志布志港整備(1595)
文禄4年、島津氏は慶長の役へ向け志布志港を整備。兵站の脆弱性を克服すべく、陸海施設を拡充し、軍事拠点化。戦後は密貿易拠点として繁栄し、「志布志千軒のまち」を築いた。これは志布志発展の礎となる。
「Perplexity」で事変の概要や画像を参照
『天正・文禄年間における志布志港の戦略的兵站拠点化 ― 1595年「整備」の実像』
序章:問われる「1595年整備」の史実性
本報告書は、利用者様が提示された「志布志港整備(1595):大隅国:志布志:外港の改修で薩南の物資集積を促進」という事象を分析の基点とする。この簡潔な記述の背後には、戦国末期の日本を揺るがした巨大な対外戦争と、それに伴う国家規模の軍事ロジスティクスの変革という、複雑かつ広大な歴史的文脈が存在する。本報告書の目的は、この「1595年整備」という一点の事象を丹念に解き明かし、その歴史的意義を明らかにすることにある。
しかしながら、調査の初期段階で一つの重要な課題が明らかとなる。『薩藩旧記雑録』をはじめとする薩摩藩関連の編年史料を精査しても、「志布志港整備」という固有の名称を持つ特定の土木事業が、文禄四年(1595年)に実施されたことを示す直接的な記録は見出し難い 1 。この史料上の沈黙は、当該事象が後世に認識されるような単一の公共事業としてではなく、より大きな軍事行動に内包された一連の活動として、当時の人々には認識されていた可能性を強く示唆している 3 。
この事実認識に基づき、本報告書は独自のアプローチを採用する。すなわち、「1595年の整備」を、豊臣秀吉による第二次朝鮮出兵(慶長の役)に備え、島津氏が主導した 一連の軍事兵站拠点化事業の総称 として再定義する。そして、文禄の役における兵站上の教訓、豊臣政権からの軍役命令、島津義弘の動向、当時の港湾技術といった周辺事実を多角的に分析し、それらを繋ぎ合わせることで、この歴史的プロセスの全体像を緻密に再構築する。
このアプローチを取ることで、一つの本質的な構造が浮かび上がる。「1595年 志布志港整備」とは、固有名詞を持つ単発の「事件」ではなく、文禄の役という未曾有の対外戦争で露呈した兵站能力の限界という「教訓」と、慶長の役という再び国家の総力を挙げるべき「命令」という、二つの巨大な圧力の狭間で必然的に発生した、軍事ロジスティクスの質的転換を示す「プロセス」そのものであった。文禄四年(1595年)は、島津義弘が第一次出兵の休戦に伴い帰国し、太閤検地を経て島津家の実質的な差配権を豊臣政権から公認された年である 5 。これは、彼が領国経営、特に軍事体制の再編に本格的に着手できる権限と好機を得たことを意味する。第一次出兵で痛感した兵站の脆弱性を克服し、第二次出兵という国家的要請に応えるため、この1595年という準備期間に港湾機能の抜本的向上が図られたことは、歴史的必然であったと言える。本報告書は、この必然のプロセスを詳細に解明していく。
第一章:島津氏の「水門」― 兵站拠点化以前の志布志港
1595年の「整備」事業を理解するためには、まずその舞台となった志布志港が、それ以前にどのような歴史的役割と物理的実体を持っていたのかを把握する必要がある。この港の軍事拠点化は、全くの無から創造されたのではなく、長年にわたって培われてきた経済的・地理的ポテンシャルの上に成り立っていたからである。
古代・中世における志布志津
志布志港は、古くは「志布志津」と称され、その歴史は古代にまで遡る 6 。この港が歴史上、南九州における戦略的要衝としての地位を確立したのは、平安時代末期に成立した日本最大級の荘園・島津荘との関係においてであった。広大な島津荘にとって、志布志津は唯一の公式な「水門(みなと)」、すなわち荘園からの年貢や物資を船積みし、畿内や海外との交易を行うための海上ゲートウェイとして機能した 4 。この事実は、志布志が単なる地方の漁港ではなく、古来より大隅・日向地域全体の物資集積と対外交易を担う経済の中枢であったことを物語っている。
この港の重要性は、その背後に聳える志布志城跡からの考古学的発見によっても裏付けられている。発掘調査では、中国産の陶磁器をはじめ、タイなど東南アジアからの陶器、さらには明や琉球の銭貨などが多数出土している 11 。これらの遺物は、志布志津が中世において、琉球や東南アジア、中国大陸までをも含む広範な海上交易ネットワークの一大拠点であったことを物理的に証明するものである。
