日坂宿整備(1601)
慶長六年、徳川家康は東海道の難所・小夜の中山の麓に日坂宿を整備。これは街道の安全確保と支配体制強化が目的だった。既存の集落を活用し、住民に伝馬役を課した。
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慶長六年の動乱と静謐:徳川新体制の礎石、日坂宿整備の時系列的深層分析
序章:関ヶ原の残響と新たな秩序の胎動
慶長5年(1600年)秋、美濃国関ヶ原における一天地六の合戦は、徳川家康に事実上の天下人としての地位をもたらした。しかし、その勝利の砲声が未だ日本各地に響き渡る中、家康の権力基盤は決して盤石なものではなかった。西国には豊臣恩顧の大名が多数存在し、大坂城には幼い豊臣秀頼が天下人の遺児として君臨していた 1 。この時点での家康の支配は、圧倒的な軍事力によって辛うじて維持される、いわば「戦国時代という乱世の延長線上」にある脆弱なものであった。
この危うい均衡状態を打破し、恒久的な支配体制を築くため、家康は武力による制圧から、制度による統治へと大きく舵を切ることを決意する。彼の構想の核心にあったのは、日本全土を覆う新たな国家システムの構築であった 2 。その根幹をなすのが、人、物資、そして情報を迅速かつ確実に江戸へと集約させ、また江戸からの指令を全国の隅々にまで伝達するための、高度な交通インフラ、すなわち「街道」の整備であった 1 。これは、戦国時代における城郭を中心とした「点」の支配から、江戸時代における街道という「線」と幕藩体制という「面」による、より高度で包括的な支配への質的転換を意味していた。
この壮大な国家再編プロジェクトにおいて、慶長6年(1601年)に下された東海道の整備令は、その第一歩を印すものであった。そして、その巨大な計画の一環として行われた遠江国「日坂宿」の整備は、単なる一宿場の建設に留まらない、徳川による新秩序構築の象徴的な事業だったのである。
この街道整備計画は、平時における経済振興や民生安定といった「戦後処理」の側面を内包しつつも、その本質はより切迫した戦略的意図に基づいていた。依然として大坂城に一大勢力を保持する豊臣家との最終決戦は不可避であると家康は読んでいた 1 。したがって、東海道の整備は、将来起こりうる対豊臣戦、すなわち後の大坂の陣を見据えた、極めて戦略的な軍事インフラへの先行投資であったと解釈できる 3 。西国へ迅速に大軍を展開するための兵站線を確保することは、家康にとって最優先の課題であり、日坂宿の整備もまた、この巨大な軍事ロジスティクス網を構成する重要な結節点として位置づけられていたのである。
さらに、家康の脳裏には、先達である豊臣秀吉の政策があった。秀吉もまた、政務の中心地である大坂城と、自身の隠居城である伏見城とを結ぶ京街道を整備し、畿内における二元統治の基盤を固めた実績を持つ 1 。家康は、この秀吉の成功事例を深く研究し、それを江戸と京都・大坂という、より広大で国家的なスケールで再現し、凌駕しようと試みた。これは単なる模倣ではない。秀吉が築き上げた中央集権の仕組みを、徳川の新たなシステムとして完全に「上書き」し、名実ともに関東の江戸が日本の新たな中心であることを天下に示す、強い政治的意志の現れであった。日坂宿のような個々の宿場の整備は、この壮大な国家の「上書き」作業を、具体的に地上に刻み込む行為そのものであったと言えよう。
第一章:天下布武から天下普請へ ― 街道整備という名の国家戦略
関ヶ原の戦塵が収まり、徳川家康が新たな時代の設計図を描き始めたとき、その中心に据えられたのが五街道の整備であり、中でも東海道は他の追随を許さない最重要路線として位置づけられた 3 。東海道が持つ戦略的価値は、多岐にわたっていた。第一に、幕府の新たな拠点である江戸と、天皇の座す古都・京都、そして日本経済の中枢である大坂とを結ぶこの道は、文字通り「天下の背骨」であった 9 。徳川幕府がその統治の正当性を確保するためには、朝廷からの権威付けが不可欠であり、江戸と京都を迅速に往来できる交通路の確保は、政治的生命線とも言えるものであった 9 。第二に、西国に割拠する外様大名を監視し、有事の際には迅速に軍を派遣するための軍事路としての機能 5 。そして第三に、全国の富が江戸に集まる経済の大動脈としての役割である 1 。
