最終更新日 2025-09-19

慶長使節ローマ謁見(1615)

1615年、慶長遣欧使節の支倉常長はローマ教皇パウルス5世に謁見し、ローマ市民権を得る栄誉に浴した。しかし、日本の禁教強化により通商交渉は実を結ばず、帰国後、常長は失意のうちに生涯を閉じた。
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慶長遣欧使節ローマ謁見(1615年):戦国時代の残光、世界史に刻まれた侍の軌跡

序章:暁闇の航海へ ― なぜ使節は送られたのか

17世紀初頭、世界は「大航海時代」のうねりの中にあった。スペインやポルトガルといった欧州列強が、キリスト教布教と貿易を両輪としてアジアへ進出。一方、日本は関ヶ原の戦いを経て徳川の治世が始まったものの、大坂には豊臣家が依然として勢力を保ち、天下は未だ完全に静謐には至っていなかった。戦国の気風と緊張感が色濃く残るこの時代、欧州と日本は、互いにとって未知と可能性、そして警戒の対象であった 1

この混沌とした時代の日本で、ひときわ大きな野心を抱く人物がいた。奥州の覇者、「独眼竜」伊達政宗である。天下統一の夢破れ、徳川の治世下で一大名としての道を歩み始めた彼であったが、その胸中には天下への渇望と、未知なる世界への強い好奇心が燃え続けていた 4 。政宗の南蛮文化への関心は、単なる異国趣味に留まらなかった。彼はそれを、自らの領国経営、そして政治的野望を達成するための切り札と捉えていたのである 6

この伊達政宗の野望に、一人のスペイン人宣教師の野心が共鳴する。フランシスコ会のルイス・ソテロである。当時、日本のキリスト教布教は先行するイエズス会が大きな影響力を持っていた。ソテロは、イエズス会に対抗し、フランシスコ会の日本における主導権を確立するため、ローマ教皇から直接、布教の権威を得ることを画策していた 1 。政宗が持つ政治力と、自らが持つ欧州へのパイプ。両者の利害は、壮大な「遣欧使節派遣」という計画において奇跡的な一致を見た 8

しかし、この計画にはもう一人、重要なプレイヤーが存在した。大御所・徳川家康である。潜在的な脅威である政宗の独断的な外交を、なぜ家康は許可したのか。その背景には、家康自身の深謀遠慮があった。家康もまた、スペイン領メキシコ(ヌエバ・エスパーニャ)との貿易や、当時世界最先端であったその鉱山技術に強い関心を抱いていたが、自らが行った交渉は不調に終わっていた 7 。政宗の申し出は、家康にとって渡りに船であった。彼は、この計画が成功するとは考えていなかったかもしれない。だが、「万が一成功すれば、その果実を幕府が享受すればよい」という打算があったと推測される. 7 また、幕府の船奉行である向井将監を監督につけることで、計画の全容を自らの掌握下に置こうとする老獪さも見せている 1

興味深いのは、家康がこの使節派遣を許可した1613年という時期である。彼は前年の1612年に天領へ、そしてこの年には全国へとキリスト教禁教令を発布し、国内のキリスト教徒への弾圧を強化する方向へ大きく舵を切っていた 10 。この一見矛盾した二つの政策――キリスト教徒を弾圧しながら、カトリックの総本山に使節を送ることを許可する――の並行は、家康の複雑な対外戦略を物語っている。彼は宗教勢力を国内統治の脅威と見なす一方で、貿易がもたらす実利は手放したくなかったのである 16

かくして、慶長遣欧使節という前代未聞の計画は、複数の利害関係者による「同床異夢」のプロジェクトとして始動した。政宗は貿易の先に軍事同盟と天下を見据え、ソテロは布教の主導権を、家康は実利の獲得と政宗の監視を狙っていた。彼らは「ヨーロッパに使節を送る」という一点で合意したが、その先に描く未来は全く異なっていた。この根本的な目的の不一致こそが、後に使節団を待ち受ける数奇な運命の伏線となるのである。この使節派遣は、単なる江戸初期の外交ではなく、中央の権力に完全には服従しない戦国武将・伊達政宗が、その合従連衡の論理を世界規模に拡大して仕掛けた「戦国時代の延長戦」であったと言えよう。

