた 42 。また、浜名湖の今切の渡しを避ける脇街道であった「姫街道」が、西の起点である御油の追分で東海道に合流する地点でもあり、古くから交通の要衝としての性格を持っていた 43 。
宿場の物理的構造と主要施設
御油宿は、他の多くの宿場町と同様、街道に沿って町並みが形成され、宿駅機能を担うための様々な施設が配置されていた。
- 問屋場(といやば) : 宿駅運営の中核を担う施設であり、現代の役場と運輸指令所を兼ねたような場所であった 45 。ここでは、問屋(といや)と呼ばれる宿場の責任者や、年寄(としより)、帳付(ちょうつけ)といった宿役人が詰めており、幕府の公用書状を運ぶ継飛脚の手配、公用旅行者のための人馬の継立、大名行列の際の宿泊割り振り、助郷村からの人馬徴発など、宿場のあらゆる公務を取り仕切っていた 47 。御油宿では、問屋役人を務めた井上興左衛門家の記録が残されており、当時の運営実態を窺い知ることができる 50 。
- 本陣 : 参勤交代の大名や公家、幕府の高級役人といった、身分の高い人々が宿泊・休憩するために設けられた公式の施設である 12 。一般の旅籠とは異なり、宿泊者の格式にふさわしい門構えや玄関、上段の間などを備えていた。御油宿には、最盛期には4軒、時代が下っても2軒の本陣が存在し、宿場としての規模と重要性を示している 7 。その一つ、鈴木半左衛門が営んだ本陣の跡地が現在も伝えられている 44 。
- 高札場(こうさつば) : 幕府の法度(法令)や禁令、犯罪人の手配書などを板札に記して掲示する場所である 51 。宿場の出入り口や中心部など、人々の目に付きやすい場所に設置され、幕府の権威を住民や旅人に視覚的に示す役割を果たした 51 。
- 松並木 : 街道の整備と並行して、慶長9年(1604年)以降、家康の命により街道沿いに松や榎が植樹された 52 。これは、夏の強い日差しや冬の風雪から旅人を守るという実用的な目的と同時に、街道の景観を整え、徳川の威光を示す意図もあった。特に、御油宿と次に述べる赤坂宿との間に現存する約600mの松並木は、往時の姿を最もよく残すものとして知られ、国の天然記念物にも指定されている 54 。
赤坂宿との特異な関係
御油宿を語る上で欠かせないのが、西隣の赤坂宿との極めて密接かつ特殊な関係である。両宿の問屋場間の距離はわずか16町(約1.7km)しかなく、これは東海道五十三次の宿場間距離としては最も短い 54 。あまりの近さに、俳聖・松尾芭蕉も「夏の月 御油より出でて 赤坂や」と詠み、夏の短い夜に月が御油宿の上に出たかと思うと、もう赤坂宿に着いてしまった、とその距離感を表現している 58 。
この異例の近さの背景には、元々この地域が「赤坂御位(あかさかごい)」という一つの大きな宿場であったものを、徳川家康の命により二つに分割したという伝承がある 61 。実際に、慶長6年(1601年)に発給された伝馬朱印状には「赤坂・五位(御油)」と両宿が併記されており、制度発足当初は一体として扱われていた可能性が高いことを示唆している 14 。
二つの宿が近接して存在したため、両者の共存を図るための特別な運用ルールが設けられた。通常、公用の人馬継立は隣の宿までと定められ、宿場を飛ばすこと(宿送り)は厳禁されていた。しかし、御油・赤坂間に限っては、時期によって「下り(江戸方面へ向かう旅人)は、藤川宿から赤坂宿を通過して御油宿まで継ぎ立てる」「上り(京方面へ向かう旅人)は、吉田宿から御油宿を通過して赤坂宿まで継ぎ立てる」という変則的な運用が認められていた 60 。これは、上下線で主要な業務を担当する宿を分けることで、双方の業務量を平準化し、過当な競争を避けるための工夫であったと考えられる。この特殊な関係性は、御油宿の性格を理解する上で極めて重要な要素である。
慶長初期における三河国・東海道宿駅の比較分析
御油宿の特性をより明確にするため、同じ三河国内に設置された他の東海道宿駅と比較すると、その相対的な位置づけが浮かび上がってくる。
項目 |
二川宿 |
吉田宿 |
御油宿 |
赤坂宿 |
藤川宿 |
岡崎宿 |
位置 |
三河国最東端 |
豊川河口、吉田城下 |
姫街道合流点付近 |
御油宿に隣接 |
山間部から平野への出口 |
岡崎城下、矢作川 |
性格 |
小規模な村の宿 |
城下町、湊町 |
間の宿的性格 |
間の宿的性格 |
交通の要地 |
城下町、家康生誕地 |
慶長6年指定 |
○ 7 |
○ 7 |
○ 7 |
○ 14 |
○ 7 |
○ 36 |
本陣数(最多時) |
不明 |
不明 |
4軒 7 |
不明 |
不明 |
不明 |
特記事項 |
2村共同運営で当初は負担大 7 |
豊橋の中心地 |
赤坂宿との宿間が最短 54 |
御油宿と一体運営の歴史 61 |
