最終更新日 2025-10-05

掛川宿整備(1601)

慶長六年、徳川家康は掛川宿を整備。これは天下統一の一環で、交通網を掌握し支配体制を固める狙いがあった。山内一豊が築いた城下町を活かし、宿場機能が付加された。
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慶長六年、掛川宿整備の深層 ―戦国終焉の象徴としての大事業―

序章:1601年という時代の転換点

慶長六年(1601年)は、日本の歴史における巨大な分水嶺である。前年の秋、関ヶ原において天下分け目の合戦が決着し、徳川家康はその覇権を事実上確立した。しかし、それはあくまで軍事的な勝利に過ぎず、豊臣家は大坂城に依然として存続し、天下は未だ完全な静謐には至っていなかった 1 。この混沌とした過渡期にあって、家康の視線は、武力による「制圧」から、法と制度による「統治」へと急速に移行していた。この年、家康が矢継ぎ早に打ち出した諸政策の中に、本報告書が主題とする「掛川宿整備」は位置づけられる。

一見すれば、遠江国の一都市におけるインフラ整備に過ぎないこの事象は、しかし、その歴史的文脈の中に置くとき、全く異なる様相を呈する。それは、戦国の世を終わらせ、二百六十余年にわたる「天下泰平」の礎を築こうとする家康の壮大な国家構想の一端であり、新たな時代の秩序を、交通網という国家の血脈を通じて全国に浸透させようとする、極めて戦略的な一手であった。

本報告書は、「掛川宿整備」という一点を深く掘り下げることで、戦国という時代がいかにして終焉を迎え、近世という新たな社会がいかにして構築されていったのか、そのダイナミックな移行のプロセスを解き明かすことを目的とする。軍事、政治、経済、そして社会の各側面が交錯する結節点としての掛川を分析することは、徳川の天下統一事業の本質に迫る試みに他ならない。

第一部:天下統一と東海道 ―国家構想の脈動―

第一章:徳川家康の国家構想と街道整備

関ヶ原後の大名配置:遠江国と掛川の戦略的重要性

関ヶ原の戦後処理において、徳川家康が最も心血を注いだのは、新たな大名配置であった。西軍に与した93の大名、合計506万石を改易(領地没収)する一方、味方した大名には大幅な加増を行った 2 。しかし、その配置は決して無作為なものではなかった。豊臣恩顧の有力外様大名の多くを西国や奥羽などの遠隔地へ転封し、江戸、大坂、京都といった政治・経済の中枢や、東海道、中山道などの主要街道沿いの要衝には、徳川一門である親藩や、関ヶ原以前からの譜代大名を配置したのである 4 。これは、江戸を中心とする盤石の防衛体制を構築し、反乱の芽を物理的に摘み取るための、冷徹な計算に基づいた国家デザインであった。

この文脈において、遠江国、とりわけその中心の一つである掛川の戦略的重要性は計り知れない。遠江国は、江戸と上方とを結ぶ大動脈・東海道のほぼ中間に位置し、家康自身が若き日に今川氏を駆逐して支配下に置いた、いわば旧領でもある 6 。この地を、絶対的に信頼のおける譜代・親藩で固めることは、国家の動脈を完全に掌握し、有事の際に東西の連絡が遮断されるリスクを排除する上で、絶対不可欠な条件であった。掛川は、単なる通過点ではなく、徳川政権の安定を左右する戦略拠点として認識されていたのである。

五街道構想の始動:江戸を中心とする新たな交通網の意図

慶長六年(1601年)、家康は全国支配の基盤固めとして、陸上交通網の抜本的な整備に着手する。その第一歩が、日本の大動脈である東海道における宿駅伝馬制度の制定であった 7 。これは、やがて江戸の日本橋を起点として全国に張り巡らされることになる五街道整備の嚆矢であり、物理的にも、そして人々の意識の上でも、「江戸」を日本の新たな中心として規定する画期的な政策であった 3