表1:慶長遣欧使節 主要関係者一覧

人物名

立場

使節派遣における目的・役割

特記事項

支倉常長(はせくら つねなが)

仙台藩士(副使)

使節団の実質的な責任者。主君・政宗の命令を遂行し、外交交渉にあたる。

600石の中級武士。朝鮮出兵の経験を持つ。冷静沈着な性格と伝わる 4

ルイス・ソテロ

フランシスコ会宣教師(正使)

使節派遣の発案者の一人。通訳兼案内役。ローマ教皇から布教の権威を得ることを目指す。

日本語に堪能。政宗の野心と自らの宗教的野心を結びつけた 7

伊達政宗(だて まさむね)

仙台藩主

使節派遣の最高責任者。メキシコとの直接貿易、スペインとの軍事同盟、天下への野望など多層的な目的を持つ。

最後の戦国武将とも評される野心家。南蛮文化に強い関心があった 4

徳川家康(とくがわ いえやす)

大御所(日本の実質的最高権力者)

使節派遣の公認者。貿易の実利獲得と政宗の動向監視を目的とする。

キリスト教禁教令を強化しつつ、使節派遣を許可するという二面的な政策をとった 7

セバスティアン・ビスカイノ

スペインの探検家・大使

使節船の建造と航海を技術的に支援。日本近海の金銀島探索という密命も帯びていた。

彼の乗船が難破したことが、政宗による使節船建造の直接的なきっかけの一つとなった 1

フェリペ3世

スペイン国王

使節団の主要な交渉相手の一人。

当時、世界に広大な植民地を持つスペイン帝国の君主 18

パウルス5世

ローマ教皇

使節団の最終目的地であり、最高位の交渉相手。

カトリック世界の精神的支柱であり、その承認は絶大な権威を持っていた 18

第一部:サン・ファン・バウティスタ号、太平洋を征く

表2:慶長遣欧使節 関連年表(1611年~1624年)

年月

使節団の動向

日本の国内情勢

ヨーロッパの関連情勢

1611年

ビスカイノ来日、政宗と接触。慶長大津波発生。

1612年

幕府、天領に禁教令を発布(岡本大八事件が契機)。

1613年

10月28日:月浦を出帆。

幕府、禁教令を全国に拡大。

1614年

1月28日:メキシコ・アカプルコ到着。 3月-5月:メキシコシティ滞在。 6月10日:ベラクルスを出港。 10月5日:スペイン上陸。

大坂冬の陣 勃発(11月~)。

1615年

1月30日:スペイン国王フェリペ3世に謁見。 2月17日:支倉常長、マドリードで受洗。 11月3日:ローマ教皇パウルス5世に謁見。 11月20日:ローマ市民権を授与される。

大坂夏の陣、豊臣氏滅亡(5月)。 元号が「元和」に改元。 武家諸法度、禁中並公家諸法度 発布。

1616年

ローマを出発し、再びスペインへ。

徳川家康 死去。 明・清以外の外国船の寄港を長崎・平戸に限定。

1617年

7月4日:スペインを出発し、帰国の途へ。

1618年

8月10日:フィリピン・マニラに到着。 (約2年間滞在)

三十年戦争 勃発(~1648年)。

1619年

京都でキリシタン52名が火刑(京都の大殉教)。

1620年

9月:長崎経由で仙台に帰国。

仙台藩、キリシタン禁教の高札を立てる。

1622年

8月7日(元和8年7月1日):支倉常長 死去。

長崎でキリシタン55名が処刑(元和の大殉教)。

1624年

ルイス・ソテロ、日本に密入国後捕らえられ、火刑により殉教。

第一章:月浦からの出帆(1613年10月28日)

慶長遣欧使節の壮大な旅は、一隻の船から始まった。その名は「サン・ファン・バウティスタ号」。この船は、単なる交通手段ではなかった。それは、政宗の野心と日本の技術力の結晶体であった。建造の直接的なきっかけは、スペイン大使セバスティアン・ビスカイノの来日と、彼の乗船が嵐で大破したことであった 1 。帰国できなくなったビスカイノが持つ先進的な航海・造船技術に目をつけた政宗は、彼と契約を結び、幕府から派遣された船奉行・向井将監配下の船大工たちの協力も得て、自領で前代未聞の大型洋船の建造に着手したのである 1

