最終更新日 2025-10-07

新町宿整備(1602)

新町宿整備(1602年)は誤認。17世紀半ば以降、参勤交代と土木限界で中山道宿場として発展、1724年正式成立。戦国から江戸への社会変革を象徴。
Perplexity」で事変の概要や画像を参照

戦国の終焉、江戸の合理:中山道新町宿成立の真相と日本近世国家形成の力学

序章:慶長七年(1602年)の神話と史実 — 「新町宿整備」の謎を解き明かす

ユーザー提示情報の分析と問題提起

本報告書の分析は、提示された「新町宿整備(1602):上野国:新町宿:渡良瀬川筋の宿場を公儀規格に整備」という情報から始まる。この記述は、一見すると具体的な歴史的事実を指し示しているように見える。しかし、詳細な史料分析の結果、この情報にはいくつかの重大な事実誤認が含まれていることが判明した。

第一に、そして最も決定的な点として、慶長七年(1602年)の時点で中山道に「新町宿」は存在しない 1 。新町宿は中山道六十九次の中で最も遅く、17世紀半ば以降にその原型が形成され始め、正式な宿場として成立するのは18世紀に入ってからである。第二に、地理的な誤認がある。新町宿が位置するのは渡良瀬川流域ではなく、神流川と烏川の合流点に近い地域である 2

この史実との乖離は、単なる間違いとして片付けるべきではない。むしろ、この誤解そのものが、戦国時代から江戸時代へと移行する日本の大きな社会変革を理解するための重要な鍵を握っている。なぜ「1602年」という年が重要視され、それが存在しなかったはずの新町宿と結びつけられたのか。この問いを探求することは、徳川幕府による国家規模のインフラ整備という「公儀規格」の思想が、いかにして生まれ、そして現実の地理と社会の中でどのように適用、あるいは修正されていったのかを解き明かすことに繋がる。提示された情報は、その精神において、戦国の混沌から生まれた近世国家の秩序形成という本質を捉えているのである。

レポートの構成と目的

本報告書は、上記の謎を解き明かすため、以下の構成で論を進める。

まず、慶長七年(1602年)に徳川幕府が発した街道整備令が持つ真の歴史的意義を、「戦国時代という視点」から深く掘り下げる。次に、なぜその壮大な初期構想の中に新町宿が含まれていなかったのか、その地理的、政治的、そして技術的な背景を明らかにする。

そして、本報告書の中核として、全くの無名の村々が国家的な幹線道路の要衝へと変貌を遂げるまでの約70年以上にわたるプロセスを、リアルタイムの時系列に沿って徹底的に追跡する。これにより、新町宿の誕生が単なる幕府の命令によるものではなく、時代の要請と地域の現実が織りなす中で生まれた歴史的必然であったことを論証する。最終的に、この一つの宿場の成立史を通して、戦国の論理から江戸の合理へと移行する時代のダイナミズムを浮き彫りにすることを目的とする。


第一章:戦国の終焉と街道の黎明 — 徳川家康による国家再編事業

分断された道:戦国時代の交通インフラ

戦国時代、日本列島の交通網は統一されたネットワークとは程遠い状態にあった。街道は各戦国大名の領国を繋ぐ軍事路であり、国境には関所が乱立し、物流や人の往来は常に分断の危機に晒されていた。特に、後の新町宿が設置される上野国(現在の群馬県)は、甲斐の武田氏、越後の上杉氏、そして相模の後北条氏という三大勢力が覇を競う最前線であり、交通網は恒常的な軍事的緊張下に置かれていた。

この地域の力学を大きく変えたのが、天正十年(1582年)、織田信長が本能寺で倒れた直後に発生した「神流川の戦い」である 4 。織田家の重臣であった滝川一益と後北条氏の大軍が激突したこの合戦は、戦国期関東における最大級の野戦とされ、その結果、後北条氏が上野国における支配権を確立した。この戦いの古戦場碑が、奇しくも後に誕生する新町宿のすぐ近く、神流川のほとりに建てられていることは、この地が戦国時代から交通・軍事上の要衝であったことを物語っている 6 。この戦いを通じて形成された関東の勢力図は、後の徳川家康による支配体制構築の素地となった。

