最終更新日 2025-09-14

方広寺鐘銘事件(1614)

慶長19年(1614年)、家康は豊臣家再建の方広寺鐘銘「国家安康」等を問題視。呪詛と断じ大坂の陣開戦理由とした。豊臣家の失策と家康の謀略が絡み、豊臣家滅亡の直接的な引き金となった。
Perplexity」で事変の概要や画像を参照

方広寺鐘銘事件(慶長19年)の真相:徳川・豊臣 最終戦争への道程

序章:天下泰平の狭間で揺れる二つの権威

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いは、日本の権力構造を決定的に塗り替えた。勝利した徳川家康は、豊臣秀吉が遺した政治体制を事実上掌握し、天下人としての地位を不動のものとした。戦後、家康は豊臣家の直轄領であった蔵入地220万石のうち、その実におよそ4分の3を削減し、豊臣家の所領を摂津・河内・和泉の約65万石にまで押し込めた。対照的に、徳川家は加増を経て400万石に達する圧倒的な経済基盤を築き上げた 1

慶長8年(1603年)、家康は征夷大将軍に就任して江戸に幕府を開き、さらに慶長10年(1605年)には将軍職を次男秀忠に譲ることで、徳川による権力の世襲を天下に宣言した 1 。これは、豊臣秀頼が成人するまでの一時的な国政代行を期待していた豊臣方にとって、到底承服しがたい裏切り行為と映った 3

しかし、一大名へと地位を落とされたにもかかわらず、豊臣家は依然として特別な存在であり続けた。年始には全国の諸大名から祝儀が届けられ、朝廷の勅使や公家衆も大坂城へ下向するなど、その権威は未だ衰えていなかった 3 。加えて、秀吉が遺した莫大な金銀を背景に、その財力は幕府を凌駕する可能性さえ秘めていた 2 。この「実効支配を進める徳川」と「権威と財力を保持する豊臣」という歪な二重権力構造は、訪れた束の間の泰平における最大の不安定要因となっていた 6

家康の戦略は、豊臣家を性急に滅ぼすことではなく、その権威と財力を時間をかけて削ぎ落とし、無力化する「緩慢なる絞殺」とも言うべき長期的なものであった。関ヶ原後の領地削減、将軍職の世襲化、そして後に詳述する方広寺再建の勧奨は、すべてこの周到な戦略の線上にある。一方で、豊臣方の中心人物である淀殿は、この構造変化を正しく認識できていなかった節がある。彼女らは依然として自らを「天下人の家」と捉え、家康を「秀頼の後見人」という過去の役割の延長で見ていた 7 。この深刻な認識の乖離こそが、後に豊臣家が致命的な判断ミスを重ねる根本的な原因となるのである。

本報告書は、大坂の陣の直接的な引き金となった「方広寺鐘銘事件」について、事件発生に至るまでの伏線、リアルタイムの交渉過程、そして豊臣家内部の力学の変化を時系列に沿って徹底的に解明し、その歴史的真相に迫るものである。


方広寺鐘銘事件に至る主要な時系列

年月日(慶長19年)