この新たな交通網に込められた意図は、多岐にわたる。第一に、軍事的意図である。整備された街道は、有事の際に幕府軍を迅速に全国へ展開させるための高速道路として機能する。第二に、政治的意図である。後に制度化される参勤交代において、大名行列が往来するルートとなり、幕府の権威を全国に示すとともに、大名を統制する手段となる。そして第三に、情報伝達の意図である。幕府の公文書や指令を迅速に伝達するための継飛脚制度の基盤となり、江戸からの指令が速やかに全国に行き渡る中央集権的な情報ネットワークを構築する。掛川宿の整備は、この壮大な国家インフラ・プロジェクトの、具体的な実行計画の一つに他ならなかった。

慶長六年正月「東海道宿駅伝馬制度」の発令:その政治的・軍事的背景

慶長六年正月、家康は東海道の各宿に対し、「伝馬朱印」と「伝馬定書」を下した 10 。これにより、各宿場は公用交通のために定められた数の人馬(多くは人足36人、馬36匹)を常に準備しておく「伝馬役」を義務付けられた 10 。これは、戦国時代に各国の戦国大名が領内において独自に行っていた伝馬制度を、徳川の権威の下で全国規模に統一・標準化するものであった。

この制度は、単なる物流システムの構築ではない。それは、徳川家が全国の交通・通信インフラを独占的に管理・統制下に置くことを宣言するものであり、他の大名が幕府の許可なく人馬を徴発し、軍事行動を起こすことを困難にする狙いがあった。宿場に常備される人馬は、幕府が発行する朱印状や証文を持つ公用旅行者のために優先的に使用され、それ以外の利用は厳しく制限された 11 。これにより、徳川家は日本の物流と情報の流れを完全に掌握し、その支配体制を盤石なものにしようとしたのである。掛川がこの新たな国家システムの一翼を担う宿場として正式に指定された瞬間であった。

第二章:整備前夜の掛川 ―山内一豊が築いた城下町―

1601年の宿場整備は、全くの白紙の上に描かれたわけではない。そこには、豊臣政権下で掛川城主であった山内一豊が十余年の歳月をかけて築き上げた、当時最新鋭の思想に基づく堅固な城郭と、機能的な城下町の基盤が存在した。徳川による整備は、この戦国末期の遺産を巧みに継承し、新たな時代の要請に合わせてその機能を転換させる事業であった。

戦国期における掛川の地政学的価値

掛川は古くから交通の要衝であった。中世には『吾妻鏡』に「懸河」の名で登場し、室町時代には駿河の守護大名今川氏が遠江進出の拠点として城を築いている 12 。戦国時代を通じて、駿河の今川氏、甲斐の武田氏、そして三河・遠江の徳川氏という三大勢力の角逐の舞台となり、その地政学的な重要性は常に高かった。東海道という大動脈を押さえる掛川城の支配権は、遠江一国の、ひいては東海地方の覇権を左右する鍵だったのである。

山内一豊による城郭と城下町の大改修:「惣構え」の構造と機能

天正十八年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐の後、徳川家康が関東へ移封されると、その旧領である遠江国の掛川城には、秀吉の家臣である山内一豊が5万1千石で入封した 14 。一豊は、秀吉の許可の下、掛川城と城下町の大規模な改修に着手する。これは、関東の家康を牽制するという秀吉の西国防御戦略の一環であった 15

この改修における最大の特徴は、城郭本体だけでなく、武家屋敷や町人たちの住む城下町全体を堀と土塁で囲い込んでしまう「惣構え」という構造を採用した点にある 12 。これは、秀吉が長期の籠城戦の末に攻略した小田原城の堅固さに学んだ、当時最新の築城術であった。一豊は、城の北を流れる逆川の水を巧みに利用して広大な境堀を巡らせ、その内側に計画的な町割を施した 12 。表通りには木町、仁藤町、連雀町、中町、西町が、裏町には塩町、肴町などが配置され、掛川の町はこの時に近世的な都市としての骨格を形成した 12 。また、掛川城史上初となる本格的な天守閣も、この一豊の時代に創建されたと伝えられている 15

