最終更新日 2025-10-02

新発田用水整備(1600)

慶長五年、新発田藩主溝口秀勝は、越後蒲原平野の治水開田に着手。関ヶ原の戦いと越後一揆の混乱を乗り越え、民心掌握と富国強兵を両立。水害に苦しむ土地を豊かな穀倉地帯へと変貌させ、藩の礎を築いた。
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慶長五年の越後:新発田藩、存亡を賭した「治水開田」の始動 ― 戦乱と国家建設のリアルタイム・ドキュメント

序章:慶長の黎明 ― 溝口氏入封以前の越後・蒲原平野

慶長年間、新たな時代の幕開けとともに越後の地を踏んだ新領主・溝口秀勝。彼が統治することになった蒲原(かんばら)平野は、表向き六万石という豊かな土地であった。しかし、その内実は、人の手が入ることを拒むかのような過酷な自然と、長年の戦乱が残した複雑な政治的背景を抱えた、極めて統治困難な領域であった。後に日本屈指の穀倉地帯へと変貌を遂げるこの土地の原風景は、輝かしい未来とは程遠い、混沌と挑戦に満ちたものであった。本報告書は、1600年という激動の年に行われたとされる「新発田用水整備」を、単なる土木事業としてではなく、新発田藩初代藩主・溝口秀勝が藩の存亡を賭して開始した壮大な国家建設事業「治水開田」の始点として捉え、その全貌を時系列で解き明かすものである。

第一節:「水沼の蒲原」― 治水との永き闘争の歴史

溝口氏が入封した蒲原平野の原風景は、今日の豊穣な水田地帯からは想像もつかないものであった。信濃川と阿賀野川という二大河川が上流から肥沃な土砂を運び込む一方で、江戸時代以前、この広大な沖積平野には日本海へ直接注ぐ河川がほとんど存在しなかった 1 。行き場を失った水は内陸に滞留し、加治川をはじめとする中小河川は乱流を繰り返し、無数の潟や沼が点在する広大な低湿地帯を形成していたのである 2

春の雪解けや梅雨、秋の長雨のたびに、平野は一面の泥海と化し、水が引いた後には蒲(がま)が鬱蒼と生い茂る。この光景から、この地は古くから「水沼の蒲原(みずぬまのがまはら)」、あるいは単に「蒲の原」と呼ばれていた 1 。生産条件は劣悪を極め、人々は絶え間ない洪水のリスクを避けるため、わずかな自然堤防や砂丘上に集落を形成し、身を寄せ合うように暮らしていた 3 。日々の移動や農耕には舟が不可欠であり、耕作可能な土地はごく限られていた。この土地を支配するということは、すなわち、この制御不能な「水」を支配することと同義であり、それは越後の統治者にとって永年の課題であった。

第二節:上杉の支配と在地勢力「揚北衆」

戦国時代、越後は長尾為景、そしてその子である上杉謙信の登場によって、徐々に統一への道を歩み始める。しかし、その過程は決して平坦ではなかった。特に、阿賀野川以北の地域、通称「揚北(あがきた)」には、独立性の高い国人領主たちが割拠しており、「揚北衆」と総称されていた 4 。彼らは、府中に本拠を置く守護代・長尾氏の支配に対し、時に従い、時に反抗を繰り返す一筋縄ではいかない勢力であった。後に溝口氏が本拠を置くことになる新発田の地を治めていた新発田氏も、この揚北衆の有力な一員であった 5

謙信はそのカリスマと軍事力で越後を統一するが、彼の死後、養子である景勝と景虎の間で家督を巡る凄惨な内乱「御館の乱」が勃発する 4 。この乱は越後国人を二分し、国力を著しく疲弊させただけでなく、武田氏や北条氏、さらには織田信長といった外部勢力の介入を招く結果となった 4 。景勝が辛うじて勝利を収め家督を継いだ後も、揚北衆の一人である新発田重家が反旗を翻し、その鎮圧に7年もの歳月を要するなど、その支配基盤は決して盤石なものではなかった 5 。溝口氏が入封した土地は、このように上杉氏の支配下にあってもなお、在地勢力の強い自立性と、中央の支配に対する根強い抵抗の記憶が刻み込まれた土地だったのである。

第三節:豊臣政権による大転封 ― 新領主たちの越後入り

天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、その晩年、全国的な大名の配置転換を断行する。慶長3年(1598年)、五大老の一人であった上杉景勝は、越後春日山から会津120万石へと移封された 7 。これは加増という形をとってはいたが、長年本拠地としてきた越後から引き離し、徳川家康を牽制する役割を期待した、高度な政治的意図に基づくものであった。

上杉氏が去った後の越後には、秀吉子飼いの武将である堀秀治が越前北ノ庄から45万石で入封した 7 。そして、その与力大名(主君を軍事的に補佐する役割を担う大名)として、加賀大聖寺から溝口秀勝が新発田六万石に、同じく村上頼勝が本庄から村上九万石に配されたのである 10 。この大規模な国替えに際し、秀吉は極めて重要な命令を下している。それは、旧領主である上杉家の家臣は、上級者から最下級の者に至るまで全員を会津へ引き連れて行くこと、その一方で、検地帳に登録された百姓は一人たりとも連れて行ってはならない、というものであった 7