出来事

関係者・要点

7月21日頃

家康、鐘銘文を問題視

金地院崇伝、板倉重昌に不快感を表明 8

8月3日

大仏殿供養の延期が正式に命令される

徳川秀忠の名で発令 8

8月13日

片桐且元、大野治長らが弁明のため大坂を出発

9

8月17日

且元、駿府に到着するも入府を止められる

銘文起草者の文英清韓は捕縛される 9

8月29日

大蔵卿局が駿府に到着、家康と面会

家康は穏やかに接し、鐘銘には触れず 9

9月12日

且元、大坂に帰還

徳川方の厳しい三条件(参勤・人質・国替え)を報告 9

9月18日頃

且元の報告に対し、淀殿・秀頼は不快感を示す

大蔵卿局の楽観的な報告との齟齬から、且元への不信感が募る 12

9月23日頃

且元暗殺計画が発覚

大野治長、織田頼長らが主導。且元は自邸に籠城 9

10月1日

片桐且元、一族郎党を率いて大坂城を退去

豊臣・徳川間の交渉役が不在となり、外交的解決の道が閉ざされる。同日、家康は大坂攻めを決意 9

10月11日

家康、駿府を出陣

大坂冬の陣の開始 10


第一章:二条城会見 ― 徳川家康の警戒と決意

慶長16年(1611年)、徳川と豊臣の関係史において決定的な転換点となる出来事が起こる。後陽成天皇の譲位に伴う儀式への列席を名目に上洛した家康は、豊臣秀頼に対し、京都二条城への上洛を要請した。これは慶長10年(1605年)に淀殿の猛反対によって一度は断念された要求であり、事実上、豊臣家が徳川家の権威に服する臣従儀礼に他ならなかった 7 。加藤清正や浅野幸長ら、豊臣恩顧の大名たちが豊臣家の存続を願い、必死の説得にあたった結果、秀頼はこの要請を受諾する 7

同年3月28日、二条城で実現した会見は、家康の想定を根底から覆すものであった。家康が最後に秀頼に会ったのは彼がまだ11歳の少年であった時であり、それから8年の歳月が流れていた 7 。家康は秀頼を「愚魯なる人」と聞き及んでいたが、その日、彼の眼前に現れた19歳の秀頼は、身長6尺5寸(約197cm)とも伝わる、威風堂々とした偉丈夫であった 7 。家康は対等な立場での挨拶を促したが、秀頼はこれを固辞し、年長者であり官位も上の家康を立てるという、武家の礼節をわきまえた分別を示した 7

この会見で、秀頼が単なる飾り物の当主ではなく、賢明さと天下人たる風格を兼ね備えた人物であることを目の当たりにした家康は、深刻な衝撃と警戒感を抱いた。「なかなか、人の下知など受くべき様子にあらず」という家康の述懐は、その驚愕の度合いを物語っている 7

この会見がもたらした波紋は、それだけにとどまらなかった。秀頼の上洛は京の民衆から熱狂的に歓迎され、「御所柿は ひとり熟して 落ちにけり 木の下にゐて 拾ふ秀頼」という落首が流行した。これは、老いた家康の時代が終わり、若き秀頼が天下を継ぐことへの民衆の期待感を如実に示すものであった 7

事態を重く見た家康の行動は迅速であった。会見の直後、彼は西国の諸大名に、翌年には東国の大名にも、幕府への忠誠を改めて誓わせる起請文を提出させている 7 。これは、成長した秀頼の存在が、未だ豊臣家への旧恩を感じる大名たちの心を揺さぶり、徳川体制の不安定化を招きかねないという強烈な危機感の表れであった。

この二条城会見は、家康の中で「豊臣問題」の性質を根本的に変質させた。それまで政治的・制度的な課題であった豊臣家の存在が、秀頼というカリスマ性を備えた「生身の脅威」として具現化したのである。70歳を超え、自らの死期を意識し始めていた家康にとって、徳川幕府の永続こそが至上命題であった。賢明で人望のある秀頼をこのまま放置すれば、自分の死後、必ずや反徳川勢力の旗頭として担ぎ出され、天下が再び大乱に陥ることは火を見るより明らかであった 3 。豊臣家の「滅亡」が、この時点で初めて具体的な政治目標として設定された可能性は極めて高い。共存は不可能である、という非情な決断へのカウントダウンが、この日から始まったのである。

第二章:方広寺大仏殿再建 ― 豊臣家の威信と徳川の深謀

二条城会見で豊臣家排除の決意を固めた家康にとって、次なる課題は「如何にして戦の大義名分を得るか」であった。豊臣家を一方的に攻め滅ぼせば、家康は秀吉からの恩を仇で返す「簒奪者」としての悪評を免れない 6 。豊臣家側に明確な「非」があるという状況を作り出す必要があった。そのための巧妙な一手として仕掛けられたのが、方広寺大仏殿の再建であった。