その規模は驚異的であった。大工800人、鍛冶700人、雑役3000人という膨大な人員が動員され、わずか45日間で完成したと記録されている 1 。全長55メートル、排水量500トンに及ぶこの木造ガレオン船は、当時の日本で建造された船としてはもちろん、世界的に見ても最大級のものであった 19 。これは、戦国時代を通じて培われた日本の高度な造船技術が、西洋の設計思想と融合した記念碑的産物であり、政宗の計画がいかに壮大であったかを物語る動かぬ証拠であった。

慶長18年9月15日(西暦1613年10月28日)、サン・ファン・バウティスタ号は、牡鹿半島の月浦(現在の宮城県石巻市)の港から、静かに滑り出した 22 。この船には、実に多様な人々が乗り合わせていた。使節団の正使は、計画の発案者の一人であるルイス・ソテロ。副使には、政宗の家臣・支倉六右衛門常長が任じられた 1 。この序列は、交渉相手であるカトリック国への配慮から聖職者であるソテロを表向きの長としたもので、実質的に日本人一行を率いるのは常長の役目であった 19

この大役に抜擢された支倉常長は、600石取りの中級藩士であり、決して藩の重臣ではなかった 4 。しかし、彼は文禄の役(朝鮮出兵)で異国の地を踏んだ経験を持つ歴戦の武将であり、その真面目で冷静沈着な性格は、政宗から深く信頼されていたとみられる 4 。一方で、当時のイエズス会宣教師の報告には、より冷徹な分析が記されている。常長の父がかつて罪を犯した経緯があり、政宗にとって常長は、万が一この壮大な計画が幕府の咎めを受けたり、失敗に終わったりした際に、全ての責任を負わせて切り捨てやすい「軽輩」の駒であった、というのである 7

船内には彼らの他にも、常長に随行する仙台藩士十数名、航海を技術面で支えるビスカイノらスペイン人、そして幕府の目付役として乗り込んだ向井将監の家人、さらには一攫千金を夢見て海外貿易に乗り出した堺の商人・伊丹宗味ら、総勢180余名がひしめき合っていた 4 。この使節団は、単なる外交使節ではなく、交易、技術習得、そして政治的密命を帯びた、複合的な目的を持つ一大プロジェクトチームだったのである。彼らは、それぞれの思惑を胸に、未知なる太平洋の大海原へと乗り出していった。

第二章:新大陸への到達と横断(1614年1月~6月)

サン・ファン・バウティスタ号は、約3ヶ月にわたる過酷な航海の末、慶長19年1月28日(西暦1614年1月28日)、ついに新大陸の地に到達した 4 。彼らが降り立ったのは、ヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)の太平洋岸における最大の拠点港、アカプルコであった 27 。日本人による自国建造船での太平洋横断という、日本史上初の快挙であった 23

アカプルコから首都メキシコシティまでは、約400キロメートルの険しい道のりが続いていた。一行は馬を乗り継ぎ、10日以上をかけてこの陸路を踏破した 27 。しかし、彼らを待ち受けていたのは、歓迎ばかりではなかった。異文化との最初の深刻な衝突が、メキシコシティで発生する。先発隊として入市した仙台藩士が、市中で盗みを働いた現地人を日本の武士の慣習に従い斬り捨ててしまう「無礼討ち」事件を起こしたのである 23 。スペイン植民地の法秩序を揺るがすこの行為は、現地当局を硬化させた。結果として、使節団は常長ら幹部10名を除き、武士の魂である大小の帯刀を禁じられるという屈辱を味わうことになった 23 。これは、彼らが対等な外交使節としてではなく、統治されるべき異教徒として扱われている現実を突きつける象徴的な出来事であった。

メキシコシティに到着した常長は、ヌエバ・エスパーニャ副王に謁見し、主君・政宗からの親書を手渡して、領内への宣教師派遣と直接通商の許可を求めた 27 。しかし、副王の返答はつれないものであった。彼は、そのような重大な案件を決定する権限は自分にはなく、本国であるスペイン国王の判断を仰ぐ必要があると述べ、事実上、交渉の門戸を閉ざしたのである 27