歴史国道に選定 7 |
家康の故郷 20 |
継立ルール |
通常 |
通常 |
上下線で役割分担の時期あり 63 |
上下線で役割分担の時期あり 63 |
通常 |
通常 |
この比較から、御油宿は、岡崎や吉田のような大規模な城下町宿駅とは異なり、また二川のような小村の宿とも違う、赤坂宿と対になることで初めてその機能が完結する、特殊な性格を持つ中規模宿駅であったことがわかる。その存在自体が、幕府の画一的な制度設計と、地域の歴史的・地理的文脈との間の調整の結果であったと言えよう。
第五章:宿駅の経済と人々の暮らし ― 制度が創出した新たな社会
伝馬制度の確立は、御油宿をはじめとする宿場町に、国家への奉仕という重い「義務」を課す一方で、新たな経済活動の「権利」をもたらし、それまでの農村とは異なる独特の社会経済構造を生み出した。その光と影は、宿駅で暮らす人々の生活に深く刻み込まれていった。
「伝馬役」という義務と負担
宿駅の住民に課された最も重要な義務は、幕府の公用旅行者や物資のために、無償または低廉な公定賃金で人馬を提供する「伝馬役」であった 29 。これは宿場にとって最大の経済的負担であり、その運営の根幹をなすものであった 4 。伝馬役の負担量は、各戸の屋敷が街道に面した間口の広さに応じて割り当てる「間口割」や、所有する田畑の石高に応じて課す「持高割」といった方法で決定された 18 。
慶長6年(1601年)当初、東海道の各宿が常備すべき伝馬は原則として36疋と定められていた 33 。しかし、寛永12年(1635年)に参勤交代が制度化されると、大名行列をはじめとする交通量が爆発的に増大した。これに対応するため、幕府は寛永15年(1638年)、東海道の各宿に対し、常備すべき人馬を100人・100疋へと大幅に増強するよう命じた 31 。この措置は、宿場の負担を著しく増大させた。
やがて、宿場単独の力では増え続ける需要に対応しきれなくなると、幕府は宿場周辺の村々に対し、不足分の人馬を提供する義務を課した。これが「助郷(すけごう)」制度である 4。御油宿も比較的小規模な宿場であったため伝馬役の負担は大きく、周辺の25か村が助郷村として指定され、その重荷を分かち合うことになった 66。
宿場経済の光 ― 恩恵と収益源
重い伝馬役の負担に対し、幕府は宿場にいくつかの経済的な恩恵と収益源を認めた。
- 地子免許 : 伝馬役負担の最も直接的な見返りとして、宿場内の屋敷地にかかる税金(地子)が免除された 4 。これは宿場住民にとって大きな経済的特権であった。
- 商業活動の権利 : 宿場の本分はあくまで公用輸送の円滑な遂行であったが、それに支障のない範囲で、一般の旅行者の宿泊や、商人の荷物を運ぶことで利益(有賃)を得ることが公に認められていた 4 。これにより、宿場は交通の結節点であると同時に、商業の中心地としても発展していくことになった。
- 休泊業と関連産業の繁栄 : 街道を旅する人々を対象とした旅籠(はたご)や茶屋、土産物屋などの商店が軒を連ね、宿場町は活気に満ちた 4 。江戸時代初期には、宿泊そのものに対する料金(宿賃)は認められておらず、薪代(木賃)などを徴収する程度であったが 70 、時代が下るにつれて商業的な宿泊業が確立し、幕末期には1泊2食付きで200文から300文(現在の価値で約5000円強)程度の料金が一般的となった 71 。
御油宿の賑わいと社会風俗
三河地方の宿場は特に活気に満ちており、「御油や赤坂、吉田がなけりゃ、なんのよしみで江戸通い」という俗謡が詠まれるほど、旅人にとって魅力的な場所であった 14 。
その魅力の源泉の一つが、御油宿と赤坂宿に多数存在した「飯盛女(めしもりおんな)」であった 73。彼女たちは、表向きは旅籠で食事の給仕などをする奉公人であったが、実態としては旅人の夜の相手も務める遊女的な存在であった 14。また、歌川広重の浮世絵『東海道五拾三次』にも描かれているように、御油宿では旅籠への強引な客引きを行う「旅人留女(とめおんな)」も名物となっていた 43。
飯盛女の存在は、宿場経済の構造と幕府の統治の現実を考える上で、極めて示唆に富んでいる。伝馬制度という国家の公的システムは、宿場に重い経済的負担を強いた。この負担を継続的に履行するためには、公役以外の収益源を確保する必要があり、飯盛女によるサービスは、旅人を惹きつけ、旅籠の収益を大幅に向上させる強力な手段となった 14 。そして、その収益が宿場全体の経済を潤し、結果として公役である伝馬役を安定的に供給する能力を支えたのである。幕府は、風紀上の問題から飯盛女を建前上は規制しつつも、宿場経済の衰退が伝馬制度の維持に支障をきたすことを理解していたため、実質的にはこれを黙認した 62 。これは、徳川幕府の支配が、厳格な法規制(タテマエ)のみならず、現場の経済的実利や非公式な慣習(ホンネ)を許容することで成り立っていたことを示す好例である。公的インフラが、意図せずして私的な欲望の市場を創出し、その市場が公的インフラを支えるという、複雑でパラドキシカルな社会経済構造がそこには存在した。