方広寺は元々、豊臣秀吉が奈良の東大寺を模して国家鎮護を祈願して建立した、豊臣家の栄華を象徴する寺院であった 21 。しかし、文禄5年(1596年)の慶長伏見地震で初代大仏が損壊。その後、秀頼の代で再建が試みられたものの、慶長7年(1602年)に鋳造中の事故から出火し、大仏殿もろとも焼失するという悲運に見舞われていた 21

この頓挫していた事業に対し、家康は「幕府も協力するから」と、秀頼に再建を強く勧めたのである 21 。豊臣方にとって、これは亡き秀吉の追善供養であると同時に、豊臣家の威信を天下に示すまたとない好機であった。彼らはこの提案を受け入れ、秀吉時代から蓄積してきた莫大な財力を惜しみなく投じて工事に着手した 27

しかし、家康の真の狙いは別のところにあった。それは、豊臣家が保有する莫大な財力を、この巨大公共事業に費やさせることで消耗させるという、経済的な消耗戦であった 2 。だが、家康の深謀はそれだけではなかった。方広寺再建は、二段構えの罠であった。第一の目的が経済的消耗であるとすれば、第二の、そしてより重要な目的は、豊臣家に「何かをさせる」ことで、そこに介入し、難癖をつける「口実」を創出することにあった。巨大な寺社の建立という事業は、棟札の文言、儀式における座席の順、そして梵鐘の銘文など、儀礼上・形式上の問題点を見つけやすい、格好の標的であった。

工事は驚異的な速さで進み、慶長17年(1612年)頃には大仏本体がほぼ完成 5 。慶長19年(1614年)には梵鐘も完成し、銘文は南禅寺の長老であり、豊臣家とも縁の深い文英清韓に起草が依頼された 13 。豊臣方は、大仏の開眼供養を同年8月3日、大仏殿の堂供養を秀吉の命日である8月18日に行うべく準備を進め、その段取りについて片桐且元を通じて家康の了承を得ようとしていた 13 。全てが順調に進んでいるかに見えたその矢先、家康は鐘の銘文という、最も象徴的で解釈の余地が広い部分に狙いを定め、牙を剥いた。事件は、まさに起こるべくして起きたのである。

第三章:鐘銘問題の勃発 ― 「国家安康」に込められた意図の多角的分析

慶長19年7月21日、家康は金地院崇伝と京都所司代の板倉重昌を呼び、完成した方広寺の梵鐘の銘文に「関東にとって不吉な語句がある」として、強い不快感を表明した 8 。これを皮切りに、鐘銘問題は一気に政治問題化していく。

問題とされた三つの句

徳川方が問題視したのは、主に以下の三つの句であった。

  1. 「国家安康 君臣豊楽」
    徳川方は、「国家安康」の句が家康の諱(実名)である「家康」の二文字を「安」の字で分断しており、これは家康の身体の切断を意図した呪詛であると断じた 13。さらに、「君臣豊楽」の句は、「豊臣」を君主としてその繁栄を楽しむという意味であり、豊臣家の天下簒奪の野望を示すものだと激しく非難した 13。
  2. 「右僕射源朝臣」
    銘文の序文にあったこの句も追及の対象となった。家康のブレーンであった儒学者の林羅山は、これを「右大臣(豊臣秀頼)が源朝臣(徳川家康)を射る」と解釈し、銘文全体が徳川家への呪詛に満ちているという論理を補強した 33。

徳川方の論理構築と豊臣方の反論

家康の意を受けた金地院崇伝と林羅山は、この問題を豊臣家攻撃の絶好の口実とするため、銘文が呪詛であるという論理を精緻に構築した 25 。特に林羅山は、「諱を侵し、その上で字の中を切るのは沙汰の限り。呪詛の意図があることは明白である」と、儒学者の権威をもって断罪した 1