この「天下の背骨」に確固たる機能を与えるため、家康は慶長6年(1601年)正月、東海道筋の宿場に対して「伝馬朱印状(でんましゅいんじょう)」と「御伝馬之定(ごでんまのさだめ)」を交付し、ここに「宿駅伝馬制度」が公式に発足した 1 。これは、街道沿いに約二里から三里ごとに宿場(宿駅)を設置し、各宿場に幕府公用の人馬を常備させ、公用の使者や物資を次の宿場までリレー方式で輸送させる画期的なシステムであった 7 。この制度により、江戸幕府は情報を迅速に伝達し、全国を統制するための、いわば国家の神経網を手に入れたのである。
街道整備は、単に宿場を法的に定めただけではなかった。家康から将軍職を継いだ二代・秀忠の時代には、より具体的な物理的整備が進められた。道幅は約五間(約9メートル)を標準とし、山間部などの難所でも二間から四間(約4~7メートル)を確保することが目指された 11 。また、旅行者の便宜を図り、距離の目安とするために一里(約4キロメートル)ごとに一里塚が築かれ、夏の日差しを和らげ、冬の風雪を防ぐために街道の両脇には松や杉の並木が植えられた 11 。慶長17年(1612年)には、幕府から道路整備に関する具体的な命令が出され、水たまりの補修や排水路の確保、橋の修繕などが代官の責任において行われるよう定められた 11 。こうした地道なインフラ整備の積み重ねが、後の参勤交代の円滑な実施や、庶民による伊勢参りなどの長距離旅行の隆盛を支える基盤となったのである 8 。
この宿駅伝馬制度の確立は、単なる交通政策に留まらない、より深い社会変革の意図を内包していた。伝馬役、すなわち公用のために人馬を提供する義務は、宿場に指定された村々にとって、幕府から公認されたという名誉であると同時に、極めて重い経済的・人的負担を強いるものであった 12 。幕府は、この「公役」を課すことを通じて、それまで戦国大名の支配下で比較的自律的な共同体であった村々を、幕府の命令一下で動員される国家システムの末端組織へと強制的に再編したのである。遠江国の片田舎にあった日坂のような小さな村が、この国家的な交通網の一翼を担う宿場に指定されたという事実は 13 、徳川の権力がもはや特定の地域を支配する地方権力ではなく、日本の隅々にまで浸透し始めた中央権力であることを明確に象徴する出来事であった。
さらに、街道整備は、人々の心の中にあった日本の地理的・文化的な中心軸を書き換える、壮大な文化装置としての側面も持っていた。それまでの日本の道は、歴史的・文化的に見て、天皇の住まう京都(都)へ向かうことが主目的であり、人々の意識もまた京都を中心として構築されていた 4 。しかし、家康は江戸の日本橋を五街道の起点と定めた 8 。これにより、物理的な人や物の流れが江戸へと向かうだけでなく、旅人や沿道の住民の意識の上でも、徐々に「江戸」こそが日本の政治・経済の中心であるという新しい観念が植え付けられていった。慶長6年の日坂宿の整備は、この新たな国家の地理的、そして心理的な中心軸を構築していく上で、欠かすことのできない一つの結節点としての役割を担ったのである。
第二章:西遠江の隘路 ― 小夜の中山、その歴史と脅威
慶長6年(1601年)、徳川幕府によって東海道二十五番目の宿場として正式に定められた日坂宿。その立地は、極めて戦略的な意味合いを持つと同時に、古くからの困難を内包する場所であった。日坂宿が位置するのは、箱根峠、鈴鹿峠と並び称される東海道三大難所の一つ、「小夜の中山(さよのなかやま)」の西麓にあたる 14 。金谷宿から日坂宿までの距離は約6.5キロメートルと比較的短いが、その道程は急峻な坂が連続し、昼なお暗い鬱蒼とした森に覆われた、旅人泣かせの難関であった 17 。
