惣無事令(1585)
天正十三年、豊臣秀吉は惣無事令を発令。大名間の私戦を禁じ、豊臣政権の裁定に委ねさせた。九州平定や小田原征伐で天下統一を推進し、近世国家の基礎を築いた。
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天下統一の最終布石―豊臣「惣無事令」の虚実とリアルタイム展開
序論:惣無事令とは何か―通説と学術的論争の最前線
天正13年(1585年)、豊臣秀吉によって発せられたとされる「惣無事令」は、一般に「大名間の私的な戦闘(私戦)を禁じ、全国的な講和を図る」ための法令として理解されている 1 。この理解は、歴史学における通説的見解の核心を的確に捉えている。すなわち、秀吉が天正13年に関白の地位に就いたことを画期とし、天皇・朝廷という伝統的権威を背景に、全国の大名に対して領土紛争の解決を自らの裁定に委ねるよう命じた政策である 1 。その本質は、中世以来、武士社会の根幹にあった、武力によって自らの権利を実力で回復する「自力救済権」を国家レベルで否定し、すべての紛争解決を公権力に一元化しようとする、画期的な試みにあった 4 。これは、戦国大名がそれぞれの領国(分国)で定めた「喧嘩両成敗」の法理を、天下という広大な規模に拡大適用するものでもあった 2 。
この政策の射程は、大名間の紛争解決に留まらなかった。歴史家の藤木久志氏によって提唱された学説によれば、惣無事令は、百姓の武装を解除する「刀狩令」や、海上勢力の私的な活動を禁じる「海賊停止令」など、社会の各階層に向けられた一連の「豊臣平和令」の基調をなすものであり、戦国という時代そのものを終焉させるための包括的な平和構築政策であったと位置づけられている 4 。
しかし、近年の研究では、この通説に一石を投じる有力な批判的見解が提示されている。それは、「惣無事令」という名称を持つ単一の法令が、全国に向けて一斉に公布されたわけではない、という指摘である 8 。この見解によれば、秀吉が発したとされる文書群は、特定の紛争当事者、特に関東・奥羽の諸大名に個別に出された書状の集合体に過ぎない。そして、そこで用いられている「惣無事」という言葉も、「和平」や「和睦」を意味する当時の東国地方における慣用句であり、秀吉独自の画期的な法概念ではなかったとされる 9 。
この学術的論争は、単なる歴史用語の定義問題に止まらない。それは、豊臣政権の本質を、法と権威に基づいて新たな秩序を構築しようとした「近世的」な政権と見るのか、それとも依然として武力を背景に敵対勢力を屈服させていった「戦国的」な政権の延長と見るのか、という日本の歴史における大きな転換点をいかに評価するかという根源的な問いに繋がっている 8 。
本報告では、この学術的論争を踏まえ、惣無事令を単一の法令としてではなく、「天下の惣無事の実現」を大義名分とする豊臣政権の一貫した政策、あるいは天下統一を完成させるための高度な外交・軍事戦略として捉える。そして、その理念が、天正13年(1585年)から天正18年(1590年)の小田原征伐に至るまでの激動の数年間に、九州、東国という各地域で具体的にどのように展開され、機能し、あるいは抵抗に遭ったのかを、リアルタイムな時系列に沿って徹底的に解明することを目的とする。
表1:惣無事令を巡る主要年表
年月 |
出来事 |
天正13年(1585年) |
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7月 |
豊臣秀吉、関白に就任。 |
8月 |
四国平定。長宗我部元親が降伏し、土佐一国を安堵される。 |
10月 |
秀吉、九州の島津氏・大友氏らに停戦命令(九州惣無事令)を発令。 |
12月 |
秀吉、徳川家康を介して関東・奥羽の諸大名に惣無事令を通達。 |
天正14年(1586年) |
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4月 |
