最終更新日 2025-09-14

方広寺大仏開眼(1589)

天正17年(1589年)、秀吉は方広寺大仏造立を開始。権威誇示と刀狩令口実を兼ねた国家事業だったが、慶長伏見地震で損壊。秀吉死後も再建難航し、最終的に豊臣家滅亡の引き金となった。
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方広寺大仏造営の盛衰:天正十七年の槌音から豊臣家滅亡の序曲まで

序章:天正十七年、「大仏開眼」の虚実

天正十七年(1589年)、京の都において方広寺大仏の開眼供養が盛大に執り行われた、という認識は、歴史的事実の核心に触れつつも、その複雑な過程を著しく簡略化したものである。本報告書は、この「1589年」という年が持つ真の意味を解き明かし、天下人・豊臣秀吉が企図した空前の国家事業の壮大な構想から悲劇的な結末まで、その全貌を時系列に沿って再構築することを目的とする。

史料を精査すると、天正十七年に行われたのは、完成した大仏に魂を込める「開眼供養」という最終的な式典ではなかったことが明らかとなる。奈良・興福寺の僧侶、英俊が記した当代随一の記録『多聞院日記』は、同年二月十八日の条に「大仏の尺迦(釈迦)、今日より鋳るよしなり」と記している 1 。これは、大仏本体の制作、すなわち木製の骨格に漆喰を塗り固めていく作業がこの日に開始されたことを示すものであり、祝祭的な「開眼」ではなく、むしろ創造の苦難の始まりを告げる「起工」であった。

実際に、大仏を安置する巨大な仏殿がほぼ完成し、高さ六丈三尺(約19メートル)にも及ぶ木造の大仏がその威容を現すのは、それから6年の歳月を経た文禄四年(1595年)のことである 2 。この6年という時間は、この事業がいかに巨大で困難を極めたかを物語っている。

歴史上の出来事は、後世に語り継がれる過程で、しばしば特定の記念碑的な年号に集約され、その複雑なプロセスが捨象される傾向にある。「1589年開眼」という通念もまた、そうした歴史の簡略化が生んだ一つの姿と言えよう。しかし、この年は豊臣秀吉の野望が設計図から現実の創造物へと転換を開始した、極めて象徴的な年であった。それは完成の祝祭ではなく、巨大な挑戦の始まりを告げる槌音だったのである。

第一章:天下人の野望―方広寺大仏造立の発願

豊臣秀吉がなぜ、奈良の東大寺大仏を凌駕する巨大な仏像の造立を志したのか。その動機は単一ではなく、天下人としての政治的野心、個人的な顕示欲、そして国家統治の深謀遠慮が複雑に絡み合ったものであった。

権威の象徴としての発願

秀吉の念頭には、常に奈良時代に聖武天皇が東大寺盧舎那仏像を造立し、仏教の力によって国家の統一と安寧を図ったという偉大な先例があった。関白、そして太政大臣に昇り詰め、天下人としての地位を固めつつあった秀吉にとって、聖武天皇の事業に倣い、かつそれを規模において凌駕することは、自らの権威を歴史上不滅のものとして刻み込むための絶好の機会であった 4 。永禄十年(1567年)の松永久秀らの焼き討ちによって頭部などを焼損した東大寺大仏に代わる、新たな国家鎮護の象徴を、帝都である京都に建立すること。それは、旧来の権威を乗り越え、豊臣政権こそが日本の新たな中心であることを天下に示す、強烈な宣言となるはずであった 5

この野心は、同時代を生きた外国人の目にも明らかであった。来日中のイエズス会宣教師ルイス・フロイスは、その著書『日本史』の中で、秀吉の動機を次のように記している。「元来、関白は、自らの名声を誇示し記念するのに役立つような大事業を起す機会を見逃すような性格ではなかった」 7 。フロイスの冷徹な観察眼は、この大仏造立が、純粋な宗教的熱意からというよりは、後世にまで語り継がれるべき自己の記念碑を打ち立てたいという、秀吉の強烈な自己顕示欲に根差していたことを見抜いていた。


