最終更新日 2025-09-27

新発田城改修(1598)

慶長三年、溝口秀勝は新発田城を改修。豊臣政権末期の越後を治め、水と土を活かした要塞を築いた。関ヶ原の戦いでは上杉遺民一揆を鎮圧し、新発田藩の礎を築いた。
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慶長三年 新発田城改修の真相 ― 豊臣政権末期、越後の地における戦略的要塞化の実態

序章:菖蒲城、黎明の刻

慶長三年(1598年)。この年は、日本の歴史が大きな転換点を迎えた刻として記憶される。天下を統一した太閤・豊臣秀吉がその生涯を終え、長きにわたった戦国の世が実質的な終焉を迎える一方で、次なる覇権を巡る動乱の序章が静かに幕を開けた年である。この歴史の分水嶺において、越後国新発田の地で開始された一つの城郭改修事業があった。それは、表面的には新領主による居城の整備という、当時としてはありふれた事象に過ぎない。しかし、その背景を深く探る時、我々はこの「新発田城改修」が、単なる一地方の土木事業ではなく、豊臣政権末期の国家戦略と、来るべき時代の混沌を乗り切るための緻密な計算の上に成り立った、極めて重要な国家的事業であったことを知るのである。

本報告書は、「新発田城改修(1598)」という事象を、戦国時代末期の政治的・軍事的文脈の中に正確に位置づけ、その歴史的意義を多角的に解明することを目的とする。単に「堀と曲輪を整備し防備を強化した」という事実の確認に留まらず、なぜその年に、その場所で、そのような大規模な改修が必要とされたのか。その決断を下した新領主・溝口秀勝の戦略、そして改修された城が果たした役割までを、時系列に沿って徹底的に論証する。周囲の湿地に咲き誇る花菖蒲から「菖蒲城」とも呼ばれたこの城が 1 、その雅な異名とは裏腹に、いかに緊迫した情勢下で、来るべき戦乱に備えるべく築かれた戦略的要塞であったか。その真相に迫りたい。

第一章:激動の前夜 – 慶長三年、越後情勢の胎動

新発田城改修の直接的な引き金となったのは、豊臣秀吉がその最晩年に断行した、大規模な国替えであった。それは、秀吉の天下統一事業の総仕上げであると同時に、彼自身の死期を悟った上での、後継体制の安定化に向けた最後の布石でもあった。

豊臣政権末期の全国動静と秀吉の死期

慶長三年を迎えた時点で、豊臣政権は盤石とは言い難い状況にあった。二度にわたる朝鮮出兵(慶長の役)は泥沼化し、諸大名の間に厭戦気分が蔓延していた 3 。そして何より、政権の絶対的な支柱である秀吉自身が、春の「醍醐の花見」で最後の栄華を誇示したものの、その健康状態は急速に悪化の一途を辿っていた 4 。自らの死期を悟った秀吉は、幼い嫡子・秀頼の将来を案じ、政権運営を徳川家康、前田利家ら有力大名による「五大老」と、石田三成ら子飼いの吏僚による「五奉行」の合議制に託すことで、家康の独走を抑え込もうと図った 5 。この政権中枢における脆弱なパワーバランスが、全国の情勢に緊張をもたらしていた。

上杉景勝の会津移封という大戦略

こうした緊迫した状況下、慶長三年一月、秀吉は一つの重大な命令を下す。五大老の一人であり、越後国春日山城主であった上杉景勝に対し、会津百二十万石への加増移封を命じたのである 5 。これは表向き、景勝に対する破格の厚遇であったが、その真の狙いは極めて戦略的なものであった。すなわち、奥州の独眼竜・伊達政宗を強力に監視し、同時に関東で二百五十万石の広大な領地を誇る徳川家康を背後から牽制するための、絶妙な配置であった 7 。かつて秀吉が家康を関東へ移封したように、有力大名をその故地から切り離し、戦略的要衝に再配置することで、豊臣政権の支配を盤石にするという、秀吉一流の国家構想の一環であった 9 。この一つの国替えは、単なる人事異動ではなく、秀吉の描く「対家康・対伊達」包囲網の完成を意味する、大局的な一手だったのである。

権力の空白地帯と化した越後と新たな支配体制

上杉景勝という、謙信以来この地を治めてきたカリスマ的領主が去ることにより、越後国には一時的に権力の空白が生まれることになった。秀吉はこの地を、自らの子飼いである堀秀治に与え、春日山城主とした。しかし、広大で複雑な越後一国を秀治一人で統治させることには不安があった。特に、上杉氏への忠誠心篤い国人や領民による一揆の発生は、十分に予測される事態であった。