とりわけ、応仁の乱以降、1世紀以上にわたって続いた戦国時代の混乱は、街道の治安を著しく悪化させた。全国的な権威が失墜し、各地で武力抗争が頻発する中、公的な道の維持管理は滞り、無法地帯と化す場所も少なくなかった。小夜の中山のような険しい山道は、山賊や追剥が身を潜め、旅人を襲うには格好の舞台となり、屈強な大の男であっても単独での峠越えは命がけの行為であったと伝えられている 17 。
この地に古くから伝わる「夜泣き石」の伝説は、当時の峠道が旅人にとってどれほど恐ろしい場所であったかを雄弁に物語っている。その昔、安産祈願を終えた妊婦がこの峠を越える途中、無慈悲な山賊に襲われ、命を落とした。しかし、母の強い念が傍らの石に乗り移り、夜ごと泣き声を上げたことで、腹から生まれた赤子は通りかかった僧侶に救われ、後に母の仇を討ったという物語である 17 。この伝説は、単なる奇談や怪談ではない。それは、この峠道で実際に繰り返されたであろう悲劇と、そこを通らざるを得なかった人々の恐怖や不安が、地域住民の集合的な記憶として結晶化した、歴史の証言なのである。徳川の新しい治世がもたらす「安全の確保」とは、こうした具体的で生々しい恐怖からの解放を意味していた。
もちろん、日坂宿は慶長6年に全く何もない場所に突然生まれたわけではない。その起源はさらに古く、鎌倉時代の文献にもその名を見ることができる 20 。当時から、小夜の中山を越える旅人のための休憩地として、小規模な集落が自然発生的に形成されていた。その地は、峠の西側の坂であることから「西坂(にしさか)」と呼ばれ、時代や文献によっては「入坂」や「新坂」とも記されていた 16 。しかし、それはあくまで非公式な旅人のための村落であり、幕府の公的な命令によって人馬の継ぎ立てを行う「宿駅」としての機能と責任を負うものではなかった。
ここに、徳川家康による日坂宿整備の巧みさと、その深い意図が見て取れる。第一に、この事業は単なる物理的な道の整備であると同時に、人々の心象風景を書き換えるという、きわめて象徴的な意味を持っていた。「夜泣き石」伝説が示すように、小夜の中山は「危険」「恐怖」「悲劇」といった負のイメージと強く結びついていた。幕府がこの難所の麓に公的な宿場を設置し、街道の安全を公儀の力で保障することは、この土地にまとわりついていた暗いイメージを、「公儀によって守られた安全な場所」へと劇的に転換させる効果があった。これは、徳川の治世がもたらす「泰平」を、日々この道を利用する旅人や地域住民に実感させるための、強力な視覚的・体験的なプロパガンダでもあったのだ。
第二に、その手法の巧みさである。幕府は、全くの更地に新たな町を建設するという強硬な手段を採るのではなく、既に交通の結節点としてある程度の機能を有していた既存集落「西坂」を、幕府公認の宿場として「追認」し、「格上げ」する形をとった 16 。これは、古くから続く地域社会の構造や人々の生活動線を最大限に尊重しつつ、それに幕府の公印を押すことで、効率的に支配を浸透させるという、極めて現実的で巧妙な統治術であった。地域住民からの反発を最小限に抑えながら、既存の社会インフラを巧みに自らの支配システムへと組み込んでいく。そこには、戦国の世を生き抜き、天下を手にした家康ならではの、老練なリアリズムが色濃く反映されていたのである。
第三章:慶長六年、日坂宿誕生のリアルタイム・ドキュメント
慶長6年(1601年)、徳川家康による東海道整備令は、遠江国の一集落であった「西坂」を、国家的な交通網の拠点「日坂宿」へと変貌させた。この一年間に、この地で起こったであろう出来事を、中央の政策決定、現地の行政執行、そしてそこに暮らす住民の生活という三つの視点から、時系列に沿って再構築する。
【発令】慶長6年(1601年)正月~早春