表1:京の大仏と奈良の大仏の比較

項目

京・方広寺大仏(初代)

奈良・東大寺大仏

建立者

豊臣秀吉

聖武天皇

発願年

天正14年(1586年)

天平15年(743年)

像高

約19メートル(六丈三尺)

約14.7メートル(四丈九尺)

材質

木骨漆箔(木造乾漆)

青銅鋳造

大仏殿規模

間口約88m、奥行約55m

間口約86m、奥行約50m(創建時)

主目的

天下人の権威誇示、国家鎮護、豊臣家繁栄祈願

仏教による国家鎮護、疫病平定


国家的プロジェクトとしての多目的性

一方で、秀吉はこの巨大事業を、自身の権威誇示という私的な目的だけに用いたわけではない。軍記物である『太閤記』には、この大仏が「洛中洛外の賑わいを願って」造られたと記されており、民衆の安寧と繁栄を願うという公的な名分が掲げられていた 7 。しかし、その背後には、より巧妙かつ冷徹な国家統治の戦略が隠されていた。それが、天正十六年(1588年)に発布された「刀狩令」との見事な連動である。

刀狩令は、百姓から刀や槍などの武器を没収し、一揆を防止するとともに兵農分離を徹底させ、身分制度を固定化することを目的とした、豊臣政権の根幹をなす政策であった 8 。このような強権的な政策は、民衆の強い反発を招きかねない。そこで秀吉は、大仏造立をその口実として利用したのである。

刀狩令の条文には、取り上げた武具は、方広寺大仏の釘や鎹(かすがい)に利用すると明記された 6 。そして、「そうすれば今世のみならず、来世まで百姓は安泰となる」と説き、武器の供出という民衆にとっての「損失」を、来世にまで及ぶ功徳を積むという宗教的な「利益」へと巧みに意味転換させたのである 7

ここに、秀吉の統治者としての非凡さが見て取れる。大仏造立は、単なる宗教事業や建築事業ではなかった。それは、武装解除という内政・軍事上の目的を、宗教的権威をまとわせることで円滑に推進するための、極めて高度な政治的装置として機能した。大仏は物理的な巨大建築物であると同時に、秀吉が目指す新しい社会秩序を民衆に受け入れさせるための、強力なイデオロギー装置でもあったのだ。

第二章:国家事業としての造営―その実態と技術

天正十四年(1586年)の発願から、方広寺大仏の造営は、まさに日本という国家のあらゆる資源を動員した巨大プロジェクトとして始動した。その過程は、秀吉の絶大な権力と、それを支えた人々の技術、そして時に見せる性急さが交錯するものであった。


表2:方広寺大仏(初代)関連年表

年月

出来事

天正13年(1585)

秀吉、関白に就任。

天正14年(1586)

秀吉、大仏造立を発願。当初の建立地を東福寺近傍と定める 2

天正16年(1588)

建立地を蓮華王院(三十三間堂)北側に変更し、造営を再開 2 。刀狩令を発布。

天正17年(1589)

2月18日、大仏本体の造像(漆喰塗り)が開始される(『多聞院日記』) 1

天正19年(1591)

大仏殿の立柱式が行われる 12

文禄2年(1593)

大仏殿の上棟式が行われる 2

文禄4年(1595)

大仏殿がほぼ完成。木造大仏が安置される 2

慶長元年(1596)

閏7月13日、慶長伏見地震が発生。大仏殿は倒壊を免れるも、大仏が大破する 13

慶長3年(1598)

8月18日、秀吉が伏見城にて死去 2

8月22日、大仏不在のまま大仏殿で供養が催される 2

慶長5年(1600)

豊臣秀頼、大仏殿の再建を開始 12

慶長7年(1602)

