最終更新日 2025-09-13

徳川家康改名(1566)

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徳川家康改姓・叙任の深層分析:永禄九年(1566年)、一地方領主から天下への飛翔

序章:永禄九年、天下の潮目

永禄九年(1566年)、日本の政治情勢は混沌の極みにあった。前年の永禄八年(1565年)五月、室町幕府第十三代将軍・足利義輝が、三好三人衆と松永久通らの軍勢によって京都・二条御所を襲撃され、非業の死を遂げるという「永禄の変」が勃発した 1 。この事件は、単に一人の将軍が殺害されたという以上の意味を持っていた。それは、二百年以上にわたり日本の武家社会の頂点に君臨してきた室町幕府という権威秩序が、決定的に機能不全に陥ったことを全国の大名に知らしめる象徴的な出来事であった。

この「将軍不在」という巨大な権力の真空は、戦国の世を生きる各地の有力大名たちに、新たな行動を促す強力な触媒となった。畿内では、殺害された義輝の弟・足利義昭が織田信長を頼って上洛の機会をうかがい 3 、三好三人衆と松永久秀の抗争が続いていた 4 。目を転じれば、関東では武田信玄が西上野の箕輪城を攻略してその勢力を拡大し 3 、対する上杉輝虎(謙信)は臼井城の戦いで北条方に手痛い敗北を喫して関東における影響力を後退させていた 3 。西国では毛利元就が尼子氏を滅亡させ、中国地方のほぼ全域を平定するに至っている 3

このような全国的な権威の再編期ともいえる激動の時代にあって、三河国(現在の愛知県東部)に一人の若き大名が立っていた。名を松平家康という。桶狭間の戦いを機に今川氏から独立し、織田信長と同盟を結び、長年の苦闘の末に三河一国の統一を目前にしていた 6 。しかし、彼の立場は依然として脆弱であった。東には衰亡しつつも旧主である今川氏、西には強力な同盟者である織田信長、そして北には甲斐の巨龍・武田信玄という巨大勢力がひしめき合っている。

この戦略的岐路に立たされた家康にとって、単なる三河の国主に留まるのか、あるいは天下をうかがう有力大名へと飛躍するのか、その選択が迫られていた。そして、その飛躍のためには、自らの「格」を内外に、そして何よりも公的に示す必要があった。永禄九年における家康の改姓と叙任は、個人の野心の発露という単純なものではなく、この全国的な権威の再編という大きな潮流を的確に捉え、自らの存在を新たな秩序の中に位置づけようとする、極めて時宜を得た高度な政治戦略だったのである。従来、大名の地位を公的に認可する役割を担ってきた将軍が不在である今、家康は幕府を介さず、直接的に国家の最高権威である朝廷に働きかけるという、新たな権威獲得の道を選択した。それは、戦国武将としての家康の、非凡な政治感覚を示す最初の狼煙であった。

第一部:独立から統一へ ― 松平家康、三河の覇者となる

永禄九年(1566年)の「徳川家康」誕生を理解するためには、それに至るまでの六年間、すなわち「松平元康」が如何にして三河国の実質的な支配者となったかを詳細に追う必要がある。この期間における彼の行動は、後の改姓・叙任という飛躍を実現するための、論理的に不可欠な地固めのプロセスであった。

第一章:桶狭間の残響と自立への道(1560年~1562年)

永禄三年(1560年)五月十九日、駿河・遠江・三河を支配した海道一の弓取り、今川義元が尾張国桶狭間で織田信長に討たれるという衝撃的な事件が起こった 7 。当時、今川軍の先鋒として大高城(現在の名古屋市緑区)を守っていた松平元康は、伯父である水野信元からの報を受け、主君の死という混乱の隙を突いて行動を開始する。同日夜半に大高城を退去すると、今川方の残兵が駐留する岡崎城を避け、まずは菩提寺である大樹寺に入った 6