しかし、その華やかな賑わいの裏には、厳しい現実があった。飯盛女の多くは、年貢の支払いに窮した近隣の貧しい農家の娘たちであり、わずかな前金で年季奉公に出されていた 14 。御油宿の東林寺には、嘉永元年(1848年)に集団で入水自殺したとされる4人の飯盛女の墓が残されている 62 。彼女たちの悲劇は、宿場経済の繁栄が、社会の最も弱い立場にある人々の犠牲の上に成り立っていたという、紛れもない事実を静かに物語っている。
終章:1601年が刻んだ道標 ― 徳川二百六十年の礎として
慶長6年(1601年)の御油宿整備を含む東海道伝馬制度の確立は、単なる一地方における交通インフラの整備事業に留まるものではなかった。それは、徳川家康が描いた新たな国家像を実現するための具体的かつ象徴的な第一歩であり、その後の日本の歴史に深く、永続的な影響を及ぼすことになる。
全国への展開と参勤交代という国家システム
東海道で成功を収めた宿駅伝馬制度は、家康の国家構想に基づき、迅速に全国へと展開された。慶長7年(1602年)には中山道、その後も日光街道、奥州街道、甲州街道といった主要幹線道路(五街道)に次々と導入され、江戸を起点とする放射状の全国交通・通信ネットワークが形成されていった 3 。
この物理的な基盤があったからこそ、三代将軍家光の代、寛永12年(1635年)に制度化された参勤交代という、世界史上でも類を見ない大規模な統治システムが機能し得たのである 10。全国の諸大名が、数千人にも及ぶ家臣団を率いて江戸と国元を定期的に往復するという、この巨大な人口移動を支えることができたのは、まさしく各宿駅に整備された人馬継立システムと、それを運営する人々の存在があったからに他ならない。
経済・文化への波及効果
幕府によって整備され、安全が確保された街道は、公用目的だけでなく、商人や巡礼者、一般庶民の旅も活発化させた。これにより、全国的な規模での物流網が飛躍的に発展し、江戸、大坂、京都という三大都市を中心に、日本全体の市場経済化が促進された 77 。
宿場は、人、モノ、そして情報が絶えず交差する結節点となった。江戸や上方の最新の文化(歌舞伎、浮世絵、文学など)が地方へと伝播し、同時に地方の特産物や文化が中央へと紹介される、文化交流の拠点としても重要な役割を果たした 77。御油宿もまた、この壮大なネットワークの一部として、経済と文化の流通に貢献したのである。
御油宿のその後
江戸時代を通じて東海道の要衝として繁栄を謳歌した御油宿であったが、時代の大きな変化には抗えなかった。明治維新を経て、明治5年(1872年)に伝馬制度が廃止されると、宿場としての公的な役割を終えた 4 。さらに決定的だったのは、明治21年(1888年)の東海道本線開通に際し、その敷設ルートから外れたことであった 66 。これにより、御油宿は交通の主役の座を完全に鉄道に譲り渡し、かつての賑わいは次第に失われていった。
しかし、御油宿が歴史から消え去ったわけではない。隣接する赤坂宿との間に今なお残る壮麗な松並木は、国の天然記念物として保護され、江戸時代の旅の風情を現代に伝えている 56。そして、往時の面影を留める町並みは、かつてこの地が国家の大動脈の一部として、多くの人々の往来で賑わった歴史を静かに物語っている。
結論
慶長6年(1601年)の御油宿整備は、戦国の動乱を経て天下を手中に収めた徳川家康が、軍事力による支配から、法と制度による恒久的な統治へと移行する、その明確な意志表示であった。この事業によって確立された宿駅伝馬制度は、江戸を中心とし、情報と権威が迅速かつ確実に全国に行き渡る中央集権国家という、家康の国家ビジョンを具現化するものであった。それは、その後260年以上にわたって続く徳川幕府の長期安定支配を支える、まさに国家の骨格となったのである。御油宿の歴史は、その壮大な国家プロジェクトの一翼を担い、時代の要請に応え、そして時代の変化と共にその役割を終えていった、一つの宿場の栄枯盛衰の物語に他ならない。1601年に打たれたこの一本の杭は、戦国の世に終止符を打ち、泰平の世へと続く道を示す、重要な道標であった。
引用文献
- 慶長~寛永期における美濃国中山道の陸上交通政策 https://aichiu.repo.nii.ac.jp/record/4155/files/p59-69%E3%80%80%E6%A9%98%E6%95%8F%E5%A4%AB.pdf