天下統一とロジスティクス革命:なぜ家康は道を求めたのか

慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いで勝利し、天下の覇権を確立した徳川家康は、国家統治の根幹が単なる軍事力だけでなく、情報と物資の迅速かつ安定的な移動、すなわち優れたロジスティクスにあることを深く理解していた 7 。戦国時代の経験は、分断された交通網がいかに国家の統一を妨げるかを彼に教えていた。

家康が着手した五街道の整備は、戦国の論理、すなわち軍事行動を最優先する発想から、天下泰平の論理、すなわち政治的・経済的安定を志向する発想への歴史的転換を象徴する国家事業であった。特に、江戸の日本橋を起点として全国に道を張り巡らせるという構想は、それまでの京都を中心とした伝統的権威の地理観を、江戸を中心とする新たな支配体制の地理観へと物理的に書き換える試みであった 8 。道そのものが、新しい時代の秩序を可視化する装置だったのである。

慶長七年(1602年)の宿駅制定令:中山道、公儀の道へ

家康の構想が具体化したのが、慶長七年(1602年)であった。この年、徳川氏は中山道沿いの宿場に対し、公用の人馬を提供する「伝馬(てんま)」の義務を課す朱印状を発行した 10 。これは、中山道が個々の大名の領内路から、幕府が管轄する公式な路線、すなわち「公儀の道」へと生まれ変わった画期的な瞬間であった。

この宿駅制度は、後の寛永十二年(1635年)に制度化される参勤交代に先立つものであり、当初の目的は幕府役人の往来、公文書の迅速な伝達、そして有事の際の軍事物資の輸送といった、より直接的な統治機能の確立にあった 7 。中山道では各宿場に50人50疋の人馬を常備することが義務付けられ、これにより江戸と各地を結ぶ国家的な通信・輸送ネットワークの骨格が形成された 12

しかし、この壮大な計画は一夜にして完成したわけではない。宿駅の整備は段階的に進められ、全ての宿場が一斉に機能し始めたわけではなかった 10 。そして、この1602年の時点での計画図には、まだ「新町宿」の名は記されていなかった。この事実は、徳川政権の国家建設が、まず壮大なグランドデザインを描き、その後、現実の必要性に応じてそれを修正・発展させていくという、長期的かつ実践的なプロセスであったことを示唆している。1602年の宿駅制定令は、単なるインフラ整備事業ではなく、戦国大名たちの意識をそれぞれの領国から新たな中央政権である江戸へと強制的に向けさせる、高度な心理的・政治的戦略でもあった。街道の維持という共通の義務を課すことで、徳川氏は大名たちを新たな統治システムの中に組み込んでいったのである。


第二章:初期中山道の経路 — なぜ「新町」は存在しなかったのか

幻のルート:「玉村通り」の実態

慶長七年(1602年)に定められた初期の中山道は、今日の我々が知るルートとは一部異なっていた。特に問題となる本庄宿と倉賀野宿の間では、道は現在のように神流川を渡って西へ直進するのではなく、大きく北へ迂回していた。具体的には、武蔵国・本庄宿を出た旅人は、神流川を渡った後、金久保村(現在の埼玉県児玉郡上里町)付近から北に進路を変え、利根川水系の烏川の北岸に位置する玉村(現在の群馬県佐波郡玉村町)を経由し、そこから西へ向かって倉賀野宿に至っていた 1