- 中央(家康)の動き: 関ヶ原の勝利からわずか数ヶ月後、家康は江戸城あるいは隠居城である駿府城において、天下統一事業の次なる一手として東海道宿駅伝馬制度の確立を正式に命令した 1 。この決定に基づき、伊奈忠次、大久保長安、彦坂元正といった家康子飼いの奉行衆が連署した掟書(おきてがき)が作成され、東海道筋の各宿場に公用伝馬の常備を命じる「伝馬朱印状」が与えられることとなった 1 。これは、徳川の意志が、武力から法と制度へと移行したことを示す象徴的な出来事であった。
- 現地(遠江)の動き: この年、遠江国の天領を管轄するため、新たに中泉(現・磐田市)に代官所が設置され、岡田郷右衛門が初代代官として着任した 24 。彼の元に、幕府からの公式な指令が早馬によって届けられる。指令の内容は、管轄地域内における東海道の宿場を定め、伝馬制度を滞りなく執行させることであった。岡田郷右衛門は、この国家的な大事業における、現地の最高執行責任者となったのである。
- 住民の状況: まだ関ヶ原の戦の興奮も冷めやらぬ中、隣接する掛川城下などから、「お上(かみ)が街道に新しいお役目を課されるらしい」「江戸と京を結ぶための、大きな仕組みが始まるそうだ」といった噂が、小夜の中山麓の「西坂」村にも徐々に伝わり始める。長年の戦乱に慣れた住民たちにとって、新たな支配者の命令は、生活がどう変わるのかという期待と、新たな負担が課されるのではないかという不安が入り混じった、複雑な感情をもって受け止められたであろう。
【計画】春~夏
- 中央の動き: 奉行衆は、東海道筋に配置された各代官からの報告を元に、街道全体の整備計画の進捗状況を一元的に管理する。各宿場の規模や地理的条件を考慮し、配置する人馬の数など、細かな調整が行われたと考えられる。
- 現地の動き: 岡田郷右衛門の指揮の下、配下の手代や小役人たちが「西坂」村へ実地検分に派遣される。彼らは村の庄屋や有力者と接触し、幕府の計画を伝達するとともに、宿場としての具体的な町割り(都市計画)の策定に着手した。既存の道筋や家並みを基礎としながらも、公用交通の中枢となる問屋場(といやば)、大名や公家が宿泊する本陣・脇本陣、そして幕府の法令を掲示する高札場(こうさつば)といった公的施設を、どこに、どのくらいの規模で設置するかが決定されていく 12 。この過程で、施設の建設用地を確保するための土地の収用や、場合によっては家屋の移転なども行われた可能性が高い。
- 住民の状況: 村には、これまで見慣れなかった役人たちの往来が頻繁になる。彼らは竿や縄を用いて土地の測量を行い、家々の間口や奥行きを記録していく。計画の全貌が徐々に明らかになるにつれ、村内の空気は緊張感を増していく。「誰の家が名誉ある本陣に指定されるのか」「問屋場はどこに建つのか」「自分たちの田畑や家屋はどうなるのか」「そして、我々には一体どのような役目が課されるのか」。住民たちは、自らの運命を左右するその動向を、固唾をのんで見守っていた。
【賦役】夏~秋
- 中央の動き: 幕府は、宿場の規模に応じた伝馬役の標準的な負担を通達する。後の記録によれば、日坂宿には常備人馬として100人・100疋が定められており、この基準が慶長6年当初から示されたと考えられる 25 。
- 現地の動き: 代官所は、「西坂」村に対して、宿場として果たすべき公的な義務を正式に通達する。村内の家々の中から、伝馬役を直接担う家(伝馬屋敷)が指定された。当初、その数は36軒であったと記録されている 25 。この数は後に寛永年間に増員されていることから、初期の36軒がいかに重い負担を強いられていたかが窺える 25 。また、宿場単独の力だけでは公用の人馬を賄いきれない場合に備え、周辺の村々が「助郷(すけごう)」に指定され、宿場への協力が法的に義務付けられた 27 。