大友宗麟、大坂城で秀吉に謁見し、島津討伐の援軍を要請。 |
12月12日 |
戸次川の戦い。豊臣軍先鋒隊が島津軍に大敗。 |
天正15年(1587年) |
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3月 |
秀吉、約20万の大軍を率いて九州へ出陣。 |
4月17日 |
根白坂の戦い。豊臣秀長軍が島津軍に決定的な勝利を収める。 |
5月8日 |
島津義久、秀吉に降伏。九州平定が完了。 |
10月 |
上杉景勝、新発田重家を滅ぼし越後を平定(新発田重家の乱終結)。 |
天正17年(1589年) |
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7月 |
秀吉、北条氏と真田氏の沼田領問題に裁定を下す(沼田裁定)。 |
10月下旬 |
北条方の猪俣邦憲が真田方の名胡桃城を奪取(名胡桃城事件)。 |
11月 |
秀吉、惣無事令違反を理由に北条氏討伐を決定し、全国に動員令を発令。 |
天正18年(1590年) |
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4月3日 |
小田原城包囲戦が開始。 |
7月5日 |
北条氏直が開城し降伏。北条氏が滅亡し、天下統一が完成。 |
第一章:発令の胎動―天正13年(1585年)の政治状況と法的基盤
関白就任の画期的意義
天正13年(1585年)7月11日、豊臣秀吉は宮廷内での複雑な政治工作を経て、前関白・近衛前久の猶子(養子の一形式)となることで、関白の地位に就いた。これは日本の歴史上、極めて異例の出来事であった。武家の棟梁たる征夷大将軍の職が源氏の血筋を伝統的な資格としたのに対し、関白は藤原氏の嫡流(五摂家)のみが就任できる公家社会の最高位であったからである 3 。
この関白就任は、秀吉の天下統一事業において決定的な意味を持った。彼はこれにより、単なる一武将から、天皇を輔弼し、その権威を代行して天下に号令する公的な存在へと昇華した 11 。以後、秀吉が発する命令は、一個人の私的な意思ではなく、朝廷、ひいては国家の公的な意思としての性格を帯びることになる。後に九州、関東、奥羽の諸大名に突きつけられる惣無事令が、単なる強者の要求に終わらず、従わぬ者を「朝敵」として討伐しうるほどの絶大な権威的裏付けを持ったのは、まさにこの関白という地位にその根拠があった 3 。
四国平定(1585年)―惣無事令のプロトタイプ
秀吉が惣無事令という理念を天下統一の道具として本格的に用いる前夜、その原型ともいえる事例が、関白就任とほぼ同時期に行われた四国平定に見出せる。当時、四国の大半を制圧していた長宗我部元親に対し、秀吉は四国の領有権を巡る元親の主張を認めず、服属を要求した。この時点で、領土問題の最終的な裁定権は自らにあるという論理が明確に展開されていた。
元親がこれを拒否すると、秀吉は弟の羽柴秀長を総大将とする10万を超える大軍を派遣。圧倒的な兵力差の前に元親は戦意を喪失し、天正13年8月、降伏を受け入れた 12 。その後の戦後処理において、秀吉は元親に対し、土佐一国のみの領有を安堵する一方、元親がそれまで支配していた阿波、讃岐、伊予の三国を没収。それらを蜂須賀家政や仙石秀久といった自らの配下の武将に再分配した 12 。
この一連のプロセスは、後に惣無事令の適用において繰り返されるパターンを明確に示している。すなわち、①豊臣政権への服従と紛争裁定権の承認を要求し、②従わない者には圧倒的な武力による「成敗」を行い、③服従した者に対しては、領地の一部を保証(安堵)しつつも、その領土の範囲を一方的に画定(国分)し、豊臣体制に組み込む、という流れである。秀吉は、武力で敵を制圧した後に、その戦後処理を「関白による公的な裁定」という形で正当化する手法を、この四国平定において確立した。単なる武力による征服を、公的な秩序形成へと昇華させるこの手法は、惣無事という理念が、武力行使の後に適用されることで初めて完成することを示唆している。