鋳造中の(二代目)銅造大仏より出火。大仏と大仏殿が共に炎上・焼失する 2


プロジェクトの始動と変転

大仏造立の勅許を得た秀吉は、天正十四年(1586年)に事業に着手した。寺の創建と運営の実務には、高野山の高僧であり、秀吉からの信任も厚かった木食応其が深く関与した 3 。当初、建設地は東山の東福寺南方に定められたが、計画は一時中断。二年後の天正十六年(1588年)、場所を蓮華王院(三十三間堂)の北隣へと変更して再開された 2 。この地はもともと佛光寺の境内であり、寺を移転させて用地を確保するという、天下人の権力を以てして初めて可能な、強引な手法が取られた。

技術陣と運命を分けた建造法

この巨大な仏像の制作には、当代一流の技術者たちが集められた。総指揮を執ったのは、大和の仏師集団を率い、金峯山寺蔵王堂の巨大な蔵王権現像を手掛けたことで知られる南都大仏師の宗貞・宗印兄弟であった 20 。彼ら日本の伝統的な仏師に加え、秀吉は特殊技術を持つ専門家をも召し出した。豊後国(現在の大分県)から上洛を命じられた陳元明は、渡来中国人の四世にあたる人物で、「油蛎(ゆがき)」と呼ばれる特殊な漆喰技術の大家であった 21 。牡蠣殻を焼いた灰に油などを混ぜて作る彼の漆喰は、耐水性と強度に優れていたとされ、大仏の表面を塗り固める「大仏木像仕立漆油続立」という重要な工程を担った。この事業は、日本の伝統的な木彫技術と、大陸由来の最新の漆喰技術が融合した、当時としては画期的なハイブリッド・プロジェクトだったのである。

しかし、このプロジェクトの運命を決定づける重要な技術選択が、初期段階でなされていた。当初は奈良の大仏と同じ青銅での鋳造も検討されたが、莫大な費用と長い工期を要することから断念された。代わりに採用されたのが、木材で骨格を組み、その上を漆喰で塗り固め、表面に漆を塗って金箔を施す「木造乾漆造り(木骨漆箔)」という技法であった 1 。この方法は、約19メートルという前代未聞の大きさの像を比較的短期間で完成させるための、極めて現実的な選択であった。

だが、この「速さ」と「経済性」を優先した判断には、秀吉の性急な性格と、一日も早く目に見える形で自らの権威を誇示したいという強い欲求が反映されていた。堅牢な青銅の塊である奈良の大仏に対し、木骨漆箔の大仏は構造的には巨大な張り子に近く、地震の揺れに対して脆弱であることは避けられなかった。この技術的判断こそが、後に訪れる悲劇の直接的な伏線となったのである。

全国からの資源動員

大仏および大仏殿の建設に必要な資材は、文字通り日本全国から集められた。醍醐寺座主・義演の日記には、建材が薩摩の屋久島から富士山の樹海に至るまで、「日本六十余州の山木」から集められたと記されている 16 。秀吉は諸大名に対し、領国からの用材運上を厳命し、事業への協力を義務付けた 2 。また、豪商・角倉了以は、京の中心を流れる鴨川を開削して水運を整備し、丹波などから切り出された巨大な材木を建設現場まで効率的に輸送する役割を担った 3 。この事業は、単なる寺院建設に留まらず、大規模なインフラ整備をも伴う、国家総動員体制の巨大公共事業であった。

第三章:天正十七年(1589年)の動静―造像開始の槌音

天正十七年(1589年)二月十八日、京の東山では、歴史的な槌音が響き渡った。それは、方広寺大仏の本体造像が開始されたことを告げる音であった 1 。この年、豊臣秀吉の構想はついに現実の形を取り始め、プロジェクトは後戻りできない段階へと突入した。まだ後の天災や政変の影はなく、天下人の意志が最も純粋な形で現場のエネルギーへと変換されていたこの時期は、まさに計画の「最大風速期」と呼ぶにふさわしい。

