最終更新日 2025-09-18

慶長遣欧使節出帆(1613)

1613年、伊達政宗は慶長遣欧使節を派遣。支倉常長らが太平洋を横断し、スペイン国王やローマ教皇に謁見したが、日本の禁教強化により通商交渉は難航。政宗の野望と時代の潮流が交錯した壮大な挑戦であった。
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奥州の龍、世界へ挑む ― 慶長遣欧使節、七年間の軌跡とその野望の果て

序章:時代の黄昏、新たな夜明け

慶長遣欧使節が出帆した1613年という年は、日本の歴史が大きな転換点を迎えていた特異な時代であった。長く続いた戦国の乱世は徳川家康による天下統一によって終焉を迎え、新たな秩序である江戸幕府体制がその礎を固めつつあった。しかし、その平和はまだ盤石ではなく、大坂には豊臣秀頼が依然として勢力を保ち、各地の大名たちの胸中には、戦国武将としての矜持と野心が未だ燻っていた。伊達政宗のような有力大名にとって、自らの領国は一つの「国家」であり、独自の判断で外交や貿易を展開しようとする気概は、時代の変化の中でも色褪せてはいなかった 1

一方で、世界の海は「大航海時代」の渦中にあった。ポルトガルとスペインという二大カトリック大国は、富と神の教えを携えて世界中に進出し、アジアにおいてもフィリピンやマカオを拠点に巨大な交易網を築き上げていた 2 。日本もその例外ではなく、鉄砲伝来以来、南蛮人との接触は貿易とキリスト教布教という二つの側面をもって、日本の政治、経済、文化に深く浸透し始めていた。徳川家康自身も、オランダ商船リーフデ号で漂着したイギリス人ウィリアム・アダムス(三浦按針)を外交顧問として重用するなど、海外情勢への関心は高く、新たな国際関係の構築を模索していた 3

このような国内の秩序再編と、否応なく進展するグローバル化の胎動が交錯する時代に、奥州の雄、伊達政宗は前代未聞の計画を敢行する。すなわち、自ら建造した巨大ガレオン船で太平洋を横断し、遠くヨーロッパのスペイン国王とローマ教皇のもとへ公式な使節を派遣するという壮大な事業である。

本報告書は、この慶長遣欧使節という一大事業を、単なる一地方大名の通商要求としてではなく、戦国的な野心の最後の輝きと、徳川幕府の新たな世界戦略、そして宣教師個人の信仰と野望が複雑に絡み合った、時代の転換点を象徴する歴史的事件として捉え、その七年間にわたる軌跡をリアルタイムで追うものである。これは、伊達政宗という一人の武将が描いた夢の物語であり、同時に、変わりゆく時代の大きな潮流に翻弄された者たちの、栄光と悲劇の記録でもある。

第一章:野心の源泉 ― なぜ伊達政宗は海を目指したのか

伊達政宗が、莫大な費用と多大な危険を伴う遣欧使節の派遣に踏み切った動機は、単一の理由で説明できるものではない。それは、領国の経済的危機、天下への野望の残滓、そして徳川幕府との複雑な政治的力学が絡み合った、多層的な戦略の帰結であった。

経済的動機:富国強兵への渇望

使節派遣計画が具体化する直接的な引き金の一つに、未曾有の自然災害があった。慶長16年(1611年)12月2日、東北地方を巨大な地震とそれに続く大津波が襲った。後に「慶長大津波」と呼ばれるこの災害は、仙台藩の沿岸部に壊滅的な被害をもたらし、一説には5000人もの犠牲者を出したとされる 5 。領内の経済基盤が根底から揺らぐ中で、政宗は復興の財源を確保する喫緊の課題に直面した 5 。天下統一後、伊達郡旧領土の回復も叶わなかった政宗にとって、海外貿易によってもたらされる莫大な利益は、領国を立て直すための最後の切り札であり、新たな収益源として極めて魅力的に映ったのである 7

政宗が目を付けたのは、当時世界最大の帝国であったスペインとその植民地ノビスパニア(メキシコ)であった。スペインは、フィリピンのマニラとメキシコのアカプルコを結ぶガレオン貿易によって、アジアの香辛料や絹、そしてアメリカ大陸の銀を交換し、巨万の富を得ていた 3 。そして、仙台藩の三陸海岸は、この太平洋を横断する「西回り航路」の航路上に位置し、荒天時の避難や補給を行う中継港として、まさに理想的な地理的条件を備えていた 8 。政宗は、この地理的優位性を最大限に活用し、自らの領地を「南蛮への玄関口」とすることで、藩に恒久的な富をもたらす壮大な経済構想を描いていた。彼はスペインの使節セバスティアン・ビスカイノに対し、「フィリピンやメキシコの船の待遇を保証し、メキシコひいてはスペインと交流したい」と積極的に働きかけている 8