第二章:九州平定―惣無事令、最初の試練【時系列分析】
惣無事令が、天下統一のための明確な国家戦略として初めて本格的に適用され、その有効性と過酷さが示されたのが、九州平定であった。この過程は、理念の提示から抵抗、武力による執行、そして新たな秩序の創出に至るまでのダイナミックな展開を、時系列で克明に示している。
発端:天正13年(1585年)秋―九州の戦雲と秀吉の介入
当時の九州は、薩摩の島津氏がその勢力を急速に拡大し、天下統一の帰趨とは別に、独自の地域統一を成し遂げようとしていた。天正6年(1578年)の耳川の戦いで豊後の大友氏に大勝して以降、天正12年(1584年)には沖田畷の戦いで肥前の龍造寺氏をも破り、九州の覇権は島津氏の手に帰せんとしていた 13 。一方、かつての九州探題として北九州に君臨した大友氏は衰退の一途をたどり、島津氏の侵攻によってまさに存亡の危機に瀕していた 15 。
この九州の情勢に対し、関白となった秀吉は即座に介入を開始する。天正13年10月、秀吉は朝廷の権威を背景に、九州の諸大名、特に紛争の当事者である島津義久と大友宗麟に対し、即時停戦を命じた 17 。これは「九州惣無事令」とも呼ばれ、遠隔地である九州の政治動向に、中央政権が直接的に、かつ最終的な裁定者として関与することを宣言するものであった 8 。
抵抗と要請:天正14年(1586年)―島津の論理、大友の戦略
秀吉の停戦命令に対し、島津氏と大友氏は対照的な反応を見せた。九州統一を目前にしていた島津義久は、この命令を事実上拒否する。その背景には複数の理由があった。第一に、農民から身を起こした秀吉を「由来なき仁(素性の知れない者)」と見なし、その裁定権そのものを認めなかったという、伝統的な門地を重んじる島津氏の自負心があった 19 。第二に、島津氏の立場からすれば、現在の紛争の原因は、かつて織田信長の仲介で結ばれた和睦(豊薩和平)を一方的に破り、侵攻を繰り返してきた大友側にあるという、自らの行動の正当性を主張する論理があった 17 。
一方、自力での防衛が困難となっていた大友宗麟にとって、秀吉の介入はまさに起死回生の一手であった。宗麟はただちに惣無事令を受諾。さらに天正14年4月5日には、老齢の身を押して自ら大坂城に赴き、秀吉に謁見。島津氏の非道を訴え、豊臣軍の派遣を正式に要請した 20 。これは、もはや一地方の武力のみで覇権を争う時代が終わり、中央の巨大な権威をいかに利用して自家の存続を図るかという、新たな時代の到来を象徴する戦略的な行動であった。
島津氏の抵抗は、秀吉にとって九州出兵の絶好の口実となった 20 。秀吉は宗麟の要請を快諾し、中国・四国の毛利輝元、小早川隆景らに、九州への先鋒としての出陣を命じたのである 22 。
前哨戦:天正14年後半―豊臣軍先鋒、九州上陸
秀吉本隊の到着前に九州全土を制圧すべく、島津軍は天正14年6月、筑前・豊後方面へ最後の大攻勢を開始した。高橋紹運が玉砕した岩屋城の戦いをはじめ、各地で激戦が繰り広げられた 18 。これに対し、秀吉軍の先鋒として毛利・小早川の両氏、そして四国平定で服属したばかりの長宗我部元親・信親父子らが九州に上陸し、大友氏の救援に向かった 20 。
しかし、緒戦は豊臣方の惨敗に終わる。同年12月12日、豊後戸次川において、豊臣軍の軍監であった仙石秀久が功を焦り、無謀な渡河攻撃を強行。これを待ち受けていた島津家久の巧みな釣り野伏せ戦法の前に、豊臣軍先鋒隊は壊滅的な打撃を受けた。この戦いで長宗我部元親の嫡男・信親や十河存保らが討死し、大友方の拠点であった鶴賀城も落城した 18 。この勝利により島津軍の士気は天を衝き、豊後府内城を占拠。大友宗麟が籠る臼杵城にまで迫った 18 。
本戦:天正15年(1587年)春―秀吉、九州を席巻