当時の東山一帯は、空前の建設ラッシュに沸き立っていた。巨大な大仏殿の建設も並行して進められ、直径が約1.6メートルにも達する巨大な柱を立てるための礎石が据えられていた 22 。京都の町には、全国から舟や馬で運ばれてくる木材や瓦、そして各地から集められた大工、左官、仏師、人夫たちが絶えず行き交い、一種の祝祭的な活気に満ちていたことだろう。

大仏の造像現場では、南都の伝統を受け継ぐ宗貞・宗印兄弟の指揮のもと、数多の仏師たちが巨大な木の骨格を組み上げていた 20 。その一方で、豊後から来た陳元明とその弟子たちは、秘伝の漆喰「油蛎」を練り上げ、組み上がった骨格に塗り込めていく 21 。異なる技術体系を持つ職人たちの間には、互いの技を競う緊張感と、前代未聞の事業に携わる高揚感が渦巻いていたに違いない。

この国家事業の総責任者である秀吉は、当時完成したばかりの聚楽第や大坂城を拠点としながらも、その鋭い視線を常に東山の建設現場に向けていた。京都所司代の前田玄以や、後に五奉行の一人となる石田三成といった腹心の部下たちが造営奉行として現場を監督し、秀吉の指示を寸分違わず実行させていた 23

この巨大な建造物が日に日にその姿を現していく様を、京の民衆は複雑な思いで見上げていたであろう。天下人の絶大な権力に対する畏怖の念、都に新たなシンボルが誕生することへの期待感、そして同時に、この巨大事業を支えるための賦役や増税といった負担に対する不安。それらが入り混じった感情が、当時の都の空気を支配していた。後に、大仏門前の餅屋が「大仏餅」を売り出して名物になったという逸話 5 は、この巨大プロジェクトが人々の日常に溶け込み、新たな文化を生み出すほどのインパクトを持っていたことを物語っている。1589年は、そうした希望と期待、そして一抹の不安の中で、巨大な夢が形を取り始めた、忘れ得ぬ一年であった。

第四章:束の間の栄光と大地の怒り―慶長伏見地震の衝撃

天正十七年(1589年)の造像開始から6年の歳月を経て、文禄四年(1595年)、方広寺大仏殿はついにその壮大な姿をほぼ完成させた。内部には、金箔に覆われ燦然と輝く高さ約19メートルの木造大仏が鎮座し、その威容は奈良の大仏を凌駕するものであった 2 。秀吉はこの完成を心から誇り、自らの祖父母や父母の追善供養のための千僧供養会を、完成したばかりの大仏殿の経堂で盛大に執り行った 2 。毎月のように営まれる壮麗な法会は、豊臣政権の揺るぎない繁栄を天下に示す象徴として、都の人々の目に焼き付けられた 14

しかし、その栄光はあまりにも束の間であった。翌慶長元年(1596年)閏七月十三日の夜半、亥の刻(午後10時頃)、京の都を凄まじい揺れが襲った。後に「慶長伏見地震」と呼ばれる、推定マグニチュード7.5の巨大地震である 13 。この地震により、秀吉が晩年の居城として心血を注いだ伏見城の天守閣は倒壊し、城内だけで600人以上、京都全体では1,000人を超える死者を出すという甚大な被害が発生した 13

そして、秀吉にとって伏見城の倒壊以上に衝撃的な報告がもたらされる。方広寺の大仏の崩壊であった。同時代の貴族・山科言経の日記『言経卿記』や、醍醐寺座主・義演の『義演准后日記』などの第一級史料が、その惨状を生々しく伝えている。驚くべきことに、あれほど巨大な大仏殿の建物自体は、柱が地面に数センチめり込む 15 などの損傷は受けたものの、奇跡的に倒壊を免れた 15 。しかし、その内部に安置されていた大仏本体は、無残にも大破していた。義演は「本尊大破、左の御手崩落了、御胸崩る」と記し、大仏の左腕がもげ落ち、胸部が崩れ、全身にひびが入るという有様であったことを記録している 15 。皮肉にも、大仏の背後にあった後光だけはほとんど損傷がなかったという記述が 15 、かえってその悲劇性を際立たせている。