政治的・軍事的動機:天下への野望の残光

政宗の視線は、単なる経済的利益だけに留まらなかった。その根底には、戦国武将としての鋭い政治的・軍事的嗅覚が存在した。徳川の世が始まったとはいえ、政宗は関ヶ原の戦いでの遅参などから、常に幕府から警戒される有力な外様大名であった。徳川体制下で伊達家が生き残り、その地位を盤石にするためには、他藩を圧倒する経済力と軍事力が不可欠であった 7

スペインとの直接交易は、その両方を手に入れる可能性を秘めていた。当時のスペインは、鉄砲をはじめとする最新の軍事技術を持つ先進国であった 7 。政宗は、貿易を通じてこれらの最新兵器を独占的に輸入し、自藩の軍事力を飛躍的に向上させることを目論んでいた可能性がある 7 。これは、万が一の事態、すなわち幕府との軍事衝突をも視野に入れた、戦国武将ならではの危機管理意識の表れと解釈できる。一部には、スペインとの軍事同盟を結び、徳川幕府を打倒する計画であったという説も存在するが、これは決定的な証拠に欠けるものの、政宗の野心的な性格を考えれば、その可能性を完全に否定することはできない 3

徳川家康の深謀遠慮:なぜ許可したのか

一地方大名による、これほど大規模な独自外交を、なぜ天下人である徳川家康は許可したのか。この問いの答えにこそ、当時の政治状況の複雑さと、家康の老獪な政治戦略が隠されている。

家康自身も、京都の商人・田中勝介を派遣するなど、ノビスパニアとの太平洋貿易には強い関心を持っていたが、スペイン側が貿易と布教を不可分とする姿勢を崩さなかったことや、航路の独占を警戒したことなどから、交渉は難航していた 4 。一方で、家康はカトリック勢力の浸透が、スペインによる日本植民地化の布石になりかねないという警戒心も抱いていた 3

この膠着状態を打破する上で、政宗の計画は家康にとって渡りに船であった。家康は、政宗の野心と仙台藩の資源を利用し、いわば「アウトソーシング」の形で、幕府が直接手を下すリスクを冒すことなく、太平洋航路開拓という国家的な実験を推進させようとしたのである 10 。政宗の領地が航路開拓の拠点として最適であったことから、家康がこの仕事を政宗に命じたに過ぎないという見方もある 3

家康の狙いはそれだけではなかった。彼は、この事業を公認し、幕府お抱えの船奉行や船大工を派遣する 8 ことで、技術支援という名の監視の目を光らせた。この計画は、成功すればその利益は幕府にも還元される。一方で、莫大な財政負担を伴うこの事業は、失敗すれば政宗の力を大きく削ぐことにも繋がる。家康は、政宗の野心を力で抑え込むのではなく、巧みに幕府の管理下に置き、自らの掌の上で踊らせることで、強力な外様大名の力をコントロールしようとしたのである。

このように、慶長遣欧使節の派遣は、伊達政宗の「戦国大名としての最後の野望」と、徳川家康の「中央集権体制の完成に向けた布石」という、二人の巨人の思惑が交差した、協調と競争が同居する極めて高度な政治的駆け引きの産物であった。表面的には協力関係に見えながら、その水面下では、互いの利害が激しくぶつかり合っていたのである。

第二章:運命を託されし者たち

この前代未聞の事業の成否は、立場も目的も異なる三人の主要人物の双肩に託された。彼らの能力、背景、そして内に秘めた動機が、使節団の運命を大きく左右することになる。

副使・支倉六右衛門常長:忠誠と苦悩の武人

使節団の実質的な代表として、ヨーロッパの王侯貴族と渡り合う大役を任されたのは、伊達家家臣、支倉六右衛門常長であった。彼の出自は、伊達氏の祖の代から仕える譜代の家臣の家系であり、伊達政宗が最も信頼する家臣の一人であった 12 。常長自身も、政宗の小田原参陣の際には斥候として先発し道中の地図を作成する大任を果たし、朝鮮出兵にも従軍するなど、武人としての経験と実務能力を兼ね備えていた 12

しかし、彼の当時の知行は600石であり、伊達家中の上級家臣ではなかった 12 。なぜ、この歴史的な使節の代表に、家中の重臣ではなく、一介の中級武士であった常長が抜擢されたのか。その理由には、政宗の深慮があったと考えられる。一つには、常長が宣教師ソテロからイスパニア語を学んでいたという記録もあり、語学の素養があった可能性が挙げられる 12 。また、政宗は常長の「勤勉で誠実、命をかけてでも主命を遂行する」という「諦めない心」を高く評価していた 5