戸次川での敗報は、秀吉に九州問題の完全な武力制圧を決意させた。天正15年(1587年)元旦、秀吉は九州侵攻のための部隊編成を発表。全軍を、弟・秀長が率いて豊後から日向へ南下する方面軍と、秀吉自身が率いて肥後へ進軍する本隊の二手に分け、総勢20万とも25万ともいわれる空前の大軍を動員した 18 。
3月1日、秀吉は京を発ち、同月28日には小倉城に入城。豊臣軍本隊による大規模な南進作戦が開始された 18 。この圧倒的な軍事力を前に、これまで日和見をしていた、あるいは島津氏に従っていた九州北部・中部の国人領主たちは、雪崩を打って豊臣方に寝返った。4月3日には筑前の有力大名であった秋月種実も降伏し、島津氏は急速に孤立していった 18 。
戦局の転換点となったのは、4月17日の根白坂の戦いであった。日向方面で豊臣秀長軍と対峙していた島津軍は、起死回生を図り決死の夜襲を敢行。しかし、秀長軍はこれを予期しており、周到に構築した陣城でこれを迎撃。藤堂高虎、黒田官兵衛らの活躍もあり、島津軍はほぼ壊滅状態に陥った 18 。この一戦で、島津氏の組織的な抵抗は事実上終焉を迎えた。
終結:天正15年5月―島津の降伏と九州国分
根白坂での大敗を受け、島津義久はついに抵抗を断念。天正15年5月8日、剃髪して僧形となり、泰平寺に陣を構える秀吉のもとに出頭し、正式に降伏した 18 。
秀吉は義久の命を助けるという寛大な処置を見せる一方で、戦後処理においては惣無事令の論理を徹底した。すなわち、島津氏の領地を薩摩・大隅・日向諸県郡のみに大幅に削減。九州のその他の広大な地域は、豊臣配下の大名や、島津から離反し秀吉に味方した国人領主たちに新たに再分配された 8 。これを「九州国分」と呼ぶ。これにより、九州における各大名の領土(国分)は、もはや自らの武力によってではなく、完全に豊臣政権の裁定によって決定づけられることとなった。
九州平定は、惣無事令が単なる理想論ではなく、圧倒的な軍事力を背景に、抵抗勢力を討伐し、新たな秩序を強制的に創出するための強力な装置であることを証明した。まず「停戦命令」という理念(法的根拠)を提示し、相手がそれに従わないことを確認した上で、圧倒的な「実力」を行使して屈服させ、最後に「国分」という形で再び理念(公的裁定)によって事態を収拾する。この一連のプロセスは、法的手続きを踏んだ征服とも言えるものであり、後の天下統一事業のモデルケースとなったのである。
第三章:東国への波及―秩序形成と抵抗の諸相【時系列分析】
九州平定と並行して、秀吉は未だ豊臣政権の直接的な影響下にない東国(関東・奥羽)に対しても、惣無事令の論理を適用し、その秩序下に組み込もうと試みていた。しかし、その手法は九州に対するものとは異なり、より間接的かつ段階的なものであった。
関東・奥羽への通達:天正13年12月―家康を介した秩序の宣告
天正13年(1585年)12月3日、秀吉は常陸の多賀谷氏をはじめとする関東の複数の国人領主に対し、重要な内容を含む書状を送達した。その骨子は、「関東、ならびに奥両国(陸奥・出羽)に至るまでの惣無事(和平)については、この度、徳川家康に申し付けたので、異議なくその指示に従うように。もしこれに背く者がいれば、必ず成敗する」というものであった 7 。
これは、九州に対して直接命令を発したのとは対照的なアプローチである。秀吉は、小牧・長久手の戦いを経てこの年に臣従したばかりの徳川家康を、関東・奥羽における豊臣政権の「取次役」に任命した。そして、家康の権威と軍事力を利用して、東国の諸大名間の紛争を調停させ、豊臣政権が主導する秩序を間接的に浸透させようとしたのである 24 。この背景には、北条氏の北進に脅かされていた佐竹氏や宇都宮氏など、北関東の諸大名の多くが、豊臣政権による介入をむしろ望んでいたという政治状況もあった 24 。
服従と利用:上杉景勝と新発田重家の乱―惣無事令の大義名分