- 江戸幕府を開いた徳川家康:戦国時代から安定した社会へ | nippon.com https://www.nippon.com/ja/japan-topics/b06907/
- 江戸幕府による東海道整備と9つの宿場町の重要度合い~神奈川県の歴史~ - まっぷるウェブ https://articles.mapple.net/bk/569/
- 伝馬制度 日本史辞典/ホームメイト https://www.touken-world.jp/history/history-important-word/tenmaseido/
- 道 の 歴 史 - 歴史街道などを歩く http://s-yoshida5.my.coocan.jp/download/list/mitinorekisi.pdf
- 旧東海道と宿場制度 横浜市保土ケ谷区 https://www.city.yokohama.lg.jp/hodogaya/shokai/rekishi/tokaido/shuku-seido.html
- 東海道五十三次宿場の概要 https://hspnext.sakura.ne.jp/leaflet/toukaidou/html/toukaidou02.html
- 戦国の世の通信から、現代に生きることのありがたさを知る https://kantuko.com/ncolumns/%E6%88%A6%E5%9B%BD%E3%81%AE%E4%B8%96%E3%81%AE%E9%80%9A%E4%BF%A1%E3%81%8B%E3%82%89%E3%80%81%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E3%81%AB%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%82%8B%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%AE%E3%81%82%E3%82%8A%E3%81%8C/
- 資料リスト https://www.library.city.chiba.jp/news/pdf/20160628hanamigawadanchi_kikaku.pdf
- 江戸幕府の街道施策の正確な伝承・発信にご尽力されている志田 威(しだ たけし)先生より、令和4年5月29日(日)に開催された『東海道57次講演』についてのお知らせをいただきました。 - 戸谷八商店 https://www.toyahachi.com/20230222/
- 1−1−2 交通変遷と街道の整備実態、機能・役割 https://www.mlit.go.jp/common/000055312.pdf
- 大名行列が宿泊する宿場町は問屋場と本陣がてんてこ舞 - nippon.com https://www.nippon.com/ja/japan-topics/c08605/
- 伝馬制の起原 - 品川区 / しながわデジタルアーカイブ https://adeac.jp/shinagawa-city/texthtml/d000010/mp000010/ht002300
- 赤坂宿 - 豊川市 https://www.city.toyokawa.lg.jp/kanko_bunka_sports/rekishi/2/2/11746.html
- 道路:道の歴史:中世の道 - 国土交通省 https://www.mlit.go.jp/road/michi-re/2-3.htm
- 全国統一を成し遂げた豊臣秀吉:社会安定化のために構造改革 - nippon.com https://www.nippon.com/ja/japan-topics/b06906/
- 秀吉の国内・対外政策 - ちとにとせ|地理と日本史と世界史のまとめサイト https://chitonitose.com/jh/jh_lessons69.html
- 【伝馬役の負担と資格】 - ADEAC https://adeac.jp/nakatsugawa-city/text-list/d100020/ht020620
- 豊臣秀吉が行った政策とは?太閤検地や刀狩を理解しよう! | 学びの日本史 https://kamitu.jp/2023/08/31/hideyoshi-toyotomi/
- TOP|幾多の危機に見舞われながらも、天下人としての土台を築いた 岡崎時代の徳川家康 https://okazaki-kanko.jp/feature/ieyasu-in-okazaki/top
- 徳川家康を巡る旅~三河編~/ホームメイト https://www.touken-collection-nagoya.jp/tokugawaieyasu-aichi-shizuoka/ieyasu-journey-mikawa/