この命令が意味するところは大きい。新領主である堀氏や溝口氏は、全く縁もゆかりもない土地で、旧主・上杉氏を慕い、新領主を「よそ者」と見なす領民と直接向き合わなければならなかった。上杉氏が長年にわたって築き上げてきた在地勢力との関係性、治水に関する知識や経験、そして統治を支える行政機構といった、いわば統治の「ソフトウェア」は、人的資源とともに根こそぎ会津へと持ち去られてしまった。残されたのは、過酷な自然環境と、未整備なインフラ、そして心を閉ざした領民たちだけであった。溝口秀勝の挑戦は、単なる領地経営ではなかった。それは、統治基盤が完全に欠如した土地における、ゼロからの「国家建設」に等しい、あまりにも困難な事業の始まりだったのである。

第一章:新領主の挑戦(1598年~1599年)

慶長3年(1598年)、新発田の地に入った溝口秀勝は、直ちに領地の厳しい現実に直面する。表高六万石という聞こえの良い数字とは裏腹に、藩の存立すら危うくする経済的脆弱性。そして、旧領主への思慕を抱く領民たち。この絶望的な状況を前に、秀勝は極めて大胆かつ長期的な視野に立った一つの結論に達する。それが、藩の未来の全てを賭した壮大な計画、「治水開田」であった。

第一節:溝口秀勝という武将 ― 丹羽長秀の薫陶から独立大名へ

溝口秀勝という人物を理解するには、彼の経歴を遡る必要がある。天文17年(1548年)、尾張国に生まれた秀勝は、幼少より織田家の宿老・丹羽長秀に仕えた 13 。長秀は、信長から「友であり、兄弟である」と評されたほどの人物で、武勇のみならず、築城や領国経営にも優れた実務能力を発揮したことで知られる。秀勝は、この長秀の下で武将としての基礎を学び、実直な気風と実務能力を培ったと考えられる。

天正9年(1581年)、秀勝の才能は織田信長の目に留まり、長秀の家臣から信長の直臣へと抜擢され、若狭高浜城主五千石を与えられた 13 。本能寺の変後は豊臣秀吉に仕え、賤ヶ岳の戦いの功により加賀大聖寺四万四千石へと加増される 13 。この間、彼は常に堀秀政などの有力大名の与力として配属されており、派手な武功で名を上げるタイプではなかったが、着実に実績を積み重ね、秀吉政権下で信頼される実務派の武将としての地位を確立していった。

彼の優れた行政官僚としての一面を示す興味深い逸話がある。天正16年(1588年)に秀吉が発令した刀狩令に際し、加賀大聖寺の領主であった秀勝は、わずか1ヶ月の間に刀・脇差など4000点近い武具を領内から収集したと記録されている 13 。これは、彼の領国支配が隅々まで行き届き、政策を迅速かつ的確に実行する高い統治能力を有していたことの証左である。彼は、戦場で槍を振るうだけの武人ではなく、領民を組織し、国家のインフラを整えることのできる、新時代の統治者としての素養を既に身につけていたのである。

第二節:六万石の現実 ― 表高と実収の乖離

輝かしい経歴を携え、慶長3年(1598年)に新発田六万石の領主として入封した秀勝であったが、彼を待ち受けていた現実は過酷を極めた。六万石という石高は、あくまでその土地が持つ潜在的な米の生産力を示した「表高」に過ぎなかった。実際に収穫され、藩の収入となる「実収(内高)」は、驚くべきことに、わずか2万石程度であったと伝えられている 1

この3倍にも及ぶ乖離の原因は、言うまでもなく、序章で述べた蒲原平野の地理的特性にあった。領地の大部分を占める低湿地帯は、適切な治水・排水設備がなければ、安定した稲作を行うことなど到底不可能であった。表高六万石とは、いわば「絵に描いた餅」であり、それを現実に口にするためには、土地そのものを根本から作り変える必要があったのである。

実収2万石という経済的脆弱性は、藩の経営にとって致命的な問題であった。この収入では、秀勝が加賀から引き連れてきた家臣団を養うことすら困難であり、新たな家臣を召し抱える余裕などない。当然、十分な兵力を維持することもできず、軍事的には極めて脆弱な状態に置かれることを意味した。隣国には、旧領主であり、今や120万石の大大名となった上杉景勝が虎視眈々と越後を窺っている。このような状況で、藩の存立を維持し、来るべき時代の荒波を乗り越えていくことは、絶望的に困難な課題であった。

第三節:「治水開田」のグランドデザイン ― 生存戦略としての国家改造

この絶望的な状況を打開するため、溝口秀勝が藩の最重要施策、いや、藩の存在意義そのものとして掲げたのが「治水開田」であった 1 。これは、単なる目先の増収対策や農業振興策ではなかった。それは、河川の流れを強制的に変える「瀬替え」、新たな堤防を築いて洪水を防ぐ「締め切り」、そして広大な潟湖を干拓して新たな水田に変える「干拓」など、領土そのものを物理的に改造する、壮大な国家建設事業であった 1