戦国期における役割と港湾の姿
戦国時代に入ると、志布志の戦略的価値はさらに高まる。島津氏の支配下において、この港は琉球や南方との交易拠点としての役割を継続した 6 。同時に、その入り組んだ湾と九州南東端という地理的条件から、倭寇の根拠地の一つであった可能性も指摘されており、その地が持つ軍事的なポテンシャルも示唆されている 3 。
しかし、1595年以前の港湾施設そのものは、比較的素朴なものであったと推測される。当時の港は、志布志湾に注ぐ前川の自然河口をそのまま利用したものであり、大規模な防波堤や埋め立てによる埠頭は存在しなかった 3 。荷役作業は、岸辺に石を積んで階段状にした簡素な船着場である「雁木(がんぎ)」や、大型船が沖合に停泊し、そこから「艀(はしけ)」と呼ばれる小舟で人や物資を陸揚げする方法が中心であったと考えられる 14 。これは日常的な交易には十分な設備であったかもしれないが、数万の軍勢を動員する大規模な軍事作戦の兵站拠点としては、著しく能力が不足していた。
このように、1595年の「整備」は、歴史的に蓄積されてきた志布志港の交易インフラと地理的優位性を、来るべき大戦争のために「軍事転用」し、その能力を飛躍的に「拡張」する事業であった。島津氏にとって、領内に数ある港の中から志布志を選択したことは、歴史的・経済的合理性に基づく必然の帰結だったのである。既に商人、船乗り、倉庫業者といった人的・物的資源が集積しているこの地を強化する方が、新たな港を建設するよりも遥かに効率的であったことは論を俟たない。
第二章:天下統一と巨大な軍役 ― 文禄の役と兵站の課題
豊臣秀吉による天下統一事業は、日本の大名たちに新たな秩序と、それまでとは比較にならないほど巨大な軍役をもたらした。その頂点に位置するのが、文禄・慶長の役、すなわち朝鮮出兵である。この未曾有の対外戦争は、各大名の軍事能力だけでなく、兵站、すなわちロジスティクス能力を極限まで試す壮大な国家的プロジェクトであった。
豊臣政権下の島津氏と朝鮮出兵
天正十五年(1587年)の九州平定を経て豊臣政権に臣従した島津氏は、その強大な軍事力を高く評価される一方で、天下普請の一環として厳しい軍役を課せられた。その最大のものが、天正二十年(文禄元年、1592年)に始まった文禄の役である。島津氏は、義弘を総大将として一万余の兵力を動員し、朝鮮半島へ渡海した 5 。これは全国の大名に課せられた軍事動員の一翼を担うものであり 16 、島津氏もまた、この大軍を維持するための兵站体制の構築に全力を挙げることを要求された。この第一次出兵において、志布志港は、他の港と共に島津軍の出兵・補給拠点の一つとして機能したことが記録されている 3 。
文禄の役で露呈した兵站能力の限界
しかし、この第一次出兵は、島津氏を含む日本の諸大名にとって、兵站がいかに困難で重要であるかを痛感させる経験となった。海を隔てた異国の地へ、数万の軍勢を長期間にわたって駐留させ、戦闘を継続させるという行為は、それまでの日本の戦国時代の常識を遥かに超えるものだった。
その困難さを如実に示す史料が存在する。朝鮮に渡った加藤清正が、国元に対して塩、味噌といった基本的な食料から、墨、風呂釜、武具、漆、紙、蝋燭、提灯に至るまで、極めて詳細な品目をリストアップして補給を要求した書状である 17 。これは、前線の部隊が現地での物資調達に極めて苦労し、国元からの補給線が文字通りの生命線であったことを生々しく伝えている。兵士たちは飢えと寒さに苦しみ、戦闘以前の問題として、その生存すら脅かされていた 18 。
島津軍もまた、同様の困難に直面したことは想像に難くない。1595年以前の志布志港のインフラでは、数万の兵士と数千の馬匹を長期間支えるための膨大な物資(兵糧米、弾薬、武具、飼葉など)を、効率的に集積し、保管し、船積みすることは極めて困難であったと推測される。当時の輸送船一隻の積載量は数百石程度であり、数万石に及ぶ兵糧を輸送するには、膨大な数の船と、それらを迅速に処理する港湾能力が必要であった 19 。しかし、現実には、荷役作業の遅延、雨ざらしにされた兵糧の腐敗、輸送船の港での滞留などが頻発し、前線への補給計画に深刻な支障をきたした可能性が高い。