そしてもう一つ、より政治的な理由として、彼の身分の低さが逆に好都合であったという側面がある。この交渉が万が一失敗に終わった場合、あるいは幕府からキリスト教との関係を追及された場合に、責任を負わせる対象として、家中の重臣よりも都合が良かったのである 10 。常長は、政宗の壮大な野望を体現する忠実な実行者であると同時に、計画が破綻した際の防波堤としての役割をも担わされた、悲劇的な使命を帯びた人物であった。

正使・ルイス・ソテロ:野心と信仰の策士

使節団の公式な正使(外交代表)であり、案内役と通訳を兼ねたのが、フランシスコ会宣教師ルイス・ソテロであった。スペインのセビリアに生まれた彼は、サラマンカ大学で学んだ知識人で、1603年に来日して以降、その卓越した日本語能力と交渉術を武器に、徳川家康や秀忠、そして伊達政宗といった日本の最高権力者たちと渡り合ってきた 14

政宗にとってソテロは、ヨーロッパへの道を開くために不可欠な水先案内人であった。しかし、ソテロの胸中には、政宗の思惑とは全く異なる野望が渦巻いていた。彼の真の目的は、スペインとの通商を成功させることではなく、政宗という有力な大名の後援を得て、イエズス会が先行する日本での布教活動においてフランシスコ会が主導権を握り、自らが東北地方を管轄する司教の座に就くことであった 10 。政宗の遣欧使節派遣計画は、その野心を実現するための、またとない機会だったのである。

目的達成のため、ソテロは「聖なる偽り」(Pious Fraud)と呼ばれる、布教のためには嘘や策略も許されるという当時のカトリック宣教師に一部見られた手法を駆使した 15 。彼は、政宗がスペイン国王やローマ教皇に宛てた親書のラテン語訳に手を加え、政宗自身がキリスト教徒になることを望んでいるかのような文言を盛り込んだ 10 。さらに、スペイン国王フェリペ3世への謁見の際には、「我が主君である奥州国王(政宗)は、陛下の偉大さを聞き、その領土を陛下に献上して親交を結ぶために私を派遣した」という、政宗が口にするはずのない、荒唐無稽な内容を通訳したとされる 10 。ソテロは、使節団の成功を演出し、自らの目的を達成するためならば、主君である政宗をも欺くことを厭わない、信仰と野心に生きた稀代の策士であった。

技術顧問・セバスティアン・ビスカイノ

この計画の実現に、技術面で不可欠な役割を果たしたのが、スペインの探検家セバスティアン・ビスカイノである。彼は、前フィリピン総督ドン・ロドリゴの遭難船救助に対する返礼使として来日したが、その際に政宗と出会い、意気投合した 3 。政宗の海外への強い関心に共感したビスカイノは、当時、スペインが国家最高機密とし、技術を漏洩した者は死刑に処されるほど厳重に管理していたガレオン船の建造技術を、政宗に提供することを決意した 3 。彼の協力なくして、使節団の翼となるサン・フアン・バウティスタ号が日本の地で建造されることはあり得なかった。

このように慶長遣欧使節は、主君への忠誠心に生きる武士、自らの野望と信仰のために全てを賭ける宣教師、そして未知の国の大名に未来を託した探検家という、目的も立場も全く異なる三者による「同床異夢」のプロジェクトであった。特に、唯一の通訳者として情報の流れを完全に支配したソテロの存在が、ヨーロッパでの過剰な歓迎と、その後の交渉の難航という、使節団の数奇な運命を決定づけることになる。常長は、ソテロが作り上げた虚構の舞台の上で、真の目的を知らされぬまま外交交渉を続けるという、極めて困難な立場に置かれていたのである。

第三章:奥州の技術の結晶、サン・フアン・バウティスタ号

使節団の壮大な夢と、約180名もの乗組員の命運を乗せて荒波の太平洋へと乗り出したのは、仙台領内で建造された一隻のガレオン船、「サン・フアン・バウティスタ号」であった。この船の存在そのものが、伊達政宗の野心と、当時の日本の技術力の高さを物語る、動く記念碑であった。

政宗が海外渡航用の大型船建造を構想し始めたのは、慶長16年(1611年)の秋頃には遡るとされ、宣教師ソテロと打ち合わせを行っていた記録が残っている 8 。計画は、セバスティアン・ビスカイノの技術協力と、徳川幕府から正式に派遣された船奉行・向井将監配下の船大工たちの参加を得て、一気に現実のものとなった 8 。幕府の関与は、この事業が単なる政宗個人の計画ではなく、幕府公認の国家プロジェクトとしての側面を持っていたことを示している。