惣無事令が、既存の大名に「大義名分」を与えることで、地域紛争の解決を促進した顕著な例が、越後における新発田重家の乱である。上杉謙信の死後に勃発した御館の乱以来、上杉景勝とその重臣であった新発田重家の対立は7年にも及ぶ内乱状態に陥っていた 25 。
天正14年(1586年)、上洛して秀吉に臣従した景勝は、秀吉から正式に「越後の平定」を命じられる 28 。この瞬間、景勝と重家の争いは、単なる上杉家の内紛から、豊臣政権の天下統一事業の一環へとその性格を大きく変えた 28 。景勝の重家討伐は、豊臣政権が保証する「惣無事」を乱す反逆者を討つ「公戦」となり、景勝は絶大な政治的正当性を手にしたのである。当初、秀吉は重家の助命も考えていたが、重家が秀吉の斡旋に従わなかったため、最終的に討伐を命じた 28 。
この大義名分を得た景勝は、天正15年(1587年)に総攻撃を開始。同年10月には重家の本拠・新発田城を陥落させ、長年の内乱に終止符を打った 28 。これは、秀吉が自らの手を下すことなく、服従した大名に地域の秩序回復を委ね、その権力を利用して支配を浸透させるという、巧みな統治戦略の成功例であった。
静観と緊張:伊達・佐竹・蘆名―水面下の駆け引き
一方、奥羽地方では、惣無事令はより複雑な様相を呈した。当時、奥羽では伊達政宗が急速に勢力を拡大しており、南奥の覇権を巡って佐竹義重や会津の蘆名氏らと激しい抗争を繰り広げていた。秀吉は、この紛争にも介入の姿勢を見せ、佐竹氏に対し、伊達・蘆名間の「無事(和平)」を実現するよう命じる書状を送っている 30 。
しかし、九州や越後のように直接的な軍事介入や明確な代理人の指名には至らず、諸大名は秀吉の意向を窺いつつも、水面下では自家の勢力拡大の機会を虎視眈々と狙うという、一触即発の緊張状態が続いた。特に伊達政宗は、惣無事令を半ば無視する形で周辺勢力への侵攻を続け、秀吉の権威に公然と挑戦する姿勢を見せていた。
東国への惣無事令の適用は、九州における「直接統治」モデルとは異なり、徳川家康や上杉景勝といった既存の有力大名を代理人として利用する「間接統治」の色彩が強かった。これは、秀吉が各地域の政治情勢や力関係に応じて、硬軟織り交ぜた柔軟な支配戦略を駆使していたことを示している。惣無事令は、画一的な法令というよりも、こうした階層的な支配構造の頂点に秀吉を位置づけ、その権威を末端まで浸透させるための、極めて有効な政治的・理念的ツールとして機能したのである。
第四章:小田原征伐―惣無事令の完成と天下統一【時系列分析】
惣無事令という理念が、最終的に日本の戦国時代に終止符を打つための「執行装置」として機能したのが、天正18年(1590年)の小田原征伐であった。この一連の出来事は、豊臣政権の秩序に最後まで従わなかった巨大勢力が、いかにして惣無事令違反を口実に討伐され、天下統一が完成したかを如実に物語っている。
火種:天正17年(1589年)以前―沼田領問題の紛糾
小田原征伐の直接的な引き金となったのは、上野国沼田領の領有権を巡る長年の紛争であった。この地は、かつて武田氏の支配下にあったが、武田氏滅亡後の天正壬午の乱以降、関東の覇者・北条氏と、信濃から上野へ勢力を伸ばす真田氏(当初は徳川、後に豊臣に直接臣従)との間で、激しい争奪戦が繰り広げられていた 31 。秀吉は、この根深い領土問題を解決することが、関東の雄である北条氏を豊臣政権に完全に服従させるための避けて通れない課題であると認識し、自らその裁定に乗り出した 32 。
裁定と違反:天正17年(1589年)―名胡桃城事件の勃発
天正17年7月、秀吉は関係者を京に呼び寄せ、最終的な裁定を下した。それは、係争地である沼田領を利根川で二分し、沼田城を含む東側の3分の2を北条氏に、真田氏伝来の地である名胡桃城を含む西側の3分の1を真田氏に与える、というものであった 32 。これにより、長年の紛争は公権力の裁定によって一応の解決を見たはずであった。