文禄の役は、島津氏にとって、近世的な大規模兵站システムの構築を迫る巨大な「ストレス・テスト」であったと言える。この痛みを伴う経験を通じて、港湾インフラの脆弱性が単なる不便ではなく、軍事作戦の成否そのものを左右する致命的な弱点であることが、総大将であった義弘をはじめとする首脳部に痛いほど刻み込まれた。この教訓こそが、1595年の志布志港「整備」へと繋がる直接的な動機となったのである。
【表1】文禄・慶長の役における島津軍の兵站所要量(推定)
項目 |
動員兵員数 |
馬匹数(推定) |
月間必要兵糧米(石) |
年間必要兵糧米(石) |
年間必要弾薬(推定) |
島津軍 |
約 10,000人 |
2,000頭 |
約 417石 |
約 5,000石 |
鉛・火薬:数トン規模 |
注:兵糧米は一人一日五合、馬の飼料は含まず。弾薬量は戦闘頻度により大きく変動するが、鉄砲の集中運用を前提とした概算値。この表は、兵站という課題が持つ圧倒的な「物量」を可視化し、港湾機能の向上がいかに喫緊の課題であったかを示すものである。
第三章:束の間の和平と再軍備 ― 1595年、志布志港の胎動(時系列解説)
文禄の役と慶長の役の狭間に位置する文禄四年(1595年)は、日本の歴史、そして志布志港の歴史にとって、決定的な転換点となった。表面的には和平交渉が進む「束の間の平和」であったが、水面下では次なる大戦に向けた熾烈な準備が進められていた。この年、志布志港では、来るべき戦争を支えるための大規模な変革が胎動していた。
【表2】1595年前後の志布志港整備に関連する時系列年表
年月 |
豊臣政権の動向 |
島津氏の動向 |
朝鮮半島の情勢 |
志布志港での推定活動 |
1594年 (文禄3年) |
講和交渉が継続するも、再出兵の意思を固める。太閤検地を薩摩で実施。 |
島津義弘、朝鮮に在陣中。 |
明・朝鮮と日本の間で講和交渉が進む。 |
第一次出兵の補給拠点として稼働。 |
1595年 (文禄4年) |
秀次事件発生。秀吉、諸大名に軍備増強を暗に指示。 |
義弘、帰国。検地結果に基づき、島津家の実質的差配権を認められる。帖佐へ移る 5 。 |
講和交渉は継続するも、緊張状態が続く。 |
義弘の指揮下で、港湾の能力向上計画が策定され、普請奉行が任命される。 |
1595年夏~秋 |
講和使節の来日。 |
義弘、領国経営に着手。慶長の役に向けた軍備再編を本格化。 |
- |
蔵屋敷(倉庫群)、兵舎の建設、船着場(雁木)の拡張・新設工事が本格化。 |
1595年秋~冬 |
秀吉、明の使節と会見するも決裂。再出兵の意思を明確化。 |
整備された港湾施設を核に、薩南各地からの物資集積を開始。 |
- |
兵糧米、武具、弾薬などが続々と搬入され、備蓄が開始される。港は活況を呈す。 |
1596年 (文禄5年/慶長元年) |
慶長の役の動員命令(陣立書)発令の準備。 |
再渡海に向けた兵員の訓練、物資の最終的な集積。 |
日本の再侵攻に備え、軍備を増強。 |
出兵準備の最終段階。輸送船団の編成。 |
1597年 (慶長2年) |
慶長の役、開始。14万余の軍勢が渡海 20 。 |
義弘、一万の兵を率いて再び渡海。 |
日本軍の第二次侵攻開始。 |
島津軍の主たる出撃・兵站拠点として全面的に稼働を開始。 |
(1594年〜1595年初頭)義弘の帰国と新たな命令
文禄三年(1594年)から四年(1595年)にかけて、日本と明・朝鮮との間では講和交渉が進められていた。この流れの中で、朝鮮の戦陣にあった島津義弘は日本へ召還される 5 。彼の帰国は、単なる一将軍の帰還以上の意味を持っていた。彼は、第一次出兵で露呈した兵站システムの欠陥と、それをいかに克服すべきかという貴重な、そして痛みを伴う教訓を携えていたのである。
時を同じくして、豊臣秀吉は講和交渉の裏で、既に次なる戦いを見据えていた。交渉が決裂した場合に備え、諸大名に対しては再出兵を前提とした軍備の増強と兵站体制の再構築が、非公式ながらも厳命されていたと考えられる。島津氏もまた、この巨大な政治的・軍事的圧力に晒されていた。