この報告を受けた秀吉の怒りと絶望は、想像に難くない。一説には、「自らの身をも守れないのか」と、崩れ落ちた大仏を激しく罵ったと伝えられている 19 。この言葉は、秀吉が大仏を単なる信仰の対象としてではなく、自らの権威と一体不可分の存在、すなわち自身の分身として捉えていたことの何よりの証左である。

この地震による大仏の崩壊は、単なる建造物の損壊という物理的な被害に留まるものではなかった。それは、秀吉が築き上げてきた「神仏の加護を受けた絶対的支配者」というイメージを、人知を超えた天変地異の力によって根底から覆す、極めて深刻な象徴的ダメージであった。「国家鎮護」を掲げて造られたはずの大仏が、天災から国を守るどころか、自らの身さえ守れずに崩壊したという事実は、その宗教的権威の完全な失墜を意味した。権力の象徴である伏見城と、権威の象徴である大仏が同時に破壊されたことで、秀吉の支配の正当性は大きく揺らいだ。「豊臣政権の繁栄の象徴」は、一夜にして「滅亡の象徴」へと転落したのである 14 。この出来事は、諸大名や民衆の心に、豊臣政権の「終わり」を予感させるに十分な衝撃を与えたに違いない。

第五章:巨星墜つ―太閤の死と「開眼供養」の結末

大地の怒りの前に自らの権威の象徴を無残に破壊された秀吉は、その威信を回復すべく大仏の再建を試みたが、彼の肉体はすでに病魔に蝕まれ、残された時間は少なかった。志半ばにして、慶長三年(1598年)八月十八日、天下人・豊臣秀吉は波乱の生涯を閉じた 2 。彼の遺体は遺言に従い、方広寺を見下ろす東山の阿弥陀ヶ峰山頂に葬られ、その麓には彼を神として祀る豊国社が創建された 26

巨星の墜落という国家の非常事態に際し、豊臣家の家臣たちは異例の行動に出る。秀吉の死からわずか四日後の八月二十二日、主を失ったばかりの大仏殿で、供養の儀式が執り行われたのである 2 。しかし、それは本来あるべき壮麗な「大仏開眼供養」とは似て非なるものであった。史料には「如来不在のまま大仏殿で大仏開眼供養が催される」と記されている 2 。これは、地震で崩壊し、いまだ無残な姿を晒している大仏はそのままに、魂を込めるべき本尊が「不在」の状態で、建物に対してのみ儀式が強行されたことを意味している。

この前代未聞の空虚な儀式は、宗教的な意味合いを完全に失った、純然たる政治的パフォーマンスであった。絶対的指導者を突然失った豊臣政権が、その権威の空洞化を糊塗し、秀吉亡き後も政権は盤石であることを内外に示すための、必死の足掻きだったのである。しかし、主役であるべき「如来」が不在の儀式は、絶対的カリスマを失い、幼い秀頼を戴くだけとなった豊臣政権の「実体のない権威」そのものを象徴しているかのようであった。この空虚な儀式こそが、豊臣家の没落という長い悲劇の、まさに序章を告げるものであった。

この一連の悲劇を、同時代の知識人たちは冷静な目で見ていた。醍醐寺の義演は、日記の中でこの顛末に触れ、そもそもこのような事態になったのは、「最初から良材で大仏を造るべきものを、唐人(中国人)の勧めに従って漆喰で造立し、これが地震で破裂して凍った土のようになってしまった」からだと、秀吉の技術選択を暗に批判している 1 。彼の言葉は、この悲劇が単なる不運な天災ではなく、天下人の性急な野心と判断ミスが招いた「人災」であるという、当時の知識人層の厳しい見方を代弁している。