さらに、防衛上の工夫として、城下への進入路を意図的に屈折させる構造が取り入れられた。特に城下の東口に設けられた「新町の七曲り」と呼ばれるクランク状の道筋は、敵軍の侵攻速度を削ぎ、迎撃を容易にするための典型的な戦国的発想の都市設計であった 19

交差する街道:東海道と「塩の道」秋葉街道がもたらす経済的基盤

一豊が整備した掛川城下町は、単なる軍事拠点ではなかった。それは、既に二つの重要な経済ルートが交差する、物流の結節点でもあった。一つは言うまでもなく東西を結ぶ東海道である。そしてもう一つが、南北を結ぶ「秋葉街道」であった。

この秋葉街道は、遠州灘沿岸の相良湊(現在の牧之原市)などで生産された塩や海産物を、信濃(長野県)などの内陸部へ運ぶための重要な輸送路であり、「塩の道」とも呼ばれていた 19 。掛川は、この二つの街道が交わる十字路に位置しており、人や物資が自然と集積する経済的なポテンシャルを秘めていた。山内一豊が整備した城下町に「塩町」という地名が残っていることは、当時すでに塩問屋などが軒を連ね、塩の道を通じた交易が活発に行われていたことを物語っている 12 。この既存の経済基盤こそが、後に掛川が宿場町として大きく発展する上での重要な下地となったのである。

第二部:慶長六年の掛川 ―「宿場」誕生のリアルタイム―

第三章:城主交代と新体制の始動

慶長六年(1601年)、掛川の町は大きな転換点を迎える。それは、徳川家康が発令した「東海道宿駅伝馬制度」という国家プロジェクトの波が、具体的な形でこの地に及んできた年であった。その幕開けは、領主の交代という劇的な人事から始まった。

山内一豊の土佐栄転:関ヶ原の論功行賞とその意味

関ヶ原の戦いにおいて、山内一豊は東軍に与し、戦の趨勢を決定づけた「小山評定」の際に、自らの居城である掛川城を家康に提供することを率先して申し出たという逸話で知られる 25 。この功績により、戦後、一豊は土佐一国二十万石余の大名へと大出世を遂げた 14 。これは、家康による巧みな論功行賞の一例であり、一豊にとっては望外の栄転であった。

しかし、この人事には別の側面があった。一豊は豊臣恩顧の外様大名である。家康にとって、東海道の心臓部ともいえる掛川を、潜在的なリスクとなりうる外様大名の支配下に置き続けることは、自らが構築しようとする新たな支配体制の原則に反していた。一豊を土佐へ「栄転」させることは、功臣に報いると同時に、戦略的要衝を確実に掌握するための、必然的な布石であった。

松平定勝の入封:家康の腹心配置に見る掛川掌握の意志

一豊に代わって掛川三万石の新たな領主として入封したのは、松平(久松)定勝であった 26 。定勝は、家康の生母・於大の方が久松俊勝に再嫁して生まれた子であり、家康にとっては血を分けた異父弟にあたる 28 。これ以上ないほど信頼のおける親藩大名である。慶長六年二月、家康は東海道宿駅制度という国家事業を本格化させる直前に、その現場責任者として、自らの意図を最も正確かつ忠実に実行できる腹心を掛川に配置したのである 30

この城主交代は、単なる人事異動ではない。それは、掛川宿の整備が、徳川家直轄の重要プロジェクトであることを内外に示す、強烈な政治的メッセージであった。掛川の武士や町人たちは、新領主が将軍家康の実弟であるという事実に、新たな時代の到来と、この町に寄せられる幕府の並々ならぬ期待を実感したに違いない。事業の成否は、適切な人物を適切な場所に配置することにかかっているという、家康の冷徹な統治哲学がここに見て取れる。

宿駅指定の通達と、城下町に走る動揺と期待

新領主・松平定勝の着任と前後して、幕府からの宿駅指定の正式な通達が掛川の町にもたらされた。これにより、掛川は東海道二十六番目の宿場としての役割を公的に担うことになった 10