この「玉村通り」とも呼ばれるルートは、古代から中世にかけての官道であった東山道の経路をおおむね踏襲していたと考えられている。既存の集落を結び、比較的渡河しやすい地点を選んで設定された、いわば伝統的な道筋であった。玉村は、後に中山道の倉賀野宿から分岐して日光へ向かう日光例幣使街道の宿場ともなる交通の要衝であり、初期ルートの選定においてその重要性が考慮されたことは想像に難くない 13

ルート選定の地理的・技術的背景

なぜ、初期の幕府は一見して非効率な迂回ルートを選んだのか。その理由は、当時の地理的条件と土木技術の限界にあった。

最大の要因は、神流川の存在である。神流川は利根川水系の中でも特に水量の変動が激しい「暴れ川」として知られ、歴史を通じて頻繁に洪水を引き起こしてきた 2 。寛永八年(1631年)には大洪水で流域の寺社が水没したという記録も残っている 4 。17世紀初頭の土木技術では、このような大河に恒久的な橋を架けることは極めて困難であり、交通は渡し船や、水量が少ない時期に架けられる仮の土橋に依存していた 14

このような状況下で、国家の最重要幹線道路のルートを定めるにあたり、幕府が信頼性と安定性を最優先したのは当然の判断であった。洪水のたびに通行不能になるリスクを抱えた直進ルートよりも、多少遠回りであっても、より安定した渡河地点を通り、既存の集落インフラを活用できる「玉村通り」を選択することは、当時の制約の中では最も合理的かつ保守的な選択だったのである。

この初期ルートの選定は、成立間もない徳川政権の性格をよく表している。彼らは理想的な効率性よりも、まずは確実な運用を優先した。それは、まだ国内に不安定要素を抱え、権力基盤を固めている最中の政権にとって、インフラ整備におけるリスクを最小限に抑えようとする現実的なアプローチであった。この「玉村通り」が「不便」であると認識されるようになるには、街道交通の性質そのものが劇的に変化する、新たな時代の到来を待たねばならなかった。

表1:中山道・本庄宿〜倉賀野宿間 新旧ルート比較

比較項目

旧ルート(玉村通り)

新ルート(新町宿経由)

主な経由地

金久保、玉村 1

神流川渡河点、落合、笛木 2

距離

比較的長い(迂回)

3里20町(約14km)、短縮・直線化 15

主要な渡河

烏川北岸を経由し、渡河の困難を回避

神流川の直接横断 1

利点

既存集落の活用、治水上の比較的高い安定性

距離の大幅な短縮、時間と経費の削減

欠点

迂回による時間・経費の増大

神流川渡河の困難さ、頻発する洪水のリスク 2

背景

幕府初期の安定性・信頼性重視の計画

参勤交代の効率化を求める加賀藩の要請 1


第三章:新ルートの胎動 — 加賀百万石の参勤交代と幕府の思惑(17世紀半ば)

参勤交代という国家的プレッシャー

慶長七年(1602年)の宿駅制定から約30年後、日本の交通事情を一変させる制度が導入される。寛永十二年(1635年)、三代将軍家光によって参勤交代が制度化されたのである。これにより、全国の諸大名は定期的に江戸と自領を往復することが義務付けられ、街道の交通量は爆発的に増加した。

中でも中山道は、加賀百万石と称された前田家をはじめ、信濃や北陸の有力大名が利用する最重要幹線の一つとなった。加賀藩の参勤交代の行列は、時に2000人から4000人にも達する壮大なものであった 16 。この巨大な集団が十数日間にわたって移動することは、莫大な経費を要する一大事業であり、その額は数千両、現代の価値で数億円に上ったと推定される 17 。一行の宿泊、食料や馬の調達は、沿道の宿場にとって大きな経済的負担であると同時に、またとない商機でもあった。

効率化への渇望:加賀藩による新道開拓

このような状況下で、「玉村通り」の大きな迂回は、加賀藩にとって看過できない非効率性となっていた。巨大な行列を率いて一日余分な行程を費やすことは、時間的にも経済的にも大きな損失を意味する。経費削減は全ての藩にとって至上命題であり、加賀藩も例外ではなかった 17