- 家康公の生涯 - 幼少時代の竹千代 - 静岡市観光 https://www.visit-shizuoka.com/t/oogosho400/study/02_01.htm
- 徳川家康公が遺した・・・(上) - 財務省 https://www.mof.go.jp/public_relations/finance/202311/202311e.html
- 桶狭間の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%B6%E7%8B%AD%E9%96%93%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
- 桶狭間の地形から知る“桶狭間の戦い” 織田が今川を撃破した奇襲作戦とは? (2ページ目) - まっぷるウェブ https://articles.mapple.net/bk/5199/?pg=2
- 家康公の生涯 - 五カ国統治時代 - 静岡市観光 https://www.visit-shizuoka.com/t/oogosho400/study/02_02.htm
- 徳川家康と三河一向一揆 /ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/97177/
- 「三河一向一揆」の背景・結果を解説|家臣の裏切りで、家康を苦しめた戦い【日本史事件録】 https://serai.jp/hobby/1113050
- 【一 近世の街道と宿駅】 - ADEAC https://adeac.jp/yukuhashi-city/text-list/d100010/ht2044101010
- 家康公と三河武士 - 岡崎商工会議所 https://www.okazakicci.or.jp/ieyasu/ieyasu_20190717/html_20190717/images/book.pdf
- #1 なぜ家康は東海道を整備したのか|不二考匠 - note https://note.com/takamasa_jindoh/n/nc89e576a7126
- 2025_3/解法のヒント https://tsuka-atelier.sakura.ne.jp/ronjutu/toudai/kakomon/kaisetu/kaisetu253.html
- 伝馬朱印状とはどういうものですか? https://www.ktr.mlit.go.jp/yokohama/tokaido/02_tokaido/04_qa/index1/a0106.htm
- 伊奈忠次(イナタダツグ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E4%BC%8A%E5%A5%88%E5%BF%A0%E6%AC%A1-31810
- 大久保長安 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E9%95%B7%E5%AE%89
- 東海道五十三次(五十七次)とは - 藤沢市 https://www.city.fujisawa.kanagawa.jp/bunkazai/kyoiku/bunka/kyodoshi/gojusantsugi.html
- 伝馬朱印状(てんましゅいんじょう)|収蔵資料 - 物流博物館 https://www.lmuse.or.jp/collection/gallery/edo/02.html
- 伝馬朱印状 - 豊橋市美術博物館 https://toyohashi-bihaku.jp/%E3%81%A8%E3%82%88%E3%81%AF%E3%81%97%E3%81%AE%E7%BE%8E%E8%A1%93%E3%83%BB%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%83%BB%E6%96%87%E5%8C%96%E8%B2%A1%E3%82%92%E7%9F%A5%E3%82%8B/%E9%83%B7%E5%9C%9F%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E8%B3%87%E6%96%99/%E8%BF%91%E4%B8%96/%E6%9D%B1%E6%B5%B7%E9%81%93%E3%81%A8%E5%90%89%E7%94%B0%E5%AE%BF%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6/%E4%BC%9D%E9%A6%AC%E6%9C%B1%E5%8D%B0%E7%8A%B6/