建造地は、ビスカイノが「大型船の建造に最も適している」と記した雄勝(現在の石巻市)であったと推定されている 18 。建造に際しては、驚異的な規模の人員が動員された。シピオーネ・アマチの『伊達政宗遣使録』によれば、大工800人、鍛冶700人、雑役3000人もの人々がこの事業に従事したという 20 。これだけの人的資源を集中投入し、建造に着手してからわずか45日間という驚異的なスピードで船を完成させたと記録されている 20 。これは、仙台藩の卓越した組織動員力と、高い技術水準を如実に示すものである。

完成したサン・フアン・バウティスタ号は、全長約55メートル、高さ約48メートル、重量500トン級という、当時としては世界水準の本格的なガレオン船であった 20 。その構造は、スペインの先進技術と日本の伝統技術が見事に融合したものであった。竜骨(キール)やマストには強度のある米松、船体を構成する肋骨材には粘り強い国産の松、そして外板には加工しやすい杉といったように、用途に応じて最適な木材が世界中から、あるいは領内各地から調達された 20 。特に、領内産の木材は気仙沼や東磐井、牡鹿半島などから伐採され、北上川の広大な水運ネットワークを駆使して建造地まで運ばれた 20

船体の防水には、日本の伝統的な木造船建造技術である「ハダ打ち(槙肌打ち)」が用いられた。これは、船板の隙間に檜の樹皮を縄状にしたものを木槌とノミで叩き込み、水密性を確保する緻密な作業である 23 。この技術は、復元船の建造に携わった現代の船大工でさえ、最も困難な作業の一つとして挙げるほど高度なものであった 21

サン・フアン・バウティスタ号は、単なる移動手段ではなかった。それは、日本の大名が自らの意志と技術で、世界の海へ乗り出すことを可能にした、まさに「伊達の黒船」であった。日本人が自らの手で建造した西洋式大型帆船が、未知の大洋である太平洋を二往復するという前人未到の偉業を成し遂げたことは、日本の造船史、そして交通史上、画期的な出来事として特筆されるべきである 24 。この一隻の船に、政宗の夢、常長の使命、そして日本の職人たちの誇りが凝縮されていたのである。

第四章:七年間の大航海 ― リアルタイム・クロニクル

慶長遣欧使節の旅路は、7年という長大な歳月に及んだ。それは地球の約3分の2を巡る、前人未到の冒険であった。彼らが体験したであろう期待、驚き、困難、そして栄光と失意を、以下の年表とそれに続く詳細な記述によって、リアルタイムで追跡する。

年月日 (西暦/和暦)

場所 (大陸・国・都市)

主要な出来事

関連情報・背景

1613年10月28日 (慶長18年9月15日)

日本 (陸奥国・月ノ浦)

支倉常長ら一行約180名を乗せ、サン・フアン・バウティスタ号が出帆 3

徳川幕府によるキリスト教禁教令が発布された年。大坂冬の陣の前年。

1614年1月28日

北米大陸 (ノビスパニア・アカプルコ)

3ヶ月の航海を経てアカプルコに入港。日本人による初の太平洋無寄港横断 3

1614年3月24日

北米大陸 (ノビスパニア・メキシコシティ)

常長ら本隊がメキシコシティ入り。先遣隊による事件で武器を没収される 3

1614年6月10日

北米大陸 (ノビスパニア・ベラクルス)

スペイン艦隊の船に乗り換え、大西洋を横断しヨーロッパへ出発 3

サン・フアン・バウティスタ号はアカプルコに待機。

1614年10月5日

ヨーロッパ (スペイン・サンルーカル)

スペインに上陸。ソテロの故郷セビリア近郊のコリア・デル・リオに滞在 3

この地に留まった者が後の「ハポン姓」の祖先となる 3

1615年1月30日

ヨーロッパ (スペイン・マドリード)

スペイン国王フェリペ3世に謁見。伊達政宗の親書を奉呈 3

1615年2月17日

ヨーロッパ (スペイン・マドリード)

常長、国王臨席のもと王立修道院でキリスト教の洗礼を受ける 3

外交儀礼上、重要な手続きであった。

1615年10月25日

ヨーロッパ (イタリア・ローマ)

ローマに到着 3

1615年10月29日

ヨーロッパ (イタリア・ローマ)

ローマ市による盛大な歓迎式典(入市式)が挙行される 3

1615年11月3日

ヨーロッパ (ヴァチカン)

ローマ教皇パウロ5世に謁見。政宗の親書などを献上 3

使節団の栄光の頂点。

1615年11月20日

ヨーロッパ (イタリア・ローマ)

常長にローマ市民権証書と貴族の位が授与される 3

1616年 - 1617年

ヨーロッパ (スペイン)