(1595年春〜夏)計画策定と体制構築
この極めて重要な時期に、島津家内部で決定的な出来事が起こる。文禄四年(1595年)、前年から行われていた太閤検地の結果が確定し、その石高に基づき、島津義弘は秀吉から薩摩・大隅・日向諸県郡にまたがる所領の実質的な差配権を認められた 5 。これは、兄・義久に代わり、義弘が名実ともに島津家の軍事・統治の最高責任者となったことを意味する。これにより、彼は領内の人的・物的資源を動員し、大規模な事業を断行するための政治的正統性と絶対的な権限を獲得した。
この強固な権力基盤を背景に、義弘は直ちに次なる戦争への準備に着手した。その最優先課題の一つが、兵站拠点たる志布志港の抜本的な能力向上であった。江戸時代の薩摩藩において、大規模な土木事業の際には「普請奉行」が任命され、計画から実行までを統括した事例がある 21 。これに倣い、義弘もまた、信頼の置ける家臣を港湾整備の責任者(普請奉行)や輸送船団の管理者(船奉行)に任命し、具体的な計画策定を命じたと推測される。彼らの前には、文禄の役の失敗を繰り返さないために、いかにして港の物資処理能力を飛躍させるかという、困難な課題が突きつけられていた。計画には、動員すべき人夫の数、調達する木材や石材の量、工期、そして建設すべき施設の詳細な仕様などが盛り込まれていたであろう。
(1595年夏〜秋)「整備」事業の本格化
計画が固まると、志布志の地は巨大な建設現場と化した。事業の核心は、陸上施設と海上施設の両面における、能力の飛躍的向上にあった。
- 陸上施設の拡充: 文禄の役の最大の教訓は、集積した物資を安全かつ安定的に保管する必要性であった。数万石単位の兵糧米、火薬や鉛玉といった弾薬、武具、その他の軍需品を風雨から守り、効率的に管理するため、大規模な蔵屋敷(倉庫群)が港の背後地に次々と建設された。同時に、出港を待つ数千の兵員が駐屯し、訓練を行うための兵舎や練兵場も設けられた。これにより、志布志は単なる港から、兵站機能と駐屯機能を備えた複合的な軍事基地へと変貌を遂げた。
- 海上施設の改良: 荷役効率の抜本的改善は、兵站の生命線である輸送船の回転率を上げるために不可欠であった。数百石を積載可能な大型の軍用輸送船「安宅船」や兵糧輸送船が、沖合での非効率な艀作業を経ずに直接接岸し、迅速に荷物の積み下ろしを行えるよう、既存の雁木(船着場)が大幅に拡張され、あるいは新たな雁木が複数建設された 14 。これにより、一度に複数の船が同時に荷役作業を行えるようになり、港全体の処理能力は飛躍的に向上した。
- 港湾機能の維持: 港としての基本的な機能を維持するための作業も並行して行われた。特に、河口港である志布志にとって、河川が運ぶ土砂の堆積は、大型船の航行を妨げる深刻な問題であった。これを解決するため、人力を中心とした簡易的な浚渫(しゅんせつ)作業が行われ、安全な航路が確保された可能性も考えられる。
(1595年秋〜冬)薩南からの物資集積
秋が深まる頃には、整備された港湾施設はその真価を発揮し始める。義弘の厳命のもと、薩摩、大隅、そして日向の各地から、蔵入地の年貢米や、家臣たちが軍役として負担する兵糧米、鉄砲、刀槍、弾薬、各種資材が、陸路・海路を通じて続々と志布志港へと集積され始めた。これはまさに、利用者様が提示された「薩南の物資集積を促進」という状況が、現実のものとなった瞬間であった。
この時期の志布志の港町は、戦を前にした特有の活気と緊張感に包まれていたであろう。兵士、輸送を担う人夫、資材を納入する商人、全国から集められた船乗りたちでごった返し、昼夜を問わず喧騒が絶えなかったと想像される。この賑わいは、後に江戸時代に「志布志千軒のまち」と謳われる繁栄の原風景となった 8 。1595年の志布志港は、まさに次なる大戦に向けて、南九州の全ての力を凝縮し、蓄える巨大な心臓部として鼓動していたのである。
第四章:鬼石曼子(グイシーマンズ)を支えた生命線 ― 慶長の役における志布志港の機能