- 伝馬定書 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9D%E9%A6%AC%E5%AE%9A%E6%9B%B8
- 東海道五十三次とは - 川崎市 https://www.city.kawasaki.jp/kawasaki/category/123-9-2-2-0-0-0-0-0-0.html
- 吉原宿伝馬朱印状 - 富士市立博物館 https://museum.city.fuji.shizuoka.jp/report/a6-1-1-4.html
- 御油宿(ごゆしゅく)と松並木 - 愛知エースネット https://apec.aichi-c.ed.jp/kyouka/shakai/kyouzai/2018/syakai/tousan/021/021.htm
- 御油・赤坂(広重『東海道五十三次』18) - 気ままに江戸 散歩・味・読書の記録 https://wheatbaku.exblog.jp/31427413/
- 【R-AC025】御油宿本陣跡 https://www.his-trip.info/siseki/entry386.html
- 東海道と宿場の施設【問屋場】 https://www.ktr.mlit.go.jp/yokohama/tokaido/02_tokaido/03_sisetu/06index.htm
- 問屋場 - 東海道かわさき宿交流館 https://www.kawasakishuku.jp/2_009.html
- 関ヶ原の戦いがあった場所とは/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/41102/
- 中山道「本庄宿」について - 戸谷八商店 https://www.toyahachi.com/%E4%B8%AD%E5%B1%B1%E9%81%93%E6%9C%80%E5%A4%A7%E3%81%AE%E6%9C%AC%E5%BA%84%E5%AE%BF/
- 【問屋場の業務】 - ADEAC https://adeac.jp/shinagawa-city/text-list/d000010/ht002630
- 【Z-AC015】御関札立掛場跡 https://www.his-trip.info/siseki/entry2874.html
- “街道と宿場”の豆知識 http://akiyama.my.coocan.jp/kaiteikaidoumame.pdf
- 史跡で辿る、東海道宿場町コース「大磯宿編」 - 神奈川県ホームページ https://www.pref.kanagawa.jp/docs/ph7/cnt/f7631/tokaidocourseoiso.html
- www.toyokawa-map.net https://www.toyokawa-map.net/spot/000249.html#:~:text=%E5%BE%A1%E6%B2%B9%E3%81%AE%E3%83%9E%E3%83%84%E4%B8%A6%E6%9C%A8%20%E3%81%94%E3%82%86%E3%81%AE%E3%81%BE%E3%81%A4%E3%81%AA%E3%81%BF%E3%81%8D&text=%E3%81%93%E3%81%AE%E3%83%9E%E3%83%84%E4%B8%A6%E6%9C%A8%E3%81%8C%E8%AA%95%E7%94%9F,%E3%81%95%E3%81%9B%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%A0%E3%81%9D%E3%81%86%E3%80%82
- 御油宿 | あいち歴史観光 - 愛知県 https://rekishi-kanko.pref.aichi.jp/place/goyu.html
- 御油宿(東海道 - 吉田~御油) - 旧街道ウォーキング - 人力 https://www.jinriki.info/kaidolist/tokaido/yoshida_goyu/goyushuku/
- 国指定天然記念物御油のマツ並木保護事業 - 豊川市 https://www.city.toyokawa.lg.jp/soshiki/kyoikuiinkai/shogaigakushu/2/5/3/2/4262.html
- 御油の松並木(東海道 - 御油~赤坂) - 旧街道ウォーキング - 人力 https://www.jinriki.info/kaidolist/tokaido/goyu_akasaka/goyunomatsunamiki.html