この問題を解決するため、加賀藩が主体となって、本庄宿から神流川をほぼまっすぐに渡り、倉賀野宿へと至る短絡路を開拓した、とする説が有力である 1 。これは、単なる一藩の都合が、国家の公式なインフラである街道のルートそのものを変更させるという、画期的な出来事であった。参勤交代は、元来、大名に経済的負担を強いることでその勢力を削ぎ、幕府への忠誠を確保するという政治的意図を持つ制度であった。しかし、その重圧下にあった大名側も、ただ受動的に従うだけでなく、経費削減のために様々な合理化・効率化を模索していた。新ルートの開拓は、その最もダイナミックな現れと言える。

幕府の承認:時代の変化と合理的精神

一介の藩の提案が、なぜ幕府に受け入れられたのか。その背景には、17世紀半ばという時代の変化がある。徳川の治世は盤石となり、社会の優先順位は、関ヶ原直後の軍事的緊張と統制の確立から、経済の円滑な運営と社会全体の効率性へと徐々にシフトしていた。

加賀藩の提案は、幕府自身の利益にも合致するものであった。全国の交通網をより合理的なものに再編することは、幕府の公用旅行や物資輸送の効率化にも繋がり、ひいては国家全体の経済活動を活性化させる。加賀藩という最大の外様大名が、自らの資金と労力を投じて国家インフラの改善に貢献することは、幕府にとっても歓迎すべきことであった。

このルート変更の承認は、徳川幕府の統治体制が成熟期に入ったことを示している。それは、もはや一方的なトップダウンの命令だけで国を動かすのではなく、有力なステークホルダーからの合理的な提案を容れ、交渉を通じて政策を最適化していくという、より高度な政治的判断が可能になったことの証左である。加賀藩は、このインフラ整備への貢献を通じて、自らの強大な経済力を示すと同時に、徳川の統治システムの中で建設的な役割を果たす存在であることをアピールした。こうして、支配者と被支配者という単純な二項対立から、不平等ながらも共生的なパートナーシップへと、幕府と大名の関係性が静かに変化していく。その象徴的な舞台となったのが、後に新町宿が生まれる上野国の荒野だったのである。


第四章:無名の村から宿場へ — 新町宿誕生のリアルタイム・クロニクル(1651年〜1724年)

中山道の新ルートが現実のものとなると、新たな問題が浮上した。本庄宿と倉賀野宿の間、特に頻繁な川止めが予想される神流川の近辺に、旅人や荷物を中継する宿場が存在しないのである 18 。この交通運輸上の不便を解消するため、幕府は全く新しい宿場を人為的に創設するという前例の少ない事業に着手する。それは、1世紀近くに及ぶ、壮大な町づくりの始まりであった。

慶安四年(1651年):落合村、宿駅となる

この年のことである。烏川の南岸に位置する上野国緑野郡の一介の農村、落合村に対し、幕府から突如として伝馬役が命じられた 2 。これが、後の新町宿の西半分を形成する「落合新町」の誕生の瞬間である。

当時の落合村の村民にとって、この命令はまさに青天の霹靂であったに違いない。彼らの生活は、農業を中心に営まれ、そのリズムは季節の移ろいと共にあった。そこへ、公用の武士や飛脚のために定められた数の人足と馬を常に用意し、彼らの宿泊の世話をし、次の宿場まで荷物を継ぎ送るという、全く異質な責務が課せられたのである。村の社会構造、経済活動、そして人々の意識そのものが、根底から覆されることになった。この命令一つで、落合村は否応なく国家の巨大な交通システムの一部に組み込まれた。