そこで秀吉は、堀秀治を総責任者としつつ、その「与力大名」として二人の武将を配置するという、巧みな分担統治策を講じた。北の庄内方面への備えとして村上頼勝を村上(本庄)九万石に、そして東の会津街道の入り口を固める要衝として、溝口秀勝を新発田六万石に配したのである 11 。これは、越後国内を軍事的に三分割し、相互に連携・牽制させながら統治の安定を図るという、高度な統治システムであった。このシステムにおいて、会津の上杉氏と直接向き合うことになる新発田の地は、軍事的に最も重要な拠点の一つであり、その防御体制の強化は、新領主溝口秀勝に課せられた喫緊の課題となった。

第二章:新領主・溝口秀勝の入封と戦略的決断

新たに越後国新発田六万石の領主として入封した溝口秀勝は、この困難な任務を遂行するに足る、歴戦の武将であった。彼の経歴と、彼が新発田で下した戦略的決断は、その後の新発田藩の運命を決定づけることになる。

叩き上げの武将・溝口秀勝

溝口秀勝は、もともと織田家の重臣・丹羽長秀に仕えた武将であった 13 。信長、勝家、秀吉といった戦国の巨人たちの下で戦功を重ね、天正十二年(1584年)には堀秀政の与力として加賀大聖寺四万四千石の領主となるなど、着実にその地位を築き上げてきた 13 。朝鮮出兵の際には肥前名護屋城の守備を務めるなど 14 、豊臣政権下でその武功と統治能力を高く評価されていた。今回の新発田六万石への移封は、彼にとって加増栄転であり、秀吉からの信頼の厚さを物語るものであった。

新領主が直面した課題と権威の確立

しかし、秀勝が足を踏み入れた越後の地は、決して安住の地ではなかった。上杉謙信・景勝という二代の英雄によって長年治められ、領民や在地武士たちの上杉家への忠誠心は、他国の比ではないほどに強固であった。秀勝は、豊臣政権によって送り込まれた「よそ者」の領主であり、潜在的な抵抗勢力、すなわち後の「上杉遺民一揆」に繋がる不穏な空気に、常に対峙しなければならなかった 15

このような状況下で、秀勝にとって新城の建設は、単なる軍事拠点確保以上の意味を持っていた。それは、旧領民や潜在的な抵抗勢力に対し、新たな支配体制の到来を物理的かつ視覚的に宣言する、極めて重要な政治的行為だったのである。旧来の館を使い続けるのではなく、全く新しい大規模な城郭を築くという行為そのものが、上杉の時代が終わり、溝口の時代が始まったことを知らしめる、何より雄弁なデモンストレーションであった。鳴り響く槌音や、動員される人々の姿は、新たな権力がこの地に根を下ろしたことを示す、無言の圧力として機能したのである。

本拠地の選定:五十公野から新発田へ

秀勝が入封当初に館を構えたのは、羽前街道と会津街道が交差する陸上交通の要衝・五十公野(いじみの)であった 12 。しかし、彼はすぐにこの地が、近世的な領国経営の拠点としては不十分であると判断する。五十公野は山がちで、大規模な城郭と城下町を建設するには地形的制約が大きかった。

対照的に、新発田の地は広大な平野に位置し、周囲を湿地帯に囲まれた天然の要害であった 12 。さらに、河川を利用した水運の便にも優れており、城下町の経済的発展も期待できた。秀勝は、陸上交通の結節点という戦国的な拠点選定思想から、防御力と経済性を両立させる平城を本拠とする、より近世的な領国経営思想へと舵を切った。この戦略的決断こそが、新発田城改修の第一歩となったのである。

第三章:新発田城改修のリアルタイム・クロノロジー(慶長三年)

慶長三年という一年間は、中央政権の激動と、辺境の地である新発田での築城作業が、見えない糸で結ばれ、同時並行で進行した、極めて緊迫した時間であった。そのリアルタイムな状況を追うことで、溝口秀勝が置かれた状況の厳しさと、築城を急がねばならなかった戦略的必然性が浮かび上がってくる。

以下の表は、慶長三年における中央と地方の動向を対比させたものである。

表1:慶長三年(1598年)関連動向時系列対照表

中央の動向(京都・伏見・大坂)

上杉景勝の動向

堀・溝口氏の動向(越後)