再びスペインに戻り通商交渉を続けるが、日本の禁教強化により交渉は難航 27

1616年、徳川家康死去。日本の対外政策が硬化。

1617年7月4日

ヨーロッパ (スペイン・セビリア)

交渉を断念し、帰国の途につく 3

1618年4月2日

北米大陸 (ノビスパニア・アカプルコ)

待機していたサン・フアン・バウティスタ号に再乗船し、フィリピンへ出航 3

1618年8月10日

アジア (フィリピン・マニラ)

マニラに到着 3

1620年9月20日 (元和6年8月24日)

日本 (長崎経由で仙台へ)

常長のみが帰国。サン・フアン・バウティスタ号はマニラで売却 3

出帆から7年の歳月が流れていた。

1. 出帆と太平洋横断 (1613年10月 - 1614年1月)

慶長18年9月15日(西暦1613年10月28日)、陸奥国牡鹿半島の月ノ浦(現在の宮城県石巻市)は、歴史的な緊張と期待に包まれていた。副使・支倉常長(当時42歳)率いる仙台藩士、商人、水夫、そして正使ルイス・ソテロら宣教師を含む総勢約180名が、奥州の技術の粋を集めて建造されたサン・フアン・バウティスタ号に乗り込んだ 3 。藩主・伊達政宗の夢を乗せた巨大な帆船は、秋風を受けて静かに滑り出し、未知なる大洋へとその舳先を向けた。

航海は過酷を極めた。当時の航海術は未だ発展途上にあり、一行は巨大な波、予測不能な嵐、そして壊血病などの病の恐怖と常に隣り合わせであった。しかし、サン・フアン・バウティスタ号は優れた耐航性を発揮し、乗組員たちは不屈の精神でこの困難を乗り越えた。そして出帆から3ヶ月後、1614年1月28日、彼らの眼前に遂に新大陸の陸地、ノビスパニア(メキシコ)のアカプルコ港が姿を現した 3 。これは、日本人が自らの船で、無寄港での太平洋横断を成し遂げた、歴史上最初の瞬間であった。

2. 新大陸での試練と前進 (1614年1月 - 6月)

アカプルコに上陸した一行は、そこから首都メキシコシティを目指し、灼熱の太陽が照りつける大地を陸路で進んだ。しかし、この地で彼らは予期せぬ文化摩擦に直面する。先遣隊の武士が、メキシコシティで盗みを働いた現地人を「無礼討ち」として斬り捨てるという事件が発生したのである。武士の価値観では正当な行為であっても、スペインの法治下では殺人に他ならなかった。この事件の結果、一行は常長ら幹部10名を除き、帯刀を禁じられるという屈辱を味わうことになった 3

一方で、メキシコシティでは、フランシスコ会の教会で日本人20名以上が集団で洗礼を受けるなど、キリスト教文化との本格的な接触も始まった 26 。1614年6月10日、一行は大西洋岸の港町ベラクルスから、サン・フアン・バウティスタ号をアカプルコに残し、スペイン艦隊のサン・ホセ号に乗り換えて、最終目的地であるヨーロッパへと向けて大西洋を渡った 3

3. スペインでの外交交渉 (1614年10月 - 1615年8月)

キューバのハバナを経由し、大西洋を横断した一行は、1614年10月5日、ついにスペイン本土のサンルーカル・デ・バラメーダ港にその第一歩を印した 3 。彼らはソテロの故郷であるセビリアで熱烈な歓迎を受けた。特に、近郊の町コリア・デル・リオには長期間滞在し、この時に帰国せず現地に留まった数名の藩士や船員が、後に「ハポン(Japón=日本)」という姓を名乗る人々の祖先になったと伝えられている 3

1615年1月30日、使節団は首都マドリードで、スペイン国王フェリペ3世への謁見という最初の大きな目的を果たす 3 。常長は、政宗からの親書と豪華な贈り物を捧呈した。さらに同年2月17日、常長は外交交渉を円滑に進めるための重要なステップとして、国王や廷臣たちが臨席する厳かな儀式の中、王立修道院の付属教会でキリスト教の洗礼を受けた 3

4. 栄光の頂点、ローマにて (1615年8月 - 1616年1月)

スペインでの謁見を終えた一行は、次なる目的地、カトリック世界の中心であるローマを目指した。陸路と海路を乗り継ぎ、フランスの港町サントロペに立ち寄った際には、後世に伝わる興味深い逸話が生まれている。常長ら日本の武士たちが、懐から取り出した美しい和紙(白石和紙)で鼻をかみ、それを惜しげもなく捨てると、当時のヨーロッパ人にはその習慣がなく、その珍しさと紙の質の高さから、人々が先を争って拾い集めたという 3 。このエピソードは、当時の日本文化がヨーロッパに与えた小さな衝撃を物語っている。