承応二年(1653年):笛木村、後に続く

落合村への命令から二年後、隣接する笛木村にも同様に伝馬役が命じられ、「笛木新町」が成立した 1 。これにより、後の新町宿の東半分が形作られることになった。

なぜ幕府は二つの村に分割して宿場機能を命じたのか。それは、一つの村だけでは、新たに設定される宿場としての重責を担うには人口も経済力も不十分だったためと推測される。幕府は、二つの村を一体的に開発し、一つの大きな宿場町として機能させるという長期的な都市計画を描いていたのである。

承応三年(1654年):中山道、南へ動く

そして、落合・笛木両新町に伝馬役が命じられた翌年の承応三年、中山道の公式ルートは、従来の「玉村通り」から、この二つの新しい宿駅を経由する南岸の新ルートへと正式に変更された 1

この日を境に、人の流れは劇的に変わった。初めて加賀藩の大名行列が、まだ宿場としての体裁も整わない落合・笛木の新道を通った時の情景は、期待と混乱に満ちていたであろう。村民は総出で対応にあたり、一方で、旧ルート沿いの玉村宿は、これまで享受してきた経済的恩恵を失い、静かな衰退の道を歩み始めることになった。道の変更は、地域の盛衰を直接的に左右する、まさに生命線だったのである。

双子宿の時代(1654年〜1724年):協力と競合の70年

公式ルートが変更された後も、落合新町と笛木新町は、行政上は別個の村として約70年間存続した 2 。この長い期間、両者は一つの宿場機能を分担しながら、いわば「双子の宿」として歩んでいく。

古文書には「落合新町」「笛木新町」と区分して記されており、名主などの村役人もそれぞれに置かれていた 19 。彼らは公用の伝馬業務では協力しつつも、旅籠の誘致や商業活動においては、互いに競合することもあっただろう。この70年という歳月は、二つの異なる共同体が、中山道という一本の道に沿って生活する中で、徐々に融合し、一つの「新町宿」という共通のアイデンティティを育んでいくための、重要な熟成期間であった。

享保九年(1724年):正式な「新町宿」の誕生

最初の伝馬役命令から73年の歳月が流れた享保九年(1724年)、ついに落合新町と笛木新町は行政的にも正式に合併し、「新町宿」として中山道六十九次の一宿として公式に認められた 1 。中山道全体の宿駅制度が制定された慶長七年(1602年)から数えれば、実に122年後のことであった 1

この長いタイムスパンは、一つの宿場が「創られる」プロセスが、単なる幕府の鶴の一声で完結するものではなく、地域の社会が新たな役割に適応し、経済的な基盤を築き、共同体として成熟していくのを待つ、有機的で時間のかかる過程であったことを雄弁に物語っている。幕府の官僚機構は、機能が確立されていれば、行政上の統合を急がなかった。この慎重で現実的なアプローチこそ、二百数十年続く江戸の泰平を支えた統治の知恵であったのかもしれない。

表2:新町宿成立に至る時系列表

年代(西暦/和暦)

主要な出来事

意義と関連事項

1582年(天正10)

神流川の戦い

後の新町宿近辺で発生。徳川氏による関東支配の素地を形成 4

1600年(慶長5)

関ヶ原の戦い

徳川家康が覇権を確立。全国的な支配体制の構築に着手。

1602年(慶長7)

中山道宿駅制定令

幕府が中山道を公儀の道と定め、伝馬制度を開始 10

1635年(寛永12)

参勤交代の制度化

街道交通量が激増。特に加賀藩などにとって中山道が重要に。

1651年(慶安4)

落合村に伝馬役命令

「落合新町」が成立。新町宿の原型が誕生 2

1653年(承応2)

笛木村に伝馬役命令

「笛木新町」が成立。宿場の規模拡大が図られる 2

1654年(承応3)

中山道ルート変更

公式ルートが玉村通りから新町経由の新道へ移行 1

1654年-1724年

双子宿の時代

落合・笛木両新町が行政的に独立しつつ、一体的に機能。

1724年(享保9)