- 住民の状況: 伝馬役に指定された家の主は、幕府の公役を担うという誇りを感じる一方で、高価な馬を常に養い、屈強な人足を確保し続けなければならないという、深刻な経済的負担に直面することになる 28 。助郷に指定された近隣の村々からは、農繁期にも関わらず、宿場からの要請で人馬を差し出さねばならないことへの不満や抵抗の声も上がったであろう。宿場に指定されることで、旅人相手の商売が繁盛する者と、新たな公役という重荷を背負わされる者とで、村内や周辺地域にも新たな利害の対立や軋轢が生まれた可能性は否定できない。
【稼働】秋~年末
- 中央の動き: 東海道の主要な宿場が次々とその機能を開始し、江戸と上方とを結ぶ、徳川幕府直轄の公的交通網が、ついにその形を成し始める。情報伝達の速度は飛躍的に向上し、家康の意志はこれまでとは比較にならない速さで全国に伝播するようになった。
- 現地の動き: 日坂では、問屋場をはじめとする主要施設が完成する。初代の問屋役や、それを補佐する年寄といった宿役人が、村の有力者から任命される 25 。宿場の西端、古宮橋のたもとには高札場が設けられ、そこには親子兄弟の道を説く道徳的な高札と共に、キリシタンの禁令や徒党の禁止といった、徳川の支配体制の根幹に関わる法度が墨痕鮮やかに掲げられた 20 。これにより、旧来の「西坂」村は、公式に東海道二十五番目の宿場「日坂宿」として、人馬の継立業務を開始したのである 14 。
- 住民の状況: 宿場となった日坂に、最初の公用飛脚が土煙を上げて駆け込み、問屋場の前で息せき切った馬を乗り換えて西へと走り去っていく。幕府の役人や、江戸へ向かう西国大名の家臣団が、宿の旅籠に宿を求めるようになる。宿場は、これまでに経験したことのない活気と喧騒に包まれ始める。旅籠屋や茶屋は、急増した旅人を相手に商機に沸き、この地の名物であったわらび餅や、特産品である葛布(くずふ)などが、旅人の間で評判を呼び始めた 13 。住民たちは、日々の暮らしの中に流れ込んできた新しい人、物、情報を通じて、戦国の世が終わり、新しい時代の秩序が始まったことを、肌で感じていったに違いない。
表1:慶長6年(1601年)における日坂宿整備の時系列工程表
時期 |
中央(幕府)の動向 |
現地(遠江国・日坂)の動向 |
想定される住民の心境と生活の変化 |
正月~早春 |
徳川家康、東海道宿駅伝馬制度を発令。伝馬朱印状を交付。 |
遠江代官・岡田郷右衛門が指令を受領。整備計画に着手。 |
新しい制度への期待と、未知の負担に対する不安が交錯。 |
春~夏 |
各代官からの進捗報告を管理。 |
代官所役人が現地調査。既存集落「西坂」を元に町割りを策定。問屋場等の設置場所を決定。 |
役人の往来が活発化。土地の測量や立ち退き交渉などで、生活が具体的に変化し始める。 |
夏~秋 |
伝馬役の標準負担を通達。 |
伝馬役を担う家(36軒)や助郷村を指定。公的な義務を正式に賦課。 |
伝馬役に指定された家の経済的・精神的負担が増大。助郷村との間に緊張が生じる可能性。 |
秋~年末 |
東海道の公的交通網が稼働開始。 |
問屋場等の施設が完成し、宿役人が任命される。「日坂宿」として公式に業務開始。高札場を設置。 |
旅人の往来が急増し、宿場が活性化。商売が繁盛する一方、公役の重圧が日常化する。 |
第四章:新しき宿場の息吹 ― 住民の暮らしと課せられた宿命
慶長6年(1601年)の整備を経て、日坂宿は徳川幕府の国家構想を体現する公的な空間として新たな歴史を歩み始めた。その姿は、小規模ながらも宿場町としての機能を凝縮した、緻密な設計に基づいていた。
宿場の町並みは、東の金谷宿側から西の掛川宿側へ向かって、本町(ほんまち)、下町(しもまち)、古宮町(ふるみやちょう)と、緩やかなカーブを描きながら東西約六町半(約700メートル)にわたって続いていた 12 。宿場の中枢機能は、東側の本町に集中配置されていた。大名や公家、幕府の高級役人が宿泊・休憩するための本陣は「扇屋」の屋号を掲げる片岡家が代々世襲し、本陣を補佐する脇本陣は「黒田屋」が務めた 12 。そして、人馬の継ぎ立て業務を司る問屋場も、これら本陣・脇本陣と並んで本町の通り北側に設けられていた 12 。宿場の西端には逆川(さかがわ)が流れており、大規模な宿場に設けられるような厳重な木戸(きど)の代わりに、この川が有事の際の防御線として機能したと考えられている 20 。このように、日坂宿は東海道の宿場町としては由比、坂下に次いで三番目に小さい規模であったが 14 、難所・小夜の中山を控える要衝として、その機能は十分に計算されたものであった。