1615年10月25日、使節団は遂に「永遠の都」ローマに到着した。その歓迎ぶりは、彼らの想像を絶するものであった。同月29日には、ローマ市が公式に認めた凱旋行列、すなわち「入市式」が盛大に挙行された 3 。銀のモールを織り込んだ緋色のマントを羽織った常長が馬に乗り、カンピドリオの丘へ向かうと、沿道の市民や貴族から花吹雪と金箔が雨のように降り注いだと伝えられている。

そして1615年11月3日、ヴァチカンのサン・ピエトロ宮殿にて、常長とソテロはローマ教皇パウロ5世への公式謁見に臨んだ 3 。常長は、政宗が自ら筆をとり、金箔を散らした豪華な絹の書状などを恭しく奉呈した。教皇は、遥か東方の国から、幾多の困難を乗り越えてやってきた使節団の労を深く労った。この謁見の成功を以て、同年11月20日、常長にはローマ貴族の位と、その証である「ローマ市公民権証書」が授与された 3 。羊皮紙に金泥で記されたこの証書は、常長個人、そして慶長遣欧使節団にとって、栄光の頂点を示すものであった。

5. 忍び寄る時代の影と帰路 (1616年1月 - 1620年9月)

しかし、その栄光は長くは続かなかった。再びスペインに戻り、最大の目的であった通商条約の締結交渉を続けたが、スペイン側の態度は次第に硬化していった。その背景には、使節団がヨーロッパに滞在している間に、日本の国内情勢が激変していたことがあった。徳川幕府はキリスト教禁教令を全国に発布し、宣教師や信徒への弾圧を本格化させていたのである。その情報は、イエズス会などを通じて、ヨーロッパにも克明に伝えられていた 17 。キリスト教を弾圧する国の領主と、通商条約を結ぶことなどできないというのが、スペイン側の論理であった。さらに、ソテロが所属するフランシスコ会と、日本での布教を巡り対立していたイエズス会による、執拗な妨害工作も交渉の進展を阻んだ 30

1617年7月4日、これ以上の交渉は無益と悟った常長は、失意のうちにスペインを離れ、7年にも及ぶ長旅の最終章、故国への帰路についた 3 。メキシコのアカプルコで、太平洋の彼方から迎えに来ていたサン・フアン・バウティスタ号と再会し、1618年4月2日にフィリピンのマニラへ向けて出航した 3

マニラで、一行は最後の決断を迫られる。もはや通商の望みが絶たれた今、巨大なガレオン船を維持する意味はなく、サン・フアン・バウティスタ号は現地で売却されることになった 3 。正使ソテロは、禁教下の日本へ再び潜入し布教を続けることを決意してマニラに残り、常長ただ一人が、便船を乗り継いで日本を目指した 31

1620年9月20日(元和6年8月24日)、長崎を経由して、常長はついに故郷である仙台の土を踏んだ。出帆の時に42歳であった彼の歳は、49歳になっていた 3 。7年の歳月は、彼の風貌だけでなく、彼が命を懸けて守ろうとした主君の夢と、日本の姿そのものを、大きく変貌させていた。

第五章:変貌した故国 ― 夢の終わり

7年の歳月を経て故国に戻った支倉常長が目の当たりにしたのは、出発前とはあまりに変わり果てた日本の姿であった。彼が不在の間に、徳川幕府はキリスト教の禁教を国家の基本方針として徹底し、全国で厳しい弾圧を開始していた。それは、もはや一地方大名の意向で覆すことのできない、時代の巨大な潮流であった。

常長の帰国と政宗の苦渋

常長がヨーロッパで栄光の頂点にあった頃、日本では大坂の陣(1614年冬、1615年夏)が終結し、豊臣家は滅亡、徳川による盤石の支配体制が確立されていた 17 。これにより、幕府は国内の統制を一層強化し、キリスト教の浸透が国内の不安定要因になると判断、貿易と人の往来を幕府の厳格な管理下に置く「一元的管理体制」、すなわち後の鎖国へと繋がる政策へ大きく舵を切っていた 34

このような状況下で、藩主伊達政宗も幕府の方針に逆らうことはできなかった。彼は、常長が帰国した1620年から、領内でのキリスト教徒の取り締まりを積極的に行うようになる 17 。帰国した常長に対し、政宗は幕府への体面を保つため、公には謹慎を命じるなど冷遇したと伝えられている 31 。彼が命懸けで持ち帰った貴重な品々も、幕府の禁教政策の下では無用の長物であり、没収された 31