新町宿として正式合併

落合・笛木が合併し、中山道で最も新しい宿場が正式に成立 1


第五章:確立された新町宿の実像

長い年月を経て正式な宿場となった新町宿は、中山道における重要な中継点として、また独自の文化を持つ町として発展を遂げていった。その姿は、計画的に創られた宿場ならではの合理性と、川と共に生きる地理的宿命によって色濃く特徴づけられている。

宿場の規模と機能:中堅宿場としての姿

江戸後期の天保十四年(1843年)の記録によると、新町宿の規模は人口1,437人、家数407軒に達していた 1 。宿場としてのインフラも充実しており、大名や公家が宿泊する本陣が2軒(小林甚左衛門本陣、久保五左衛門本陣)、それを補佐する脇本陣が1軒、そして一般の旅籠が43軒も軒を連ねていた 1 。また、人馬の継ぎ立て業務を司る問屋も4軒あり、中山道の中では中堅規模の、活気ある宿場であったことがうかがえる。特に本陣が2軒も存在したことは、参勤交代の大名など、格式の高い旅行者の宿泊需要がそれだけ高かったことを示している。

地理的宿命:「川止めの宿」としての役割

新町宿の性格を最も決定づけたのは、その立地であった。西に神流川、東に烏川という二つの川に挟まれたこの宿場は、特に神流川の増水による「川止め」で足止めを食らう旅人たちで賑わう、「川止めの宿」としての役割を担っていた 3

神流川の洪水は、時に宿場に甚大な被害をもたらした。家屋が97軒も押し流され、54人もの死者を出したという記録も残っている 2 。しかし、その一方で、川止めは宿場に経済的な恩恵をもたらすという側面も持っていた。数日間、時にはそれ以上に足止めされた旅人や商人たちは、宿に泊まり、食事をし、物資を買い求める。彼らの消費が、新町宿の経済を潤したのである。

この川との共存関係を象徴するのが、神流川の両岸に建てられた「見透灯籠」と呼ばれる常夜灯である。これは文化十二年(1815年)に、対岸の本庄宿の商人・戸谷半兵衛が中心となって建立したもので、夜間に川を渡る旅人の安全を確保するための道標であった 14 。この灯籠には、俳人・小林一茶も寄進したという逸話が残っており 20 、川の安全な往来を願う人々の切実な思いと、川を挟んだ両宿場の経済的な結びつきを今に伝えている。

宿場の文化と人々の暮らし

多くの人々が行き交う宿場では、独自の文化や信仰が育まれた。その代表が、飯盛女(めしもりおんな)・於菊の伝説で知られる「於菊稲荷神社」である 5 。旅籠で働いていた於菊が病に倒れた際、稲荷神の霊験によって快癒し、巫女になったという物語は、宿場で働く人々のささやかな祈りや願いを反映している。

時代が明治に移っても、新町宿は交通の要衝としての役割を担い続けた。明治十一年(1878年)、明治天皇が北陸巡幸の際にこの地で宿泊することになり、そのために行在所(あんざいしょ)が新築された 21 。天皇を迎えるために新たな建物を建設するのは全国的にも珍しい事例であり、地域を挙げての歓迎ぶりは、この町が持つ活気と誇りを示している 3 。さらに、明治十年(1877年)には官営の新町紡績所が操業を開始し、富岡製糸場と並ぶ日本の近代産業化の拠点としても発展した 3

このように、新町宿は江戸時代の宿場町としての役割を終えた後も、時代の変化に対応しながら、交通、そして産業の拠点としてその重要性を保ち続けたのである。


結論:戦国の論理から江戸の合理へ — 新町宿が物語る時代の転換

新町宿成立プロセスの総括

本報告書で詳述した通り、中山道新町宿の成立は、慶長七年(1602年)という単一の時点における「事変」ではなく、戦国の終焉から江戸時代中期に至る1世紀以上の長大な時間軸の中で展開された、動的かつ有機的な歴史的プロセスであった。