これに対し、銘文を起草した文英清韓は、呪詛の意図を真っ向から否定。問題とされた句は「隠し題」と呼ばれる漢詩文の修辞技法を用いたものであり、家康の名を織り込むことで、むしろその威光にあやかり、徳川家の安泰と豊臣家の繁栄を共に願う祝意の表現であると弁明した 26

「言いがかり」と「失策」の複合構造

この事件は、長らく家康による一方的な「言いがかり」と見なされてきた。しかし、当時の文化的背景を考慮すると、より複雑な様相が浮かび上がる。清韓の弁明に立ち会った京都五山の高僧たちは、呪詛とまでは断定しなかったものの、別の点で清韓を非難した。それは、当時の武家社会の慣習として極めて無礼とされる、主君や上位者の諱を無断で使用するという「避諱(ひき)」のタブーを犯した点であった 36

近年の歴史学研究、特に笠谷和比古氏らの研究によれば、「避諱」の慣習は、当時の主従関係や上下関係を示す極めて重要な文化的コードであった 37 。征夷大将軍であり、事実上の天下人である家康の諱を、形式上は臣下の立場にある豊臣家が、事前の許可なく公的な鐘の銘文に刻むこと自体が、徳川の権威に対する挑戦、あるいは少なくとも著しい敬意の欠如と見なされても仕方のない行為だったのである。

したがって、この事件は単なる徳川方の「言いがかり」という側面と、豊臣方の明らかな「文化的失策」という側面が組み合わさった複合的な事象と捉えるべきである。豊臣方には、時代の変化に伴う政治的・文化的な機微を理解していなかったか、あるいは軽視していたという脇の甘さがあった。徳川方は、豊臣方のこの失策を巧みに捉え、それを「呪詛」という極めて深刻な政治的攻撃にまで増幅させ、豊臣家を追い詰めるための大義名分として最大限に利用したのである。それは家康の一方的な謀略というよりも、豊臣方の不用意さが招いた自滅の側面を色濃く持つものであった 37

第四章:交渉の決裂 ― 片桐且元の苦悩と豊臣家中の分裂

鐘銘問題の発生は、豊臣家内部に深刻な亀裂を生じさせ、最終的に破局へと導く直接的な引き金となった。その過程は、徳川方の巧みな情報戦と、それに翻弄され内部崩壊に至る豊臣家の悲劇的な物語である。

【慶長19年8月】初動の混乱と且元の派遣

8月3日、二代将軍・徳川秀忠の名で方広寺大仏殿の供養延期が正式に命じられ、事態は公のものとなった 8 。大坂城内が騒然とする中、8月13日、豊臣方は弁明のため、徳川家との長年の交渉役であった家老・片桐且元と、淀殿の側近である大野治長らを駿府へ派遣した 9 。しかし、8月17日に駿府へ到着した且元は入府を差し止められ、郊外での待機を命じられる。その一方で、銘文起草者の文英清韓は捕縛され、事態が単なる言いがかりでは済まされない深刻なものであることが明らかとなった 9

【8月下旬~9月上旬】徳川方の分断工作

ここから、家康による巧みな分断工作が始まる。且元は家康との面会すら許されず、金地院崇伝らから連日厳しい詰問を受けるという屈辱的な扱いを受けた 9 。その一方で、8月29日に駿府入りした淀殿の乳母であり大野治長の母でもある大蔵卿局は、家康と速やかに面会。家康は終始穏やかな態度で丁重にもてなし、問題の核心である鐘銘の件には一切触れなかったという 9 。家康は、且元と大蔵卿局に意図的に異なる対応をすることで、大坂城に届けられる報告に齟齬を生じさせ、豊臣家中の不信感を煽ることを狙ったのである。