しかし、政宗は常長をキリシタンとして処罰することはなかった。藩として穏便に処遇し、その大任を労ったとされる 12 。これは、幕府への忠誠と、己の夢のために全てを捧げた忠臣への想いの間で揺れ動く、政宗の苦渋の決断であった。壮大な夢は破れた。常長が持ち帰ったのは、交易の約束ではなく、「もはや政宗のような地方権力が独自に外交を行う時代は終わった」という冷徹な現実であった。その現実に打ちのめされたかのように、常長は帰国からわずか2年後の元和8年(1622年)、52歳で病死した 12 。その死は、失意のうちであったと伝えられている。彼の帰国と死は、戦国という一つの時代の終わりと、新たな時代の幕開けを告げる象徴的な出来事であった。

支倉家のその後

常長の死後も、悲劇は続いた。彼の信仰は、家族や家臣に受け継がれていたと見られる。常長の嫡子であった常頼は、家臣にキリスト教信者がいたことが露見したため、キリシタン禁令違反の罪に問われ、処刑された。これにより、伊達氏譜代の名門であった支倉家は、所領を没収され、一時お家断絶(改易)の憂き目に遭う 17 。後年、一族の者が家名の再興を許されはしたものの、その知行はわずか51石にまで減らされていた 12

関係者たちの末路

使節団に関わった他の主要人物たちもまた、時代の荒波に呑み込まれていった。

正使であったルイス・ソテロは、常長の帰国後も日本への再入国を諦めなかった。1622年、彼はマニラから日本へ密入国を試みるが、薩摩で捕らえられ、大村藩の牢に投獄される 12。そして1624年、彼は大村で火刑に処せられ、その壮絶な生涯を閉じた 3。彼の日本布教という野望は、その信仰と共に、故国の炎の中に消えたのである。

そして、この壮大な計画の発案者であった 伊達政宗 は、海外への夢を完全に封印した。彼は幕府の忠実な有力大名として、領国経営にその辣腕を振るい、1636年に70歳でその生涯を終えた 17 。彼の胸中に、かつて世界の海を目指した夢がどのように去来したのか、今となっては知る由もない。

慶長遣欧使節の失敗は、単なる外交交渉の不調ではなかった。それは、戦国大名がそうであったように、自らの判断で海外勢力と直接結びつき、富と力を得ようとする自由で多極的な国際関係を志向した「戦国時代のグローバリズム」が、徳川幕府が構築しつつあった新たな国際秩序に敗北した、時代の転換を象徴する歴史的な事件だったのである。

終章:歴史の波間に遺されたもの

外交目的の達成という点において、慶長遣欧使節は紛れもなく失敗に終わった。しかし、その七年間にわたる挑戦が、日本史、ひいては世界史の波間に遺したものは、決して小さくはない。その意義と遺産を多角的に評価することで、本報告を締めくくる。

歴史的偉業としての評価

通商条約の締結や宣教師の派遣要請という所期の目的は達せられなかったものの、この使節団が成し遂げた壮挙そのものが、特筆すべき歴史的偉業であった。日本人が自ら建造した西洋式大型帆船で、未知の大洋である太平洋を二度も横断し、さらに大西洋をも渡ってヨーロッパの地で公式な外交交渉を行った、史上初めての事例であった 3 。この事実は、当時の日本の造船技術と航海術が、世界水準に達していたことを雄弁に物語っている。

この偉業は、一度は歴史の闇に埋もれた。しかし、250年以上もの時を経た明治時代、岩倉具視を全権大使とする欧米視察団(岩倉使節団)がヨーロッパを訪れた際に、支倉常長たちの足跡と再会する。欧米の圧倒的な国力を目の当たりにし、劣等感に苛まれていた明治新政府の指導者たちは、遥か昔に日本の外交使節がヨーロッパの宮廷で堂々と交渉を行っていたという衝撃的な事実を知り、大いに勇気づけられたと伝えられている 3 。常長たちの挑戦は、時代を超えて、近代日本の黎明を担う人々の精神的な支柱となったのである。

国宝「慶長遣欧使節関係資料」の価値

常長が命懸けで持ち帰った品々は、彼の死後、仙台藩の切支丹改所に秘蔵され、奇跡的に現代まで伝えられた 36 。ローマ教皇パウロ5世の肖像画、常長自身の油彩肖像画、ローマ市民権証書、そして十字架や祭服、短剣といった品々を含む資料群は、17世紀初頭の日欧交渉の実態を、そして二つの異なる文明の出会いを、生々しく伝える第一級の歴史資料である 36