この通達は、町衆にとって光と影の両面を持っていた。光は、宿場町となることによる経済的な繁栄への期待である。参勤交代の大名行列や幕府の役人、そして多くの旅人たちがこの町を訪れ、宿泊し、金銭を落としていく。それは、町の活性化に繋がる大きな好機であった。一方、影は「伝馬役」という新たな公役の負担である。幕府の公用交通のために、定められた数の人馬を常に用意し、無償あるいは低賃金で提供しなければならない。これは、町衆の生活に重くのしかかる可能性のある、未知の責務であった。新たな時代の幕開けを前に、掛川の町は、大きな期待と一抹の不安が入り混じった、緊張感に包まれていたと推察される。

第四章:掛川宿のグランドデザインと制度設計

松平定勝の指揮の下、掛川は城下町から「城下町宿場」へと、その都市機能を大きく変貌させていく。この整備は、既存の都市構造を破壊するのではなく、巧みに再利用し、新たな機能を付加していく形で行われた。戦国時代の軍事的合理性が、近世の交通・経済的合理性へと読み替えられていったのである。

既存の町割の活用と再編:「七曲り」の防衛機能と交通路としての役割

徳川政権は、山内一豊が築いた城下町の骨格を基本的に踏襲した。特に象徴的なのが、城下東口の「新町の七曲り」である 19 。本来、敵の侵攻を妨害するためのこの屈曲路は、そのまま東海道の公式ルートとして採用された。

一見すると、円滑な交通を旨とする街道としては非効率に思えるこの選択には、二つの合理性があった。第一に、治安維持と防衛機能の維持である。天下が未だ完全には安定しない状況下で、城下町の防衛機能を保持することは依然として重要であった。第二に、経済的効果である。旅人はこの七曲りを通ることで、強制的に城下の中心部へと誘導される。これにより、街道沿いに軒を連ねる商店や旅籠に立ち寄る機会が増え、城下の経済活動が活性化する効果が期待できた。戦国時代の軍事的遺産は、平和な時代の経済振興と治安維持のツールへと、その役割を巧みに転換させられたのである。

宿場機能の中核施設の設置:本陣、脇本陣、問屋場、高札場の指定と建設

宿場町として機能するためには、その中核となる各種施設が不可欠であった。松平定勝は、幕府の規定に従い、これらの施設を城下町の適切な場所に配置していった。

  • 本陣・脇本陣 : 大名や公家、旗本といった身分の高い公用旅行者が宿泊するための公式な宿泊施設である「本陣」が指定された。後の天保十四年(1843年)の記録では、掛川宿には2軒の本陣があったとされており 13 、その原型はこの江戸初期の整備段階で定められたと考えられる。本陣は、門や玄関構えを許された格式高い屋敷であり、宿場の顔ともいえる存在であった 13
  • 問屋場 : 宿場運営の心臓部である「問屋場」が設置された 13 。ここでは、公用人馬の差配・継立、幕府公用の書状や品物を次の宿場へ送る飛脚業務、さらには公用旅行者の宿泊手配など、宿場に関するあらゆる実務が取り仕切られた 11
  • 高札場 : 幕府や領主が定めた法度や掟書などを、木の札(高札)に記して掲示する「高札場」が、多くの人の目に付く人通りの多い場所に設けられた 13 。これは、幕府の権威を視覚的に町衆に示し、新たな支配秩序を隅々まで徹底させるための重要な装置であった。

治安維持機構の確立:東西の番所(木戸)の設置と検問体制

宿場の治安を維持し、人々の往来を管理するため、町の東西の出入口には「番所」と「木戸」が設けられた 11 。17世紀末に掛川を訪れたドイツ人医師ケンペルも、その旅行記に「この町の両側(東西)には郭外の町があり、門と番所があります」と記している 13

これらの番所は、昼間は開かれていたが、夜間や非常時には木戸が閉められ、人馬の通行が厳しく制限された 11 。旅人が宿場内に入る際には検問が行われ、不審者の侵入を防ぐ役割も担っていた 13 。この構造は、山内一豊が築いた「惣構え」の出入口を、そのまま宿場のセキュリティゲートとして再利用したものであり、ここにも戦国期の遺産が近世的な治安維持システムへと転用された様が見て取れる。