その過程は、以下の五つの段階に要約できる。

  1. 国家統一インフラの初期構想(1602年) :徳川幕府が、軍事的・政治的統制を目的として、信頼性を優先した「玉村通り」を含む中山道の宿駅制度を制定した。
  2. 交通需要の構造的変化 :参勤交代の制度化により、街道交通が定期的かつ大規模なものとなり、経済効率性が新たな課題として浮上した。
  3. 最大ステークホルダーによる効率化の要求 :最大の利用者である加賀藩前田家が、経済的負担を軽減するため、より直線的な新ルートの開拓を主導した。
  4. 幕府の合理的判断によるルート変更 :幕府は、社会全体の利益に繋がるとしてこの提案を承認し、国家インフラの最適化を図った。
  5. 地域社会を巻き込んだ宿場町の形成(1651年〜1724年) :幕府の命令を受けた地域の村々が、70年以上の歳月をかけて協力と競合を繰り返しながら、一つの機能的な宿場町「新町宿」を形成していった。

時代精神の変遷を映す鏡として

この一連のプロセスは、日本社会を支配する根本的な論理が、「戦国時代の軍事優先・現状維持」から、「江戸時代の経済性・効率性重視」へと大きく移行していく様を見事に映し出している。

初期の「玉村通り」が、戦乱の記憶が生々しい中で安定性を最優先した、いわば「戦国の論理」の産物であるとすれば、新町宿を生んだ新ルートは、天下泰平が定着し、人々の関心が経済活動と生活の合理化へと向かう中で生まれた、まさに「江戸の合理」の象徴であった。

新町宿は、徳川の治世が安定期に入り、社会がより複雑で効率的なシステムへと成熟していく過程で誕生した、「新しい時代の町」なのである。本報告書の出発点となった「1602年」という時点から、この宿が実際に誕生するまでの122年という時間の隔たりそのものが、戦国から江戸へという巨大な社会変革のスケールと、その中で日本の国家と社会がいかにして新たな秩序を築き上げていったかを、何よりも雄弁に物語っている。新町宿の歴史は、一つの宿場の物語であると同時に、近世日本の形成史そのものの縮図なのである。

引用文献

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  3. 歴史紹介動画「高崎の中山道を歩く~新町・倉賀野編~」 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=NLVwFpR_upE
  4. 中山道最大の宿『本庄宿』の再発見 vol.10 - 埼玉県 https://www.pref.saitama.lg.jp/b0111/midokoro-nakasendou10.html
  5. 群馬県高崎市 新町 - JAPAN GEOGRAPHIC https://japan-geographic.tv/gunma/takasaki-shinmachi.html
  6. 本部長の群馬紀行 第52回 中山道(その3) https://www.mod.go.jp/pco/gunma/honbucho/gunmakikou/gunmakikou_52.html
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  8. 江戸時代に整備された「五街道」に思いを馳せる - 関東通信工業株式会社 https://kantuko.com/ncolumns/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AB%E6%95%B4%E5%82%99%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%80%8C%E4%BA%94%E8%A1%97%E9%81%93%E3%80%8D%E3%81%AB%E6%80%9D%E3%81%84%E3%82%92%E9%A6%B3%E3%81%9B%E3%82%8B/
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  20. 英泉の浮世絵『木曽路本庄宿神流川渡場』に描かれている“見通燈篭”について関連した資料があったら知りた... | レファレンス協同データベース https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?page=ref_view&id=1000048109
  21. 【第43回】みちびと紀行 ~中山道を往く(本庄宿~新町宿) https://michi100sen.jp/specialty/michibito/043.html
  22. 新町宿-中山道(上州路) - 群馬県:歴史・観光・見所 https://www.guntabi.com/kaidou/nakasen/sin.html
  23. 明治天皇新町行在所 - 高崎市文化財情報 - Takasaki City Office https://www.city.takasaki.gunma.jp/site/cultural-assets/6464.html