史料には、秀勝が入封後、ただちに「士民を集め治水、開墾の大事業に着手さる」と記されている 5 。この記述は、彼が問題の本質を即座に見抜き、躊躇なく行動を開始したことを示している。当初、秀勝は陸上交通の要衝である五十公野(いじみの)に館を構えたが、やがて水運の利便性や近世城郭を築くのに適した地形を考慮し、新発田の地に本城を築くことを決定する 7 。この拠点選定自体が、彼の構想する治水計画と都市計画が不可分のものであったことを物語っている。

溝口秀勝にとって、「治水開田」は単なる経済政策ではなかった。それは、内政と安全保障を一体として捉えた、極めて高度な国家戦略であった。まず、治水事業は、水害を減らし、耕地を増やすことで、領民の生活に直接的な恩恵をもたらす。貧困と災害に苦しむ領民の支持を得ることは、新領主に対する不満や旧主への思慕を和らげ、一揆などの反乱の温床を取り除く上で最も効果的な手段である。民心の安定こそが、内政の最大の要諦であった。

同時に、この事業は藩の統治能力を飛躍的に向上させる。大規模な土木事業は、領内の人的・物的資源を組織し、動員する絶好の機会となる。このプロセスを通じて、藩の権威は領国の隅々にまで浸透し、強力な中央集権体制が確立される。そして何よりも、石高の増加は藩の財政基盤を確立し、軍事力の増強を可能にする。それは、来るべき天下の動乱を生き抜き、独立した大名としての地位を確保するための、最低限の条件であった。すなわち、「治水開田」とは、民心の掌握(内政安定)と富国強兵(安全保障)を同時に達成するための、新発田藩の存亡を賭した唯一の生存戦略だったのである。

第二章:激動の1600年 ― 関ヶ原の戦いと越後一揆

慶長5年(1600年)、日本全土が関ヶ原の戦いへと突き進む中、越後の地もまた、その激震に否応なく巻き込まれていく。中央政局の緊迫は、即座に地方の軍事衝突へと飛び火し、溝口秀勝は藩の存亡を賭けた二正面作戦を強いられることになった。この章では、天下分け目の戦いと、それに連動して越後で勃発した「上杉遺民一揆」という軍事的脅威の真っ只中で、秀勝がいかなる決断を下し、行動したのかを、リアルタイムのドキュメントとして時系列で克明に追跡する。


【表1:慶長越後・激動の年表(1598年~1601年)】

年月

全国の動向

会津(上杉景勝)の動向

越後(堀秀治・溝口秀勝)の動向

慶長3年 (1598)

8月 豊臣秀吉 死去

1月 会津120万石へ移封

4月 堀秀治が越後領主、溝口秀勝が新発田6万石の与力大名として入封 7

慶長4年 (1599)

3月 前田利家 死去

9月 伏見から領国会津へ帰国

領国経営に着手。「治水開田」構想の具体化。

9月 石田三成 失脚

直江兼続に命じ、神指城の築城、軍備増強を開始 9

慶長5年 (1600)

4月 家康、上杉討伐を決定

4月 直江兼続が家康を詰問する「直江状」を送付(とされる)

6月 家康、上杉討伐のため会津へ出陣

6月2日 堀・溝口氏らに、津川口からの会津侵攻が命じられる 16

7月 石田三成ら、家康打倒のため挙兵(西軍)

8月 家康、軍を西へ返すことを決断

8月 上杉景勝、越後の旧臣らに一揆蜂起を扇動

8月1日 上杉遺民一揆が勃発 。下倉城が陥落 16

8月3日 一揆勢、三条城を攻撃 16

8月~9月 溝口秀勝、堀氏と連携し、津川・三条・五泉などで一揆勢と交戦、鎮圧に奔走 5

9月15日 関ヶ原の戦い (東軍勝利)

9月 最上・伊達領への侵攻を開始(慶長出羽合戦)

9月8日 堀親良・直寄らが一揆の掃討戦を展開 16

寺泊の豪商を巡り、堀秀治と溝口秀勝が対立 16

慶長6年 (1601)

8月 家康に降伏。米沢30万石へ減封

溝口秀勝、一揆鎮圧の功により徳川家康から所領を安堵される 12

戦後処理と並行し、「治水開田」事業を本格的に始動。


第一節:中央政局の緊迫 ― 家康の上杉討伐令

豊臣秀吉の死後、五大老筆頭の徳川家康が急速にその影響力を強めていくと、同じく五大老の一人である上杉景勝との間に緊張が走る。慶長4年(1599年)、会津へ帰国した景勝は、家老・直江兼続の主導の下、新たな居城として神指城の築城を開始し、街道を整備し、浪人を多数召し抱えるなど、露骨な軍備増強に乗り出した 9