第五章:伝馬役という新たな責務 ―宿場を支える人々―

掛川宿の物理的な施設(ハードウェア)が整えられる一方で、それを実際に動かすための運営システム(ソフトウェア)の構築も急ピッチで進められた。その核心にあったのが、宿場の町衆に課せられた「伝馬役」という新たな公役であり、それは幕府と町衆との間に結ばれた、義務と権利の交換に基づく一種の「社会契約」ともいえるものであった。

伝馬役の組織構造:問屋、年寄、帳付の役割と責任

宿場の円滑な運営は、問屋場に詰め、宿役人と呼ばれる人々によって担われた 11 。その組織は主に三つの役職から構成されていた。

  • 問屋(といや) : 宿場の最高責任者であり、村における名主(庄屋)に相当する役職。人馬の継立業務全体を統括し、幕府や藩との連絡調整役も務めた。
  • 年寄(としより) : 問屋の補佐役であり、村の組頭にあたる。問屋を助け、宿場内の実務を取り仕切った。
  • 帳付(ちょうつけ) : 人馬や人足の手配状況、荷物の受け渡しなどを帳簿に記録する書記役。宿場運営の正確な記録管理を担った。

これらの宿役人を中心に、掛川宿は幕府が求める公用交通の責務を日々果たしていくことになった。

人馬の常備義務(伝馬役・歩行役)と町衆の負担

伝馬制度の根幹は、宿場に住む人々が、その財力に応じて人馬を提供する義務を負うことにあった。この負担は、主に二種類に分けられた 34

  • 伝馬役(てんまやく) : 荷物を運ぶための馬を提供する義務。
  • 歩行役(かちやく) : 荷物を担いだり、駕籠を担いだりする人足(にんそく)を提供する義務。

これらの役は、宿場内の家々が所有する屋敷の間口の広さに応じて割り当てられるのが一般的であった 35 。間口が広い、すなわち裕福な家ほど重い役を課された。これは、宿場町に住む者にとって最も重い公役であり、彼らの生活に直接的な影響を与えるものであった。もし常備の人馬だけでは需要に応じきれない場合は、宿場周辺の村々が動員される「助郷(すけごう)」という制度も設けられ、負担は農村部にまで及んだ 11

負担への代償:地子免除に見る幕府のアメとムチ

幕府は、この重い公役を課す一方で、その代償として経済的な恩恵も与えた。それが「地子(じし)」の免除である 12 。地子とは、屋敷地に対して課される税金であり、これを免除することは、宿場の町衆にとって大きな経済的メリットであった。

特に注目すべきは、掛川宿における地子免除の優遇措置である。当時の東海道宿場では、伝馬役の馬一疋を負担するごとに免除される地子の面積は、平均で40坪であったのに対し、掛川宿では60坪と、他宿よりも手厚い条件が設定されていた 12

この事実は、幕府が掛川宿をいかに重要視していたかを物語っている。掛川が単なる宿場ではなく、掛川城を擁する城下町であり、さらに秋葉街道との結節点として運輸・郵送上、極めて重要な役割を担っていたからこそ、幕府はより大きな「アメ」を与えることで、より確実な公役の履行を確保しようとしたのである 12 。これは、義務と権利を交換させることで人々を支配体制に組み込み、自らの利益のために公務に励むよう仕向ける、家康の現実的な統治術の現れであった。

役職・制度

主な役割と機能

負担と権利

問屋場

宿駅運営の中核。公用人馬の継立、飛脚業務、宿泊手配 11

宿役人としての権威と運営責任。幕府からの給米(伝馬宿入用) 37

本陣・脇本陣

大名・公家など身分の高い公用旅行者の公式宿泊施設 13

格式の維持と経営負担。原則として一般客の宿泊は不可 11

伝馬役・歩行役

定められた数の馬と人足を常備し、次の宿場まで公用貨客を継送する義務 34

屋敷の間口に応じた負担 35 。地子(屋敷税)免除という経済的恩恵 12

番所(木戸)