戦略的意味合い

1月

秀吉、上杉景勝に会津への移封を正式に命令 5

伏見にて移封命令を受諾。会津への準備を開始。

堀秀治と共に越後への入封が内定。情報収集と準備を開始。

秀吉による対家康・伊達包囲網が完成し、越後の地政学的価値が急上昇する。

3月

秀吉、醍醐の花見を催すも、体調悪化が顕著になる 4

景勝、伏見を発ち会津へ向かう 5 。越後の引き渡し作業が本格化。

堀秀治、溝口秀勝らが越後へ向けて移動を開始。

秀吉最後の栄華。しかし、政権の先行きに不安が広がり、地方大名の緊張も高まる。

4月

秀吉の病状がさらに悪化。政務が滞り始める。

会津に到着。直ちに領国経営と軍備増強に着手する 7

4月2日、溝口秀勝、正式に新発田に入封 12 。直ちに城地の検分と縄張り(設計)を開始。

新旧領主の交代が完了。越後の統治体制が刷新され、新たな軍事的緊張が生まれる。

7月

秀吉、遺言を作成し、五大老・五奉行に後事を託す 5

会津の防備を固め、中央の政変に備える。

築城工事が本格化。「堀・土居等の工事を優先」し 18 、大規模な土木工事が進行する。

秀吉死後の権力闘争が不可避となり、各大名は自領の防衛力強化を急ぐ。

8月

8月18日、豊臣秀吉薨去 3 。死はしばらく秘匿される。

秀吉の死を覚悟しつつ、領国固めを継続。家康への対抗姿勢を強める。

秀吉薨去の報に接し、築城のペースをさらに上げる必要に迫られる。

豊臣政権という「重し」が消滅。各地の緊張が一気に高まり、内乱の危機が現実味を帯びる。

秋~冬

五大老による暫定統治が始まるが、家康の独走が顕著になる。

家康との対立姿勢を明確化。神指城の築城計画などを進める 7

堀・土塁の基本工事を完了させ、櫓や門などの作事に着手。城下町の整備も開始する 19

関ヶ原への道筋が敷かれ始める。新発田城は対上杉の最前線拠点としての意味合いを決定的に強める。

この時系列が示す通り、新発田城の改修は、常に中央政局と連動していた。特に、慶長三年八月十八日の豊臣秀吉の死は、この築城事業の持つ意味を根底から変質させたと言える。

それまで、築城の目的は「豊臣大名として、秀吉の命令に従い、割り当てられた領地を確保し統治する」ことであった。しかし、秀吉の死によって豊臣政権という絶対的な後ろ盾が失われた瞬間から、その目的は「主筋を失った外様大名として、来るべき内乱を生き抜き、自らの家と領地を守り抜くための拠点を確保する」ことへと、劇的に変化したのである。この質の変化は、溝口秀勝の焦燥感を駆り立て、一刻も早い城の完成を促したに違いない。新発田の地で振るわれる鍬や槌の音は、秀吉亡き後の天下の動乱を予期する、緊迫した響きを帯びていたことであろう。

第四章:築城思想と初期新発田城の構造的特徴

慶長三年の緊急築城によって姿を現した初期の新発田城は、当時の最新の築城思想が反映された、極めて実戦的な要塞であった。その構造には、溝口秀勝が直面していた地政学的状況と、彼が想定していた「仮想敵」の存在が明確に見て取れる。

実戦を想定した縄張り

新発田城の縄張り(設計)は、溝口家の家臣で軍学者であった長井清左衛門と葛西外記によって行われたと伝わる 20 。専門家を招聘して計画的に築城を進めたことからも、この事業が極めて重要視されていたことが窺える。

その縄張りは、五角形の本丸を二の丸が取り囲み、最も攻撃を受けやすいと想定された南側に三の丸を突き出すように配置した、「輪郭・梯郭併用式」と呼ばれる構造であった 1 。これは防御力と拡張性に優れた、織豊系城郭の典型的な様式である。城の設計思想そのものが、仮想敵からの攻撃を明確に意識していることを示している。特に、南側に三の丸を設けて防御を固めているのは、南方に位置する会津街道からの侵攻、すなわち会津の上杉景勝を最大の脅威と見なしていたことの何よりの証左である 19 。城の縄張り自体が、溝口秀勝の置かれた戦略的状況を雄弁に物語る「史料」となっている。