この動きを、家康は豊臣家に対する「謀反の企て」と見なした。再三にわたる上洛要求を景勝が拒否すると、慶長5年(1600年)4月、家康はついに上杉討伐を正式に決定する。同年6月、家康は自ら大軍を率いて江戸から会津へ向けて進軍を開始。これに先立ち、全国の諸大名に上杉討伐への参加を命じた。越後の領主である堀秀治、そしてその与力である溝口秀勝と村上義明にも、領国の西に位置する津川口から会津領内へ侵攻せよ、という具体的な軍令が下された 16 。この瞬間、溝口秀勝は否応なく家康率いる東軍の一員として、強大な隣国・上杉氏と干戈を交えることが運命づけられたのである。

第二節:上杉遺民一揆の勃発 ― 越後全土への延焼

家康が上杉討伐のために東国へ下り、大坂・伏見の政治的中枢が手薄になった隙を突き、7月、石田三成は毛利輝元を総大将に担ぎ、家康打倒の兵を挙げた(西軍)。この報を受けた家康は、会津攻めを中止し、急遽軍を西へ返すことを決断する。日本の命運は、関ヶ原で決せられることになった。

この中央政局の急変は、上杉景勝にとって絶好の機会であった。家康が去った今、背後の脅威はなくなった。景勝は直江兼続を総大将として最上・伊達領への侵攻を開始する(慶長出羽合戦)と同時に、もう一つの重要な手を打つ。それが、旧領地である越後における一揆の扇動であった 8 。上杉氏の越後退去からわずか2年。領内には、依然として上杉家を慕う旧臣や、新領主・堀氏の支配に不満を抱く在地勢力が数多く存在していた。上杉方は彼らに檄を飛ばし、一斉蜂起を促したのである。その狙いは、東軍に与した堀・溝口氏の背後を攪乱し、兵力を越後国内に釘付けにすることで、関東方面への増援や会津への侵攻を阻止することにあった。

慶長5年8月1日、上杉方の策略は現実のものとなる。一揆勢は会津との国境に近い下倉城を急襲。城主の小倉政熙は奮戦するも討死し、城は陥落した 16 。これを狼煙として、魚沼、小千谷、柿崎など、越後全土で一揆が蜂起。古城に立てこもり、あるいは会津からの援軍と合流し、その勢いは燎原の火のごとく広がっていった。8月3日には、堀氏の本拠である三条城までもが一揆勢の攻撃に晒される事態となり、越後は瞬く間に内戦状態に陥ったのである 5

第三節:溝口秀勝の二正面作戦 ― 一揆鎮圧と領国防衛

この危機に際し、溝口秀勝は迅速に行動した。彼は、主君である堀秀治と連携し、領内に侵攻し、あるいは内部から蜂起した一揆勢の鎮圧に奔走する。史料には、秀勝が津川、三条、五泉といった要衝で一揆勢と直接戦闘を交え、これを平定していったことが記録されている 5 。これは、秀勝にとって二正面作戦であった。一つは、会津からの上杉正規軍の侵攻に備え、国境線を防衛すること。もう一つは、領内各地で蜂起するゲリラ的な一揆勢を掃討すること。新発田藩の限られた兵力でこの二つの任務を同時に遂行することは、極めて困難な作戦であったに違いない。

9月15日、遠く美濃国で関ヶ原の戦いが東軍の圧倒的勝利に終わった後も、越後での戦いは続いていた。秀勝は、堀直政・直寄親子らとともに、粘り強く掃討戦を続け、越後国内の平定に尽力した 16 。結果として、秀勝は関ヶ原の本戦には参加しなかったものの、この越後における局地戦での働きが家康に高く評価され、戦後、所領を安堵されることになった 12 。これは、彼の戦いが東軍の勝利に間接的に貢献した、重要な「第二戦線」であったことを意味している。

なお、この一揆鎮圧の過程で、寺泊の豪商の身柄引き渡しを巡り、堀秀治と溝口秀勝が対立したという興味深い記録も残っている 16 。これは、与力大名という従属的な立場にありながらも、秀勝が自らの領国と領民を守る独立した領主としての強い意志を持って行動していたことを示すエピソードと言えよう。

この1600年の上杉遺民一揆は、溝口秀勝にとって単なる軍事的危機ではなかった。それは、彼の「治水開田」政策の必要性と緊急性を、血をもって証明する決定的な出来事となった。一揆の勃発は、領内に旧主を慕う潜在的な敵対勢力が多数存在し、彼らが貧困や水害に苦しむ農民層と容易に結びつくという、領国経営の根本的な脆弱性を白日の下に晒した。秀勝は、この反乱の「根」を断つためには、武力による鎮圧だけでは不十分であり、彼らが一揆に加わらざるを得なかった経済的・社会的な土壌そのものを変革する必要がある、と痛感したはずである。ここに、「治水開田」は新たな意味を帯びる。それは、戦後復興と領国再編の中核に据えられるべき、最優先の国家プロジェクトとなった。一揆という破壊の嵐は、皮肉にも、新たな国家建設を加速させる強力な触媒として機能したのである。