【9月中旬】二つの報告と豊臣家中の亀裂

9月12日、且元は大坂に帰還した。彼が持ち帰ったのは、戦争を回避するための最後の選択肢として徳川方から突きつけられた、三つの過酷な条件であった 9

  1. 豊臣秀頼が江戸に参勤すること。
  2. 淀殿が人質として江戸に来ること。
  3. 秀頼が大坂城を退去し、国替えに応じること。

これに対し、先に帰坂していた大蔵卿局は「家康公の御機嫌は麗しく、全く問題ない」という楽観的な報告をしていた 11 。この全く正反対の報告に、大坂城内は混乱の極みに達した。淀殿や大野治長ら主戦派は、聞きたくない厳しい現実を伝えた且元よりも、聞きたい楽観的な見通しを伝えた大蔵卿局の報告を信じた。そして、且元を「徳川と内通し、豊臣家を陥れようとしている裏切り者」と断定するに至る 11

【9月下旬~10月1日】穏健派の排除と外交ルートの断絶

完全に孤立した且元は、淀殿や秀頼の側近たちから猛烈な非難を浴びる 39 。9月23日頃には、大野治房や織田頼長らが主導する且元暗殺計画が発覚。身の危険を感じた且元は自邸に籠城し、武装して防備を固めた 9 。この行動は、武装解除を命じた淀殿の意に反すると見なされ、且元は隠居を命じられるという絶望的な状況に追い込まれた 9

万策尽きた片桐且元は、10月1日、一族郎党約4000人を率い、武装したまま大坂城を退去した 9 。これは、豊臣家が徳川家との唯一の公式な交渉ルートを自らの手で断ち切ったことを意味した 40 。同日、且元退去の報を受けた家康は、これを豊臣方による明確な「敵対行動」と断定し、大坂攻めの出陣を正式に決定したのである 9

豊臣家の悲劇は、外部からの圧力が、内部の脆弱性(譜代家臣の不在 44 、淀殿の感情的な意思決定 45 、穏健派と主戦派の対立)を刺激し、内部崩壊を引き起こした点にある。特に、最も現実を理解し、破局を回避しようとしていた穏健派の且元を、主戦派が「裏切り者」として排除してしまったことは、自らの首を絞めるに等しい致命的な判断ミスであった。豊臣家は、家康の掌の上で自滅への道を突き進んだのである。

第五章:大坂の陣へ ― 不可逆の道

片桐且元の退去は、徳川・豊臣両家の関係を修復不可能な段階へと押しやった。外交による解決の道が完全に閉ざされた今、軍事衝突はもはや時間の問題であった。

両陣営の軍事行動開始

10月1日、且元退去の報を受けると同時に大坂攻めを決意した家康は、10月11日には駿府を出陣した 10 。その姿は73歳という高齢を感じさせない、活力に満ちたものであったと伝えられる 10 。家康は、且元の追放と、それに続く豊臣方の動きを「謀反の証」として宣伝し、諸大名に出兵を命令した 13 。これにより、この戦は徳川家と豊臣家の私闘ではなく、江戸幕府という公儀が「天下の静謐を乱す反乱分子」を討伐するという、大義名分のある公戦としての性格を帯びることになった。

一方、且元を追放し、大野治長ら主戦派が主導権を握った大坂方では、徳川方との対決姿勢を鮮明にした。そして、関ヶ原の戦いなどで主家を失い、泰平の世に行き場をなくしていた浪人衆を、莫大な金銀を以て全国から大量に召し抱え始めた 10 。これは軍事力を増強する上で不可欠な措置であったが、同時に、その浪人たちの存在自体が、徳川方にとっては「豊臣家が天下を乱そうとしている」という格好の攻撃材料となり、豊臣家の社会的孤立を一層深める結果を招いた。豊臣家は、戦うための兵力を得るのと引き換えに、戦を正当化する「大義名分」を敵に与えてしまったのである。