防御の核心 — 水と土の活用

新発田城の最大の特色は、石垣ではなく、周囲の地形を最大限に活用した「水」と「土」による防御網にあった 17

  • 水堀: 築城にあたり、まず加治川から分流する新発田川の流路を大胆に変更し、城下町を貫通させるルートへと付け替えた 17 。そして、そこから水を引き込み、本丸、二の丸、三の丸といった各曲輪を全て広大な水堀で囲い込んだ。これは、城だけでなく城下町全体を一つの巨大な防御ユニットとして機能させるための、大規模な土木工事であった。
  • 土塁(土居): 慶長三年の築城開始時点では、壮麗な石垣はまだ限定的であったと考えられている。本丸の南面など、城の「顔」となる部分以外は、石垣ではなく堅固に突き固められた土塁(土居)によって囲まれていた 19 。これは、一刻も早い防御能力の確保という緊急性と、コストを考慮した、極めて合理的かつ現実的な選択であった。我々が現代に目にする壮麗な「切込はぎ布積み」の石垣は、後の寛文九年(1669年)の大地震による崩落後の復旧工事で本格的に導入されたものであり 18 、初期の新発田城は、戦国時代の伝統を受け継ぐ「土の城」の様相を色濃く残していた。

城下町の防御設計

城郭本体だけでなく、城下町の設計にも周到な防御思想が見られる。城の周囲には上級・中級藩士の侍町を配置し、その外側に町人町を形成した 19 。さらに、仮想敵である上杉氏の侵攻ルートとなる会津街道筋には、下級藩士の住居群や寺院群(寺町)を意図的に配置した 19 。これは、万が一敵が城下に侵入した場合でも、これらの区画が障害物となり、敵の進軍速度を遅らせ、城本体への到達を困難にさせるための、多層的な防御ラインであった。新発田城は、城郭単体で完結するのではなく、城と城下町が一体となった、総力戦を想定した要塞都市として設計されていたのである。

第五章:築城の真価 – 慶長五年、上杉遺民一揆との対峙

慶長三年に始まった新発田城の改修事業は、そのわずか二年後、天下分け目の関ヶ原の戦いに連動して勃発した越後の動乱において、その真価を問われることとなる。この戦いこそ、溝口秀勝が築城に注いだ努力が、いかに先見の明に満ちた戦略的「投資」であったかを証明する舞台となった。

関ヶ原前夜と越後の緊張

慶長五年(1600年)、豊臣政権下で増大する徳川家康の影響力に対し、会津の上杉景勝は公然と対立姿勢を見せ、神指城の築城など軍備増強を急いでいた 7 。これを「謀反の疑いあり」とした家康は、諸大名を率いて「会津征伐」を決定 25 。天下は二分され、全面対決は不可避の情勢となった。この国家的な危機に際し、新発田城主・溝口秀勝は、主筋である越後春日山城主・堀秀治と共に、東軍(家康方)に与することを決断した 14

上杉遺民一揆の蜂起

家康の命令に従い、堀・溝口軍が会津へ向けて進軍を開始すると、その背後を突く形で、越後国内に潜んでいた上杉家の旧臣や、上杉方を支持する在地勢力が一斉に蜂起した。これが「上杉遺民一揆」である 15 。この一揆は、単なる旧領主を慕う領民の自然発生的な反乱ではなかった。背後では上杉家家老・直江兼続が巧みに糸を引いており、東軍の主力である堀・溝口軍を越後国内に釘付けにし、その後方を脅かすための、高度に計算された軍事作戦であった 15

拠点として機能した新発田城

この絶体絶命の危機において、完成して間もない新発田城は、溝口秀勝の反攻拠点として絶大な効果を発揮した。秀勝は新発田城を司令部とし、兵站を確保しながら、領内各地で蜂起した一揆勢の鎮圧に奔走した 14 。特に、会津への玄関口であり、一揆勢の重要拠点であった津川口での戦いや、三条、五泉といった地域での戦闘において、新発田城は指揮・兵站の中核として決定的な役割を果たしたのである 16

もし慶長三年の時点で、秀勝が旧来の新発田氏の館に留まっていたならば、その脆弱な防御力では一揆勢の猛攻に耐えられず、拠点を失っていた可能性が高い。そうなれば、彼は越後国内の戦いに勝利できず、関ヶ原における家康への貢献も果たせなかったであろう。所領安堵どころか、改易の憂き目に遭っていても不思議ではない。慶長三年の迅速かつ大規模な築城は、まさに二年後の危機を乗り切り、徳川の世で生き残るための、極めて効果的な先行投資だったのである。