文禄四年(1595年)に行われた地道かつ大規模なインフラ投資は、そのわずか二年後、朝鮮半島の戦場において絶大な効果を発揮することになる。慶長の役における島津軍の驚異的な戦闘能力は、兵士個々の武勇や島津義弘の卓越した戦術眼だけでなく、志布志港を起点とする安定した兵站線によって支えられていた。
兵站拠点としての本格稼働
慶長二年(1597年)、豊臣秀吉の号令一下、慶長の役が開始されると、1595年にその能力を飛躍的に向上させた志布志港は、島津軍の主たる兵站拠点として全面的に機能し始めた。一万の兵員とそれを支える膨大な物資は、整備された蔵屋敷に集積され、拡張された船着場から効率的に輸送船へと積み込まれた。そして、ここから対馬を経由し、朝鮮半島南岸の拠点へと、途切れることのないピストン輸送が行われた 20 。この安定した補給線こそが、異国の地で戦う島津軍の生命線であった。
泗川の戦いと兵站の勝利
志布志港の兵站拠点としての真価が最も劇的に証明されたのが、慶長三年(1598年)十月の泗川の戦いである。この戦いで、島津義弘が率いるわずか七千の兵は、董一元率いる数万(一説には二十万とも伝わる)の明・朝鮮連合軍を迎え撃ち、これを撃破するという、世界戦史的にも稀な大勝利を収めた 5 。この勝利により、義弘は敵から「鬼石曼子(グイシーマンズ)」、すなわち鬼島津と畏怖されることになる。
この奇跡的な戦勝の背景には、単に義弘の卓越した戦術指揮能力があっただけではない。それは、兵站の勝利でもあった。島津軍の戦術の核は、お家芸とも言える「釣り野伏せ」と、当時最新鋭の兵器であった鉄砲の集中運用にあった。特に泗川の戦いでは、城に籠る島津軍が、押し寄せる大軍に対して鉄砲の一斉射撃を浴びせかけ、敵の混乱を誘った上で打って出たとされる 26 。この戦術は、必然的に大量の火薬と鉛玉を消費する。もし弾薬の補給に不安があれば、これほど潤沢な火力投射は不可能であった。1595年の港湾整備によって確立された、志布志港を起点とする安定した補給線が、前線での弾薬の大量消費を可能にし、島津軍の戦術の選択肢を広げ、ひいては泗川での圧倒的勝利を導いたのである。後方の地道なインフラ投資が、最前線の戦場で決定的な軍事的優位を生み出した、その典型例であった。
戦争の暗部:捕虜と戦利品の陸揚げ港
しかし、志布志港は輝かしい武功を支えるだけの場所ではなかった。それは同時に、戦争がもたらす悲劇と残虐性を象徴する場所でもあった。秀吉は諸大名に対し、朝鮮の技能を持つ人々を日本へ連行するよう命じていた 20 。この命令に基づき、島津義弘もまた、帰国に際して多くの朝鮮人陶工を薩摩へ連れてきた。彼らは後に、世界的に名高い薩摩焼の礎を築くことになるが、その彼らが日本の土を最初に踏んだ港の一つが、この志布志であった可能性は極めて高い 15 。彼らにとって、志布志港は希望の地ではなく、故郷を奪われた悲しみの始まりの地であった。
さらに、当時の武功の証として、敵兵の鼻を削ぎ、それを塩漬けにして秀吉のもとへ戦果報告として送る「鼻斬り」という慣行があった。島津家記には、泗川の戦いで討ち取った三万八千余の死体から鼻を削ぎ、十個の大樽に塩漬けにして秀吉に送ったという、凄惨な記録が残されている 18 。これらのおびただしい数の「戦利品」もまた、志布志港を経由して大坂へと輸送された。この港は、兵站という戦争の動脈であると同時に、その最も暗い側面を映し出す鏡でもあったのである。
終章:兵站拠点化がもたらした遺産
「志布志港整備(1595)」は、豊臣政権による巨大な対外戦争という国家的要請に応える形で実行された、島津氏による一大戦略的インフラ投資であった。それは、戦国時代の局地戦とは全く異なる、近世的な大規模戦争の形態に対応するための、兵站システムの一大改革であった。この軍事的な必要性から生まれた変革は、意図せざる形で志布志の、そして薩摩藩の未来に、永続的な遺産を残すことになった。
軍事インフラから商業インフラへ
慶長三年(1598年)の秀吉の死により、足掛け七年に及んだ朝鮮出兵は終結する。関ヶ原の戦いを経て江戸時代に入り、世が太平となると、戦争のために建設・拡張された志布志港のインフラは、その役割を大きく変えることになった。軍事目的で建設された大規模な蔵屋敷群、効率的な荷役を可能にする拡張された船着場は、そのまま平和利用へと転用されたのである。