第三章:「治水開田」の始動 ― 戦乱の中から生まれた国家建設事業

関ヶ原の戦いが終わり、越後を揺るがした上杉遺民一揆の嵐が過ぎ去った後、溝口秀勝は息つく間もなく、新たな戦いに身を投じた。それは、剣や槍ではなく、鍬や鋤を武器とする、大地との戦いであった。一揆という危機管理(クライシス・マネジメント)の経験は、即座に「治水開田」という価値創造(バリュー・クリエーション)のプロジェクトへと昇華された。戦乱の灰の中から、新たな国家を建設するための青写真が、矢継ぎ早に実行に移されていったのである。

第一節:戦後処理と民心の掌握

一揆の鎮圧後、秀勝がまず取り組んだのは、荒廃した領内の安定化と、動揺する民心の掌握であった。彼が単なる弾圧に終始しなかったであろうことは、その実務能力に長けた経歴から容易に想像できる。史料が「士民を集め」て事業に着手したと記している点は、極めて示唆に富んでいる 5 。これは、武士や農民といった身分の区別なく、領内の人的資源を総動員して復興と開発にあたったことを意味する。

この言葉の裏には、一揆に加担した者たちに対する巧みな融和策があった可能性が高い。反乱の首謀者や主だった者には厳しい処罰が下されたであろうが、大多数の、生活苦からやむなく一揆に同調した領民に対しては、罪を許し、新たな国造りへの参加を促すことで、藩への帰属意識を高めようとしたのではないか。共通の敵であった「水害」との戦いに領民を動員することは、戦乱で引き裂かれた共同体を再統合し、藩主と領民の間に新たな信頼関係を築くための、最も有効な手段であった。溝口秀勝は、土木事業を通じて、人心の掌握という高度な政治課題を解決しようとしたのである。

第二節:用水整備・河川改修の着手 ― 1600年という始点

ユーザーが提示した「新発田用水整備(1600)」という事象は、特定の単一の用水路の建設を指すものではなく、この一揆鎮圧直後の慶長5年(1600年)後半から翌年にかけて、新発田藩が総力を挙げて開始した一連の「治水開田」事業全体の象徴的な始点と解釈するのが最も妥当である。戦乱の終結が、即座に国家建設の開始へと繋がった、その歴史的な転換点こそが「1600年」なのである。

史料に記録されている具体的な事業内容は、「河川の締め切り」「川の瀬替え」「潟の干拓」といった、大規模なものであった 1 。これらは、一揆の記憶も生々しい時期から、矢継ぎ早に着手されたと推測される。例えば、城下を流れる河川の流路を制御し、氾濫を防ぐための堤防を築く(締め切り)。あるいは、より効果的な排水や用水の確保のために、川の流れそのものを新たな水路へと付け替える(瀬替え)。これらの初期事業は、後の紫雲寺潟などの大規模な干拓事業の基礎となる、実験的な意味合いも持っていた可能性がある。いずれにせよ、これらはすべて、蒲原平野を人の住める、そして米の作れる土地へと変貌させるための、壮大なプロジェクトの第一歩であった。

第三節:軍事と土木の融合 ― 新発田城と城下町の建設

この「治水開田」事業と完全に並行して進められたのが、新発田藩の恒久的な本拠地となる新発田城の本格的な築城であった 5 。そして、この二つの事業は、決して個別のものではなく、一つのグランドデザインの下で有機的に結合していた。その最も明確な証拠が、城下を流れる新発田川の存在である。

現在の新発田川は、新発田城の防御機能を高めることを主目的として、人工的に流路が変更された川である 18 。つまり、新発田川は城の外堀としての役割を担うよう設計されたのである。これは、治水事業が軍事防衛と一体であったことを如実に物語っている。しかし、その機能は軍事的なものに留まらなかった。この人工河川は、城下町に安定した生活用水や農業用水を供給し、物資を運搬するための水路、すなわち水運の大動脈としても機能した。城の防御を固めるための堀が、同時に町の経済を潤すための用水路ともなる。このように、溝口秀勝の都市計画は、軍事、民政、経済という複数の目的を、一つの土木事業によって同時に達成しようとする、極めて合理的かつ効率的なものであった。

一揆という軍事的危機を乗り越えた秀勝は、その経験を糧に、物理的な防御壁(城郭)と、経済的・社会的な安定をもたらす基盤(用水路網)を同時に構築した。彼は、危機を単に乗り越えるだけでなく、その経験を未来への投資へと転換させる稀有な能力を持った統治者であった。1600年という年は、新発田藩が軍事的な緊張状態から、持続可能な国家建設のフェーズへと移行した、まさにその画期的な年だったのである。

第四章:用水整備の具体像と技術的考察

「治水開田」という壮大な計画は、具体的にどのようにして実行されたのであろうか。重機も動力も存在しない時代、人々は自らの肉体と、長年の経験に裏打ちされた知恵だけを頼りに、大地に挑んだ。この章では、近世初期の土木技術の水準を概観し、新発田での事業がどのような技術と組織によって担われたのかを具体的に考察する。それは、物理的なインフラ建設の物語であると同時に、藩と領民の間に新たな社会関係を築き上げていくプロセスでもあった。