結論:新発田藩二百五十年の礎

慶長三年(1598年)に開始された新発田城の改修は、単なる一城郭の防御施設強化という枠を遥かに超える、深遠な歴史的意義を持つ事象であった。

それは、豊臣秀吉の死という時代の大きな転換点において、新たな領主となった溝口秀勝が、自らの領国と家名を保つために下した、迅速かつ的確な戦略的決断の結晶であった。秀吉の国家構想の一環として越後に入封した秀勝は、秀吉の死という予期せぬ事態に直面し、来るべき内乱を生き抜くための拠点構築を最優先課題とした。

緊急性を重視し、湿地帯という地形を最大限に活用した「水と土」による防御思想は、二年後の上杉遺民一揆という実戦において、見事にその有効性を証明した。この一揆の鎮圧成功は、溝口秀勝にとって決定的な意味を持った。当初は豊臣政権から派遣された「よそ者」の支配者に過ぎなかった彼が、この勝利によって、越後新発田の平和と秩序を守る「正統な領主」としての地位を確立したのである。新発田城は、その権威を物理的に象徴するモニュメントとなった。

この成功体験こそが、外様大名でありながら、江戸時代を通じて一度も転封されることなく明治維新まで続く新発田藩の礎を築いた最大の要因であると言える 22 。慶長三年の土と水の記憶は、後の時代に築かれた壮麗な石垣や櫓の礎となり、新発田藩二百五十年の平和と安定を静かに支え続けたのである。

引用文献

  1. 新発田城(新潟県新発田市) 海鼠壁の美しい自衛隊の城 - 縄張りマニアの城巡り https://castlewalk.hatenablog.jp/entry/2020/07/19/100000
  2. 新発田城/特選 日本の城100選(全国の100名城)|ホームメイト - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/famous-castles100/niigata/shibata-jo/
  3. 関ヶ原の戦い/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7045/
  4. すべては秀吉の死から始まった:天下分け目の「関ヶ原の戦い」を考察する(上) | nippon.com https://www.nippon.com/ja/japan-topics/b06915/
  5. 1597年 – 98年 慶長の役 秀吉の死 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1597/
  6. 関ヶ原の戦い|日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典 - ジャパンナレッジ https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=804
  7. 裏切りと讒言 上杉景勝の運命を変えた関ヶ原合戦前夜 - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/2322
  8. 上杉景勝の会津転封の理由とは? - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=CL_OCu_OqEo
  9. 「江戸は寒村」はウソだった!?豊臣秀吉と徳川家康の”国替え”に隠された壮大な戦略とは?【後編】 - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/247007
  10. 「家康へのいやがらせ」ではなかった…最新研究でわかった「秀吉が家康を関東に追いやった本当の理由」 じつは秀吉にも家康にもメリットがあった | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン) https://president.jp/articles/-/74422?page=1
  11. 新発田藩 - 新潟県:歴史・観光・見所 https://www.niitabi.com/jyouka/sibat.html
  12. 歴史と概要 溝口家の入封と新発田城の築城1|新潟県新発田市公式 ... https://www.city.shibata.lg.jp/kanko/bunka/shiro/gaiyo/1005181.html
  13. 新発田藩 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%99%BA%E7%94%B0%E8%97%A9
  14. 溝口秀勝 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%9D%E5%8F%A3%E7%A7%80%E5%8B%9D
  15. 上杉遺民一揆 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E9%81%BA%E6%B0%91%E4%B8%80%E6%8F%86
  16. 新潟県 新発田市 清水園/新発田藩の歴史 - 北方文化博物館 https://hoppou-bunka.com/shimizuen/shibata_history.html
  17. 新発田城の歴史と見どころを紹介/ホームメイト https://www.touken-collection-nagoya.jp/chubu-castle/chubu-shibata-castle/
  18. 新発田城の変遷|新潟県新発田市公式ホームページ https://www.city.shibata.lg.jp/kanko/bunka/shiro/gaiyo/1005188.html
  19. 新発田城土橋門復元整備基本計画 https://www.city.shibata.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/027/701/25050701.pdf
  20. 三匹の鯱が新発田の地を見守る - 城なび https://www.shiro-nav.com/castles/shibatajo
  21. 3匹の鯱を上げた三階櫓<新発田城> https://sirohoumon.secret.jp/sibata.html
  22. 越後 新発田城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/echigo/shibata-jyo/
  23. 新発田城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E7%99%BA%E7%94%B0%E5%9F%8E
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