やがて今川軍が岡崎城から撤退すると、五月二十三日、元康は「捨城ならば拾はん」と述べ、実に十二年ぶりに故郷の城へと帰還を果たした 6 。これは単なる帰郷ではなかった。幼少期から今川氏の人質として駿府で過ごし、その庇護と監視の下で生きてきた元康にとって、岡崎城への入城は今川氏の軛(くびき)から脱し、一個の独立した領主として歩み始めるという事実上の独立宣言であった 10

独立したとはいえ、元康の立場は極めて不安定であった。東の今川氏真は父の仇である織田氏への復讐を誓い、西の織田信長は尾張統一を成し遂げた勢いを駆って三河への侵攻をうかがっていた。この挟撃の危機を脱するため、元康は大胆な外交政策に打って出る。永禄四年(1561年)、再び伯父・水野信元の仲介により、仇敵・織田信長と和睦。翌永禄五年(1562年)には清洲城で信長と直接会見し、軍事同盟を正式に締結した(清洲同盟) 6 。これにより西方の憂いを断ち、元康は全力を挙げて三河統一事業に専念できる戦略的環境を構築したのである。

第二章:「元」から「家」へ ― 今川との決別(1563年)

三河統一を進める中で、元康は自らの立場をより明確にするための象徴的な行動に出る。永禄六年(1563年)七月、名を「松平元康」から「松平家康」へと改めたのである 6

この改名には、極めて重要な政治的意図が込められていた。「元」という字は、元服の際に烏帽子親であった今川義元から与えられた偏諱(へんき)であった 13 。主君や有力者が、臣下や縁者に自らの名の一字を与えることは、両者の間の主従関係や保護関係を示す当時の慣習であった。したがって、その「元」の字を捨てるという行為は、今川氏との主従関係を完全に、そして公式に断ち切るという強い意志表示に他ならなかった。これは、桶狭間後の事実上の独立を、名実ともに完成させるための「過去との決別」の儀式であった 13

一方で、新たに採用した「家」の字の由来については諸説が存在する。後世の軍記物である『三河後風土記』は、武家の棟梁たる清和源氏の英雄・源義家(八幡太郎義家)にあやかったものだとする 15 。また、形原松平氏の家広・家忠・家信のように、松平一族の中では比較的ありふれた名乗りであったとする説や 15 、母・於大の方の再婚相手で義父にあたる久松長家(後の俊勝)から一字を譲り受けたという説もある 15 。「康」の字は、祖父であり松平氏中興の英主と謳われた清康にあやかったものとされている 13 。いずれの説が真実であれ、この改名は今川氏からの精神的独立を内外に宣言する上で、絶大な効果を発揮した。

第三章:最大の試練 ― 三河一向一揆の平定(1563年~1564年)

今川氏からの独立を宣言し、三河統一を着々と進める家康の前に、生涯最大の危機ともいえる内乱が立ちはだかる。永禄六年(1563年)に勃発した三河一向一揆である 16

当時、三河国における浄土真宗本願寺派(一向宗)の寺院は、「不入権」という特権を持ち、大名の課税や警察権が及ばない治外法権的な領域を形成していた 17 。三河一国を完全に掌握しようとする家康にとって、この宗教勢力の存在は看過できないものであった。家康の家臣が兵糧米確保のために本證寺(現在の安城市)の倉から米を徴収した事件をきっかけに、寺院側は門徒を率いて蜂起 16 。これに、家康の支配強化に不満を持つ地域の国人領主たちも加わり、一揆は瞬く間に三河全土を揺るがす大乱へと発展した。

この一揆が家康にとって深刻であったのは、敵が外部勢力ではなく、自らの家臣団の内部にまで及んだ点にある。熱心な一向宗門徒であった本多正信、渡辺守綱、夏目吉信といった譜代の家臣たちが、主君への忠誠と信仰との間で苦悩の末に一揆側に与し、家康に弓を引いたのである 17 。家臣団は二つに引き裂かれ、松平家は滅亡の淵に立たされた 20