しかし、事態は急変する。同年10月下旬、この裁定によって北条方の城代が置かれた沼田城から、城代・猪俣邦憲の軍勢が出撃し、真田方の名胡桃城を謀略を用いて不法に奪取するという事件が発生したのである 35 。この「名胡桃城事件」は、秀吉が下した公的な裁定を、一方的な武力行使によって覆す行為であり、これ以上ないほど明白な惣無事令違反と見なされた 32 。
交渉決裂:天正17年11月―最後通牒と宣戦布告
名胡桃城奪取の報は、秀吉を激怒させた。秀吉は北条氏に対し、①事件の責任者である猪俣邦憲を処罰し、その首を差し出すこと、②当主の北条氏直、もしくは隠居の氏政が速やかに上洛し、釈明と臣従の意を示すこと、を厳しく要求した 31 。
しかし、北条方の対応は秀吉の期待を裏切るものであった。氏政・氏直父子は猪俣を処罰することなく庇い、上洛に関しても「年内の上洛は困難であり、来春に延期したい」などと、事実上の引き延ばしを図った 40 。この背景には、五代にわたって関東に君臨してきた北条氏の過剰な自負心と、秀吉の権威に対する根本的な過小評価があった 43 。
この時点で、交渉は事実上決裂した。天正17年11月24日、秀吉は北条氏討伐を最終的に決断し、全国の諸大名に対して小田原攻めのための動員令を発令した 32 。ただし、その後の研究では、秀吉が名胡桃城事件の報せが届く以前の10月10日の段階で、すでに兵糧の買い付けや諸大名への軍役割り当ての準備に着手していたことが指摘されている 41 。これは、名胡桃城事件が単なる「原因」ではなく、秀吉がすでに固めていた北条討伐の基本方針を実行に移すための、決定的な「口実」として利用された可能性が高いことを示唆している。討伐の真の原因は、個別の違反行為以上に、豊臣政権が志向する中央集権的秩序と、北条氏が固守しようとした地域的独立性との間の、構造的な対立そのものにあったのである。
執行:天正18年(1590年)3月~7月―天下総動員の小田原包囲
天正18年春、豊臣政権の総力を挙げた北条征伐が開始された。徳川家康、上杉景勝といった東国の大名はもとより、毛利氏、長宗我部氏、宇喜多氏など西日本の大名もことごとく動員され、その総勢は21万から22万という、日本の歴史上でも類を見ない大軍となった 37 。この戦への参加は、各大名にとって、豊臣体制の一員であることを内外に示し、新たな秩序の下での自家の存続を保証してもらうための「踏み絵」としての意味合いを持っていた。
豊臣軍は、難攻不落と謳われた小田原城を力攻めにするのではなく、長大な包囲網で完全に封鎖。同時に、関東各地に点在する北条氏の支城(八王子城、忍城、韮山城など)に対しても別働隊を派遣し、次々と攻略していった 45 。これにより、小田原城は完全に孤立無援となった。さらに秀吉は、小田原城を見下ろす石垣山に、わずか80日で本格的な城を築き上げ(石垣山一夜城)、北条方の戦意を心理的に打ち砕いた 37 。
滅亡:天正18年7月5日―北条氏の降伏と天下統一
3ヶ月以上にわたる籠城の末、兵糧の枯渇と援軍の望みが絶たれたことで、北条方は継戦不可能と判断。天正18年7月5日、当主・北条氏直は豊臣方に降伏し、小田原城は開城した 37 。
戦後処理において、秀吉は最後まで強硬に抵抗を主張したとされる隠居の氏政、その弟の氏照、そして重臣の大道寺政繁、松田憲秀に切腹を命じた。一方、当主であった氏直は、徳川家康の娘婿であったことなどから助命され、高野山へ追放処分となった 37 。
関東に100年間覇を唱えた巨大戦国大名・後北条氏の滅亡は、戦国時代の事実上の終焉を意味した。この報を受け、最後まで去就を決めかねていた奥羽の伊達政宗らも、死装束で秀吉のもとに出頭し臣従。ここに、豊臣秀吉による名実ともに天下統一が完成した。惣無事令は、その最終楽章を正当化し、執行するための、抗うことのできない強力な論理的武器として、その歴史的役割を全うしたのである。
結論:惣無事令が創出した新たな時代
豊臣秀吉が天下統一の過程で展開した「惣無事令」、すなわち大名間の私戦を禁じ、すべての紛争を豊臣政権の裁定に委ねさせるという一連の政策は、日本の歴史における一つの時代の終わりと、新たな時代の始まりを画する決定的な役割を果たした。