この交渉停滞の裏には、スペイン側の深い警戒心があった。当時、スペインはフィリピンとメキシコを結ぶガレオン貿易によって莫大な利益を上げており、この lucrative な航路に日本という新たな競争相手が参入してくることを極度に恐れていた 28 。さらに、サン・ファン・バウティスタ号の存在が証明した日本の高度な造船・航海技術が、将来的に自らの海洋覇権を脅かすことへの懸念も抱いていた 23 。政宗が誇る最新鋭の船は、スペインの帝国戦略の前では、技術を盗まれかねない危険な存在としか映らなかったのである。

交渉が行き詰まる中、使節団は次なる一手として、権威の源泉であるスペイン本国、そしてローマへと直接向かうことを決断する。しかし、ヨーロッパへ渡ることが許されたのは、常長ら約30名の選抜されたメンバーのみであった 26 。商人たちの多くを含む残りの団員はメキシコに留まり、交易活動に従事した。彼らの中には、そのまま現地に根を下ろし、後の日系メキシコ人の先駆けとなった者もいたと言われている 4

1614年6月10日、常長ら一行は、アカプルコ港にサン・ファン・バウティスタ号を残し、スペイン艦隊の船に便乗して大西洋岸の港ベラクルスを出港した 23 。メキシコでの経験は、使節団の目的が、地方総督レベルでは実現不可能な「通商」から、より高次の権威である国王と教皇から「宗教的・政治的承認」を得ることに、その力点を移さざるを得ない現実を教えるものであった。

第二部:旧世界の中心へ

第三章:大西洋を越えてスペインへ(1614年6月~12月)

大西洋を渡る航海は、カリブ海の拠点であるキューバのハバナを経由し、約4ヶ月を要した 4 。1614年10月5日、一行はついにヨーロッパの地、スペイン南部の港町サンルーカル・デ・バラメーダにその第一歩を記した 23

ここから先のスペイン国内での旅は、歓迎と警戒という二つの異なる顔を見せることになる。正使ルイス・ソテロの故郷でもあるアンダルシア地方のセビリアでは、一行は市の貴族たちから盛大な歓迎を受けた 23 。常長はセビリアの臨時市議会に招かれて使節の使命を堂々と演説し、一行はイスラム様式の壮麗なアルカサル宮殿に滞在を許されるなど、国賓級の厚遇を受けた 23 。近郊のコルドバでも市長主催の歓迎会が開かれている 33 。この時期、セビリア近郊の町コリア・デル・リオにも一行は滞在した。この地での逗留が、400年の時を経て、今なおこの地に残る「ハポン(Japón=日本)」という姓の起源であると語り継がれることになる 7

地方都市における熱狂的な歓迎は、東方の未知の国からやってきた侍たちへの純粋な文化的好奇心の発露であった。しかし、一行が帝国の首都マドリードに近づくにつれ、その空気は次第に冷ややかなものへと変わっていく。

第四章:スペイン国王フェリペ3世との謁見(1615年1月~8月)

1614年12月20日、一行はセビリアを出て約1ヶ月の旅の末、首都マドリードに到着した 23 。しかし、彼らを待っていたのは、セビリアのような華やかな歓迎式典ではなかった。国王フェリペ3世への謁見は許されず、一行は1ヶ月以上もの間、足止めを食らうことになる 27

この遅延の理由は、宮廷内でのプロトコル、すなわち格式の問題にあった。支倉常長らが率いる使節団は、日本の最高権力者である将軍から遣わされた公式の使節ではなく、あくまで奥州の一地方大名である伊達政宗の私的な使者であった 27 。スペイン宮廷は、この「非公式」な使節をいかに遇すべきか、その判断に苦慮したのである。加えて、スペイン側は使節団の信憑性そのものにも疑念を抱いていた 34

年が明けた1615年1月30日、ようやく国王フェリペ3世への謁見が実現した 23 。常長は国王の前で政宗からの親書を奉呈し、フランシスコ会宣教師の派遣とメキシコとの直接貿易を改めて要請した 35 。この時、通訳を務めたソテロは、政宗の意図をさらに踏み込み、「我が主君、奥州の王(政宗)は、その領土を偉大なるスペイン国王陛下に捧げ、その庇護下に入ることを望んでいる」といった趣旨の、極めて従属的な言葉で伝えたという記録も残っている 8 。これがソテロ個人の功名心による誇張であったのか、あるいは政宗が密かに抱いていた倒幕計画の真意を代弁したものであったのか、歴史家の間でも議論が分かれる点である。