しかし、家康はこの半年間に及ぶ激戦を耐え抜き、巧みな戦術と和議によって一揆を鎮圧する。そして和議成立後、その約束を反故にして一向宗の主要寺院を破却、僧侶を三河から追放するという強硬手段に打って出た 18 。この非情ともいえる決断により、家康は三河国内における宗教勢力をも完全に支配下に置き、領主として絶対的な権力を確立した。この最大の試練を乗り越えたことは、家康が名実ともに「三河の主」であることを内外に示す最終試験となったのである。

第四章:三河平定の完成(1564年~1566年初頭)

三河一向一揆という内乱を克服したことで、家康の三河における支配権はもはや揺るぎないものとなった。家康は一揆に加担した家臣の多くを赦免し、その寛大さによって家臣団の再結束を図る一方 20 、支配体制の再編に着手。西三河衆と東三河衆、そして旗本からなる三備の制を導入するなど、軍制改革を断行した 6

この強固な支配体制を背景に、家康は三河統一の総仕上げに取り掛かる。東三河の今川方国人衆を次々と攻略・懐柔し、永禄九年(1566年)までには、東三河の吉田城(現在の豊橋市)や奥三河の山間部に至るまで、三河一国を完全にその手中に収めた 6

こうして、「今川からの精神的独立(改名)」と「三河の物理的・精神的統一(一揆平定)」という二つの重要な前提条件が整った。もはや家康は、次なるステージ、すなわち新たな公的権威を獲得し、一地方領主の枠を超えるための行動を開始する準備ができていたのである。1566年の事変は、この周到な国家建設プロセスの必然的な帰結であった。

第二部:徳川家康の誕生 ― 永禄九年のグランドデザイン

三河一国を完全に掌握した松平家康。しかし、彼の視線はすでに三河の先に、すなわち天下の舞台に向けられていた。そのためには、単なる一地方の実力者という立場を脱し、より高次の公的な権威をまとう必要があった。永禄九年の改姓と叙任は、そのための壮大な計画だったのである。

第一章:なぜ「松平」では駄目だったのか

家康が新たな姓を求めた根源的な理由は、「松平」という名字が持つ限界にあった。松平氏は、もとをたどれば三河国松平郷(現在の豊田市)の一土豪に過ぎない。家康が宗家とはいえ、三河国内には桜井松平氏や藤井松平氏など、数多くの分家が存在し、彼らは家康の同族ではあっても、絶対的な主従関係にあるわけではなかった。家康がこれらの松平一族や他の三河国人衆を完全に統率し、一段上の存在として君臨するためには、「松平」という枠組み自体を超える新たな権威が必要だったのである 24

さらに、国外に目を向ければ、西には尾張・美濃を席巻しつつある織田信長、北には信濃をほぼ手中に収めた武田信玄といった強大な戦国大名がいた。彼らと対等な同盟関係を結び、あるいは将来的に彼らを超える存在となるためには、家格における「箔付け」が不可欠であった 13 。三河の一領主に過ぎない「松平」の名では、全国の舞台で渡り合っていくにはあまりにも軽すぎたのである。

第二章:「徳川」という名の創造

この課題を克服するため、家康が選び出したのが「徳川」という姓であった。これは、自らの家系を、武家の棟梁たる清和源氏の名門・新田氏の支流であると主張するための、意図的な歴史の「創造」であった。

具体的には、家康は自らの祖先を、上野国新田荘得川郷(現在の群馬県太田市)をルーツとする世良田義季(せらだよしすえ)に繋げた 25 。義季は新田氏の始祖・新田義重の子で、得川(徳川)を称したとされる人物である。この系譜によれば、家康の祖先である松平親氏は、南北朝時代の動乱で徳川郷を追われ、三河国松平郷に流れ着いて松平氏の婿になったとされる 25