これらの資料群は、その比類なき価値が認められ、2001年に歴史資料としては日本で初めて国宝に指定された 3 。さらに2013年には、スペインとの共同推薦により、ユネスコ記憶遺産にも登録され、日本の宝であると同時に、世界人類の記憶として保護されるべき遺産となった 3 。特に、ローマで描かれたとされる常長の油彩肖像画は、実在の日本人を描いた油絵としては現存最古級の作品であり、日本の美術史上においても極めて重要な価値を持っている 29

異文化交流の痕跡

使節団が遺したものは、博物館に収められた資料だけではない。スペイン南西部、セビリア近郊の町コリア・デル・リオには、今なお「ハポン(Japón)」という姓を持つ人々が数百人暮らしている 3 。彼らは、400年前にかの地に留まった仙台藩士たちの子孫であると信じられており、その存在は、歴史の波間を越えて日本との繋がりを今に伝える、生きた証となっている。

また、使節団の武士としての堂々とした振る舞いや、彼らがもたらした和紙のような高度な日本の文物は、当時のヨーロッパ人たちに、東洋の果てに自分たちとは異なる高度な文化を持つ国が存在することを強く印象付けた 3 。それは、政治的・経済的な成果には結びつかなかったかもしれないが、確かな文化交流の足跡を歴史に刻んだのである。

総括:「戦国」という視点から

慶長遣欧使節とは、伊達政宗という、戦国乱世の気風を色濃く残した「最後の戦国大名」が、統一されゆく国内から、広大な世界へとその野心の矛先を向けた、壮大にして最後の挑戦であった。それは、幕藩体制と鎖国という新たな時代の潮流の前に潰えた、時代の徒花であったのかもしれない。しかし、未知なるものへ挑むその不屈の精神、前人未到の偉業を成し遂げた冒険心、そして現代にまで伝えられる数多の遺産は、日本の歴史の中で、今なお燦然と輝き続けている。

引用文献

  1. 日本史だけじゃわからない! 大友義鎮ほか戦国大名たちの野心あふれる海外進出 https://news.kodansha.co.jp/books/9997
  2. 連載エッセイ268:富田眞三「慶長遣欧使節の謎」その1 - ラテンアメリカ協会 https://latin-america.jp/archives/59354
  3. 慶長遣欧使節 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B6%E9%95%B7%E9%81%A3%E6%AC%A7%E4%BD%BF%E7%AF%80
  4. 伊達政宗はなんと江戸幕府転覆を目論んでいた!?「慶長遣欧使節」に秘められた野心とは【前編】 https://mag.japaaan.com/archives/241666
  5. 第三百四十話 決して諦めない-【宮城篇】仙台藩士 支倉常長 - TOKYO FM https://www.tfm.co.jp/yes/archive/?id=346
  6. sengokujapan.blogspot.com http://sengokujapan.blogspot.com/2023/03/blog-post_11.html#:~:text=%E8%80%8C%E6%88%91%E5%80%91%E5%BE%9E%E6%96%B0%E8%A5%BF%E7%8F%AD%E7%89%99%E7%9A%84,%E8%AA%AA%E6%B3%95%E4%B8%8D%E8%AC%80%E8%80%8C%E5%90%88%E3%80%82
  7. 慶長遣欧使節団を派遣した伊達政宗はスペインとの貿易を目論む ... https://articles.mapple.net/bk/6297/
  8. 慶長遣欧使節〜伊達政宗の外交団、スペインとローマをわかり ... https://www.tabi-samurai-japan.com/story/event/870/
  9. 通商交渉に夢をかける徳川家康と 夢ついえた伊達政宗 - 御宿町 https://www.town.onjuku.chiba.jp/content/files/sangyoukankouka/kokusai/tokugawaieyasu.pdf
  10. 連載エッセイ276:富田眞三「慶長遣欧使節の謎」その3 | 一般 ... https://latin-america.jp/archives/59624
  11. 大航海時代の駿府の家康公 - アダムズ、造船に着手 https://www.visit-shizuoka.com/t/oogosho400/study/05_09.htm
  12. 仙台藩遣欧使節 支倉常長の出自と現代に生きる子孫 https://hsaeki13.sakura.ne.jp/satou2024016.pdf
  13. 【サムライENGLISH 第14回】慶長遣欧使節とは?政宗様&常長様が語る! https://ej.alc.co.jp/tag/TRENDS/20161102-samurai14
  14. www.ss-beta.co.jp https://www.ss-beta.co.jp/products/sengokuhime3_ps/char/date_louis.html#:~:text=%E5%8F%B2%E5%AE%9F%E7%B4%B9%E4%BB%8B,%E3%81%AB%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%81%B8%E8%B5%B4%E3%81%84%E3%81%9F%E3%80%82
  15. ルイスソテロとは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%82%BD%E3%83%86%E3%83%AD
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