- 赤坂宿 (東海道) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E5%9D%82%E5%AE%BF_(%E6%9D%B1%E6%B5%B7%E9%81%93)
- 大橋屋(旧旅籠鯉屋) - 豊川市 https://www.city.toyokawa.lg.jp/soshiki/kyoikuiinkai/shogaigakushu/2/5/3/1/ohasiya.html
- (東海道)赤坂宿 | 【公式】愛知県の観光サイトAichi Now https://aichinow.pref.aichi.jp/spots/detail/314/
- www.jinriki.info https://www.jinriki.info/kaidolist/tokaido/goyu_akasaka/akasakashuku/#:~:text=%E5%85%83%E3%80%85%E3%80%81%E5%BE%A1%E6%B2%B9%E5%AE%BF%E3%81%A8%E8%B5%A4%E5%9D%82,%E5%AE%BF%E5%A0%B4%E3%81%AB%E5%88%86%E3%81%91%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%80%82
- 御油・赤坂の飯盛女 遊女たちの光と影 - 歩き旅応援舎ホームページ https://arukitabi.biz/blog/20250112a/
- 赤坂宿(東海道 - 御油~赤坂) - 旧街道ウォーキング - 人力 https://www.jinriki.info/kaidolist/tokaido/goyu_akasaka/akasakashuku/
- ⑬赤坂宿 | 御津町商工会 https://mito.or.jp/mito-intro/toyokawahistory/4north/4-4-13
- 【伝馬役と歩行役】 - ADEAC https://adeac.jp/nakatsugawa-city/text-list/d100040/ht012910
- 御油(ゴユ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%BE%A1%E6%B2%B9-66358
- さいたま市立浦和博物館館報 https://www.city.saitama.lg.jp/004/005/004/005/002/006/p114191_d/fil/akansasu99.pdf
- 歴史探訪[街道の歴史]江戸宿駅制度の成立 - お茶街道 http://www.ochakaido.com/rekisi/kaido/kaisetu2.htm
- 宿場町と助郷村との関係 http://hist-geo.jp/img/archive/026_147.pdf
- 【旅籠】 - ADEAC https://adeac.jp/nakatsugawa-city/text-list/d100040/ht012780
- 東海道の旅、江戸から伊勢までの「旅費」はいくらだった? トラップだらけの道中をたどる - Merkmal https://merkmal-biz.jp/post/32786/2
- 江戸時代の旅籠は現代のビジネスホテル!旅館・本陣・木賃宿との違いとは | 株式会社テラモト https://www.teramoto.co.jp/columns/10580/
- 芭蕉も泊まった旅籠で、江戸情緒に浸る(御油〜岡崎) - PAPERSKY https://papersky.jp/archive/goyu-to-okazaki/
- 【大沢町の飯盛旅籠と飯盛女(その一)】 - ADEAC https://adeac.jp/koshigaya-city-digital-archives/text-list/d000060/ht000280
- 東海道御油宿の旅籠で働いていた飯盛女の墓が残る豊川市東林寺 https://kaidou.nagoya/toyokawacity/tourinji.html
- 【街道の成立】 - ADEAC https://adeac.jp/nakatsugawa-city/text-list/d100040/ht012620
- 地方自治と伝馬制度 - 全国町村会 https://www.zck.or.jp/site/essay/5383.html
- 五十七次の歴史と意義:宿駅伝馬制完成400年を迎えて| 榊原 平 / Taira Sakakibara - note https://note.com/taira_sakaki/n/n4884ddc09858
- 駿河歩人(するがあいんど):東海道と宿場の豆知識 https://www.suruga-aind.biz/tokaido/