第一節:近世初期の土木技術 ― 人力と知恵の結晶

溝口秀勝が新発田で治水事業を開始した時代は、日本各地で大規模な河川改修が行われた時代でもあった。徳川家康が江戸の治水と利水のために行った利根川東遷事業 20 や、それに付随する荒川西遷事業 22 は、その代表例である。これらの巨大プロジェクトは、当時の土木技術の水準を知る上で重要な手がかりとなる。

工事の主役は、言うまでもなく「人」であった。土を掘り、畚(もっこ)や籠で運び、盛り土をして、それを突き固める。この地道な作業の繰り返しが、堤防を築き、新たな水路を切り開いていった 24 。しかし、その背後には、単なる力仕事にはとどまらない、高度な経験知と技術が存在した。例えば、川の流れの勢いを削ぎ、堤防への直撃を防ぐための「水制工法」や、堤防の法面に竹や木を植えることで土の崩落を防ぎ、洪水時には水防活動の資材としても利用する工夫などである 24 。特に、桜を植えて花見客に堤防を踏み固めさせる「桜堤」のような発想は、自然の力と人の営みを巧みに利用した、近世ならではの知恵と言える。新発田における河川改修や用水路の開削においても、こうした当代最新の技術が駆使されたと推測される。

第二節:事業の担い手たち ― 奉行と領民の協働

これほどの大事業を円滑に進めるためには、優れた計画立案者と、効率的な動員システムが不可欠であった。藩の事業として行われる以上、その総指揮は「普請奉行」や「郡奉行」といった藩の役人が執ったであろう。肥後における加藤清正の治水事業 25 や、仙台藩における川村孫兵衛の北上川改修 27 のように、土木技術に精通した専門官僚が計画の策定から現場の指揮までを担当した可能性が高い。溝口家が若狭、加賀、そして越後へと移る中で召し抱えてきた家臣団の中に、そうした実務能力に長けた人材が含まれていたことは想像に難くない 28

一方で、実際の労働力となる領民をいかに組織し、動員したのかも重要なポイントである。ここで参考になるのが、加賀藩前田家が導入した「十村制」である 29 。これは、藩が直接農民を支配するのではなく、地域の有力者である大庄屋などを「十村(とむら)」に任命し、彼らを通じて年貢の徴収や村の統治を行わせる制度であった。このシステムは、領民の反感を和らげ、藩の政策を末端まで浸透させる上で極めて効果的であった。溝口秀勝が「士民を集め」た際にも、同様に各地域の庄屋や有力者を通じて領民を組織し、彼らのリーダーシップに依拠しながら事業を進めた可能性が考えられる。

さらに、領民の協力を得るためには、適切なインセンティブも必要であった。加藤清正は、工事に従事した者には男女の区別なく米や給金を支払い、労働時間も厳守させたと伝えられている 32 。強制労働としてではなく、領民が自らの生活向上のために自発的に参加する「協働プロジェクト」としての側面を演出することが、事業の成否を分ける鍵であった。新発田藩においても、労働に対する正当な対価の支払いや、完成後の水利権の配分など、領民の意欲を引き出すための様々な配慮がなされたであろう。

第三節:新発田川と城下町の形成 ― 水が育んだ都市

こうして整備された用水路網は、新発田の風景を一変させた。特に、城下町の中心を流れる新発田川は、単なる軍事施設(堀)や農業用水路にとどまらず、都市の生命線そのものであった 18 。それは、人々の喉を潤す飲み水となり、日々の洗濯に使われる生活用水となり、そして舟が行き交い物資を運ぶ水上交通路となった。用水路ネットワークの整備は、新たな耕地を生み出すだけでなく、城下町そのものの経済活動を活性化させ、都市としての機能を飛躍的に高めたのである。水路は、新発田という都市に人、モノ、情報を運び込む、まさに血管の役割を果たした。

この溝口秀勝による400年以上前の都市計画の思想は、驚くべきことに現代にまで受け継がれている。現在の新発田市が、中心市街地活性化の核として進める「水のみち」構想は、歴史的な景観を活かし、新発田川沿いを人々が集い、憩う親水空間として再整備するものである 18 。これは、秀勝が築いた城下町の骨格と、「水と共に生きる」という思想が、今なお地域のアイデンティティの根幹をなし、未来のまちづくりの指針となっていることの何よりの証左と言えるだろう。

溝口秀勝の治水事業は、単に堤防や水路といった物理的なインフラを構築しただけではなかった。それは、領民同士、そして藩と領民の間に、信頼と協力という目に見えないインフラ、すなわち「社会関係資本(ソーシャル・キャピタル)」を構築するプロセスでもあった。共通の目標に向かって共に汗を流す経験は、かつて上杉を慕い、新領主に反感を抱いていた人々の心を一つにし、新しい「新発田藩の領民」としてのアイデンティティを育んでいった。この強固な信頼のネットワークこそが、物理的な堤防以上に、その後の新発田藩270年の安定した治世を支える、最も重要な礎となったのである。