特に、江戸時代の薩摩藩が深刻な財政難を克服するために活路を見出した、琉球王国を介した中国(清)との密貿易において、志布志港はその真価を発揮した。九州南東端に位置し、琉球への最短航路に近いという地理的条件と、戦国末期に整備された高度な港湾機能が組み合わさり、志布志は密貿易の中心的な拠点となったのである 3 。朝鮮出兵のために集積された物資を保管した倉庫は、今や密貿易で得られた莫大な利益をもたらす唐物や琉球の産品で満たされた。この交易によって港町は空前の繁栄を迎え、その賑わいは「志布志千軒のまち」と謳われるほどであった 4 。
近現代への連続性
戦国末期の軍事拠点化によって得られた港湾機能の飛躍的向上は、江戸時代の商業的繁栄の直接的な礎となった。そして、その歴史的蓄積は、明治維新後の開国政策や陸上輸送の発達による一時的な衰退期 3 を乗り越え、昭和以降の近代港湾としての再開発へと力強く繋がっていく 4 。
今日の志布志港が、南九州の物流を支える重要港湾、さらには穀物の国際的なハブ港である国際バルク戦略港湾として機能している姿 9 は、決して現代だけの現象ではない。それは、1595年の「整備」に端を発する、戦略的拠点としての長い歴史の延長線上にある。
ここに、歴史の逆説的なダイナミズムを見出すことができる。1595年、戦争という破壊的行為を遂行するという軍事的な必要性に迫られて行われたインフラ投資は、結果として、その後二百数十年にわたる志布志の商業的繁栄の「種」を蒔くことになった。戦争のために集められた資本(人、物、金)が、平和な時代の経済活動の基盤へと転換される「戦争の配当(War Dividend)」とも呼べる現象が起きたのである。この視点に立つとき、「志布志港整備(1595)」は、単なる戦国時代の一幕ではなく、志布志という都市の近世から近現代に至るまでの発展の軌道を決定づけた、極めて重要な画期であったと結論付けることができる。それは、軍事史と経済史を架橋し、より高次の歴史的理解を提供する、稀有な事例と言えよう。
引用文献
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- 薩藩旧記雑録|日本歴史地名大系・国史大辞典 - ジャパンナレッジ https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=800
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- 島津義弘 文禄・慶長の役での活躍 http://www.shimazu-yoshihiro.com/shimazu-yoshihiro/shimazu-yoshihiro-keichoeki.html
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- 志布志港の歴史 https://www.city.shibushi.lg.jp/site/kigyouguide/1663.html
- 歴史でみる志布志港 - 九州地方整備局 港湾空港部 https://www.pa.qsr.mlit.go.jp/shibushi/history/
- 港の山城 志布志城(内城)跡 https://sirohoumon.secret.jp/shibusi.html
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- 21世紀に伝えたい『港湾遺産』|一般社団法人日本埋立浚渫協会 https://www.umeshunkyo.or.jp/heritage-backnumber/09mitarai/data.html
- 朝鮮出兵と薩摩焼 - 鹿児島県 http://www.pref.kagoshima.jp/reimeikan/josetsu/theme/chusei/korea/index.html
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- 志布志港 https://www.phaj.or.jp/distribution/link/desc128/117.pdf