この系図の歴史的信憑性については、後世の創作であるという見方が今日では有力である 29 。しかし、戦国時代において重要だったのは、厳密な歴史的真実性よりも、その系譜が持つ「政治的価値」であった。源氏、とりわけ鎌倉幕府を開いた源頼朝を輩出した清和源氏の血を引くことは、武家のトップである征夷大将軍に就任するための伝統的な資格と見なされていた。この時点で家康がどこまで具体的に将軍職を意識していたかは定かではないが、将来天下を争う上での極めて重要な布石として、源氏の権威を手に入れようとしたことは間違いない。

第三章:朝廷工作 ― 京とのパイプライン

出自を整えた家康が次に行ったのは、その新たな姓と地位を、国家の最高権威である朝廷に公認させることであった。ここで、前年の「永禄の変」による将軍不在という状況が、家康にとって絶好の機会となった。通常、武家の叙位任官は将軍の推挙を経て行われるのが慣例であったが、その将軍がいない今、朝廷へ直接働きかける道が開かれていたのである 24

この前例の少ない複雑な交渉を成功に導いたのが、時の関白・近衛前久であった。家康は、三河出身で京都・誓願寺の住持であった泰翁(たいおう)らを仲介役として前久に接触 30 。前久は、三河を平定した家康の将来性を見込み、この異例の要請を朝廷内で取りまとめるために尽力した。吉田兼右といった朝廷の役人が家系を調査し、徳川氏が源氏の末裔であるとする「旧記」を見つけ出したことも、勅許を得る上での追い風となった 24

そして、この改姓は、官位の授与と不可分一体のものとして進められた。永禄九年十二月二十九日(西暦1567年2月18日)、家康は正親町天皇から「徳川」への改姓を勅許されると同時に、「従五位下・三河守」に叙任された 22

この一連の出来事は、家康の地位を根本的に変革する、法理論的な革命であった。それまでの家康は、あくまで実力によって三河を支配する「私的な支配者」であった。しかし、「三河守」という律令制における三河国の長官職に任命されたことで、彼の統治は朝廷、すなわち国家から公的に委任されたものへとその法的性格を変化させた。これにより、家康に敵対することは、単に家康個人への反逆ではなく、朝廷の権威への挑戦であるという強力な大義名分が成立する。さらに、これを「源氏の末裔たる徳川」という新たな姓と組み合わせることで、その権威は最大化された。家康は、「源氏の末裔たる徳川家康が、朝廷の任命を受けて三河国を治める」という、完璧な統治の正当性を手に入れたのである。これは、後の領土拡大戦争を正当化する上で、比類なき力を発揮することになる。

第三部:【時系列再現】永禄九年、岡崎城と京の動静

徳川家康の改姓・叙任は、決して孤立した出来事ではなかった。それは、日本全国で有力大名たちが激しい生存競争を繰り広げる中で、周到に計画され、迅速に実行された戦略的行動であった。以下の年表は、永禄九年(1566年)という激動の一年における家康の動向を、国内外の情勢と対比させることで、その意思決定の背景にあった「時間的・空間的プレッシャー」を可視化するものである。

表1:永禄九年(1566年)内外主要関連年表

時期

徳川家康の動向

畿内・朝廷の動向

織田信長の動向

武田・上杉・北条の動向

その他主要大名の動向

年初~春

三河統一を最終段階へ。改姓・叙任の構想を固め、京への工作準備を開始。

足利義昭、信長を頼り上洛の機会をうかがう 3

西三河へ侵攻、寺部城を占領 3 。斎藤龍興との和睦を成立させる 3

3月、上杉輝虎軍が北条方の臼井城攻撃に大敗。関東での影響力が低下 3

毛利元就、出雲・月山富田城の包囲を継続。

夏~秋

泰翁・近衛前久を通じ、朝廷への本格的な働きかけを開始。吉田兼右らが徳川氏の系譜を調査 24

三好三人衆と松永久秀の対立が続く。

滝川一益が北伊勢に侵攻し、桑名・下深谷城を占領 3

7月、武田信玄が2万の大軍で西上野・箕輪城を攻略。城主・長野業盛は自害し、長野氏滅亡 3

備中にて宇喜多直家が三村家親を鉄砲で暗殺 3

朝廷からの勅許を待つ。三河国内の支配体制を固める。

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11月、毛利元就が月山富田城を開城させ、尼子義久を降伏させる。中国地方の平定を完了 3