第一に、惣無事令は、約150年にわたって続いた戦国という「自力救済の時代」に終止符を打った 4 。大名が自らの武力によって領土を獲得し、紛争を解決するという中世的な社会原理は根本から否定され、日本は統一された公権力の下で秩序が維持される時代へと移行した。
第二に、惣無事令は、近世的な国家秩序の礎を築いた。大名の領地所有権は、もはや自力で獲得・維持するものではなく、天下人たる豊臣政権によって公的にその領有を認められ(所領安堵)、その境界が確定(国分)されるものへと、その本質を大きく変えた 46 。紛争解決は、武力による闘争ではなく、中央権力による「裁判」によって行われるという原則が確立され、これは後の江戸幕府による統治体制の根幹をなす理念となった 8 。
第三に、惣無事令の運用は、秀吉の卓越した政治戦略家としての一面を浮き彫りにする。本報告で詳述したように、この政策は国内に平和と秩序をもたらすという「平和令」としての側面を持つと同時に、政権に服従しない勢力を「天下の秩序を乱す者」として公的に討伐するための「征服の口実」としても、極めて有効に機能した 3 。九州平定や小田原征伐の過程は、秀吉の天下統一が、この「平和の理念」と「圧倒的な武力」という二つの要素を巧みに組み合わせることで達成された、壮大な政治的事業であったことを示している。
最終的に、惣無事令によって確立された「公権力による私戦の禁止と紛争裁定」という原則は、徳川幕府の武家諸法度へと明確に継承された。そして、それは260年以上にわたる「パックス・トクガワーナ(徳川の平和)」と呼ばれる長期安定政権の、法的・思想的な基盤を形成したのである。その意味で、惣無事令は単に戦国時代を終わらせただけでなく、その後に続く新たな時代の秩序原理そのものを創出した、日本の歴史における一大転換点であったと評価することができる。
引用文献
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- 【高校日本史B】「朝廷権威の利用と西の平定」 | 映像授業のTry IT (トライイット) https://www.try-it.jp/chapters-12757/lessons-12782/point-2/
- 豊臣秀吉の天下統一~戦闘モードから平和モードへ | 日本近現代史のWEB講座 http://jugyo-jh.com/nihonsi/jha_menu-2-2/hideyosi1/
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- Web版 有鄰 第420号 [座談会]小田原合戦 −北条氏と豊臣秀吉− /永原慶二・岩崎宗純・山口 博・篠﨑孝子 - 有隣堂 https://www.yurindo.co.jp/yurin/article/420
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- 【惣無事令発布と北条氏の対応】 - ADEAC https://adeac.jp/lib-city-tama/text-list/d100010/ht051250
- 豊臣平和令と戦国社会 https://tohoku.repo.nii.ac.jp/record/75593/files/L2S610052.pdf
- 秀吉株式会社の研究(2)惣無事令で担当を明確化|Biz Clip(ビズクリップ) https://business.ntt-west.co.jp/bizclip/articles/bcl00007-053.html
- こんにちは。日本史の岡上です。みなさんうまく 解答できましたか? 今回取り上げた東大日本 - 強者の戦略 https://tsuwamono.kenshinkan.net/way/pdf/09historyJ_04.pdf