宿場の出入口に設置され、夜間の通行制限や検問を行い治安を維持する 11

宿場全体の安全保障に貢献。番人の維持管理負担。

高札場

幕府や領主の法度・掟書を掲示し、権威を周知させる 13

住民への法令遵守の義務付け。

第三部:整備後の掛川と東海道 ―新たな時代の胎動―

第六章:インフラ整備の進展と経済の活性化

慶長六年(1601年)の宿場整備は、掛川と東海道の歴史における新たな時代の幕開けであった。これを起点として、街道インフラはさらに拡充され、人・モノ・情報の往来は飛躍的に活発化する。それは、掛川の地域経済に大きな変革をもたらし、既存の経済ネットワークと結びつくことで、より広域な経済圏の形成を促す力となった。

慶長九年(1604年)の一里塚設置:掛川周辺(佐夜鹿、伊達方、葛川、大池)の整備

宿場制度の制定から三年後の慶長九年(1604年)、家康は街道整備の次なる一手として、道中奉行・大久保長安らに命じ、主要街道に一里(約3.9キロメートル)ごとの道標となる「一里塚」を築かせた 11 。これは、江戸・日本橋を基点として全国の距離を標準化する画期的な事業であった。

街道の両脇に土を盛り、その上に榎や松などを植えた一里塚は、旅人にとって距離を知るための目印であると同時に、夏の暑い日には木陰を提供し、冬の寒い日には風を避ける格好の休憩場所となった 40 。掛川市内およびその近郊には、江戸から数えて佐夜鹿(さよしか)、伊達方(だてかた、57里目)、葛川(くずかわ、58里目)、大池(おおいけ、59里目)などの一里塚が設けられ、東海道というインフラの物理的な完成度を一層高めた 41

人・モノ・情報の往来:継飛脚による情報伝達の高速化

宿駅制度が確立されたことで、幕府公用の通信システムである「継飛脚(つぎびきゃく)」が本格的に稼働を始めた。これは、各宿場に待機する飛脚が、幕府の重要公文書などをリレー形式で次々と受け渡していくシステムである 45

この継飛脚の速度は驚異的であった。記録によれば、江戸から京都までの約500キロメートルの距離を、通常便で約90時間(4日弱)、超特急便に至っては56時間から60時間(2日半程度)で結んだという 46 。人間の脚力だけでこれを実現した継飛脚は、まさに当時の情報ハイウェイであった。掛川宿もこの国家の神経網の重要な中継拠点として、江戸からの指令や各地からの報告を瞬時に伝達する役割を担い、徳川幕府の中央集権的な支配体制を情報通信の面から支えたのである。

地域経済への波及効果:特産品「葛布」の流通拡大と秋葉街道との結節点としての繁栄

東海道という大動脈の機能が強化されたことは、掛川の地域経済に計り知れないほどの好影響をもたらした。交通量の増大は、新たな需要とビジネスチャンスを生み出したのである。

その最も顕著な例が、掛川の特産品であった「葛布(くずふ)」の隆盛である。葛の蔓から採った繊維で織られるこの布は、軽くて丈夫で独特の光沢を持つことから、古くは鎌倉時代から知られていた 18 。江戸時代に入り、東海道を参勤交代で往来する諸大名や武士たちが、その品質の高さに注目した。彼らは掛川宿に立ち寄った際に、葛布を土産品として買い求め、武士の正装である裃(かみしも)や、乗馬袴、道中合羽などに仕立てて愛用した 47 。これにより、「遠州掛川の葛布」の名は全国に轟き、一大ブランドへと成長を遂げた 50

さらに、国家プロジェクトとして東海道のハブ機能が強化されたことは、既存のローカルな経済ルートであった「塩の道(秋葉街道)」にも相乗効果をもたらした。東海道を通じて掛川を訪れる膨大な数の人々は、新たな消費者であり、流通業者であった。彼らによって、秋葉街道を通じて掛川に集まる遠州灘の塩や海産物、あるいは信州の産物などが、東海道という全国規模の巨大な市場へと接続されていった。掛川は、東西と南北の物流が交差する結節点としての地位を不動のものとし、広域経済圏の中心地として、かつてない繁栄の時代を迎えることになったのである。