終章:豊臣家の夢の跡―方広寺のその後と歴史的意義

初代大仏の悲劇は、方広寺と豊臣家の物語の終焉ではなかった。それは、さらなる悲劇と歴史の皮肉に満ちた、新たな章の始まりであった。

秀吉の遺志を継いだ嫡男・秀頼と母・淀殿は、豊臣家の威信をかけて大仏の再建に着手する。二度目の失敗は許されないと、今度は地震にも強い青銅での鋳造が試みられた。しかし、豊臣家の運命を呪うかのように、悲劇は再び繰り返される。慶長七年(1602年)、鋳造作業中の大仏内部から火の手が上がった。火は瞬く間に燃え広がり、再建中の大仏のみならず、慶長伏見地震の災禍を奇跡的に免れた壮大な大仏殿をも、一夜にして灰燼に帰せしめたのである 2 。相国寺の僧・西笑承兌が記した『鹿苑日録』には、仏師が鋳造の際に懐に入れた溶銅の余りから出火したという、あまりにも呆気ない事故の様子が生々しく記録されている 1 。義演はこの報に接し、「これは天魔の所行、仏法の衰微で嘆かわしいことだ」と深く嘆いた 1

大仏と大仏殿という、豊臣家の権威の拠り所を二度も失った秀頼母子に対し、この時すでに関ヶ原の戦いを経て天下の実権を握っていた徳川家康が、意外な提案を持ちかける。秀吉の追善供養のためと称し、大仏と大仏殿の再建を勧めたのである 6 。しかし、この勧めには、豊臣家に残された莫大な財力をこの巨大事業に注ぎ込ませ、その勢力を完全に削いでしまおうという、家康の冷徹な政治的深謀があった 6

家康の掌の上で、秀頼は三度目の造営に着手する。そして慶長十七年(1612年)に銅造大仏が、慶長十九年(1614年)には巨大な梵鐘が完成した 2 。ようやく豊臣家の悲願が成就するかに見えたその時、家康は最後の罠を仕掛ける。完成した梵鐘の銘文にあった「国家安康」「君臣豊楽」という句に対し、「家康」の名を分断し、豊臣家の繁栄を祈る呪詛が込められていると、理不尽な難癖をつけたのである 3

これが、世に言う「方広寺鐘銘事件」であり、大坂冬の陣を開戦させるための直接的な口実となった 27 。豊臣家の栄華の象徴として計画された方広寺大仏は、その建立過程で天災と人災に繰り返し見舞われ、ついには政敵である徳川家康によって、豊臣家自身を滅ぼすための道具として利用されたのである。

結論として、方広寺大仏造営の歴史は、豊臣政権の栄枯盛衰と驚くほど軌を一にしている。秀吉の権力が絶頂期にあった時の壮大な発願に始まり、彼の性急な性格を反映した技術選択、晩年の権威の揺らぎと重なる地震による崩壊、指導者不在の混乱を象徴するかのような火災による焼失、そして最後は徳川家の策略によって滅亡の引き金を引かれるという結末。豊臣家の繁栄を祈願して始まった事業が、その墓標を建てる結果に終わるという、日本史上類を見ない、壮大かつ皮肉に満ちた悲劇であった。方広寺の鐘の音は、豊臣家の栄華の記憶と、その滅亡を告げる挽歌の両方を、今に伝えている。

引用文献

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  4. 方広寺の概要と歴史 方広寺は日本で建てられた建築物の中でも最も壮観な建物のひとつがあっ https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/common/001554749.pdf
  5. 方広寺 - デジタルアーカイブ研究所 - 岐阜女子大学 https://digitalarchiveproject.jp/information/%E6%96%B9%E5%BA%83%E5%AF%BA/
  6. 方広寺鐘銘事件「国家安康」なにが問題?わかりやすくしたまとめ - 戦国武将のハナシ https://busho.fun/column/hoko-ji-jiken
  7. 奈良より大きかった!幻の「京都大仏」の悲劇。豊臣秀吉の死は ... https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/102274/
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  28. 方広寺鐘銘事件/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/97921/