謁見から約半月後の2月17日、常長はマドリードの王立修道院において、国王フェリペ3世や王女たちが臨席する厳かな儀式の中で洗礼を受け、ドン・フィリッポ・フランシスコ・ファセクラという洗礼名を与えられた 22 。この受洗は、常長個人の信仰告白という側面もさることながら、交渉を有利に進めるための極めて高度な政治的判断であった。カトリック教会の守護者を自任するスペイン国王との交渉において、自らがキリスト教徒であると示すことは、相手の信頼を得るための不可欠な要素だったのである。

しかし、このマドリードでの長期にわたる足踏みは、使節団にとって致命的な時間の浪費であった。彼らがスペインで交渉を続けている間、日本では1614年11月から大坂冬の陣が勃発し、徳川による天下統一事業は最終段階へと向かっていた 7 。使節団が交渉の前提としていた「徳川の支配が未だ盤石ではない日本」という政治状況は、彼らが知らないうちに、刻一刻と過去のものとなりつつあったのである。

第三部:ローマ謁見 ― 栄光と蹉跌(1615年10月~1616年1月)

第五章:聖都ローマへ

スペイン国王から明確な回答を得られなかった一行は、事態を打開すべく、カトリック世界の最高権威であるローマ教皇に直接、願いを訴えることを決意する。1615年8月、マドリードを出発した使節団は、イベリア半島を陸路で横断し、地中海を渡ってイタリア半島へと向かった 38

1615年10月25日、一行はついに永遠の都、ローマに到着した。ここでの彼らの扱いは、マドリードでのそれとは全く異なっていた。10月29日、ローマ市は常長らのために、壮麗な公式入市式(パレード)を催したのである 23 。日本の豪華絢爛な武士の装束に身を包んだ常長らの一行が、古代ローマの遺跡が残る街を行進する姿は、ローマ市民の熱狂的な歓迎を受け、大きな注目を集めた 40 。その珍しい風貌や立ち居振る舞いは、当時の芸術家にも強いインスピレーションを与え、後にクイリナーレ宮殿の壁画にその姿が描かれるほどであった 41 。また、日本人が手漉きの和紙で鼻をかむ習慣が、布製のハンカチを使うヨーロッパ人の目には非常に珍しく映った、という微笑ましい記録も残っている 41 。このローマでの歓迎は、使節団の苦難に満ちた旅路における、栄光の頂点であった。

第六章:教皇パウルス5世との謁見(1615年11月3日)

ローマ入市の数日後、1615年11月3日、使節団の旅の最終目的地であったローマ教皇との謁見が、バチカンのサン・ピエトロ宮殿で執り行われた 4 。これは、日本の使節がローマ教皇に公式に謁見するという、歴史的な瞬間であった。

常長は、教皇パウルス5世の御前に進み出て、主君・伊達政宗からの親書を奉呈した。この親書は、金箔や銀箔を惜しげもなく散らした最高級の和紙に、日本語とラテン語でしたためられた二通一組の豪華なものであった 23 。その内容は、表向きには仙台領内でのキリスト教布教を許可する見返りとして、フランシスコ会の宣教師を派遣してほしいという要請が中心であった 40 。しかし、その文面には「私はローマ法王の忠実な下僕として犬馬の労をとることも厭わない」「教皇聖下のおみ足に口づけするために、その足下にひれ伏す」といった、日本の大名としては異例とも言える、最大限の敬意と恭順の意が示されていた 43 。これは、カトリック世界の頂点に立つ教皇の絶大な精神的権威を借りて、スペインとの実利的な交渉(通商、ひいては軍事同盟)を有利に進めようとする、政宗とソテロの高度な外交戦略であった。

この謁見に際し、一行は絹地に描かれた日本の屏風図などを献上したと記録されている 23 。教皇パウルス5世は、極東の地から遥々訪れた使節団の労をねぎらい、常長の高潔な人柄を称賛した 23 。そして、この歴史的な会見を記念して、常長には最大級の名誉が与えられた。1615年11月20日のローマ市議会の決議を経て、常長を含む使節団員8名に対し、「ローマ市民権」が授与されたのである 23 。羊皮紙にラテン語で記されたこの公民権証書には、常長をローマ貴族の列に加える旨が金泥で記され、支倉家の「丸に卍」の家紋も誇らしげに描かれていた 40 。さらに、常長個人には「カヴァリエーレ(騎士)」の爵位も授与されたと伝えられる 23