宿場町の誕生は、地域経済に新たな光をもたらした。絶え間なく往来する旅人たちの需要に応えるため、様々な商業活動が活発化した。天保14年(1843年)の記録によれば、宿内には33軒もの旅籠屋が軒を連ねていた 12 。その中には、上段の間を備え、身分の高い武士が宿泊した脇本陣格の格式高い大旅籠「川坂屋」のような宿もあれば 20 、一般の庶民が手軽に利用したであろう「萬屋」のような中規模の宿もあった 20 。また、日坂は古くから葛(くず)の産地であり、その蔓から作られる葛布(くずふ)は、地元の掛川藩が参勤交代の際に将軍家への贈答品として用いるほどの名産品であった 31 。旅人たちは、この地の特産品である葛布や、峠越えで疲れた足に効くという薬、そして名物のわらび餅などを買い求め、宿場の経済を潤したのである 13 。
しかし、宿場住民の生活は、こうした経済的な恩恵という光の側面だけではなかった。彼らの肩には、宿場であるがゆえの宿命ともいえる、重い影がのしかかっていた。その最大のものが、宿駅伝馬制度の根幹をなす「伝馬役」の負担であった 12 。幕府の朱印状や老中の証文を持つ公用の旅行者や物資の輸送は、原則として無賃(むちん)であり、そのために必要な人足や馬を提供することは、宿場に課せられた絶対的な義務であった 29 。特に、東海道屈指の難所である小夜の中山越えは、人馬にとって極めて過酷な労働であり、その消耗は激しかった 33 。この負担は、各家の経済力を示す屋敷の間口や所領の石高に応じて割り振られ、住民の家計に重くのしかかった 28 。幕府も宿場が疲弊せぬよう、地租の一部を免除するなどの保護政策を講じたが、それでも公役の負担に耐えきれず、経営難に陥る宿場も少なくなかったと伝えられている 34 。
この事実は、徳川の支配がもたらした「泰平」の二面性を浮き彫りにする。日坂の住民は、幕府という強大な権力によって、小夜の中山に跋扈していた山賊の脅威、すなわち予測不可能な暴力からは解放された 17 。しかし、その「安全の提供」という恩恵の見返りとして、彼らは伝馬役という、予測可能ではあるが決して逃れることのできない、恒常的な制度的負担を背負わされたのである 12 。日坂宿の住民にとって、新しい時代の到来とは、無秩序な恐怖が、秩序だった重税(現物奉仕)へと置き換わった状態であったと言えるかもしれない。
このように、宿場町は、徳川の権力と庶民の生活が日常的に、そして直接的に触れ合う「インターフェース」として機能していた。高札場に掲げられた幕府の法度は国家の権威を、問屋場で行われる継立業務は国家への奉仕義務を、そして旅籠での旅人との交流は全国から集まる多様な文化を、それぞれ象徴していた。日坂宿というわずか700メートルほどの小さな空間は、徳川幕府という巨大な国家システムが、個々の住民の日常生活にまで深く浸透し、そのあり方を規定していく最前線であった。住民たちは、このインターフェースを通じて、好むと好まざるとにかかわらず、新しい時代の秩序に適応していくことを求められたのである。
終章:一つの宿場から見る日本の再編
慶長6年(1601年)に行われた日坂宿の整備は、単なる遠江国の一地方における土木事業や行政区画の変更に留まるものではない。それは、関ヶ原の戦いという軍事的な勝利を、260年以上にわたる恒久的な政治支配体制へと転化させようとした徳川家康の、壮大な国家構想そのものを映し出す縮図であった。