大坂冬の陣から夏の陣へ

豊臣方からの「敵対の意思はない」という今更の弁明は、家康に全く聞き入れられることはなかった 13 。徳川方の圧倒的な大軍が大坂城を包囲し、大坂冬の陣が始まった。豊臣方は籠城戦を選択し、真田幸村が築いた出城「真田丸」での奮戦など目覚ましい活躍を見せたが、徳川方が備えた大筒による砲撃が本丸に着弾し、淀殿らを恐怖させたことで和議へと傾いていった 9

しかし、この和議は家康の策略であった。和議の条件として大坂城の二の丸・三の丸の破壊と堀の埋め立てが行われたが、徳川方は約束の範囲を超えて本丸の堀まで埋め立て、大坂城を防御機能を持たない裸城へと変貌させた 20

和議は当然のように破られ、慶長20年(1615年)5月、大坂夏の陣が勃発。もはや豊臣方に抗う術はなく、大坂城は落城した。5月8日、豊臣秀頼と淀殿は城中の籾蔵で自害し、ここに太閤秀吉以来の豊臣家は完全に滅亡した 6 。片桐且元を追放した時点で、豊臣家に残された選択肢は「完全降伏」か「玉砕」しかなかった。主戦派が主導権を握った以上、後者の道を選ぶのは必然の流れであったと言えよう。

結論:方広寺鐘銘事件が歴史に刻んだもの

方広寺鐘銘事件は、大坂の陣という、戦国時代を実質的に終結させた最後の大会戦の直接的な引き金となった、日本史上極めて重要な事件である。本報告書で詳述した通り、この事件は単に徳川家康の老獪な謀略としてのみ語られるべきではない 19 。それは、豊臣家が自らの内包する構造的欠陥、すなわち、時代の変化を読めない現実認識の欠如、譜代家臣団の不在に起因する権力構造の未熟さ、そして淀殿を中心とした感情的な意思決定プロセスによって、自滅に至る過程を克明に示した事例でもある 37

家康の周到な策略が、この悲劇の「引き金」であったことは疑いようがない。二条城会見で秀頼の器量に脅威を感じた家康は、豊臣家との共存は不可能と判断し、その排除を決意した。方広寺再建の勧奨は、豊臣家の財力を削ぐと同時に、介入の口実を作るための巧妙な罠であった。そして、鐘銘文に刻まれた「国家安康」の句を、当時の文化的タブーであった「避諱」の問題と絡めて「呪詛」にまで増幅させ、豊臣方を追い詰めた手腕は、まさに老獪の極みと言える。

しかし、豊臣方の対応が、その引き金を引くことを「許容」し、さらに破局を「加速」させたこともまた、紛れもない事実である。徳川方との唯一の交渉パイプであり、家中随一の現実主義者であった片桐且元を、内部の権力闘争と不信感から自ら追放してしまったことは、致命的な判断ミスであった。これにより、豊臣家は外交的解決の道を完全に閉ざし、家康の描いた筋書き通りに、戦争へと突き進むしかなくなったのである。

最終的に、大坂の陣による豊臣家の滅亡は、応仁の乱以来150年近く続いた戦乱の時代に完全な終止符を打ち、徳川幕府による二百六十余年の泰平の世を現出させるための、最後の総仕上げとなった 18 。その意味において、方広寺鐘銘事件は、徳川による盤石な中央集権体制を確立する上で不可欠な画期であったと結論づけられる。それは、一つの鐘に刻まれた文言が、時代の巨大な転換点を告げる鐘の音そのものとなった、歴史的瞬間であった。