ローマ滞在中、一行は文化的な交流にも足跡を残した。当時の芸術のパトロンとして名高かった枢機卿シピオーネ・ボルゲーゼの依頼により、画家アルキータ・リッチが常長の肖像画を制作した 48 。油彩で描かれたこの日本人武将の肖像は、現存する最古の日本人油彩画として、歴史的にも美術史的にも極めて高い価値を持つ。

しかし、これらの華々しい栄誉は、あくまで儀礼的な成功に過ぎなかった。壮大な入市式も、教皇からの称賛の言葉も、ローマ市民権という名誉も、政宗が真に求めていた通商許可や軍事同盟といった具体的な約束を何ら保証するものではなかった。教皇庁は絶大な精神的権威を持つが、国家間の条約を強制する世俗的な権力は持たない。ローマでの栄光は、実質的な交渉が行き詰まりつつある現実を覆い隠す、華麗な舞台装置の役割を果たした側面が否めないのである。

第四部:黄昏の帰路

第七章:変わり果てた故国からの報せ

ローマでの栄光の後、一行は再びスペインのマドリードに戻り、国王との交渉の進展を待った 46 。しかし、事態が好転することはなかった。彼らの運命を決定づけたのは、ヨーロッパでの外交努力ではなく、彼らが不在の間に激変した日本の国内情勢であった。

使節団の交渉の前提、すなわち「伊達政宗がキリスト教の保護者となり、その見返りにスペイン・ローマが通商と布教を認める」という構図は、根底から崩れ去っていた。1614年以降、徳川幕府によるキリスト教への弾圧は全国規模で激化の一途をたどり、多くの教会が破壊され、宣教師や信徒が処刑されていた 49 。この情報は、イエズス会のルートなどを通じて、詳細にスペインやローマへもたらされていた 6 。自国民が迫害され、信仰が禁じられている国の、一地方領主からの申し出に、スペイン国王やローマ教皇が真剣に取り合うはずもなかった。

さらに決定打となったのが、1615年の大坂夏の陣における豊臣家の滅亡である 7 。これにより、徳川幕府の日本における支配体制は盤石のものとなり、政宗がスペインの軍事力を借りて天下を覆すという、かつて抱いたであろう野望は、完全に実現不可能な夢物語と化した。翌1616年には、徳川家康もこの世を去り、日本の対外政策はより一層、硬直化していく 7

交渉の望みを完全に絶たれた一行は、1617年7月、失意のうちにスペインを離れ、長い帰国の途についた 22 。メキシコのアカプルコで待っていたサン・ファン・バウティスタ号に再び乗り込み、太平洋を西へと進路を取る。しかし、彼らの苦難はまだ終わらなかった。フィリピンのマニラに到着した一行は、そこで2年近くもの間、足止めを食らうことになる 38 。日本の禁教政策が厳しさを増す中、キリスト教徒となった使節団の帰国を幕府がどう扱うか、スペインのフィリピン総督府が判断に迷い、様子を見ていたためと考えられている。この長い滞在の間に、彼らの誇りであったサン・ファン・バウティスタ号は、維持費の捻出のためか、スペイン側に売却されてしまった 30

第八章:失意の帰国(1620年9月)

1620年9月、支倉常長は、もはや自らの船ではない便船を乗り継ぎ、長崎を経て、ついに故郷である仙台の土を踏んだ 7 。月浦を出帆してから、実に7年の歳月が流れていた。

しかし、常長を待ち受けていたのは、偉業を成し遂げた英雄への歓迎ではなかった。彼が忠誠を誓った主君・伊達政宗は、時代の激しい流れの中で、かつての野心的な顔を封印していた。盤石となった徳川幕府への恭順の意を示すため、政宗は自ら率先して領内のキリスト教徒を厳しく弾圧する側に回っていたのである 7

常長は政宗に謁見し、ローマ教皇パウルス5世の肖像画をはじめとするヨーロッパからの貴重な品々を献上した。しかし、その数日後、仙台藩は公式にキリスト教禁教令を発布。大役を果たして帰国したはずの常長は、逆に謹慎を命じられたと伝えられる 38 。彼が命がけで持ち帰った品々の多くも、藩によって没収された 51 。藩の公式記録である『貞山公治家記録』には、この前代未聞の国際的事業に関する正式な報告はほとんど記されず、慶長遣欧使節の存在そのものが、あたかも無かったことのように、歴史の闇に葬り去られようとしていた 7