終章:掛川宿整備が歴史に刻んだもの

慶長六年(1601年)の掛川宿整備は、単なる一地方都市の出来事ではない。それは、日本の歴史が大きな転換点を迎えたことを象徴する、多層的な意味を内包した大事業であった。

第一に、それは戦国的秩序から近世的秩序への移行の象徴であった。山内一豊が築いた、軍事防衛を主眼とする「城下町」の構造を継承しつつ、徳川幕府がそこに交通、情報、経済を主眼とする「宿場町」の機能を上書きしたプロセスは、日本社会が「戦(いくさ)」の時代から「治(ち)」の時代へと移行したことを明確に示している。防衛のための「七曲り」が、経済振興の装置へと役割を変えた事実は、その好例である。

第二に、それは徳川二百六十年の平和を支えたインフラの礎石であった。掛川宿を含む東海道宿駅制度の確立は、徳川幕府による中央集権的な支配体制を物理的に支える大動脈を完成させた。人、モノ、情報の流れを江戸中心に一元管理することで、幕府は全国を隅々まで統制し、長期にわたる安定政権の基盤を築くことに成功した。掛川宿は、その巨大なシステムを支える、不可欠な歯車の一つとして機能し続けたのである。

そして最後に、この整備事業は現代に繋がる掛川の都市構造と歴史的遺産を決定づけた。山内一豊が設計し、徳川幕府が再定義した城下町宿場の骨格は、今日の掛川市の中心市街地の街路や区画に今なおその面影を色濃く残している。戦国と近世、二つの時代の都市設計思想が重層的に存在するこの町の歴史こそが、現代の掛川のユニークな文化的アイデンティティを形成しているといえよう。慶長六年のあの日、新たな時代の要請に応えるべく行われた整備事業は、四百年の時を超えて、今なお我々にその歴史の息吹を伝えているのである。

引用文献

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  2. 徳川家康が行った江戸時代の大名配置 - 名古屋刀剣博物館 https://www.meihaku.jp/tokugawa-15th-shogun/daimyo-assign-edo/
  3. 江戸幕府を開いた徳川家康:戦国時代から安定した社会へ | nippon ... https://www.nippon.com/ja/japan-topics/b06907/
  4. 江戸時代の大名配置 - 香川県 https://www.pref.kagawa.lg.jp/documents/14700/e6_sh_ha_08.pdf
  5. 歴史についての単純なギモン~江戸幕府の大名配置について~|葛飾西山 - note https://note.com/katsushika_note/n/n5f61e7dfbac9
  6. 徳川家康 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B7
  7. 道路:道の歴史:近世の道 - 国土交通省 https://www.mlit.go.jp/road/michi-re/3-1.htm
  8. 祝 東海道五十七次400周年 https://tokaido.org/tokaido57-400years/
  9. 妻籠 完璧に保存された宿場町 https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/common/001554496.pdf
  10. 東海道五十三次(五十七次)とは - 藤沢市 https://www.city.fujisawa.kanagawa.jp/bunkazai/kyoiku/bunka/kyodoshi/gojusantsugi.html
  11. “街道と宿場”の豆知識 http://akiyama.my.coocan.jp/kaiteikaidoumame.pdf
  12. お茶街道/掛川宿の歴史 http://www.ochakaido.com/rekisi/kaido/index-ka.htm
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  14. 遠江国 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A0%E6%B1%9F%E5%9B%BD
  15. 一豊、掛川城および城下町を整備する(1590から1600) - 掛川市 https://www.city.kakegawa.shizuoka.jp/gyosei/docs/7422.html
  16. 第1章 歴史的風致形成の背景 - 掛川市 https://www.city.kakegawa.shizuoka.jp/fs/1/7/6/4/6/2/_/03chapter1.pdf
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