引用文献

  1. 方広寺鐘銘事件 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B9%E5%BA%83%E5%AF%BA%E9%90%98%E9%8A%98%E4%BA%8B%E4%BB%B6
  2. 「豊臣秀頼」家康が恐れた秀吉の血、桁外れの人気 謎に包まれたまま育ち母と自害した豊臣の後継者 - 東洋経済オンライン https://toyokeizai.net/articles/-/716869
  3. 「大坂の陣」で徳川家康が攻めた理由に迫る!豊臣秀吉の大いなる誤算とは - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/91766/
  4. 関ヶ原合戦の敗者・豊臣秀頼はどれだけ損をし、勝者・徳川家康はどれだけ得をしたのか・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2008)】 https://enokidoblog.net/talk/2020/10/44478
  5. 「豊臣秀頼」家康が恐れた秀吉の血、桁外れの人気 謎に包まれたまま ... https://toyokeizai.net/articles/-/716869?page=4
  6. 方広寺鐘銘事件「国家安康」なにが問題?わかりやすくしたまとめ - 戦国武将のハナシ https://busho.fun/column/hoko-ji-jiken
  7. 徳川家康が豊臣秀頼と会った「二条城会見」の全貌!190㎝のガタイ ... https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/104008/
  8. 家康激怒「豊臣ゆかりの寺」に刻まれた侮辱の言葉 梵鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」が騒動に https://toyokeizai.net/articles/-/718346?display=b
  9. 片桐且元 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%87%E6%A1%90%E4%B8%94%E5%85%83
  10. 家康に大坂城「総攻撃」を進言していた秀忠 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/33450/2
  11. 方広寺鐘銘事件 - BIGLOBE https://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/key/houkouji~syoumei.html
  12. 豊臣と徳川の狭間で苦悩した「片桐且元」 方広寺鐘銘問題とその後 ... https://sengoku-his.com/333
  13. 京都:方広寺の梵鐘~徳川家康が疑義を唱えた銘鐘事件~ - 中世歴史めぐり https://www.yoritomo-japan.com/nara-kyoto/hokoji/hokoji-kane.html
  14. 豊臣秀頼が「徳川家康に臣従しなかった」裏事情 二条城会見での家康の行動から謎を解き明かす https://toyokeizai.net/articles/-/716659
  15. 城ぶら「二条城」!家康と秀頼の対面がついに実現!歴史を動かす"二条城会見" https://favoriteslibrary-castletour.com/kyoto-nijojo-kaiken/
  16. 二条城会見|徳川家康ー将軍家蔵書からみるその生涯ー - 国立公文書館 https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/ieyasu/contents5_02/
  17. 二条城会見 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E5%9F%8E%E4%BC%9A%E8%A6%8B
  18. なぜ徳川家康は、関ヶ原合戦後の11年後に豊臣家を滅ぼすことを決めたのか?徳川幕府が長期間権力を維持できた理由 歴史から考える「権力が倒れる時」(3) | JBpress (ジェイビープレス) https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/82045
  19. 大坂の陣、「真田幸村の奮戦」でも敗れたワケ 豊臣秀頼が「あの選択」さえしなければ https://toyokeizai.net/articles/-/148761
  20. 大坂冬の陣・夏の陣古戦場:大阪府/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/osakajo/
  21. 大林組プロジェクトチー - 方広寺大仏殿の復元 https://www.obayashi.co.jp/kikan_obayashi/upload/img/057_IDEA.pdf
  22. 方広寺跡 - 京都国立博物館構内遺跡発掘調査 現地説明会資料 2 https://www.kyoto-arc.or.jp/news/gensetsu/97kyouhaku2.pdf
  23. 方広寺大仏殿跡 - 公益財団法人京都市埋蔵文化財研究所 https://www.kyoto-arc.or.jp/news/gensetsu/108houkouji.pdf
  24. 方広寺 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B9%E5%BA%83%E5%AF%BA
  25. 京都方広寺の鐘銘事件 | 株式会社カルチャー・プロ https://www.culture-pro.co.jp/2022/06/17/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E6%96%B9%E5%BA%83%E5%AF%BA%E3%81%AE%E9%90%98%E9%8A%98%E4%BA%8B%E4%BB%B6/