帰国から2年後の元和8年(1622年)、支倉常長は52年の生涯を閉じた。公式には病死とされているが、その死には謎が多く、失意のうちに亡くなったと伝えられている 7 。彼が棄教を強制されたのか、あるいは密かに信仰を貫いたのかについても、記録は沈黙を守っている 7 。その晩年が謎に包まれていることを象徴するかのように、彼の墓所とされる場所は宮城県内に3箇所(仙台市光明寺、川崎町円福寺、大郷町西光寺)も点在し、今なおそのいずれが真の墓であるか、結論は出ていない 51

使節団に関わった他の主要人物たちの末路もまた、時代の非情さを物語っている。常長の嫡子・常頼は、後に家臣がキリシタンであった罪に連座して処刑され、支倉家は一時、断絶の憂き目に遭う 7 。そして、この壮大な物語のもう一人の主役であったルイス・ソテロは、禁教下の日本へ再び潜入を試みるも捕縛され、1624年、火刑によってその壮絶な生涯を閉じた 7

終章:慶長遣欧使節が歴史に遺したもの

慶長遣欧使節は、通商条約や軍事同盟の締結という当初の目的を鑑みれば、外交的には「失敗」であった。しかし、その歴史的意義を失敗の一言で断じることはできない。この使節団の軌跡は、近世日本の歴史、ひいては世界史に、深く、そして複雑な光と影を投げかけている。

第一に、技術史・航海史上の偉業として評価されるべきである。日本人が自ら建造した500トン級の大型ガレオン船が、太平洋を二度も往復したという事実は、当時の日本の造船技術と航海術が世界水準に達していたことの証明に他ならない 6 。この輝かしい達成は、皮肉にもその後の鎖国政策によって、その技術と共に歴史の底に沈んでいくことになる。

第二に、彼らが命がけで持ち帰った物証の価値である。支倉常長の肖像画、ローマ教皇パウルス5世の肖像画、ローマ市公民権証書、そしてキリスト教の祭具や異国の武具など、一連の「慶長遣欧使節関係資料」は、17世紀初頭の日欧交渉の実態を生々しく伝える第一級の歴史資料群である 59 。これらの資料は、その類まれな価値から国宝に指定され、2013年にはユネスコの「世界の記憶」にも登録され、日本だけでなく世界の共有財産としてその重要性が認められている 63

第三に、スペインの地に残された生きた交流の証である。セビリア近郊の町コリア・デル・リオには、今なお「ハポン(Japón)」の姓を持つ人々が約600名から800名ほど暮らしている 7 。彼らは、帰国せずに現地に留まった使節団員の末裔であるという伝承を持ち、400年の時を超えて日本との精神的な繋がりを保ち続けている。近年のDNA調査では、現代日本人との直接的な強い遺伝的関係を証明するには至っていないが、この歴史的伝承そのものが、両国の長く深い交流を象徴する貴重な文化遺産となっている 66

そして最後に、慶長遣欧使節の最大の遺産は、その存在が江戸時代を通じて日本の歴史からほぼ完全に「忘れられていた」という事実そのものにあるのかもしれない。この壮大な事業は、幕府の体制が盤石になるにつれて、藩主・伊達政宗にとってすら触れてはならない過去となった。その存在が再び光を浴びるのは、250年以上の時を経た明治時代、岩倉使節団がローマの古文書館でその記録を「再発見」した時であった 18 。鎖国体制がいかに徹底していたかを物語るこの「忘却」と、近代日本の開国という新たな文脈の中での「再発見」。この一連の歴史こそが、日本の近世から近代への劇的な転換を象徴している。

慶長遣欧使節の物語は、日本が鎖国へと向かう直前の、最も世界に開かれ、野心に満ちていた時代の残光である。もし、歴史の歯車が少しでも違った方向に回転していたら、日本の、そして世界の姿はどのように変わっていたであろうか。伊達政宗の野望と支倉常長の忠誠が描いた壮大な挑戦と悲劇的な結末は、400年の時を超えて、私たちに歴史の持つ無限の可能性と、時に非情な選択について、静かに問いかけ続けているのである。

引用文献

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