第五章:同時代の治水・農政事業との比較分析

溝口秀勝が新発田で推し進めた「治水開田」は、戦国乱世の終焉から徳川の世へと移行する時代の大転換期において、多くの先進的な大名が取り組んだ領国経営の一環であった。彼の事業の歴史的意義をより客観的に評価するため、ここでは同時代に同様の課題に取り組んだ他の大名たちの事例と比較分析を行う。特に、「土木の神様」と称された加藤清正、革新的な農政で知られる前田利常、そして天下人として国家規模の改造を行った徳川家康との比較は、新発田藩の取り組みの普遍性と独自性を浮き彫りにするであろう。


【表2:近世初期における主要大名の領国経営比較】

大名

新発田藩(溝口秀勝)

肥後藩(加藤清正)

加賀藩(前田利常)

関東(徳川家康)

領地の課題

広大な低湿地帯、旧領主への思慕、脆弱な経済基盤

河川の頻繁な氾濫、城郭防衛と城下町整備の必要性

一向一揆の伝統を持つ自治意識の高い農民、複雑な知行制度

江戸の洪水リスク、広大な未開拓地、新たな政治中心地の基盤整備

主要政策

治水開田 (瀬替え、干拓、用水整備)

河川改修 (白川・坪井川の分離)、築城、干拓

改作法 十村制 (農政改革、民衆統治システムの刷新)

利根川東遷事業 (大規模河川改修)、関東郡代による広域開発

統治手法

「士民を集め」た総力動員、地域有力者の活用(推測)

専門技術者の登用、労働対価の支払いによる民衆動員

地域の有力者(十村)を通じた間接統治、農民自治の活用

専門官僚(伊奈氏)による計画主導、広域的な資源配分

政策の目的

藩の生存戦略(経済基盤確立、民心掌握、安全保障)

富国強兵、城郭都市の建設と防衛、領国安定化

藩財政の安定化、農村統治の効率化、農民反乱の防止

幕府本拠地・江戸の安全確保、国家の食糧基盤の確立

結果

石高の飛躍的増大、270年間の安定治世、蒲原平野開発の礎

熊本城下の繁栄、領内石高の大幅増、後世まで続く治水遺産

加賀百万石の財政安定、幕末まで続く藩政の安定

関東平野の穀倉地帯化、江戸の発展と世界有数の大都市化


第一節:「土木の神様」加藤清正との比較

肥後熊本52万石の領主であった加藤清正は、築城の名手としてだけでなく、治水事業においても卓越した手腕を発揮したことで知られる。「土木の神様」とも称される彼の最大の功績の一つが、熊本城下を流れる白川と坪井川の分離改修工事である 25 。かつて合流・分派を繰り返していた二つの川を完全に分離し、新たな流路を掘削することで、城下町を洪水から守り、安定した用水を確保した。この事業が、熊本城という強力な軍事拠点の防衛と、城下町の計画的な整備を主眼に置いていた点は、新発田城と新発田川の関係性と軌を一にするものであり、当時の大名にとって「治水」と「軍事・都市計画」がいかに不可分であったかを示している 26

しかし、両者の間には置かれた立場の違いからくる相違点も見られる。清正は秀吉子飼いの武将として既に大大名の地位を確立しており、その事業は潤沢な資金と強大な権力を背景に行われた。一方、秀勝は六万石の新興大名であり、その実収はわずか2万石という窮状にあった。したがって、秀勝の「治水開田」には、清正の事業以上に、藩の存続そのものを賭けた、より切迫した「生存戦略」としての色彩が強かったと言えるだろう。

第二節:「百姓の持ちたる国」加賀藩・前田利常との比較

加賀百万石の三代藩主・前田利常は、武力ではなく、巧みな統治システムによって広大な領国を安定させた名君として知られる。彼が実施した「改作法」や、その根幹をなす「十村制」は、日本の近世統治史上、特筆すべき革新的な農政改革であった 29 。かつて一向一揆によって「百姓の持ちたる国」とまで言われた加賀の地は、農民の自治意識が極めて高かった。利常は、この伝統を逆手に取り、藩の役人が直接農民から徴税するのではなく、地域の有力者である豪農を「十村」に任命し、彼らに一定の権限を与えて農村の監督や徴税を委ねた 30

この手法は、農民にとって「侍」ではなく、同じ農民のリーダーから指示を受ける形となるため、藩の支配に対する心理的な抵抗感を和らげる効果があった。溝口秀勝が「士民を集め」て事業を進めた際、彼もまた、地域の庄屋や有力者のリーダーシップを尊重し、彼らを介して領民を組織した可能性は高い。両者ともに、トップダウンの強制だけでは領国を統治できないことを深く理解し、地域コミュニティの自治能力を統治システムに組み込むという、共通の思想を持っていたと考えられる。藩の規模や歴史的背景は大きく異なるものの、民心の安定を最優先する為政者としての洞察力において、両者は通底していたと言えよう。

第三節:天下人・徳川家康の関東経営との比較

関ヶ原の戦いに勝利し、天下人となった徳川家康が江戸に幕府を開いた後、最優先で取り組んだのが関東平野の改造であった。関東郡代に任命された伊奈忠次とその一族は、数世代にわたって利根川の流れを東の銚子方面へと付け替える「利根川東遷事業」を主導した 20 。この国家規模のプロジェクトの目的は、第一に、頻繁に洪水を起こしていた利根川・荒川水系から新たな政治中心地・江戸を守ること。第二に、広大な湿地帯を干拓し、幕府の直轄地として巨大な穀倉地帯を創出することにあった。