12月29日

朝廷より徳川への改姓と従五位下三河守への叙任が勅許される 22

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九州で島津義久が家督を継ぐ。伊東氏との抗争が激化 3

この年表が示すように、家康が京で静かなる政治工作を進めている間にも、日本の勢力図は刻一刻と塗り替えられていた。特に注目すべきは、北の武田信玄の動きである。永禄九年七月、信玄は長年の宿敵であった西上野の長野氏を滅ぼし、関東への勢力基盤をさらに強固なものとした 3 。この報は、岡崎の家康にとって大きな脅威として受け止められたはずである。信玄という巨大な存在と将来対峙するためには、自らの権威を早急に確立し、三河の国人衆を強力な主君の下に結束させる必要性を痛感したであろう。

また、西国では毛利元就が尼子氏を降し、中国地方の覇者としての地位を不動のものとした 3 。このように、各地で巨大勢力が次々とその版図を固めていく状況は、家康に「好機逸すべからず」という焦燥感と決断を促した。もしこの時期に権威の確立に失敗すれば、いずれは東西北の巨大勢力に飲み込まれかねない。家康の改姓・叙任は、こうした緊迫した国際情勢の中で、自らの生存と発展をかけて打たれた、起死回生の一手だったのである。

十二月二十九日、ついに朝廷からの勅許が下る。この日、岡崎城の松平家康は、法的に「徳川三河守家康」として生まれ変わった。それは、激動の永禄九年という一年を締めくくる、そして新たな時代の幕開けを告げる画期的な出来事であった。

第四部:事変の波紋と歴史的意義

永禄九年十二月二十九日の勅許は、単に家康個人の名と地位を変えただけではなかった。それは、彼の周囲の勢力図、彼自身の家臣団の構造、そして日本の歴史そのものに、静かだが確実な波紋を広げていった。

第一章:内外の反応

この歴史的な事変に対する、関係諸大名の反応は、それぞれの立場によって大きく異なっていた。

  • 織田信長: 同盟者である家康の地位向上は、信長にとって歓迎すべきことであったと推察される。当時、信長は美濃攻略に専念しており、背後を預ける家康が三河国主として公的な権威を持ち、領国を安定させることは、信長自身の戦略にとっても有益であった 31 。家康が独立した大名として格を上げることは、信長が彼を対等なパートナーとして遇する上での基盤を固めることにも繋がった。
  • 今川氏真: 旧主である氏真にとって、この出来事は屈辱以外の何物でもなかっただろう。かつての人質であり、家臣であった元康が、自分を飛び越えて朝廷から直接「三河守」に任じられたことは、今川氏の権威が完全に地に落ちたことを天下に示すものであった 32 。これにより、家康が今川領である遠江・駿河へ侵攻する野心を抱いた場合、それを正当化しかねないという深刻な脅威を感じたはずである。
  • 他の戦国大名: 武田信玄や上杉謙信、毛利元就といった他の有力大名たちが、この改姓・叙任をどう受け止めたかを直接示す史料は少ない。しかし、三河の一国人に過ぎなかった松平氏が、源氏を称し朝廷から官位を得たという事実は、彼らに家康を単なる地方勢力ではなく、天下の舞台に登場した新たなプレイヤーとして認識させるに十分なインパクトを持っていたと考えられる。