  26. 方広寺鐘銘事件/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/97921/
  27. 方広寺鐘銘事件|国史大辞典 - ジャパンナレッジ https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=805
  28. 方広寺鐘名事件 徳川VS豊臣 大坂の陣 腹黒い家康の策略 豊臣の重臣・片桐且元の悲劇 豊臣滅亡の分岐点「早わかり歴史授業80 徳川家康シリーズ48」日本史 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=xrmNQmbUmWE
  29. 「大坂冬の陣・夏の陣」とは?|秀頼や茶々を自害に追い込み、豊臣家を滅亡させた - サライ.jp https://serai.jp/hobby/1164184
  30. 方広寺鐘銘事件|徳川家康ー将軍家蔵書からみるその生涯ー - 国立公文書館 https://www.archives.go.jp/exhibition/digital/ieyasu/contents5_03/
  31. 林羅山 どうする家康/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/111614/
  32. 方広寺鐘楼(京都東山)|徳川家康公を呪う「国家安康・君臣豊楽」の梵鐘 https://www.ieyasu.blog/archives/3140
  33. 儒学者で多彩な博識の持ち主「林羅山」とは? 徳川家康の学者ブレーン - 歴史人 https://www.rekishijin.com/28655
  34. 大坂の陣の引き金「方広寺鐘銘事件」!鐘に刻まれた"国家安康""君臣豊楽"をめぐり緊張走る https://favoriteslibrary-castletour.com/kyoto-houkouji/
  35. 大坂冬の陣のきっかけとなった「方広寺鐘銘事件」とは?|豊臣と徳川の決裂を決定づけた出来事【日本史事件録】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト - Part 2 https://serai.jp/hobby/1162823/2
  36. 方広寺鐘銘事件は、まったくの「言いがかり」とも言い切れない? - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/5027
  37. 大坂の陣のきっかけ・方広寺鐘銘事件は家康の言いがかりだったのか - note https://note.com/toubunren/n/n2cb11cc94483
  38. 日本史上屈指の悪女、淀殿の真実。壮絶な悲劇の人生にも関わらず、なぜ貶められたのか? https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/121868/
  39. 片桐且元は何をした人?「家康の罠で裏切り者に仕立てられ豊臣家 ... https://busho.fun/person/katsumoto-katagiri
  40. どうする家康46話 徳川家康と大坂冬の陣/ホームメイト https://www.touken-world.jp/tips/113670/
  41. 【大河ドラマ連動企画 第46話】どうする且元(片桐且元) - note https://note.com/satius1073/n/nf1c64d512eb7
  42. さらば大坂城 - 橋場の日次記(ひなみき) - ココログ http://akira848.cocolog-nifty.com/nikki/2010/11/post-d35b.html
  43. 片桐且元 どうする家康/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/111605/
  44. 豊臣秀吉の家臣団/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/91114/
  45. ねね(高台院) /ホームメイト - 戦国時代の姫・女武将たち - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/46527/
  46. 関ヶ原の戦い後の領地分配と浪人問題 大坂の陣の火種とは 豊臣秀頼と徳川家康の対立「早わかり ... - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=-GYWv8j-B18
  47. 大野治長の生涯 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=Cm-uQupV_54
  48. 徳川家康 豊臣氏滅亡への家康の戦略とは - 歴史うぉ~く https://rekisi-walk.com/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B7%E3%80%80%E8%B1%8A%E8%87%A3%E6%B0%8F%E6%BB%85%E4%BA%A1%E3%81%B8%E3%81%AE%E5%AE%B6%E5%BA%B7%E3%81%AE%E6%88%A6%E7%95%A5%E3%81%A8%E3%81%AF/
  49. 大野治長は何をした人?「大坂の陣で馬印を持ったまま後退し味方の敗走を招いた」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/harunaga-ono
  50. 徳川家康の合戦年表 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/78008/