溝口秀勝が新発田で行った「治水開田」は、その規模こそ比較にならないものの、その根本的な思想、すなわち「治水による領国の安全確保と経済基盤の確立」という点において、家康の関東経営と完全に軌を一にするものであった。これは、秀勝が、戦国時代の武力による領土拡大から、近世的な民政安定と経済開発へと移行しつつあった時代の潮流を的確に読み解き、新時代の統治者として何をすべきかを深く理解していたことを示している。彼が関ヶ原の戦いで迷わず東軍に与したのは、単なる政治的な損得勘定だけでなく、家康が描く新たな国家像に共鳴し、来るべき「徳川の世」における統治のあり方を共有していたからに他ならない。新発田藩の用水整備は、まさに近世という新しい時代の幕開けを象徴する事業だったのである。

終章:蒲原大変貌の礎 ― 新発田藩の治水事業がもたらした長期的影響

慶長5年(1600年)、戦乱の喧騒の中で産声を上げた新発田藩の「治水開田」事業。それは、初代藩主・溝口秀勝が、藩の存亡を賭して大地に刻んだ壮大な設計図であった。彼が蒔いた一粒の種は、その後270年以上にわたる歴代藩主と領民たちのたゆまぬ努力によって育まれ、やがて蒲原平野という日本一の穀倉地帯を実らせるに至る。秀勝の決断は、単に一つの藩を救っただけでなく、日本の農業史を塗り替える、巨大な歴史の歯車を動かす第一歩となったのである。

第一節:石高の飛躍的増大と藩財政の安定

秀勝が着手した治水と開墾の大事業は、二代藩主・宣勝、そして幕藩体制が確立期に入る三代・宣直の時代へと着実に引き継がれ、次々と実を結んでいった 5 。かつては泥沼と蒲原であった土地が、乾いた豊かな水田へと生まれ変わり、藩の石高は驚異的な成長を遂げる。

当初、弟の善勝に一万石を分知したことで五万石となった新発田藩の表高は、新田開発の進展に伴い、幕末には十万石へと倍増された 28 。しかし、より重要なのは、実際の収穫高を示す内高(実高)の伸びであった。幕末期には、その内高は20万石、あるいは40万石に達したとも伝えられている 1 。これは、表高の2倍から4倍に相当する、驚くべき生産力である。この磐石な経済基盤こそが、新発田藩が江戸時代を通じて一度も領地替え(転封)されることなく、溝口家12代による安定した治世を維持できた最大の要因であった 11 。秀勝の「治水開田」は、まさに藩の永続を保証する礎となったのである。

第二節:大穀倉地帯・蒲原平野の誕生

新発田藩の先駆的な成功は、蒲原平野に領地を持つ他の諸藩や幕府領にも大きな刺激を与えた。江戸時代を通じて、阿賀野川の流路変更や紫雲寺潟をはじめとする巨大な潟の干拓など、平野全体の開発が促進されていった 3 。かつて「水沼の蒲原」と揶揄され、三年で一度収穫があれば良い方だとまで言われた不毛の湿地帯は、幾世代にもわたる人々の水との闘いの末、日本有数の米どころへと文字通り「開拓」されていったのである 5

その長大な物語の原点を遡る時、我々は必ず慶長5年という年に辿り着く。新領主としてこの地に乗り込み、絶望的な現実を前にしながらも、未来を見据えて大地そのものを改造するという壮大なビジョンを描き、実行に移した溝口秀勝。彼の決断と行動がなければ、今日の蒲原平野の繁栄はなかったと言っても過言ではない 5

第三節:現代に受け継がれる遺産

新発田藩の270年余りの歴史は、まさに「水に苦しみ、水と闘い、水を克服した歴史」であった 5 。その精神と技術は、近代以降も途絶えることなく受け継がれている。昭和期に建設され、農業用水の安定供給と洪水調節に多大な貢献をした内ノ倉ダム 40 や、国営事業として整備された加治川用水の広大なネットワーク 41 は、秀勝が始めた事業の現代的な後継者たちである。

そして今、新発田市の中心市街地活性化の核として構想される「水のみち」整備事業 18 。これは、400年以上前に溝口秀勝が築いた城下町の骨格と、水と共に生きるという思想が、単なる歴史遺産としてではなく、現代の地域づくりを導く生きた指針として機能していることの力強い証明である。

結論として、1600年の「新発田用水整備」は、単一の土木工事を指す言葉ではない。それは、関ヶ原の戦いという国家的動乱と、上杉遺民一揆という地域的戦乱が交差する激動の瞬間において、新発田藩初代藩主・溝口秀勝が、藩の存亡と領国の未来を賭して始動させた「治水開田」という国家建設プロジェクトの狼煙であった。それは過去の歴史的事実であると同時に、蒲原平野のアイデンティティを形成し、未来を照らす道標として、現代に生き続けているのである。

引用文献

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