第二章:松平一族から徳川家へ

この改姓が持つもう一つの重要な側面は、それが家康個人と、後の将軍家となる直系子孫に限定されたという点にある 24 。松平一族の全てが徳川姓に改めたわけではなかった。これにより、「徳川家」は数多いる「松平一族」の中から別格の存在として突出することになった。

これは、家康の家臣団内部に、明確な主従序列を確立する上で絶大な効果を発揮した。徳川宗家を頂点とし、その下に親族である松平庶家、さらにその下に譜代の家臣団が連なるという、ピラミッド型の支配構造が形成されたのである。この構造は、後の江戸幕府における徳川将軍家と親藩・譜代大名との関係性の原型となり、二百六十年にわたる長期安定政権の礎の一つとなった。

第三章:天下への道程

永禄九年の事変が持つ最大の歴史的意義は、それが後の天下統一、そして江戸幕府創設へと至る道程の、決定的な第一歩であったという点に尽きる。

「徳川三河守」という公的な肩書は、家康のその後の領土拡大戦争に、強力な正当性を与えた。永禄十一年(1568年)から始まる遠江・駿河侵攻(対今川戦)は、単なる領土的野心による侵略ではなく、「朝廷に認められた国主が、秩序を乱す旧主を討伐する」という大義名分を掲げることが可能になった。

そして何よりも、「清和源氏の末裔・徳川」というブランドは、家康の生涯を通じて最も重要な無形資産となった。織田信長が本能寺で倒れ、豊臣秀吉が世を去った後、天下人の座を争うレースにおいて、この血統的権威は家康を他のライバルたちから際立たせる決定的な要因となる。最終的に慶長八年(1603年)、家康が征夷大将軍に就任し、江戸幕府を開くことができたのは、源氏の長者であるという伝統的な資格があったからに他ならない。その遠大なる構想の原点が、この永禄九年の改姓・叙任にあったのである。

結論:単なる改名にあらざる、国家構想の第一歩

永禄九年(1566年)の「徳川家康改名」は、その表層的な事実だけを捉えれば、一人の戦国武将が自らの名を改め、官位を得たという出来事に過ぎない。しかし、その深層を分析する時、我々はこの事変が、個人の権威向上という次元を遥かに超えた、壮大な国家構想の第一歩であったことを理解する。

この事変は、以下の五つの戦略的要素が複合した、高度な政治的行為であった。

  1. 時代状況の的確な把握: 将軍不在という中央権力の真空状態を好機と捉え、旧来の権威秩序に囚われない新たな道筋を見出した。
  2. 確固たる地盤の確立: 行動を起こす前に、今川氏からの完全な独立と、三河一向一揆の平定による領国の一元的支配という、不可欠な前提条件を整えた。
  3. 最高権威の直接利用: 幕府を介さず、直接朝廷に働きかけることで、自らの権威を国家の根源に直結させた。
  4. 支配の質的転換: 実力による「私的支配」を、朝廷の任命による「公的統治」へと昇華させ、統治の絶対的な正当性を確立した。
  5. 将来への布石: 「源氏の末裔・徳川」というブランドを創造し、将来の天下取り、ひいては征夷大将軍就任への道を切り拓いた。

松平元康という三河の一地方武将が、天下人・徳川家康へとその姿を変貌させる決定的な転換点、それがこの永禄九年の事変であった。それは、力だけが支配する戦国の世にあって、権威と正統性がいかに強力な武器となりうるかを喝破した、家康の政治家としての非凡な才能を物語る象徴的な出来事として、日本史上に不滅の光を放っている。

引用文献

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  13. 松平元康はなぜ徳川家康になったのか/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/103914/
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  15. 改名した「家康」の由来の謎 | 歴史人 https://www.rekishijin.com/25945
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  29. 「徳川」改姓に見る家康のルーツの謎 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/26545/2
  30. 「徳川」への改姓と「家康」への改名|徳川家康ー将軍家蔵書から ... https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/ieyasu/contents1_04/
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