この事業が象徴するのは、日本の支配構造における根本的な転換である。戦国大名の支配が、その居城を中心とした「点」の支配であり、その影響力は点の連なりや面にまで及びつつも、その間隙には権力の及ばない領域が広がっていたのに対し、徳川幕府は街道という強靭な「線」によって日本全土を緊密に結びつけ、その支配を確立した。日坂宿は、江戸と京・大坂という二大中心地を結ぶ大動脈を機能させるための、不可欠な結節点であり、徳川による泰平の世を支える無数の礎石の一つとして、歴史にその名を刻んだのである。
日坂宿の整備は、地域社会に近世的な「公(おおやけ)」の概念を確立するプロセスでもあった。戦国時代までの村落は、地元の領主や寺社といった、より身近で具体的な権威によってその秩序が保たれていた。しかし、日坂宿の整備とそれに伴う伝馬役の賦課は、「幕府」という、より超越的で全国的な「公」のために奉仕するという、全く新しい価値観を住民に強いるものであった。これは、私的な生活領域と、国家という公的な領域の分離を促し、後者への奉仕義務という観念を植え付けるものであり、近世的な国民意識の萌芽であったと捉えることができる。
この権力構造の変化は、日坂宿と、その西に位置する掛川城との関係性にも見て取れる。日坂宿の整備に先立つ天正18年(1590年)から慶長5年(1600年)にかけて、掛川城主であった山内一豊は、城郭の大規模な改修と共に城下町の整備を進めていた 35 。しかし、一豊の事業は、あくまで掛川藩五万石という「領国経営」の文脈の中で行われたものである。それに対し、家康による日坂宿の整備は、藩という単位を超えた「国家的交通網」の一部として、幕府の直接的な意志によって行われた。掛川城という旧来の「点の支配」の象徴のすぐ隣に、東海道という新しい「線の支配」の拠点を打ち込む。この二つの整備事業の性格の対比は、権力の中心が個々の戦国大名から、日本全土を統べる徳川幕府へと完全に移行したことを、地理的にも象徴していた。
やがて明治の世となり、近代化の波が訪れると、鉄の道、すなわち東海道本線は、険しい小夜の中山を迂回するルートで建設された 18 。これにより、日坂宿は幹線交通路から外れ、宿場町としての歴史的な役割を静かに終え、衰退の道を歩むこととなる。しかし、奇しくもそのことが、江戸時代の町割りを色濃く残す今日の街並みを保全する結果に繋がった 14 。静かに佇むその街並みは、訪れる者に雄弁に語りかける。戦国の世が終わりを告げ、新たな秩序が日本全土を覆い尽くしていった、あの激動の時代の記憶を、そして国家の礎を築くために名もなき人々が背負った重荷と、そこに生まれた新たな暮らしの息吹を、今に伝えているのである。
引用文献
- #1 なぜ家康は東海道を整備したのか|不二考匠 - note https://note.com/takamasa_jindoh/n/nc89e576a7126
- 【街道の成立】 - ADEAC https://adeac.jp/nakatsugawa-city/text-list/d100040/ht012620
- 江戸幕府による東海道整備と9つの宿場町の重要度合い~神奈川県の歴史~ - まっぷるウェブ https://articles.mapple.net/bk/569/
- 江戸時代に整備された「五街道」に思いを馳せる - 関東通信工業株式会社 https://kantuko.com/ncolumns/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AB%E6%95%B4%E5%82%99%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%80%8C%E4%BA%94%E8%A1%97%E9%81%93%E3%80%8D%E3%81%AB%E6%80%9D%E3%81%84%E3%82%92%E9%A6%B3%E3%81%9B%E3%82%8B/
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